ビジネスのための雑学知ったかぶり
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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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現在「ビジネスのための雑学知ったかぶり」は過去記事のリライト含め、ギックス社サイト http://www.gixo.jp/blog/garbage で「隠居の視点」として連載しています。新しい記事はそちらをご参照ください。
 
隣のミュータント
ミュータント(mutant)とは突然変異という意味ですが、SFでは突然変異により現れる新しい人類-新人類、超人類-を指すことが多いと思います。SF小説では新人類が超能力を発揮して人類と対決したり、人類を助けたりします。超能力を持つことをミュータントの定義にしている場合さえあります。

しかし、実際に現生人類から新しい人類種が生まれても、超能力を持つことは考えにくいでしょう、瞬間移動、時間遡行、などは物理学的に不可能ですし、新幹線より速く走ることもできないでしょう。新人類とは言っても所詮現生人類の隣に位置する一生物種に過ぎません。X線を視覚することができるようになり、透視ができるような種ができるとも考えにくいと思います。

むしろ新人類は新しい人類種がいつもそうであったように、それまでの人類種より高い知能を持っているだろうと考える方が自然でしょう。進化には恐竜がどんどん巨大化したり、トナカイの角が生活に不便なほど大きくなるように、一つの形質が強まっていくことがよくあります。人類種の知能の発達が現生人類で止まってしまうと考える確たる理由はありません。

それではどうして人類種は新種が出るごとに知能を向上させてきたのでしょう。チンパンジーと人類は7百年前にさかのぼれな共通の祖先を持っていました。一方の人類が7百万年の間に脳を肥大させ知能を高めていったのに、チンパンジーはほとんど変化していません。7百万年前の人類の祖先は現在のチンパンジーと非常によく似ていたと推察されます。

7百万年の間に人類がなぜ知能を発達させることができたのでしょう。考えられるのは人類はチンパンジーと枝分けれした早い段階で直立歩行をしていたということです。直立歩行は手を自由にし、道具の発達を促します。より良い道具は生存競争で有利なりますが、そのためにはより発達した脳を持つ必要があります。つまり直立歩行による「環境」の変化が人類の脳の発達を促したのです。

進化は遺伝子が突然変異を繰り返すことで起きますが、突然変異の頻度自体は一定だと考えられます。それが特定の方向への形質の変化を起こすには、形質の変化が生存競争で有利になるような環境の変化が必要です。逆に環境がその生物の生存競争を左右するほど変化しなければ、シーラカンスように何億年もほとんど変化しないこともあります。

チンパンジーの世界の環境はチンパンジーに大きな進化をさせるほど変化しなかったのに、人類は直立歩行で道具を使うようになることで自分自身の生存競争のルールを急激に変えてしまったのです。

とは言っても、発達した道具を持つことがそれほど生存競争で決定的に有利になるものでしょうか。チンパンジーと現生人類の脳は4倍もの違いがありますが、人類はその歴史の大部分で道具と呼べるものは石器だけでした。自動小銃でも作れば別でしょうが、石器の洗練度合のわずかな違いが進化で必要な生存競争の有利さにつながるかは疑問です。

一方大きな脳を維持するのは高いコストがかかります。脳は人間のエネルギーの20%を消費するほどの大飯ぐらいです。しかも大きな脳は難産をもたらします。出産の苦しみを人間の女性ほど味会う哺乳類はいません。しかも、それほどの苦しみを経て出産しても人間の赤ん坊はいわば未熟児です。脳が一人前に成長するのは長い時間がかかり、赤ん坊の面倒は大きな負担です。

それほどのコストをかけても脳を大きくするのは、道具の洗練度だけではないメリットがあります。それは大きな脳を持つほど大きな集団を持つことができるということです。イギリスの人類学者、ロビン・ダンバーは霊長類の脳の大きさと集団の規模には密接な比例関係があることを見つけ、霊長類が作ることができる集団の大きさをダンバー数と名付けました。

ダンバーはより大きな集団を作るためにはコミュニケーションの能力が向上する必要があり、それは大脳皮質の大きさによると考えたのです。集団の大きさは他の集団への競争力につながることは間違いありません。恐らく、人類は脳が大きくなり、つまり知能が向上することで、道具を進歩させただけでなく、コミュニケーション能力を高めて強力な集団を作ることでより有利な生存競争を戦うことができるようになったのでしょう。

それではこれから、さらに知能が高度に発達した人類が生まれてくる可能性はあるでしょうか。その前に進化というものはドーキンスが「利己的な遺伝子」で述べたように、遺伝子同士の戦いでより沢山の自分のコピーを遺伝子が残すことで達成されるということを思い出す必要があります。

つまり、現生人類がネアンデルタール人を滅ぼしたように(ネアンデルタール人の消滅理由には諸説があり、現生人類との戦いに敗れたからだとは必ずしも断定できませんが、新しい人類がそれ以前の人類より高い競争力を持つことは一般的には事実です)新人類が現生人類を滅ぼしてしまうのでしょうか。これはあまり楽しい想像ではありません。

しかし、これは突然変異で生まれた新人類が超能力で現生人類を絶滅に追い込むといったSF的な空想です。実際には知能を決定づけるのは一個の遺伝子ではありません。背の高さを決定に関与する遺伝子だけでもいくつもあることが判っています。知能のような複雑な形質はより多くの遺伝子が関与していることは確実です。少なくともある日突然新人類が誕生すると考えるのは単純すぎます。

恐らく過去の新人類の誕生は何十万年もかけて徐々に特定のグループが形成され、遺伝的な距離が他の人類種と十分に離れれ生まれてきたと考えられます。現生人類が誕生して20万年という時間はそれほど長いものではありません。しかも知能が高いからといって、より沢山の遺伝子を残せるとは限りません。むしろ高学歴の世帯の方が子供の数が少なくなる(高学歴がより高い知能とは限りませんが)傾向すらあります。

ただ、これは突然変異と生存競争だけが進化を決定づけるという考え方に基づいています。単純な生存競争以外にも進化に作り出す方法があります。それは人間による品種改良です。例えば犬は数百年という短い間に、とても同一種とは思えないほど大きな外観のバリエーションができました。これは人間によるブリーディングの結果に他なりません。

人間による品種改良は、まさに「人間という環境」が自然界ではあり得ない速度の進化を起こすことによります。突然変異の頻度は意外なほど高いのですが、それがより多くの子孫を残すことにならなければ自然界では進化につながりません。しかし、人間は特定の形質を求めて、わずかな変化を抽出してその形質を代を追うごとに強めていきます。

同じようなことが人類に起きるでしょうか。ここでは優生学のような忌まわしい思想のことを言ってはいません。人類が自発的に高い知能をグループとして作り出すようなことをすることはないかを考えてみようということです。

グレゴリー・コクランとヘンリー・ハーペンディングは「一万年の進化爆発」という本で、中世に金貸しなどの特定の頭脳労働にユダヤ人の職業が押し込められたことにより、ユダヤ人の平均的なIQが高くなったのではないかという説を展開しました(参照)。

現代では少なくとも先進国では職業選択の自由は保障されています。しかし、夫婦間のIQの相関は非常に高く、その相関は兄弟よりさらに強いと言われています。実際、恋人や夫婦関係を維持するためにはIQ(ここでは知能はIQそのものだと仮定しています)が近い必要があるのは事実でしょう。話題や興味はIQの高低で違っているのは事実でしょう。読む本の内容、物事の理解の方法、教育方針などはIQの違いにより異なってくるのは普通です。

グループを作るのもIQが近い方が有利です。現代の科学は巨大化していて、科学的成果をあげるためには、科学者はグループリーダとしての統率力やコミュニケーション能力がなければいけないと言われています。ノーベル賞を受賞するためにはIQ140程度が最適値という説まであります。

これはグループを作るためにはIQで20以上違わない方が良いという考えに基づいています。IQが140程度であればIQ120から160という「秀才」たちを束ねることは可能ですが、IQが180もあると風変わりな天才たちのグループリーダーにしかなれないというわけです。

IQの近い者同士でグループさらに恋人、夫婦を作るということが何世代か続けば、そのグループの高い知能という形質は段々強まっていくと考えるのは無理な推定ではないでしょう。IQの中央値が120から140さらに180、200と高くなっていくかもしれません。

非常に高い知能を持つ集団は想像を超える成果を上げることができます。第2次大戦中マンハッタン計画はたった3年で原子炉さえ存在しない段階から原爆を開発し実戦で使用させたのです。マンハッタン計画は後にノーベル賞を受賞した天才物理学者が何人も参加していました。その多くは共同作業の苦手な変わり者でした。しかし、かれらは力を合わせて非常に短時間で原爆を作り出したのです。

例えばIQの中央値が200(実際のIQはこんな高いレベルの知能を正しく測定はできませんし、知能の明確な定義もありません。ここでは高い知能を表すために便宜的にIQという言葉を使っています)を超えるような集団は、とてつもない成果を上げる一方で、一般人とは隔絶したコミュニケーションを行うことは容易に想像できます。一般の人たちはとても「付いていけない」のです。

このような天才集団を支援するツールが現れました。それはインターネットでありSNSです。インターネットはそれ以前とは比較にならないほど大量で高密度の情報交換を可能にします。地理的な制約もありません。世界中の高知能の持ち主たちをグループとしてまとめていくことも可能なのです。

インターネットの基本技術を生んだのはアメリカの軍の研究機関DARPA(当初インターネットはDARPAネットと呼ばれた)ですが、ブラウザーを作り、インターネットによる世界連携(というより知識連携)を生み出したのはヨーロッパにある国際研究機関CERNです。

今、インターネットの中で無数のコミュニケーショングループが生まれています。その中には超高度な知能集団もあるでしょう。かれらは普通の人には理解困難なハイレベルな会話を日々交わしているかもしれません。そしてそれがリアルな恋人関係、夫婦関係につながっていけば、新人類誕生の苗床になっても不思議はありません。

新人類は「かなり頭が良い」という特徴はあっても、一般人と大きな違いはありません。狼と犬が種が実際は交配が可能なように、DNAセットが子を作れないほど違うということはないでしょう。しかし、そのグループが独自の哲学、価値観そして独自の発明品で一般人とは異なる社会を作っていくこともあり得ないことではありません。

それはバラ色の未来なのでしょうか、それとも一般人類が抑圧されていくという暗黒の世界なのでしょうか。私もそのような高知能の集団が何を考えるかは想像ができません。何しろ「新人類」なのですから。

靖国参拝を考える
昨年末、12月26日に安倍首相が靖国神社を参拝したことは、大きな波紋を生みました。中国、韓国がいつものように日本に対し強い非難の意を表したのはいつも通りですが、今回はアメリカ政府も「失望」-disappoint –したと伝えてきたのです。

その後、参拝への批判はEU諸国にも広がりました。同じ枢軸側として日本と戦ったドイツのメルケル首相のスポークスマンは「この件にはコメントしない」と断りながら「一般論として、全ての国は20世紀に起きた惨事に真摯に向きあうべきだ」と暗に靖国参拝が日本が過去の責任を正しく認識していない、と受け取れるメッセージを出しました(参照)。

これに対し、日本では必ずしも強い非難は安倍首相に向けられることはありませんでした。「歴史認識」を巡って中韓が日本非難を繰り返すのはいつものことですし、安倍首相の言うように「戦争で祖国のために戦い命を失った方に尊崇の念を表す」のは当然と考える人も多かったからです。そのためもあってか、明けて新年の初詣に靖国神社を訪れた人は記録的な数に達しました。

大半の日本人は、今日本が軍国主義にまっしぐらに進んでいて、靖国参拝を国民を戦争に駆り出そうという安倍首相の思惑が形になったものだ、とは考えないでしょう。少なくとも第2次大戦前、中国で戦線を拡大し、石油の確保を巡ってアメリカと乾坤一擲の戦いを挑もうという状況とはまったくかけ離れていると思っているはずです。

靖国参拝は祖先の霊に祈りを捧げるという点で、広島や長崎の原爆記念日の慰霊と基本は同じ、と多くの日本人は感じているし、それを「軍国主義を推進」「歴史認識を欠く」と言われては反省より腹立たしさが先に立つのはやむ得ないことです。

しかし、アメリカが「東アジアの緊張を高める」と言った裏に、中韓と共通の「A級戦犯を祀っている」靖国神社に日本の首相が赴くことへの不満があることは見逃せません。アメリカは尖閣列島への中国の軍事力を背景にした圧力にははっきりとした非難の姿勢を取っていますし、韓国の慰安婦問題の解決に日本が取り組まないことを政府レベルで不満を漏らしたりはしていません。つまり、靖国参拝が東アジアに緊張もたらす理由が、A級戦犯を合祀している靖国神社を参拝したこと自身が問題なのです。

ではA級戦犯とは何なのでしょうか。戦犯にはA級の他にB級、C級があります。B級、C級戦犯として処刑された日本人は千名を超えるとされています。これに対しA級戦犯として処刑されたのは7名。南京事件の時の首相だった広田弘毅を除けば、東条英機を始めとした軍人です。どちらも戦争犯罪を問われていますが、A級は指導層、B、C級より下級の兵に対してのものになります。

戦犯を裁いた裁判所は日本国内だけでなく、シンガポール、上海など各地で行われましたが、極東裁判とか東京裁判と一般的に言われるように、A級戦犯はすべて東京の極東軍事裁判所で裁判が行われています。

俗に極東裁判史観と非難する人たちがいるように、戦犯は戦勝国側が敗戦国側を裁いたものです。戦勝国側に捕虜の虐殺のような犯罪行為が皆無であるはずはないでしょうし、戦争の原因が一方的に日本側にあることはありえません。

しかし、戦後の世界の秩序は悪の枢軸国を善の連合国側は打ち破って世界に恒久的な平和がもたらせられたという建前にたって作られました。連合国の組織を基にした国連(英語ではどちらもUninted Nationsです)は世界の平和を守る元はと言えば軍事組織です。その中枢の安全保障理事会で認めた戦争以外、加盟国は勝手に戦争ができません。

安全保障理事会では5つの常任理事国には拒否権を与えられていますが、これは国連が5大国の意向に反した軍事行動はできないということです。日本のGDPはかつてアメリカの7割、世界の15%を占めたこともありましたが、常任理事国になりたいと願いは叶いませんでした。敗戦国側であるというのは依然軽いことではないということでしょう。

戦後の大部分が冷戦の時代であったことでもわかるように、安全保障理事会の常任理事国同士でいつも利害が一致するわけではありません。現在は、米中が世界の二大国として対立しているのもご承知の通りです。しかし、戦後一貫して戦勝国が第2次世界大戦は正義の戦いで善が悪を打ち破ったという建前を否定したことはありませんし、これからもないでしょう。

それを考えると日本の首相がA級戦犯を合祀してある靖国神社を参拝したことを戦勝国側が認めるわけにはいきません。非難がなかったとしても、それは単に黙認しているだけと感がるべきです。その秩序に従うことを「反省」の証にしているドイツが日本を参拝の件で弁護してくれることもありません。

こう言うと、戦後もう70年もたった、小泉首相の参拝にアメリカは反対しなかった、死者は生前の罪は関係なく弔うのが日本文化だ、戦勝国が勝手に裁いた極東裁判は無効だ、といった反論が出てきます。もっと感情的に中韓に日本の中の話にとやかく言われる筋合いはない、と思う人も多いでしょう。

しかし、小泉首相の時代はブッシュ政権との結びつきが強く、中国がアジア全体への脅威もずっと小さいものでした。確かに、欧米から見れば靖国参拝自体は大きな問題でありません。それでも問題が表面化してくれば「戦犯を正当化することなど許されない。東アジアの安定を損なってもわざわざするようなことなのか。」という建前が前面に出てきます。

問題とされているのが、A級戦犯へ参拝していることなのですから、「祖国のために亡くなった方への尊崇の念」と言うと、A級戦犯に敬意を表している、さらに戦後の秩序を認めていない、ということに解釈されるのはある意味仕方ありません。

自国のために尽くした人に敬意を表するのは当たり前で、まして他国からとやかく言われることはない、という理屈もあるでしょう。しかし、70年前でも裁判結果を受け入れたというのは、言ってみれば国際公約、あるいは日本の形を決めたものです。敗者にとっては、それしか道がなかったとしても、国際的にはまだ生きている約束事で「終わったことで今はどうでもよい」というのは日本国内だけに通用する論理です。

日本の首相が靖国参拝をするのは、このような戦勝国に戦犯というより戦争の責任は自国にあるという建前を覆そうということです。「それこそが必要なのだ」と考える人も多いでしょう。しかし、それは戦勝国へのあからさまな挑戦になるということは正しく認識すべきでしょう。

これは決して卑屈になることでも、まして自虐史観でもありません、現在の世界の枠組みが戦勝国側が正義だったという建前の上に成り立っているという事実を認め、そこに出発点を持たなければいけないということです。そして、それが出発点である以上、日本という国がどこに行こうとしているかを改めて示す必要があるということです。

知る権利を使わない特定秘密保護法反対者
特定秘密保護法が今月(2013年12月)に成立しました。これによって日本の安全保障に特に必要とされたものは「特定秘密」とされ、漏洩、取得は厳しく罰せられることになります。従来も公務員の秘密漏洩は罰則の対象でしたが、特定秘密保護法では取得も罰則の対象になります。

取得者が罰せられるということでは今までも日米同盟に関わる特別防衛秘密は取得者も罰せられましたが、今回特定秘密保護法では日米同盟に関係するものだけでなく、より広く安全保障に関わる秘密が保護されます。

しかし、特定秘密保護法はマスコミを中心として強い反対がありました。知る権利が侵される、政府が秘密を拡大解釈して都合の悪い情報を隠す、さらに戦前の治安維持法のように日本を言論の自由のない暗黒時代に引き戻すといった意見もありました。

政府は強大な権力を持っています。法を作るのは国会ですが、実際に法を運用するのは行政府で、どのような法律も政府が都合よく利用する可能性は否定できません。まして、情報公開や知る権利と衝突する危険がある法律を慎重に検討すべきというのは間違いありません。

しかし、政府が持っている情報を全て公開すべきだというのは、明らかに間違いです。例えば、警察の持ってる被害者、加害者の詳細な情報を全て公開すべきだという人はいないでしょう。犯罪に関係しなくても税金そのた個人についての情報については行政機関の強い秘密保護が求められます。

安全保障の情報もそうです。自衛隊について配備、武器その他全ての情報が公開されてしまえば、防衛上非常に不利になるのは疑いありません。外交で相手国にいる情報提供者が誰かという情報もそうです。そのような情報が洩れれば協力者は命を失う場合もあるでしょう。

特定秘密保護法が対象としているのはスパイやテロリストなどが狙うような国の安全保障に関係した重要な情報です。単純に「スパイ防止法」と呼んでも構わないでしょう。ところが、特定秘密保護法がスパイ防止のため、とは法案を提出した政府もはっきりとは言いません。混乱、反対を引き起こした大きな原因はそこにあると思います。

政府が、スパイを防ぐための法律、と特定秘密法案を解説しなかったのには、スパイ防止が戦争準備のように受け止められかえって強い反対を招くことを恐れたためなのかもしれません。しかし、日本はよく言われるようにスパイ天国です。その真偽は別としてスパイ行為、つまり情報の取得自体は罰せられない(日米同盟に基づくものを除く)なかったのは事実です。

逆に、特定秘密法が言論の自由、知る権利を封殺しようとしているというのは、政府の拡大解釈を恐れてというより、法律の趣旨を全く捻じ曲げてしまっているとしか言いようがありません。確かに、政府は法を都合よく利用することはあります。しかし、それがスパイから重要な情報を守る必要がないということにはならないはずです。

特定秘密保護法がスパイから情報を守ると考えると、秘匿される情報自身が裁判で公開されることがないのも仕方のないことだと納得できるでしょう。相手国に送り込んだスパイの名簿をたとえ裁判官にも明かせないのは当然です。秘密に触れることができるのはフィルターをかけられた一部の人に限定しなければ、秘密は保てもせん。

特定秘密保護法が施行され、将来それによる逮捕者が出た場合を想像してみましょう。例えば安全保障に関係ない原発関連の情報を拡大解釈で特定秘密保護法違反で摘発すれば世論の反発は大変なものになるでしょう。

批判の多い破防法はオウムのような殺人、破壊集団(少なくとも一時期は完全にそうなっていた)に対してさえ適用できませんでした。特定秘密保護法も本物のスパイが本物の安全保障に関係する情報を盗み出そうとした時だけに使われることは間違いないと思います。

むしろ、問題はスパイから国の安全を守るための法律を作ろう、という話が、知る権利、言論の自由を封殺する(誇張としてはかなりのものです)、という話に転化して、テレビ報道でもその必要性については「国の秘密を守る」という漠然としてしか解説されなかったことです。

ノーベル賞受賞者や多数の文化人が法案反対の署名活動までしたのですが、法案全文はともかく法案の趣旨を少しでも理解していた人は非常に少なかったのではないでしょうか。特定秘密保護法の法案自体はもちろん公開され誰でも見ることができます。また、他の先進諸国で同様の法律があることも簡単に知ることができます。

知る権利を求める人たちがその権利を行使もせずに法案に闇雲に反対する。こんな国民をプロパガンダやアジで操るのは簡単なことなのかもしれません。特定秘密保護法をめぐる騒ぎで明らかになったのは知る権利がなくなることの危険より、それを使おうともしない国民の危険ではないでしょうか。

電動自転車はEVの未来?
最後にトヨタクラウンのブログを書いてしばらくブログを休んでいましたが、まらクラウンの話題から。先日、新型クラウンのHVの比率が5割を超えたという報道がありました。

同じ記事では、トヨタは「今後、3年間で19モデルのHVを販売予定」と述べられています。既にトヨタ、と言うより全国産メーカーを通して、日本で一番と二番目に売れている乗用車はアクアとプリウスというHV専用車です。トヨタの戦略はむしろ今の流れを踏襲したものと考えるべきでしょう。

しかし、HVにそこまで注力しているのは世界的にはトヨタくらいです。そもそもHVが広く普及しているのは日本独特の現象で、ドイツ車などはHVは高級車の一つの毛色の変わったバリエーションに過ぎません。ドイツ車以外でHVをラインナップに並べているのは韓国車が多少目立つ程度です。

これにはHVが技術的に高度で、トヨタやホンダ以外は独自技術でHVを開発するのは困難ということがありますが、ガソリンエンジンやディーゼルエンジンの効率化でかなり燃費が向上させられるということもあります。

ドイツはターボ化などで排気量あたり従来の5割あるいはそれ以上の馬力を出すエンジンを開発してきています。排気量が小さければ高馬力を必要としない時には燃費を低く抑えられるメリットがあります。高出力の小型ガソリンエンジンとアイドリングストップ機能などを組み合わせることでHVには及ばないまでも燃費を相当向上させることができます。

また、ヨーロッパは昔からディーゼルエンジンが乗用車用に広く受け入れられていますが、ディーゼル車の燃費は元々ガソリンエンジンの5割以上高くなっています。

HVはガソリンエンジンと電気モーターを組み合わせ。できるだけ電気モーターで駆動しようという車です。ガソリンエンジンは回転数によって効率が大きく変化します。効率の良い回転でガソリンエンジンを使用し、余った動力を蓄電池に蓄えて、ガソリンエンジンより効率のより電気モーターを主に使用するのがHVの考え方です。

HVは電気モーターとガソリンエンジンを組み合わせるために複雑な技術が必要となりますし、複数の動力源があるためコストはどうしても高くなります。またガソリン車と比べてトランクルームの容量などスペース効率の面でも不利になりがちです。

それでもHVが日本で人気があるのは燃費が良い、さらに燃費が良いということで「エコ」に貢献しているという良いイメージがあるからでしょう。複雑な仕組みや電力の供給、貯蔵、使用が確認できるという未来的な運転席も魅力かもしれません。

しかし、燃費はそれほど大切なものでしょうか。と言うと怒られそうですが、少なくとも一般ユーザーにとって燃費が良いことは必ずしも大きな経済的利点ではありません。

仮にガソリン車の燃費がリッター10キロ、HVが(少しおまけして)リッター20キロだとしましょう。平均的な日本のユーザーは年に5千キロ程度しか走りません。ガソリン代をリッター150円で計算するとガソリン車で7万5千円です。HVに替えて節約できる金額はその半分、4万円にもなりません。

HV車は普通同等のガソリン自動車より高く(より複雑で部品点数が多く、高価な電池が必要なためです)燃費だけではHV車は金勘定の上では魅力的ではありません。また、高速で比較的速度が安定している郊外ではHVとガソリン車の燃費の差はさらに小さくなります。

それでもHV車に注力する戦略はその先に電気自動車-EVの時代が来るからだと言う理由もあるかもしれません。確かにHVで使用される回生ブレーキや制御装置そして高性能電池はEVの技術基盤として必要な物です。

一方で、HVは良くも悪くも現在の車の技術を発展させたものです。HVの前提はガソリン車と同等以上の動力性能と走行距離です。ガソリンエンジンとモーターそれと電池を持つHVはある程度以上の大きさが必要で、通常のガソリン自動車と全く違う形状にはならないでしょう。

それでは、将来のEVはHVそして現在の車の延長線上にあるのでしょうか。もちろん将来も時速100キロ以上で500キロも連続して走行できる車の需要はあるでしょう。発達した高速道路網を利用するにはそのような車が求められます。「まだEVの実用化されていない」と言うのは、そのような性能要件を満たすEVができない、あるいはできても極端に高価になってしまうからです。

しかし、EVはHVのようにはガソリン自動車の形状に縛られることはありません。むしろ動力源の特徴を活かすためには、より小型で速度や走行距離がそれほど求められない使い方が向いています。

例えばセグウエイはどうでしょう。一人乗りで自由に動き回るセグウエイにガソリン車の性能を求める人はいません。限られた空間の中ではむしろセグウエイのような形こそEVに相応しいかもしれません。

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セグウエイは一人乗りのEV

セグウエイは日本の法律では一般の道路を走れないのですが、電動自転車は都市の中の自由に走れます。法的な規制が緩まれば、電気を「アシスト」的な存在から電気だけで走らせることも難しくはありません。多額の補助金を付けてもひどく高価になるEVではなく、電動自転車こそEVの未来を示しているのではないでしょうか。

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電動自転車は「実用的」なEV

逆に従来型の車は化石燃料を燃やす方式が当分主流のままだと思われます。その中でHVがどの程度の役割を果たすかは未知数です。電気モーター、ガソリンエンジンそして電池という重荷を背負い、技術的にも複雑なHVがそのまますんなり主流になるとは思えません。

逆に減速時に充電を行う回生ブレーキやアイドリングストップなどHVの個別技術をガソリン車が採用してきていると言う事実もあります。もしかすると全てのガソリン車が燃費向上の補助のためにHV化していくことも考えられます。それこそがトヨタの思惑なのでしょう。一つの賭けではありますが。
トヨタがクラウンを止める時
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ピンクに塗られた14代目クラウン

トヨタ自動車は昨年12月、14代目となるクラウンを発表しました。発表で目を引いたのは堅苦しくフォーマルな印象のあるクラウンをピンクに塗って派手でカジュアルなイメージを前面に出してきたことです。

しかし、デザイン自身は王冠を表したという、いかついラジエータグリルが目立つくらいで、大きな変化はありませんでした。クラウンは法人需要が中心でユーザも保守的な人が多いためデザインで冒険することはできない、とトヨタは考えたのでしょう。

2000年以降クラウンの年間販売台数は3-4万台です。新型が出た年は増えますが10万台には届きません。クラウンがもっとも売れたのは1991年ですが、この年の販売台数は20万台を超えました。以後販売台数の低下傾向に歯止めはかかっていません。

なぜなのでしょうか。クラウンの価格は一台4-5百万円程度ですが、この価格帯の車を買う個人客はあまり想像がつきません。家族が多ければミニバンやSUVを買うでしょうし、リタイアして夫婦二人の車好きならBMWの3シリーズなどの外車を選ぶ傾向が強いと思います。

結局、今やクラウンの需要は法人やタクシーが中心で、クラウンが最初に販売された頃とさして変わらなくなっています。その頃の富裕層でクラウンを買っていたような人達はベンツやアウディーに流れているのでしょう。

それにしてもクラウンというのは、そんなにダメな車なのでしょうか。そうではないでしょう。クラウンはセンチュリーを除けば非レクサス系列の最高級車です。技術的には最新の機能を満載していますし、車の出来自身は決して悪くはありません。

これは個人的な趣味の問題なのかもしれませんが、クラウンが良くないのは、レクサスという高級ブランドに対する実用車、大衆車のブランドであるトヨタの車なのに、妙に高級感を演出しようとしていることです。

まず、名前のクラウンがよくありません。車種名ですがこれではビジネスホテルでラグジュアリースイートと名付けた部屋を売るようなものです。そして王冠をかたどったバッジ。昔はロールスロイスの天使像ような突起物の飾りをボンネットに付けた車が多かったのですが、本物の高級車でなければ、むしろ安っぽさを助長してしまいます。

クラウンというのは、外国製品が優れていて、国産品はそれらの安いまがいものだった時代の名残りの製品です。サントリーはスコッチを、資生堂はフランス製の化粧品を真似しながら安く少々劣った品質で売っていた、そんな時代をクラウンは引きずっているのです。これではクラウンを買うのは法人需要しか実質的になかった時代の顧客層と同じなってしまうのは仕方ありません。

クラウンが今まで生き残れたのは、トヨタで最初の乗用車という伝統を守ろうというトヨタの意地があるからに違いありません。トヨタでは「クラウンを止めよう」と言うことなど禁句中の禁句なのではないでしょうか。

しかし、トヨタはクラウンを止めるべきです。法人需要にはレクサス、タクシーにはプリウスがあれば十分でしょう。パーソナルな車を求める個人にはレクサスやSUVがあります。

クラウンが無くなれば、クラウンの開発者、工場だけでなく販売店の影響も大きいことは間違いありません。けれども、雇用や既存の販売チャネルを無理に維持することが最終的には大きな損失を生むことは家電のような他の産業だけでなく、トヨタ以外の自動車メーカーは皆実感していることです。

トヨタにはクラウンを続ける体力はあります。しかし、その体力はクラウンの維持ではなく、他の車種の強化に使うべきです。今トヨタがクラウンを止めれば寂しがる人は多いでしょう。ただ、クラウンが無くなったことを悲しむ人たちの大部分はクラウンの顧客ではありません。それこそがクラウンの問題なのです。

民主党は再建できる
先の総選挙で大敗し政権を失った民主党の未来はとても暗く見えます。日経新聞の世論調査では次の参院選挙に投票したい政党で自民党が41%を獲得したのに対し、民主党はわずかに8%、維新の会の9%にさえおよばず第3位となっています。

このままいけば参院でのネジレは久々に解消され、民主党は完全な野党に転落するのは確実です。場合によっては維新の会などの第三極にも押されて社民党のような限界政党になることも考えられます。

民主党にとって厳しいのは政権獲得後マニュフェストを殆どを反故にし、しかも沖縄の基地問題での鳩山首相(当時)の「最低でも県外」発言に象徴されるような、おいしいことを言ってもまったく実行能力がないと思われていることです。これでは政権党が少々失敗しても「われわれならうまくやれる」という言葉を選挙民に信じさせるのは容易ではありません。

しかし、見方を変えると民主党の未来に何の光もないかと言うとそうでもありません。すぐに自民党政権を覆すのではなく、野党第一党としても地位を確保できれば機会はいずれ巡ってくると考えられるからです。

小選挙区制は今回の総選挙、それに民主党が政権交代を実現した前回の総選挙で明らかなように、第一党が極端に有利になるシステムです。しかし、小選挙区制度は第二党より第三党がさらに厳しくなるシステムです。

小選挙区制で有権者は普通第一党か第二党のどちらかを選択します。第三党あるいはそれ以下になると候補を立てても当選の見込みは殆どありません。これは小選挙区制が続く限り変わりません。

現在民主党に代わって第二党の座に就く可能性があるのは維新の会ですが、維新の会は民主党以上に人材の厚みに乏しい党です。民主党は曲がりなりにも15年の歴史を持ち地方自治体にも基盤があってそれなりの実績も積み重ねています。民主党の欠陥と指摘されているバラバラな理念や経験不足などは維新の会には民主党以上にあてはまります。

民主党がかろうじてであるにせよ第二党の地位の維持できれば、政権交代の機会は必ず巡ってきます。なぜなら自民党は政権を失った原因となった問題を殆ど解決できていないからです。

自民党の国会議員、特に衆議院議員は選挙区の所有者です。結果的に議席は世襲され新しい人材を受け入れる余地は小さいくなっています。必ずしも国政を担う能力のない議員が世襲により選ばれるため、政策は実施だけでなく構築するのも官僚丸投げになりがちです。頼りない若旦那を大番頭、番頭が支える構図と言い換えてもよいでしょう。

頼りにする官僚は規制により天下り先を増やそうとするため、規制緩和はなかなか進みません。長く政権にあったため業界団体とのつながりが深く、税制など政策運営は既存産業に有利になりがちです。

米軍基地、原発など「迷惑施設」の建設の地元への説得を金の力に頼ってきたため、国家として必要な場合は特定の地域に一定の迷惑をかけることを正面切って論じることも避けてきました。全体のパイが大きくならない中、ばら撒きで解決できる問題は少なくなってきています。

これらの問題は自民党の体質に深く根ざしたもので容易には解消しません。民主党政権がもっと長く続いてれば、次第に変わっていく可能性もあったのですが、民主党政権はあまりに短すぎました。自民党の時計が再び逆に回り始める可能性は高いのです。

こうして考えれば民主党が次の機会を捉えるためにどうすれば良いかも明白です。まず、規制重視、ばら撒き重視の自民党に対し、自由化と政府の関与の減少を目指す政策をとるべきです。

もともと民主党はそのような理念を掲げた政党でした。ただのばら撒きに見える高速道路の無料化も、有料化が財政規律を失わせ、道路公団を中心にした利権集団を作ったことを考えれば、意味のないことではありません(詳しくは「奇策ではない高速道路無料化論」)。子供手当も官僚の裁量余地をなくし簡素な所得再配分の仕組みを作るという意味があります。

その民主党が自民党以上の無節操なばら撒き政策に陥ったのは、長年自民党と与野党ととして、言わば同じ穴のむじなだった、社会党出身の議員と支持基盤を抱え込んだためです。悪いことに社会党は無責任に理想論を掲げるという野党の特権を与党になっても続け、民主党はそれに引きずられました。

民主党が目指すべきは国民の痛みを取り除くことでなく、必要な痛みを国民に理解させ、その痛みに耐えながら政策を実行することです。「原発はなくす。後は知らない」ではなく「原発をなくすがそれによる国富の損失は我慢しろ」を国民全部に納得させるか、「国家のために原発を稼働します」ということを地元に説得する、あるいは反対があっても押し切ることです。

経験不足は時間でしか解決できないところはありますが、世襲議員ばかりの自民党に対し官僚や政治家を志す幅広い人材の登用と訓練を積むことで自民党より優れた人材を確保できる可能性は大きいでしょう。与党ほどではありませんが、現実的な政策を掲げれば官僚と使いながら法律作成や予算獲得をする経験もできるはずです。

逆に、してはならないのは、対自民党への野党勢力結集の核になることでしょう。民主党政権が少数の議員しかいない国民新党、社民党を与党に組み込んだことで身動きが取れなくなったように、幅広い理念を集めても良い結果は得られません。民主党はあくまでも自民党のアンチテーゼとして政策理念、議員構成を作っていくべきです。

民主党は正しい方向を選べば必ず再生できます。それは日本にとって好ましいことでしょう。何によらず独占は弊害は生みます。そして「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」のです。

マスコミは実名報道を求めるべきだ
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記者会見の日揮担当者


今回のアルジェリアのプラント建設現場をテロリストが襲った事件では、日本人を含め多数の犠牲者が出ました。日本人の死者は現時点(2013/1/23)で7名ですが、行方不明者もいて、さらに増えることも心配されています。

日本人の犠牲者は全員プラントエンジニアリングで有名は日揮の社員でした。遠い地で過酷な環境の中で仕事を続けてきた同胞が亡くなったことは、本当に残念なことです。亡くなった方々のご冥福を心からお祈りします。

さて、沢山の日本人が亡くなり、全員が日揮の社員、関係者だった、この事件で、日揮は犠牲者の実名の公表を差し控えるとしました。日揮の記者会では、日揮と犠牲者家族が相談して、家族に「実名を公表してストレスやプレッシャーを与えたくない」ということが理由とされています。

これは正しいことなのでしょうか。一般的に言って被害者や被害者家族は事件に巻き込まれたことを報道したくないと考えます。ただでさえ被害に苦しむ中に、世間から好奇の目を浴びせられ、マスコミからはしつこい取材を受けるのは耐え難い苦痛になるからです。

世の中には被害に会ったことを被害者の心がけが悪かったからと非難する人もいます。「沢山補償金が貰えるだろう」と嫌がらせを受けたりすることさえあります。猟奇的な事件の被害者になり、娘が「暴行され全裸で放置された」などと、明らかに劣情に訴える書き方の報道をされる親の気持ちは、察するに余りあります。

それでは、犯罪や事故の被害者は一切発表しないのが方が良いのかと言うとそうとも言えません。被害者が全くの匿名である場合と被害者の名前さらに顔写真が明らかにされる場合では、読者の受け止め方が大きく違うからです。

「7名が死亡」という報道は数でしかありません。ある意味「昨年の日本の自殺者は3万人を超えた」という報道と同じと言っても良いでしょう。これに対し名前と写真が報道され、さらに被害者が「生まれたばかりの子供と妻を残して」といったことも判れば読者の同情心は数字だけを知らされるのと全く違ったものになるはずです。

マスコミが実名を報道し、被害者の顔写真を得るのに懸命になるのは、記事として読者に訴える力が圧倒的に強くなるからです。それは読者の好奇心あるいは時として劣情に媚びているだけかもしれません。しかし、好奇心に訴えるというのは報道の基本でもあります。

進行中の誘拐事件のように報道が危険な事態を招く可能性がない限り、実名などの被害者情報を報道しないことに無原則な例外を設けるべきではありません。「被害者家族にストレスやプレッシャーを与える」というのは事実でしょうが、今までの数多くの事件報道と比べ今回の事件を例外とする特別な理由はあまり見当たりません。

そもそも、犠牲者の家族が本当に報道されることを望んでいないかどうか、犠牲者の家族自身に確かめなければ確認はできません。遺族の中には危険な地で亡くなった夫あるいは父あるいは子の名前を報道という形で残したいいう人もいるかもしれません。

もし、それでは他の報道を望んでいない遺族に迷惑がかかると日揮が判断したとすると、それは余計なお世話というより、報道の自由の侵害を言っても過言ではありません。元々今回の事件はマスコミ各社は取材陣を現地に派遣することは不可能で、日揮あるいは政府の発表に頼らざるえません。交通事故で死亡事故があれば、マスコミは遺族の意向などお構いなく警察発表の通り実名を報道するはずです。

報道の自由は民主主義を守るために非常に重要な権利です。中国で報道の改竄が大きな問題になったように、権力特に独裁権力にとって自由な報道は危険物以外の何物でもありません。日本でも様々な形で権力側は報道の自由を制限しようとするものです。

アルジェリアのテロ事件は犠牲者の実名を報道しない特段の理由は目当たりません。たまたま一企業と政府が情報をコントロールできる立場にあったために、実名報道を抑えることが可能になったのです。報道の自由は好奇心、劣情が読者の根にあったとしても、民主主義を守る砦です。マスコミはもっと深刻に受け止めるべきでしょう。

誰がケーキを分けるのか -被害者支援と国民総背番号
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林真理子さん

旧聞なのですが、作家の林真理子さんがと東日本大震災直後に仙台の避難所を訪問し、7百個のロールケーキを避難所に届けたところ、そこのボランティアのスタッフに「うちの避難所は8百人だから」と突っ返された、という話がありました。

林さんはこの話を週刊文春のエッセーに書いたらしいのですが(「らしい」と書いたのは読んでいないからです)、その避難所での対応を非難したことでネットの世界でちょっとした議論がありました。(例えばこのツイッター記事のまとめ

この論争には猪瀬東京都副知事(当時)も加わって、「公平ディレンマに陥り決定力がないのだ。石巻市に弁当を東京の業者が5000食届けたら、夕飯後であり弁当の賞味期限が翌朝なので受け取りを拒否された件もあった。」といった、ボランティア側の対応に苦言を呈しました。

これに対し、「事前に人数くらい確認するべき」「避難所という限られた空間で食べ物が争うい種になるのを恐れる気持ちが判らない」とか、果ては「恵んでやるという傲慢な気持ちが不愉快」と林さんを糾弾する人まで出てきました。

いかにもネットらしいやり取りですが、少なくとも林さんは悪意ではなく好意でケーキを差し入れようとしたはずです。それを「傲慢」と言って非難するのは感心した態度とは思えません。たとえ傲慢な気持ちからでも寄付する人より、人に施すのは失礼と考えて何もしない人の方が被災者の人に役立つわけではありません。

とは言っても、ボランティアへの非難を林さんのような高名な作家が週刊誌で展開するとなるとこれはこれで波紋を広げるのは止む得ない点があるのは否定できません(重ねてお断りしますが、私自身は林さんのエッセーを呼んでいません)。

大震災などで大量の被災者が出た場合、好意のあるなし以前に、いかに数に対応するかが大きな問題になります。実際のところ、大規模な災害に対応するのは上下関係があり命令系統の確立した組織以外は困難です。

自衛隊や警察、消防はもちろんですが、東日本大震災では救援物資の仕分け、輸送はヤマト運輸、佐川急便のような大手の宅配業者が中心となりました。阪神大震災ではダイエーが中内会長の陣頭指揮で大活躍しましたし、神戸では治安維持も含め山口組が大きな貢献をしました。

8百人も被災者が集まっていれば、8百人分のケーキがあったとしても公平に漏れなく行き渡らせるのはそれほど簡単ではありません。ケーキ(ロールケーキだったらしですが)は生ものですから、保管も困難な避難所で余りがでればゴミの始末だけでもとても一人、二人では無理でしょう。林さんはそのあたりの想像力が欠けていたのは確かです。

その上で、もう少し何とかならなかったのかという疑問は残ります。「ロールケーキなら切り方で7百人分が8百人分にできるだろう」という考えかもあるでしょう(7百人分の生ものの食品をどうやってと切るかという問題は残りますが)。

ケーキを切らなくても、ケーキ引換券を8百枚作り全員に配布し(被災者が全て登録されているPCが必要です)、そのうち7百名が当選するくじを行う。ケーキが必要ない人がいれば、その分を落選者に渡す。7百名あれば、食べない人もいるでしょうからほぼ全員が満足し喜ぶことは間違いありません。

これは予め準備していない限り、命令系統のある組織でなければてきぱきと処理するのは難しいでしょう。どのように配分するか議論するだけで丸一日かかってしまうかもしれません。恐らくこれは急いで駆け付けたボランティアにはとても難し話だったのです。

似たような話なのですが、東日本大震災の被災への義捐金の分配を決めるのに何カ月もかかるというのことがありました。あるラジオ番組では永六輔さんが「とにかく、さっさと配ればいいんだ」という意見を述べていました。確かに、困っている人よそに分配方法を何カ月もかけて決めるというのは、あまりにもスローモーで被災者のことをろくに考えていないと非難されるの止む得ません。

しかし、何億円も義捐金が集まった時、どのように配ったらよいのでしょうか。10億円が集まったとして被災者が20万人いれば、一人5千円づつ配ればよいのでしょうか。これではあまりありがたみもわかないでしょう。

仮に、公平に5千円づつ配るとしてもどのように被災者とそうでない人分けるのでしょうか、二重取りする人、配布に漏れてしまう人は出ないでしょうか。ことはお金です。10億円のお金が誰も不正を働かずに本当に被災者に届くのをどのように確認すればよいのでしょうか。

考え出すと、次から次へと問題が出てきます。そもそも何十万人も相手がいるサービスはコンピューターの助けがなくては不可能です。それでは義捐金配布システムの開発はどうすれば良いのでしょうか。誰がシステム開発費を出すのでしょうか。

こうやって考えると、取りあえず目についた避難所に取りあえず7百個のケーキを届けようとしことを、傲慢とか無知とかいうのは、やはりあんまりだという気がします。好意を届けるのにITシステムの開発まではとてもできません。

一方、林さんの好意を断ったボランティアの人も気が利かないという点はあるにしても、非難はできないでしょう。8百人というのは目の前にすれば恐ろしさを感じさせるのに十分な数です。手一杯の状況でシステムも組織もないボランティアの人が断らざる得なかった気持ちも理解できます。

飛躍するようですが、解決策はこのような事態に対応できるような共通システムをクラウドのような共通利用できる形で準備しておくことでしょう。この時、本当は国民各自にID、つまり悪名高い国民総背番号がついていれば、運用はずっと簡単になるでしょう。

もちろん、国民総背番号制は議論の多い問題です。しかし、大規模な災害が起きた時、効率的に援助の手が差し伸べられたり、行方不明者の数をできるだけ正しく把握するのに国民各自がIDを持っていることはとても有用です。林さんのような好意を無にしないためにも、もっと考えても良いのはないかと思います。

参照: IT屋の見る国民総背番号制度
就職人気を活かせない日本企業の黄昏
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就職活動が今月から解禁になりました。この解禁という意味は2014年卒業予定。四年制大学の三年生に対してのものです。就職が決まるまで長く苦しい時間が始まります。

時期を決めて一斉に就職活動(正確に言えば企業の採用活動なのですが)を開始し卒業時に新卒を一括採用するというやり方には昔から強い批判がありました。

勉学が本分である大学生がほとんどの時間を就職活動に費やすのは本末転倒だ。三年途中までの成績しか出ていないのに、採用を決めるのはおかしい。こういった批判があるため、採用活動をあまり早く開始することに縛りをかけ、それが「解禁」されるのが三年生の12月1日からと言う訳です。

数々の批判があるのに新卒一括採用を含めた日本の大卒に対する採用活動が現在のようになっているのは、日本の企業の体質、文化それと日本の大学の現状にそれがマッチしているからと考えるべきでしょう。「批判は理解できるが、これがベスト:ということなのかもしれません。

就職活動はネット経由で簡単に求職書類を作成、送付できるようになってから、より学生にとって負担のかかるものとなりました。何十社、人によっては百社を超える求職をするとなると面接だけでも大変です(もちろん面接にたどり着ければですが)。

採用する側にとっても、一人当たりの求職数が増えれば採用募集の学生が増えることになります。人気企業では百人の採用枠に百倍の一万人も学生が押し寄せられます。書類選考だけでも大変な手間がかかることになります。

結果として、多くの企業では特定の大学に採用を絞るようになってきています。昔も「指定校」と呼んでそれ以外の大学の学生は特別の縁故でもない限り就職試験を受ける事さえできなかったのですが、実質的には同じようなことが行われているわけです。

しかし、求人企業と求職学生両方に大きな負担をかけて、企業はどんな学生を採用しようとしているのでしょうか。結局、地頭が良く、明るくコミュニケーション能力が高く、意欲的に仕事に取り組んでいく、というタイプに落ち着くことが多いのではないでしょうか。これは企業ごとにそれほど違わないはずです。

採用基準が企業により大きく違わないのは、内定をもらう学生は何社何社でも内定をもらえるのに、何十社を受けても採用してもらえない学生がいることでも判ります。個性を大切にしたいとは言っても、選ばれる学生は皆よく似ているというのが実情でしょう。

新卒一括採用を基本にする日本の企業では、仕事の実績やキャリアで応募者の選別はできないので、企業文化に染まり易く、学力より持って生まれた頭の良さを持つ学生が好まれるのです。

これは必ずしも間違ったことではありません。日本の企業で成功する人は概ね採用基準に沿うような人達です。しかし、これからの日本企業は今のような採用基準で良いかは疑問です。

グーグルやアップルのような企業は採用試験もユニークであることで知られています。面接は差し障りのない「当社の志望理由は」などというものではなく、「目の不自由な人の使うコンピュータを設計する方法は」とか「富士山を動かすのに何日かかるか」といった日常生活とはかけ離れた突飛な問題が出されます。

グーグルやアップルがそのような設問をするのは、学校の成績や当り障りのない面接からは判らない、知力、能力を見つけようとしているからに他なりません。それはもちろん、そのような人がいなくてはならない物を作っているからです。

百倍も倍率があり何千、何万人もの人が応募すれば、その中には特異な能力を持った人は何人もいるでしょう。しかし、どのような人を求めるか、どのような仕事をしてもらいたいかがはっきりしていなくては、どんな特異な能力の持ち主でも選びようがありません。

家電業界を始め日本企業は今大きな困難に直面しています。日本企業はコスト競争では中国企業にかなわず、品質競争で韓国企業に追い付かれ、独創的な製品ではアメリカ企業の真似はできません。これからの日本企業が生き残っていくためには、新興国の企業とのコスト競争ではなく、独創性のある製品、サービスを提供していくしかないでしょう。

そんな環境で、地頭が良く、明るくコミュニケーション能力の高い人達ばかりを採用して、高度で独創性豊かな製品を作り出していくことができるでしょうか。疑問と言わざるえません。

例えば、百人の採用枠がある人気企業に百倍の採用倍率があった時、そのうち10人でも他の応募者とは全く違う採用基準で選んでみたらどうでしょうか。そんな採用基準で選ばれた社員は他の社員と共同作業をするのが苦手かもしれません。しかし、似たような社員同士が今までとは全く違うものを生みだすのは、それ以上に難しいことです。

海外企業との競争に苦しむ日本企業に相変わらず沢山の学生が押し寄せ、企業が同じような学生を採用する。そのようなことを続けていては、日本企業がいや日本自身が今の苦境を脱するのは難しいのではないでしょうか。

徴兵制は必要だ
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こう言うと今の日本では非常に強い反発を受けます。「お前は戦争する覚悟はあるのか。お前の子供が死んでもよいのか」という言葉も飛んできます。徴兵されて嬉しい人はあまりいないでしょう。まして戦争に駆り出されるとなるとなおさらです。これは個人の嗜好の問題ではなく、国民の義務の話です。

その前に、私が考えている徴兵制が、成人男子は一人残らず一定年数兵役に就くというものではないということは断っておいた方よいでしょう。私が考えている徴兵制とは、

・日本国民は男女を問わず一定年齢に達すると軍役に就くことを正当な理由なく拒否できない
・軍役に就いた兵士は軍による許可なく軍を辞めることはできない
・交戦中の勝手な戦線離脱は軍による裁判による厳罰を下す

という規定を設定することです。

今の自衛隊は国家公務員です。退職するのは本人の自由意思で緊急時、例えば日本国が攻撃され戦闘の必要がある場合でも「戦争は怖いので自衛官を辞めます」と言っても罪にはなりません。状況により懲戒の対象となり年金をふいにすることくらいはあるかもしれませんが、命を失う危険からは逃れられます。

これは実際に敵と交戦している最中でも同じです。恐怖に駆られて敵前逃亡をしても自衛隊法では最長禁固7年です。軽い罪とは言えないかもしれませんが、多くの国では死刑を含む非常に重大な罪となります。一般的には上官は敵前逃亡をした兵士をその場で銃殺することが認められています。むしろ射殺することで全軍崩壊を防げるのなら、そうしないことの方が罪になります。

考えようによってはこれは大変非人間的で人道に反することに思えますが、戦争という殺し合いをしている中では、一人の勝手な行動が他の兵士の命を危険にさらす可能性がある以上止む得ないことです。

つまり、徴兵制とは言っても、軍役に就くことは職業の自由とは違うし、戦場は普通の職場とは違うということをきちんと決めておくべきだということです。

実際には先進国ではアメリカを含め徴兵による兵員の補給はほとんど行われていません。現代の戦争は兵士の数で単純に勝敗が決まるようなものではなく、兵器体系や専門的技能がはるかに重要になってきているのです。現在の20万人という自衛隊の規模は人数的には寡少とは言えません。

それでも徴兵ではなく志願兵中心になったことで、アメリカの支配層(議員だけでなく中産階級以上の一般市民)が戦争に対し鈍感になってきているという懸念は言われています。今のアメリカでは、一定以上の社会階層の人々は、自分や自分の子供が戦争に駆り出される心配をせずに戦争を決断できるのです。

このような問題は徴兵制どころか、憲法では軍さえない日本ではもちろんあります。「毅然とした態度」で領土問題を強く主張すべべきだと言う人たちが、戦争の恐怖をどこまで実感しているか疑問です。喧嘩は売るが後の始末は自衛隊の皆さまにお願いすれば良いと思っているのではないでしょうか。これでは社会保障は充実すべきだが税金は上げるなと言っているのと同じです。

徴兵制の施行は恐らく憲法改正が必要になるでしょう(確信はありません。もしかする現行憲法で自衛隊が持てるなら可能もしれません)。簡単な話ではないですし、冒頭に買いたいように強い反対運動が起きることは間違いありません。

しかし、自由に退職できたり、交戦中に職場放棄が許される(懲役7年も軽くはないかもしれませんが)のは軍隊として極めて不完全です。そして徴兵制がないことが無責任な対外強硬論やその裏返しの非武装中立論(どうせ自分は戦わないなら弱体な軍でも構わない)につながっているのではないでしょうか。私にはそれが日本の民主主義が未だに未熟な理ことの大きな理由ではないかと思えます。

税理士はもういらない - フラット税制の勧め
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税金の申告は悩みの種

税務署に行くのが好きな人はあまりいないでしょう。特に事業を営んでいると、どこまでが経費として認められるかは悩みの種です。経費と認められず個人への所得と認定されると大変な額の追徴課税をされる可能性もあります。

それに税金の申告のための膨大な手間と経費は無視できません。税制は複雑怪奇でうっかり間違えると大きな損害になりますし、受けられるはずの控除、優遇策の利用を見逃すこともありえます。税金という人間が作った仕組みのために税務の専門家が多数必要なのです。

税金が難しくなるのは税金の種類により税率が大きく違うからです。経費になるか利益になるかは税金を払う方も取り立てる方、双方にとって大きな違いがあります。また、オーナー企業では個人の所得が法人の所得かで税率に差があります。個人所得は累進課税なのでますます複雑になります。

このような税金が存在するために必要な作業と悩みを大幅に解消する方法があります。全ての税金の税率を同じにしてしまうのです。ここでいう税金とは法人税、所得税、消費税、利子配当課税のような収入と支出に関係するものです。相続税や固定資産税は含みませんし、国税と地方税の区別はなしに合計で考えることにします。

税率が同じになれば、どこまでが経費かを判断する必要は徴税という観点からはなくなります。現在の税制では、交際費は経費として認定されないと所得と看做され法人税をその分払わなければなりません。個人事業主なら所得とされて累進課税の対象になってしまいます。

全ての税金の税率が例えば20%なると、交際費を経費ではなく所得と認定しなくても20%の消費税が既に支払われています。経費を削減して所得を増やすか、経費を沢山使うかは企業の株主には大きな問題ですが、税務署には同じことになります。

税率が全て同じで優遇税制もなくなってしまえば、優遇税制のために事業を継続する必要もなくなります。優遇税制の存続をめぐるd政管を巻き込んだ陳情合戦も必要なくなります。

所得を誤魔化しても消費税で徴税できるのですから、所得が補足できない場合、極端な場合は犯罪がらみのものであっても一定の税金は確保できます。税は公平にという建前はありますが、税務署が取り易いところから取るというのも事実です。暴力団からの徴税に熱心な税務官は少ないでしょう。

所得税も消費税も20%ということになると低所得者に厳しい逆進性を問題とする人も多いでしょう。しかし、実際には金持ちほど様々なテクニックを遣って納税額を小さくしています。税率が一律になれば、そのような節税のための努力はもういりません。

低所得の人に対しては税率を下げるより子供手当のような支援金の支給の方が望ましいのではないでしょうか。あまり指摘する人はいませんが、子供手当の価値は高所得者ほど小さくなるという逆の意味の逆進性があります。

もともと僅かしか税金を納めていない低所得者層に税率で援助を与えようとしても効果はそれほど大きくありません。扶養者控除で減らされる税額は高所得で高い税率の人ほど大きいのです。

税率が一律で各種の優遇策、控除措置もなくなれば節税のために専門技術を持つ主婦が働くのをためらったり、古い産業を温存する必要もなくなります。税金が歪めている社会の非効率な部分は大幅に軽減できるはずです。

相続税はどうでしょう。確かに相続税は相続する当人にとって大きな所得かもしれませんが、実態は資産の持ち主が変わっただけです。法人は生物学的な寿命はないので相続税というものは元々ありません。自然人として寿命があることで突然資産に巨額の税が課せられることは法人と比べて考えると妥当とは思えません。

相続税がなくなると金持ちの一族が益々金持ちになっていく、という懸念を持つ人もいるでしょう。しかし、相続した財産を使えば消費税で取られます。ただ同然で祖先が買った古い不動産を現在価格で売れば所得税が発生します。相続した財産から税金を取ることは十分可能です。

一律税制を導入しても所得に応じて課せられる各種社会保険は無視できないでしょう。しかし、年金や健康保険は社会保障という公的支出の一部です。大きな困難は予想されますが、税体系の中で考えていくべきだろうと思います。

税金が一律になると、税務事務ははるかに簡単になります。税理士のような専門家の助けを借りなくても小規模な事業ならパソコンソフトだけで十分処理可能なものになるはずです。これは税理士など税の専門家にとって嬉しい話ではないと思います。しかし税という人工的な仕組みに当の人間が苦しめられるというのは本末転倒という気がするのですが。

イジメは平等幻想の報い?
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チンパンジーは集団に厳密な序列がある

人が強い怒りを覚える原因として、バカにされる、軽く扱われるということがあります。「バカにするな」が喧嘩の合図になるほど、その感情は強烈です。

しかし「バカにする」行為は直接危害を及ぼすものではありません。バカにされたからといって、怪我をしたり、金品を奪われるようなことはありません。

強いて言えば「名誉」を奪われるのかもしれませんが、他の人が気付かないように、薄ら笑いを浮かべながら「頭が悪いな」と呟かれても名誉を失うこともないでしょう。

一方、困ったことに人間は人をバカにしたいという抑えがたい欲求があります。「上から目線」を略して「ウエメセ」という言葉がなどネットでよく使われますが、人を小馬鹿にしたような言い方での批判は特に匿名ではネットで頻繁に見られます。相手から反撃されにくい匿名という衣をまとうと、すぐ人は他人をバカにするようになるのです。

バカにされたことに強い怒りを覚えたり他人をバカにしたいという欲求があるのはなぜなのでしょうか。人間がこのような根深い感情を持つ場合、その原因の多くは進化の過程に求められます。

この想定を裏付けるものとして、類人猿に広く見られる集団での序列の存在があります。ゴリラのように一匹の雄がハーレムを作り雌を独占しない限り、霊長類は集団の中で厳密な序列が決められています。序列が下の雄は上の雄に要求されれば、雌も餌も提供しなくてはなりません。

序列はなぜあるのでしょうか。それは、序列が決められていないと雄同士あるいは雌同士でもセックスや食料を奪い合い、時として一方あるいは両方が傷ついたり殺されたりする可能性があるからです。つまり序列は無駄な争いを避け、集団を守るためにあるのです

バカするというのは、この序列に対する挑戦と考えることができます。相手をバカにするというのは下の序列と見なすのと同じです。序列が低ければ、持っているもの全てを与えなければなりません。バカにされるという行為が著しく感情を刺激するのは当然と言えます。

同様にバカにすることができる、つまり相手より上位の序列にいれば、相手の全てを奪い取ることが許されます。バカにするというのは相手を支配できるのと同じことなのです。人が他人をバカにしたい欲求を強く持つのも進化の過程で自然に産み出されたものなのでしょう。

イジメというのは肉体的被害や物品を奪うより、バカにするというレベルから始まるものが多いと思われます。特にクラス全員がイジメを楽しむような精神状態になるのは、イジメがバカにするという欲求を満足させるものだからでしょう。

ここから先は少し飛躍しますが、最近になってイジメが広がりを見せている背景には、学校の中の序列意識が希薄になってきたことがあるのではないでしょうか。

人間は類人猿の時代から長く序列を持つことで集団の秩序を維持してきました。しかし、現代社会は人間の間に序列をつけることは避けるべきだという考えが主流です。

運動会で全員を一着でゴールさせたり、クラス全てに同じ評価を通知簿につける教師が問題になったことがあります。今でもそのようなことが行われているかは知りませんが、差別はいけない、人間は皆平等であるべきだというのは普遍的な規範です。クラスの中に序列があることを否定するのはその延長線上にあります。

全ての人間は本来平等だというのは正しい考え方です。しかし、集団の中に序列が存在しないというのは非常に不安定な状態です。チンパンジーならお互い牙を剥きあって殺し合いの闘争を始めるでしょう。

イジメは特定の人をターゲットにして、バカにするという快楽欲求を満足させるだけでなく、平等という建前が破壊した序列秩序を回復させようと本能的な行動ではないでしょうか。

だとするとイジメは平等を求め、差別を嫌う現代社会の規範、あるいは平等幻想が生み出したものなのかもしれません。平等幻想があるゆえに、差別が建前で許されなければ、変わった格好、しゃべり方、人と違う行動を序列づけの材料にしてイジメに発展する。イジメとは人間の本能に逆らって序列をなくした報いだとすると、イジメの撲滅はひどく難しいことであるのはのは間違いありません。


グーグルカーは走るのか
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グーグルの無人走行車実験用に改造されたトヨタプリウス

今、グーグルは無人走行車の開発プロジェクトを進めています。人工知能の技術を用いて自動車を自動走行させ、人間のミスによって起きる交通事故を根絶するというのは、グーグルの掲げる理想です。

無人走行車は交通事故を無くすだけでなく、軍事的な応用が可能です。兵員を乗せずに軍用車を走らせることができれば、戦闘だけでなく輸送作業で兵員を危険にさらすこともなくなります。

2004年、アメリカ国防省は DARPA Grand Challenge という無人自動車による、賞金2百万ドルをかけた自動車競技会を、カリフォルニアからネバダ州の砂漠地帯240kmのコースで開催しました。

結果は広い砂漠に設定されたコースにもかかわらず、1台の完走車もなく、もっとも長い距離を走行したのはカーネギーメロン大学の11.78kmという散々なものでした。

ところが、翌2005年に開催された第2回の大会では23台の参加車両のうち1台を除くすべてが前年の記録を破っただけでなく、5台の車が完走するという成功を収めました。2005年のコースは3つの狭いトンネルを通過し、100個におよぶ急カーブを走破するものでした。

さらに2007年には3回目の競技会が、今度は街中のコースを設定して開催されました。参加車両は96kmの市街地を6時間以内に通過することを求められましたが、4台が時間制限内に完走しました。

2007年の大会のコースは2004年、2005年より過酷ではなかったのですが、参加車両は交通信号など交通ルールを順守することを求められました。標識を読み取り理解する必要があったのです。

これらの成功を受け、無人走行車への期待は高まっています。アメリカ・ネバダ州は2011人には無人走行を可能にする法律を施行しました。この法律によって免許を与えられた最初の車がグーグルがトヨタプリウスを改造して作った無人走行車だったのです。

グーグルの開発チームによれば改造されたトヨタプリウスは既に80万kmを無事故で走行したとされています。2012年にはネバダ州に続き、カリフふぉるニア州とフロリダ州で無人走行車の走行を可能にする法律が作られました。

グーグルの無人走行車の技術で興味深いものの一つにグーグルのストリートビューの情報の活用があります。ストリートビューはグーグルマップから指定された場所の道路からの景色を見ることができます。

グーグルはストリートビューの情報から走っている道路の状況を知り、車載のセンサーやカメラから得られた情報と合わせて車を走行させます。グーグルの提供する膨大な情報は検索から無人走行車への拡大していくことになります。

ここまでは言わば無人走行車の明るい未来を感じさせるものです。しかし、本当の意味の「実用化」となると問題は山積しています。まず、無人走行車が前提としている人口知能の能力です。

実際に市街を走行すると工事中で迂回路の看板があったりします。看板の中身を読み取り、コースを変えて再び目的地に向かうことなどできるでしょうか。

もしそれができるなら自動翻訳も、もしかすると本物の人口知能すら実現できるかもしれません。少なくとも近い将来に実現できる技術ではなさそうです。

障害物があれば停止する技術は既に実用化されていますが、状況によってはその場でじっと停まっているのではなく、引き返した方が良い場合もあります。どんなことにも対応して走り続けることは完全な無人運転では不可能でしょう。

ストリートビューを使うのも通常は大きな助けになるでしょうyが、情報が必ず最新とは限りません。カーナビなら古い情報でも人間が修正して運転することができますが無人運転ではストリートビューに頼ることが余計な問題を引き起こすことも考えられます。

これから数年の範囲で完全な無人走行を一般的な市街地で実現することはできないと断言して良いでしょう。しかし、グーグルの試みが無駄に終わるというわけでもありません。

飛行機は離着陸はパイロットの操縦がなければできませんが、上空で巡航する時は自動操縦が可能です。空と同じような淡々とした道を何時間も走り続けるアメリカの砂漠の中の道路を走行するような時、ハンドルを離してリラックスできれば運転の負荷も減るし、居眠り運転の事故もなくせるでしょう。

ACC(Adaptive Cruise Control)と呼ばれる装置はカメラで前方の車との距離を感知して、アクセルもブレーキも操作せずに車を走らせること可能にします。ACCは運転者の負担を減らすだけでなく、加減速をお素早く差異的に行うことで車間距離を短くすることができます。全ての車両にACCが装着されれば高速道路の渋滞が減少することが確かめられています。

ACCは前方と車との車間距離をカメラで計りますが、車線を検知して車が車線に沿って自動的に走らせる装置も実用化されています。この装置とACCがあれば事実上、ハンドルもアクセルもブレーキも殆ど操作せずに走り続けることができます。

このような運転を「補助」する機能をさらに洗練させ、ストリートビューの情報も活用して、運転を現在よりずっと簡単でミスの少ないものにすることはできるでしょう。

それでも完全な無人運転ははるかな目標です。一般の車は人が最終的な判断を下すことができるので、十分「実用的」と言えるレベルの自動走行も可能かもしれませんが、軍用となると完全無人化が求められるので、ハードルはずっと高くなると思われます。

それにしても、夜、横断歩道の前で静かに停まった車の運転席に誰も居なかったら、安心して横断することはできるでしょうか。それはずい分不気味な光景です。どんな技術もそうであるように、すぐにそれにも慣れてしまうかもしれませんが。
ユーロ危機と白人優位の終焉
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ユーロ危機は依然として収束していません。ギリシャやスペインの財政破綻の危険に対応して財政援助を発表すると、いったんは治まるように見えるのですが、すぐに国債の金利上昇が再発するということが繰り返されています。

当初はギリシャ一カ国の問題だったものが、スペインに飛び火し、次はイタリアが危機にさらされ、さらにはフランスも国債金利の上昇、財政負担の増大と破綻の螺旋に陥るのではと懸念されています。今やユーロは崩壊の瀬戸際に追い込まれていると言えます。

EU(欧州連合)は、二度の世界大戦の舞台となったヨーロッパから戦争の危険を取り除き、ヨーロッパ統一を進めるために誕生しました。そしてEUの統一通貨ユーロの導入はヨーロッパ統一への最終段階と位置づけられます。

通貨が統一されれば、次はアメリカ合衆国のようなヨーロッパ統一政府の実現のはずでした。ユーロ危機はヨーロッパの統一が大きく躓いてしまったことを意味します。

ユーロが統一通貨としてなぜうまくいかないかの理由ははっきりしています。ユーロ参加国、例えばドイツとギリシャではインフレ率が異なります。ドイツの労働者の賃金が安定しているのにギリシャの労働者の賃金がどんどん上がれば、ギリシャの労働者はより生産性を高めなければいけません。それができなければギリシャの産業の競争力は相対的に低下していきます。

通貨が国ごとに違っていれば、生産性の向上とインフレ率の差は通貨価値の変動で吸収できるはずです。しかし、通貨が統一されてると、そのような方法は取れません。熱膨張率の違う金属を溶接してつなぎ合わせて熱を加えれば、溶接部分にストレスがかかってバラバラになってしまいます。ユーロ危機はそれと同じ自然な現象と言えます。

生産性の向上が地域によって違っていても、日本やアメリカなら苦境に陥った地方は中央政府が援助します。東日本大震災では何兆円もの資金が被災地につぎ込まれますが、それにクレームをつける日本人は多くはないでしょう。しかし、ドイツ人はギリシャに資金援助することに大きな抵抗を示します。

疑問なのはむしろ、これほど当り前の統一通貨の問題があるにもかかわらず、ユーロがドルと並ぶ基軸通貨になるともてはやされたのは何故かということです。今となっては統一ヨーロッパという理想に世界中が酔っていたとしか言いようがない気がします。ユーロは幻想だった。それが結論かもしれません。

様々な困難が予想されるにもかかわらず、EUがヨーロッパの統一を目指すのは、戦争の危険を無くすことと同時に、アメリカのような大国としてヨーロッパを蘇らせようという思いがありました。ユーロが導入された当時、ユーロが基軸通貨なるともてはやされたのは、その先取りだったと言えます。

ヨーロッパの国々は言うまでもなく白人国家です。今では旧植民地を中心に沢山の有色人種を受け入れてはいますが、ヨーロッパは白人の故郷であることには変わりません。白人国家であることはEUに参加する時の暗黙の絶対条件です。

EU参加の条件は白人国家であることと、キリスト教国家であることが必要です。トルコはEUに参加することを望みながら、依然として参加を認められていません。トルコは地理的にはヨーロッパの一部といってもよく(実際、首都イスタンブールはヨーロッパの端に位置しています)、外観的には白人ですが、イスラム国家であることが決定的な障害になっています。

ヨーロッパ人はいまだに白人であることとキリスト教国であることが、文明の普遍性を支えていると心の底(あるいは表面でも)信じているのでしょう。しかし、ヨーロッパが世界の中心からははずれつつあるのは紛れもない事実です。

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人口の多い国 (2011年版国連人口推計) Wikiより

上の表は世界の人口を多い順に並べたものです。中国やインドが人口大国なのは言うまでもありませんが、上位20位まででヨーロッパの国は人口約8千万人のドイツだけ。それでもベトナムより5百万人ほど少ないことが判ります。

EU内の「大国」フランス、イギリスの人口は約6千万人でこれはタイと同程度。ヨーロッパの国々はアジアと違って先進国なので単純な比較は無意味と言う人もいるかもしれませんが、一人当たりのGDPが同程度の日本の人口はイギリス、フランスの合計を上回ります。

日本同様、先進国に属する韓国の人口はイタリアと同程度。ミャンマーはスペインとほぼ同じ人口で、インドネシア、パキスタン、バングラデシュを合わせるとEUの総人口とほぼ同じになります。

日本がGDP第2位の座を中国に譲ったことが話題になりますが、人口は経済発展により経済力の大きさに転嫁します。アジア諸国は人口増加率も概して高いので、人口から見るとヨーロッパの相対的存在感はますます小さくなっていくでしょう。そして経済的にもヨーロッパは世界の中では卑小な存在になっていくことは確実です。

ユーロの失敗はヨーロッパの地位の低下を結果的に加速することになるでしょう。再び超大国の列に加わろうとしたヨーロッパの望みはほぼ断たれた言えます。経済的にはアジアが世界の50%以上を占めるようになるのに半世紀も必要はありません。

経済の中心がアジアにシフトしていく中で、白人の優位性はどうなるでしょうか。恐らく、急速に白人の地位が低下することは確実です。例えばノーベル賞受賞者のほとんどは白人で、例外は日本人と僅かな中国系アメリカ人やインド人くらいですが、30年程度で大半がアジア人になるでしょう*。

経済大国にずらりとアジアの国が並ぶのが将来の世界と思われますが、人口あるいは経済規模の巨大さが国民の豊かさに直結するとは限りません。中国のGDPは日本と同程度でも一人当たりに換算すると依然発展途上国です。

次の表は一人当たりのGDPのランキングです。上位に並んでいるのは軒並み人口の小さな国ばかり、1位のルクセンブルクの人口は僅か50万人でこれは千代田区、港区、渋谷区の人口の合計くらいです。実は、これら3つの区の平均所得はルクセンブルクとほぼ同じと推定されます(実際には県別、区別の一人当たりのGDPデータは公式にはない)。


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国別一人当たりのGDP(IMF推計2012年)

一人当たりのGDPが高ければより幸せとは限りませんが、少なくとも個人の豊かさは国全体のGDPではなく一人当たりのGDPにより近いことはまちがいありません。国の大きさ、経済力は重要ですし、人口が多ければオリンピックのメダル数やノーベル賞の獲得数の比較では有利です。

しかし、個人の幸せは国の大きさ、領土の広さとは無関係だということは認識すべきでしょう。戦争を無くすという理想から始まったEUは、その目的を達成しました。しかし、ユーロによる通貨統一がヨーロッパ合衆国という超大国への野望のためだとしたら、ある意味失敗は必然だったのかもしれません。

*ここでは「アジア」という言葉を主として通俗的な地理的位置の意味で使っています。インドは人種的には白人にむしろ近く「有色」コケージアンというべきです。また、コケージアン(白人)、モンゴロイド(黄色人種)、黒人(ネグロイド)という分類も肌の色にばかりに着目したもので、現在はミトコンドリアなど遺伝子レベルでの分類がより正確と考えられています。



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