サマータイム(夏時間)
クールビズという名の奇妙なファッションを霞ヶ関方面に広めた小池大臣も退任しましたが、クールビズと同じ省エネのためにサマータイム(夏時間)を採用しようという議論が時々話題に上ります。北海道では試験的に札幌市その他で夏時間を採用して、夏時間のPRをしようとしています。 夏時間を一言で言えば、1時間時計を進めるということです。つまり、通常なら昼の12時(太陽は南中するわけですが)は、夏時間では午後1時になります。夏の盛りだと日の出は5時頃、日没は7時頃ですが、これが夏時間日のなら出は6時、日没は8時になります。何故そんなことをするかというと、皆普通5時頃は寝ているのに、太陽が出ていて勿体ない。朝5時を6時にしてしまえば、太陽の出ている時間のかなりは活動時間に使えるというわけです。太陽を無駄にしないという意味で、夏時間(Summer Time)をアメリカでは普通Daylight Saving Time(DST)と言います。 夏時間が省エネになるというのは多少根拠が薄弱です。もともと夏時間は戦争中にエネルギーを節約しようとしたのが、世界中に広がった理由なのですが(第2次世界大戦中アメリカでは夏時間をWar Timeと言っていた)、これは昼が長く(つまり夜が短く)なれば電灯で使うエネルギーが少なくなるという根拠でした。何十年も前ならいざしらず、電灯で使用するエネルギーは今や全体から見る僅かですから、大した省エネにはなりません。現にアメリカではDSTの省エネ効果は電力では1%程度ではないかとも言われています。 とは言っても、5時会社を出れば夏時間なら3時間ほど日没まで時間がありますから、ゴルフをうまくすれば1ラウンドできます(会社の近くにゴルフコースがあればですが)。夏太陽がある季節に戸外でたっぷり運動するというのは北ヨーロッパの人には特に好ましいでしょうし、レジャー産業には朗報でしょう。そう言えば夏時間はついこの間まで日本では、景気浮揚策として語られていました。クールビズと一緒に省エネ対策になったのは、何としても夏時間を採用したいという勢力がどこかにあるような気がします。 さて、少ないながらも省エネに貢献し、景気も良くなり、皆健康になるといことなら良いことづくめのようですが、問題がないわけではありません。当然、通所の時間から夏時間に変わるとき、逆に夏時間が冬時間に戻るとき時計を直す必要があります。アメリカでは4月最初の日曜日の午前1時が、夏時間の午前2時になります。逆に10月最後の日曜日の夏時間午前2時が、午前1時に戻されます。 夏時間になった当日は1時間時計が進んでしまうわけですから、時計を直しておかないと遅刻になってしまいます。これは半端な話ではなくて、当日うっかりしていると ・飛行機に乗り遅れる ・ビデオ予約で番組を取り逃す など色々な問題が出てきます。大体、一つの家庭で時計がいくつある知りませんが、相当な数であることは間違いありません。昔なら柱時計にお父さんの腕時計くらいだったかも知れませんが、今ではビデオ、携帯電話を始め、あらゆるところに時計が入り込んでいるので、修正の手間は大変です。 このように一般家庭に時計が増えてしまった原因は、主に様々な機器に組み込まれたコンピューターにあるわけですが、様々なシステムも夏時間に合わせなくてはなりません。夏時間が採用されたらどうなるかというのは、日本のIT業界ではY2K(西暦2000年問題)に匹敵するような大騒動に鳴る可能性があります。 ただ、幸いなことに世の中のコンピューターはハードもソフトもアメリカ生まれが多いですし、OSなどのプラットフォーム系はまず必ず夏時間や時差のサポート機能を持っています。したがって、プログラムや運用でそれらの機能をちゃんと使えば良いわけです。しかし、プログラム、運用の全面見直しとなると結構な仕事量になりそうです。
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リアルオプション
リアルオプションという言葉が良く聞かれるます。最近では計画化ツールの中にもリアルオプションの考え方が取り入れられており、難しいとか、ややこしいとかいうことで避けて通ることが段々できなくなってきました。とは言え、リアルオプションを本当に理解しようとすると、1997年のノーベル経済学賞を受賞した、モートン、ショールズらのブラックショールズ式に行きつくことになります。これは、オプションの価格を決定するために、ボラティリティー(価格変動の標準偏差)やオプションの行使時期などを組み合わせた偏微分方程式に基づくものであり、一般のビジネスマン、コンサルタントにはやや不向きです(数学の得意な人も多いでしょうから、そのような人たちのおもちゃには丁度よいでしょうが)。そこで簡単にポイント(と言っても私の理解の範囲ですが)の説明をしておきましょう。 オプションとはもともと金融市場など、先物取引の機能を持つ市場で、ある商品をある特定の値段で将来買う(コールオプション)または売る(プットオプション)権利のことです。たとえば、ある商品を6ヵ月後に1,000で買うコールオプションを50円で買ったとしましょう。商品の値段が6月後に1,000円以上になっていれば、そのコールオプションを行使して、差額を儲けることができます。逆に、1,000円以下に値下がりしていても50円をあきらめれば、それ以上損をすることはありません。実際の金融市場では、オプションそのものを価格変動する商品と考えて、オプションに対するオプションを作ったり、さらに複数のオプションを組み合わせて、リスクをより小さくしたり、あるいはもっと大きく儲けようとしたり、際限なく商品の種類が増えています。これがいわゆる金融デリバティブ(金融派生商品)です。 さて、金融商品でない実物に対しても同様の考えが適用できます。たとえば外国でヒットした商品が日本でヒットするかどうか判らない時、取り合えず独占販売権を押さえてしまうというようなことが考えられます。この場合、独占販売権を得るための支払いは、将来の日本での販売を行うためのオプションの価格と考えられます。 一般に、あるプロジェクトをスタートするとき、いったんプロジェクトがスタートしてしまうと、途中でプロジェクトを中止するということは計画化せず、中止までにかなり抜き差しならないことになってしまいがちです。プロジェクトの将来の不確定要素に対し、従来の手法ではDCF(Discout Cash Flow)を用いたNPV(NetPresent Value)を使って採算性を見るのですが、DCFの利率は社内レートであって、プロジェクトの不確定要素を表したものではなく、結局「やらんよりまし」といったものになりがちです。 将来の不確定要素に対してはシナリオプランニングのように複数のシナリオを用意する方法もありますが、これはボトムでのリスクをアセスするためには有効ですが、投資のタイミングや期待利益に対しては十分な情報を与えてはくれません。その意味で何らかのリアルオプションを設定できれば、より合理的に投資リスクを回避できるはずです。 オプションの考えで興味深いのはボラティリティーと呼ばれる予測利益の変動幅が大きいほど、オプションの価値は高まるということです。つまり、どんなに損をしても最大の損はオプションを捨てることですから、いったん良いほうに振れたときの利益を期待値として得ることができるからです。オプションを用いれば「ハイリスク・ハイリターン」または「ローリスク・ローリターン」の2者択一から「ノーリスク+ローコスト・(もしかすると)ハイリターン)」という図式が描けるのす。 リアルオプションの問題は、実物の世界では金融市場のようには常に適当なオプションが存在するとは限らないということです。オプションがなければリスクのヘッジもできません。また、価格変動は正規分布に従い、常に適正価格でオプションを処理することが可能であるとしたブラックショールズ式の前提が崩れる危険を考える必要があるかもしれません。米国のLTCMという金融オプションに投資する会社(ノーベル経済学賞をとった、ブラックショールズ式の発明者を社外取締役にし ていたことで有名)は、複雑なオプションの連鎖を行った挙句(プロですら容易に理解できない)、どんずまりにロシアが国債市場を閉鎖してしまったため、オプションの理論価格も何もなく、価格変動の嵐で倒産してしまいました。リアルオプションも同様な危険はあるかもしれません。
テーマ:経営学 - ジャンル:政治・経済
ベーコン数
ケビン・ベーコン まったく知らない同士が、間に何人を介してつながっているか。5人が間に入ると良い、つまり6番目には目標となる人に到達できると言われています。とは言っても日本人同士ならともかく、相手がアメリカ人、あるいはアルメニア人だったらどうか。ニューギア高地人とカナダのイヌイット(エスキモー)ならどうか、といった議論はあるでしょうが、国や人種が異なっても、どうやら1人か2人、間の人が増える程度でよいらしい。そもそも、同国人同士なら5人というのは多すぎるぐらいかもしれない。このような話は昔から広く知られていて、アメリカなどでは「6人と握手をすれば誰とでも知り合いになれる」というのは一般的な常識になっているようです。 このような話ははじめて聞くといささか信じがたい気もするのですが、実際に社会科学的な実験が、人間同士をつなげるためのステップを調べるために行われています。このような実験の中で有名なものに、ケビン・ベーコンというハリウッドの中堅俳優と共演した俳優の連鎖を調べるベーコン数というものがあります。 ケビン・ベーコンは1958年生まれの俳優で、多数の映画に出演しています。日本ではJFKやアポロ13号などが比較的有名ですが、決して大スターではありません。しかし、中堅俳優の常として多数の映画に出演して、結果的に多数の俳優と共演しています。さてベーコン数ですが、ベーコン自身をベーコン数0として、ベーコンと直に共演したことがあればベーコン数1、さらにベーコン数1の俳優と共演したことがあればベーコン数2という具合に、共演したことを知り合いだと考えて、ベーコン数を求めます。このようなことが可能なのはハリウッド映画は出演者をデータベース化しているからなのですが、このデータベースを利用しようと考えたのがヴァージニア大学の研究者たちだったのです。 ヴァージニア大学の研究者たちは、ベーコン数を算出するWebサイトを立ち上げています(http://oracleofbacon.org/)。このWebサイトでベーコン数を求めてみると、トム・クルーズ、は1(Few Good Manで共演)。ニコラス・ケージは2、マドンナも2ということで、6人どころか概ね2の範囲で主要なハリウッド・スターがカバーされてしまいます。つまりハリウッドの俳優とういうのは非常に小さな世界に存在しているということがわかります。 俳優の出演映画がデータベース化されているのはハリウッドだけではなく、日本映画もデータベース化されていて、実は日本の俳優のベーコン数を求めることも、上記のサイトで可能です。調べてみると日本の代表的国際スターだった三船敏郎は2、渡辺謙も2です。まさにハリウッドスター並と言ってよいでしょう。それどころか渥美清は3になっています。渥美清はハリウッド映画の「トラトラトラ」に出演していて、そこでの共演者からのリンクでベーコンにつながっているのですね。 さらに調べると、およそハリウッドに縁のなさそうな八代亜紀も3、上戸彩も3です。八代亜紀は1986年に玄海つれづれ節という映画で三船敏郎と共演しているのですね。三船敏郎がベーコン数2ですから、八代亜紀は3と言うことになります。上戸彩はまだ14才の頃、別所哲也と裏切りの凶弾という大映映画で共演しているのですが、別所哲也はSolar Crisisというアメリカ映画に1990年に出演していてその関係でベーコン数2なのです。 ハリウッドの俳優がベーコン数が大体2で納まることから、日本の俳優はおそらくベーコン数4の範囲で概ねカバーされると思われます。大体の人は1人か2人を間におけば、あまり売れない俳優ぐらいとはつながっていそうですから、ベーコン数だけ考えても、アメリカ人と日本人が6ステップ程度でつながっていると考えるのは無理はないでしょう。確かに世界はSMALL WORLDのようです。
テーマ:進化論的組織論 - ジャンル:政治・経済
メダカはなぜ群れる ゲーム理論と進化論
池の中でメダカのような魚の群れを見ると驚くほど整然と統制のとれた泳ぎ方をしています。何十匹、何百匹の魚がまとまって泳ぎ、時々一斉に方向を変えるのを見ると、集団を指導するよほど優れたリーダーがいるのではないかと思えてきます。しかし、実際はそうではありません。メダカの群れは各々一匹一匹が自分の生存の利益を追求する結果として、あのように群れとしてまとまった動きをするのです。 ジョージ・ウィリアムズという生物学者が「生物はなぜ進化するのか」という著書の中で、魚の群れについて分析をしています。メダカのような小さな魚はいつも、より大きな魚や水鳥のような捕食者の脅威にさらされています。捕食者に襲われたとき、一匹だけでいるより群れでいれば、だれか一匹は捕らえられても他の魚は助かる可能性は高くなりす。仮に、10匹の群れなら食べられてしまう確率は10%ですが、100匹では1%になります。ですから、群れが大きいことは群れと群れの構成員のメダカに有利に働きます。 ところが、群れがあまり大きくなりすぎるとあまり好ましくない事態になります。群れは大きくなればなるほど、群れの構成員が食物を分け合うことが難しくなり、競争が群れ中で始まります。また、群れが大きくなると捕食者の目にとまる確率も高くなるわけですから、かえって危険が増してしまうかもしれません。 今群れにいるメダカの数に、捕食者の注意を引いたり食物をそれほど争わなくても良い程度に小さく、かつ捕食者に襲われたとき助かる可能性が十分に大きい最適規模があったとして、それが100匹だと仮定しましょう。群れの大きさが200匹になったとき、群れが取るべき戦略は群れを二つに分割することです。ところが個々のメダカにとっては群れを抜け出して一匹になることは自分だけが危険な目に会うことですから、そんなことはしません。メダカの中に指導層がいて、「このままではいけない群れを分割しよう」という決定を下せば良いのでしょうが、メダカの群れに指導層はいません。 結果として、メダカの群れは大きくなって規模の不利益が生じるようになっても分割されることはなく、何かのきっかけで群れの誰かが向きを変えると遅れないように一斉に向きを変えて整然とした回遊を続けることになります。実は指導者がいなくて、それぞれが自分勝手に行動していることがメダカが集団行動をとる原因だったというわけです。 このような集団の構成員が勝手な行動を取ることで、集団がまとまった行動を取ってしまい集団としての利益の最大化と各構成員の利益が損なわれてしまうのは、ゲームの理論で囚人のジレンマとよばれているものと同じです。囚人のジレンマは囚人同士が自分の利益だけしか考えないことで結果として、集団のそして自分自身の利益も最適化できないというものですが、生物学では囚人のジレンマの陰の主役として遺伝子がいると、ジョージ・ウィリアムズは指摘します。「利己的な遺伝子」(リチャード・ドーキンス)という本が出ていますが、自分の複製を沢山作りたいというのが遺伝子の性質です。逆に言えば、進化とはは自分の複製を作ろうという遺伝子間の戦いの勝者を決める過程だというわけす。 メダカの例に話を戻すとメダカの一匹一匹は自分の遺伝子の複製を残したいと思っています。自分が食べられてしまっては自分の遺伝子を残すことはできませんから、まず自分が生き残ることがメダカというより遺伝子の戦略になります。自分のためが遺伝子のためというわけでから、利己主義は遺伝子のせいと言っているのと同じことになります。これだけではどうも面白くありません。 ジョージ・ウィリアムズはここで蜜蜂の例を持ち出します。蜜蜂には雌である女王蜂と働き蜂がいますが、働き蜂は生殖能力はありません。したがって働き蜂は自分の遺伝子を残すことはできないように思えます。ところが遺伝子を残す手段は子供を作ることだけではありません。一つの蜂の巣の中の働き蜂は同じ女王蜂から生まれますが、実は父親にあたる雄蜂は遺伝子を一組しか持っていません。つまり全ての働き蜂は同じ父方からは同じ遺伝子を受け継ぎます。女王蜂の方は人間と同じで遺伝子を二組持っていますが、結局姉妹になる働き蜂どうしは遺伝子の75%が一致することになります。ちなみに人間のような父方、母方ともに遺伝子を二組持っていると、遺伝子が自分と一致する割合は親も兄弟も子供も同じで50%です。 働き蜂は巣が外敵から襲われると猛烈に戦います。戦って針を相手に突き刺すと自分も死んでしまいます。しかし、その結果巣が守られるなら自分の遺伝子は75%分は守られることになります。利己的な遺伝子という視点で考えると、利他的な働き蜂の戦いも、実は遺伝子にとっては利己的だといういうわけです。 人間は知能があるので、当たり前ですが100%遺伝子の命令で行動しているわけではありません。しかし、人間のような雌雄が分かれそれぞれ二組の遺伝子を持つような生物では、自己の利益の追求が遺伝子の目的とも合致します。利己主義は遺伝子主義と言っても良いのかもしれません。また、利己主義を集団の利益にどう一致させるかは囚人のジレンマをどう解くかにかかっているという点は人間もメダカも本質的な差はありません。「とかくメダカは群れたがる」とか言いますが、群れてしまう理由は結構深いものがあるのかもしれません。
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少子化という囚人のジレンマ
二人の囚人が別々に尋問されて、どちらも黙秘を続ければ懲役3年、片方が黙秘して、一方が自白すれば、黙秘した方は懲役10年になるが、自白した方は懲役1年ですむ。どちらも自白すると懲役5年。これは有名な囚人のジレンマのシチュエーションですが、ゲーム理論では、自分が自白してしまえば、片方が自白しようと(この時は懲役10年のところが5年ですむ)、黙秘しようと(このときは懲役1年になる)となって、必ず有利になるので、結果的にどちらも自白して懲役5年を食ってしまいます。本当はどちらも黙秘で頑張れば懲役3年ですむはずですが、自己中心的な考えを貫くと「合理的に」こうなってしまうわけです。みんなが得をしようとして結局皆損をしてしまうのが囚人のジレンマですが、関係が長続きするものならば、ビジネスで言えば同じ相手と何度も取引をすると、皆が得をすることを考えるようになります。談合で安値で出し抜くのを避けて、高値で受注をするというのはその典型です。 少子化が懸念されている日本で、人口減少が2年後ではなく今年にも始まりそうだと報道されていました。人口減少が経済成長を困難にさせるとか、高齢化社会は活気がないとか色々問題を引き起こすのは事実でしょうが、一番深刻なのは年金など高齢者を支える経済的インフラの維持が困難になることでしょう。ではな何故、皆子供を作らなくなったのでしょう。子供の養育にお金がかかる、女性の社会進出が進んでいるなど理由は色々あるでしょう。しかし、経済的な問題が少子化の原因であ るとすると、発展途上国や昔の日本で女性が沢山子供を産んでいたこの説明ができません。むしろ本当の原因は社会全体が囚人のジレンマに陥っているということが考えられます。 確かに子供の養育は経済的に負担です。今の日本人は昔の日本人より経済的にずっと豊かになりましたが、進学率の上昇や塾代などで、教育費はずっと大きくなっています。では昔の日本人や発展途上国の人は何故沢山子供を作ったのでしょう。それは子供が自分たちの老後を保障する一種の将来への投資になったからです。社会保障のほとんどない社会では老後働けなくなったとき、頼りになるのは子供です。乳幼児や子供の死亡率が高かった昔は、予備も含めて沢山子供を作る必要があったのです。これに対し現代では老後の保障は年金と自分の蓄えで行います。子供を自分の老後を保障する一種の保険だという考えは、皆無ではないでしょうが、もはや主流ではありません。女子プロゴルファーの父親が娘の賞金を召し上げるという話に不快な思いをする人は多いでしょう。老後を子供に頼るというのは、今や不道徳とさえ言えるのです。 ところが、老後は自分の子供でなく社会保障に依存するとなると問題が生じます。教育費など子供の養育に投資せずにせっせと貯金したり、その分遊興費に使った方が有利になってしまうからです。個人が自分にとっての最適解を求めると全体としては最適化が実現できない。これは囚人のジレンマそのものです。ではどうすれば良いのでしょう。社会保障や年金を無くし、かつ資産に対し高率の税をかければ老人は子供に頼ろうとするはずです。そうなれば昔の日本人のように子供を沢山作ろうとするでしょう。一人っ子政策を推し進めた中国の農村部で隠れて子供を作ろうとしたのは、このような理由と思われます。あるいは、子供は社会の所有物だと考えて、養育の責任を社会全体で負うという方法もあります。昔の日本の農村部、あるいは人類の歴史の大部分はこのようなシステムで子供が養育されました。 明らかなように現代の日本で、そんな解決策は使えません。保育所の充実や、養育手当の増大は一定の効果はあるでしょうが、それでも囚人のジレンマを完全に解決してはくれないので、効果は限定的でしょう。問題は囚人のジレンマは取引が繰り返されるような関係でしか本質的には解決されず、ジレンマのままであるというこです。老後の生活の心配というのは人生で一回しかないので、繰り返しの取引で問題解決をはかることもできません。人口減少の問題は当分解決されることはなさそうです。
テーマ:少子化問題 - ジャンル:政治・経済
偵察機U2短期開発成功の理由
U-2型偵察機 U2型機は冷戦初期のころ活躍したアメリカの偵察飛行機です。冷戦時代の産物ということと、有名になったのはソ連領内やキューバ危機で撃墜されたためということもあって、あまり良いイメージはもたれていないようです。しかし、アメリカではU2は短期で開発に成功したプロジェクトとしても有名なのです。 短期開発成功の理由をインターネットなどで色々調べてみると、確かに1954年11月に当時のアイゼンハワー大統領がプロジェクト(Project Aquatone)にGoサインを出してわずか8ヶ月でテスト飛行が行われています。U2の後継機のSR-71が2年、その他の空軍機が何年(時には10年)もかけて開発されるのと比較すると、驚異としか言いようがありません。 U2はその時代では非常に画期的な偵察機でした。最高飛行高度22,000メートルは、通常の飛行機燃料が蒸発して使い物にならないというだけでも、様々な技術的ブレークスルーが必要だったことがわかります。出来合いのものを組み合わせれば作れるようなものではなかったのです(エンジンは開発済みのものが使用できた)。 色々資料を読んでも、「何故?」に決定的に答えることはできないのですが、私なりに資料を解釈してみると次のようなことがあったようです。 1:技術仕様に通常の空軍技術仕様(厳格なものらしい)ではなく、単に性能仕様 を示すことにした 2:プロトタイプの開発で、技術者と工作者を15メートルほどの場所に集め、問題 点があればすぐに解決できるようにした(数週でなく数時間で解決する) 3:コンカレント開発を積極的に用いた 4:ソ連の対米攻撃能力の偵察という緊急性のある(当時ソ連は原爆を運べる爆撃 機を大量に作り始めており、その兵力の調査が重要な問題だった)プロジェクトで あるため、開発陣の士気が高かった 5:機密性が極めて高く、予算も政府の予備費をこっそり使うなど雑音の入る余地 が小さかった 6:プロジェクトリーダーは国防長官に直接レポートした 7:開発主体がCIAで空軍でなかったため、通常の開発手順を(空軍技術仕様の使用 など)無視できた 決定的なものはありませんが、原爆の開発もスタートから実験、使用まで4年ほどで行われています。その間、プルトニウム生産のための原子炉まで作っているのですから驚異的です。戦争のような緊張した状態であればプロジェクトが早く進むということは、遅れるプロジェクトは何かマネージメント上の問題(特にトップの意思決定の遅れ)と参加者の意欲(サラリーマン的でなく、達成のためには何でもやる)の欠如があるというは事実でしょう。TOCのような科学的アプローチとは相反す る精神論的な話ですが、プロジェクトマネージメントの一つの側面だとは思います。
テーマ:進化論的組織論 - ジャンル:政治・経済
フィンランドと北海道
フィンランドの人口は520万人、一人当たりのGDPは約3万米ドルです。これに対し北海道は人口570万人、一人当たり県民所得は約270万円です。円の相場により上下しますが、人口規模、経済規模はほぼ同等と言ってよいでしょう。どちらも寒冷の地で、北海道は日本の、フィンランドはヨーロッパの辺境の地で農業が主たる産業であったことも良く似ています。 しかし、フィンランドは80年代からハイテク国家へと大きく変貌しました。ノキアは携帯電話で世界一のシェアを持っており、日本のメーカーが束になっても全然かないません。LINUXの創始者のライナス・トーバルズはヘルシンキ大学の学生のときLINUXを送り出しました。 世界経済フォーラムの発表する国別競争力比較でフィンランドは2005年度1位、日本は12位でした。対する北海道はどうでしょう。産業の主力は相変わらず農業と公共事業。この二つは政府支出の削減にもっとも大きな影響を受ける分野です。それでも昔は石炭産業が盛んだったのですが、ご存知のとおり往年の石炭都市、夕張は人口の激減と赤字に苦しみ、自治体でありながら実質的に倒産してしまいました。 何がこの二つの経済圏の活力を大きく二つに分けたのでしょう。フィンランドはヨーロッパという先進地域、北海道は明治維新から開拓がやっと始まったという考えもあるかもしれませんが、フィンランドはロシア革命が起きたとき、ロシアと同等かそれ以下の経済水準でした。また、ソ連時代は「フィンランド化」という侮蔑的な表現をされながら、議会に共産党の大きな勢力を抱えながら、ソ連と協調しつつ実質的に西側経済に参加していたのです。ただフィンランド化という言い方について一言付け加えると、第2次世界大戦中、フィンランドはドイツ側につきソ連を徹底的に苦しめました。 さて、フィンランドは北海道にどのような教訓を与えるでしょう。北海道に厳しい言い方をすれば、明治維新以来北海道は常に中央政府の経済援助で生きてきました。農業と並ぶ主幹産業の土木業の主要な客先は政府であり、どのように予算の配分を行い、どの業者に発注を行うかが最大の関心事だったのです。札幌は人口と比べても異常なほど歓楽街であるすすき野が賑わい、多数の人間が夜の商売で生計を立てているのが有名ですが、要は公共事業の配分のビジネスの場がすすき野であったということになるのです。 百数十年にわたる北海道への援助にもかかわらず、北海道はまだ経済的に完全には独立してはいません。小泉構造改革の影響もあって、公共事業が削減されるのに伴い、全般的に経済的困難は高まっているのです。フィンランドと比べてスターと地点も、外部からの援助も恵まれていたはずの北海道が国際競争力12位の国のお荷物なのです。 最近、格差是正、特に東京と地方の格差の解消が大きなテーマになっています。確かに地方の寂れ方と、東京の地価の再上昇などを比べると、「このままではいけない」というのは異論はないところでしょう。しかし、これが格差是正が地方へのばら撒き行政の復活なら、結果は決して実り多いものではないでしょう。地方が復活するためには、中央政府の経済援助に依存するのではなく、フィンランドのように独自の競争力の確保が必要なのです。 北海道には大きな企業は少ないですし、依然農業が主力産業の寒い地域です。しかし、フィンランドは北海道よりずっと厳しい条件で、それを克服してきました。北海道に、そして日本の不況に苦しむ地方にもできないはずはないのです。 (この項続く )
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進化論をビジネスに適用すると
「最も強いものや最も賢いものが生き残るのではない。最も変化に敏感なものが生き残るのだ」言葉はダーウィンのが言ったことになっていて、小泉前首相も引用したので一段と有名になりました。しかし、この言葉はダーウィンの「種の起源」にも出ておらず、そもそもダーウィンはそんなことを言ったという証拠もないようです。しかし、変化しなければ生物が生き残れないように、企業も環境に適応できなければ滅びてしまう、ということはよく言われます。企業戦略策定の基本的ツールの一つのSWOT分析というものがあって、企業の外部環境、内部環境を分析し、企業が環境にどのように適応しているか検証するのに使うのですが、生物を企業に置き換えて、進化論をビジネス論に適用しようとするのは、言ってみれば自然なのかもしれません。 進化論の適用例として自然淘汰という考え方があります。生物は突然変異で様々な変化をします。変化の中で有利な変化をしたものが、生き残り子孫を繁栄させるという理論です。これが冒頭の強いものが生き残る、さらに競争原理で勝ち残るのは自然の(神の)摂理なのだという考えにつながるわけですが、真っ正直に進化論をビジネス論に適用しようとすると、色々難しい問題が出てきます。進化論では自然淘汰に勝ち残るためには、 (1)個々の個体が生き残る (2)生き残った個体が子孫を沢山作る ことの2つが基本になります。(1)の方は生物が食物の獲得に成功する、捕食者から身を守る能力を持つということです。これを市場の獲得、競争相手との勝利、と読み替えることは意味があるでしょうか。次に(2)の方ですが、子孫の生産のためには配偶者が必要です。進化論では性選択と言って、異性に好まれることが進化で勝ち抜く必要条件になります。しかし、この条件は往々にして(1)と矛盾します。 良く出てくる例に孔雀の雄があります。孔雀の雄は美しく大きな羽を持っていますが、個体の維持のためにはあまり役には立ちません。それどころか、奇麗で大きな羽を作るコストは莫大なものでしょうし、動きを束縛し、やたら目立つので捕食者に対し不利になるはずです。同じように繁殖期になると生物は、やたら大きな声で鳴いたり、目立つように飛び回ったり(雄が多いのですが)、捕食者の餌食になりやすいことを沢山行います。性選択で配偶者を顧客と考え、性選択のためのコストをマーケティングコストに置き換えるのは、例え話以上の意味があるでしょうか。 ダーウィンの時代は科学的には存在が確認されていなかったのですが、結局生物が勝ち残るとはいかに「自分」の遺伝子を大量に残すかということに尽きます。「自分」と括弧にくくりましたが、この場合個体としての自分なのか自分の遺伝子そのものなのかという事が問題です。進化論的な考えでは「自分」とは自分の遺伝子に他なりません。「利己的な遺伝子」という本がありますたが、この本で著者のドーキンスが言っていたのは、遺伝子から見れば生物の個体というのは寿命の短い取り替えのきく乗り物過ぎず、遺伝子こそが、永遠の寿命を持っているということになります。 このあたりになってくると進化論のビジネスへの適用は、単なる比喩以上には難しい気がしてきます。企業にとっての遺伝子? 企業のDNAというような言い方を最近しますが、これな本田イズムとかXX魂とか、企業の伝統、文化を指すものです。どうもピンと来ません。所詮比喩は比喩なのかもしれませんが、そう結論付ける前にちょっと視点を本当の進化論にもう一度戻してみましょう。 生物を観察すると、その複雑さに驚かされます。眼の構造を見ると、光を取り入れ屈折させるレンズ機能の部分や、光を感じ取る受光部分、受光した情報を脳に伝達した神経など多数の部品が精密、正確に組み立てられています。このような精緻な物が、コインの裏表のような偶然に頼った突然変異と、その後の勝ち抜き合戦だけでできあがるものなのでしょうか。そうではなくて誰かが詳細な設計図を作り、それに基づいて計画的に進化を運営していかずに可能なのでしょうか。これは進化論に対立する創造論という考え方です。アメリカでは進化論は聖書の教えに反すると言って教えない学校もあるらしいですが、さすがに指導的な立場の人が「人間の祖先が猿ではありえない」というのは難しい。しかし、ブッシュ大統領は創造論に多大のシンパシーを感じていると公言しているようです。要は生物の発生と結果としての人間の誕生は神の御心の賜物以外にはありえないという考え方です。 しかし、少し考えてみると創造論に頼らなくても、進化は説明できます。つまり、進化というのは非常に長い時間に渡って達成されるものだからです。個体の生き残りにせよ、性選択にせよ、ある特定の形質がほんの0.1%他の形質より優位をもたらすと仮定すると、千世代後には、その形質は一方の50倍も沢山遺伝子を残していることになります。千世代というと途方もない数字のようですが、人でも2-3万年です。進化論を云々するような時間から考えると大したことはありません。1時間に2 回ほど分裂するような微生物なら1月足らずということになります。最近、カンブリア紀の大爆発と呼ばれる5億年ほど前に突然生物が空前(そして絶後)の多様化が起こった出来事を、生物が眼を獲得したためだとした理論が出てきたのですが、その理論の提唱者のアンドリュー・パーカーは光に単に反応するだけだった受光細胞が眼に進化するのに百万年もかからなかったのではないかと推測しています。 過去の化石やDNAの採取といった研究が進むにつれ、生物の進化は創造論のような整然とした計画性のあるものではなく、その場限りの生存競争に有利となる変化の積み重ねだということが、ますます明らかになってきています。また、環境の変化がなければ、生物の形態は概ね安定的なものだということもわかっています。眼の誕生はそういう意味で競争関係の激変を招いたことは確かでしょう。眼の誕生以前は互いに接触するまで、捕食者と被食者の関係は発生しなかったのに、突然遠くから捕食者は被食者に襲いかかるようになったのです。以来、逃げるものと追うもののスピードの競争、擬態など様々な戦略が生物によって編み出れ、自然淘汰を通じて、変化を優位に変換した生物が生き残ったというわけです。 それでは、進化論をもう一度ビジネスにあてはめて考えてみましょう。企業のプランナーやコンサルタントは戦略を策定します。戦略策定は論理的な作業で、SWOTその他色々なツールも使い、データ分析、顧客調査など戦略の適用する環境についての情報を集めます。できあがった戦略は創造論の神にも似た精緻なものでしょう。だとすると企業の競争は結局は偶然に依存する自然淘汰、生物の進化よりも計画的に行われるのでしょうか。 必ずしもそうとは言えません。私がサラリーマン人生を始めた30年以上前は新日本製鐵は圧倒的な大企業でした。経団連会長を何人も輩出し、意識の上でも実質的にも日本産業のリーダーだったのです。今でも、新日鐵は製鉄業では日本一ですが売上はトヨタの5分の一ほどに過ぎません。しかし、これは新日鐵が強者の驕りでトヨタのようなカイゼン活動をサボっていたからではないでしょう。戦後間もない間 は、3白と言って、砂糖、紡績、セメントが日本の産業の中心でした。石炭は黒いダイヤと呼ばれて、石炭産業の役員はボーナスで家の一軒くらい軽く買えたそうです。石炭産業が没落したのは、どう考えても改善や企業変革の遅れというより、環境の根本的変化のせいでしょう。トヨタも確かに立派な会社ですが、つぶれかけた日産でも新日鐵の3倍くらいの売上はあるのです。要は企業として成功するかどうかの相当な部分が、環境変化にたまたま適応した産業に存在した、事業品目を持っていたということに依存しているのです。 別の例をではインテルがメモリーからMPUに事業構造を転換した例があります。インテルはそれこそ企業文化的にメモりーを大変重要視していました(半導体メモリーはインテルの発明です)。ところが、製造部門は生産設備が窮屈になると、一枚のウェファーから最大の利益が上げられる製品を作ろうとしていました。上層部の移行に関わらず、インテルはいつの間にかメモリー中心の半導体メーカーからMPU中心の半導体メーカーになっていたのです。 私はどんなに企画、戦略の策定に努力しても未来が不確実である以上、企業の繁栄の大きな部分は長期的には突然変異のような偶然に支配されると考えています。大きな変化をしなくてもゴキブリ、銀杏、シーラカンスが数億年を生き抜いたように、生き残る企業もあるでしょう。しかし、オーストラリアに犬や猫(そして人間が!)が持ち込まれて、先住の動物種の多くが、あっという間に絶滅したように、なくなる産業もあります(1970年代の第一次石油ショックで電力を大量に消費するアルミ産業はいっぺんに日本で成立しなくなりました)。私たちは、このような突然の環境変化に多くの場合無力だということは謙虚に認識すべきでしょう。
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リスクは管理するものです。避けるものではありません
SOX法や個人情報保護法など企業が対応すべきリスクが増大しています。SOX法は企業の財務報告の正当性の保証を求めたものですが、具体的な内容は米国のCOSO(The Committe of Sponsoring Organization of the Treadway Commission)の活動が元になっているようです。COSOは米国会計協会など5者の団体のスポンサーシップによる独立組で1985年に設立され、財務報告の正当性を担保するためのフレームークの開発など、財務報告の品質向上のための活動を行っています。 COSOの作成したドキュメントの中で重要なものとしてERM(Enterprize RiskManagement)があります。ERMは財務報告の正当性をどのような内部コントロールを確立すべきかというフレームワークを示すもので、SOX法への対応のためのテンプレート作成のベースになっています。ERMでは企業がいかに「リスク」に対処すべきかという基本的な考え方が述べられていますが、これはリスク管理というものの本質をどのように理解すべきかということについて多くの示唆を含んでいます。 ERMでは、本来ビジネスは多くでの「不確実」な事象があり、その中で企業にとって有利なものは「機会」であり、不利なものが「リスク」であると考えます。つまりビジネスはリスクが避けられないものであり、むしろリスクがあるからこそ機会も生じると考えているのです「ハイリスク、ハイリターン」という言葉がありますが、裏を返せばビジネスは「ノーリスク、ノーリターン」ということです。 確かに、金を貸さなければ貸し倒れはありませんし、工場を建てなければ売れないものを作る心配もありません。人を雇わなければ不正も行われないわけです。このように考えるとリスクとは忌避すべきものではなく管理すべきものであるということになります。どんなに努力しても大規模な地震の発生を防止することはできません。政情不安な国で内乱や通貨システムの崩壊が起きることも一企業ではどうすることもできません。しかし、そのような事象が発生したときの被害を小さくすることは可能です。カントリーリスクの高い国は多くの場合、賃金や不動産価格が安いですし、貿易上の優遇措置を享受することも可能です。「海の荒れた日は大漁」だといいますが、荒れた海に漕ぎ出せるだけの対応策を持っていれば、大きなリターンが期待できるのです。 ERMでは企業の「Risk Appetite」を先ず評価すべきだと述べています。「企業のリスク選好度」とでも訳すべきものですが、直訳すると文字通りリスクへの食欲-欲望です。事業欲とはリスク欲だというわけです。あまりなじみがないかもしれませんが、財務理論でハードルレートという考え方があります。これは企業は固有に市場から期待される最低限の利益率があり、どの企業も一律に同じ利幅をあげれば良いというものではないという考えが基本になっています。一般に低成長の安定した業界のハードルレートは低く、高成長だが競争の激しい業界のハードルレートは高くなります。一時鉄鋼会社が半導体事業を設立する動きが盛んでしたが、このようなことをすると鉄鋼業だけを営むより会社全体としてのハードルレートは高くなります。そうすると例え一定の利益をあげている事業でもハードルレートが高くなることにより、切り離さなくてはならない場合も起こりえます。企業が全体としてどのようなハードルレートを維持できるような事業のポートフォリオを組み立てるかは、企業戦略(事業戦略ではなく!)の基本です。 リスクが忌避すべきものではなく管理すべきものであるとすると、管理の基準は何でしょうか。当然、 ・リスクの発生する確率 ・発生したリスクのインパクト ・リスクを冒すことにより得られる機会の大きさ ・リスクを最小化(ないし消滅)させるためのコスト の4点のバランスになります。ERMでもこのような視点で一つ一つのリスクの評価と管理の方法を検討すべきであると言っています。例をあげると与信の程度により、承認のプロセス、レベルは異なります。小さな取引で大きな取引と同じような承認プロセスを行っていてはビジネスのスピードは低下します。また、大きな取引であっても、与信のより合理的な判断や意思決定の速度が早くなるように情報システムがサポートすれば、競走上有利な立場に立てます(勘定奉行のCMで一方のセールスが「社に持ち帰って早急に」と言っている傍で「今承認が取れました!」ともう一人が言う場面がありましたよね)。 ERMでは確率は小さいがインパクトの大きいリスクは保険などにより他社とSHAREを行うべきだと言っています。確率が高く、しかもインパクトの大きなリスクですら最小化の適切な手段や十分なコントロールが可能なら、リスクを享受するという判断が合理的にできると言っています。 リスク管理の本質とは最小のリスクで最大の機会を獲得する仕組みを構築することだと思います。リスクを忌避しては競争力は低下しますし、ビジネス自身が行えないこともありえます。リスク管理は企業にとって戦略そのものと言っても良いとでしょう。 *********** 別の角度の議論ですが、企業倫理の確立やCSRの推進を求める声が高まっています。経済合理性の観点で言えば、ビジネス倫理やCSRに反することを行った場合のリスクのインパクトつまり「賭け金」が従来よりずっと高くなっているという現実があります。雪印、エンロンなどは会社自体が消滅してしまいましたし、三菱自動車も存亡の危機に立たされています。道徳的な観点でCSRを語ることも可能でしょうが、社会の変化により企業の誤った行動により支払わされる対価が増大することにより、リスク管理の均衡点が変化したと考えることもできるでしう。 「返済は計画的に」と消費者金融がTVCMを行っていますが、ローン破産が増加すれば利息の低下を求める声が高まったり、規制の強化が行われるなどによりビジネスのコストが増大するのを予防する動きとも考えられます。企業が大きく一般に認知される度合いが高まれば、CSRの必要性はより大きくなるという一例かもしれません。
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未来予測の色々
戦略策定、計画など言葉は色々ですが、私たちは常に何らかの未来の予測のもとで、行動しています。今期だけを考えて行動しているつもりでも、ITの動向や顧客業種の将来など、未来に対する意識は少なくとも潜在的に常にあるはずです。しかし、未来を予測するとき必ずしもシステマチックなアプローチは取られていないではないでしょうか、未来予測について少し考えて見ましょう。 1)「既に起きた未来」 ドラッカーの言葉です。例えば10年後の30歳の人は今20歳である必要があります。現在10歳だったり40歳だったりする人は、決して10年後に30歳にはなれません。したがって、5年後、10年後の人口の年齢構成はほぼ正確に予測できます。10年後の年齢構成は未来であっても「既に起きた未来」なのです。 同様に、法律などで実施の決まっている施策、実行着手された計画(例えば2004年版Windows)などは、確実に起きると考えてよいものです。工場も何年も完成までかかるような類の産業は、数年先の供給能力を工場の着手状況から予測することができます。このような確実性の極めて高い予測を他の不確実な予測と混同してはいけません。これらは「予測」ではなく、「事実」として取り扱われるべきです。。 反面、「皆が言っている」というのは既に起きた未来とは全然別物です。米国の通信業界が「年率1,000%の需要増」という、もともとはどうもワールドコム自身が発信源の情報を信じて莫大な投資を行って、苦境に陥ったのは、予測をあたかも事実として取り扱ったためです。結果として、需要増は「誤った予測」であり、通信インフラの増強は「既に起きた未来」として実現してしまったのです。 似たような例で1980-90年頃の白書などで「来るべき21世紀をひかえ、ますます多様化する消費者の需要性向は」などどいう言い方がよくありました。21世紀が来るのは既に起きた未来どころではない事実なのですが、そのレトリックに引きずられると間違う危険性が大いにあります。例えば最近のCDのヒットは何百万枚という単位になりますが、レコードの時代に100万枚を超えるヒットは何年に一度のことでした。これはレコードプレーヤーがCDプレーヤーより数が少なかったからといううわけではなく、むしろ消費者がCD購買に対しては、非常に画一的な消費動向を示しているからです。何故という理由はともかく、「多様化する」というのは音楽業界では「21世紀をむかえる」のような事実としての予測ではなかったのです。 2)確率を設定できるリスク 狭い意味での「リスク」とは、ある種の確率が設定でき、そのために売買することも可能なものです。保険はその典型ですし、運輸業のように何百台、何千台というトラックを持っている会社が、事故率を設定して、事故費用を積み立ていることは普通に行われています。一台一台のトラックの事故は予測不能ですが、多数の集団に対しては確率が適用できるからです。 少し拡大すると、SI業者が赤字プロジェクトの発生確率を予測して、利益とは別に、赤字発生の損害の分を各プロジェクトに割り振って、受注金額に含めるのは本来は必要です。そうしなければ、経営全体から見ると赤字プロジェクトのために利益が出なくなる危険があります(というより、確実に出なくなる)。 ただ、リスクの確率の決定は必ずしも容易ではありません。最近の銀行が貸し出し引当金が不十分だと言われているのは、もともとは従来より貸し倒れ確率がはるかに高くなったためです。もっともこれは、膨大な貸し出しを行う大企業は倒産確率0としてどんどん貸した結果でもありますが。 不確実なリスク確率でも、逆に不確実な故に市場で売買が可能となります。先物市場、より複雑な金融オプションやデリバティブなどは、確率に対する見方が人によりことなるからこそ成立するので、誰も「8年後に2010年になるかどうか」などで市場を作ったりしません。経営者は可能な限り、これらのリスクオプションを有効活用して、未来の不確定な要素を除去すべきでしょう。 3)不確実な未来 未来は基本的に不確定ですから、1)や2)のようにほぼ事実として取り扱えるようなものはむしろ例外です。ただ、多くの事柄は現在の事実をもとに、演繹的に未来の予測をすることは可能ですし、実際の計画は殆どそのように行われます。来年度の販売額やそれに必要な生産量の確保などは、現在の状況をもとに、比較的容易に計画できます(受注残のような「既に起きた未来の生産量」などがあれば、さらに容易となる)。 しかし、予測範囲が長期に及んだり、予測が外れたときのインパクトが非常に大きい場合(大規模な工場建設のような投資を行うようなとき)は、「シナリオプランニング」と呼ばれる手法が有効です。これは相反する(MECEになっていることが本来望ましい)いくつかのケースを想定して、どのような事態が起きうるかを予めシミュレーションして、かつ対応策を立て実行することです。実行までしなくてはただの遊びになります。 例えば「デフレが突然終焉してインフレになる」、「半導体の需要が急に増える」、「XXX法が改正される」などの仮定で何が起きるかを、シミュレーションし、対応策を実施しておくことは大切でしょう。この場合、「起きそうもない」とか「誰もそんなこと言っていない」などと言ってはいけません。インパクトが大きければ、それ相応の事態のシミュレーションはを行うのは、危機管理以上に経営そのものと言っても良いと思います。 ただ、シナリオプランニングは有名なわりに実施はあまりされていないようです。「通信需要の年率1,000%増加」という安易な予測によって何兆円の投資をしてしまった、米国の通信業界、さらにその通信会社を何千億円で買った日本の会社。シナリオプランニングというきちんとしたプロセスを無視して、「悪夢が頭をよぎった」程度で決断していたのではないでしょうか。
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ナルシストだった小泉首相
小泉首相は異例な高支持率のまま退任しましたが、評価は別として独特のリーダーシップを持っていたことを否定する人は少ないでしょう。マイケル・マコービーという人はナルシストCEOという概念を「なぜイヤなやつほど出世するのか」で述べているのですが、小泉首相にちょっとあてはめて考えて見ましょう。 マコビーはフロイトやフロムの確立した精神分析をベースに人間を四種類の類型に分けています。 1.強迫型人格 几帳面で綿密。ルールと規範を重視する。 仕事上の良い面:着実、堅実 仕事上の悪い面:頑固、細かいことに拘りすぎる 2.エロチック人格 愛情に基づく対人関係を重視する。 仕事上の良い面:他人へのケア、チームワークの構築 仕事上の悪い面:他人への依存、情に流されやすい 3.マーケティング人格 状況、周囲の意見、評価を重視する。 仕事上の良い面:順応性が高い、継続的な自己開発 仕事上の悪い面:信念がない、自己顕示欲が強い 4.ナルシスト人格 自分の考え、信念を重視する。 仕事上の良い面:既存の考えや周囲に影響されず革新的なことを行う 仕事上の悪い面:独善的で暴走しやすい、他者への配慮が足りない ナルシスト人格以外の三種類の人格類型はいつも「正しいことをしたい」と考えています。強迫型人格ではルールに従うこと、エロチック人格では大切な人の愛情を維持すること、マーケティング人格では周囲が適切であると認めることが「正しいこと」です。しかし、ナルシスト人格では正しいことをしたい、しなければならないとは考えません。ナルシスト人格の人にとって基準はあくまでも自分であって、自分以外の何かではないのです。 上記の説に当てはめると小泉首相は疑いもなく、強烈なナルシスト人格を持っていると考えられます。「何と言われようと」「殺されても」郵政民営化を実現したいと思って行動しました。まさに、「既存の考えや周囲に影響されず革新的なことを行」ったわけですが、当然「独善的で暴走しやすい、他者への配慮が足りない」という欠点はあります。 小泉首相がナルシスト人格以外で多少持っていたのはマーケティング人格でしょう。選挙民を説得する演説、刺客候補を繰り出すタイミング、「周囲の意見、評価を重視する」マーケティング人格がスパイスとしてきいているようです。反面全くないのは、エロチック人格です。「他人へのケア、チームワークの構築」など眼中になく、当然「他人への存、情に流されやすい」こともありません。田中外相を罷免したとき街頭インタビューで茶髪の女子高生が「冷たい系」と言っていたのが印象的だったのですが、茶髪の女子高生が何も考えていないなどとバカにしては いけません。実に大衆は上をよく見ているのです。 小泉首相はエロチック人格だけでなく、強迫型人格も殆どないようです。強迫型人格は規範を重んじるのですが「終戦記念日に靖国神社参拝をする」という公約は結局守りませんでした。漫画家の小林よしのりが著書で、形式を守らない小泉首相の靖国神社参拝を無礼と難じていましたが、いたしかたないでしょう。規範を気にしない人格なのですから。 ナルシスト型CEOはマコビーの説では、真に革新的な企業のCEOに共通の人格です。ビル・ゲーツもジャック・ウェルチも多分本田宗一郎もナルシスト型人格だったのでしょう。ここから言えることは、良い悪いを別にして小泉首相は人格、性格的に本物の改革者であるということです。「もっと大切なこと」はいくらでもあるでしょうし、郵政民営化が改革の本丸というのも説得力を欠きます。しかし、そんなことより人格的に小泉首相は自分の必要と思った改革を実行しようとし続けたのでしょう。「自民党をぶっ壊す」というのはレトリックでも何でも なく、全くの本音なのだと思います。 マコビーによると、ナルシスト人格のCEOは改革者ではありますが、危険は山ほどあります。また、当人の信じる改革の方向性 が本当に正しいかどうかは別の話です。とは言え、ナルシスト型人格の本質を見誤り、「自民党をぶっ壊す」を単なるレトリック以上とは考えられなかった、反小泉派がどうなったかはご覧の通りです。人間が営むいじょう、企業も、国家も時として個人の人格が大きく方向を決めることがあるのは事実なのです。
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No1とNo2
No1には側近が付きものですし、側近が時として実質No2の実権をふるいま す。最近の東京都の副知事更迭問題は、そのような関係が往々にして組織に引き起 こす問題を示していますが、No1とNo2の関係をいくつかの類型で見てみま しょう。 1.ジャイアンとスネ夫 一番多くて、一番問題のある関係です。二人はドラエモンのレギュラーメンバーで すが、長い間変わらず登場するのも見ても、子供にも理解しやすい関係なのでしょ う。この場合ジャイアン(No1)は圧倒的なパワーを持っているので、スネ夫 (No2)は弱くてもジャイアンとの距離が近いということだけで、それなりの権 力を獲得します。しかし、その力は自らのものではなくジャイアンの力を借りてい るだけですから、スネ夫はどんなときでもジャイアンに逆らうことはできません。 そしていつもジャイアンにゴマをすって生きていくことになります。 トップは孤独なものですから、どうしても心を許せる側近が欲しくなります。側近 はNo1の側にいる立場を利用して、トップへの情報をコントロールする力を得て 次第に実権をふるい、名実ともにNo2となります。しかも、往々にしてNo1は 引退後、後々の影響力の保持を考えてNo2を次のNo1に指名します。ここでNo 2は、もともと能力、実力ではなくNo1との距離で力を持っていたことを思い出 してください。No2は力のあるタイプではなく、力のない人に取り入る方が得意 なタイプが多いのです。 問題はNo2がNo1になった後、さらに拡大します。力のない元No2のNo1 は実力のある部下を警戒しがちです。もともと能力の低い元No2が、自分よりさ らに実力のない人間を新No2に据え、その新No2が次のNo1になる。このよ うなことを2-3代繰り返すと、会社は能力のないゴマすりだけで、上層部が形成 されることになります。 外部から経営に対する明白なチェックがないと組織は実に容易に硬直化し、なおか つ能力の低い人間が、能力が低い故に指導者になります。このような状況は例を挙 げればきりがないでしょう。何と言ってもある意味で典型的なNo1とNo2の関 係が原因ですから、そうならるのは半ば自然現象と言っても良いでしょう。 2.貴婦人とドーベルマン No1は心優しくて、粗っぽいことはできないので、獰猛なタイプをNo2に据え るケースです。この場合、No2にするより、汚れ役をする部下を持つというやり 方もあります。高級官僚出身の政治家などで、よく見られる関係です。 互いに補完的な役割を果たしているので、一見うまく行きそうですし、確かに安定 的にこのような関係が続くことも沢山あります。しかし、No2側がNo1を心か ら尊敬していれば良いのですが、そうでないと潜在的なクーデターに危険がありま す。この種の人間は、ドーベルマンの役を自ら買って出るくらいですから、実力も あり野心も人一倍強い場合が多いからです。 一方No2というより汚れ役の部下になった場合ですが、こちらは泥を被らされ て、消されてしまうことも実によくあります。「あんなに尽くしたのに!」と慨嘆 するわけですが、貴婦人タイプの経営者は存外冷たい、あるいは自分たちエリート 以外はどうなっても構わないという人が多いのです。 会社の経営は沢山の人間と資源を上手に扱わなくてはならない仕事ですから、綺麗 ごとばかりでは動かないということはあるでしょう。しかし、ドーベルマンや汚れ 役が必要なのは、建前とは別の本音の部分が裏として存在しているからです。この ようなものが必要なのはどこか間違った方向に会社が進んでいる可能性が高いと考 えても良いのはないでしょうか。 3.ビジョナリストと実務家 会社が大きく成功するためには、ゴマすりや汚れ役をNo2に選んではいけませ ん。会社を大きく成長させるには、遠大なビジョンと確実な実務能力の両方が必要 ですが、この二つのNo1とNo2の分担がうまく機能すると、大きな成功を納め ることができます。 典型的な例としてよくあげられるのは、本田技研の本田宗一郎と藤沢武夫です。本 田宗一郎は夢想家と職人と学者を合わせたような人ですが、その下で長く女房役と して支えてきた藤沢武夫は、非常に実務的な経営者でした。本田宗一郎はF1に出 たり、日本でも無名なうちにアメリカに進出を企てたり、必要な資源を綿密に考え て行動を起こすタイプではありませんでした。「これをしたい。これをやるべき だ」というものに突き進む、いわゆる「ナルチスト型人格」の典型です(人格の類 型については「嫌なやつほど何故出世する」を参考のこと)。これに対し藤沢武夫 は典型的な「強迫神経症型人格」で、必要なことをきっちり、しっかり行うことに 全力を尽くしました。 素晴らしかったのは、本田宗一郎は藤沢武夫を信頼し、藤沢武夫は本田宗一郎を尊 敬していたことです。うっかりするとナルチスト型のNo1は「あいつがケチなこ とを言うから会社は飛躍できない」と怒ったり、その逆に強迫神経症型のNo2が 「こんなにめちゃくちゃじゃ、もうやってられない!」となるはずなのに、そこは しっかり二人三脚で事業を伸ばしたのです。 このようなビジョナリストと実務家の組み合わせはソニーの井深大と盛田昭夫にも 見られます。戦後日本の生んだ最も偉大で革新的な二つの企業がともに、このよう なNo1とNo2の組み合わせだったのは全くの偶然とも思えません。世の中には 本田技研やソニーと同じように急成長した企業は沢山ありますが、多くはビジョナ リストと実務家を一つの人格に併せ持った経営者が引っ張っていったケースが多い のです。一人で何でもやるわけですから、ある意味個人的な能力はより高いと言え ますし、一人の分能率があがる点もあるでしょう。 しかし、優れたNo2を持たないNo1は暴走する危険が大きく、いったん暴走す ると、止める人はいません。多くに急成長企業がトップの暴走で、社会的指弾をあ びる、あるいは事業が傾くという状況になる例は枚挙に暇がありません。No1と No2がコンビで会社が発展する、というより良いNo2を得ることができる、慕われ るというが良いNo1の条件下もしれません。 4.参謀型No2 実力のある参謀は組織に取って重要です。この場合参謀は企画能力に優れた冷静な 分析家というケースが多いのですが、有能なリーダーは優秀な参謀を得ることに努 力します。秀吉が竹中半兵衛を礼を尽くして自分の部下になるように説得したとい うのは話として有名です。もっとも、これは三国志で劉備が諸葛孔明を得るために を三顧の礼を尽くたという話の焼き直かもしれません。 ( 話が講談話めいたついでに、この話を続けると、(少なくとも講談話のレベルで は)竹中半兵衛が補佐的な参謀に徹したのに対し、諸葛孔明は参謀というより、総 理大臣と軍司令官を兼ね備えたような立場でした。この意味で、竹中半兵衛は参謀 タイプの典型ですが、諸葛孔明は劉備というオーナーに経営を委嘱されたCEOに近い のかもしれません。昔の財閥の大番頭も同じような立場でした。 参謀型No2は3の実務家タイプと一見似ていますが、実務家が実行に徹するのに対 し、参謀は実行力より綿密な分析力を得意とします。本当は分析しているだけでは ダメで優秀な参謀は高い創造力があり、他人が思いつかないような戦略を考えま す。本当の軍隊が戦争をする時は、相手と同じことしか思いつかないのでは、意表 をつくことは出来ません。企業も同じ事をしていては競争に勝てませんから、企画 マンにとって創造力は大切です。 問題は参謀型をNo2からNo1にする場合に生じます。参謀型の人の多くは、分析力、 創造力に優れていても、リーダーシップやカリスマ性はあまりありません。そのよ うなものはN02を引き上げたNo1が持っていれば良かったわけです。参謀型の元No2が No1になっていきなりリーダシップを要求された時、得てしてスネ夫タイプやドーベ ルマンタイプのNo2を登用したります。どうなるかは、1、2で説明したとおりで す。 No1とNo2は文字通り会社のトップのNo1とNo2の間に限りません、組織である限りNo1 がいて、多くの場合何らかの関係を持つNo2がいます。No1とNo2がどのような類型に 関係がおさまるかで、組織の活力が決まると言っても過言ではありません。
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トリアージュ
トリアージュ-Triageフランス語で「選り分ける」という意味です。第1次世界大戦 で緊急を要する患者と、そうでない患者を選り分け、一刻も早く兵士を戦場に復帰 させるために使われました。現在はER、緊急病棟で緊急の患者を見分けるためにト リアージュが患者受付の最初のプロセスになっています。 しかし、医療の中でトリアージュというのは時として少し違ったニュアンスで使わ れます。後で治療すればよい患者を後回しにするのではなく、治療しても助かりそ うもない患者の治療放棄を決断するのです。 大地震など大規模な災害、事件が発生したとき、一時に病院の処理能力をはるかに 超える患者が発生することがあります。このような時、「どうせ死んでしまう」患 者に貴重な医療資源を使わず、「治療すれば助かる可能性の大きい」患者の治療を 優先するのです。鬼手仏心という言葉がありますが、仏心というより「心を鬼にし て」という方が実感かもしれません。 トリアージュという言葉は、英語国民にはかなり普及した言葉であり、また概念で もあります。「優先順位を付けて、全体最適を図りなさい」という考えは、どちら かというとセンチメンタルな判断に傾きがちなわが国民には馴染みにくいのかも知 れません。
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怪力乱神を語らず
論語で「君子は・・」、「小人(しょうじん)は・・・」という言い方をよくしま す。 この場合、現代では「君子=徳や教養を積んだ立派な人」、「小人=徳も学 問もないつまらない人」と考えるのが普通でしょうが、時代背景を考えると「君子 =貴族、支配階級」、「小人=庶民、被支配階級」と考えるのが妥当なようです。 論語には「小人閑居して不善をなす: 小人は暇だとろくなことをしない」という ようなものもありますから、これでは論語が封建的、差別的で古くさい書物と言う ことになってしまうかもしれません。 しかし、君子=経営層、小人=一般社員と考えることは飛躍でも何でもなく、論語 を一種のマネージメントの教育書と考えることも可能です。昔の日本で中国の古典 を学ぶことが社会の指導者の条件だったことは、その意味で極めて妥当なことだっ たのでしょう。逆にMBAも普及せず、かといって漢文を読むこともなくなった多くの 現代日本の経営者、管理者はマネージメントを学問としてきちんと学んでいない、 とも言えます。 その論語の中で「子は怪力乱神を語らず: 先生(孔子)は神や不思議な力などを 語ることが決してなかった」という一節があります。「子」で「君子」ではありま せんから、孔子自身が言わなかったということですが、「君子=指導層」は怪力乱 神を語るべきではないと孔子が考えていたとしてもよいでしょう。ここで孔子は 「怪力乱神を語らず」と言っていても、神や不思議な物を信じるなと言っているの ではありません。密かに経営者、政治家が占いに頼ったりするのは、一人で決断し なくてはならない立場の人にとって、ある意味仕方のない場合もあるわけですし、 神を含め超越的な存在に敬意をはらうことは悪いことだとはしていないのです。た だ「語らず」と言うのは、人を指導する立場にある人間が色々の事柄の理由付けや 説明に神だと何だのを持ち出すことは良くないと孔子は思っていたのです。確かに 経営者が大規模な投資の意思決定の理由が星占いとか細木数子のアドバイスだと説 明したりしたら、株主代表訴訟の対象になってもしょうがないでしょう。 星占いを持ち出す経営者はあまりいないと思いますが、いわゆるきちんと筋の通っ た説明、理由付けをしない経営者は結構います。理由付け、説明がないということ は、正しいか間違っているかの判断を他人が出来ないわけですから、「怪力乱神を 語」っているのと同じことです。君子はそのようなことをしてはいけないのです。 他人がきちんと判断できるということは、場合によって反論も可能だということに なりますが、この「反論可能性」というのは大変重要で、科学哲学の先駆者のポ パーは「科学的=反論可能性を持つ」という定義をしています。 それではどのようなことが「反論不能」なのでしょうか。ポパーはまず「AならばB が成立する」という文を基礎に考えます。「質量があれば引力がある」というよう なことですが、少し読み替えて「Aという理論が正しいのでBという現象がある」と 言ってもよいと思います。つまりBという現象が発生する理由はAなのだと説明して いるわけです。もしBという現象が実は発生しなければAという説明、つまり理論は 間違いだということになります。反論不能とはこのように間違いと証明されてしま う可能性がないということですから、以下のようなものです。 1.定義が明確でない 「AならばB」と言っても、実はAとかBの定義がはっきりしないと反論のしようがあ りません。「美人は得だ」と言っても美人とか得の定義が明確でないと困るわけで す。 2.検証の方法を否定している 一般的な怪力乱神のたぐいの多くがこれになります。「信じなければ見えない」と 言われてしまっては検証のしようがありません。検証しようという行為そのもの が、正しさを壊してしまう(量子力学の不確定性理論は確率分布という「検証可 能」なものを提示しているのでこの仲間ではありません。念のため)という理屈で す。ネス湖の怪獣も、ユリゲラーも、UFOも信者にはこのタイプが多いですし、カル トも大体このあたりの理屈に逃げてしまいます。 3.同義語反復(トートロジー) いつも絶対正しいことは実は科学的ではないということです。「XがYより大きけれ ば、YはXより小さい」というたぐいの話ですね。これでは反論可能も何も、そもそ 議論する意味がありません。しかし偉さそうな話をする人の中に、よく考えてみる とこの種の話が多いのです。「この投手は調子が良いので打たれませんね」、「名 経営者なので業績が向上しています」・・・。 上の全部はポパーや論語を持ち出さなくても科学的でもないし、生産的でもありま せん。実はどこかの占い師が言った「やわらちゃんは結婚して姓が変わると金メダ ルを取れない」というのは、間違っていましたが「反論可能」だという点では科学 的です。この占い師、最近はこのような「科学的」明言は避けて「ずばり言うわ よ」と反論不能な事を言うように気をつけているようです。君子ではなくても金儲 けは上手なのでしょうね。
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選択バイアスの罠
蕎麦屋の二代目の息子が親父に相談を持ちかけました。「亭主がイタリア人の知り 合いがいるんだ。この前聞いたら、日本に来る前はナポリのピザ屋でコックをして いて、本場のうまいピザが作れるらしんだ。今度一緒に組んで、ピザの店を始めよ うと思うんだけど。どうだろう?」 それを聞いた蕎麦屋の親父は言下に「駄目だ な」とニベもありません。むっとした息子が「何故、ダメだと思うんだ」と聞く と、親父が答えていわく「ピザの店なんか失敗するに決まっているよ。オレは30年 蕎麦屋をやっているけど、その間誰もピザの注文なんかした客はいないから ね・・・」 統計学である母集団を選び出したとき、母集団の選び方が不適当で、誤った結論を 導いてしまうことを、選択バイアスによる現象と説明します。HBRに寄稿したジャー カー・デンレルは、ケーススタディーは殆ど成功事例を集めて研究しているため、 そのかげにある失敗事例を無視しており、選択バイアスの罠に陥りやすいと警告し ています。 冒頭の例では蕎麦屋の客を母集団にしてピザのビジネスの見込みはない、としてい ますが、もちろん蕎麦屋の客は最初からピザを注文する気はないので、これは意味 のない分析です。ところが、ビジネスの世界でよく言われる、 ・コアビジネスに集中する ・クロスファンクションチームを結成する ・個性的な企業文化を醸成する などの施策の価値は、成功した企業だけでなく、それらの施策故に失敗した企業の 分析をしなければ、どこまで安心して適用できるかは本当には判りません。 記事の中では、第2次世界大戦中、帰還した飛行機の被弾頻度が高い箇所を補強しよ うとした軍に、統計学者が「戻ってきた飛行機ではなく、墜落した飛行機の被弾が 問題だ。戻ってきた飛行機の被弾の多い部分は、もっとも補強しなくて良い部分で あり、被弾の少ない部分こそ補強すべきだ」と指摘した例が述べられています。 選択のバイアスの罠は成功例と併せて失敗例研究することにより回避することがで きますが、失敗例は実際上、隠されたり、埋もれてしまったりしていて、なかなか 分析できません。ビジネスの場合、選択のバイアスは、優れた業績はさらに優れた 業績を生み出すという事実から一層補強されます。10回レースを行って全てに勝利 を収めたレーサーの成績も、最初のレースでリードしたタイムの分だけ、次のレー スで先にスタートできるルールのもとで達成されたとすると、それほど驚くもので はなくなります。ビジネスでは優れた業績は、豊富な資金、高いブランドイメー ジ、整備された販売チャネル、など次の好業績へのレールとなるので、成功企業の 長期間の好業績を、最初の(ある意味偶然の)好業績のせいか、独特な戦略のせい か区別はつきにくいのです。 選択バイアスの罠は、ケーススタディーでもアンケートでも、色々な局面、場合に 存在します。事実に基づいてコンサルティングを行うのは基本中の基本ですが、そ の事実自身がある種のバイアスがかかったものにならないようにする注意はいつも 必要です。
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「なぜ選ぶたびに後悔するのか―「選択の自由」の落とし穴」バリー シュワルツ (著) ランダムハウス講談社
私の携帯電話は4年前に買ったAUの機種で、カメラすらありません。実は一度息子 を連れて携帯ショップに行ったのですが、大きさ、メモリー容量、カメラの画素、 色、形などあまりに沢山の選択肢があって、とうとう決めきれずに終わってしまい ました。こんな経験は誰でもあると思うのですが(4年前の携帯の話ではなく、迷っ た挙げ句に決められなくなってしまうということです)、現代社会は選択の自由が 人間を不幸にすることがあると本書は指摘します。 現代はあらゆる意味で選択が与えられる時代です。衣服、食事、遊びだけでなく、 職業、学校、生き方そのものも昔とは比較にならない自由な選び方ができます。し かし、それで本当に幸せになったのだろうかと著者は問いかけます。日本はもちろ ん、自由の国アメリカでも選択肢の数は益々増えています。「選択の自由」こそ自 由の本質であるとアメリカ人は考えてきましたし、その意味でアメリカ人の幸福度 は昔よりはるかに増大しているはずです。客観的にはそうなのかもしれませんが、 主観的にはどうも違うようです。現に、アメリカでは30年前と比べ人生を幸福と感 じる人は減り、鬱病が爆発的に増えています。自殺の数も増加の一途をたどってい るそうです。どうも選択の自由が多くの人に抑圧的な影響を与えているようなので す。 鬱とは本来、自分ではどうしようもない(と思った)状態に置かれたときに発症し ます。動物の実験では、電気ショックをモルモットに与え続けると、最後はモル モットは何もせずにうずくまり、まさに鬱の症状を呈するそうです。しかし、人間 は選択肢が多く自分で何でも決められるときにかえって鬱に陥ってしまうことがあ るようなのです。筆者は「もっと良いものがあるはずだ」と選択肢を追い求める人 をマキシマイザー、「これでも十分だ」と思う人をサティスファイサー( Satisficer)と呼んでい ます。想像通り鬱病になりやすいのは、マキシマイザーの方なのです。客観的には マキシマイザーの選ぶものはサティスファイサーと比べてずっと優れているはずで す、事実そうでしょう。しかし、マキシマイザーは最良のものを得ようと「機会の コスト」を無視して努力して結果に満足することはできません。何故ならどんなも のも「この世で最高」とは言えないからです。 現代は情報化社会です。世界はネットワークで結ばれ、「最高」とは世界最高のこ とになります。本当の一流の野球選手はメージャーで活躍しなくてはなりません し、企業はグローバルなマーケットで競争します。個人もマキシマイザーを満足さ せようとするとどのようなキャリア、学歴、配偶者を世界レベルで評価することに なります。これは勝者は殆ど存在しない社会です。 一方、人間の恐れの中で「後悔する」ことは非常に強いものがあると言われていま す。そして後悔は自己の決断に結びついています。まずい食事も、自分で決めたレ ストラン、自分で決めたメニューではなく、社員食堂の定職なら「まずい」とは 思っても後悔はしません。自由な意思で、自分の管理のもとに決断できる場合にだ け後悔は存在するのです。 埋没コストの発生も後悔を恐れる気持ちに根ざしていると筆者は指摘します。本来 あらゆる合理的な決断は過去にどのような投資を行ったかでなく(高い予約チケッ トを買った。ブランドの服を買った。研究費を10億円使った・・・)ではなく、未 来に最も効率的な投資は何かです。高い経費をかけて、はるばる大物つりにきた釣 り人は、雑魚しか捕れなければきっとがっかりするでしょうし、後悔するでしょ う。しかし、シマウマを追いかけていたライオンがたまたまウサギ(そんなものア フリカにいるのかな)を捕まえたからといって、がっかりはしません。後悔そして 埋没コストは極めて人間的な反応なのです。 本書は幸福を捕まえたければ、ほどほどつまりサティスファイヤーを目指せと言い ます。努力、努力で最高を目指し頑張るのはグローバルな世界では敗者を約束され たようなものだというわけです。もっとも、それでは世の中が進歩しないでしょう ね。IBMの創始者のワトソンは「Glorious Dscontent」名誉ある不満と言って、 社員が不満を持つことを奨励してしていましたが、トヨタもGEもきっといつも不 満を持つ、マキシマイザーのはずですから。 と、ここまで書いて、気がついたのですがここで人生論を展開する気はなかったの です。実は選択の自由からくる不決断をどのように避けるかを言いたかったわけで (これは人生論ではなくビジネス論です)、以下のような注意があります。決断を うながす(つまり売る)ためには、 ・ただやたらと選択肢を増やすのは危険 ・アンカリングのテクニックは有効。つまり、何かベンチマークとなる値段が高 い、品質が悪い、その他お勧め商品を際だたせるようなものを一緒にする(割引品 の隣に定価の品物をおくとよく売れる) ・埋没コストの罠にはまらないようにする(こんなに調査費用をかけたのに!)。 逆に埋没コストを利用する(ここまで頑張ったのに、いまさら勿体ないでしょ う)・・本当はこれは詐欺的(商品相場の営業がよくやりますね) などなど、でもマキシマイザーの罠には、顧客も自分もはまってはまずいですね。 確かに。
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無能とは何か
人は自分のことを大概、他人より高く評価しがちだと言われています。一方、無能 な上司は無能な部下を優遇しがちであるとも言われています。アメリカのコーネル 大学の二人の心理学者が、この問題に科学的に取り組んで見ました。 「Unskilled and Unware of It: How Difficulties in Recognizing One’s Own Incompetence Lead to Inflated Self-Assessments」: Justin Kruger, David Dunning 2人はユーモアのセンス、論理力、文法などいくつかのケースを取り上げ、それぞれ について初級者から上級者まで4段階に分けてテストを繰り返しました。その結果判 明したのは、予想通りとは言え、あまりにも明白な結果でした。それは、 1:初級者ほど自分の実力に対する評価誤差が大きく、かつ高く評価する傾向があ る 2:初級者ほど他人の能力を評価するときの誤りが大きい という二つの事実なのです。つまり、「無能」であるということは、単に何かを上 手に出来ないだけでなく、「無能であっても自分は結構できると評価」し、かつ 「他人の無能さ有能さは十分に認識できない」ということなのです。論文では厳密 なテストを行ってはいませんが一般論として、テニス、チェスなどでも初級者ほど 自分の能力を見誤りやすいことも述べられています。 さて、この結論を人事評価にまで広げてしまうのは異論もあるでしょう。人事評価 は文法力のような単一の能力だけを評価するのではなく、協調性や目的達成への執 念なども勘案されるからです。しかし、「名選手かならずしも名監督ならず」とい う言葉の反面、「あんなバカにとやかく言われたくないよ」と思うことは誰にでも あるでしょう。例えプログラミングのようなものでも、恐らくヘボプログラマーに は名人プログラマーの本当の凄さは理解できないのです(バグが出ないとか、一晩 で仕上がったという結果ベースでは評価できるでしょうが)。 したがって、一般的には「上司は自分を高く評価してくれない!」というのは、そ んな愚痴を言うこと自体が無能の証拠であるケースが多いのですが、世の中には少 なからず「自分の無能さに気づかないまま、誤った人事評価を繰り返す」上司が出 現する可能性はあるわけです。このような上司は自分が無能な上に無能な人間を昇 進される危険が高く、無能は拡大再生産されることになります。いわゆる「類は友 を呼ぶ」の無能人間版ということになります。しかも、無能な上司は自分自身を有 能な上司以上に過大評価する傾向があるわけですから、「お前はわかっとらん」と 喧嘩をしても、ただただ人間関係を悪くするだけの結果になってしまいます。 悲観的なことばかり書きましたが、どんな人間でも不得意な分野や不慣れなことは あります。そんなとき、自信がないからといってチャレンジするのを尻込みするよ うではいけませんが、知らない分野は「自分がどれほど理解していないかすら、正 しく把握できていない」という自覚を持って、事に当たることは必要でしょう。特 に人の上に立つときは「知らない分野の人間の評価は不正確にしかできない」とい う心構えを持つことは、絶対に必要です。そんな心構えさえあれば、拙速な評価、 間違った評価をする前に、その分野のエキスパートの意見を聞くようなことも可能 になるはずです。 ソクラテスは不知の知「知らないということを知っている」ことの大切さを説いて いますが、「知らないことは、実際に知らない以上に知っていると思いがちだ」と いうことを認識するのは、大切なのですね。
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アロウの一般可能性定理
A>BでB>CならA>C。当たり前ですね。数学でなくでも、「肉のほうが魚より好き、野菜より魚が好き、もちろん野菜より肉が好き」ということになりますが、これを推移律と言います。当たり前みたいなのですが、この推移率は複数の人が意思決定を行おうとすると一般には成立しません。 今、美人コンテストの最終段階でX嬢、Y嬢、Z嬢の3人の美女が残ったとします。審査員も3人いて、それぞれ順位をつけてます。 A審査員 X>Y>Z B審査員 Z>X>Y C審査員 Y>Z>X B審査員はZ嬢を断然押していますがこのままだとZ嬢に決まるかどうかわかりません。そこで一計を案じ「X嬢とY嬢とどちらがいいかな」と問いかけます。Y嬢の方が良いと思っているのはC審査員だけですから、X嬢が残ります。そこで「Z嬢とX嬢のどちらかいいかな」と聞いてみます。そうするとX嬢の方が良いと思っているのはA審査員だけですから、Z嬢に1位が決まってしまいます。 この類の話は経済学者や論理学者のおもちゃとしては面白いのでいっぱいあるのですが、少なくとも複数の案件を複数の人で順序付けなどの意思決定をしようとすると大きな落とし穴に落ちる可能性を示しています。一般的には多数決で物事を決めると、決め方で思わぬものが選ばれることがあります。よくあるやり方ですが、「過半数を制するものはない場合上位2つで決選投票」という方式のとき、1回目の投票での最大得票者が選ばれる確立は候補が10以上あると5割程度になってしまいます。つまり、一発勝負で決めるか上位二者決選投票方式にするかで結果は大きくずれるのです。 小泉首相の郵政解散はそのような意味で意思決定のプロセスを自分の有利なようにコントロールした典型的な例でしょう。本当は民主党の岡田代表の言ったように「もっと大切なこと」は山ほどあるのですが、先ず「郵政民営化に賛成ですか?」と聞いて、選挙には先ず勝ってしまう。後の意思決定は、その票数の差をベースに別個行う。誰が考えたのか知りませんが、民主主義の操縦としては大したものとしか言いようがありません。 そもそも「民主的」とはいったいどのようなことを意味するでしょうか。これには学問的には定義があって、個人の選考の自由、全員一致の決定への服従、決定事項以外の事項に決定は影響されないという3つの原則を満たすことになっています。どれも当たり前のような三原則ですが、実は3原則すべてを認めると「一人の人の 決定に全体の決定が左右される」つまり独裁者の存在を許すという結論が論理的に導かれます。これはアロウの一般可能性(または不可能性)定理と呼ばれる有名な理論で、アロウはこの理論でノーベル経済学賞を受賞しています。 話が小難しくなりすぎましたが、意思決定やり方次第で結果が左右されるということは、もっと広く理解されてしかるべきでしょう。意思決定だけでなく世論調査も質問の方法、順序により大きく結果が異なるのは容易に想像できます。これから議論になりそうな、憲法も部分修正、一部解釈変更、全面書き換えなど多々選択肢があり、もって行きかたに結論はまったく違ってくるでしょう。
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