ビジネスのための雑学知ったかぶり
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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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1年間落下を続けると・・・
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いきなり物騒な話ですが、30メートル、8階建てのビルの屋上から飛び降りたらまず助からないでしょう。このとき地面には時速80-90キロで激突します。20階、30階とビルの高さが高くなれば、激突するスピードはどんどん大きくなりますが、空気の抵抗でスピードは段々抑えられ、一定の速度以上になることはありません。どんなに高いところから飛び降りても、最高速度は200キロ前後です。空気がなければ速度はどんどん速くなりますが、これはもちろん地球に重力があるからです。

地球の重力の力を1Gと表します。もし車が1Gで加速すれば、スタートから400メートル、いわゆるゼロヨン加速は9秒程度、時速100キロには2.83秒で達します。これは市販のどんなスポーツカーも圧倒するすさまじい加速です。ちなみに1千6百万円する415馬力のポルシェ911 GT3 RSは時速100キロに到達するのに要する時間は4.2秒ですが、これは0.7G 弱に相当します。スペースシャトルは打ち上げの時3Gで加速し、地球の重力とあわせて4G の力がかかります。つまり体重は4倍になってしまいます。これではやはり特別に訓練を受けないとスペースシャトルには乗れません。

宇宙空間に出て、定速飛行になると無重力状態になるのですが、加速をやめなければ加速する方向と逆に「仮想」の重力が発生します(一般性相対性理論では「仮想」ではなく、重力と同一のものということになりますが)。1Gでどんどん加速を続けると、地球にいるのと同じ重さを感じて宇宙旅行を続けることができるので、宇宙飛行士の健康には大変好ましい状態になります。それでは1年間1Gの加速を続けるとどのくらいの速度になるでしょうか。桁がやたり大きくなるので、直感的に推察するのは難しいですが、ほぼ光速に達します。

空気のない高いところから飛び降りて1年間落下を続けて光速に到達できるということになるわけですが、もちろんそんな場所は存在しません。そこまで高いところだと地球の引力も、ごくごくわずかしか働かないので1G では加速しないからです。それでも、1年間自由落下を続けてやっと光速になるということで、光の速度が多少実感できるかもしれません。では1年間1G で加速し続けるには、どのくらいの燃料が必要でしょうか。

スペースシャトルは5分程度で衛星軌道に乗る速度(秒速8km)に達しますが、その間に2,000トンの燃料を消費します。1年間1Gの加速を続けるための燃料というと、それの数万倍、多分1億トンくらいの燃料が必要になりますが、それではロケットがあまりに大きくなり過ぎるでしょう。相対性理論の有名なE=mc2,という式は、物質がエネルギーに変換すると、質量に光速の二乗をかけたエネルギーを発生することを示していますが、光速になるまでには、それのちょうど半分のエネルギーが必要です。一度光速に達した後、1Gで1年間減速すると考えると速度がゼロになるまでに、また同じだけのエネルギーが消費されます。合計すると1年間1Gで加速し、次に1Gで減速するような宇宙船は、自分と同じ重さの燃料を全てエネルギーに変換することで、やっと実現できることになります。

E=mc2,を利用しようとすると、物質を全てエネルギーに変換するようなエンジン、反物質エネルギーエンジンのようなものが必要となるわけです。こんなエンジンを作る見込みは今のところまったくないので、これはそれこそ机上の空論です。それでは現実的(?)に、火星探査船の速度、秒速20kmの5倍の秒速100km程度のロケットで宇宙飛行をしようとするとどうなるでしょう。秒速100kmで光が1年間に進む距離、1光年を旅行するのには、3千年くらいかかります。地球から一番近い恒星のケンタリウス星は4.22光年離れていますから、1万2千年ほどかかることになります。

光速に到達できるようなエンジンを作るのと1万2千年宇宙旅行を続けるのと、どちらが実現可能かは考え方によりますが、少なくとも後者であれば人間の生存を前提にしなければ不可能とまでは言えません。地球に良く似た星(似ているという言葉の定義にもよるでしょうが)が、どの程度地球の近くに存在するかはわかっていませんが、10万年から100万年くらいの宇宙旅行で地球型の惑星に到達できる可能性はあるでしょう。もちろん、人間が生きたまま、その地を踏むことは不可能です。

生きたままの人間を100万年宇宙旅行させることはできませんが、冷凍卵子と冷凍精子を人間の代わりに地球型の惑星に送って、そこで地球の文明を再び開花させることは、理屈の上ではできそうです。でもそんなことをする価値があるでしょうか?価値があるかどうかは、科学というより哲学、宗教の範疇でしょう。

キノコは繁殖するのに、胞子を飛ばします。キノコの形のままで風に乗ってどこかに行こうとしても、そんなことはできません。キノコは繁殖のために丈夫で軽量な胞子を空気中に放って、子孫を増やすのです。もし、人類が自分たちの遺伝子を宇宙にばらまき、それによって人類を繁栄させようと考えるのなら、生身の人間を送るより、冷凍卵子、冷凍精子を宇宙に撒き散らすほうがずっと賢い選択です。というより、それ以外の方法はないでしょう。100万年後にどこかの地球型惑星で人類が発展を始めたなら、自分の遺伝子の繁栄を追及してきた地球生物の歴史を人類が科学の力で忠実に繰り返すことになります。

人類は地球に満ち溢れていますが、5百万年前に人類と分岐したチンパンジーはアフリカに閉じ込められています。アフリカからヨーロッパ、アジアと広がっていくことはチンパンジーはできませんでした。人類は道具を作り、他の獣の皮を身にまとうことで気候の壁を乗り越えてアフリカから脱出することができたのです。しかし、人類もポリネシアの島々に広がることができたのは、高々この数千年に過ぎません。航海術を獲得するまでは、離れ小島に移住することはできなかったのです。

ドーキンスの書いた「利己的な遺伝子」という本があります。人間は(他の動物も同じですが)遺伝子を中心に考えると、遺伝子の乗り物でしかなく、遺伝子は乗り物を利用しながらコピーを増やそうとしている考え方を著しているのですが、それでも個々の人は自分の利己にしたがって生きていると思って、結果として遺伝子に利用されているということで、遺伝子に操られているという自覚があるわけではありません。もし、100万年の宇宙旅行を可能にするような技術を開発しようとすれば、ロケット、コンピューター、生命科学で膨大な研究開発が必要でしょうし、そのために必要な資源は莫大なものになるでしょう。いくら投資をしても、見返りは100年後の人類の繁栄であって、自分の繁栄ではありません。こんなことを人類が実行する日が来るでしょうか?

100万年の宇宙旅行への投資などは世俗的な人間の欲望から考えると、一見とてもありそうにも思えません。しかし、人類の歴史を振り返ると、戦争は自分たちの遺伝子を増やそうという欲望が根本にあることは確かです。それは、現代のように戦争は殺し合いだけで遺伝子の繁栄という観点でまったく割が合わなくなっても同じです。ジンギスカンが自分の遺伝子をばら撒こうとして(そう意識していたわけではないでしょうが)、大帝国を作ったものと同じ欲望が、人類を何度も破滅させることができるほどの核兵器を生み出し、今も増やし続けようとしているのです。ばかばかしいように見えても、人類は時々とてつもないことを実現します。大神殿、大航海そして核兵器、100万年の宇宙旅行も案外実現しようとする日がくるかもしれません。
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テーマ:進化論的組織論 - ジャンル:政治・経済

ゴーン改革の未来
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GMがカルロス・ゴーン氏の率いるルノー、日産グループとの提携を拒否して、今後の行方に懸念が高まっています。一方、ルノー、日産グループも利益率の低下など問題が表面化してきています。特に日産はゴーン・マジックとも言われた急回復が最近息切れし、トヨタ、ホンダが増益を続ける中、減益となり将来への不安説も出てきています。いったい日産はどうなるのでしょうか。

将来の日産を考える前に、日産がルノーの出資を受け入れ、ゴーンが日産の事実上のトップ(当初はCOOだったが、すぐにCEOになった)で乗り込んできたときのことを思い出してみましょう。日産着任の前からゴーンは「コスト・カッター」として知られていました。ルノーのベルギーの工場閉鎖はベルギー政府との軋轢も生じたのですが、ゴーンは実行しました。彼が「日産リバイバルプラン」と名づけて、日産に対して行ったことも、基本はコスト削減です。村山工場の閉鎖、ディーラー網の再編と直営ディーラーの20%削減、世界で14万8千の従業員のうち2万1千を削減、1145社の納入業者を600に絞込み、などの諸策が功を奏して、日産は倒産寸前の状態から驚異的な回復を遂げ、着任の翌年には早くも史上最高益をあげました。

好業績を見て最初は懐疑的、批判的だったマスコミの論調も一転し、ゴーン氏は一躍ヒーローとして扱われることになりました。一方コスト削減を原資にして最高益を達成したことへの批判もありました。典型的なものとしては、「コスト削減で会社を再建するのは簡単だ。コスト削減で日産の長所、取引先との関係など失われたものは数知れない。今はいいが将来は大きな不安が残る」という論調もよく聞かれました。しかし、この批判は的外れとは言わないまでも、ゴーンの功績をはなはだしく軽く見ていると言ってよいと思います。

まず、コスト削減で業績向上するのは一見簡単ですが、そではありません。アメリカではコスト削減で業績向上を目指すというのは渡り鳥経営者の得意技ですが、うまくいくことはむしろ少ないくらいです。ほんの1-2年の取り繕いはできる場合でも、コスト削減の結果、顧客と従業員の心が離れて、再びコスト削減を行うというデス・スパイラルにはまってしまう方がむしろ多いのです。それどころか、日本では肝心のコスト削減自身もしがらみに囲まれて中途半端に終わり、残ったものは従業員の不信感だけとなることもまれではありません。その意味でゴーンの日産でのコスト削減は社員の志気の向上や、顧客の増加というプラスの結果を生みだし、時間的な素早さも含めて日本では極めて成功した例と考えてよいでしょう。

ゴーンは単なるコスト・カッター、財務屋ではありません。むしろ、テストコースを自らハンドルを握って新車のテストを行い、通勤はポルシェ(事故を起こして明らかになったのですが、今でもそうかは知りません)という車好きです。また、レバノン生まれで、ブラジル育ち、アメリカ、フランスでのビジネスの経験が長いという根っからの国際人で、自ら日本語を勉強し、夫人に日本でレストランを開業させたくらい日本に溶け込もうとしました。これは日本にいる海外のビジネスマンで、特にゴーンのような高い地位にある人間ではきわめて例外的です。ゴーンは車が好きで、日産の社員と一緒に良い車を作って、業績を上げようとしたことは間違いありません。

自動車産業は巨大で高度な技術を集約した非常に複雑な業界です。しかし、自動車会社を評価するのに、簡単な方法があります。それは街を走る車を見て、格好が良いと感じられる車を作っているメーカーは大体うまくいっているということです。これには玄人好みの評価ではなく、むしろ一般のつまり普通に車を買うような人の評価がより重要になります。ゴーンの来る前の日産は、不思議なほど無個性でつまらない車が多かったのですが、ゴーンが着任してから日産の車は、急に格好良くなりました。プリメーラ、シーマなど完成度の点でトヨタに劣っているという批評もあったようですが、アグレッシブで個性と主張があり、乗ってみたいと思わせる車が発売されるようになったのです。ゴーンは車のデザインを変えるため、デザイン部門を技術部門と独立させ、技術や経済性にデザインが妥協を強いられることを小さくしようとしました。また、デザイン部門のトップに他メーカーからデザイナーを招きました。これは日本の自動車会社では、ほとんど考えられないことでした。

ゴーンはマネージメントの責任感を明確にするため、コミットメントという考えを強く打ち出しました(ゴーンが日本に来て間もないころ、前会長が「この会社は危機感がないんだよ」と悠然と言うを聞いて仰天したと書いています)。また、部門間の壁を打ち破るため、CFT(Cross Functional Team)と呼ばれる業務改革チームをいくつも立ち上げました。全体としてみるとゴーンは、日産の問題点を明確に認識し、正しく戦略を立て、着実に実行したと言えるでしょう。ゴーンが腕の良い経営者と言ってよいでしょう。

しかし、過去にうまくいったことが、このままうまくいくかどうかは別です。コミットメント重視は、実質的な部分を見る洞察力を欠いていては、数字だけを追いかける業績至上主義に容易に堕落します。CFTも全社的な展開を目指したVUP(Value Up)プロジェクトを多数作り出してから、数をこなす形骸化の兆候が出てきているようです。さらに、ゴーンがルノーと日産のダブルCEOになって、日本とフランスの往復を繰り返すようになって、次第に現場を見られなくなってきている事実があります。ここで現場を見るとは、ディーラーや工場を大名行列で訪ねて、社員とにこやかに握手する写真を取ることではありません。現場の問題点を直に本音で探るということです。ゴーンはもともとは、問題点を聞き出し理解する能力は非常に高いと思われますが、彼も人間ですから時間がなくてはできることは限られています。

私が一番気になるのはGMを食べてしまおうとした、ゴーンの問題認識です。普通に考えると、規模が小さいことがGMの問題には思えません。売上げに比べ、従業員、工場その他、過剰の資産が多いのは確かでしょうが、そのような資産をたとえば日産の米国工場の変わりに利用しようとしても、GM、フォードの最大の問題と言われる退職者への医療費保険の支払い問題が解決するわけではありません。結局自動車メーカーは格好が良く、性能、品質の優れた車を安いコストで製造し、行き届いたサービスとともに提供する以外に、必勝の戦略などありません。自動車業界はPCなどと比べれば、最終製品を製造するメーカーを頂点に垂直に高度に統合化された産業です。製造業として足腰の弱い国のメーカーは次々に脱落していきました。逆に物作りのインフラが揃っている日本では、いまだにアメリカと比べても多数の自動車メーカーが生き延びています。規模だけでは競争力は決まらないのです。

現段階の結論としては日産の業績の落ち込みは一時的なものと考えられます。ゴーンが日産を離れるときの餞別代りに、多数の新車を一度に発表した反動で業績が落ちただけで、製品ラインの更新が行われれば業績は立ち上がるでしょう。むしろ、魅力的な車を日産がこれからどれだけ開発し続けられるかが本当のキーでしょう。個人的には、新しいブルーバードのデザインを見ると、凡庸な車ばかり作っていたころの日産に少しもどりつつあるではないかと気になるのですが・・・。

テーマ:経営 - ジャンル:政治・経済

トヨタになれない郵政公社
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トヨタ生産方式を移植しようとしている郵政公社でトラブルが続いているという報道が朝日新聞でありました(http://www.asahi.com/business/update/1029/006.html)。 トヨタ方式を応用したJPS(Japan Post System)なるものを開発し、トヨタの経験者の協力を得ながら導入を進めているのですが、現場は混乱し、従業員は疲弊している。管理職は上辺でうまく言っているように取り繕っているが、実態は全然うまくいっていない。このままでは、年賀状の配達も心配だ。ということで、民営化による効率向上の切り札として期待されたトヨタ生産方式も散々ということなのですが、実態はどうなのでしょうか。残念ながら、郵便の現場に行って調査することはできないので、限られた情報と想像で物を言うしかないのですが、ちょっと考えると今回の郵政公社の試みは、失敗する要素を山盛り含んでいるということはできます。

トヨタの生産方式で特徴的なのは、まずカンバン方式です。カンバン方式では中央からの指令で現場が動くのではなく、カンバンの動きに合わせて自律的に生産活動が行われますが、車ならいざしらず、郵便物のような莫大な数をカンバンで制御することは物理的に不可能でしょう。そもそも、カンバンは並みの郵便封書より大きいのです。カンバンを使用するメリットは、不必要に各生産工程の現場で部品などの在庫を持たないことですが、郵便物の処理でそのような問題があるとは考えにくいので、その点でもカンバンのメリットはあまりないことになります。

それでもカンバンを使わなくても、生産現場の効率を向上させるテクニックは利用できるはずです。これはどうなのでしょうか。トヨタの生産方式の秘密はカンバンではなく、カンバンを利用することによって生産工程の無駄を明らかにすることにあります。能率の悪い現場にはカンバンが溜まりますし、過剰設備の部分はカンバンが来るまで遊休状態になることが目で見てはっきりわかるからです。無駄があると、トヨタはそれを「カイゼン」しようとします。Kanbanは今や英語になっていますが、Kaizenはそれ以上に有名です。カンバンではなく継続的なカイゼン活動こそトヨタ生産方式の真髄と言えるでしょう。

しかし、継続的なカイゼンを行うかどうかは、企業文化とも言えるものです。カイゼンを労働者も管理者も一体となって考え続けるというのがトヨタの強みです。しかし、トヨタにこの企業文化が定着した背景には、戦後の大労働争議を二度と繰り返さないという経営者の決意と労働組合との長い協力関係がありました。郵政公社にそのような経営と従業員の信頼関係はあるのでしょうか? 信頼関係を欠いたままで、カイゼンを行おうとすれば、当然表面的で形式的なものになってしまいます。

しかも、トヨタのカイゼンのやり方は、人間の動作分析を詳細に行ってもっとも無駄のない動きをするように基本動作のチューンアップを繰り返すというものです。これは、生産管理の創始者といわれるフレデリック・テイラーのしたことで一番労働者に嫌われていることと本質的にあまりかわりません。テイラーは生産性の分析のためにストップウォッチで労働者の動作を計測し、一つの作業に必要かつ最適な労働量を割り出そうとしました。基本的には正しく思えたテイラーのアプローチも資本家達が労働者から搾り取るだけ搾り取るために使用しようとしたことから、多くの問題を引き起こしました。今でもテイラーの方法の適用というとアメリカでは良い印象はもたれません。トヨタ生産方式の適用では、同じことが起きたのだろうと容易に想像できます。

さらに、新聞記事によるとトヨタから派遣された支援部隊は声高に非効率をなじったこともあったようです。どの程度のそのようなことがあったかはわかりませんが、トヨタが下請けや、部品供給業者に社員を派遣して生産効率を向上させる「手伝い」をするときには同じようなことがあるようです。それでも、下請けから見ればトヨタは殿様みたいなものですから、言うことを聞かせることは可能でしょう。しかし、郵政公社にとってトヨタは大会社であっても、生殺与奪の力があるほどの大ユーザーではないでしょう。仮にそうだとしても、郵政公社の従業員がトヨタ社員の言うことを殿様の言葉と思うことはないでしょう。

このように考えると、トヨタ生産方式を郵政公社に適用しようとしても、即効性のあるカンバンというツールは役に立たず、継続的カイゼンを行う文化的土壌はなく、カイゼン点は労働者の搾取と解釈される、という八方塞の状態ではないかと推察されます。それにしても、郵政公社がトヨタのまねをすればトヨタのような高収益企業になれると単純に考えたとすると、短絡的としか言いようがありません。また、トヨタも郵政公社の副総裁を始め沢山の社員を派遣していますが、自分たちのマネージメントシステムが何の前提もなく、活用できると考えていたとすると、将来環境が変わったときに大丈夫?と心配にもなってしまいます。ま、こんなことは郵政民営化に執着した某前首相は興味ないかもしれませんが。

テーマ:進化論的組織論 - ジャンル:政治・経済

EVAはソニー凋落の元凶?
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EVA(Economic Value Added:経済付加価値)はアメリカのコンサルティング会社スターン・スチュアート社が考案し、商標登録もしている財務指標です。EVAは
 (税引後利益)-(資本コスト)
と定義されるのですが、資本コストの定義が結構複雑です。株式会社の場合、資本はA.借入金とB.株主資本に分かれますが、まず借入金は平均借入利息をコストにします(これは簡単)。次に株主資本のコストですが、これは本来その会社が期待される株の収益率を使います。式で書くと、
 (株主資本コスト)= 国債利回+βx(期待株式市場利回-国債利回)
となります。見ているだけで嫌になるかもしれませんが、要は株はリスクのない投資(国債はそうだとみなします)より期待収益は高くあるべきだと考えるわけです。さらに同じ株でも、動きの荒いものと、そうでないものがあります。βは株式市場が1動いた時にどのくらい、その会社の株が動くかを示す係数です。成長産業は安定産業より株の値動きが激しいので、期待収益も高くなるはずというのが理屈です。これは株の値動きの激しさを株の投資価値に結びつけたオプション理論に遡るものなのですがそれは置いておいて、資本コストは借入金の利息と株主資本を加重平均したもの(A/(A+B) WACC Weighted Average Capital Costといいます)、つまり借入金と株主資本が半分づつなら両者の平均、片方が多ければそちらの方に近いものになります。

スタン・スチュアート社のホームページによるとEVAを使用すれば、利益、キャッシュフロー、現在価値など様々な財務指標で混乱している企業の評価基準を統一して、マネージメントの整合性のある評価と意思決定を可能にするとしています。この謳い文句をどこまで信用するかは別にして、ソニーは出井前CEOの時代からEVAを役員の評価基準に全面的に採用しました。EVAを使っている企業は、アメリカではGE、イーストマン・コダック、日本では松下電工、HOYA、花王なのがあります。

EVAはそれ自身は別に間違った指標ではないでしょう。資本にコストがあること、事業はコストに見合った収益を上げるべきだというは当然でしょう。企業ごとに異なるβというのは怪しげにも見えますが、事業によりリスクとリスクを考えた期待収益が異なるというも理屈に合っています。バブルのころ時価発行して得た資本のコストを配当金の利回り(つまり限りなく0に近い)と考え、さらにその金を鉄鋼会社が半導体事業に使うというようなことがありましたが、資本コストや異なったビジネスモデルに進出するときβも変わるのだということを理解していれば、もう少しまともな意思決定が行われたかもしれません。

とは言っても、EVAを一般の企業が業績評価の基準に全面的に採用するとなると問題が出てきます。まず、これはどんな評価基準を採用しても同じことになるのですが、人間はその評価基準に即して仕事を進めようとします。EVAはもともと株式市場で最適なポートフォリオを考えるために生み出されたオプション理論から出発していて、事業を売ったり、買ったりするには良いかも知れませんが、通常の事業遂行に適しているとも思えません。そもそもオプション理論はブラック・ショールズ式というノーベル経済学受賞につながった難解な数学が基礎にあり、普通の人が容易に理解できるものではありません。もちろん、マックスウェルの電磁方程式を知らなくても電波を使ってラジオを聴くことはできますが、βの意味をみんなで共有することは難しいはずです。

結局、EVAの値を業績目標に設定されると、MBA取得者か誰かの説明を聞かされ、「さて、これから何をしようかな」と考えることになります。日常業務とEVAが結びつかないまま、EVAの向上を目指すとどうなるか。資本コストはβだ何だと言われても、所詮個々の役員、従業員には変えようがありませんから(企業の買収、新規事業への進出を考えているときは別ですが)、税引後利益を増やすしかありません。そうすると従来型の、押し込み販売でも何でもしてとにかく今期の成績を良く見せるという古典的な利益、売上げ至上主義(これが悪いのではありません。見せ掛けを良くしようというのがいけないのです)に戻ってしまいます。

EVAの導入当時の出井氏の発言を見ると(http://www.toyokeizai.co.jp/sony/japanese_3.html)、PL経営(古典的な見せ掛けの利益を追求する意味で使っているようですが)はだめで、キャッシュフロー経営を目指すといった後で、さらに資本に対する収益という考えを徹底するためにEVAを採用すると言っています。EVAは少なくとも式の半分は古典的PLそのものですから、出井氏自身もしかしたらEVAをまったく理解していなかったのではと疑問に思えてきます。

かりにEVAを誤解していても、そのために経営を間違えるということはないでしょう。むしろ、問題は出井氏がEVAに言及した後で、本社は投資銀行的立場になると言っていることです。文脈的に考えても本社=出井氏だったのでしょうから、出井氏は事業ポートフォリオをソニーの資本の最適活用と言う観点で運用しようとしていたことになります。この意味では出井氏のEVAの理解はまったく正しいでしょう。しかし、ソニー本社が完全に投資銀行化して、実際の事業運営は各事業担当が個別に頑張るというのでは、ソニーはいったい何者になるのでしょうか。そこには、井深、盛田の両氏が創業した時の「不当なる儲け主義を排し、あくまで内容の充実、実質的な活動に重点を置き、いたずらに規模の拡大を追わず」「技術上の困難は、むしろ歓迎し、量の多少に関せず、もっとも社会的に利用頻度の高い高級技術製品を対象にする」という理念はどこにもありません。

EVAは、根本的な概念の難解さと、それゆえの実際の事業との乖離、さらに難解なEVAを活用するための専門スタッフの本社統治と、現場感覚の喪失など、全面的な評価基準への採用はソニーを急速に官僚主義に向かわせる推進力になってしまったのではないかと思われます。もちろん、EVA自身が悪いわけではありません。また、株主重視もそれだけで害毒を流すことはないはずです。問題はソニーの強さの根源を忘れ、投資銀行がうまく経営できるのなら、ソニーもうまく経営できるだろうと考えた経営陣にあります。事業にとって資本もまた、一つの資源(そして今や最重要ではない資源)に過ぎないのです。

テーマ:経営 - ジャンル:政治・経済

PPBS ベトナム戦争の「失敗の本質」
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PPBS(Planning, Programming, Budgeting, System) は1960年代にアメリカのケネディー、ジョンソン政権下で国防長官を務めたロバート・ストレンジ・マクナマラが生み出しました。 PPBSでは国防省の予算を徹底した費用対効果の観点で運用します。

マクナマラはハーバートでMBAを取得した後、ハーバーとで経営学の助教授となっていたのですが、第二次大戦中は空軍でORを中心とした経営学の知識の活用をしました。マクナマラのかかわった仕事の一つに、ドイツの降伏後、ヨーロッパ戦線で使用していたB24爆撃機を太平洋戦線に移動するより、新型のB29爆撃機を新たに生産したほうが費用対効果が高いとした分析があります。また、日本人にとっては愉快なことではありませんが、日本爆撃を指揮したカーチス・ルメイ少将(後の空軍参謀総長)の下で、東京や大阪などを焼夷弾で効果的に焼き払う爆撃方法の分析研究を行っています。余談ですが、マクナマラは回顧録の中で、ルメイと「戦争に負けたらわれわれは戦争犯罪人になるな」と話したと書いていますが、ルメイはその後、航空自衛隊創設への貢献に対したことに対し、日本から勲一等旭日大綬章を叙勲されています。

PPBSはマクナマラの分析的、経営的知識を軍に応用したものと言えます。PPBSの成果の一つといわれたものに、B52爆撃機の後継機として開発されていたXB70の開発を費用対効果がないとして中止したことがあります。マクナマラは長距離爆撃機はミサイルより効率が悪いという結論に達したのです。マクナマラは軍人としての経験はあるものの基本的にはビジネスマン(国防長官の前職はフォード自動車社長)で、軍事には素人です。しかし、マクナマラはPPBSを中心としたシステム的、分析的な手法で軍を管理し、軍の意見を覆すことが多いことで知られていました。

ベトナム戦争はマクナマラの在職中(1961-1968)に激化し、最終的にはニクソン政権でアメリカがベトナムから撤退することで終わるのですが、「マクナマラの戦争」と言われるほど、国防長官であったマクナマラの関わりは大きなものがありました。ベトナム戦争は複雑怪奇な戦争です。今でもアメリカで「われわれは負けたのか?そもそもベトナムで何があったのか?」と議論されるほどで、アメリカがなぜ敗北したかを一つの「失敗の本質」で語ることはできないでしょう。しかし、PPBSに象徴されるマクナマラの分析的思考が大きな問題であったとの指摘が行われているのは事実です。

PPBSは基本的にシステム的、分析的なアプローチですから、数字を非常に重視します。経営に数字は欠かせませんし、KPI(Key Performance Indicator)を何にするかは、いつもマネージメントの大きな課題です。マクナマラはベトナム戦争のもっとも重要なKPIとして、ベトコンの死傷者数をとりました。マクナマラの考えではベトコンになりうる人数は有限で、ベトコンの殺戮を続ければ最終的に戦争に勝てるというものでした。戦闘は相手の兵士を殺害するのが主目的であり、殺害数を数えるのは軍では重要な作業なのですが、一定数以上のベトコンを殺せば戦争に勝てるというのはあまりに単純な見方でした。ベトナムでは南ベトナム政府に対する反感、北ベトナムの浸透などで南ベトナム人民がベトコン化が加速化される面がありました。また、北ベトナムの介入、脅迫、暗殺などにより地方の政府末端組織の弱体化の進行など、ベトコンの死傷者数とは別の戦争の展開がありました。

マクナマラはベトナムを何度も訪れていますし、ベトナムの状況に無知だったとは言えないでしょう。北ベトナムへのいわゆる北爆を行ったくらいですから、北ベトナムの介入を知らなかったはずはありません。しかし、PPBSのKPIにベトコンの死傷者数を採用して意思決定を行う中で、KPIでは測定されない様々な要素が抜け落ちてしまったようなのです。いや、そうとしか考えられないような意思決定が多く行われたというのが、マクナマラのPPBSに対する批判として言われているのです。

アメリカ軍は巨大で複雑な組織です。また、軍事は非常に専門的なもので、基本的に生え抜きのスペシャリストである軍人によって運用されます。この点はアメリカ軍も変わりません。PPBSは数字を重視し、システム的な手法を駆使することにより、意思決定を文民が有効に行うことを可能にしようとしたものでした。XB70爆撃機の開発中止のようにPPBSの功績と言われているものも多く、システム的、分析的な軍の予算管理が無意味だったとは言えないでしょう。数字を重んじシステム的に分析を行わなくては、アメリカ軍のような組織を管理することは不可能だったでしょう。しかし、数字を重視すると同時に数字化されないものが脱落してしまう面があるのは確かです。今となれば、マクナマラの意思決定は、ベトナムの前線にいれば常識として理解できることを理解できなかったとしか思えません。

マネージメント、経営にとってKPIの大切さはいまさら言うまでもないでしょう。 バランス・スコア・カードを提唱したキャプランは「測れないものは管理できない」と言っていますが、正確には「測れないものは管理が難しい。まして、現場を知らないで管理することはできない」と言うべきでしょう。数字への過信は時として致命傷になるのです。

テーマ:意思決定 - ジャンル:政治・経済

「失敗の本質」は「敗戦の本質」?
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「失敗の本質」というのは戸部良一、野中 郁次郎を始めとした組織論、経営学など社会科学の専門家がノモンハン、ガダルカナル、ミッドウェーなど日本軍の負け戦を軍事専門家とは違った観点で分析した本です。読んで面白い本ですし、日本軍の意思決定、コミュニケーション、戦略的柔軟性などの問題を失敗の原因として解説していて、(おそらくそれが本書の狙いなのでしょうが)現代の日本の会社組織の問題に共通するものを描き出しています。

それぞれの作戦での日本軍のお粗末な対応はあきれることばかりですし、主として米軍の合理的な対応は「日本は物量で負けたのではなかったのか!」と思わせるものなのですが、読了後(少なくとも私は)釈然としないものが残りました。それは個々に指摘されている様々な失敗は、それぞれの戦いでは日本軍の敗れた大きな要因であったかもしれないのですが、第二次世界大戦で日本が負けたのは、そのような作戦ごとの失敗の積み重ねではないからです。

きわめて常識的な話だと思うのですが、日本が負けた最大の原因は、海軍が徹底的に敗北して、輸送もままならず太平洋に散らばった個別の拠点を次々に失ってしまったことです。不意打ちを食らわせた真珠湾攻撃は、いわば不戦勝を収めたのですが、「失敗の本質」でも取り上げられた、ミッドウェー、レイテ沖などの海戦は滅茶苦茶にやられています。日米の生産力を考えれば、そのうちいくつかを多少勝ったとしても、いずれ海軍が全滅する事態は避けられなかったのでしょう。装備で圧倒的に劣勢だった陸軍は沖縄、硫黄島などではアメリカ軍に多大の損害を与えていることを考えると、そもそも海戦が主体となる太平洋の戦いを行ったことが間違いだと考えざるを得ません。

こう書くと、結局「物量に負けた」という通説にどおりになってしまって、「失敗の本質」の描こうとした組織論、戦略論で劣っていた日本という図式が成立しなくなってしまいます。同書が指摘した日本軍の組織的、作戦運用的な問題点は確かに存在したでしょう。たとえば、日本海軍は負け戦が続いてもハンモックナンバーという海軍大学の卒業時の席次でその後の出世を決めるというやりかたを最後まで変えませんでした。これに対し、アメリカ海軍は信賞必罰が厳しく、昇進も能力主義をベースにしていました。しかし、このような昇進システムの違いが、日本海軍の一不戦勝、後負け続けとどこまで関係あったか疑問です。要はアメリカ海軍の兵器システムが質量ともに日本海軍を圧倒していたのです。その意味で「失敗の本質」は本質とも言えませんし、そもそも日本軍が負けたのは作戦上の失敗などはあまり関係なかったのです。

同書のあげている、ノモンハン事件ではソ連軍の機械化部隊に日本陸軍はぼろ負けし、しかも敗戦の原因を追究もせず、現場の指揮官の自決をさせるなど、日本軍が組織としての学習能力に欠けていたことの例でしょう。しかし、ノモンハンで示されたソ連の戦車の強さは日本軍の戦車乗りなら十分知識として理解していました。理解していても対抗できる戦車が持てなくてはしょうがなかったのです。

それでも劣った戦車を精神力で補えと言い募った参謀連中は馬鹿ではないだろうかという考えはあるでしょう。ただ、対抗できる戦車がなければ精神力で補う以外(補えないのですが)方法はありません。つまり、戦車と戦車、軍艦と軍艦のような形の戦いでは、ハードウェアの絶対的能力が決定的になってしまうので、そのような戦争の形にしてしまったことが間違い(というより敗戦の原因)だったのです。それと比べれば各戦闘での失敗などは第二次世界大戦のような総力戦ではいかほどの意味もないはずです。

「失敗の本質」はそれなりに的を得た指摘をユニークな観点から行っているという点で、悪い本ではないでしょう。また、著者も物量の差で日本が負けたということは十分理解したうえで、「物量の差だけではなかった」と言いたいのかもしれません。とは言っても、ビジネスの世界でも瑣末な現象を取り上げて、これこそ失敗のあるいは成功の鍵としてしまうことが多いことを考えると、これほど明々白々な敗戦原因を横において、「失敗の本質」と言ってしまうのは(世評が高いだけに)やや気になります。もしかすると、明白な生産力の違いを知っているはずなのに、アメリカの得意なガチンコのハードウェア勝負に出た日本の過ちを、「失敗の本質」という題名をつけた著者たちも繰り返しているのかもしれません。これは言い過ぎかもしれませんが。

テーマ:意思決定 - ジャンル:政治・経済

埋没コスト
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Aさんが友人のBさんに3年前に2百万円で買った中古のドイツ製スポーツカーを売りたいと言ってきました。Bさんが「3年前に2百万円で買ったんだから、百万円ならいいだろう」と言うと、Aさんいわく「冗談じゃないよ。買値は2百万円かもしれないけれど。修理費に150万円もかけたんだ。250万円でなきゃ、売れないよ」

Aさんが頑張っても、修理でよほど性能が向上したのでもない限り、BさんはAさんの要求を飲むことはないでしょう。遣ってしまったが、もはや取り返せないコストを埋没コスト(Sunk Cost)と言います。会計的に定義すれば、簿価と実際の値段との差が埋没コストということです。しかし、このような会計的な定義とは別に、人間は自分が使った経費によって、ものの値打ちが高くなると錯覚する傾向があります。冒頭の例では修理費を遣ったAさんは、かけた費用で実際以上に自分の車の価値が上がったように思ってしまっていますが、他人のBさんにとってそれは意味がないことです。

埋没コストが広く認められるようになったのは、1968年のノックスとインクスターという二人の社会心理学者の行った研究からです。ノッククスとインクスターが競馬で賭けをする人を対象に、賭けた馬の勝ちそうな確率を7段階で評価してもらったところ、馬券の購入前の人の平均レートが3.5程度であったのに、購入後の人に評価は4.8になっていたのです。調査の対象者は購入前と購入後の違いしかないので、評価の違いは自分が馬券を実際に購入することで、馬の見方が変わってしまったということになります。

自分が投資したということが、客観的評価を歪めてしまうのは、埋没コストの発生する大きな原因です。買った株が値下がりして、売るに売られず塩漬けにしてしまうことはよくあります。しかし本当は、値上がりの見込みのない株を抱え込んでいるより、いったん現金にしてもっと値上がりの見込めそうな株に買えるほうが良いはずです。そうする人もいるでしょうが、多くの人にはかなり努力のいる決断のはずです。

埋没コストに対する執着は、個人的な意思決定にとどまりません。生産性の低下した工場。訴求力を失ったブランド。見込みのない研究。ゼロベースで考えれば、もはや無駄としか言えないものを持ち続けようとすることは実に多いのですが、過去の投資を価値と考えてしまう心理的要因が強く働いているのは否定できません。

会計制度が埋没コストを正当化している面はあります。もともとの埋没コストの定義にもどることですが、簿価と実際の価値に差があるとき、過去の投資を無駄だと言って捨ててしまうとその時点で会計上損失が発生します。これは会計上の話で、実際の支出はすでに行われていて、そこで損が出てしまっているのですが、株式市場を気にする経営者としては損を表面化させるのは難しいということはあるでしょう。しかし、会計上の損失が発生することを理由にして、過去の投資の存続を正当化してしまうのは危険です。ダメなものはダメとだと認識するのは経営者としては必要なことです。

埋没コストを守ろうとするのと似たような心の動きで、なくした切符に対する対応があります。5千円の観劇券を入場しようとしたとき無くしたと気がついたらどうするでしょう。買いなおす人も多いでしょうが、がっかりして観劇をあきらめる人もいるでしょう。では、切符をまだ買っていなくて、その代金と同じ5千円を落としたことを切符を買うときに気がついたらどうするでしょう。この場合は観劇をあきらめる人が、切符を無くしたときよりずっと少ないことが実証的に示されています。なぜそのような傾向があるか色々説明できるでしょうが、切符を買いなおさないのには、一度設定した5千円という切符の価値を変更したくないという心理が働いているようです。埋没コストが失敗を認めたくないという心理が背景にあるのと共通するものがありそうです。

埋没コストを認めて設備を廃棄する、あるいは落とした切符を買いなおす。このような失敗を失敗として対応策をきちんととることに、人間は抵抗したいという気持ちが強く働くようです。その気持ちは非常に強いので、埋没コストのように過去の投資は無駄ではなかったと無意識に信じ込もうとすることもあります。これは意思決定の間違いを起こす典型的な要因の一つとなっています。過去にこだわり失敗を認めることを拒否すると、値下がりした株を平均価格を下げるといって買い増したり、無理に恋人や配偶者と別れずにいたり、無益な戦争を続けたりとさらに大きな失敗を生むこともあります。冷静に意思決定をしたと思っても判断の基準になる価値判断自身が間違っていては、誤りは繰り返されることになるのです。

テーマ:意思決定 - ジャンル:政治・経済

最後通牒ゲーム
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「AさんとBさんの前に1万円があります。AさんとBさんはCさんにこの1万円をもらって二人で分けることになったのですが、Cさんは1万円を分けるときの条件を一つつけました。それは1万円をどう分けるかAさんが決めること、BさんはAさんの分け方が不満なら拒否できること。ただし、Bさんが拒否したら、AさんもBさんも1円ももらえません。Aさんはどのような分割提案をすべきでしょうか?」

これはゲーム理論で最後通牒ゲームというやや大げさな名前のついたゲームです。「論理的には」Bさんは分割提案を拒否してしまうと何ももらえないのですから、1円以上どんな提案でも拒否する理由はありません。つまりAさんが9990円をAさんに10円をBさんに分けるという提案をしたなら、それを拒否したら10円以下の0円の収入しかないのですから、それでも受け入れざる得ないはずです。しかし、実際にはAさんが極端に自分に有利な提案を行うとBさんの側は拒否することが多くなります。最後通牒ゲームは簡単にできるので、経済学部の学生の授業の一環として行われるのを始め、数多くの実験が行われてきました。それによると、分割される金額の絶対額、被験者の経済状態が影響を与えるものの、大体Bさん側の取り分が3割を切ると拒否が多くなるようです。また、Aさん側も自分の有利な立場を濫用した相手を怒らせるようなことはあまりなく、半分づつの分割を提案することが多いようです。

最後通牒ゲームは伝統的経済学が「合理的」な人間を前提としているのに対し、人間は非理性的な部分があるという行動経済学の典型的な例としてもよく引用されます。確かに合理的とはいえない判断をなぜ人間はするのでしょう。最後通牒ゲームを同じ人同士で繰り返し行うのであれば、公正さを求めるために、あえて最初は不利な提案を拒否するというのは理にかなっているでしょう。しかし、ゲームが1回限りの場合でも、ひどくバランスを欠いた提案は受け入れられないことが多くなります。実は最後通牒ゲームは人間だけでなく赤ん坊やチンパンジーを使った実験も行われているのですが、チンパンジーも含めて最後通牒ゲームでは、自分の報酬を得る利得以上に、公正ではない相手を罰したいという欲求が表明化する場合が多いのです。たとえ10円でも何ももらえないよりマシだという「理性」より、もっと本源的に公正でない相手を罰したいという思いを進化の過程で人間は身に着けているようなのです。

最後通牒ゲームは実験するのは簡単ですし、それ自身合理的な経済人という前提に対する反証として有効でしょうが、実際的な意味はあるのでしょうか。一つ考えられるものとして、原価と価格に対する消費者の反応があります。何か物を買うとき、価格と購入する物の値打ちが妥当であればそれでよいはずですが、利益率が9割というような話を聞くとあまり良い気持ちはしません。マイクロソフトが受ける非難のうちかなりの部分はマイクロソフトが非常に高い利益率を上げていることにあるでしょう。メーカーはどこでも製品の原価を明らかにするのは積極的ではありませんが、これは価格交渉で不利にならないようにというのと同時に、あまりに高い利益が消費者に反感を持たれないようにしたいという慎重な姿勢の現れといえます。

ゲームの世界に戻って考えてみると、最後通牒ゲームは相手の側の得る利益が自分の損得と同じように重要だということを示しています。囚人のジレンマ(少子化という囚人のジレンマ参照)でいえば、自分が黙秘し相手が裏切って自白したとき、自分が重い刑罰を受けることも嫌なのですが、相手だけ裏切って得をするのが許せないという気持ちが働いて自白してしまうことが考えられます。チキンゲームでは、自分が回避行動を取って、相手が突っ張り続けたとき、自分がチキンと呼ばれて馬鹿にされるのもさることながら、相手が図々しいために得をするのが我慢できないという気持ちが、回避行動を取るのを妨げる可能性があることになります。

相手に得をさせたくない、ずるい相手は罰したいという気持ちは非常に根深いものなので、そのために自分が実は損をしているということさえ忘れさせてしまいます。特に交渉を行うとき、結局誰の得にもならないのに頑張り続けて双方損をしてしまうというような場合、チキンと呼ばれて臆病者扱いされることより、相手に得をさせたくないという気持ちが強くなってしまうことの方ビジネスの社会ではむしろ多いでしょう。典型的には買収合戦があります。お互いに値段を吊り上げて意地を張り合うのは、弱みを見せたくないというより、相手の笑う顔を見たくないという、甚だ経済合理性に欠ける思いにし支配されていることが多いのではないでしょうか。このような場合、冷静になって伝統的経済学が想定するような合理的経済人になることも必要でしょう。もっとも、最後通牒ゲームでは分割提案をする側が半分づつに分けると言うことが多いのも事実です。公正さを求める気持ちが深く人間に組み込まれているおかげで、無用な争いを避けるように人間は作られているのかもしれません。だとすれば、熱くなってとことん頑張るのも、公正さを求める文化を維持するためには避けられないコストなのかもしれませんが。


当ブログで行動経済学に関連したものをあげておきます。

喫煙の行動経済学
ウェイソン・テスト
モンティ・ホール問題
埋没コスト
最後通牒ゲーム

テーマ:進化論的組織論 - ジャンル:政治・経済

プロジェクト失敗のわけ
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プロジェクトにリスクはつきもの

プロジェクトは目的があり、決められた期間と決められた資源で達成するものです。逆に言うと、目的が達成されない、期限が守れない、資源を余計に使ってしまうということに一つ以上該当すると失敗ということになってしまいます。アメリカのスタンディッシュ・グループがITプロジェクトを調査したところ、
1) プロジェクトが目的、期間、予算とも計画通りで成功したものは 16.2%
2) 期間、予算を超過し、予定した機能全てを提供することはできなかったものは52.7%
3) プロジェクト自身が放棄されたもの 31.1%

という結果が出ました。これはどう見ても悲観的なデーターですが、他の調査でもプロジェクトの70%以上は何らかの形で失敗しているようです。これはITプロジェクトの話で、土木工事のようなものはプロジェクトと言ってもこれほど失敗が多いわけではないでしょう。それにして7割、8割のプロジェクトが失敗するというのはどういうことなのでしょうか。プロジェクトを製品と考えると、不良品率が70-80%ということになりますが、シックシグマの不良率が100万分の3.4という目標を設定していることを考えると、まったくの別次元です。シックスシグマとかカンバン方式が実現した品質改善をプロジェクトマネージメントではなぜ実現できないのでしょう。電球を100万個作って不良品が3.4個しかできないのに、プロジェクトの80%が不良品になるのはなぜなのでしょうか。

そもそもシックスシグマでプロジェクトを管理しようとしたとき、標準偏差とか何とかいうためには、何のデーターをグラフにしたら良いのでしょうか。宅配ピザなら配達時間をグラフに描くことは意味があるでしょうが、建築で5人家族用に2部屋しかない家を作ってしまうような失敗の平均とか標準偏差は意味があるのでしょうか。ま、このあたりはシックスシグマでも顧客満足のような大きなテーマに取り組むときは同じようなことになるでしょう。シックシグマで最初にするのはベルカーブを描くためのデーターの定義ですから、同じように何かのデーターを取ることはできるかもしれません。問題になるのは、プロジェクトは基本的に一品製品だということです。統計をとる場合、繰り返し多くのデーターを集めることが必要です。しかし、一品製品のプロジェクトではそうは行きません。あるプロジェクトの統計をとっても、プロジェクトチームはデーター収集の段階で解散しているのが普通です。次のプロジェクトはデーターを取ったプロジェクトと似ているところはあるでしょうが別物です。少なくとも電球が似ているほどは似ていません。シックスシグマに限らず、品質管理の基本である多数のサンプルによる統計的処理を行うことがプロジェクトの場合難しいのです。

統計的処理が困難である以上にプロジェクトと普通の製品が違うことがあります。それはプロジェクトは根っこの部分にリスクがあるということです。日常の業務も達成基準、時間(今日中に、今月中に)、使用できる資源は定義されていますが、リスクは非常に希なものと見なすことができます。月産一万台の自動車工場の例えおとると、大雪でサプライヤーの部品が到着しない、集団食中毒で工員が揃わない、突然金が大幅に値上がりして、触媒の価格が予算を超える、などなど色々な状況が考えられますが、毎日毎日立て続けにこのような突発事項が連続していては、安定的に月産一万台の生産を行うことは難しいでしょう。普通の製品製造に必要なのはリスク管理というより危機(クライシス)管理です。リスクに対する仕組み作りは必須ですが、これはリスクがやたらと発生するからではなく、リスクの発生の最小化を行うためのものです。

プロジェクトは違います。ユーザー部門に画面を見せたら「こんなもの頼んでいない」と言われた、パッケージがバグだらけだった。機器の納入が遅れた。下請けがつぶれた。キーの人材が退社したなどなど、リスクは多大にあり、しかも滅多に起きないものなどではありません。プロジェクトにとってリスクは決して「思いがけないもの」ではなく、「起きうるという想定で対処すべきもの」なのです。ところがリスクの想定は簡単なものではありません。ハインリッヒの法則のところでも書きましたが、リスクがトラブルとして表面化するのは、複数の事象(たとえばコーヒーポットが割れていて、バスはスト)が組み合わさって起きるため、思いもかけないことで発生することが多いのです。

それでもリスクの発生を予測し十分な準備をすれば、危機の多くは避けられます。しかし、プロジェクトの多くは「xxに間に合わせる」(xxは工場完成、創立記念日、合併実施など何でも良い)という内容とは無関係に期限が決められることも多く、さらに予算もプロジェクトの中身より「xx億円以内に収めなければダメ」といった、よく言えば経済原則、悪く言えば財布の事情で制限が勝手に作られてしまいます。「これしか金がない」というのは、物を値切るには良いテクニックかもしれませんが、プロジェクトの予算を見積もるのに良い方法とは言えません。

もっと悪いこととして、プロジェクトの目的が明確でないことがあります。これは言ってみれば自動車を作ろうとしているのか、飛行機を作ろうとしているのか、はたまたシステムキッチンを作ろうとしているか、はっきりしていないということで、これではそもそも品質管理などできようはずもありません。橋を架けるようなプロジェクトであれば成果物は誰の目からも比較的明らかですが、「学力の向上」のような目的を掲げると、目的達成のためのプロジェクトの成果物(たとえば学校建設、図書の無料配布、母子家庭の援助などなど)を、何にするかがはっきりしなくなってしまいます。プロジェクトの予算も期限も成果物に対して設定するしかないのですが、成果物自身が目的とずれていてはプロジェクトの発注者が満足しなくてもしかたありません。

 大きな努力が注ぎ込まれたのにもかかわらず、プロジェクトの品質管理は満足できるレベルかはほど遠い状況にあります。これが、たとえば自動車であれば新車を受け取って、すぐにディーラーに駆け込むということはありません。30年前の自動車と今の自動車では品質に格段の差があります。電気製品、飛行機、薬、どれを取っても品質は年々向上して不良品にお目にかかる確率は、昔と比べ著しく小さくなっています。しかし、プロジェクトでは、徹夜徹夜の連続で病人が続出したり、予算オーバーでプロジェクトマネージャーが首になったりは相変わらず普通のことです。目的と成果物の整合性にいたっては、IT業界では昔より悪くなっていると思われます。今から40年も前にIBM のS360の開発者であったフレデリック・P・ブルックスは人をつぎ込んでも、開発期間(月数)は反比例して短縮することはないという事実をThe Mythical Man Month(人月の神話)という本で著しました。彼がその著書の20周年記念版で「いまだに人月の神話が多くの人に読まれているのは驚きだ」と言っていますが、それからさらに20年の歳月が流れました。IT業界では人月以上の有効な管理指標は生み出されていません。今でもブルックスは、同じ驚きをもってプロジェクト管理の現状を見ているのでしょうか。

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フレデリック・P・ブルックス

テーマ:経営 - ジャンル:政治・経済

シックスシグマ
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宅配ピザを注文して「30分以内にお届けします」と言われる。これはいいですね。30分以内にピザにありつけることが保証されたわけです。「平均30分でお届けします」。これはちょっと困ります。平均30分と言われても、10分で届くかもしれないし、50分かかるかもしれない。平均は無意味ではありませんが、平均だけでなくバラつきが少ないことが大切です。では「概ね30分±5分でお届けします」ではどうでしょう。概ね? まだ安心できません。「30分±5分でお届けします。このお約束が守れないのは100万分の3.4以下です」これなら良さそうです。35分以内にはまず間違いなくピザが到着するでしょう。

どんなビジネスプロセスもバラつきは避けられません。しかし、努力をすればバラつきを小さくすることはできます。ピザの宅配なら、地図の整備を行う、配達人の数を一定以上確保する、ピザの材料は予め調理しやすく準備されている、などなど遅れやバラつきの原因となるものを一つづつ見つけ出し、解決していけば良いわけです。それではビジネスプロセスはどのようにバラつくでしょうか。多分、平均値あたりのところが一番起きやすくて、平均値から離れるにつれ滅多に起きなくなってくるでしょう。グラフに描くとベルカーブとか正規分布と呼ばれるような形になると考えるのが妥当でしょう。

正規分布は平均値とバラつき度合いを示す標準偏差、σ(シグマ)の二つの値で表されます。標準偏差の範囲でバラつきがおさまるのは約68%。ピザの宅配の例に戻ると、3回に2回は30分±5分以内に配達しようとすると、配達時間が正規分布にしたがうのなら、標準偏差が5分ならよいわけです。これが1σです。標準偏差が5分の半分の2.5分なら2σで、このときは5分以内に配達できるのは95%になります。

バラつきがどんどん小さくなると、平均値付近でおさまることが、ますます多くなる。つまり正規分布のグラフはだんだんとがってきます。最終的に5分以内のバラつきを6σの範囲に収める、つまり標準偏差、σを5分の6分の1の50秒にできれば、5分という約束を守れないことは100万回に3.4回以内になります(これは本当は違っていて、6σは100万回に3.4回ではなく、10億回に2回になります。普通、6σと呼ばれる100万回に3.4回は4.5σになります。 これはサンプルを増やすと平均値自身が1.5σ程度ずれる可能性があることを勘案したものです-下図参照)。

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シックスシグマはバラつきに着目して、ビジネスプロセスの改善を続ける管理技術です。シックスシグマを体系化したのはモトローラのビル・スミスという技術者で、公になったのは1986年です。しかし、シックスシグマが一般に広く知られるようになったのはモトローラではなく、GEがジャック・ウェルチの強力なリーダーシップのもと管理技術の中核に位置づけたことによるでしょう。

GEは製造業から金融業にいたる幅広いビジネスを行っていますが、全ての分野でシックスシグマは活用され、品質の向上、顧客満足の向上、利益の増大に貢献しています。GEは徹底した社員教育を行うことで有名ですが、シックスシグマは教育システムを通じて社内に浸透し活用されました。シックスシグマのリーダー役であるシックスシグマの黒帯(ブラックベルト)になることは上級マネージメントに昇進する重要な要件となりました。

GEがあれほど多様なビジネスモデルを抱えながら成長を続けるのは、経営技術が優れているからだと考えるしかないのですが、その中でシックスシグマが重要な役割を果たしたのは間違いでしょう。もっともシックスシグマの普及を推進したカリスマ経営者のジャック・ウェルチは営業活動に対するシックスシグマの適用限界があることを指摘するなど、シックスシグマの推進者ではあっても信者ではなかったようです。もともと、ジャック・ウェルチは天才的な実務能力を持つ経営者で、常に極めて現実的に物事を理解しドグマに溺れるようなことはありませんでした。この点でかつて日本でTQC(Total Quality Control)が流行ったとき、多くの会社でデミング賞獲得が自己目的化し、その結果TQCがドグマとなり、そして形骸化していったことを考えると、ジャック・ウェルチから学ぶべきところは多いと思います。

トヨタが作り出したカンバン方式、GEが管理技術の中核にシックスシグマ、どちらが優れているのでしょうか。もちろんこれは馬鹿げた質問です。カンバン方式は製造業の効率化に主眼を置いていますし、シックシグマの目的はバラつきの最小化による管理品質の向上でしょう。しかし、不良品の削減、生産性の向上、継続的な改善活動など共通点は多いのです。それぞれの特徴を見ると、カンバン方式は自動車のような複雑な製造工程を持ち、多品種大量生産に向いた生産現場での管理技術と考えるのが良いでしょう。何といってもカンバンは物理的にわかりやすく、指示、命令を待たずに自律的に生産活動を行え、なおかつ問題点の発見と分析に有効なツールになっています。

これに対しシックスシグマでプロセスの問題点や改善方法が明かになっても、具体的なプロセスの運用は課題ごとに考え出す必要があります。反面、シックスシグマは汎用性が高く、製造業だけでなく、金融業でローン審査の時間のバラつきを減らし、短縮することに適用することも可能です。カンバン方式もまったく使えないことはないでしょうが、カンバンをローン審査のプロセス改善で使うことは考えにくいでしょう。結局、自動車一筋のトヨタと、コングロマリット化しているGEという企業の特質にマッチしているやり方が使われているということになると思います。

カンバン方式もシックシグマも大切なのは組織の基本に完全に組み込むことです。トヨタではカンバン方式はしつけの一部と言ったりするらしいのですが、GEではシックシグマの理解はマネージメントの重要な要件となっていて、単なる管理技術を超えてDNA的なレベルに達していると言えるでしょう。どちらの方式を使うにしろ、表層的に理解し、適用の難しいケースもカンバン風、シックスシグマ風に取り繕うことで、次第に形骸化していくのが一番いけません。「金持ちだからロールスロイスに乗るので、ロールスロイスに乗るから金持ちになるわけでなない」と言うように、カンバンやシックシグマを使ってもトヨタやGEになれるわけではないのです。

カンバン方式
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KANBANは世界で通用する日本語
トヨタ生産方式ともよばれ、トヨタ自動車の副社長だった大野耐一が中心になって作り上げたトヨタの効率経営の要の生産方式です。海外でもJIT(Just In Time)、Lean Manufacturingあるいは単にKabanという呼び名で海外でも通用する日本発の経営技術として知られています。カンバン方式は通常の生産方式が、
販売計画→生産計画→必要部品量の予測→部品の調達→生産→出荷→販売
という順番であるのとまったく反対に、
  販売実績→売れた分の出荷→出荷した分の生産→作った分の部品調達
という流れで生産活動が行われます。カンバン方式では販売計画とそれに基づく生産計画からは出発しません。あくまでも売れた数だけ作り、作った数だけの部品を調達します。工場の中では生産実績の報告ではなく、作った数、使った部品の数をカンバンと呼ばれる板(ラミネート加工した紙などが使われます)を生産現場の前工程に渡して、前工程ではもらったカンバンの分だけの生産を行います。カンバンは製造工程とは逆の順に流れて、最後は部品や材料を製造するサプライヤー(部品業者)にカンバンが渡されます。

カンバン方式ではない販売計画、生産計画から出発する生産方式はコマンド・アンド・コントロール・システム、中央統制型の生産方式です。コマンド・アンド。コントロール・システムでは集中された情報システムが、計画生産量を作るのに必要な部品、材料を予測し各工程、サプライヤーに割り当てます。必要と考えられる部品、材料は各工程に普通は在庫として保有されます。これに対し純粋なカンバン方式では、部品製造、材料の調達は下工程からのカンバンによって開始されるので、理想的な状態では在庫はありません。また、計画と実績の相違による過剰在庫、在庫不測もありません。集中化された情報システムも不要で、情報の流れはカンバンが行います。

カンバン方式はトヨタの生産効率を飛躍的に高め、世界一をうかがう現在の地位を作る基礎になりました。トヨタはカンバン方式を自社内だけでなく、部品業者にも広げ部品業者の生産性も高めました。さらに最近では郵便、銀行など各分野にカンバン方式で生産を高めるために、トヨタ出身者が経営に参画することもあり、影響力をますます高めるようになってきています。

カンバン方式ではカンバンが来ないと生産活動を行えないので、どこかの製造工程にボトルネックがあると、稼動しない製造工程が目に見える形でボトルネックの存在を教えてくれます。カンバン方式では7つの無駄というのがあって、その最大のものが、このボトルネックのための「手待ちの無駄」と言われています(「手待ち」を「手持ち」と誤記することもあるようですが、「手持ち無駄」は「在庫の無駄」と呼ばれます)。どの工程も手待ちがなく、スムーズに流れるためには、各工程は無駄なく製造を行わなければなりません。また、ある工程の生産性が高まると相対的に他の工程はボトルネックになってしまうので、どの工程も競争して不断に改良、改善を続けなければいけません。不断に改善を続けることを普通「カイゼン」とカタカナで表記します。KaizenはKanbanと同様に英語表記でも通用する言葉になっています。むしろ、カンバンのような道具より、不断の「カイゼン」がカンバン方式の本質と言ってよいでしょう。

カンバン方式に問題や限界がないわけではありません。まず、常識的に考えても在庫がまったくゼロでは調達に時間のかかる部品、材料の不足は発生してしまいます。多くの材料は、石油や鉱物資源などが原料になっていて、カンバン方式で調達することは不可能です、結果としてトヨタがカンバン方式を推し進めると部品業者、材料業者が何らかの形で在庫を持っている必要が出てきます。また、必要な部品、材料を必要な時に持ってくる(Just In Timeの語源です)が要求される結果(トヨタにはそもそも在庫を置く場所がないことも多い)、トヨタの周りの喫茶店が部品業者であふれていると言われたりすることもあります。 さらに、少量で高頻度の配送を強いられることで交通渋滞が起きると言われることもあります。つまり、トヨタはカンバン方式を貫くための費用を、部品業者、材料業者さらに社会に負わせているというのです。そもそもカンバン方式はトヨタの圧倒的に強い販売力が基本にあって、それが部品業者に対する強い交渉力となり、自分の効率化のために周りを犠牲にしているという批判が巨額の儲けを上げるトヨタに対してあるのでしょう。

トヨタに対する批判がまったく的外れというわけではないでしょう。ただ、トヨタが他の自動車会社やメーカーと比べ、特別悪い納入先というわけではありません。むしろ、安定的に大量の部品調達を行い、生産改善指導も行う信頼できるパートナーとして振舞うのが基本と言っても良いでしょう。ただ、生産改善指導というのは要は原価を丸裸にすることでもあるので、損はさせないがぼろ儲けもさせないという批判は概ね正しいでしょう。

むしろ、カンバン方式を効率化の代名詞として他の企業、産業全般に広げるときに問題が生じる可能性があると思います。カンバン方式はカンバンのような道具立てより、カイゼンと、計画ではなく実績に基づいて生産活動を行うというプロセス設計に本質があることを忘れてカンバンを形だけ導入しようとしても成果は得られないでしょう。また、カンバン方式は自動車産業という多くのオプションがある大量生産、高付加価値の組み立て産業で、もっとも威力を発揮するというのは事実で、他産業での効果は必ずしも保証されないことは認識すべきでしょう。トヨタが実質世界一の自動車となった今、カンバン方式がドグマとして盲信されないように配慮することを忘れてはなりません。

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ピーターの法則
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「人は能力のある限り出世する。するとついに能力以上の地位まで昇りつめる。組織の階層は能力以上の地位まで出世した人で埋め尽くされる。組織の仕事はまだ能力以上の地位まで出世していない人によって、かろうじて遂行される」これはピーターの法則と呼ばれ、1969年アメリカの教育学者にローレンス・J・ピーターが著書The Peter Principle(日本では「ピーターの法則」)で著しました。原題はPrincipleですからマーフィーやパーキンソンの法則がLawを訳したものであるのと違いますが、同じような意味でしょう。PrincipleとかLawとか仰々しい言葉をあえて使うのは皮肉の意味もありますが、もちろん「真実を突いている」という自信でもあるでしょう。

ピーターの法則は日本では70年代にはマーフィーの法則などよりむしろ有名で、パーキンソンの法則と並ぶような人気がありましたが、最近はそうでもありません。ピーターが本を書いた1969年から70年代にかけては日本は高度成長のまっさかりで、企業の昇進の基本は終身雇用と年功序列でした。これは実はアメリカでもそうで、当時はアメリカの大企業のホワイトカラーは終身雇用が一般的でした。終身雇用的雇用関係が大きく崩れたのは、アメリカでは日本との競争に製造業が負け始めた1980年代。日本ではバブル崩壊の後の1990年代になってからです。

終身雇用が一般的だったころは、アメリカでも同じ会社に勤務し続けている限り少しづつでも昇進を続けるのが普通でしたし、降格されるようなことは滅多にありませんでした。そのような組織では確かに多くの階層が、もはやこれ以上出世できない「無能レベル」の管理者によって多く占められていたのは事実だったと思います。しかし、終身雇用が崩壊し、能力主義が徹底してくると、降格は当たり前、管理職の多くは転職組となってきます。だからと言って、組織が無能な管理職を多数抱えるという可能性はありますが、少なくともピーターが表現したように、皆が階層を登って無能レベルで昇進が停止するというのは実情とは異なるようになってきました。

日本でももはや、年功序列を忠実に実行しているのは高級官僚の世界だけでしょうし、若い世代は終身雇用という意識で働いている人は少なくなってきています。ピーターの法則が次第に神通力を失ってきたのは、そのような環境の変化があるからでしょう。しかし今でもピー他の法則がまったく無効になったわけではありません。ピーターの法則の逆の言い方で「地位は人を作る」と言ったりしますが、昇進すると想像以上に能力を発揮するケースがある反面、全然だめということも多いのです。野球では「名選手必ずしも名監督ならず」と言いますが、名選手になるための条件と、名監督になるための条件は大きく異なっているので、名選手は必ずしもではなく普通は名監督になることは少ないはずです(あるいは名監督になるのは名選手になるより、ずっと簡単か)。アメリカの大リーグではずいぶん以前から監督のキャリアパスは選手とは別にあって、監督は現役時代の成績とは関係なく選ばれます。最近日本のプロ野球で外人監督が増えているのは、日本のプロ野球の監督育成システムがうまく機能していないからかもしれません。実際、ID野球とか野球理論が進歩するにつれ、監督も専門職としての色彩をずっと強めているのでしょう。

結局ピーターの法則は、管理職の専門性があまりなく、名選手を監督に押し上げていくような、今から思えば牧歌的な企業社会で誰もがニヤリと笑いたくなるものだったのでしょう。無能レベルの管理職で埋め尽くされた組織階層というのは、からかいの対象ではあるでしょうが、成果主義で降格、解雇は当たり前というのも世知辛過ぎる気もします。こんなことを言っていては時代から取り残されるきもしますが。

テーマ:進化論的組織論 - ジャンル:政治・経済

パーキンソンの法則
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パーキンソンの法則は、‘Work expands so as to fill the time available for its completion` 「仕事量は与えられた時間を使い切るまで膨張する」(パーキンソンの第一法則)と言った英国の政治学者のシリル・ノースコート・パーキンソンが1955年にイギリスのエコノミスト誌に発表した記事に由来します。人は与えられた資源は使い切ってしまうというこの法則は「支出は収入の額と一致するまで増大する」(パーキンソンの第二法則)とか、コンピュータの世界で「データは与えられた記憶容量を埋め尽くすまで増大する」などのようなバリエーションでも使われます。しかし、日本では「役人の数は仕事の量とは関係なく増大する」という官僚主義に対する皮肉で有名です。パーキンソンは「パーキンソンの法則」と題した著作の中で、イギリスの植民地省が第2次大戦後、イギリスが植民地を失うのに逆比例して職員数を増やし続けた現象をもとに、この法則を発見(?)したと書いています。パーキンソンの著作は皮肉とユーモアに満ちた読み物ですが、真実を突いているのは確かで、今でも広く引用されています。

もっとも、役人の数が仕事量に無関係に増大するというのは、人は資源を使い切る傾向があるという法則のひとつの表れではありますが、官僚主義はそれだけでは説明できないでしょう。なぜなら、予算を食いつぶしたり、仕事をしなくなるというのは役人が悪人を選り分けて採用したからではないからです。本来官僚組織は税金を有効に国民のために使用するためにあるものです。ところが、雇われた側は税金や権力を自分たち自身や組織のために使ってしまうというのは、経済学でいう代理人問題(エージェント問題)の一種と考えられます。株主が取締役を雇ったり、取締役が経営者を雇ったり、さらに経営者が管理者を雇って会社の資源を有効に活用しようとしても、雇われた側と雇う側の利害が必ずしも一致しません。 雇われたほうは雇う側ではなく自分たちのために資源をしまうというのが代理人問題ですが、代理人問題は最終的には雇われる側の誠意に依存するのではなく、雇う側が適切な成果の評価を実施できなければ解決できません。株主が取締役を選任するように、国民は議員を選挙で選ぶわけですが、往々にして議員自身が役人以上に税金の無駄(としか思えない用途)遣いに奔走するのが現実です。現に日本の官僚には議員に予算を任せたら無駄遣いの塊になるので、官僚が議員から税金を守らなければならないと思っている人がたくさんいます。どこまで正しいかは別にして、官僚が特に無駄遣いが好きな人たちではなく、人間とはそのような行動する経済動物なのだと考えたほうが良いでしょう。

もともとのパーキンソンの法則の「人間は与えられた資源を使いきってしまう」というのは、別の問題があります。なぜなら、与えられた資源は人のものとは限らず、自分のものである場合もあるからです。プロジェクト・マネージャー、受験生など時間を限られた人(つまり通常の仕事はほとんどそうなのですが)は、大体時間が足りなくなってしまう経験があります。「ゴール」という本で有名なゴールドラットは「クリティカルチェイン」という本で、ほとんどのプロジェクトは期限の10分の1の時間で完了するはずなのに遅れてしまう、と書いています。10分の1かどうかは別として、切羽詰るまで頑張らないというのはこの世の常です。このあたりになると中毒になったり、体に害になるのがわかっているのに、酒や薬物に溺れるのと似たような心理が働いているのかもしれませんね。

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マーフィーの法則
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想定してないことほどよく起きる

‘Whatever can go wrong, will go wrong` 「失敗する可能性のあるものは失敗する」つまり物事は悪いほうが実現するというマーフィーの法則は、米空軍大尉の技術者、エドワード・マーフィーが言ったものとされています。もっとも、これはどうも確かな話ではないようで、空軍大尉ではなくて空軍少佐だったとか、そもそもマーフィーなる人物の言い出したものではないなど、諸説があるようではっきりしません。とはいえ、マーフィーの法則はシニカルなおかしさと、失敗の本質を言い当てたような鋭さで技術者、プロジェクトマネージャー、ビジネスマンなどに絶大な人気を博しました。特にコンピューター関連の仕事をしている人たちの人気は抜群で、マーフィーの法則のバリエーションの「どんなプログラムも稼動したときは時代遅れになっている」「プログラムは保守できなくなるまで、誇張を続ける」「役に立つプログラムとはバグが発見されていないだけだ」など無数のバリエーションを生んでいます。

マーフィーの法則のバリエーションはコンピューター屋の専売特許ではもちろんなくて、恋愛版の「いい子は皆誰かのもの」「誰かのものでないのは、必ず理由がある」「知能x美しさx手に入れやすさ=いつも一定の値。その値はゼロ」などというのもあります。看護師版もあって「お金が必要なときは残業はキャンセルになる。週末に予定があるときは休日出勤が命令される」などと嘆いています。このあたりになると日本でいうサラリーマン川柳に近いかもしれません。色々あるマーフィーの法則の基本的なものをご参考までに紹介します。
・ 見た目より簡単なものはない
・ 何でも思っているより長くかかる
・ 失敗する可能性のあるものは失敗する
・ いくつか失敗する可能性がある場合は、もっとも被害の大きな失敗が起きる
・ 失敗の可能性のないということは、何が起きるかわからないということ
・ もし失敗の可能性がある手順が4つあって、その4つを直したら、5つ目の見たい策の失敗がすぐに発生する
・ ほっとおくと悪い状態はさらに悪い状態に進化する
・ もし何もかもうまくいっているように見えたら、きっと何かを見落としている
・ 自然はいつも隠された欠陥に味方する
・ 母なる自然はアバズレ(bitch)だ
・ 馬鹿防止(フールプルーフ)は不可能だ。馬鹿は独創性にあふれているから
・ 何かしようと準備が整うと、先にしなければいけないことが必ず起きる
・ 全ての解決策は新しい問題を引き起こす

マーフィーの法則がコンピューターを始め、技術者やプロジェクト実行者に愛される(憎まれる?)のは、技術に万全はないし、全てを予測した対応策の準備は不可能だということを、いつも思い知らされているかでしょう。私も一つ「確率的にありえないとは、実際には起きるということ」


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タカ戦略とハト戦略 チキンゲームを勝ち抜くには (2)
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博士の異常な愛情

タカ対タカのチキンゲームになると、先にハト戦略に転換する、つまり回避行動を取ったほうが確実に負けになります。しかし、双方最後まで頑張り続けると悲惨な結果になるわけですから、本音では突っ張り続けるのはどちらもいやなはずです。車を正面からぶつけ合うチキンゲームなら、より勇気があるというより、より狂っているほうがタカ戦略を続けることができるでしょう。そこで、相手に自分が狂っていると印象付けることが有利に働くことになります。車に乗り込むとき、大声でわめき散らしながらわけのわからないことを言うとか、ハンドルをと引き抜いて放り投げるとかして、相手に自分はタカ戦略を変えないと印象付けるのです。狂気だけでは十分でないのなら、意志とは無関係にタカ戦略を自動的に継続させる方法があります。「博士の異常な愛情(原題 Dr. Stragelove)」という映画では、米ソがそれぞれ自動核報復装置を開発します。自動核報復装置は自国に核兵器が落とされたことを検知すると、何の命令がなくても相手国に核攻撃を行うのです。このような装置があれば、核攻撃された後、怖気づいて報復をためらうことが絶対にない。つまり攻撃側は先に攻撃することで相手の報復する意志をくじくということは期待できなくなるわけです。

北朝鮮の動きを見ていると、意図的かどうかは不明ですが(多分意図的だと思われますが)、相手に狂っている、少なくとも正常の理屈が通用しにくいと印象付けることに成功しています。制裁の強化を考えると得があるとも思えないのに、ミサイル発射、核実験とステップを踏んでいくのは、タカ戦略を最後まで変えないほど狂っていると思わせる威圧効果はあるでしょう。さらに核を持てば衝突の際のアメリカのコストがずっと高くなります。ダンプカーと軽自動車ではダンプカーは平気かもしれませんが、軽自動車に爆薬を積み込んでおけば、うかつには衝突できません。自分がハト戦略に転換したときのコストを高める方法もあります。人質を取った銀行強盗が人質の何人かを殺してしまうと、逮捕されたとき死刑を含む重罪に科せられる可能性が非常に大きくなります。つまり、そのような場合は銀行強盗は自首するより、とことん頑張るインセンティブが働いてしまいます。「一人殺すも、二人殺すも同じだ!」というわけです。北朝鮮はどうでしょう。核実験だけでなく、偽札製造、覚醒剤製造販売、拉致などあらゆる悪行を重ねた結果、ハト戦略に転換して得られるものはあるでしょうか。「今さら、どの面下げて」と皆思っている(と北朝鮮が思っている)なら、ハト戦略に展開する利益は小さく、相対的にタカ戦略に固執するインセンティブが高まります。

全体としてみれば、北朝鮮はタカ戦略を取ると決心してチキンゲームを行うときに、もっとも正しいと思われる戦略を取っているようです。もちろん、チキンゲームを行うこと自体愚かしと言えるわけですが、タカ戦略として悪くはありません。日本は今後タカ戦略に傾く傾向にあるのかもしれませんが、最強のタカ戦略に対抗し続けるかどうか。ゲームの一方の主役のアメリカはどうするか、興味深いというより固唾を呑んで見守るしかなさそうです。

タカ戦略とハト戦略  チキンゲームを勝ち抜くために (1)
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世の中がきな臭くなってくると、純粋な平和主義者というのは分が悪くなってくるのかもしれません。日本ではタカ派、ハト派の色分けをすると、ハト派のほうが何となくイメージが良かったのですが、最近はそうとも限りません。英語ではタカ派はHawk 、ハト派はDoveですが、Doveというと弱いとか、間抜けとかいうニュアンスがあり、もともとそれほどイメージが良い言葉でもありません。タカの戦略を「どんなときでも断固、攻撃し妥協しない」、ハトの戦略を「どんなときでも、相手に妥協し攻撃は絶対に行わない」というように、単純明快に定義して考察してみましょう。何か獲物を取り合うとき、タカ、ハトでは次のような組み合わせがあります。

1) ハト対ハト 譲り合って分配を決める
2) ハト対タカ タカが全てを奪う
3) タカ対タカ 徹底的に戦って、勝ったほうが全てを奪う

念のためにお断りしておくと、タカ、ハトというのは戦略の名前です。実際にはタカはハトを襲うことはありますが、タカ同士は滅多に戦いません。タカ同士で戦うのはテリトリーを犯されたときで、テリトリーを犯されればハトのような鳥でも戦います。

さて、上記からタカ戦略とハト戦略のどちらが有利といえるでしょうか。一概には言えないというのが、その答えでしょう。ハトとタカが出会えば、タカは無傷で全てを奪えますが、タカ同士がぶつかると大怪我をするかも知れません。ハトとハトは互いに大きな損をすることはないのですが、相手をハトだと確認、確信する作業がありますし、適正な分配を決める手続きが必要です。この部分はハトとハトの組み合わせで生じるコストと言えるでしょう。

ハトとハトが適正な分配をするコストを最小化するには、お互いハトだとわかる標識を付け、確認作業を省くことが考えられます。しかし、そんなことをするとタカのいい餌食になってしまう可能性もあります。タカが世の中に存在するのなら、そのような標識はできるだけ仲間内だけにわかるようにしたいはずです。また、分配でもめるのもコストですから、分配方法もできるだけきちんと決まっていた方がよいはずです。公共工事をめぐる談合事件では、談合に参加する企業は少数のグループメンバーに限られています。また、厳格な分配ルールが決まっていて、ルールを破るとメンバーではいられなくなります。公共工事の談合のような場合、外部からグループ以外の企業はタカとして参入してくることがあります。そのような場合、往々にして取られる戦術はハトがもっとも獰猛なタカに変身することです。つまり、損を覚悟で徹底的な安値受注で攻撃し、外部のタカを追い出してしまうのです。外部の企業がタカであることをやめて、ハト戦略に転換してくれれば、その企業をグループに加える場合もあるでしょう。

逆にタカとタカが徹底的に戦う場合はどうでしょう。強いほうが勝って、全てを獲得することもあるでしょうが、チキンゲームのように正面衝突した挙句に双方とも破滅してしまうかもしれません。タカ戦略はハト戦略に対し絶対的に有利ですから、ハトの割合が多いときにはタカ戦略は有効ですが、タカの数が増えてくるとつぶしあいが始まります。結果的には、どこをみてもタカばかりということにはなりません。

タカ戦略、ハト戦略のどちらがどの程度有利かというのは、タカ同士のつぶしあいの程度、ハト同士の交渉のコスト、タカとハトとも割合などの条件で異なってくるのですが、汎用的に有効な戦略としてハト戦略を基調として、相手がタカ戦略を取るとタカ戦略に転換するという相手の出方次第戦略があります。この場合、ハト戦略からタカ戦略に転換するだけでなく、相手が妥協的であればタカ戦略から、ハト戦略に戻ることにします。チキンゲームは本来は一度限りですが、タカ対タカの衝突が決定的ではなく、再戦することがあれば非常に有効な戦略になります。この出方次第戦略はチキンゲームだけでなく、双方相手が信用できなくて自白してしまうという囚人のジレンマ(少子化という囚人のジレンマhttp://realwave.blog70.fc2.com/blog-entry-16.html参照)でも関係が継続するならジレンマを解決して有利に世渡りが可能になります。ビジネスの世界では談合のような形を取らなくても、業界が限られた企業で構成されていると、お互いにとことん攻撃するというタカ戦略は取らず、何もなければハト戦略で一定の利益を確保するということが広く見られます。ただ、このような安定的な関係は、初期投資が大きく限界費用が小さい、ソフトウェア、携帯電話、フラットテレビなどではなかなか成立しません。このような業界は相手をたたいてシェアを高めて初期費用を回収することが非常に重要な戦略だからです。フラットテレビなどは一度工場を稼動させてしまうと、限界費用はわずかな材料費になってしまうので、誰も予想できないような速度で価格低下が継続します。

北朝鮮に出方次第戦略は有効でしょうか。北朝鮮は必ずといっていいほど、タカ戦略を徹底します。出方次第戦略を取ったのは、日本人の拉致を認め、一部拉致被害者を帰国させたときくらいで、後は一貫してタカ戦略でした。このような相手には基本的にはタカ戦略で対抗することになりますが、そうするとタカ対タカのチキンゲームを続行することになります。(この項続く)

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チキンゲームと北朝鮮 (3)
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キム・ジョンイル(金正日)

チキンゲームを過去に遡って、のんびり分析している間に北朝鮮が本当に核実験をしてしまいました。注意しておかなければいけないのは、今回の核実験は決して最終段階ではないだろうということです。重大なステップを一段昇ったとは言えるでしょうが、チキンゲームで言えば車は互いに正面同士疾走を続けているということになります。回避行動をとるかそのまま走り続けるか、本当のチキンゲームはこれからです。

北朝鮮の今後の行動を予測するために、チキンゲームの構造を考えて見ましょう。先ず、このチキンゲームは北朝鮮とアメリカの二カ国の間のゲームだということです。韓国、日本、中国などは利害関係人、ステークホールダーではあるでしょうが、言ってみれば疾走する車の見物人、または同乗者で、ハンドルを握ってはいません。まっすぐ疾走し続けるか、ハンドルを切るか決めるのは米朝です。

それではアメリカと北朝鮮はチキンゲームをどのように見ているのでしょうか。アメリカの側から先ず見て見ましょう。そもそもアメリカは基本的にほとんどのチキンゲームで突っ張りの立場を取り続けます。とことん突っ張り続けようとはしなかったのは、米ソ冷戦の時ですが、この時は衝突が完全破滅であることが明白だったので、極力回避するような努力を継続しました。それでも、キューバ危機の時は突っ張りの基本姿勢は変えませんでした。日米戦争の場合も、アメリカは断固とした姿勢を続けました。イラク戦争の時もそうで、アメリカは強力な軍備を持っているので、双方突っ張りを続けたときの衝突を自分の側の破滅とは考えないのです。ただ、朝鮮半島で本格的な戦争が始まると、在韓米軍は数万人が死亡し、韓国はソウルが火の海になって数百万の死者が出るると予測されています。核兵器が多少とも実用段階であったとすると、被害はさらに拡大することも考えられます。米ソ間の核戦争よりはましですが、甚大な被害が発生すると考えるのが妥当でしょう。ただし、米本土は恐らく攻撃されないとアメリカは考えていると思います。

アメリカが回避行動を取るには、北朝鮮も回避行動を取るという確信を持つことが必要なはずです。アメリカにとって北朝鮮が取る回避行動とは「核兵器を全面的に放棄し、後戻りのできない形で核兵器製造の能力の廃棄を行う」ということでしょう。さらに、「ミサイルなどを兵器を生産しない。テロ支援国家に輸出しない。偽ドル札を作らない」など入るかもしれません。どのような条件をつけるにせよ、問題はアメリカが北朝鮮を信用できないと思っているということです。1994年、金日成の時代、北朝鮮が核施設からプルトニウムを取り出し核兵器製造能力を持ちそうになったことで、米朝は戦争の一歩手前まで行きました。しかしこの時は、カーター元大統領の努力もあり、アメリカは珍しく回避行動を取りました。アメリカは北朝鮮が核兵器の開発を凍結することと引き換えに(これは北朝鮮の回避行動)、日韓と共同して原子力発電所の建設をすることや燃料援助を行うこと、さらに在韓米軍の非核化などの譲歩を行ったのです。しかし、その後北朝鮮は核施設の査察に非協力的で、結局核開発を継続していました。アメリカとしては双方回避という状態を確信するための、ハードルは相当高くなっているはずです。

一方、北朝鮮はどうでしょう。北朝鮮がアメリカと大きく異なるのは、北朝鮮にとってチキンゲームで生き残るかどうか問題なのは、金正日とせいぜいその周辺の指導部だけだおいうことです。衝突で車が滅茶苦茶になっても、つまり北朝鮮の人民が何百万人殺されようと関係なく、自身の生命、自身の体制が生き残れるかどうかが問題なのです。したがって、回避行動をとったあげく「車を降りろ」と言われるような事態は受け入れがたいはずです。ところがアメリカの要求する回避行動の条件は実質的な北朝鮮の無力化です。そもそも、北朝鮮の体制は対米の緊張感で維持されているような面があり(もしくは、そうだと指導部が信じている)、回避行動を取ること自体が、破滅につながる可能性が高いのです。

回避行動自身が破滅につながると思っているとすれば、突っ張りを続けた挙句に衝突して破滅してしまうことを恐れる必要は相対的に小さくなります。自発的に回避行動を取って破滅するより、相手が最後にはハンドルを切ると期待して、疾走を続けるほうが合理的だということになります。北朝鮮の状況を別のたとえをすると、銀行強盗がSWATに囲まれて、人質を盾にしている状況に良く似ています。銀行強盗は体に大量のダイナマイトを巻いていて、うかつに踏み込むと人質もSWAT部隊も大損害を被るというわけです。銀行強盗は叫びます「1億ドルと国外に脱出できる飛行機を用意しろ!」

現在の状況は相当悲観的です。米朝双方とも回避行動を取るインセンティブは小さく、突っ張り続けるインセンティブの方が大きいのです。しかも、米ソの冷戦時のようにお互いに車を停車させて睨み合っているのではなく、車は疾走を続けています。北朝鮮の核実験に対し何らかの報復措置が取られるでしょう。日米開戦時の日本と同じように、「石油を止められたら軍事的に無力化してしまう。だったら完全に無力化する前に一か八か・・」という心理状態に陥る可能性は高いと思われます。しかし、このような推測自身がチキンゲームで北朝鮮の思う壺、つまりアメリカ-回避行動、北朝鮮-突っ張り継続、結果-北朝鮮が勝利、につながってしまうとアメリカは考えるかもしれません。いや、きっと考えるでしょう。米朝衝突の確率は5割以上あるのではないかというのが、私の見解です。

続く



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チキンゲームと北朝鮮 (2)
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チキンゲームという言葉が広く使われるようになったのは、アメリカとソ連の冷戦時代です。アメリカもソ連もどちらも相手どころか世界中を何回も全滅できるほどの数の核ミサイルを持ってにらみあっていました。双方とも相手の破壊力が自分の側を完全に破壊できるものであると信じていたので、突っ張り続けることはできず、どちらも回避を選択して、冷戦状態は破滅に至らずソ連の崩壊まで継続しました。しかし、回避策が選択されたといっても、その時点で冷戦が終了したわけではなく、言ってみればどちらの側も突っ張り続ける代わりに車を停車させ、相手が車も動かせば再び自分も車を動かす構えで対峙していたのです。

双方がにらみ合っていたとき、問題になるのは相手側に、再び車が動いたら、つまり突っ張りを再開したら、本当に突っ張りに戻り、激突を恐れていないと信じ込ませることでした。これには二つの要素が必要です。一つは相手を完全に破壊できる、つまり突っ張り続けることが自分の破滅になると思わせることです。このため米ソは十分な量の核兵器と運搬手段を持ち続け、発展させることが必要でした。核兵器の爆発力はますます大きくなり、爆撃機、ICBM、潜水艦と運搬手段は多様化、高度化しました。もう一つ必要な要素は、突っ張りの意志がポーズではなく、本気であると相手に確信させることです。これは必ずしも容易ではありません。特に民主主義国は自国に反戦勢力を抱えていて、国論が「死んでも相手に報復する」とまとまるか問題です。アメリカは民主主義国ですが、ソ連が攻撃をしかけてきて、それが核攻撃なら大統領は議会の承認なしで直ちに反撃する権限を持っていました。また、最初の一撃で反撃能力が失われてしまえば、チキンゲームではなく西部劇のガンマンの決闘になってしまいます。米ソとも運搬手段を多様化た大きな理由は反撃能力の維持でした。潜水艦は容易に発見できず、全てを一撃で破壊することは困難です。アメリカではミサイルを巨大な鉄道システムで常に動かし続けることさえ計画されました。もっともこれはあまりに費用がかかるということであきらめられましたが。

米ソの冷戦はどちらも言ってみれば車を止めていただけでしたから、車が動き出す危険は常にありました。それが現実化したのが1962年のキューバ危機です。アメリカはすぐ隣のキューバにソ連が核ミサイルを設置したことを知ったとき、直ちに極めて強硬な対応策をとりました。キューバを海上封鎖しミサイルが撤去されなければ攻撃を行う覚悟を示したのです。最終的にこのチキンゲームはソ連が回避策を取ったため収束しました。ソ連が譲ることができたのは、キューバのミサイルがアメリカに対しては新しい、しかも近距離であることから最悪アメリカの反撃能力を奪いかねない危険なものだったのに対し、ソ連は撤去しても元の状態に戻るだけだったことがあります。つまり、(突っ張り、回避)の利得が米ソで対称ではなく、ソ連の方が受け入れやすいものだったのです。しかし、キューバ危機のとき、アメリカがキューバの核ミサイルを攻撃していれば、キューバのミサイルが反撃する可能性は十分にありました。当時の国防長官だったマクナマラが回顧録で、軍部のキューバのミサイルは反撃する暇もなく破壊しつくせるとの主張をしりぞけて、交渉を継続したことに触れ、後でキューバのミサイルの数は軍部、CIAの推定よりはるかに多かったことがわかり、攻撃は破滅的な結果を招いただろうと書いています。キューバ危機で最終意思決定者だったケネディー大統領は、突っ張りは破滅だということを覚悟した上で、断固とした交渉を続けたのです。

第2次世界大戦のときの日米はどうだったでしょう。日米交渉は完全なチキンゲームの様相をていしていました。アメリカは日本に中国からの即時撤退を要求し、要求が入れられないと石油禁輸の制裁を行いました。当時の日本は石油輸入の過半をアメリカに依存していて、禁輸の継続は軍事能力の喪失を意味していると考えれました。つまり日本としては車を止めて相手の出方を見るということはできず、突っ張るか(日米開戦)か回避(中国からの撤退)の二つしか選択肢はないと思われたのです(本当にそうだったかは議論はあるでしょうが)。このときの日米はチキンゲームの利得を堂どう見ていたのでしょうか。

典型的なチキンゲームは(突っ張り、突っ張り)の組み合わせは破滅を意味するのですが、おそらくアメリカはそうは考えなかったでしょう。アメリカは米ソ冷戦を除けば、自分はダンプカーで相手は軽自動車と考える傾向が強く、(突っ張り。突っ張り)の組み合わせは少なくとも自分の破滅とは思わなかったはずです。これに対し、日本は「満州は日本の生面線」と言われたように、回避は狭い日本領土に日本を閉じ込める非常にコストの高い策であると思われました。一方(突っ張り、突っ張り)はどうでしょう。日米開戦時では日本の盟友のドイツはスターリングランドの敗北以前でヨーロッパ全土を掌握し、ソ連に破竹の勢いで進撃。イギリスの陥落も時間の問題と思われていました。また、日本ではアメリカは退廃文化に犯され、戦争による多大な人的損害に長くは耐えられないだろうという見方も強くありました。突っ張りで衝突が起こっても、破滅はせずに最後は何とかなるだろうという気分はかなり強くあったはずです。とすると、日本の考えるチキンゲームの利得表は(突っ張り、突っ張り)の損失より、アメリカの出方いかんにかかわらず回避策をとる損失方が大きく見えていたはずです。ゲームの利得表がそのように見えていたとすると日米開戦は必至だったと言えると思います。(この項続く

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チキンゲームと北朝鮮 (1)
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北朝鮮が核実験を行う懸念が高まっています。国際社会はこれに対し、制裁処置を行うことを表明していますが、核実験は実施されるのではという予測が有力です。核実験の実行、制裁ということになると、北朝鮮はもちろん制裁する側も打撃を受けます。核実験の後さらにステップを進めると本当の戦争になる危険すらありますが、そのようなことになれば悲惨な結果になることは目に見えています。双方とも損になることが判っているのに、頑張り続けることによりどんどん事態が悪くなる、このような状態をチキンゲーム(またはチキンレース)と言います。

チキンゲームという言葉が有名になったのは、ジェームズ・ディーンが主演した「理由なき反抗」という映画です。この中でジェームズ・ディーンの演じる主人公は敵役と女の子を取り合って、ゲームをします。ゲームは崖に向かって別々の車で疾走して、先にブレーキを踏んだほうが負けというものです。先にブレーキを踏むとチキン(臆病者)と馬鹿にされて、女の子も失うことになります。映画では敵役のブレーキが引掛かって敵役は崖下に転落し、ジェームズ・ディーンはブレーキを踏んだのにかかわらず女の子を獲得するという好都合な結果になりますが、本来なら負けていたことになります。映画では崖に突っ込んでいくのですが、もともとは2台の車が正面に向き合って疾走する形だったようですげ。この場合運転手は、1.そのまま突き進む、2.ハンドルを切る、の二つの選択肢があります。ハンドルを先に切るとチキンと馬鹿にされるわけですが、どう考えても激突してしまうよりは良いはずです。運転者をA、Bとし、選択肢を回避と突っ張りにわけて考えてみましょう。このときそれぞれの利益と不利益を利得と考えて、利得を数字で表してみます。数字化された利得を、激突を-100、チキンになることを-30、相手をチキンと馬鹿にできることを+30、どちらもチキンになったときを+10と定義すると、

1) A(突っ張り)B(突っ張り) 結果(A-100、B-100)
2) A(突っ張り)B(回避)   結果(A+30、B-30)
3) A(回避)B(突っ張り)   結果(A-30、B+30)
4) A(回避)B(回避)     結果(A+10、B+10)

となります。囚人のジレンマ(当ブログ内の「少子化という囚人のジレンマ」を参照してください)では、捕まった二人の囚人が相手がどのような戦略をとろうと(自白しようと、黙秘しようと)、自分は自白してしまったほうが有利になるため、二人とも黙秘して微罪で免れるという双方に有利な結果にならないというジレンマですが、チキンゲームはそうではありません。自分が突っ張り戦略を取ると、相手も突っ張りだったら破滅、相手が回避なら大きな利益を得ます。逆に回避すると決めると、相手が突っ張ると大きな損、相手が回避だとそこそこの利益を得ることになります。どちらも破滅はご免なのですが、相手が回避戦略を取ってくれると、突っ張ることに大きな利益が生じることになります。また、自分が回避して相手が突っ張ると、みすみす相手に大きな利益をえさせることになります。心は揺れ動くわけですが、どちらも破滅は避けたいと思っているのは明白ですから、こちらが絶対突っ張ると相手に信じ込ませることができれば、相手は回避にまわる期待が高まります。北朝鮮のいわゆる瀬戸際外交は、その戦術の一つでしょう。(この項続く


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ハインリッヒの法則
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大きな事故があると、重大事故発生の陰に隠れた、ヒヤリ事故について分析したハインリッヒの法則の話題が良く出ます。ハインリッヒはアメリカの技師で、1920年代に労働事故の研究をしたのですが、彼の発見した法則は1人の重傷者の陰に29人の軽傷者、300人の怪我は免れたもののヒヤリとした人がいるというものです。少し古い話ですが、森ビルの回転扉で死人が出前、1年でほぼ30回の救急車沙汰があったと言われており、ハインリッヒの法則を裏付けています。1980年代には損害保険の専門家のバードが重傷者1に対し、軽傷、物損、人損または物損のヒヤリが10、30、600であるという法則を発表しています。いずれにせよ、重大事故は氷山の一角で、その陰に膨大な数の間一髪が隠されているということに変わりはありません。

直感的にも当然と感じられるハインリッヒやバードの法則ですが、現実に事故の原因を分析するときえてして忘れがちです。工場、医療現場、建設工事など色々な場で事故は起きますが、事故の後、関係者に原因を問いただすと答えとして、
・担当者(被害者)が不注意だった
・担当者(被害者)が常識がなかったまたは愚かだった
・担当者(被害者)が安全ルールを無視した
・管理、監督が不十分だった
といった人間系の要因を先ず挙げることが多いのです。しかし、ひとつの事故の発生の陰に多くのヒヤリがあることを考えると、人が問題であるという分析は多くの場合皮相的なものに過ぎません。たとえば、あなたは朝一番で重要な会議が予定されていたとします。ところが、

1)いつも使っているコーヒーポットが壊れていた
2)探し回って古いコーヒーメーカーを使ったら、お湯が沸くまで予想外の時間がかかった
3)急ぐので車で行こうと、あわてて家を出たが鍵を中に入れたまま、家をロックしてしまった(ドアを閉めるとロックされる仕組みだった)。悪いことに家の鍵と車の鍵は同じキーホルダーに付いていて、車も使えない

この場合悪いのは、鍵を置き忘れたあなたということもできますが、コーヒーポットの壊れやすさ(部品品質)、家のドアの構造(部品デザイン)などもあります。さらに、
・隣の家の車を借りたが壊れていた(バックアップシステム障害)
・バスがストで止まっていた(社会問題)
などが組み合わさると、会議に遅れるないし出席できないという重大障害にいたります。そもそもコーヒーポットが壊れるという話と、バスがストで動かないという社会問題が同時に起きると(その前に鍵を忘れてロックした自分がいるわけですが)、致命傷になるなどということは予測しがたいことです。結局、日常生活、工場生産、土木建築、外科手術、スペースシャトル打ち上げなどなど、どれをとっても複雑なシステムとなっておりで膨大な要素が的確に動くことで初めて順調に機能が果たせるのです。構成要素の数が膨大で、思いも付かないことが「組み合わさって」大きな問題を引き起こすというのが一般的な事故なのです。この組み合わせがあって初めて事故が起き、またさらに深刻なものになっていくということがハインリッヒの法則が言うように、重大事故が氷山の一角となる理由なのです。もちろん、システムは設計を慎重に行い、さらにささいなエラー、事故も「プラスこんなことが起きたら」という想像力を働かせながら継続的な改善活動を行うことによって、事故を減らしていくことは可能です。そして、事故が起きる真の原因は担当者(被害者)に責任を押し付け改善を行わないという組織上の問題であることが実際には多いのです。

話は飛躍しますが、何か起きると「教育が悪い」という言い方をよくします(特に政治家、テレビのコメンテーターなど)。これは教育の改善という一見、社会の問題に還元しているようで、実は個人の問題に解決を押し付けているだけだと言えます。虫歯は子供の食生活を管理監督できない親のせいだと思われることが多いのですが、水道水にフッ素を添加すると劇的に減少します。個人の責任を追及する前に(特に政治家は)社会システム全体で解決する方策を考え、実行してもらいたいものだと思います。
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  バーストの法則の重大事故とヒヤリ事故の割合
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  ハインリッヒの法則の重大事故とヒヤリ事故の割合

テーマ:経営 - ジャンル:政治・経済

吉野家の決断番外編 株式市場は知っていた!?
吉野家の株価と日経平均の動き

吉野家ディー・アンド・シーの株価(青字)と日経平均 (赤字)

ジェームズ・スロウィッキーの「みんなの意見は案外正しい」(角川書店刊)という本が最近刊行されました。品評会に出品された牛の重さとか、様々な事柄や数量の推定を専門家ではない不特定多数の人が集合的に行うことで専門家以上に正確な答えが得られるという興味深い事例を色々述べています。その中に株式市場の驚くような洞察力の例として、スペースシャトルのチャレンジャー号が爆発墜落したときのNY市場の反応があります。

スペースシャトルのチャレンジャー号が発射直後爆発墜落した光景は全米に放映されていました。NY証券取引所も直ちに反応して、スペースシャトルの製造に関係したロッキードなど関連4社の株は値下がりを始めたのですが、その日の終わり値は、1社(Morton Thiokol)が12%下落し、他の3社は3%の値下がりにとどまりました。その後6ヶ月して調査委員会はチャレンジャー爆発の原因は固体燃料タンクのパッキング(Oリング)が低温で凍結破壊されたためと発表しました。MortonThiokolはまさに、その固体燃料部分を製造していたメーカーだったのです!

調査委員会の発表のはるか前、爆発直後(数分後)に誰か真の原因を知っていた人がいたのでしょうか。インサイダーの疑いは社内外を問わず調査されましたが、インサイダーの事実は確認されませんでした。株式市場という多数の人が参加する場で多数の人が集団として正確な予測を僅か数分で達成したとしか考えられないのです。スロウィッキーはなぜ株式市場が全体として未来を予測したり、真実を分析できるかは述べていません。個々の投資家は自分の利益を考えているだけで、特別な能力を持っているわけではありません。しかし、株式市場は時として未来を知っているとしか思えない動きをするのです。

吉野家(吉野家ディー・アンド・シー)の株価はBSE問題で牛丼販売打切りが不可避となった2004年の初頭に大きく値を下げました。しかし、その後はむしろ堅調に推移して、日経平均とほぼ同様な動きに終始しました。つまり株式市場は吉野家が牛丼の販売中止で深刻な打撃を受けることは予想しつつも、BSE問題は一時的なものであり吉野家は致命的な打撃を受けることはないと予測したことになります。米国牛肉の輸入は複雑な政治問題ですし、BSEが米国、世界でどの程度広がっているか、そもそも収束するかというようなことは誰も確信を持ってわかるはずのないことです。ただ、株式市場は吉野家が翌年の平成17年に3割減の売上げとなるなど、売上げ、利益とも多大の影響を受けているのを見ながら、吉野家の将来は大丈夫と判断したことになります。

スペースシャトルのチャレンジャー号墜落の時に示したような魔術的未来予測機能が株式市場にあると信じるなら、吉野家は牛丼販売を休止するという決断がBSE問題の長期化などのリスクがあるにもかかわらず、きっと大丈夫だろう確信することもできたはずです。市場に自分の戦略の妥当性の判断もさせてしまおうというのは、無責任でも荒唐無稽でもなく、むしろ現時点でもっとも確実な未来予測の手法ということすらできます。スロウィッキーも触れていますが、アメリカでテロの発生の先物市場を開設しようという計画がありました。テロの関連情報はCIAを始めおびただしい数の分析官、研究者、外交官、警察、ジャーナリストが個別に収集しています。それらの大量の情報は互いに矛盾することも多く、統合してひとつの結論を導き出すことは困難です。そこでテロの発生を先物市場で取引することにより、バラバラな情報を統合しようというのです。しかし非常に有効に機能しそうであったこの構想は不道徳だという(テロの発生確率が高くなって儲かる人が出てくる)という理由で総攻撃にあってつぶれてしまいました。

さて、吉野家の株価のチャートを見ると2003年の半ばごろから株価は日経平均と反対に弱含みとなり年末にかけて20%近く下落しました。日経平均は反対にその間10%程度上昇しています。BSEの発生が米国で確認、発表されたのはその年の12月です。米国のBSE発生の発表とそれに続く日本政府の米国牛の禁輸措置、さらに吉野家の牛丼販売休止へと続く1月ほどの間に株価は一時的にさらに大きく下げましたが、その後は前に述べたとおり日経平均とほぼ同様な動きを示しています。2003年の半ばから日経平均と反対の吉野屋の株価の値下がりは何を意味していたのでしょうか。私には株式市場がBSE問題の発生を全体として予測していたと感じています。信じるか信じないかは別ですが・・・
 

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ダンバー数
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人間がお互い同士良く理解し合ったグループを形成するとするには、グループの人数は150人を超えてはいけないそうです。この説はもともと英国の人類学者のダンバー(Dunber)という人が発見して、Dunber's Numberとも呼ばれています。

ダンバーは霊長類の群れの大きさを研究して、大脳皮質の大きさとグループの大きさに相関関係があることに気がつきました。これは霊長類がグループを作るにはグルーミングつまり毛繕いをお互いするような濃密なコミュニケーションが必要で、このような濃密な関係を維持するのは大脳皮質の大きさに制約されるからだとダンバーは考えました。彼によると言語というのはグルーミングをお手軽にする(cheep grooming)と考えられ、人間は言語によりグループサイズを他の霊長類より大きくできるのすですが、個々の関係を濃密に保つには150人が限度だということです。

ダンバーはこの150人という数字を多数の未開民族のグループの大きさが平均最大148.4人であることから得たのですが、未開民族の村とおなじような運命共同体である軍隊でも150人(中隊規模)が一つのユニットとして統一した作戦を実行できる上限だと考えられていています。 また、Gortexで有名なゴア社は社員を上下の区別無く共同者(associate)と呼んで、ビジネニットが150人を越えると、常に細分化を進めています。ゴア社の人の話では150人のグループの中では、誰がどのような仕事ができるか、業績を達成しているかが明白なため、上司の指示などなくても皆一生懸命仕事をするそうです。

実際の企業は150人をはるかに越える規模のものは沢山あります。大きな国家は何億もの人口を持っています。しかし、150人を越えた集団で個々の人の性格や仕事、生活を互いに理解することは確かに困難です。そのために、150人を越える集団は何らかの組織や抽象的な観念で結びつけられている必要があります。また、150人以下でも短期のプロジェクトのような場合個人的な力量や仕事ぶりを互いに把握できるのは10-20人という規模でしょう。

企業の話を言えば150人というのは中小零細企業が中堅、大企業へと変貌するための大きな屈曲点になっているようです。「バス1台に乗れる規模が会社ではやりやすい」と言ったりしますが、バス1台では50人ですから、企業と言うより個人商店かもしれません。150人ともなると管理担当役員などがいて、人事、経理、総務全部見ていたりしますが、個々の人の動きは社長は十分に把握していると言うことでしょう(もちろん優秀な社長ですが)。

しかし、150人を越えると従来の個人的な関係の集合で企業を運営することは不可能になってきます。組織、ミッション、評価というようなものが重要な意味合いを持つようになり、思いつきで属人的な経営は許されなくなります。多くの企業にとって150人は鬼門のようですね。これは霊長類がグループを作るにはグルーミングつまり毛繕いをお互いするような濃密なコミュニケーションが必要で、このような濃密な関係を維持するのは大脳皮質の大きさに制約されるからだとダンバーは考えました。彼による言語というのはグルーミングをお手軽にする(cheep grooming)と考えられ、人間は言語によりグループサイズを他の霊長類より大きくできるのですが、個々の関係を濃密に保つには150人が限度だということです。

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香港男性はなぜ長生き? 喫煙率と平均寿命
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少し旧聞に属しますが、今年の7月厚生労働省の発表した簡易生命表によると、女性の平均寿命は85.49歳、男性は78.53歳となっています。厚生労働省は他国との比較データーも発表しており、これによると女性は21年連続の世界一、男性は前年度の2位から4位になっています。男性は香港(79.0歳)、アイスランド(78.9歳)、スイス(78.6歳)の後塵を拝しています。平均寿命はインフルエンザの流行のような一時的な現象でもかなり変動しますし、統計年度の違いもあり直接的な比較は簡単ではないのですが、国連人口基金の2005年度版世界の平均寿命の比較では、日本の男女の平均寿命は78.7歳、85.8歳なのに対し、香港は78.9歳、84.9歳になっていて、やはり男性は香港が上回っています。

香港の平均寿命が高いのは多少意外に思われるかもしれませんが、香港の生活程度は日本と同水準で先進国のレベルですからそれ自身不思議はありません。しかし、男女の逆転はなぜ生じたのでしょうか。このような疑問は意外と答えるのが難しく、断定的なことはなかなか言えません。実際、香港が男性平均寿命世界一であると報じられたときマスコミは特に理由についてのコメントは行いませんでした。難しくなってしまうのは、人が亡くなる原因は癌だったり、心筋梗塞だったり、殺されたり、洪水で溺れたりと色々で何か決定的なものを特定することができず、あくまでも統計的に有意な違いがある議論することしかできないからです。このため公害、薬害などでも犯人と名指しされた企業側が「因果関係が証明されていない」と言って逃げ回ることが多くなるようなことも起きてしまいます。アスベスト被害でも、アスベストの吸引から数十年たって中皮腫になる確率が著しく高まるという現象がわかっていますが、ナイフで心臓を刺されたから死んだというような確実な話ではありません。確率的な推論で病気の発生原因や食物の薬理効果などを分析することを疫学的手法と言いますが、疫学的手法では因果関係の存在の示唆はできますが、生理科学的な原因プロセスの解明はできません。

さて疫学的でも良いですから、香港と日本の男女の平均寿命の差の逆転の原因は説明できるでしょうか。ここからは仮説と言う名の思いつきを出発にするしかありません。そこで喫煙率に注目してみます。これは私がタバコを吸わないからで、タバコを吸う人なら自殺率あたりを調べるかもしれません。自殺のデーターはわかりませんが、喫煙率のデーターはかなり色々な形で調べられています。WHO(世界保健機構)の2002年の統計では日本の喫煙率は男女それぞれ、52.8%、13.4%です。WHO の統計に香港は入っていないのですが香港のTobacco Control Office Department of Health (こんな組織があるんですね)によると男女で22.%、3.5%となっています。香港が禁煙に熱心なのは確かで、タバコは1箱480円、税金なんぞは極力なくすという土地柄では大変な課税が行われています。来年にはレストランは全て禁煙になるようです。

香港と日本の平均寿命を比べると、年度や統計の取り方で差はあるでしょうが概ね、男は+0.2歳、女は-0.9歳です。これに対し喫煙率は男で-30%、女で-10%。男と女で喫煙の影響は異なるかもしれませんが、ほぼ同等とすると喫煙率20%の差が、平均寿命の1.1歳になっていると考えられます。つまり喫煙率10%が平均寿命約0.5歳の差につながることになります。

日本の場合男女の平均寿命の差は約7歳ですが、喫煙率10%が0.5歳になっているとすると、喫煙率が同じ場合の差は約5歳になります。この5歳という差が喫煙率を除いた男女の基本的寿命の差ということになりますが、他国ではどうでしょう。スウェーデンは男女の喫煙率は19%と同じなのですが、平均寿命の差は4.6歳。スイスは男が39%、女が28%の喫煙率で喫煙率の差を調整すると、差はほぼ5歳。同じような調整済みの値を計算するとアメリカも5歳。フランスはなぜか7歳。話を香港に戻すと5歳になります。例外もありますですが、喫煙率10%の増加が平均寿命で0.5歳の低下になるという推測はどうやら正しそうです。

喫煙率10%で0.5歳平均寿命が縮まるのなら、喫煙率0%と100%、つまり非喫煙者と喫煙者の平均寿命の差は約5歳になるはずです。個人に立ち戻ればタバコをやめれば(もう遅いなどと言わないで)寿命の期待値は5歳伸びることになります。たった5年と考える人もいるでしょうし(これは確率の話で確実に5年寿命が伸びると保証されているわけではないとか理由をつけるわけですね)、喫煙は緩慢な自殺と考える人もいるでしょう。私は吉野家で牛丼を食べるより、隣でタバコを吸われるよほど生命への危険は高いと思いますが、どうでしょうか。

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吉野家の決断 (2)
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時計の針を2004年の始めに戻してみましょう。2003年12月に米国農務省はBSEに感染した牛が発見されたと発表し、日本政府はそれを受け米国からの牛肉輸入を禁止する決定を行いました。吉野家の牛丼は100%米国産牛肉を使用しており、この時点で吉野家は牛丼の材料の仕入先の変更を行うか、牛丼の販売を中止するかの決断を下す必要に迫られました。

経営者が危機にあたって決断するときに、先ず必要なのはできるだけ正しい情報を収集することです。その意味で米国産牛肉の輸入禁止の原因となったBSEの問題の深さや広がりを検討することが求められたはずです。BSEは狂牛病ともよばれ、1986年にイギリスで発生が確認されました。その後人間に感染しクロイツェフェルト・ヤコブ病の原因になっている疑いが強いことが認められました。クロイツェフェルト・ヤコブ病は発病すると死亡率がほぼ100%であることと病状が極めて悲惨であること、さらに牛肉が非常に一般的な食物であることから、イギリスを中心に一種のパニックとなり、イギリスでは牛の大量処分、EU諸国の英国牛禁輸措置など深刻な事態が引き起こされました。さらに、日本では2001年にBSE牛の発生が確認され、焼肉屋などは大きな打撃を受けました。

吉野家がBSEにどのような評価を行っていたかは推察の域はでませんが、2004時点ではBSE問題はイギリス、ヨーロッパではかなり下火になってきており、沈静化に向かっていました。また、実際にBSEに感染しクロイツェフェルト・ヤコブ病を発病する確率は非常に低く、たとえば牛肉を食べて食中毒で死亡する危険性がはるかに高いことも知られていました。2001年の日本でのBSE騒動の収束は、日本政府による全頭検査、トレーサビリティーの確立によるものが大きかったにせよ、BSEが牛を食物の座から降ろすようなものではないという推測の妥当性を裏付けるものだったと思われます。そうは言っても、米国牛の輸入がいつ再開されるかは不確定な要素が多く、どのような対応を取るかは重大な経営判断でした。

このように重大な経営判断を行うとき、有効な方法としてシナリオプランニングという手法があります。シナリオプランニングというのは1960年代に開発され、石油業界で広く用いられた手法ですが、およそありえないと思われるような事態も含め影響を与えるファクターをできるだけ漏れなく、検討して長期計画を行う戦略策定のツールです。吉野家の直面した米国産輸入禁止では、先ず対応策として、

1. 牛丼の販売を米国産牛の在庫が枯渇した時点で休止する
2. 牛肉の代替供給先(例えばオーストラリア牛)に切り替える

の二つが考えられます。次に米国産牛禁輸措置が

(1) 早期に禁輸措置が解除される
(2) 禁輸措置が長期におよぶ

早期、長期がどの程度の長さかは財務能力や社員、店の維持の必要性や困難度合いなど、吉野家自身の耐久力にかかわってきますが、実際にはシナリオプランニングで影響度をシミュレーションしながら、期間を決めることが妥当でしょう。しかし、吉野家クループは2004年始めの時点で、自己資本比率が65%、流動負債の2倍の流動資産を持つなど、相当耐久力は高かったと推定されます。

さて、シナリオのケースは次の4つになります。

ケースA: 代替供給先に変更したが早期に禁輸措置は解かれる
ケースB: 牛丼販売を休止したが早期に禁輸措置は解かれる
ケースC: 代替供給先に変更し、禁輸措置は長期に及ぶ
ケースD: 牛丼販売を休止、禁輸措置は長期に及ぶ

上記のケースを考えるとき、代替供給先に変更することのコストを考える必要があります。この場合コストというのは単純な仕入れ価格だけでなく、調理法の変更のコスト、味の変化による消費者の離反が含まれます。この点吉野家は苦い経験がありました。現在の吉野家はかつての吉野家のブランドは継承しているものの、70年代に急速にチェーン店を拡大した吉野家とは経営主体は別物です。もともとの吉野家は1980年に会社更生法を申請して倒産したのですが、その原因としてタレを粉末に変更し、フリーズドライの輸入牛の使用などで味が劣化し、客離れを招いたことがあげられています。コカコーラが味を変更したものの消費者の反発に結局元のレシピに戻したように、吉野家の牛丼の味を変更することは大きなリスクを伴うと考えられたのです。もちろん、先述のように牛丼の販売休止は直接的に莫大なコストを伴います。2004年でどの程度予測できたかは不明ですが、売り上げ3割減、新メニュー開発のコスト、社員の整理など短期的、長期的に大きな犠牲が生じました。ただ、このようなコストはある意味企業の内部のものであり把握することが可能ですが、消費者の離反は数値的に捉えることは難しく危険なものであることは理解しなくてはいけません。

さて、ケースAはどうでしょう。骨折れ損のくたびれもうけの感もありますし、いったん代替供給先に変更すると相当量の在庫を持つことになり、味の変化による消費者離反、ブランドイメージの劣化というリスクが表面化するかもしれません。ケースBは明らかに一番良いケースで、これで済んでくれたら文句はないでしょう。ただし、この場合も短期間とはいえ、代替メニューの開発は店舗を閉めない限りの必要です。ケースCは、代替供給先確保という回避策は一定の効果をあげると考えられますが、味の変化による消費者の離反、松屋、すき家との差別化の縮小による一層の価格競争というリスクがあります。ケースDは我慢比べです。長期と言ってもどこまでの長期なら耐えられるのか、腹をくくっておく必要があります。

シナリオプランニングでは各ケースに対し、店舗、仕入れ、メニュー開発、マーケティングなど各部門の担当者が実際に起きるだろう事態の物語の「シナリオ」を書いていきます。ここでは、そのようなことをする情報も技術もありませんから、残念ながら結果論から吉野家のとった決断を評価することしかできません。結論として吉野家は代替供給先からの牛肉使用による、消費者の離反は長期的なリスクであるのに対し、売り上げの減少はある程度までは一時的なリスクであると判断したようです。しかし、本年いったん再開された米国牛肉の輸入が米国側のずさんな管理で危険部位が混入して、再び半年以上禁輸が続いたり、米国の高圧的な態度で日本の消費者の反感が強まったり、思いもかけない危機がさらに発生したのは事実です。このような事態もシナリオを精密に作り上げていけば想定ケースの中に含まれたかもしれませんが、リスクとして予測していればあるいは代替供給先の開発に2004年時点の決断が傾いていたかもしれません。しかし、企業の耐久力に確信が持てれば(本当の確信を持つことは難しいでしょうが)、その時点で再度戦略を組みなおすことにするという方法をとることもできます。これは行き当たりばったりというより、柔軟なスピード経営と表現したほうが良いでしょう。

このような決断にシナリオプランニングのような手法を用いても絶対はありません。ただし、最後は直感で判断を行うとしても最初から直感ではいけません。それは山勘です。ともあれ、犠牲は大きかったものの、吉野家はそれなりに得たものも多く、結果論からいえば今回の決断は成功だったと言えるでしょう。ただ、牛丼という単品販売による効率化追求が大きな危機を招いたのは事実です(マクドナルドもケンタッキーも似たようなものではあるのですが)。危機に際して適切な判断を行うのと同時に、危機の発生以前に対応策を準備しておくことはやはり必要なのでしょう。

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吉野家の決断 (1)
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米国産牛肉の輸入が再開され、吉野家の牛丼が数量、期間限定つきながら徐々に再開されています。街のあちこちにある吉野家の店先を見ると「本日分売切」という張り紙。限定販売の牛丼の需要は堅調なようです。牛丼は吉野家の専売ではなく、他にもすき家をはじめいくつもチェーン店がありますが、吉野家だけが米国産牛肉にこだわり、米国産牛肉の輸入禁止の期間「牛丼」の吉野家だったにもかかわらず、牛丼の販売をしていなかったのですが、ようやく昔の姿に戻ることができるわけです。

吉野家の米国産牛肉へのこだわりは、大きな見返りを生んでいます。牛丼販売は輸入禁止にともない中止となった時も、販売を再開したときもNHKを始めとしたテレビ、新聞で大きく報じられました。吉野家が「牛丼再開しました」という広告を打つ必要もなく、莫大な量の宣伝ができたことになります。また、牛丼に対する一種の飢餓状態が生じた結果、安売り競争で一杯280円まで低下した牛丼の価格が400円以上になっても売れています。吉野家は牛丼が他社と差別化されたブランドイメージを確立することができたとさえ言えそうです。

しかし、牛丼の販売中止は深刻な犠牲もともないました。吉野家のIR情報によると2004年の初めに牛丼が店頭から消えたことにともない、平成17年2月の決算で牛丼の販売部門である吉野家ディー・アンド・シーの売り上げは約630億円と平成16年の売り上げ約830億円と比べて27%近く低下しました。平成18年2月の決算でも売り上げは約660億円と4%程度しか回復していません。主力商品どころか「牛丼の吉野家」が牛丼抜きで売り上げの低下が上記の程度で済んだことがむしろ驚きかもしれません。少なくともマクドナルドでハンバーガーが販売中止になれば、この程度の売り上げ低下ではおさまらないでしょう。

牛丼販売中止期間、もちろん吉野家はさまざまな努力を行いました。豚ドンなど代替品を開発したり、正社員をパートに大幅に置き換えたり、売り上げ維持と経費削減の対策を打ち続け、平成18年度には売り上げは微増だったものの、15億円程度の黒字化に成功しました。それでも牛丼販売中止の前の平成16年度には110億円の営業利益を上げていたのですから、苦しい状況に変わりはありません。しかし牛丼の売り上げがフルに貢献する来期平成20年度決算は、売り上げ、利益とも大幅な回復が達成されるでしょう。むしろ、価格競争から逃れ、高まったブランドイメージをベースに今までにない好決算になる可能性も十分です。結果的にはめでたしめでたしというということなのですが、これは当然の成果なのでしょうか。それとも、たまたま結果論としてうまくいっただけなのでしょうか。このような危機に遭遇したとき経営者はどのような判断をくだすべきなのでしょうか。 (この項続く

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EQ - 鏡の中の自分 (2)
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続き)他人に共感するのとはどのようなことかを考えてみると、要はその人がどのように考えているかを理解することに他なりません。別の言い方をすると、相手の思考法のシミュレーションができることが他人を理解することの出発点になります。道でぶつかった電柱の思考法をシミュレーションするということは意味がありませんが、相手が動物だったらどうでしょう。昔、人類がマンモスやら猪やらの獣の狩をしたとき、当然獣の行動パターンを理解し、それを利用したでしょう。これは人類に限らず、狩をするときは他の動物でも同じことです。しかし、動物は電柱ほどではないですが、行動の多くが本能によって固定化され、それほど多くのバリエーションを持っていません。いったん、行動パターンの弱点を人類に見つけられてしまうと徹底的につけこまれて、場合によっては滅亡まで追い込まれてしまいます。動物にとって行動パターンは進化の結果であって、行動パターンの根本的な変化は突然変異が子孫に受け継がれる長い進化の過程で初めて可能になるもので、個々の個体がどうこうできるものではないのです。これに対し、人間は違います。状況を学習し、相手の出方により戦略を変えてきます。つまり、人間同士が戦うときは相手が何を考えるか、より正しく推論できるシミュレーション能力が重要になってくるのです。相手の出方により戦略を変える、固定した行動様式を持たない戦いを「ゲーム」と言います。人類の共感力は人類同士がゲームを戦い、より相手の考えを正しくシミュレーションできた方、つまり共感力に優れた方に、進化上有利な条件を与えたと考えられます。

この他者の思考をシミュレーションして、それにより戦略を変えるというのは人類に特徴的なもののようですが、他の動物たとえばチンパンジーやゴリラのような類人猿ではどうでしょう。ここで他者をシミュレーションするとはどういうことか、もう少し考えてみましょう。他人の思考をシミュレートするのは、他人の思考を自分にマッピングする必要があります。言い換えると「他人も自分と似たようなもの」と推定することが必要です。年寄りが若い人を「宇宙人のようだ」とか「外国人のようだ」というのは、自分の中に思考をマッピングできない、つまり理解不能だと言っているわけです。共感の前に、まず相手が自分と同じようなものだと考えるプロセスがあるのなら、さらにその前に「自分というものが存在する」という認識、自己意識を持つ必要があります。それでは自己意識は類人猿にもあるのでしょうか。

自己意識を持っているかどうかテストする方法に鏡テストというものがあります。鏡を置いて、鏡に映る自分を見てどのような反応を示すか観察するのです。生まれたての赤ん坊は鏡に映る自分を見て喜びますが、実は鏡の中に仲間がいると思っているのです。どうしてそんなことがわかるか? 赤ん坊の顔に何か印を付けて、自分の顔に付いているものをとろうとするのを観察することで、鏡に映っているものを自分と認識しているか簡単に調べられます。このような方法で赤ん坊がいつごろから、鏡に映っている像が自分に他ならないか、言い換えれば自分を客体化してみているかを観察することができます。テストの結果では赤ん坊は1歳から2歳、概ね18ヶ月くらいで鏡に映る像を自分と認識することがわかっています。

類人猿ではどうでしょうか、類人猿はチンパンジー、ゴリラ、オランウータンどれもかがみテストに合格します。しかし、それ以外のサルは合格できません。鏡の中のサルは自分と違うサルだと思っている、あるいは自分自身を客体として認識する自己認識能力に欠けているようなのです。十分な自己認識能力がなければ他人(他サル)の思考方法をシミュレーションすることはできません。というより、自己認識を持たない集団の中では、自己認識能力を持ち相手の考え方を自分の中にマッピングする必要性も有用性もなかったのです。このように考えるとサルから類人猿、人類と知能が高くなるのと平行して、自己認識能力を相手の思考方法のシミュレーションにうまく活用できたほうが進化的に有利、つまり沢山の子孫を残す可能性があったのでは想像できます。

このしてみるとEQとは他者の考えをうまくシミュレーションして、相手とのゲームで優位に立つという進化の過程で強化されてきたとの推察が成り立ちます。確かに他者への共感を思いやりがあるとか、他人の痛みがわかると解釈すれば、人間として立派な徳を持っているということになります。EQに対する世の中の見方も概ね肯定的なのもそのためでしょう。しかし、他人の心をシミュレーションすること、相手の裏をかくことに使うことも可能です。詐欺師はだまされる相手の心理状態をうまく利用して詐欺を働きます。そもそも嘘をつくという行為は一定以上自我が確立して、相手の心理をシミュレートしてその裏をかくという能力がなければ成立せず、人間では3歳前後から嘘をつくことができるようになるのです。

さて、詐欺師はき高いEQを持っているはずです。また、成功するマネージメントも高いEQが必要です。このEQはおそらく人類の進化の過程で、他人と互いに戦略の推定を行うというゲームの中で強化されてきたものです。もちろん今や人間は道徳や文化を持っていますから、EQ-共感能力を他人を助け、集団生活、家庭生活をより円滑に行うために使うこともできます。しかし、EQの基本が他人の心のシミュレーションであるとすると、他人への共感(他人の理解と言い換えたほうが良いかもしれませんが)、自分の心を反映しているはずです。人の悪口しか言わない人間が好かれないのは、「自分の悪口も言っているのでは」という疑いを引き起こすこともあるでしょうが、悪口が言っている本人の心根の鏡像であるということがあるからでしょう。とは言ってもマネージメント教育という観点(話が小さくなりましたが)では、他人の心のシミュレーションを行うことでEQを高めるという訓練は十分に可能でしょう。マネージメントが心の動きをよく理解してくれるというのは、きっと部下にとっても良いことのはずです。もちろん、部下の裏をかかないという限りですが

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EQ - 鏡の中の自分 (1)
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IQ (Intelligent Quotation) に対してEQ (Emotional Quotation)-心の知能指数という言葉が登場したのは1995年のことです。その後EQという言葉はビジネスだけでなく一般社会でも広く使われるようになりました。EQの提唱者であるダニエル・ゴールマンはがリーダーに求められるEQの特質について、

1)ビジョン型
2)コーチ型
3)関係重視型
4)民主型
5)ペースセッター型
6)強制型

の6つのスタイルにわけ、前者4つを前向きなリーダーシップスタイル、後者2つを危険なリーダーシップスタイルとしています。そして、前向きなリーダーシップを身につけるためには、EQの最も重要な要素である他人への共感の能力を持つ必要があり、そのためには、自己認識、自己管理、社会認識、人間関係の管理をコンピーテンシーとして確立しなければならないと述べています。

さて、ビジネスの社会から一般社会でも重要視されるようになって来たEQですが、その実態は何なのでしょう。IQは頭の良し悪しを示していることになっていますが、実際には知能というものは厳密には定義されてはいません。それでもIQは、IQテストという形で長年多数の人の測定を行っていますし、測定されたIQの分布が人間の他の形質、つまり背の高さ、体重などと同様に正規分布になっていることで、何らかの人間の属性の実態を示していると考えられています(もっともこれには注意が必要です。大して意味のないクイズや山勘を試すような問題でもランダムにしか正答が得られないようならば、正答率は正規分布にしたがいます。つまり正規分布を形成しているということは、IQテストが意味があるという可能性と同時に、無意味である可能性も示しているのです)。ところがEQは一般的なEQテストというものもありませんし、多数の人を長年測定した歴史もないので、人間の能力として具体的な何かを表しているのか、そもそもEQを軸にして議論することが意味があるか疑問視する人さえいます。

しかし、EQの本質が他人(ビジネスの場であれば、部下だったり上司だったり、あるいは顧客だったりするわけですが)への共感力であるとすると、ビジネスとは違った角度から考えることができます。そもそも人間にはなぜ他人への共感力があるのでしょうか。もちろん、EQを持ち出すまでもなく他人への共感力が乏しく、他人のことを考えることが苦手
な人は社会的に不利な立場に立たされる危険性が高くなります。家庭生活でも夫婦の配偶者に対する不満の多くは、相手が自分のことをわかってくれないということです。社会生活で不利になる、夫婦生活がうまくいかないというのは、進化論的に考えれば子孫を残すのに不利な条件でしょうから、人類の進化の歴史の中で他者への共感力は遺伝的に強化され続けたと考えることができるかもしれません。ただ、ここで疑問が残ります。人はなぜ他人のことをうまく理解できない、共感力が乏しい人が嫌いなのでしょうか。当たり前と思うかもしれませんが、私たちはぼんやり歩いていて電柱にぶつかっても、避けてくれなかった電柱に本気で腹を立てたりしません。人間に対し共感力がないと言って怒るのは、人間というものは本来共感力があり、にもかかわらず人を理解しようとしないのは、自分の利益しか考えない反集団的な性格の現れだと思うからでしょう。共感力(EQと言っても良いですが)が人類の進化の上で重要なファクターとなったのは、順番から言って人間というものは相手が共感力を持っていると期待できる以前、つまり社会的適合性として機能する前から生存競争で有利だったからではないかと考えられます。では社会的適合性以外で共感力が生存競争で有利になった理由は何なのでしょうか。 (この項続く

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正しく選んだつもりでも
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蕎麦屋の二代目の息子が親父に相談を持ちかけました。「亭主がイタリア人の知り
合いがいるんだ。この前聞いたら、日本に来る前はナポリのピザ屋でコックをして
いて、本場のうまいピザが作れるらしんだ。今度一緒に組んで、ピザの店を始めよ
うと思うんだけど。どうだろう?」 それを聞いた蕎麦屋の親父は言下に「駄目だ
な」とニベもありません。むっとした息子が「何故、ダメだと思うんだ」と聞く
と、親父が答えていわく「ピザの店なんか失敗するに決まっているよ。オレは30年
蕎麦屋をやっているけど、その間誰もピザの注文なんかした客はいないから
ね・・・」

統計学である母集団を選び出したとき、母集団の選び方が不適当で、誤った結論を
導いてしまうことを、選択バイアスによる現象と説明します。アメリカの経営学者のジャー
カー・デンレルは、ケーススタディーは殆ど成功事例を集めて研究しているため、
そのかげにある失敗事例を無視しており、選択バイアスの罠に陥りやすいと警告し
ています。

冒頭の例では蕎麦屋の客を母集団にしてピザのビジネスの見込みはない、としてい
ますが、もちろん蕎麦屋の客は最初からピザを注文する気はないので、これは意味
のない分析です。ところが、ビジネスの世界でよく言われる、

・コアビジネスに集中する
・クロスファンクションチームを結成する
・個性的な企業文化を醸成する

などの施策の価値は、成功した企業だけでなく、それらの施策故に失敗した企業の
分析をしなければ、どこまで安心して適用できるかは本当には判りません。

デンレルの挙げている例では、第2次世界大戦中、帰還した飛行機の被弾頻度が高い箇所を補強しよ
うとした軍に、統計学者が「戻ってきた飛行機ではなく、墜落した飛行機の被弾が
問題だ。戻ってきた飛行機の被弾の多い部分は、もっとも補強しなくて良い部分で
あり、被弾の少ない部分こそ補強すべきだ」と指摘しことが述べられています。

選択のバイアスの罠は成功例と併せて失敗例研究することにより回避することがで
きますが、失敗例は実際上、隠されたり、埋もれてしまったりしていて、なかなか
分析できません。ビジネスの場合、選択のバイアスは、優れた業績はさらに優れた
業績を生み出すという事実から一層補強されます。10回レースを行って全てに勝利
を収めたレーサーの成績も、最初のレースでリードしたタイムの分だけ、次のレー
スで先にスタートできるルールのもとで達成されたとすると、それほど驚くもので
はなくなります。ビジネスでは優れた業績は、豊富な資金、高いブランドイメー
ジ、整備された販売チャネル、など次の好業績へのレールとなるので、成功企業の
長期間の好業績を、最初の(ある意味偶然の)好業績のせいか、独特な戦略のせい
か区別はつきにくいのです。

選択バイアスの罠は、ケーススタディーでもアンケートでも、色々な局面、場合に
存在します。事実に基づいてコンサルティングを行うのは基本中の基本ですが、そ
の事実自身がある種のバイアスがかかったものにならないようにする注意はいつも
必要です。

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フィンランドと北海道 (続きの続き)
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 シリコンバレー

前項

ある地方、地域が特定の産業で強い競争力を持つためにはどのような条件が必要か。この問いに初めて明確な答えを提示したが、マイケル・ポーターのクラスター理論です。マイケル・ポーターは地域の競争力の確保には、資源、土地、労働力などといった伝統的な強みの源泉ではなく、重要な要素として、1)競合状態の存在、2)厳しい需要家の存在、3)関連産業の存在、そして4)基本的な強みとして優秀な労働者、資本、インフラなど有するという4つの要素が有機的に地域の競争力を作り出すと考えました。この4つの要素は互いに関連し、図に描くとダイヤモンドのようになることからダイヤモンド・モデルと呼ばれます。

このダイヤモンド・モデルの例としてシリコンバレーがあります。シリコンバレーにはたくさんのハイテク企業による競合状態、垂直、水平の関連産業と需要家、優秀な労働力やベンチャー企業をサポートする資金とインフラの4要素の全てが強力に存在します。このため、シリコンバレーは次から次へとハイテクのベンチャー企業が生み出されているのです。

フィンランドはどうでしょうか、寒冷の地で自然資源にもあまり恵まれていないフィンランドの国民は勤勉で教育熱心でした。人口が希薄なスカンジナビアは携帯電話の普及率が最初から高く、厳しい需要家が存在していました。そして近隣のスウェーデンにはエリクソンという強力な電話機器の企業がありました。この環境がノキアを世界的な携帯電話のメーカーに押し上げたのでしょう。

マイケル・ポーターは政府の産業政策を否定してはいません。しかし、クラスター理論にしたがって、ダイヤモンド・モデルの各要素の中で、欠けているもの、弱体なものを補強したり、活性化し、企業により積極的に競争力を獲得するよう仕向けることが政府の仕事であって、資金をつぎ込むことを求めてはいません。むしろ、競争状態の確保のために、独禁法の厳格適用のような、ルールの監視者であることを期待しています。公共事業は地方に一定水準の生活基盤を確保するためには必要でしょう。しかし、公共事業が自身が基幹産業になって、公共事業支出の削減が地方の経済的沈滞に直結するというのは、地方への産業政策の誤りだったと言わざる得ません。

さて、北海道はどうすれば良いのでしょうか。まず、クラスター理論に基づく産業政策は決して短期的なものではないことは認識すべきです。次の選挙に勝つために、失業者や寂れた商店街を解消するためにはクラスター理論は何もしてくれません。短期的には常に公共事業のような、資金を直接注入する方法しかないのです。

しかし、長期的な視点を持つのなら、たとえば北海道はロシアに隣接しているという地理的条件を何らかの構造的強みに転換することが考えられるでしょう。領土問題の存在や最近強まりつつあるロシアのナショナリズムを考えると、難しい点は多いのですが、ロシア人がより活動しやすくなる環境を作り、ロシアの技術と日本の技術が融合できる場を作り出すことができ、製造業、観光、貿易などさまざまな面で、独自の競争力を持つことは十分に可能でしょう。

ダイヤモンド・モデルの要素である厳しい需要家は必ずしも北海道民である必要はありません。日本さらに世界中がマーケットでも、生産と市場を結びつけることができればダイヤモンド・モデルは機能します。インドのバンガロールのコールセンターの需要家の大部分は地球の裏側にいることを思い出してください。


厳しい環境から世界一競争力のある国家を作り上げたフィンランド。基幹産業の石炭の衰退以来、人口が減少しテーマパークという名の箱物行政という博打を無責任に打って、あげくに倒産した夕張のような都市を多数抱える北海道。しかし、今でも基本的条件に大差はありませんし、フィンランド国民より、北海道道民が教育程度、福利厚生で大きく劣っていることはありません。

それどころか、多数の優れた教育施設や、視点経済と言われながらも、多くの企業の工場が北海道にはあります。日本という世界でもっとも高品質を求める莫大な需要家の存在もあります。公共事業に依存した格差解消という麻薬に頼るのはばら色の未来を約束するものではなく、潜在的な強みを殺してしまう可能性させあるのではないでしょうか。


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フィンランドと北海道 (続き)
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 薄野の町

前項
東京と格差が拡大する地方を活性化させる方法として、伝統的な手法は公共事業による資金の投入です。この公共事業によって、東京と地方の格差を解消するという政策を構造として確立したのは70年代初めの田中政権のときのことです。 それ以前、戦後の荒廃した日本を復興させるために、まず取られた政策は、特定産業に資源を集中させる傾斜生産方式と、それと軌を一にした、東京への一極集中でした。

東京への一極集中策の頂点となったのは1964年に開催された東京オリンピックです。東京オリンピックに向け首都高速道路を始め、東京は大改造を受けました。そして、東京の道路や地下鉄、ビルの建設現場で働いていた人の多くは、地方からの出稼ぎ労働者だったのです。泥水につかりながら、殆ど命がけのような劣悪な労働環境で働いても、できあがるのは故郷ではなく東京を飾るための建造物だったというのが、当時の現実でした。

1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万国博覧会を経て、復興から経済大国へと変身した日本の繁栄を、地方にも広げようというのが田中角栄のビジョンでした。しかし、田中角栄は土建屋政権と言われたように、地方への金と仕事の還流を、公共事業という形で行う発想しか持っていませんでした。また、地方の側でも、与えられた資金に見合って即座に提供できるのは、技術力の低い下請け建設業と建設労働者しかありませんでした。

つまり、公共事業というのは一時的に経済を活性化させる失業対策事業という本質を持っていたのです。失業対策事業自身は誤った政策ではないでしょう。問題は失業対策事業に依存し、他の産業を育成するより公共事業への依存度をますます高めてしまったことにあります。そして、その傾向は90年代のバブル経済の崩壊と、円高による製造業の海外進出で一層強まっていったのです。

傾斜生産方式、東京への一極集中は終戦から大阪万博まで概ね25年続きましたが、田中角栄の公共事業の地方展開政策も90年代半ばまで四半世紀続きました。 しかしバブル崩壊で一時的に公共投資のへの依存度はさらに増加しましたが、財政の逼迫から公共事業への支出削減は避けられないものとなってきました。この流れを決定的にしたのが小泉政権の構造改革です。構造改革という言葉は曖昧な部分も多く、定義も一定ではありませんが、田中政権以来の公共事業をパイプにして地方へ資金を流すという25年続いた政策を終わらせるという点では明確な方向性があったと言えます。

東京への一極集中政策と、地方への公共事業への呼び込みは資金の流れは逆ですが、就労という点では出稼ぎが地元での仕事に変わったに過ぎません。個人生活から見ると意義深いものがありますが、地方に求められていたのは付加価値の低い労働力の提供に過ぎません。戦後50年の経済際策は地方の真の競争力育成という意味では、実りは非常に小さなものだったのです。地方が魅力と競争力のある産業を持ち、それによって雇用機会を提供するには単に資金を提供するだけでは駄目だったのです。 (続く

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