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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)] 兼 弱小医療法人理事。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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周回遅れの道州制議論
道州制という言葉がよく聞かれます。橋下大阪市長も自身のホームページの中で次のように述べ、道州制を目指すとしています。


・・中央省庁は東京にあり、各役所の役人が東京で生活をしている以上、彼らはどうしても東京からの視点でしかモノを考えられません。そしてそれが結果として、東京への一極集中を助長していることにつながっていると思われます。・・

これから大阪をはじめ、すべての地方は霞ヶ関から予算と権限を奪いに行くべきです。 そしてそのためにも、これまでの都道府県という小さな区分けを再構築し、より大きなカテゴリーとして「道州制」という枠組みを新たに形成し、みんなで一緒に国に対して税源移譲を迫り、本当の意味での地方分権を勝ち取るべきなのです。・・

これからこの大阪は、京都や兵庫など近隣の府県と手を携え、国や中央省庁と対等に話し合いが出来る「関西州」としてまとまり、国内だけではなく、国際的にもその立場をアピールし、広くアジアや世界に対しても交流を深めていく必要があると思います。 ・・



橋下氏は近畿地方を一つの「州」としようと考えているようですが、人によって違いはあるものの道州制は全国を概ね5-10くらいの単位に再編しようというものです。あえて「州」の前に「道」を置いたのは、現在北海道開発庁という中央の組織を持つ北海道は、道州制でもそのまま北海道になると想定されているからです。

確かに現在のように中央官庁が予算と権限の多くを握り、地行政の「箸の上げ下ろし」まで干渉するのは、効率的とは言えません。地方がより大きな自治権限を持つのは、それなりの利点があるでしょう。

とは言っても、道州制に疑問がないわけではありません。地方に今まで中央が持っていた権限をうまく活用できるかどうかということもあるでしょう。また、県という単位が消滅することで、県単位で行われた行政についてはむしろ地方分権が減ってしまうとことも考えられます。

しかし、私が一番懸念していることは、小選挙区制と同じに行政単位という制度を変更することであたかも、政治が大きな前進をするかのように喧伝されていることです。道州制になっても、中央と地方の持つ権限と予算は全体としては同じはずなので、本質的には道州制の導入は、ケーキを縦に切るか横に切るかの違いしかないように見えるからです。

一方、道州制導入が大きな負担を招くことだけは間違いありません。今までの県職員と国家公務員をどう配分し直すだけでも大変な作業でしょう。しかもこれは役人が役人になるだけでNTTの民営化のような効率性に対する意識を根本的に変えるものではありません。志はそれなりに立派でも、道州制の導入が混乱しかもたらさないことも十分に考えられるのです。

そもそも日本には1億3千万の人口があります。仮に8個程度に分割すると人口1千5百万以上、GDPは韓国に遜色ないような巨大な地域となります。このような巨大な単位が本当に現在の国と県の制度より柔軟に地方の実情に即した政策を展開できるかどうかは自明なことではありません。

地方の活性化や地域間の競争力を考えると、単位ととしては州のような大きな地域ではなく、むしろ小さな都市程度の地域を考えるべきでしょう。例えば、起業家の聖地のシリコンバレーは、ベンチャー企業を育てる、人材、資金、ノウハウといったインフラが備わっている、カリフォルニア州のサンノゼ市を中心にした地域です。

シリコンバレーが現在のような繁栄をみたのは、スタンフォード大学という知的集積地にフェアチャイルドという半導体製造のベンチャー企業が創設されたことに端を発しています。カリフォルニア州はイタリアほどの経済規模を持つ州ですが、シリコンバレーの形成に何か積極的な役割を果たしたわけではありません。

洋食器で有名な燕市は人口10万にも満たない中都市ですが、製品はグローバルに受け入れられています。燕市は江戸時代からキセルの管を作ったりして、金属加工の歴史と技術があり、多数の小さな町工場ありました。そして燕市の洋食器と海外の需要家と結びつけたものに隣接する三条市の長い商業町としての伝統がありました。(この部分は「また公共投資ですか」からの引用)

香港は世界でもっとも競争力のある「国家」ですが、これは香港が一都市だったため、中国が一国二制度の下で香港が広範囲の自由を与えられているからです。香港が北海道ほどの地域であれば、一国二制度は難しかったでしょう。

それでも香港は6百万人の人口があります。タックスヘイブン(租税回避地)として繁栄するケイマン諸島は、人口はわずか数万人しかいません。沖縄をタックスヘイブンにという興味深い提案がありますが、沖縄のような百万人以上の単位にタックスヘイブンのような自由を与えることは国際的にも大きな抵抗を招くでしょう(「沖縄をタックスヘイブンに」は奇策?それとも正論?を参照してください)。

現代の国際間競争は国同士ではなく、都市同士の競争です。海外の金融機関が人員を日本に置くかシンガポール置くかは、日本全体とシンガポールではなく、港区とシンガポールの競争と言っても良いほどです

今後日本が新興国に対して競争力を維持するためには、州のような中途半端な単位にこだわるのではなく、国単位でしかできないような大幅な税制の改革、製品規格、標準の統一と都市や小さな地域で産業が競争力を持てるようなインフラの集積をいかに進めるかを考えるべきでしょう。

道州制もそれなりに効果はあるかもしれません。しかし日本人が現在のような高い生活水準(20年前の6割くらいに落ちてしまった感じですが)を続けるためには、国しかできない規制緩和や法制度の簡素化、それと都市単位で考えるようなキメ細かい産業インフラの整備が必要です。

道州制は都市間競争に突入しているグローバル経済の中では周回遅れと発想としか言いようがありません。あるいはケーキをどう増やすかではなく、どう切るかを議論しているに過ぎません。道州制への移行は無駄な混乱と時間の空費を招くだけで大きな成果を上げられないでしょう。制度変更の目新に惑わされるのは小選挙区制で十分ではないでしょうか。

政治主導を実現するために
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政治主導という言葉がずいぶん前から使われています。政治主導の反対の言葉は官僚主導です。日本の政治は実際は官僚が支配していて、大臣や首相が変わっても関係なく官僚の思う通りに動かされていく。これでは本当に国民のための政治はできない。官僚による官僚のための政治から、国民から選ばれた政治家が国民のための政治に政治主導で変わらなければならない。これが政治主導が必要だとされる理由でしょう。

しかし、政治主導を政治家主導と置き換えてみると、それほど良いことばかりではいないと思えてきます。政治家が自分の利権のために公共事業を地元に誘導しようすることはよく知られています。また、交通違反の揉み消しや、認可保育園に入園しようとして政治家を頼みこむのはよく聞く話です。政治家が行政を自分の都合の良いように動かすのは、とても良い事ばかりではなさそうです。

元々日本の官僚システムは明治維新で政府の中心となった薩摩、長州などによる藩閥政治の弊害をなくそうとして生まれたものです。出身に関係なく優秀な人材を登用する。そのために官僚の選抜と訓練を行うために帝国大学を作る。官僚制度は藩閥政治の弊害を取り除くために作られました。

身分を保障された官僚は特定の勢力や政治家におもねることなく、国家のために政治を行う。藩閥政治という政治主導から、官僚主導による政治を行うことで、国民のためになる政治が行われるはずでした。確かに、それはかなり実現したと言うことができます。城山三郎が「官僚たちの夏」で描いた官僚は、まさにそのような存在でした。

しかし、どんな権力も腐敗します。官僚組織はいつの間にか役人の天下り先を増やすことが究極の目的になってしまいました。天下り先を増やすためには、官が民を支配することが必要です。過剰な規制、余分な組織、無駄な制度の多くは、天下りを増やしたい、そのための権力を維持したという官僚組織に組み込まれたDNAが作りだしてきました。

官僚支配の弊害はガラパゴスと言われる日本の独自規格に端的に表れています。日本には種々の国際規格とは違う独特の規制、規格が沢山あります。それらは国際標準に合わせて作られた海外の製品が日本に入り込むのを防ぐ役割を演じてきましたが、同時に日本の製品を世界に売り込む時の障害にもなりました。

国際標準と異なる規格で作られた製品は、絶海の孤島、ガラパゴスで独自の進化を遂げた生物と同じだということから、ガラパゴス製品と呼びます。携帯電話はその典型です。高度だが独特の規格に守られた市場は海外メーカーの参入を難しくすることで、多数の国内メーカーを生き残らせました。しかし、スマートフォンの登場で、その市場は一気に消滅の危機に立たされることになりました。天下りを増やそうとする。そのために産業保護を名目にした日本独自の標準を作る。そんな官僚主導は日本の産業を強くするより、かえって弱めてしまいました。

それでは政治主導は官僚主導の問題を解決できるのでしょうか。アメリカでは大統領つまり政権が交代すると官僚組織の大幅な入れ替えを行います。そのために政権交代のたびにポストを得ようとする「猟官運動」が大規模に行われます。実際多くのポストが政権発足への論功行賞として与えられます。

このようにして得られたポストの持ち主は、政治任用、ポリティカルアポインティ—と呼ばれます。政治任用制はアメリカでも無条件に受け入れられているわけではありません。むしろ、政権交代によって多くの実務経験の乏しい人間が官僚組織の中枢に座ることには疑問が出されています。

実際、アメリカでも軍には政治任用はありません。軍隊は専門知識が必要だから政治任用制になじまないなら、官僚組織は全て政治任用はなじまないのではないか。このような意見は少なくありません。まして、論功行賞のためにポストが分け与えられるのでは、能力のある人間は官僚組織を動かすことができなくなってしまうという不安が生じます。

それでもアメリカで政治任用制が可能なのは、官界、学界それとビジネス界が、分野ごとに専門家集団を作りだし、政権交代の時に大規模な人材の入れ替えを可能にする人材プールがあるからです。

日本ではどうでしょうか。日本で官僚の行っているような政策立案、それに基づく法案の作成、予算の獲得の経験を詰めるのは官僚組織そのものしかありません。その官僚組織は閉鎖的で学界、ビジネス界などとの交流は殆どありません。そしてこのような官僚の実務を経験しなければ政治家としても行政機構を思いのままに動かすことは困難です。

現在の日本で政治主導を無理矢理しようとするのは、企業を業界の内情を何も知らずに経営するようなものです。それでも企業では基本的なビジネススキルが通用する場合も多いのですが、法律策定や予算配分の論理は一般の企業経営とは全く違います。

この点について橋下大阪市長はツイッターで次のよう言っています。

「政策は実現してなんぼ。実現するプロセス・課題を知った上での提言でなければならない。政策を実現するプロセスを学べる学校が日本には聞いたことがない。だから識者は、役所に入って経験するべきなのである。」

橋下氏が指摘するプロセス、課題は漠然としたところもあるのですが、国政レベルで考れば法案を作る実務能力が先ず上げられます。そして法案を作る能力が重要だからこそ高級官僚は東京大学法学部出身が圧倒的に多数を占めてきたのです。

もちろん政治、行政を動かすのは法案作りだけではありません。日々の官僚機構の仕事には税関で品物の検査をしたり、教科書検定の中身を作ったり多種多様です。しかし政治と官僚組織の最大の接点は法律と予算です。この二つを現実の世界と渡りをつけながら形にしていくことが政治家の仕事です。そして官僚主導の日本ではこの部分を実質で仕切っていたのは政治家でなく官僚組織だったのです。

規制だらけでガラパゴス化する産業。天下りと予算消化のために狭い国土に作られた百あまりの空港。このようなものを見れば官僚主導の政治を変革しなければいけないと考えるのは正しいことです。しかし、政治を動かす知識と経験を持たない政治家たちに政治主導を委ねることに危険が多いことは認識しなければいけません。まして「政治」主導ではなく「政治家」主導で行政が動かされれば、国のために良いことはありません。

行政組織は巨大で危険な猛獣です。その怪物を鞭一つで自由に操るのは十分に訓練を受けた猛獣使いにしかできません。その条件がないまま安易に政治主導を目指せば、猛獣を操るどころか、猛獣の餌食になるしかないでしょう。

参考:
天下りを考える
天下りを考える: もう一言
仮想座談会-世襲議員を考える
ウォーレン・バフェットに頼めばよかった
投資顧問会社AIJが年金基金から集めた資金の運用に失敗し、資産をほとんど胡散無償させてしまいました。AIJは高い運用実績を謳って、企業の年金基金から2千億円近い資金を集めたのですが、実際には高利回りの配当は集めた元金を食いつぶしていただけだったのです。

報道から判断する限り、AIJは投資顧問会社と言うより、ネズミ講あるいは単なる詐欺に近いものであったようです。しかし、AIJのように高い運用利回りを約束して多額の資金を集め、当初は元金を配当に回すことで信用を得ながら、さらに大きな資金を投資家から引き出す手口は、決して珍しいものではありません。

アメリカでは元ナスダック会長のバーナード・マドフの引き起こした詐欺事件が有名です。マドフはその経歴を利用して富豪、有名人から自らが運営する投資運営会社に多額の投資をさせました。マドフはAIJと同じように元金を配当金に回すことで、優れた投資家としての信用を勝ち得て、数十年に渡って投資家たちを騙し続けたました。被害額は累計で4兆5千億円にも達したと言われています。

詐欺は論外ですが、投資運用会社はどの程度の利回りを上げられるものなのでしょう。日本国債の利回りが1%程度ということを考えれば、年間5%も利回りがあれば大したものなのかもしれません。AIJの主な顧客(被害者)だった厚生年金基金では従来5.5%の利回りを前提に仕組みができていて、それを維持するのが困難だったことが、AIJの高い運用実績に多くの年金基金が引き寄せられが原因ともなっていました。

しかし、年間5%の利回りというのは、それ程高いとは思えません。世の中の投資ファンドはプロが高い手数料を取って運営しているのですから、その程度の利益を生まなければ、何のための投資顧問会社かと言われても仕方がないのではないでしょうか。

実際にはAIJのような投資顧問会社が詐欺的な方法で投資資金を集めることができたように、多くの投資顧問会社、投資ファンドは5%どころか、ろくな利益も上げていないのが実態です。

投資顧問会社が長期的には利益を上げられないのは、調子の良い時がある半面、元金を割り込むような損を出す場合もあるからです。このため平均的には国債を買っていた方がマシ、あるいはそれ以下の成績しか残せないのです。

国債程度の利回りでは国債そのものを買った方が、安全性の面ではずっと有利です。確実に利益を上げることができる、という意味では投資顧問にプロ、専門家の名に値する人は皆無と言ってもよいのかもしれません。

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ウォーレン・バフェット


このようなことを言うと、投資に詳しい人達からは異口同音に「ウォーレン・バフェットは着実に利益を出している」という言葉が出ます。ウォーレン・バフェットのような存在がある限り、「投資のプロは存在しない」とは言えないというわけです。

オマハの賢人という異名を持つウォーレン・バフェットは、投資持ち株会社バークシャー・ハザウェーのCEOです。個人の総資産は400億ドル以上で、世界有数の金持ちの一人です(一位になったこともあります)。そして バフェットは資産の大部分をバークシャー・ハザウェー社の株式で保有しています。

バークシャー・ハザウェーの投資成績は確かに驚異的です。毎年バークシャー・ハザウェーが投資家に送る手紙には、バークシャー・ハザウェーの投資実績とアメリカの日経平均とも言うべきS&P500との比較が書かれています。それによると1965年を起点として2011年までの46年間でS&Pは6,397%の上昇を記録していますが、バークシャー・ハザウェーの投資成績は何と513,55%、つまり5,000倍以上になっています。

これを年率に換算するとS&P500は年率9.2%の平均上昇率であるのに対し、バークシャー・ハザウェーの上昇率は年率で19.2%にもなっています。この成績で運用を行っていれば、現在のような年金基金の危機は存在しません。

バークシャー・ハザウェーは何か特別なことをしているのでしょうか。バフェットは自身の投資基準として「事業の内容を理解でき、長期的に業績が良いことが予想され、経営者に能力があり、魅力的な価格」であることの四点をあげています。平凡過ぎてつまらないくらいの投資姿勢です。

バフェットが他の投資家たちと違う点があるとすれば、この四点を徹底的に守り、購入した株は短期的な市場の動きに左右されず、長期、事実上の永久保有を続けてきたことです。ではバフェッと全く同じ銘柄を同じように長期保有することは可能でしょうか。

これは問題ありません。バークシャー・ハザウェーの持ち株は公開されていていて、その通りに株を買うことは可能です。それが面倒というなら、バークシャー・ハザウェー社自身の株式を購入することもできます。バークシャー・ハザウェー社の株式時価総額は長期的には資産の額にほぼ比例して上昇してきました。

世にある年金基金はAIJのような投資顧問会社ではなく、なぜバフェッとのような40年間儲け続けた投資家の判断に投資運用を任せないのでしょうか。これはほとんど謎と言っても良いでしょう。

確かに理由はいくつか考えられます。いくらウォーレン・バフェットが過去40年以上目覚ましい成績を上げたからといって、将来もそうとは限りません。しかし、そんなことを言うなら他の投資会社はその過去の実績さえないところがほとんどです。

また、資産の取り崩しをしなければならないことがあった時に、たまたまバークシャー・ハザウェー社の株価が低いかもしれません。過去40年以上の間にはバークシャー・ハザウェー社も損を出した年もあり、タイミングが悪ければ損をしてしまうこともあり得ます。ただ、これはどんなポートフォリオを組んでも投資にはつきものの問題です。

結局、ウォーレン・バフェットと同じ投資戦略を取らないのは、自分はウォーレン・バフェットより優れた投資家だと、どこか信じているからだ、ということになります。客観的に考えれば、これはナンセンスです。少なくとも大部分の投資家にとってはナンセンスな信念です。

それでもウォーレン・バフェットの通りに投資する投資家はごく少数でしょう。そして、それこそがウォーレン・バフェットが46年間で5千倍以上もの収益を上げることができた最大の理由なのです。
首都高速は建て替えでなく道路網の再編を
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高架主体の首都高速は都市景観を破壊する(写真は日本橋の上を通る首都高速)


首都高速道路の老朽化が問題になってきています。首都高速道路は1964年に開催された東京オリンピックに合わせて、建設が始まったものです。以来40年以上を経過し、総延長300kmのうち約140kmは築後30年以上、築後40年以上のものも約90kmあります。

首都高速は一日百万台以上の車が利用しますが、そのうちかなりはトラックなどの重量車両です。過酷な使用環境で長年利用が行われてきたため、補修・補強工事を続ける必要があるのですが、民営化をきっかけとして経費削減を強く求められるようになり、最低限の補修費用しか計上されていないと言われています。

そのような状況を受け、首都高速道路株式会社では、今月(2012/3/5)「首都高速道路構造物の大規模更新のあり方に関する調査研究委員会」」を発足させ、今後の大規模な補修、更新の検討を始めました。

委員会は今年暮れには提言を行う予定で、どのような内容が盛り込まれるかは現時点では判りません。しかし、多量の車両が通行し8割もが高架で作られている首都高速の大規模な更新は、非常に困難なものになると予想されます。困難と言うより、そもそもそんなことが可能なのでしょうか。

老朽化した首都高速の刷新は、単なるは改修や更新ではなく、東京を中心とした道路網全体で考えることが必要です。まず、首都高速を通る車の多くは、都内ではなく東京を通過するだけなのに、高速道路網が東京という一点でつながれているという根本的な問題があります。

この問題を解決するために、東京を中として、内側から中央環状線、外環状線、圏央道の三つの環状線が建設されていますが、中央環状線が2013年度中に全線開通を予定しているのを除き、他の二つ環状線は完成は当分先だと予想されています。

これら3本の環状道路が全て開通すれば首都高速への交通流入量は大幅に減少すると考えられます。首都高速の大規模な改修をするなら、その前に是非とも完成を急ぐべきです。

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圏央道と外環状線が完成すれば都心の首都高速の利用は大幅に減少する


次に、首都高速が都心を縦横に走るという先進国の大都市ではありえないような形になっている事実を改める必要があります。都心にある高架式の高速道路は醜悪としか言いようがありません。都心部を走る首都高速は更新するのではなく撤去することを考えるべきです。

そのためには、例えば中央環状線と内側、JR山手線の地下に第二中央環状線を作るようなことがも考えることが必要です。もちろん、これは安い投資ではありません。トンネル部分の多い、中央環状線は1mで1億円以上の建設費がかかっており、山手線と同じ距離の高速道路を建設するには5兆円程度の費用がかかるでしょう。

しかし、既存の首都高速を順次建て替えるとなると、その費用は膨大です。仮に30年以上経過した首都高速の半分を建て替えるとなると、それだけで70kmにもなります。建設費用だけでなく、長期にわたる道路渋滞の発生を考えると経済的損失ははかりしれません。

首都高速は当初はほとんど全ての部分が高架、つまり橋でできた道路でした。最近建設された中央環状線などはシールド工法を利用した大部分がトンネルの道路です。高架式の道路はトンネルより一般的には安価に建設できますが、基本的には路面の道路に沿ってしか作れません。古い路線と新しい路線を共存させることは不可能で、建て替えは長期間、路線を閉鎖するしかないでしょう。

そのような方法と比較すれば、新しい路線を建設して古い路線は撤去してしまう方法は、より簡便な方法です。さらに、都心部に流入する車の数を減らすにはロードプライシングの導入で車の利用を抑制することも考えられます。

いずれにせよ、現在の首都高速をそのままの形で作りなおすというのは、あまりにも知恵のない話です。単なる建て替えではない総合的な道路利用の改革が求められます

神隠しのような・・
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私の住まいは港区の麻布にある築30年以上もたつ古いマンションです。高級住宅地とか言われたりする麻布でも、建物は同じように古くなり、人は老いていきます。そして人はいつか死を迎えます。

***

朝8時頃、いきなり玄関のブザーが鳴ったので、少しいぶかしく思いながら、私はドアを開けました。私のマンションは一階の入り口にインターフォンがあり、外からの来客は先ず、そこから尋ねて来たことを告げるはずだからです。

玄関口にはマンションの管理人が立ってしました。朝早い訪問を詫びながら、管理人は訪れた理由を告げました。「馬場さんには一応お知らせしようと思って。お向かいのKさんの奥様が先日亡くなられて、今日お通夜なんです」

私は今のマンションには十年ほど前に越してきました。私の部屋の向かいのKさんは、マンションが建った場所にあった一戸建の持ち主だったいわゆる地権者で、マンションの新築当初から夫婦で住んでいました。

二人とも80歳過ぎ。一年ほど前、賃貸に出でていた同じ階の部屋を借りて、病気がちだった一人暮らしの娘さんを呼び寄せて暮らしていました。同居ではなく一部屋余計に借りるくらいですから、経済的に恵まれているのは確かです。

「奥様が亡くなったって、ご主人は?」間抜けな質問だとは思いましたが、尋ねたわけはご主人も最近見かけていなかったからです。

「ご主人は去年の11月に亡くなったんですよ。娘さんは8月に。半年で三人とも亡くなってしまって」管理人は軽いため息をつきながら教えてくれました。

「ご主人は地下の駐車場で雨の日に転んで、顔をひどくぶつけて入院されて、そのまま亡くなったんですよ」私が驚いた顔をしたのを見て、管理人は「救急車は地下駐車場に直に行ったので、お気づきにならなかったと思います」と付け加えました。

「Kさんの奥様は一人暮らしだったわけですね」「ええ、それが宅配便が受け取られないで溜まってしまって。お電話をしたのですが返事もなくて。そうしたら息子さんから電話がつながらないって連絡が来たんです」

管理人はKさんの部屋の鍵は持っていなかったので錠前屋に頼んだところ、警察の立ち合いがないと勝手には開けられないとの返事。結局、Kさんの息子から連絡があった翌日の昼間、警察官、錠前屋、Kさんの息子、管理人が部屋に入ることになりました。

「そうしたら寝室の所に奥様が倒れていて。息はまだあったんです。それで救急車を呼んだんですが、どの病院もなかなか引き受けてくれなくて」結局広尾の日赤病院に何とか担ぎ込んだそうですが「5日後に亡くなりました」

新聞が3日前のものが部屋に入れてあったことから、3日間倒れたままでいたらいしいことが推測されました。見つかった時は生きていて病院で脳梗塞と判断されたことで、警察も不審死扱いはしないとのことでした。

Kさんの一家がほんの僅かの間に立て続けに亡くなって、隣に住む私が何も気がつかなかったことには、いささか衝撃を受けました。亡くなったKさんの奥様は82歳。老人ですが、今の世の中では格別な高齢者とも言えません。

隣人の私がこんな調子ですから、人のことをとやかく言う筋合いはありません。しかし、老人が一人で暮らしているのに、鍵も預からず、不審に思っても翌日まで関係者が揃うのを待つというKさんの息子の態度もよく理解できません。

Kさんは昔会社の経営をしていて、今は息子さんが後を継いでいるとのこと。経済的には余裕があるというより、資産家と言っても良い部類だと思います。しかし、奥様は倒れたまま3日間放っておかれ、いわば孤独死のような形になってしまいました。

有名人でも大原麗子は亡くなった3日後に実弟に発見されています。孤独死はもはや恵まれない人だけのものではなく、都会に住む誰もがそうなる可能性があるもののようです。

私の住むマンションは小ぶりで30数戸しかありません。それでも、十年以上も住んでいてエレベーターで出会う人は今でも名前どころか顔さえ知らない人の方が多いのです。表札が出ていて住んでいるはずの芸能人は見たこともありません。

長患いで家族に迷惑をかけ最後は邪魔者扱いされるより、Kさん一家のような死はむしろ好ましいとさえ言えるかもしれません。とは言っても自分の住んでいるマンションが、隣り合っても亡くなったことさえ気遣いないほどお互い疎遠だという事実は改めて寒々としたものを感じさせました。

自分の部屋を出るとKさんの部屋のドアには表札がそのまま残っています。けれども部屋の住民たちは突然かき消す私の目の前から消え去ってしまいました。まるで神隠しにでもあったように。

核家族から家族法人へ
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核家族の失敗

戦前の社会制度は家が基本でした。家父長の権限は大きく、結婚を自分の意志で決めるのは不道徳とさえ考えられていました。家の存続は義務であり、娘しかいない家は婿養子を取って家を存続させることを求められました。

家からの自由は、戦後個人が得た大きな成果でした。結婚は憲法で両性の合意の結果と定められ、家は憲法からは存在を抹殺されました。おりからの経済発展で都市に村落からの大規模な人口移動が続きました。家からも村からも離れた個人は結婚して自分たちだけの核家族を作ります。家は距離的にも分断され名実共に機能しなくなりました。

個人は核家族を作ることで家からも村からも自由になりました。しかし、次第にその自由の対価は小さなものではないことが判ってきました。子育ては核家族にとっては大変な事業です。自分たちだけで子育てする負担は重く、女性が家の外で仕事持つことは難しくなりました。核家族の子育てはサラリーマンの夫と専業主婦というモデルが前提です。

自分の全てを子育てに注ぐことは、女性にとれば社会的な仕事の機会を奪うことになります。さらに孤独な子育ては育児ノイローゼや児童虐待という悲劇も生みました。

子育ての負担は少子化につながります。少子化は年金制度や介護の問題を解決不能なほど悪化させます。そもそも少子化が続けば社会自身が消滅してしまいます。核家族は子育てや年金、介護という現在の失敗だけでなく、長期的には消滅してしまうシステムである可能性が強いのです。

大家族の利点

核家族が数百年単位で考えれば存続すら困難な家族形態なのに対し、大家族制は現生人類だけでなく霊長類に普遍的に見られます。人類は大家族の中で協力して、子を産み育て、食糧を確保しました。共同して生きることで人類は種として存続してきました。

年金の問題は少子高齢化で一人の老人を支える働き手の数が減少するということだけでなく、老人を子供や孫ではなく、社会全体、国全体でどこまで支えていくかという問題に突き当たります。

子供も親の介護もない人にとっては、社会という、抽象的で見ることも触ることもできないものを通じて、他人の生活を支えることに葛藤があるのが普通です。しかし、福祉社会は個人の葛藤を克服しなければ維持はできません。

これに対し大家族が自分たちで共同して行う子育てや介護は、そのような葛藤はずっと小さくなります。血のつながった子供を世話すること、まして同じ家族の面倒を見るのは税金とは違います。それは自分の遺伝子プールを守ろうとする、本能として組み込まれていると言っても良いかもしれません(ただし自分の子供を殺す親がいるように、それは絶対的なものではありませんが)。

年寄りの世話や介護は、利己的に考えても自分のためでもあります。核家族のように先細りの家族形態での介護は、単なる負担にしかすぎませんが、大家族なら自分に子供がいなくても将来世話をしてもらえる期待ができます。それに寝たきり老人であっても大勢で世話をすれば介護の重さははるかに小さくなります。

年金や医療保険のような社会福祉制度の成立は、近代の都市化、核家族化と歩調を合わせています。大家族が存在しなくなれば、大家族の代わりを社会が務める必要があります。しかし、社会による福祉は結局はすべてを金で解決することになります。

消費税を上げることは国民の強い抵抗を招きます。しかし家族の教育や世話への支出はそれよりずっと納得のしやすいものです。きちんと機能する大家族制は社会福祉を必要としないシステムと言うことができます。

家族法人

大家族が年金、介護、子育てさらには人口減少に対する解決策になるとしても、簡単に大家族制が実現できるわけではありません。現代は個人と核家族を中心とした社会ですがが、それ以前に家族というものが法的には意味を持っていない存在だということを先ず指摘しなければなりません。

今の日本では親子関係や夫婦は法律的な意味がありますが、家族の定義はありません。戸籍や
住民票はありますが、大家族の一員であることを示すことはありません。大家族を作るために家族を定義すること法的に考える必要があります。

家族法人は家族を定義する新しい枠組みです。家族法人のメンバー、つまり家族の人々は角界の年寄株のような家族株を持ちます。家族法人は家父長に相当する家族法人長がいて、家族法人全体の指導に責任を持ちます。

家族をわざわざ法人とする理由の一つ、恐らく最大の理由は、財産を持てることです。家族法人の財産は家族法人のものですから家族法人が続く限り所有しているだけでは税金はかかりません。住まいを家族法人の所有にすれば相続税はかかりません。中小企業なら創業者の持っている株が家族法人所有なら、創業者が死んで相続税で事業が崩壊することもありません。

現在の遺産相続はあくまでも個人が基本です。財産は個人から個人へと譲渡されます。兄弟は全て平等で、介護をするかどうかは関係ありません。親への貢献を相続財産に反映させるためには遺書が必要です。財産を家族法人に寄託して、家族法人つまり家族全員が介護や子育てを行えば、遺産相続の不合理を解決できます。

家族法人には税制面で様々な優遇策を与えることが考えられますが、家族のメンバーは義務も負います。介護や子育てに一定の貢献が求められるだけでなく、扶養は全体の義務でもあります。そのような義務を受け入れるには、家族法人は実際の血縁関係、親子や夫婦、養子縁組といった家族法人の部品に基礎を持つ必要があるでしょう。何と言っても「血は水より濃い」のです。

しかし、家族法人は新しい家族関係を受け入れることもできます。欧米で認めら始めた同性婚は共同生活をしてきた者同士が何の法的権利、義務を持たされていないという問題が背景にあります。家族法人という形態は、性別を問わず強い絆で結ばれた人間関係に法的な意味を持たせることができます。

もちろん家族法人でなくても同性婚そのものを認めてしまうこともできるでしょう。しかし人間関係は多様化していて同性婚以外のユニットにも法的な保護が求められることもあるかもしれません。家族法人は昔の大家族だけでなく、将来の人間関係の変化にも対応できます。

まずは出発点として

実際には家族法人がすぐに年金、介護のような大問題をあっさり解決できることはあまり期待できません。税金の優遇があれば、節税だけを目的にした偽装家族法人を作ろうとする連中が現れるのは当然予想されます。

家族法人が財産を持つとして、それが家族法人長に不正に使われないような適切な監査の仕組みをどう作るか、ガバナンスの確保は介護のような義務をきちんと実行させるためにも必要です。

家族法人が憲法で保障された個人の自由にどこまで介入できるかは、それ以上に大きな問題です。法人が許さない結婚をすれば、法人を捨てて「駆け落ち」をしなければいけないのか。せっかく稼いだ収入を家族のためにどこまで取り上げて良いのか。次から次へと疑問が湧いてくるのは当然です。

家族法人は最初は形式的なものに留めるべきかもしれません。家族法人の財産も住まいをはるかに超える何十億以上の大金持ちの資産保持に利用するのは認めない方がよいのかもしれません。様々な検討が必要でしょう。

しかし、核家族中心の社会が多くの殆ど解決不能の問題を抱えていること、長期的には人口減少で消滅する危険にさらされていることは事実です。一方、家族というものが何の法律的実態を持っていないのは人類の歴史を考えれば不自然なことです。

人を助ける義務が国家にしかなければ、収入の過半を税金にする以外、人々が支え合う仕組みを維持することは不可能です。消費税が果てしもなく上げなければ、福祉国家は実現しません。それは受け入れられないと多くの人が感じ始めています。

今、生活保護、年金、子供手当など多様で複雑な給付システムをベーシックインカムという、一律で行政の裁量余地のない方法に一本化して行政のオーバーヘッドをなくそうという考えが注目を集めています。

ベーシックインカムを家族法人が受け取れるように制度を作れば、家族法人が財政的基盤を持って社会福祉を代行する(本当は福祉とは社会が家族の仕事を代行していることですが)ことが容易になるでしょう。

ベーシックインカムと家族法人のような新しい仕組みで、行き詰った福祉制度の打開を図る。こんな発想が今求められていると思います。
アリゾナ記念館を訪ねて
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上から見たアリゾナ記念館。下に戦艦アリゾナが沈んでいるのがわかる

アリゾナ記念館は真珠湾の真ん中、フォード島のそばに浮かぶ白色の慰霊碑です。海上の横長の建物の下には、記念館と直角に交差して巨大な戦艦アリゾナが浅い真珠湾の海底にあります。日本時間の1945年12月8日、現地のハワイでは12月7日の朝、戦艦アリゾナは、日本帝国海軍の艦載機の攻撃を受けて大爆発し、わずか10分足らずでその場所に沈んでしまったのです。

太平洋戦争、日本とアメリカにとっての第二次世界大戦の始めとなった、真珠湾攻撃でアメリカ海軍は太平洋艦隊の主力を一挙に失いました。戦艦だけで8隻のうち6隻が沈没し、残りもかなりの損害を受けました。後に、うち6隻は引き上げ修理され戦線に参加しますが、戦艦オクラホマは引き上げられたものの修理は不可能と判断され、アリゾナは引き上げられることもなく1,177名の乗員とともに真珠湾にそのまま残されることになります。

アリゾナ記念館は戦後17年を経過した1962年、大戦の記憶を留め、死者を弔うために作られました。アメリカの公共の施設の多くと同様、アリゾナ記念館と付随する太平洋歴史公園の施設の大部分は無料で公開されていて、毎年多くのアメリカ人が訪れます。アメリカ本土から訪れる観光客にとって、アリゾナ記念館は最大の訪問先の一つです。

しかし、ハワイに来る日本人のほとんどにはアリゾナ記念館はなじみのある場所ではありません。アメリカ人に囲まれて真珠湾攻撃の象徴、まだ千名以上の遺体が残ったままになっている沈没した戦艦を見るのはあまり楽しくはなさそうです。そんな所で、わざわざ半日以上を費やす気にはなかなかなりません。

私も何度かハワイに来ていますが、アリゾナ記念館は半ば避けていました。それがたまたま正月休みの代わりにハワイを行くことになって、今度はどうしても訪れようという思いが強くなりました。理由は自分でもよく判りません。年を取るにつれ鎮魂というものの大切さを以前より感じるようになったのかもしれません。そうそう気楽には来れないハワイにまた行けるかどうかもわからないという気持ちあったとは思います。いずれにせよ、私はアリゾナ記念館を訪ねることにしました。

決心はしたものの、やはりアメリカ人の目は気になります。記念館のホームページを見ると「Tシャツなど不適当な服装は遠慮するように」とあります。ハワイで襟のあるシャツを求めるのは上着着用を義務付けるようなものです。私はホノルルから日本に帰る日に空港の途中に立ち寄ることにしました。冬の日本に備えて、青いポロシャツに長ズボン、上着まで着ています。これなら大丈夫だろうという格好です。

着いてみると、アメリカ人の服装は拍子抜けするほどカジュアルでした。お年寄りの団体客では、男性はアロハシャツ、つまりハワイの正装が多いのですが、Tシャツどころか、ランニングシャツ姿も目立ちます。見た所はただのアメリカの観光地です。

ただ、軍事施設の一つであることは確かで、アリゾナ記念館への船が出る太平洋歴史記念公園に入るにはバッグを入口で預ける必要がありました。中に入ると真珠湾攻撃と太平洋戦争にいたる解説をしている建物が並んでいます。アメリカ人にとって、真珠湾攻撃は遠い過去の話で、関連する歴史など知っている人は多くはないようです。しかし、これは今の日本人でも同様でしょう。

この種のアメリカの展示場の例に漏れず、展示物や解説は充実していました。その中では太平洋戦争にいたった背景については「アジアでの日米の権益が衝突」したと説明されていました。これは真珠湾攻撃を記念するアメリカの展示場の歴史観としては驚くほど公平と言えます。奇襲した日本に対し「卑怯」「卑劣」といった表現は使われず、アメリカ人の一緒に聞いていても居心地の悪さを感じられるような物ではありません。

これと比べれば靖国神社の遊就館の解説はずい分と一方的にアメリカを非難しています。歴史は自虐史観と被害者意識を丸出しにした陰謀史観を結ぶ線上にはなく、もっと深く立体的なものです。そしてその全体像をとらえるには、冷静で客観的な目を持つことが必要です。アメリカと比べれば日本はいまだに太平洋戦争を消化してはいないのかもしれません。

ただ、展示場での音声解説ではルーズベルトが天皇に宛てて平和を訴える手紙を出していたことが述べられ、アメリカの平和努力が強調されていました。展示物には手紙の文章が飾られていて、それを読むとルーズベルトは平和の実現に「日本が中国戦線から兵を引き上げる」ことを条件としていることが判ります。この条件は広範囲に中国で戦っている日本にとっては少なくとも短期間では到底受け入れがたいものでした。戦争は避けることができなかったのです。

展示の解説を見ると、日米間の戦争に備え、アメリカ海軍は真珠湾攻撃のほんの少し前に本土のサンディエゴから太平洋艦隊主力を真珠湾に移動していたことがわかります。この事実は真珠湾攻撃をルーズベルトが国民世論を参戦に向かわせるために、事前に察知していたのに陰謀として握りつぶした、という説がいかにバカバカしいかを示しています。ルーズベルトが参戦したがっていたのは事実かもしれませんが、わざわざそのために太平洋艦隊を全滅させる必要などないからです。

事実、真珠湾攻撃の傷は深く、アメリカは日本がフィリピンを含む南方に進出するのを見ているしかありませんでした。真珠湾攻撃でアメリカに打撃を与え、立ち直るまでに有利な位置を占めてしまうという山本提督の目論見は成功しました。

戦況が一挙に日本に不利になったのは真珠湾攻撃から半年後のミッドウェー海戦で日本が敗北を喫してからです。展示場ではミッドウェー攻撃の数週間前に日本の紫暗号が解読されたことが述べられ、紫暗号の解読機のレプリカも置かれています。ミッドウェー海戦の敗北は日本の油断による機密漏洩でもなく、目標を陸上、海上と何度も変えて航空機の兵器の換装を繰り返したためでもありません。要するに待ち伏せに会ってしまったのです。展示されている旧式のラジオのような暗号解読機が日米の立場を逆転させてしまったのです。

真珠湾攻撃は現地時間8時頃開始され10時前には終了しました。その間二度の攻撃が行われたのですが、解説では第一波ではほぼ無傷だった日本軍が、二度目の攻撃では航空兵力のおよそ2割を失ったことが示されています。アメリカ側の戦闘態勢が整ってきたからです。日本から遠いハワイ敵戦艦を全滅させてなお攻撃を続けるのは危険過ぎたのです。わずか2時間の攻撃で日本軍が帰途に就いたのは当然だったはずです。

歴史公園からアリゾナ記念館までは船で15分ほどです。アリゾナ記念館の隣には日本が降伏調印をした戦艦ミズーリが係留されています。太平洋戦争を始めた真珠湾攻撃の犠牲となった戦艦アリゾナと、アメリカの勝利を確定させたミズーリを並べる。単純な思考かもしれませんが、判り易いことは確かです。戦艦ミズーリでの降伏調印など今、日本人のどれくらいが知っているでしょうか。

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戦艦アリゾナから今も油が漏れ海面に虹色の幕を作っている。遠くに見えるのは戦艦ミズーリ

アリゾナ記念館の真下の戦艦アリゾナは今では魚が育つ岩礁になっていて、記念館からは姿はよくわかりません。それでも、アリゾナから今でもなおわずかづつ漏れ出てくる油が虹色の幕を作っているのははっきりと見て取れます。この下に千人以上の遺体がある。その数は第二次世界大戦で失われた五千万人の命からみれば誤差のうちにもはいりません。しかし若い沢山の命が失われた現場を目の当たりにすると、月並みですが戦後60年以上平和だったことの大切さを思わないではいられません。来て良かった。記念撮影に忙しいアメリカ人たちの横で、私はそう思っていました。

Can’t buy me love
反原発派の人が原発停止を求める時、「命は金に代えられない」という言い方をよくします。これはかなり乱暴な表現です。誰も金のために命を犠牲にして構わないとは言いませんが、他人の命のために無制限の支出をすることはしないからです。

例えば心臓移植手術をアメリカで行うために1億円の費用がかかると聞いて、全財産を投げ出しても救うと考えるのは肉親だけです。命と言っても自分や肉親の命と他人の命は明らかに「値段」が違います。

その上、原発を稼働させることが本当に命の問題にかかわるかどうかも議論のあるところです。福島第一原発事故では一人の死者もいません。継承の急性放射線障害の被害者さえ出しませんでした。命か金かというのは今のところ反原発のスローガン以上のものではありません。

それはともあれ、「命か金」かと言われて人はどうして戸惑ってしまうのでしょう。心臓移植の必要な少女の写真を見せられてからといって、実際に財布から1万円札を取り出す人は、決して多くはないのにです。

アメリカのエール大学心理学部長のポール・ブルームは「喜びはどれほど深い?」で、世の中には「お金で買えないもの」あるいは「買ってはいけない」とされるものがあることを紹介しています。

著書では例として、
・人身(奴隷など)
・政治権力
・懲役
・言論の自由
・結婚、出産の権利
などを挙げているのですが、このようなものは金で取引しようと考えること自体が、許されない行いだと考えられているのです。

その中でも命は特別なものでしょう。赤の他人の心臓移植手術に金を払うことのない人でも、会社の経営者が自分の娘の心臓移植手術を危険を承知で先延ばしにして1億円を会社の資金繰りに投じるという話には不快を感じるはずです。つまり命は金で買えない、というより取引の対象にすべきものではないのです。

ブルームは市場で価格を決定することに人々がよそよそしさを感じることを指摘しています。市場を通じて価格が決められ、そこで物を買うことは「もっと大切な何か」を失ってしまうと人は思ってしまうのです。

さらにブルームは金には特別なタブーがあるとも考えます。人にお礼をする時、金を渡すのは礼儀に反すると一般に考えられているのは、金のタブーのためだというのです。その理由として、ブルームは進化の中で金で物を得るとことが人類がそれも比較的後になって発明した方法だからと推定しています。

チンパンジーのような霊長類でも、共有(あなた物のは私の物、私の物はあなたの物)と交換(あなたが背中を掻けば、私も掻く)は行います。しかしお金のように、あらゆる物を得ることのできる便利な道具はありません*。金で物を買うというのは他者と特別な関係が必要のない(共有も交換も仲間の同士でしか行いません)もの、つまりとても「よそよそしい」ものなのです。だからこそ、親しい友人同士で金のやり取りをする。例えば夕食に呼ばれて「とてもおいしかった」と言って1万円札をテーブルに置くなどはとんでもない、という話になるのでしょう。

これには例外もあります。アメリカではチップが広く普及していますが、チップを渡すという行為は単に金をあげるというだけでなく「親切にしてくれてありがとう」というメッセージにもなります。日本でも神社や寺で賽銭を出すのは正しい行為です。

しかし、金を渡すというのは常に微妙なものを含んでいます。アメリカでもチップに1セント玉を入れることは相手をバカにした行為と看做されます。金だけが問題なら10ドル札にポケットに残った1セント玉を何枚か付け加えて文句を言われる筋合いはありませんが、金というのはそういうものではないのです。

命はともかく、セックスも金で買ってはいけないものの代表です。売春が多くの国で違法とされているのも理由は色々あっても基本は「セックスは売り買いするもものではない」という考えが背景にあります。

セックスでも売り買いできないのだから愛を買うことは不可能だ、というのが健全な常識でしょう。しかし、世の中の男性は一生懸命プレゼントをしたり食事をおごったりして女性の歓心を得ようとします。一生懸命男性が金を使うことを嫌う女性は多くはありません。これは愛を金で買うことにはならないのでしょうか。

こんなことはとやかく議論することもないでしょう。物を貰ったり、高価な食事をご馳走になることを喜んでも、いきなり3万円ほど財布から取り出して「物や食事よりこちらの方が好きでしょう」と言われて喜ぶ女性はごく例外的です。と言うより、最初から金を目的とする女性以外はそのような申し出には腹を立てるだけです。

命は金とは代えられない。失われた命を金で取り戻すことができないのは確かです。しかし、この言葉は「金で何でも解決できると思うな」という人間の金に対して持つタブーに訴えるからこそ、強いメッセージになるのです。

題名の「Can’t buy me love」は言うまでもなく、ビートルズ時代ポール・マッカートが1964年にリリースした曲名です。主語のMoneyが題名からは省かれていますが、歌詞の方には「Money can’t buy me love」とあって、「 愛は金じゃ買えない」の意味です。

この頃のビートルズは貧乏で無名なバンドから一気に世界的な人気者になり、多額の収入も得るようになっています。後にマッカートニーは、歌詞の意味を「物を所有するのは悪いことではない。しかし、本当に欲しいものは金で買えないということだ」と語っています。

さらに時間が経ってからマッカートニーは「あの題名はCan buy me loveにすべきだった」と言っています。その間何があったかはわかりません。しかし「何でも金で買える」と言うマッカートニーが、「欲しいものは金で買えない」と言った時より幸せになったとは思えせん。なぜなのでしょうか。

* 猿を使った実験で、餌と交換できる木の実(それ自身は価値はない)を与えて一種の貨幣を通用させることに成功した例はあります。その実験ではオス猿がメス猿に実を与えて性行為と行うという売春行動さえ観察されたということです。

何のための日弁連の反原発意思表明
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日弁連のビル

日本弁護士連合会(以下、日弁連)その名の通り弁護士の団体です。その意味では医師の団体である日本医師会や、農協の集まりである全国農業組合連合会と同じです。

しかし、日弁連は「日本全国すべての弁護士及び弁護士法人は、各地の弁護士会に入会すると同時に日弁連に登録しなければ」ならない、つまり日本で弁護士として活動する全ての弁護士は日弁連に加入する必要があるという、際立った特色があります。

医師は医師会に所属しなくても医師免許さえあれば医者として活動できますし、農協に加入しなくても農業を行うことは可能です。これに対し弁護士は司法試験に合格し、司法修習を終了しても日弁連に加入しなければ、日本で弁護士の業務ができません。

これは業界団体としては異例に強い権限を持っていると言うことができます。日弁連から除名されるということは事実上弁護士としての国家資格を失うのに等しいからです。弁護士という職業の重さを考えると、業界団体とはいっても日弁連は国家機構の一部と言えるほどの権限を持っています。

その意味で日弁連は政治的な党派活動や思想信条に高い中立性を持つことが要求されているはずです。他の業界団体と同様に、職業人としての弁護士の権利、権益のために活動することは許されても、特定の思想に強く肩入れすることは慎まなければいけません。

ところが実際には日弁連は政治的主張として、左派と看做される立場を取ることが多いのは事実です。例えば日弁連は「会長声明」という形で、「君が代斉唱時の不起立等を理由とした懲戒処分取消等請求訴訟の最高裁判決」で、君が代斉唱に起立しなかった教諭に対し「戒告処分を容認した点は強く批判される」とする意見表明lをしています。

判決の是非は別として、この日弁連の見解は一般には「左」寄りの立場とされています。日弁連の中枢部の思想信条が「保守」でないことは間違いありません。

その日弁連は原発に非常に批判的です。日弁連は原発について何度も会長声明を出していますが、「原子炉等規制法改正案の骨子に対する会長声明」では「停止中の原子力発電所の運転再開が認められるものではない」と改めて、原発反対を鮮明に打ち出しています。

日弁連が準国家機関並みの力を持っていることを考えれば、政治的に対立点の多い問題に積極的に発言すること自身があまり好ましとではないと思いますが、原発についてはそれとは別の要素があります。

日弁連に限らず、原発に反対するのは一般には概ね次のような理由です。

1. 原発は事故を起こすと広範囲に甚大な人的被害を起こす。また、その確率は特に地震国日本では非常に高く、とても許容できるものではない。このことは福島第一原発の事故により改めて証明された。

2. 低放射線被曝による障害は、100ミリシーベルト以下では医学的な証明はないものの、有害とする科学者が多く、慎重を期して安全側に考えれば、それよりずっと小さな被曝量でなければ認めるべきでない。国際的な放射線被曝のガイドラインを出しているICRP (国際放射線防護委員会)の年間1ミリシーベルトは日本政府が平常時の被曝限度と定めているもので、これを順守すべきである。

特に強硬な反原発派でなくても、このような主張は妥当に思えるものかもしれません。しかし「素人考え」ではなく、別の見方もあります。

(1) 原発事故の人的被害は当初の予想よりはるかに軽微である。現に福島第一原発事故では放射線による人的被害は発生していない。津波による冠水で全電源喪失があったことが事故を引き起こしたが、原子炉の停止は過去を含め全ての地震で成功しているし、福島第二、女川原発でも事故を起こさなかった。全電源喪失の対策を強化することで、今後の地震による事故は十分防げる。

(2) ICRPの被曝指針は実態とは無関係に厳しく設定されており、特に事故発生時の避難ガイドとしてはかえって問題が多い。チェルノブイリでは事故後強制避難をさせられた地域で放射線被害ではなく避難に伴う生活破壊、健康破壊が報告させれている。また、20ミリシーベルト程度の被曝量は自然状態でもそれに近い被曝をうける地域もあり、それらの地域でも発癌率の上昇は見られない。

このような意見は例外的なものではなく、多くの技術者、放射線医学の専門家からは妥当と言われているものです。いずれにせよ、原発事故の確率や被害程度、放射線の人体に対する影響は、技術的、医学的なもので法律的な議論は、それらに一定の決着をつけなければできないはずです。

いうまでもなく、日弁連は科学、医学の専門家の集まりではありません、それが専門家の間ではむしろ主流の意見に反して原発の是非について明確な立場を出すことが妥当でしょうか。もちろん裁判で科学的な判断が判決を左右することは数多くあります。しかし、その場合裁判では専門家の意見を求めます。そして専門家の意見が分かれる時は対立する専門家、それぞれの証言を得ます。

実際、日弁連は「「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」の抜本的見直しを求める会長声明」で、WGの構成員の構成員に触れ、「広島・長崎の原爆被爆者の健康影響の調査研究に携わる研究者が多く、低線量被ばくの健康影響について、これに否定的な見解に立つ者が多数を占めている」と、反対意見を十分に聴取していないと抗議しています。

これは一種のダブルスタンダードです。日弁連の中で原発の是非について、支持派、反対派の技術者、研究者を集めた慎重な議論が戦わされているとはとても思えないからです。もし、そのような議論があれば、原発を「危険だから取りあえず止めてしまおう」という単純な結論ではなく、リスクと便益との関連に対するより深い考察があったはずです。

もしかすると、日弁連内部では本当に慎重な討議が裁判のような厳密さで行われたのかもしれません。だとしても、科学的な問題を日弁連という弁護士団体が明確な立場を打ち出すことの異常さは変わりません。

原発や低線量被曝の問題は、核兵器のように破壊力が一般にも理解されていて、その上で使用の是非を論じるものとは違います。低線量被曝の健康への影響は、「統計的には把握できない僅かな人数で影響の可能性がある」というレベルです。「科学的に安全性が実証されていない以上到底受け入れられない危険」と考えるのは専門家では少数派です。

ガリレオは天動説を支持しなければ異端審問裁判で有罪にさせられました。スターリン時代、ソ連は遺伝を否定するルイセンコ生物学を認めない生物学者をシベリアに送りました。日弁連は原発を支持する弁護士を除名するとは言っていません。しかし、本当に原発が日本国民の福利と安寧に決定的に害をおよぼすものなら除名くらいしても良いのではないでしょうか。

一体、日弁連の反原発の立場とはどんな意味があるのでしょう。弁護士が集まって原発や放射能を論じても専門的価値はありません。原発が政治的な問題であることは間違いありませんが、技術的問題でなくなったわけではありません。日弁連は原発に対する旗色を鮮明にする前に、法律の専門家集団としてもっと考えるべきことが沢山あるはずです。

「神」という発明
adam smith photo
アダム・スミス

「見えざる手」というのは、言うまでもなく18世紀のイギリスの経済学者アダム・スミスの言葉です。人が行う経済活動は皆自分のための利己的なものでも、「見えざる手に」導かれて、全体としては市場が機能し資源の配分は最適化され、人々は豊かに生活することができる、これがアダム・スミスが「国富論」の中で語ったことでした。

アダム・スミスは「国富論」の中で「見えざる手」とは「神の手」だとは言わなかったのですが、当時の人々は、利己的な行動も神によって調和された世界を作る力となる、資本主義とは神によって導かれるものなのだと解釈しました。

それまで、キリスト教の世界でも勤勉は尊ばれましたが、金儲けはむしろ卑しむべきものと考えられていました。しかし、アダム・スミスは金を儲けようとする利己的な行動こそ物を作り必要な所に円滑に届けさせる原動力だと説きました。金儲けは悪いことではない、それどころか「神の手」に導かれる正しい行いなのだと考えることができるようになったのです。

現代ではアダム・スミスの言った「見えざる手」は市場の有効性として経済学者に広く支持をされています。しかし、世の中一般となるとそうとも言えません。企業が利益を得るのは本来は労働者や消費者のものである富を掠め取っているからだ、という考えは今でも多くの人が持っています。本能的な信念と言っても良いかもしれません。

共産党などはよく「企業には膨大な内部留保があるので、それを取り崩させれば消費税の増税など必要ない」などと言います。共産党だから当然でしょうが、それが一定の説得力を持っているのも事実でしょう。

実際には内部留保はその分の現金を積み上げているのではなく設備や製品に形を変えているのですが、それはさて置き、企業が利益を貯め込むことは不当だという論法が違和感を持たれるどころか、共感を生むというのは現実です。

さて、今回のブログのテーマは共産党の批判ではありません。ある意味その逆で「見えざる手」の失敗を考えてみようというものです。個人の利己的な行動が「見えざる手」によって資源の最適配分をもたらすとしても、いつもそうとは限りません。

世の中には泥棒や詐欺、さらに強盗殺人のように他人を犠牲にして利益を得ようとする輩がいます。もちろん、このような行為は犯罪として罰せられるのですが、「見えざる手」がうまく人の行動を社会の利益へと結び付けることができなかった、つまり「見えざる手」の失敗と言うことができます。

人間の利己主義が一方では「見えざる手」によって経済を円滑に動かす原動力となるのに、もう一方では社会を破壊してしまう。そうすると利己主義にも良い利己主義、悪い利己主義があって、悪い利己主義が蔓延しないようにしなければいけない。そもそも悪い利己主義とは一体何のか。

こんな子供のするような質問は案外答えにくいものですが、「何が悪いのか」は「モーゼの十戒」にはきちんと示されています。ご存じのように「モーゼの十戒」とはモーゼが神から授けられた戒律とキリスト教で信じられているものです。

戒律と言うとずい分厳しいものように思う人もいるかもしれませんが、「モーゼの十戒」が言っているのは「主が唯一の神であること」や偶像崇拝を禁じること以外は、盗んではいけない、殺してはいけない、といった常識的なものです。このようなものをわざわざ石に刻みこんで人々に守ることを強く言う必要などあるのでしょうか。

このような疑問を抱くのは、私たちが盗みや殺人が悪い事だと信じ込んでいるからです。しかし、他人の物を盗んだり、他人を殺してはいけないと言うのはなぜなのでしょうか。それはそんなこと許しては社会が崩壊してしまうからです。それでは社会とは何なのでしょうか。

チンパンジーも群れを作り、その中では勝手に他のチンパンジーの物を盗ったり、殺すことはしません。そのような行為はチンパンジーの集団を崩壊させるので、ボスが取り締まります。しかし、群れが違えばそのような禁忌はなくなります。

人間も群れを作ります。しかし、類人猿の延長としての人間の作る群れの大きさは100-150人くらいが限度を考えられています(これはダンバー数と呼ばれています)。それ以上の集団はボスの威令だけでは無理で社会制度が必要になります。

社会制度を作っても、何を社会を維持するために守るのか、そもそも社会を維持することに価値があるのか最初から決まっているわけではありません。自分や家族が飢えている時、名前も顔も知らない他人の食料を奪い、抵抗したら殺してしまう、というのは正しい行為なのではないか。そんな時「神がそれ許さない」と知らしめるのは社会の秩序を保つために有効な方法です。

今太古に二つの人間の集団があり、一方はボスの威令だけで集団をまとめ、もう一つは神の力で集団の秩序を維持しているとします。二つの集団が対立すると、「神」を持つ集団の方がより大きな集団を作ることができ、結果的にもう一つの集団を圧倒することができるでしょう。

つまり、「神」というのは大きな社会をまとめ秩序を作るのにとても便利な発明品なのです。「神」という概念を人類がいつ頃見出したのかは定かではありません。自然に対する畏怖の気持ち、強く大きい動物への恐れ、そのようなものが、社会秩序を維持するための戒律を与えてくれる存在になったのは、そんなに昔ではないと私は推察します。

人間が農業を始めたのは氷河期が終わった高々一万年ほど前からです。農業により人々は定住し、より大きな人口を養うことができるようになりました。戒律を与えてくれる「神」はその頃から後に登場したのではないかと思います。

「神」が発明品だとすると、同じ「神」でもより大きな集団、民族を超えた帝国を作るにはキリスト教やイスラム教のような一神教で形も現わさず、あらゆるものに遍在するほうが、より強くそして広く人々を秩序に従わせます。

「神」があらゆるところにいれば、誤魔化すことはできません。司法機関から逃れることはできても神の目を避けることはできない。これは各個人を大きなコストをかけずに統治し治安を守るためにとても有効です。

このような宗教が他の宗教に苛烈だった理由も明白です。善悪の基準を異にする人々を信用することはできないし、そのような人々は神の戒律で守る対象ではないのです。同時に自分たちの宗教に帰依すれば、それは自分たちの集団の一員になったと証拠と考えられます。

共通の根を持つキリスト教とイスラム教は、一神教であるが故に、激しい対立を続けてきました。中世、十字軍の時代はイスラム教徒が優勢でしたが、現在は長くキリスト教徒の優位が続いています。しかしそれにしても、ソ連崩壊で共産主義が力を失った今21世紀になって、宗教の違いが相互不信と争いの種になっていることは正直呆れるしかありません。

「見えざる手」の失敗、利己主義から来る窃盗や殺人は、「神」による戒律と秩序を社会の構成員が心の中に持つことで押しとどめることができます。しかし「神」という発明物も失敗をします。宗教戦争、他の宗派に対する寛容性の欠如は「神」の失敗と言ってよいでしょう。

人間は「神」の戒律の代わりに、法律や制度、司法の仕組みを作ってきました。そして近代民主主義国家では、「民の意志」を「神」の座の置くことで、その権威の正統性を与えています。

しかし民主主義が失敗しないわけではありません。衆愚政治に陥ったり、熱狂に駆られて戦争に突き進むこともあります。自分の負担を避け全てを他人に押し付けてしまおうという全員型の囚人のジレンマになって身動きが取れなくなることもあります。ゴミ処理場の建設などはその典型です。

さらに民主主義は利益の配分には適していても、今の日本のように少子高齢化で負担の配分が必要になっている時は、負担を直視するのを避けるポピュリズムになってしまう危険があります。ポピュリズムは民主主義の失敗そのものです。

アダムスミスが「見えざる手」の存在を言った時、「神」は強固な前提としてそこにいました。「見えざる手」の失敗は「神」によってできるだけ小さくなるように仕組みづけられてたと言えるかもしれません。民主主義の失敗はどのようにすれば最小化できるのでしょうか。現代人は「神」を再発明する必要があるのかもしれません。

一年を振り返って: 原発を巡って
今年は33本のブログを書きましたが、そのうち約半数の15本が原発事故に関連するものでした。原発については昨年から何本かブログを書いてきたので、事故が起きた時、炉心溶融の意味やチェルノブイリ、スリーマイル島の事故などについて一定の知識は持っていました。

しかし、どちらかという知的なゲームとして見ていた原発の妥当性の論議は、事故後にわかに現実的な課題になってしまいました。原発を停止して電力不足や電気料金の値上げを我慢するのか、あるいは稼働を続けるべきなのか、というのは日本人誰もが考えるべき問題になりました。福島の事故を受け、ドイツとイタリアでは原発を電力源として放棄することが決まりました。

もっと切実な問題は放射能の危険性をどう考えるかということです。放射能被害を心配して避難地域でもないのに疎開する人まで現れました。福島県産の農作物は安くしても売れなくなり、ゴルフ場さえ茨城、栃木ではプレーする人が大幅に減ってしまいました。

年が終わるのに当ってブログを振り返りながら、原発について考えてみたいと思います。

ブラックスワンを見た日: 福島第一原発事故 2011/03/28 

事故の約2週間後の記事です。その後ここで書いたことから事実認識は大きくは変わっていません。前の年に確率的には2万年に1回程度と考えていた事故が実際に起きたことで、何を反省し、何を検証すべきを考えるのが記事を書いた目的でした。

その時は検証し反省をした上で原発の稼働を当面続けるということが念頭にありました。しかし、世の中は原発稼働賛成と反対の二つに分かれ、また反省も「絶対に事故が起きないようにするにはどうするか」という不毛なものに移ってしまったようです。

安全対策を強化することで事故の確率と事故の被害を小さくすることはできます。しかし「絶対」に事故を起こさないことは過去も将来もできません。ブラックスワンは確率的にはありえない事も起きうるという意味です。そしてそれは原発事故だけでなく、金融システムから戦争まであらゆることに適用されます。「絶対」を求めることは現実的ではない。その理解がまず必要です。

脱原発のコスト 2011/04/18 

「絶対」を求める人に決定的に欠落しているのはコストの概念です。「金で命の問題を考えてはいけない」というのは正しくありませんし、現実の世の中はそのようになっていません。1億あれば心臓の移植手術を受けて命が救える、と判っていても1億円が簡単に降ってくるわけではありません。原発を停止すれば原発事故の危険はなくなりますが、コストはかかります。

原発のコストは放射性廃棄物処理や事故の損害をどのように見積もるかは原発に対する立場で大きく違ってしまうのですが、少なくとも原発を火力で置き換えれば、燃料費が余計にかかるのは事実です。原発を全停止するとその費用は2兆円程度ですが、将来化石燃料の価格上昇でその額はさらに膨らむ可能性は大きいと思われます。

石炭火力と原発どっちが危険か 2011/05/11 17:23 
原発事故と飛行機事故 2011/09/04 

原発に反対する人たちが往々にして無視するのはコストと並んで、原発以外のリスクです。原発と飛行機のリスクは死亡確率という点では圧倒的に飛行機が高い(そもそも原発ではほとんど人は死んでいない)のに飛行機には乗るが原発は嫌というのは、頭で考える理屈には合いません。

理屈には合わなくても、原発が怖いと感じられるのは自由意思では選択できないからとか、色々とそれこそ理屈は付けられます。だからと言って原発と他のリスクの比較さえ嫌悪するのは正しい態度とは思えません。

原発を止めよう、停止しようというのはリスクがあるからでそれ以上でも以下でもないはずです。しかし原発反対に政治的意義を見出すような人や、感情的なレベルで原発停止を求める人はこのような考えに納得しません。困ったことだと思います。

放射能ってそんなに怖い? 2011/05/09 

原発の危険は放射能の危険に尽きます。しかし、放射能の危険について一般的な理解は高いとは言えません。いまだに「何ベクレルの放射能が検出された」というニュースがで出ますが、それがどの程度危険なのか、ベクレルとはどのような意味を持つかを報道してはくれません。

放射能被曝は、一時に大量の放射能を浴びる急性放射性障害に陥らなければ、長期的な発癌率の上昇以外の危険はありません。そして発癌率の上昇はタバコなどと比べれば概ね小さいし、ほとんどの地域では癌患者の増加がいかほどであろうと放射能の影響を確かめられないほど僅かでしかありません。放射能の危険性への正しい認識が正しい事故対策になるのですが。どんな少量の放射能も致命的に危険、という科学的には誤った考えが多くの人に持たれてしまっています。そして、それがコスト意識のなさと結び付くと、どんなに費用をかけても除染を完全に行うべきだという議論になってしまうのです。

東京電力は破綻するしかないのか 2011/06/07 
なぜ人は東電社員の懺悔を求めるのか 2011/11/29 

今回の事故で主要なターゲットになっているのは、もちろん東京電力です。東電の管理体制、事故準備に不備な点があるとか、官僚的で決まり切った情報しか流さない、といった問題があるのは事実なのですが「悪の象徴」として潰すことを目的化したような動きが出るのは、いつものことながら異常に感じられます。

二つのブログは財務的にどの程度東電は破綻の淵にいるかということと、なぜ個人攻撃的な東電社員への非難へと人の心が動いてしまうのかを解説しています。

自然エネルギーに未来はあるのか 2011/05/17 
孫氏の自然エネルギー構想はいばらの道 201/05/26 
官製プロジェクトはなぜ失敗するのか 2011/05/31 

二つのブログを書いた5月頃は原発がなくても自然エネルギーがあるさ、といったある種のユーフォリア(多幸症)的な高ぶりがありました。その頃自然エネルギーを事業化する動きを全国の知事を巻き込んで始めたのがソフトバンクの孫正義氏です。

自然エネルギーは決して簡単に原発の代替になれるようなものではないということについては本文をご参考にしていただくとして、変わり身の早い孫氏は既に自然エネルギーへの興味をまったく失ってしまったようです。

孫氏の素早い動きに負けまいと(?)、菅首相も自然エネルギーへの傾倒を見せました。サミットで新しいエネルギー政策「サンライズ計画」を発表したのです。しかし、こんな計画が発表されたということすら今では忘れさられてしまっています。

放射能の危険は「絶対安全と証明されてはいない」と言い続ければ、いつまでも主張を変えずにいられますが、自然エネルギーの事業化は実際に採算に合わなければ孫氏のような実業家はあっさりと見限るということです。今年は自然エネルギーの実用化についての検証作業という点では有意義だったかもしれません、

日独伊はなぜ脱原発に向かうのか (1)
 2011/07/31 
日独伊はなぜ脱原発に向かうのか (2) 2011/07/31 

福島原発事故への反応はある意味海外の方が強いものがありました。事故を受けイタリア、ドイツでは原発を電力供給の手段として放棄することが決められました。日本が保守点検に入った原発の再稼働をしないことで実質的に原発廃止に向かっているように見えることを合わせるとどうしても第2次世界大戦での日独伊三国同盟との連想が働いてしまいます。

ただ、この話は連想が働くという以上の共通点は今のところ見出せません。むしろ、ドイツとイタリアがフランスという原発大国からの電力供給を受けられる立場にいるのに対し、日本は自国で電力供給を完結させる必要があるという違いに思いをいたさなくてはいけないでしょう。

強いてあげると日独伊は敗戦国であるということが理由で核兵器を保有していないということかもしれません。しかし、原発は核保有国以外にもあり、その全てで廃止の方向に向かっているということはありません。やはりこれはただの偶然の一致に過ぎないと考えるべきでしょう。しかし、何とも言えない不気味さが残るのは事実です。

村上春樹氏への手紙に代えて  2011/06/12 
袋小路の反原発運動  2011/09/22  http://realwave.blog70.fc2.com/blog-entry-304.html

原発反対には数多くの知名人、有名人も参加しました。その中で村上春樹氏の原発への反対意見の表明は大きな影響力があったと思います。とりわけ氏の作品の愛読者の一人としては、氏が豊富な知識と冷静な分析力を持っていると知っているが故に、ある種残念な気持ちにさせられました。

それと比べれば、大江健三郎氏の反原発運動支援は、驚くに足るようなものではありませんでした。氏は1960年の安保闘争以来、一貫して反戦派であり、核兵器と原発を同一視するという立場をとってきたからです。

全体として見れば、政治運動と結びつくようになって反原発運動は一つの袋小路に入ってきています。しかし、原発を停止させるという意味で反原発は成功を収めつつあります。原発に危険性がある以上、原発を受け入れるかどうかいう問題は増税や米軍基地と同様にプラスとマイナスを秤にかけるという、日本がもっとも苦手とする問題を克服しなければならないからです。

一連のブログを読み直して感じたのは、専門家でも何でもない私のブログのレベルの知識を持たずに原発や放射能危険さらには東電の破綻処理の問題を論ずる人があまりに多い事です。それは表面を見る限り、マスコミ、政治家多くの評論家も例外ではありません。

今年はこのブログを含めれば15本も原発に関するブログを書きました。来年もまたいくつか書くことになるかもしれませんが、世の中の原発論議が政治的、感情的なものからもっと経済学も含めた科学的なものになることを期待しないではいられません。

それでは最後ですが、皆さま良いお年を!

定年延長より定年廃止

厚労省の諮問機関、労働政策審議会は今月(2011年12月)28日、65歳までの継続雇用を企業に促す高齢者雇用制度の改正案をまとめました。それによると現在の「高年齢者雇用安定法」で努力義務になっていた65歳までの雇用の継続を段階的に企業に義務化していくとなっています。

このような政策が出てきた理由は明らかです。年金財政の逼迫で、年金支給年齢が65歳へと引き上げられてきているのに、一般企業の定年はほとんどが60歳に留まっているからです。定年後、年金支給までの無収入の期間をどのいように生活するかは、完全に個人に任されているのです。

しかし、経団連を始めとして企業側はこの提案に抵抗しています。定年の延長は社員の老齢化を進めるし、社会保険の負担も含めれば相当のコストを負担しなければならないと考えられるからです。

一方働く側から見ると、定年延長は既に職を得ている人には有利でも、これから就職しようとする人達には雇用機会がそれだけ小さくなることを意味しています。ただでさえ就職が難しくなっている中で、これは深刻な問題です。

さらに定年の延長で雇用コストが増えると企業は人を雇用しようとする意欲を一層失う可能性が高くなります。円高で日本で事業を行うことが国際競力の上で不利に働くようになってきている中で、これ以上企業の負担を増やせば企業の海外流出が加速する危険があります。

結局、定年延長で利益を得るのは、既に雇用されている人をメンバーにする労働組合と年金財政の辻褄を合わせたい、厚労省、財務省ということになります。一方不利益を被るのは企業とこれから職を得ようとする人々、特に新卒の若い人たちです。

これは日本の将来にとって良いことではないでしょう。確かに年金財政の崩壊、定年後の無収入期間は大きな問題ですが、問題解決を企業と若者に押し付けてしまえば日本経済の未来はさらに暗くなってしまいます。

また、すでに正社員として働いている、本来は「勝ち組」のはずの人達にも、今回の提案はそれほど魅力的なものではありません。なぜなら、定年まで一つの会社に勤め続ける「終身雇用」は過去のものになっているからです。

バブルの崩壊後「リストラ」という名の首切りは当り前になってしまいました。銀行などでは40前後から肩叩きが始まり50歳以上まで勤められるのは一部のエリートだけになってきています。このような傾向は大なり小なりどの企業にも当てはまります。

要するに今回の定年の65歳までの延長のメリットを享受できる人は、ごく限られた人達になるはずです。定年延長で得られる保険金の納付増加額はそれほど大きくなく、定年と年金支給年齢の狭間に苦しむ人で救われる人は少ないでしょう。

それでは定年の延長は必要ないのでしょうか。そんなことはありません。国民の平均寿命が「人生50年」と言われた時代から80歳を超えるようになった現在、従来の60歳定年では少数の現役の働き手が多数の老齢者を養うという形にならざるえないからです。

かりに日本人の大半が70歳まで働くようになれば、少子高齢化の問題はほとんど一掃されます。年金問題の本質は年金支給開始年齢と定年とのギャップではなく、まして社会保険庁の杜撰な事務ではありません。ある時点で国民の中でどれだけの人が働き、どれだけの人が養われているかのバランスこそが重要です。

これは年金などに頼らず個人が貯蓄に励んでいても少子高齢化の問題はあるということを示しています。仮に、少ない働き手に対し多くの老齢世代の人たちが一斉に貯蓄の取り崩しを始めると、結果はインフレや円の減価につながります。

海外資産の運用で利益を得るのでなければ、日本国民の豊かさは基本的に現役の働き手の頑張りにかかっています。シンガポールやクエートのような小国ではない日本は海外資産に頼って日本国民全員の老後をまかなうことは難しいでしょう。

それでは70歳まで働けるような環境をつくるために、定年の延長は有効でしょうか。最初に述べたように単に企業の負担を増やす形で定年を延長すれば、かえって雇用機会は減少するでしょう。

必要なのは65歳まで定年が延長されていることではなく、50歳、60歳になっても新たな雇用機会が与えられるようになることです。そのためには企業から見て雇用が競争力を破壊しないほど高くつかないことが大切です。

企業が派遣社員で正社員を置き換えるのは単純な意味のコストではありません。派遣社員の年収は正社員よりずっと低いのが普通ですが、派遣会社は25%から40%あるいはそれ以上のマージンを取るので時間当たりのコストはそれほど違わないのです。

違うのは派遣社員と企業は雇用関係はないので解雇せずに契約の打ち切りだけで労働力の需給に柔軟に対応できることです。さらに継続した雇用ではなく新しく人を雇い入れることで賃金水準の変更も容易にできるという利点もあります。

賃金は物価として考えると下方硬直性が非常に高い、つまり値下がりしにくいものです。野菜や衣類が大きく値下がりしても賃金はなかなか下がりません。世界恐慌の時でさえ、賃金水準自体はほとんど変化はありませんでした。

賃金水準が変わらないため企業は不景気になると雇用を圧縮しようとします。不景気になると賃金水準は下がらなくても失業率は増加します。逆に言えば賃金水準を下げれば失業率は確実に低下します。

今の日本の定年制の暗黙の前提は終身雇用です。しかし終身雇用が維持できなくなった今、必要なのは定年の延長ではなくより自由で柔軟な雇用関係です。柔軟な雇用関係とは端的に言えば簡単に解雇できる関係です。これは雇用される側から見れば一方的に不利に思えますがそうではありません。解雇されても雇用機会がそれ以上に増えるからです。

前回のブログ記事フリーランスのビジネス戦略で書いたように、終身雇用がなくなった社会では個人はフリーランスとして自分自身の価値を高める努力をするしかありません。

将来、正社員というのは企業の中で特別な機密の保持や濃密なコミュニケーションが必要となる一種の秘密結社のメンバーのような存在になるでしょう。その逆に普通の働き方はフリーランスとして企業と契約関係で仕事を行う形になります。

そのような契約関係には定年などそもそも必要ありません。定年は延長されるのではなく廃止されるべきですし、実質的にはそうなるでしょう。それは働く立場の人間にとって厳しい時代かもしれません。「遅れず、休まず、働かず」と揶揄された気楽なサラリーマン人生ではありません。

しかし、反面それは「社畜」とまで嘲られるほど会社に何もかも依存した人生でもありません。何にもましてほとんどの人にとっては「元気でいる限り働ける」方がやることもない「悠悠自適」の人生より魅力的なのではないでしょうか。

フリーランスのビジネス戦略
前回のブログ記事「社畜なんてひどすぎる」でも触れましたが、「社畜」というのはもはや絶滅危惧種です。企業がリストラという名の首切りを行い、終身雇用は最早存在しません。社畜として一生企業に飼われていくという会社人生は、これからは例外的なものになってしまうでしょう。

かつては特別の能力を持っているか、よほど自分のしたいことにこだわる人が主だった、企業とは独立して仕事をする、「フリーランス」が普通の職業の在り方になりつつあります。例え会社の正社員におさまっていても、終身雇用でなければ転職さらにフリーランスとして働くことを誰もが考えることが必要になりました。

しかし、会社を辞めることについては、「社畜人生とおさらばして自己実現」のようなバラ色の未来像か、その逆にフリーター、派遣社員という「企業社会の底辺に転落」といった悲観論ばかりが目立ちます。

ここではかつては会社で終身雇用の下で安定したサラリーマン人生を送っていたような人が、どのように新しい時代を適応いけばよいか、フリーランスとしての生き方をビジネス戦略の構築するという立場で考えてみます。


顧客視点で考えよう

顧客視点というのはビジネス戦略の基本中の基本です。ドラッカーがいみじくも「事業とは顧客を創造すること」と定義したように、顧客のないビジネスは考えられません。サラリーマンやフリーランスにとっては顧客とは雇ってくれる企業です。そして売っているものは自分のスキルや能力です。

しかし、転職したりフリーランスになることを「自己実現のため」と考えるのは、全くそれとは逆の発想です。「自分はこんなことをしたい」と考えるのは悪いことではありませんが、雇う、つまり購入するかどうかを決めるのは顧客である企業です。まず自分というものを顧客視点で見直すことが必要です。

ビジョンとミッション

ビジネス戦略を立てる時、まず必要なのは企業のビジョンとミッションを明確にすることです。ビジョンとは企業が「将来なりたいと思う姿」を、ミッションとは「企業が果たすべき役割、目的」です。たとえばフォード社のビジョンは「to become the world's leading consumer company for automotive products and services(自動車と関連サービスで世界のリーダーとなること)」です。

「楽しく仕事をして自己実現をはかり、かつ一定以上の収入を得る」というのは個人のビジョンとしては良いかもしれませんが、企業を顧客と考えれば職業としてのビジョンとは言えません。経理のプロを目指すなら「誰よりも正確でタイムリーな財務情報を企業に提供し、戦略的経営実行の支えとなる」といったものが企業から見て意味のあるビジョンです。

ミッションはビジョンを実現するための責務、目標です。グーグルは自分のミッションを「to organize the world's information and to make it universally accessible and useful(全世界の情報をまとめあげ、あらゆる目的に有用でアクセス可能な物とする)」です。人事マンなら「社員の能力が会社に100%活用できるように社員の情報を把握し、戦略的な切り口で整理すること」などはミッションと言えるでしょう。

別の言い方をするとビジョンとは「企業にとって価値がある自分のなるべき将来像」、ミッションとは「ビジョン実現のためにやるべき事、できなければいけない事」となります。ビジョンとミッションの違いは多少明確でないこともありますが、それは大きな問題ではありません。「顧客視点」で自分の理想像を定義することが必要です。

戦略策定

ビジネスの世界での戦略とは目標を達成するための具体的な方策です。ビジョンやミッションができて、どのような職業人になりたいかが決まれば、それを実現する方法が必要です。具体的な方法ですから、何を職業に選ぶかで中身は違ってきます。しかし、戦略は計画を付けて戦略計画とも呼ばれることが多いように、時間軸の中でどのように目標実現に近づいていくかをきちんと定義しておかなければなりません。

時間軸の沿って計画を作る時、ビジネス戦略ではいくつかの段階に分けて、段階ごとに達成する目標を決めます。例えば、

1.会社の仕組みの理解と目標とするコアスキルの明確化:企業の実態を学び、会社業務の基本的流れを理解する。将来核とするスキルを特定し、必要な資格取得などの準備を行う。
2.基本的能力の獲得:資格取得、英語力など基本的能力を身に付ける
3.コアスキルに基づくキャリアの開発:専門スキルを生かした仕事を中心にキャリアの開発を行う。この期間で達成すべき目標はさらにその時点で詳細に決める
4.コアスキルでのエキスパートとしての活躍する。場合により独立してコアスキルを基にした事業を展開する

のように各段階ごとでどのような自分になるか、それに要する時間、費用などを計画します。もちろん人生は思った通りにはなかなかいかないので、戦略がそのまま計画したように実現できるとは限りません。しかし、時間軸で達成目標が細かく設定されていれば、目標が実現できない時、どのような代替策を取るかを具体的に考えることができます。

これが古典的なサラリーマン的会社人生を前提にしているとそうはいきません。40歳で突然肩叩きあい全く茫然自失ということにもなりかねません。

また、各段階で目標が明確なら嫌な上司、安い給与、劣悪な労働環境といった最低の状況でも、目標達成に役に立つならと我慢できる範囲がうんと広がるはずです。少なくとも嫌な上司やひねくれた同僚に少々苛められたくらいで「ここでは自己実現ができない」などという漠然とした理由で会社を辞めることは減るでしょう。

戦略を作る時に大切なのはその実現に必要な能力、資源を自分が持ち合わせているかをきちんと認識することです。頭があまり良くない、金がない、などの障害があっても、持てるものでどの程度のことが実現できるかを考えれば、それなりに道は開けるものです。競争相手は多い、市場は縮小傾向、財務状況は悲惨、といった条件があっても、何か策はあるものです。

人生は一度

ビジネス戦略の立て方には色々な手法、道具があります。基本的なものの一つには、自分の強み、弱みを考えるのに外部環境の機会と脅威と組み合わせた四つの象限で進むべき方向を考えるSWOT分析という手法があります。いくつかの選択肢の中でどれに重点を置くかを決めるには事業構造のポートフォリオを分析するPPTという技法があります。

様々な環境変化がどのような影響を与えるかその対策はどうするかを考える場合に役立つ、シナリオプランニングと呼ばれるシミュレーションテクニックがあります。シナリオプランニングを使うと、公認会計士が増加すると経理マンの仕事にどのような影響があるかといった問題を、きわめて具体的に検討することができます。

コンサルタントとして企業のビジネス戦略を作ってきた経験から言うと、「自己実現のために転職を」というのは「多角化で利益増大」などと比べてもずい分粗雑なものです。なにより最初に触れたようjに顧客視点を全く欠いていることは致命的です。

人生で失敗はつきものです。しかし、長期の戦略を持てば、失敗に対して正しい対策を立てることができます。長期的な視野を欠いていては、その場限りに感情的な対応に陥りがちです。ただ一度の人生にビジネス戦略の方法を役立てない手はありません。
社畜なんてひどすぎる
社畜。かなり侮蔑を含んだ言葉です。社畜というのは、いわゆるサラリーマン(これもそんなに良いニュアンスがありませんが)を指しますが、社畜つまり会社に飼われている家畜同然の人、とまで言うのはそれなりの理由があります。社畜と看做されるのは、

1. 自分の世界が会社だけで人生の成功も失敗も社内の出世次第
2. 持っている能力は社内で通用するものだけで、他社や一般社会では価値が著しく低い

といった人達です。能力、スキルで評価されるのは社内人脈や会社独特の習慣や仕組みに通じていることで、公認会計士、弁護士といった世間では高い評価を受ける資格も、かえって「浮いた存在」になってしまう可能性があります。

社畜と呼ばれるような人々は会社に高い忠誠心を持ちますが、同時に会社が社会的には認められない行動をしてしまった時も、不正を隠蔽する、あるいはさらなる不正の実行に加担することも厭いません。ここまで来ると、社畜と侮蔑されるのも止む得ないことかもしれません。

しかし、会社というのは利益を追求するための組織です。会社に対し高い忠誠心を求めるのは当然としても、社内でしか通用しないスキルの人間ばかりを大切にし、一般的に通用する高い能力を持った人をもっと雇わないのはなぜなのでしょうか。

この疑問を答える前に、そもそも企業はなぜ組織を作るかを考えてみましょう。会社には営業、製造、人事、経理など種々の部門がありますが、本当はほとんどの機能は社外で得ることができます。実際、最近では合理化のためのアウトソーシングが進んでいて、多くの仕事が社外へと切り出されてきています。

それでも大企業では依然として数千人、数万人という膨大な社員を抱えています。一度雇った社員を解雇するのは日本では容易ではありません。必要となるたびごとに社外の人を使えば良いのではないでしょうか。

ロナルド・コースは1991年のノーベル経済学賞を受賞したイギリス生まれの経済学者です。コースの功績はなぜ企業が存在するかを明らかにしたことです。コースによれば、社外の資源を使う時は契約の締結のための時間や相手が得る利幅などの「取引コスト」が発生し、取引コストが社内に資源を抱えているコストより大きければ社内にその機能を持つインセンティブができるというものです。

コースの理論では企業が組織や社員、さらに建物、設備など様々な資産を持つのは、外部にそれらを依存することで生じる、取引コストを防ごうするためだということになります。

例えば、出版社が自社で印刷工場を持つことは滅多にありません。ところが新聞社は普通印刷工場を持っています。新聞は締め切りをできるだけ引き延ばして最新の記事を載せようとします。当然印刷工場には無理がかかりますが、印刷工場を自社に持たないと、無理な要求を飲むかどうか、一々二社の間の交渉で時間がかかってしまいます。それでは特ダネをせっかくものにしても締め切りに間に合わなくなってしまいます。新聞社にとっては印刷時間の調整という取引コストは非常に高くつくものなのです。

会社間の取引は長い付き合いがあっても基本は契約です。契約以上のことはしてもらえません。長期的な取引関係があればある程度の無理は聞いてもらえることはありますが、どんな企業でも長期的にも赤字の取引を続けるようなことはありません。しかも多くの場合取引は契約書の取り交わしなど相当長時間を必要とします。双方の契約内容に関する理解が違えば訴訟沙汰になることもあります。

同じ企業の組織同士であれば、契約書の締結は必要ない、と言うより意味がありません。原告と被告が同じ裁判などあり得ません。社内ルールがきちんとあれば、それに沿って仕事は動いていきます。しかしそれでも人間同士が完全に同じ理解を持っているとは限りません。社内でも色々な場で争いごとは起きます。

そんな時頼りになるのは社内の人脈に通じていて、会社の仕組みをよく理解している社員です。このような社員は会社に特化した知識、能力を持っているからこそ価値があります。「その会社でしか通用しない」能力こそ企業が大きな組織を効率よく動かすための潤滑剤、あるいは原動力そのもになるのです。

要するに、わざわざ大きな固定費を負担して企業が社内組織を作り人を雇い入れるのは、社畜と嘲られる社内事情、社内ルールにやたら詳しい人間がいるからこそということになります。そうでなければ大概のスキルは社外にあり、しかも社外のスキルの方が安く、優秀で、固定費としてのし掛かってくることもありません。

それではなぜ最近になり、社内事情スペシャリスト達が社畜などと言われることになってしまたのでしょう。大きな理由として企業が社員を終身雇用で長期間雇い続ける価値がなくなってきたことがあります。

世の中の変化が遅かった時代は社内事情、業界事情、顧客の事情は長い間陳腐化しませんでした。しかし、今は変化の速度はずっと速くなっています。変化に対応できなければ会社の存続自身が危うくなります。社内独特の知識といっても同じものが長く通用しなくなってきました。

次に他社との取引コストがITの発達などで低下してきたことがあります。購買も世界中からもっとも条件のよい安価なものを購入することが簡単にできます。製造業では部品を自社で生産するメリットは小さくなってきています。

さらに、その傾向はアウトソーシングの発達により加速しています。企業の得意技、コアコンピーテンスでないものは外部から得ることがますます簡単になってきています。アップルは世界有数の電子機器のメーカーですが、自社ではほとんど何も作っていません。部品から最終製品の組み立てまで全て外部に依存しています。

社内の構造がコアコンピーテンスを中心にシンプルになり、同時に変化が速く過去の知識が通用しないとなると、社内人脈を泳いだり昔からのノウハウだけで生きていくのは難しくなります。社畜として生きていくのは困難な時代になってきているのです。

しかし、企業が依然として巨大な組織を維持していることを考えると、社内事情に精通している、それによって社内での取引コストを最小化できる人材は必要とされていることが判ります。「社外でも通用する能力」と言いますが、本当に社外で通用するスキルしかなければ、スキルを社外から買ってくる方が合理的です。

ただ、終身雇用で一つの会社にずっと留まり、その会社での出世が人生の成功、不成功の全てという生き方はますます難しくなるでしょう。会社が変化すれば、それによって社内ノウハウも変わります。M&Aで組織単位で売買が行われる時代には、それに応じて自分も変わっていかなくてはなりません。

それでも、社内の取引コストを最小化する能力を過小評価してはいけません。企業がただ一人の経営者だけでは運営できないのは、全てを外部資源に依存するのは経済的に非効率だからです。その会社でしか通用しないスキル、能力こそ実は会社が持つ一番大切な資産なのです。社畜なんてひどすぎまます。


河野談話を再検証する
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「河野談話」正確には「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」は、1984年当時の宮沢内閣の官房長官だった河野洋平が、慰安婦問題に対する日本政府の認識と見解を示すために発表したものです。河野談話は日本政府が公式に慰安婦の存在と日本軍の関与を認めたものとされ、その後のアメリカ下院本会議での慰安婦決議案可決にも、日本を批判する有力な根拠となりました。

一方で「河野談話」は慰安婦問題でそれを根拠のない不当なものとする側からは、屈辱的で誤ったものであり、ただちに撤回すべきとする意見が強く出されています。慰安婦問題を糾弾する方も否定する方も「河野談話」が慰安婦問題の存在を認めたものだという点では意見は一致しています。

しかし、「河野談話」を改めて読むと、そのような理解が正しいとは必ずしも言えないことが判ります。今や慰安婦問題の原点と言える「河野談話」を改めて読み直すのは無駄ではありません。以下は「河野談話」の原文です(読みやすいように、段落の間に業を空けています)。

いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。

 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。

 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。

 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。


この文章を読むと日本政府は次のような事実を認めています、

(1)日本軍は慰安所に慰安婦と呼ばれる女性を置いていた
(2)慰安所の設置と管理および慰安婦の移送は軍が直接、間接に自ら行った
(3)慰安婦の募集は軍の要請により業者が行ったが、その際甘言、強要が用いられることがあった
(4)慰安所の生活は強制に基づく悲惨なものだった
(5)慰安婦には朝鮮半島出身の女性が多数いた
(6)朝鮮半島からの慰安婦の募集、管理、移送などは強圧的で本人の意思に反することが多かった

慰安婦とは、軍に付属して兵士に対し売春を行う女性です。軍が管理する軍専用売春婦と定義して良いでしょう。慰安婦の存在は軍隊経験者だけでなく、広く一般に認知されています。慰安婦問題の存在を認めない人達も慰安婦そのものが存在しなかったとすることはほとんどありません。

ところで「河野談話」が「慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていた」と断っているように(下線は筆者)、慰安婦の大半は日本人でした。その慰安婦たちはどのような経緯で慰安婦となり、どのような慰安所での生活を送っていたのでしょうか。

現代ですらソープランドの女性の多くは多額の借金により半ば強制的に働かされています。戦前は「娘を売る」という形で借金のかたや、あるいは金を得るために、女性が売られるのはごく普通でした。このような女性は逃亡されることを防ぐために厳しく監視されているのも当り前のことでした。

慰安所の慰安婦は日本人であろうと朝鮮半島出身者であろうと多くは、金銭的な取引の結果本人の意思に反して慰安所で働くことになったということは想像にかたくありません。あるいは慰安婦になることが「楽して大金を得られる」といった、いわゆる甘言によって勧誘されることも多かったでしょう。

まして慰安所は軍の施設に隣接しています。サイパン島で日本軍が玉砕した時、沢山の女性がバンザイクリフから飛び降り自ら命を断ちましたが、その多くは慰安婦でした。軍とともに行動することは、一般の売春宿と比べても危険で苦痛に満ちたものであったことは間違いありません。

つまり「河野談話」で述べられているのは、慰安所というものが「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」という一般的な事実を述べているのに過ぎません。

そう考えれば「心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」という言葉は朝鮮半島出身の慰安婦だけでなく、慰安婦の大半を占める日本人を含めた全ての慰安婦だった女性に向けられたものだったということになります。

ところがアメリカ下院で決議された慰安婦問題に対する決議(原文)では日本が「占領地から強制的に若い女性を連行し、「性奴隷」にした「20世紀最大の人身売買事件」」を引き起こしたと強く非難しています。決議文では「連行」された慰安婦の数は20万人も達するとされているのですが、実際にはこのような数字に根拠は全くありません。

アメリカの下院議員たちは朝鮮半島の慰安婦問題とはナチがユダヤ人の強制連行を行ったように、数十万にもおよぶ朝鮮女性を日本軍が組織的に自ら連れ去り日本兵への性の奉仕をさせたと思いこみ、「河野談話」を日本政府が自ら罪を認めた動かぬ証拠と考えたのです。

今となっては勝手な解釈をされる「河野談話」など取り下げてしまいたいというのが日本政府の本音でしょう(少なくとも事実を正しく認識している人は)。しかし「河野談話」は何の嘘も間違いもなく、談話自身を取り下げる正当な理由はありません。正すべきは「河野談話」を自分の達に都合の良いように解釈している人達なのです。

とは言っても「河野談話」を書いたのは、事実しか述べずに韓国政府の顔を立て、慰安婦問題に抗議する勢力に一定の姿勢を示すためだったのでしょう。その時は、誤解するのは読む方の勝手で、こちらは預かり知らないことだと言えるとも思ったに違いありません。

しかし、言葉はいったん出ると当人の思いとは別に動き始めるものです。それがどれほどのものかは慰安婦問題を否定する人々が「河野談話のような売国的発言は直ちに日本政府は取り消せ」と言っていることでもわかります。「河野談話」は取り消すべきことなど何も言っていないのです。

かれらもまた文章を自分流に解釈している、あるいは文章そのものを読んでいないに違いありません。政治の言葉は法律や契約とは違い、何を言ったかより、どのように解釈されるかの方が大きな力を持ってしまうのです。