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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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代理母出産
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向井・高田夫妻は代理母出産の実子認定を求めている

今年10月、向井亜紀、高田延彦夫妻がアメリカで代理母出産でもうけた双子を、東京高裁が品川役所に実子としての受理命令を出したのに対し、品川区は最高裁に抗告手続きを申し立てました。結論は最高裁の判決を待つことになったわけです。(その後最高裁は代理母出産を認めないとの判断を下した

代理母出産とは他の女性に引き渡す目的で女性が妊娠出産することですが、向井・高田夫妻の場合は、夫妻の卵子、精子でできた受精卵を代理母の子宮に入れる方法で出産を行いました。この場合、遺伝的には実子と同等と考えられ、DNA検査でも実子と判定されます。代理母出産はこの他に代理母が卵子を依頼側が精子を提供する、古典的なやりかたなど、いくつかバリエーションがあります。

代理母出産に関しては、出産する貧しい女性の人権を無視しているとか、種々の批判があります。向井・高田夫妻に対しても「自分たちだけが正しいと思っているようで、傲慢だ」という考え方もあるようです。

一般にはアメリカでの代理母出産は受精卵を依頼側が提供する方法で7万ドルから10万ドル、古典的な精子だけを提供するやり方では4万ドルから7万ドルくらいと言われています。向井・高田夫妻の場合は渡米費用がありますし、弁護士その他の費用を考えれば2千万円あるいはそれ以上かかったのではと推定されます。確かに、貧しい人には難しい方法です。

もっとも代理母出産でなくても、不妊治療も手間と金がかかります。そうでなくても高度な医療のために大金がかかるケースは増えてきており、貧富の格差が医療格差になっているというのは代理母出産には限らない問題です。議論となるのは、倫理的側面と今回のような法的な問題です。

日本では代理母出産は日本産科婦人科学会が自主規制で行わないことを取り決めています(ですから、アメリカでということになるのですが)。ただ、これはあくまでも一学会の自主規制に過ぎず法律ではありません。諏訪マタニティークリニックの根津院長は熱心な代理母出産推進者で、先月に50代の女性が娘の代理母となって「孫」の出産を昨年行った代理母出産を実施したことを発表しました。

代理母出産は受精卵を別の女性の子宮にいれるという、現代でもかなり高度な医療技術を必要とし、100%成功するわけではありませんし、「人工的」なやり方で妊娠、出産を行うという点での倫理上の問題は無視できないのは事実です。アメリカでも代理出産の合法、非合法は州ごとに異なり、禁止されている州もあります。カナダやオーストラリアは有償の代理母は認めていません。また、カリフォルニア州などでは実子と認められています。

自分の子供を作りたい、自分の遺伝子を増やしたいというのは、人類、生物のもっとも根源的な欲望だとも言えます。このような欲望は他人の犠牲の上に達成されるのでなければ、社会は認めるべきだという考えもあるでしょう。議論は現段階では収束も決着もしていないのですが、「実子」として受理することを自動的に認めることは、倫理上以外の問題もあります。

代理母出産で受精卵が別の両親からのものである場合、現在の技術でも受精卵を凍結保存して別の女性に出産させることは可能です。

冷凍受精卵ではなく、冷凍精子を用いた出産(これ自身は日本でも認められている)では、2002年に父親の死亡した翌年、保存した冷凍精子を使って妊娠に成功し生まれた男の子を認知するように母親が求めた訴訟で、東京地裁は認めないとの判断を行いました。

このケースでは感情的には認めたい人も多いのではないかと思いますが、他に相続人がいるような場合は話が紛糾することは確実です。

山崎豊子の「女系家族」という小説では、亡くなった金持ちが生前に妊娠した愛人の「胎児の事前認知」を行うことで、愛人が遺産争いに勝つというストーリーを展開していますが、出産は死後でも、妊娠は生前で、かつ本人が認知を行っているわけですから、事情は大きく異なります。

理論的には冷凍精子を使って精子の持ち主の死後数十年後、その持ち主の子供を作ることも可能です。そのようにして生まれた子供は、相続人としての地位を主張できるでしょうか。

法律はそもそもそのようなことは想定していません。受精卵の場合も同じで、両親の意志と無関係に何十年もして「実子」が生まれてくる可能性は技術的に可能であっても法的には不安定なものです。

精子にしろ受精卵にしろ提供者が亡くなった後の妊娠出産は認めるべきではないのかもしれません。しかし、イラクに派遣される兵士の多くが、自分が精子を戦死したときのために冷凍保存しています。兵士が死んで妻が残した精子で妊娠、出産してもその子を亡夫の実子とは認めないというのでしょうか。

アメリカ同様イラクで戦死者を出しているイギリスでは、明確な父親の合意文書があれば、冷凍精子で死後子供をつくることは認められています。アメリカは代理母と同様に州ごとに異なるようですが、国レベルの意見の一致には至っていないようです。しかし、イラクでの戦死者の冷凍精子による妊娠を違法とするのは、大きな議論が起きるでしょう。
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戦争に出る兵士は冷凍精子を残すこともある


この議論に隣接した問題としてES幹細胞の取り扱いがあります。人間の細胞は全て遺伝情報としては同等のものを持っており、DNA情報としてはどの細胞を使っても人間のどの部分を作ることも可能です。しかし、背中から手が生えてこないのは、それぞれの細胞は特定の役割を割り当てられて、それ以外の形態になることを許されていないからです。

色々な形態になりうる可能性を持った細胞を幹細胞といいます。幹細胞は骨、心臓、肝臓、腎臓などにも存在するのですが、どのような形態にもなりうるという意味でもっとも万能性が高いのは受精卵が分裂を始めてできた胚盤胞から取り出した幹細胞、ES幹細胞(胚性幹細胞)です。

ES幹細胞は医学的にはパーキンソン病の治療など様々な応用分野が考えられていますが、アメリカは政府予算をES幹細胞の研究に投じてはいけないと決めています。この考えに共和党は賛成、民主党は反対という色分けが概ね出来ているのですが、前回の中間選挙でも大きな争点の一つになりました。

ES幹細胞の研究がいけないという根拠は、ES幹細胞が胎児の前段階にあると言えるからです。つまり、ES幹細胞を研究するというのは胎児を殺害していることになるというのが研究に反対する論拠です。

研究に賛成する理由は第一に、極めて大きな医学的効果が期待できるからです。パーキンソン病に罹ったマイケル・J・フォックスはパーキンソン病治療のためにES幹細胞の研究を認めて欲しいと議会で証言をしていますが、難病に苦しむ多くの人にES幹細胞は希望を与える可能性を持っているのです。また、受精卵で実際に子宮に着床するものは半分もなく、受精卵自身はいつも捨てられている精子や卵子と基本的に同等であるという理屈もあります。
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ES幹細胞

一般にはES幹細胞は、クローン技術で人間を複製したり、怪物を作り出す得体の知れない技術という印象を持たれているかもしれません。しかし、クローン技術でもメスの子宮にクローン細胞から作った胚盤胞を着床させなくては、クローンを作り出すことはできません。クローンでも子宮は必要で、これは代理母が必要なのと医学的には同じことです。

確かに、科学の進歩は早く予想もつかないような結果を招くことはあります。しかし、クローン技術(もちろん人間のクローンは世界中どこでもまともな科学者は行いません)でも子宮が必要なように、何でもできるというレベルからは(おそらくは)はるかに遠いところにあると思われます。

ES幹細胞やクローン技術が多くの謎や技術的限界に直面しているのに対し、代理母出産、冷凍精子による妊娠などは技術的にはほぼ確立したといってもよい段階です(代理母出産は失敗が多いのも確かですが)。倫理的、法的議論を行う場合、将来的な不確定要素が大きい、クローン技術、ES幹細胞とは別個に考えるべきでしょう。

私は、冷凍精子による妊娠の父親の認定などは、父親の公式な文書による意思表明の存在と死後一年までといった期間の制定が必要だと考えます。逆に言えば、現在の日本のように全く可能性を法的に閉ざすのは、行き過ぎではないかと思います。

代理母出産で生まれた子を養子ではなく、実子として取り扱うというのも、その延長で考えれば一定の条件の下で認めても良いのではと思います。日本の産科婦人科学会は一切のその可能性を否定しているわけですが、根津医師のような「掟破り」もいますし、毎年アメリカで100人程度の日本人が代理母出産を行っているという事実もあります。かれらは向井・高田夫妻のような衆人環視の中では代理母出産をしていないので、ほぼ全員実子として届けていると思われます。

代理母出産も冷凍精子での妊娠、さらに冷凍受精卵による代理母出産は倫理的な観点だけでなく、法体系全体を根本的に揺るがすものなので、感情的に安易に認めてよいものではないでしょう。しかし、難しいからといって、ここまで技術的に容易になり、かつ利用する人が出ている現実に目をつぶり、何の法的枠組み作りもせず「全て禁止」としているのは怠慢のそしりを免れないでしょう。

このような問題を「慎重に」考えることは当然必要です。また、法的な枠組みは先進的であるより、むしろ保守的であるべきでしょう。技術は進歩しますから、法律がやや遅れてついていくのはやむ得ません。しかし、今の産科婦人科学会の態度を見ていると、考えてはいるかもしれないが、結論はいつも先送りにしているだけではないかと感じられます。

向井亜紀の自信に満ちたしゃべりっぷりと、隣でうつむき加減の高田の記者会見を見ていると色々感情的な反発が世間にあるだろうというのは容易に想像がつきます。しかし、こんなことでもないと(あるいはこんなことがあっても)動かない、学会、政府はもう少し反省したもよいのではないでしょうか。 (最高裁の判断
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テーマ:進化論的組織論 - ジャンル:政治・経済

対北朝鮮禁輸の効果は?
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アメリカ人はキューバの葉巻は吸えない
今どき、ニューヨークにあって、東京にはないものはほとんどありません。その逆も同様なのですが、東京に来たアメリカのビジネスマンが喜ぶ品物の一つにキューバ産の最高級葉巻のコイーバがあります。タバコがますます嫌われているアメリカで、なぜか葉巻はちょっとしたブームになっていて、喫煙者のほとんどいないエリートビジネスマンでも葉巻だけは吸うという人は多いのですが、その人たちにとってコイーバは幻の葉巻なのです。

実はアメリカでも売られているコイーバというブランドの葉巻はあるのですが、これはドミニカ製でキューバ産ではなく本家とは関係のない、いってみればまがい物です。アメリカ本国ではコイーバに限らず、キューバ産のものは葉巻であろうと何であろうとほとんど輸入も販売もされていません。厳密には国外で購入することも禁止されていて、東京でキューバ産のコイーバを吸うのは違法なのでしょうが、そこまで気にする人は少ないようです。。

キューバの禁輸措置はキューバ危機のあった1962年に遡ります。以来40年以上たった今も解除はされていません。禁輸以前キューバの貿易の70-80%を占めていたアメリカとの交易は途絶えてしまいました。キューバの経済は停滞して時間が止まったようになっていますが、禁輸を含めアメリカと経済的に断絶した打撃は小さくありません。

アメリカにはキューバよりもっと長く禁輸措置が取られている国があります。北朝鮮は1950年以来の禁輸措置が取られています。クリントン政権時代にいったん一部緩められたのですが、再び強化され、違反した場合は最長懲役10年の罪になります。

日本は北朝鮮に対し、北朝鮮の核実験を受けた国連決議で定められた、大量破壊兵器関連貨物と贅沢品の輸出禁止と、日本独自に輸入の全面禁止を行いました。トロの輸出はしないし、マツタケの輸入もできないということになりました。

北朝鮮に対してアメリカは長い間禁輸措置を続けていたので、国連の議決があってもなくても、アメリカとの貿易の減少による影響はほとんどありません。日本はどうでしょうか。

日本から北朝鮮への2005年度で輸出は70億円弱、輸入は150億円弱です。北朝鮮の貿易総額は2004年度ですが、輸出入がそれぞれ、約13億ドル、23億ドルですから、輸出入とも全体の5%程度。これは中国、韓国についで3位ですが、キューバ禁輸時のアメリカの70-80%とは比較になりません。

国連決議で対北朝鮮輸出禁止品目に大量破壊兵器関連物質とならんで贅沢品があるのは、人道的観点からも不要ということでしょうか。もちろん、キム・ジョンイルとそのまわりの特権階級へ目に見える抗議ということもあるでしょう。しかし輸出禁止物資については、実効性という点で、効果は非常に限定的でしょう。

まず、大量破壊兵器関連の物資ですが、日米をはじめ旧西側諸国は共産圏に対する貿易制限を行っていた時代から終始一貫、原爆製造につながるような材料、資源は北朝鮮へ合法的には輸出できませんでした。にもかかわらず、原爆もミサイルも曲がりなりにも作ってしまったわけですから、今後も必要な物資を手に入れることは可能でしょう。

贅沢品については、さらに制限が難しいでしょう。贅沢品はかさの割りに値が張るものばかりですから、その気になれば国外に持ち出すことは比較的簡単です。麻薬は所持しているだけで違法ですが、マグロのトロを持っていても逮捕はされません。贅沢品の運搬は最後に北朝鮮に持ち込むことがはっきりするまでは合法的に処理できます。
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トロも輸出禁止

結局、北朝鮮を困らせようと思うと輸出規制より輸入規制で資金を渡さない方が効き目が確かでしょう。ただ、キューバが砂糖をアメリカの代わりにソ連に買ってもらったり、葉巻を日本に買ってもらったりしたように、代替輸出先が簡単に見つかると効き目はなくなってしまいます。

石油は出産国の区別が難しく、世界中に必要としている国があるので、産油国への経済制裁、禁輸措置はほとんど有効ではありません。かつてのリビア、イラクそして現在のイランなどアメリカは一生懸命経済封鎖をしようとしているのですが、産油国が原油価格の下落で困ることはあっても、石油を抱えて輸出できずに困ったことはありませんでした。

マツタケは日本は2005年度に16億円ほど輸入していたのですが、石油ほど簡単に良い買い手は見つからないかもしれません。なま物で保存もきかないので、こっそり日本に持ち込むのも難しそうです。原産地を偽って、たとえばカナダ産と誤魔化すことは可能かもしれませんが、摘発されるなは輸出の場合より大きいでしょう。

16億円というマツタケの輸入金額は小さく見えますが、そうでもありません。アメリカ政府は北朝鮮の偽札の発行高は年間1千5百万ドルから2千万ドル程度と見積もっていますが、ほぼそれに匹敵する金額だからです。

北朝鮮の偽札の規模は、全世界で7千5百億ドルの流通米ドルの1万分の1程度といわれています。そこから計算すると北朝鮮製偽ドルは7千5百万ドルくらいになります。アメリカ政府は流通している偽札の総額を4千5百万ドルとしていますが、この数字自体は1998年から、変わっていません。流通量の1万分の1程度という推定より少ないですが、正確な数量を把握するのが困難なことを考えると誤差の範囲と言っても良いでしょう。

北朝鮮は100ドル札と50ドル札を偽札として作っているようですが、アメリカ政府の見解でもこれらの偽札は、実質真券とほぼ同等、つまり物理的に偽札と判別するのが事実上不可能とされるレベルです。偽札とはいっても、本物と同じ印刷機、同じ材料、同じ製法で印刷されているのです。

元NHK社員の手嶋龍一が書いた「ウルトラダラー」という北朝鮮の偽札作りを題材にした小説では、紙幣にICチップを埋め込むことにより、真贋を判断するということが書かれていますが、現時点ではICチップは紙幣製作工程の熱と圧力に耐えて埋め込む技術はなく、実用化はされていません。もはや、本物、偽札の区別は事実上印刷が米国政府かどうかだけと言えるかもしれません。

しかし、100ドル札でも2千万ドルともなると、重さだけで200キロになります。これだけの量の紙幣は使うにしろ、換金するにしろ、簡単ではありません。北朝鮮は外交官に持たせて、外貨として使用させたり、密貿易の代金として使ったり、一時はIRA(北アイルランド独立戦線)と連携してポンドに換金したりまでしていたようです。
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偽札の換金は大仕事

今年の初め、アメリカ政府が北朝鮮に対し金融制裁を実施するまでは、マカオの銀行では偽札の束を入金して、あちこちの銀行に送金することができたようです。これが禁止されると、能率的に偽札を処理することは難しくなるはずです。

金融制裁は偽札だけに有効なわけではありません。北朝鮮はやはり政府レベルでケシの栽培とヘロインの製造、覚醒剤の製造も行っています。麻薬はマツタケやトロと違って所持しても厳罰ですから、裏社会を通じて流通、換金しなくてはいけません。、これらの資金も銀行に預金しなくては、ボストンバッグに現金を詰め込んで動き回ることになってしまいます。

北朝鮮が麻薬類でどれくらい稼いでいるか推定するのは偽札と同様困難ですが、アメリカはヘロインの生産(覚醒剤も作っている)で年3-4.5トン程度ではないかと見積もっています。末端価格なら、数百億円と偽札の10倍以上になりますが、「卸値段」は数十分の1になることもあるので、収入は偽札と同程度かもしれません。

偽札も麻薬も国家主導で製造販売しているとなると重大問題です。アメリカ政府は北朝鮮の偽札製造を事実上の戦争行為だと断じています。とは言え、偽札製造で得られる額が20億円程度でマツタケと大同小異というのは、いかにも割が合わない気がします。元手も考えるとただ同然の人件費しかかからないマツタケの方が、ずっと儲かるのではないでしょうか。

もしかすると、アメリカ政府の年に2千万ドル程度という偽札の量が間違いで、実際は何億ドルもあるのかもしれません。しかし、仮に10億ドル分の偽札というと10トンにもなります。使うにしろ、銀行に持ち込むにしろ簡単とは思えません。年間2千万ドルの推定は、大きな間違いではなさそうです。

逆に偽札や麻薬による収入が数十億円の規模に過ぎないのなら、マツタケ輸入や、さらに日本から北朝鮮への送金の20-30億円というのは無視できません。また、このほか日本の北朝鮮からの輸入している無煙炭(20億円)、うに(生、加工品で計10億円)、あさり(7億円)などは韓国や中国で同じような価格では売れないと思われ、禁輸は痛手でしょう。

結局、北朝鮮と中国の長い国境線や韓国の親北朝鮮的政策を考えると、輸出の禁止の効果は少ないが、輸入の禁止はそれなりに効果があると思われます。ただ、金額にしてせいぜい100億円程度の話ですから、韓国が少し本気で支援を行う気になれば、どうとでもなるレベルです。

むしろ一番気になるのは、偽札、麻薬など北朝鮮が裏社会と深く結びついていると思われることです。また、偽札の処理をIRAと共謀するなど、反政府、テロ組織とはすでに相当密接な関係を確立していると考えられます。

このような裏社会、テロ集団との関係は核兵器の密輸のようなハルマゲドン的事態にならなくても、非常に危険です。ルール無用で、他国の政府レベルの意思決定に関与する可能性もあります。最近の韓国政府の要人の発言を聞いていると、単にイデオロギーとして北朝鮮にシンパシーを感じている以上に、買収、脅迫などの手段で操られている可能性も否定できないと思います。

これは「ユダヤ人が金融を通じ日本支配を企んでいる」式の陰謀史観とは違います。このところ県知事が談合、収賄で逮捕されていますが、金のために非合法なことをするといのは、人間が組織を動かしている以上普通にありますし、それを利用しようとする組織も必ずあるのです。

韓国と北朝鮮の交流を見ると、韓国の新聞記者、官僚さらに要人に対し女性関係に絡んだ脅迫、買収さらに買収されたことに対する脅迫は、発生しない方がむしろ不思議でしょう。拉致もそうでしたが、偽札、麻薬にまで手を染めているわけですから、「そんなことまでしていないだろう」と思うほうがお人よしに過ぎるでしょう。

もちろん、このようなことは簡単に明らかになることはありません。しかし、談合の場合もスパイ事件も摘発されるのは常に氷山の一角です。韓国で先月「一心会」という左翼的韓国人を中心にしたスパイ事件が明らかになり大きな問題になっていますが、北朝鮮の浸透は相当進んでいると思って間違いありません。

禁輸措置の話から少しずれてしまいましたが、北朝鮮が今回の禁輸でさらに非合法活動を中心にした国家になることは確実でしょう。少なくともキム・ジョンイルの食卓からトロが消えることはなさそうです。
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今や犯罪集団のドン

テーマ:進化論的組織論 - ジャンル:政治・経済

どうして「情報」が高校の必修課目?
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コンピューター実習環境は整ったが

騒ぎはひとまず収束したように見える、高校の未履修問題ですが、この11月15日に情報処理学会が安西会長名で「高校教科「情報」未履修問題とわが国の将来に対する影響および対策」という文書を出しています。

この文書では「この問題の根幹には,一般企業社会に浸透してきた法令遵守の考え方が学校教育の場には,まだ浸透していない現実がある。」とした上で、「必履修となった教科「情報」が履修されないままとなることはわが国の将来の発展に重大な障害となり得るものと懸念している。」と「情報」の履修を強く求めています。

未履修問題の原因が「ゆとり教育」や大学受験の影響であることは事実でしょうし、情報処理学会が冒頭で主張するように、「学校だってコンプライアンスは必要」というのは当たり前でしょう。しかし、本当に高校、さらに中学、小学校で「情報」を「必修」教科とすることが必要なのでしょうか。

「絶対必要なのだ」というのが情報処理学会の立場で、このまま事態を放置すると「ソフトウェア開発に代表される情報技術面で今日でも欧米のみならず中国・韓国・インドなどにも遅れを取りつつあるわが国が「情報後進国」に転落してしまいかねない」ということなのですが、本当なのでしょうか。

自動車、製鉄、テレビのような工業製品、さらに銀行、保険、小売のようなサービス業も厳しい国際競争にさらされていて、あるものは勝ち残り、あるものは敗れていきます。しかし、高校で「自動車産業を守るために、ギヤボックスの構造くらい教えるべきだ」とか「為替業務も習わないから日本の銀行はダメなんだ」という話は聞いたことがありません。なぜソフトウェア産業は特別なのでしょうか。

情報処理学会の文書によると高校の「情報」で「最低限学ぶべきことは」
• コンピュータの基本的な構造と動作原理
• さまざまな情報の表現
• 情報と問題解決の関わり
• 情報の収集や発信における各種の問題
• 知的財産権など情報社会で守るべき約束ごと
• 情報社会における多様な変化や光と影
• さまざまな情報システムの形態やその役割
• 授業時間に対する一定以上の実習による理解

とされています。このようなことを学ぶことによって「情報活用力」つまり「現代の情報社会を生きる力」を身につけようということなのですが、これらの項目を見ただけで高校で「情報」を教える難しさがわかります。

そもそも「情報」と何のでしょうか。難しい議論をするつもりはありませんが、コンピューター、データー、システムなどと混ぜ合わさって、コンピューターの構造や使い方を勉強するのか、コンピューターを利用したデーター処理の環境、システムを学ぶのか「情報」という言葉が概念をあいまいにしてしまっています。

「全部やるんだ」ということなのかもしれませんが、「情報化社会の光と影」「情報社会で守るべき約束ごと」というのは、どちらかというと政治経済、倫理の教科内容です。「コンピュータの基本的な構造と動作原理」は技術家庭か物理、数学の範疇です。

プログラムを書くとなると、他の教科には当てはめにくくなりますが、文科省の指導要領では実習の中で、プログラミングを行うことを求めてはいません。電子メール、インターネットなどの使用が中心となるようですが、それでは銀行のATMを使ってもコンピューター実習だと主張できるような気もします。

もっともATMを使ってもコンピューター実習だというのは、それほど無茶な話ではないと思います。第二次世界大戦中、アメリカは家庭の主婦を含め大量の女性を工場に動員しました。工場では様々な機器を操作しなければいけませんが、当時のアメリカは自動車が普及し始め、家電製品もかなり出回っていて、一般の主婦もメーターだとかスウィッチだとかに面食らうこともあまりなく、工場の作業に入れました。

これが他国、たとえば日本などと比べてどの程度有利に働いたかはわかりませんが、日々使うことで、中身の理解が伴わなくても、平均レベルの知識の水準は上がっていくのです。最近ではATMの前で立ち往生するお年寄りの姿はほとんど見なくなりました。一般の人にとって銀行システムの理解は、預金通帳に記入があろうとなかろうと、コンピューターの中の預金データーが本物だとわかっていれば十分でしょう。

逆に、コンピューターの構造や使用法を教えるとするとどうすれば良いのでしょう。20年前までは文句なしにプログラムを書くことでした。80年代の初めPCが企業で使われ始めたころ、巷にはサラリーマンやOLを対象にした「パソコン道場」がいくつもできましたが、それらのパソコン道場ではBasicのプログラミングを主として教えていました。

当時の一般の社会人にとってプログラミングは習得するのが大変困難で、多くの人は挫折してしまいました。挫折せずに何とかプログラムが少し書けるようになっても、実務で使うことはほとんど出来ませんでした。OLのグループが出張旅費を計算するプログラムを作って、週刊誌で話題になるくらい、実際にはパソコン道場の知識は使い物にならなかったのです。

PCが企業から一般家庭に普及するようになると、今度は「デジタルデバイド」が問題になってきました。デジタルデバイドとはコンピューターを持てる家庭ともてない家庭で、子供のコンピュータ知識に大きな差が生じ、将来的な学習機会、就職機会にも影響を与えることです。

デジタルデバイドは日本以上に社会の格差の大きなアメリカでより大きな問題になったのですが、デジタルデバイドが単に家庭環境の違いが子供の将来に大きな影響を与えるだけなのか、コンピューター独自の問題があるかは議論がありました。

コンピューターに特有の問題が家庭環境とは別にあるのなら、小学校、中学校でコンピューターに触れる機会を与えれば、社会格差の解消にも役立つのではないか。そのような期待もあり、日本もアメリカも教育機関へのPCの配備に多くの努力を投入しました。

現在は教育機関へのPCの配備は、ほぼ充足しました。10年ほど前まではせっかく配備しても、使える教員がいないというようなこともあったのですが、今ではそんなことはありません。使えないということより、生徒の成績でも何でもPCに入れて、自宅のPCから個人情報が漏洩する方が、ずっと大きな問題です。

現在の日本でデジタルデバイドは重大な問題でありません。電子メールもインターネットも「使いすぎ」の問題はあっても、「使えない」という児童はごく少数派になっています。この上何を高校生に教えたいのでしょうか。

インドや中国でのソフトウェア開発は今では広範囲に行われていますし、他の産業と同じように、今後は高付加価値の分野での競争は一層激化していくことは間違いありません。高品質、高機能のソフトウェア開発能力を持つことは日本という国にとって重要でしょう。

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インドはすでに高いソフトウェア開発力を持っている


しかし、企業レベルのソフトウェアの開発の競争力は個々のプログラマーのプログラミング能力より、品質管理プロセス、業務分析力、創造力などであり、およそ高校の「情報」の中で教えられるようなものではありません。

インターネットや携帯電話で他人の中傷を広げたり、いじめの道具に使うような問題は現代的な問題そのものでしょう。出会系サイトで小学生、中学生が売春を行ったり、危険な目にあったりするのも同様です。このような問題は小学生に道路の横断の仕方を教え込んだり、中学生に避妊の仕方を教えるように、学校でも対処の仕方を教えておくべきでしょう。家庭は一義的な責任はあるとしても、一定レベルの知識を与えるのに学校は良いシステムです。

しかし、私は高校、中学、小学校で「情報」を独立したカリキュラムとして含める必要はないと断言できます。コンピューター技術は利用面ではあまりに変化が速く、教員、環境の整備も考えれば、初等教育に向いていません。また、日本のソフトウェア産業の競争力が高校の「情報」科目の完全な履修で将来高くなるとも、低くなるとも思えません。デジタルデバイドは過去の問題です。

確実なことは、「情報」であろうと何であろうと、必修課目だということできっちり履修を実施すれば、他の課目の履修は影響を受けるだろうということです。そんな暇があれば、数学、物理、歴史など長年にわたってカリキュラムが練り上げられた課目に力を入れたほうが、きっとソフトウェア産業の競争力も高くなるでしょう。情報処理学会はいったい何をどう考えているでしょう。

テーマ:意思決定 - ジャンル:政治・経済

いじめ自殺の深淵
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上のグラフは文部科学省がまとめた児童の自殺件数の推移です(http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/18/09/06091103/006.pdf参照)。自殺まして児童の自殺は大変痛ましいものですが、統計的には概ね減少傾向にあります。このうち、高校生によるものが3分の2程度で過半を占めていて、中学生は高校生の約半分、小学生の自殺は毎年数名以下にとどまっています。自殺のような事件の補足率は高いでしょうじゃか、数字自身の信頼性は高いと考えられます。

絶対数の把握はできていると思われるのに対し、原因分析は全く不満足なものです。なんと言っても、最近問題になっている「いじめ」による自殺は自殺原因が示されている、04、05両年度ともゼロになっています。

管理品質改善のメソッドのシックスシグマ(http://realwave.blog70.fc2.com/blog-entry-43.html)ではDMAICと呼ばれるプロセスで問題の分析と改善を行います。DMAICとは
 Define: 管理対象の定義
 Measure: 管理データの採取
 Analyze: 問題の分析
 Improve: 解決策の作成
 Control: 解決策の実施と管理
の5つの手順ですが、最初の管理データの定義と採取の段階で、誤魔化しや間違いがあっては、効果的な改善策を作ることはできません。「いじめ」の問題は出発点で躓いているという状況だと言えます。

自殺児童数の総数が減っているからといって、いじめによる自殺が減少しているとは言えませんが、最近になって劇的にいじめによる自殺が増加してきたという明白な証拠がないのは事実です。危険なのは勝手な思い込みで、
・ いじめによる自殺が最近急増してきている
・ これは昔と現在の社会環境の相違が原因だ
・ 現在あって昔にないのは、インターネット、携帯などのテクノロジーだ
という具合に関係があるかないかわからないものを原因に仕立て上げてしまうことです。

いじめによる自殺は衝撃的な事件ですし、たとえ減少傾向にあったとしても根絶を目指して努力すべきです。しかし、数から言えば自殺に至らないまでも、非常に苦痛を受けている児童がはるかに多数いるはずです。報道番組などで視聴者を対象に簡単なアンケートをとると、いじめをしたことがあると人が20-40%、いじめを受けたという人が10-20%にもなります。いじめは極めて普遍的な現象であることは確かなようです。

いじめによる自殺はもちろんのこと、いじめの実例の話を聞くと、大部分の人は心を痛め、怒りを感じるでしょう。では、なぜそんなに多くの人がいじめの加害者になってしまうのでしょうか。

1971年アメリカのスタンフォード大学のジンバルドー教授がスタンフォード監獄実験と呼ばれる心理学の大規模な実験を行いました。実験では学生など21人の被験者が集められ、11人の看守役と10人の囚人役かに分けられ、刑務所を模した施設に隔離されました。

実験が開始されて何日かたつと、看守役は次第に看守のように、囚人役は囚人のように振舞いだしました。そのうち看守は囚人に素手でトイレ掃除をさせるような陰湿な罰則を与え、ついには囚人役の被験者に精神を錯乱させるものまで出ます。
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看守役、囚人役は次第に役そのものになりきっていく

驚くべきことに、事態がそこまで進展しても実験を主導したジンバルドーは実験を中止しませんでした。実験はカウンセラー役の牧師(これは本物)が被験者の家族に通報し、家族は弁護士を連れて押しかけて、やっと実験は中止されました。ジンバルドーは後で状況に麻痺して事態の重大さに気がつかなかったと言っています。

スタンフォード監獄実験に良く似た実験でアイヒマン実験があります。アイヒマンはナチスのユダヤ人虐殺実施のリーダーで、戦後20年以上してから南米で逮捕されました。実験はアイヒマンを含め、ユダヤ人虐殺の実行者たちが単に命令に従っただけかを検証するために行われました。

実験では被験者と被験者に見せかけた役者をペアにして、被験者を教師役に、役者を生徒にします。生徒は教師から問題を出せれ、間違えると教師は生徒に罰として電流を流します。被験者は予め45ボルトの電流を流されて、電流の実体験しています。

被験者と役者は別々の部屋に入れられ、被験者が電流を流すと、電流の大きさ応じて用意されている叫び声だけが聞こえます。生徒が間違えると15ボルト刻みで電流を強くする罰を教師は与えていきます。電流が強くされていくと、生徒の叫び声は大きくなり、壁を叩いたり、中止を懇願したりするのですが、途中で実験を中止した被験者はわずかで、被験者40人中何と25人は450ボルトの最大電流まで電流を強くしていきました。

実験中、被験者の大部分は管理者に実験を続けることの是非を尋ねるのですが、実験に何の責任も負わないことを確認すると、次第にサディスティックな罰を与えることに麻痺し、むしろ快感を感じているようにさえ見えました。

スタンフォード監獄実験も、アイヒマン実験も役割で加害者側になった大部分の人は罰を与えることに罪悪感を感じるどころか喜びさえ覚え、攻撃を強めることを何とも思わなくなることが示されています。「いじめ」でもいったんいじめられる側が固定すると、いじめる側は安心していじめをエスカレートさせると思われます。

もちろん、今問題になっているのは児童によるいじめで、スタンフォード監獄実験、アイヒマン実験が成人を対象にしていることは注意が必要でしょう。ただ、子供は大人より人間性をよりストレートに出すことが多いので、隔離された実験環境でなくても、より容易に加害者の攻撃性が現れやすいとも考えられます。

実験結果からわかることは、加害者側の自覚を待つ方法では、いじめがエスカレートすることを防ぐのは困難だろうということです。また、スタンフォード監獄実験で囚人役を割り当てられると、次第に態度が卑屈になることでわかるように、被害者側も強い意志で抵抗するのが難しくなっているのだろうと推察されます。

いじめの解決策で「いじめは社会のどこでもある。いじめに負けない強い心を持つようにすべきだ」という人もいます。これは「詐欺に騙されるのは頭が悪いからだ。もっと頭を良くしなければだめだ」と言っているのと同じような話にも聞こえます。

「強い心を持て」というのとは逆に「死ぬ前に逃げろ」という意見を言う人もいます。しかし、自殺者の多くは鬱状態であることが多く、鬱状態にある場合、「逃げる」にしろ何にしろ前向き、建設的なことをする意欲や力がなく死を選んでしまう傾向があり、適切な解決策とは必ずしも言えません。病的な鬱状態でなくても、被害者が「囚人役」のようになってしまうと抵抗する力は失われてしまうのです。

むしろ加害者側が「いじめ」をエスカレートさせて、犯罪的または犯罪そのもの行為を行ってしまうこと考えると、いじめの被害者でなく、加害者側を退学、転校させる方が筋でしょう。転校させるというと学校が遠くなるとか、いろいろな負担を生じることもあるでしょうが、負担を被害者がさららに負うのは、どう考えても不当です。

「いじめ」は昔もありましたし、洋の東西を問わずどこにでもあります。しかも、いじめは人間性の根源に根ざしていて、誰でも加害者になる可能性があります。しかし、他の問題と同じで根絶できなくでもカイゼンは必ずできます。実のある解決策を作るように世の中が動いていくと良いのですが・・・。


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フェルミ推定 
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エンリコ・フェルミ

「富士山を動かすのには何年くらいかかるか」「日本に蚊は何匹くらいいるだろうか」「長野に蕎麦屋は何軒くらいあるだろうか」
こんなことを聞かれても、答えはなかなか見つかりませんし(最近はネットで「フェルミ推定」と入れると出てきたりしますが)、ちょっと試してみるというのも困難です。そこで、仮定や推定をいくつも組み合わせて「概ねどのくらいになるか」ということを見積もることが必要です。このような問題を物理学者のエンリコ・フェルミにちなんでフェルミ推定(あるいはフェルミ問題)といいます。

エンリコ・フェルミは1901年にイタリアで生まれ、1938年にノーベル物理学賞を受賞しました。フェルミは妻のローラがユダヤ人であったため、ムッソリーニ政権下のイタリアには戻らず、ノーベル賞を受賞したストックホルムから、そのまま家族とともにアメリカに亡命し、コロンビア大学で物理学教授の職を得ます。その後シカゴに移り、1941年にシカゴ大学で世界最初の原子炉の稼動に中心的な役割を果たしました。

この後、フェルミは原爆開発のプロジェクトであるマンハッタン計画に参画し、プロジェクトの主柱となりました。原爆開発は核分裂という当時の最先端の理論分野と実際の爆弾製造という技術的は分野を結びつけることが必要で、例外的に理論物理、実験物理の両方ですぐれた業績をあげていたフェルミの貢献は非常に大きかったと思われます。

フェルミは学生や友人をしょっちゅう捕まえては、「カラスは止まらずにどれくらい飛べるか」「砂浜に砂は何粒くらいあるか」といった、秀才、天才たちも答えにくい質問をしていました。その中でも有名な問題に「シカゴにいるピアノの調律師の数を数える」というものがあります。 考え方として、まず次のような仮定を設定します。

1) シカゴの人口を5百万人とする
2) 1世帯あたりの人数は2人
3) 定期的に調律するピアノを持っている世帯は20世帯に1つ
4) 調律するピアノは1年に1回調律する
5) ピアノの調律には交通時間も含め2時間かかる
6) 調律師は日に8時間、週5日、年50週働く

1)、2)、3)、4)から1年に調律するピアノは12万5千台。5)と6)から1人の調律師が調律できるピアノは1年に1千台。したがってシカゴにいる調律師の数は125人となります。
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この問題を答えるのに、シカゴの人口がわからないと例のような解き方はできません。また、そもそもピアノの調律とは何か見当もつかなくては考え方を組み立てるのも難しいでしょう。フェルミ推定では問題をいくつかの要素に分解して考えていくわけですが、分解しても数がわからなければフェルミ推定を実行することはできません。

逆に、シカゴの人口だけがわからなければ、調律師の数からシカゴの人口を推定することもできることになります。また、解答方法は例の通りする必要もありません。たまたま1回の調律費用がわかって、調律師が食べていくのに何台くらいピアノが必要かを考えることもできるでしょう。あるいは、ピアノの製造台数がわかって、そこからシカゴにあるピアノの数を推定することもできるかもしれません。

フェルミ推定は、いくつもの仮定に基づいていますし、それをさらに掛け算していくので、1桁2桁程度はたちまち誤差を起こしてしまいます。一つの問題をいくつもの角度から考えることが、答えの精度を上げるためには必要なことになってきます。

フェルミ推定が最近脚光を浴びるようになってきたのは、マイクロソフトやコンサルティング会社が入社試験にフェルミ推定の問題を出すと言われるようになってきたからです。冒頭の「富士山を動かす」話はマイクロソフトの試験も問題の例として出ていますし、蚊の数を数えさせるコンサルティング会社もあったそうです。

もっともどんな試験にも傾向と対策はあるように、フェルミ推定も慣れてくれば解くのはそんなに難しくありません。逆に、フェルミ推定の問題を難しくしようとすると、シカゴをインドの小さな町の名前に変えたり、蚊ではなく聞いたこともない細菌にしたり、地理や生物の知識を試すようになってしまい、論理力を試すという本来の意味を失ってしまう可能性があります。

フェルミ推定は問題を要素に分解し、要素を掛け合わせて答えを得るという点で、非線形で反還元主義という複雑系の対極をなすやり方のようにも見えます。フェルミ推定ではそれぞれの要素が相互に作用して、「自己組織化」したり、「創発」を引き起こしたりなどとは考えません。その点シンプルでわかりやすいとは言えるでしょう。

フェルミ自身がフェルミ推定を使って提出したパラドックスに、フェルミのパラドックスというものがあります。これは「なぜ宇宙人がその姿を現さないか」というパラドックスで、フェルミの言葉では「かれらはどこにいるのだろうね」と言ったと伝えられています。実際にフェルミがその通り言ったかどうかは別にして、フェルミは宇宙人が見つからない不思議を他人にも自分自身にも投げかけました。

確かに地球は生命の発生に好条件に恵まれていますが、銀河系には2千5百億個の星があり、宇宙全体ではさらにその3千億倍ほどの星があります。宇宙は生まれてから1百億年以上立っているわけですから、時間をかけて知的生命が宇宙に広がっていけば相当な数の星が植民されていても良さそうです。ところがいまだに、われわれ地球人には宇宙人からコンタクトがないわけですから、何か理由がなくてはいけません。

「きっと宇宙人はいて、きっとわれわれにコンタクトしようとしているはずだ」という信念のもと、宇宙からくる電波を測定して何かパターンを見つけようという試みは今も続いていますが、成果はあがっていません。そのため、
1:もうとっくに宇宙人は到着していて地球人が気がつかないだけだ
2:宇宙旅行は大変でとても難しい(参照
3:最初の想定以上に地球と同等の条件を得ることは難しい
など、色々な意見が出てきました。1の宇宙人はもう来ているとうのを別にすると、地球環境が実現される条件が厳しいことは近年ますます明らかになってきました。

地球と同じような環境というと、水があって、水が液体でいられるような温度と圧力というのがまず考えられます。これはそれほど甘い条件ではありませんが、何万個の惑星に1個というほどきついものではありません。現に太陽系でも火星には液体の水があったことがあるようですし、金星も惜しいところで温室効果で高温化しましたが、少し条件を変えれば水は持てそうでした。太陽系は普通の存在ですから、出発点はそれほど難しくはなさそうです。

ところが、地球に隕石や星がやたらと落下しないためには木星が重要な役割を演じているとか、月の距離と大きさが潮の干満を進化に最適な条件を与えたとか、新しいことがわかるたびに地球のユニークさが際立ってきました。木星はありふれた惑星ですが、月は距離、大きさまで考えると相当稀な存在で、それだけでも何桁も確率を下げてしまいそうです。

フェルミ推定を使って地球にコンタクトできるような宇宙人の住む星の数を見積もると次のようになります。、
N=RxfpxnexflxfixfcxL
N:銀河系にある通信するETCの数
R:銀河系で1年に星が生まれる率
fp:惑星を持つ恒星の割合
ne:惑星を伴う恒星のうち、生命が維持できる環境を持つ惑星の数
fl:生命が維持できる惑星のうち、実際に生命が育つ割合
fi:その惑星のうち、生命が知的能力を発達させる割合
fc:そのうち、恒星間通信ができる文化が発達する割合
L:そのような文化が通信を行う期間の長さ

つまりfl、fi、fcあたりが思ったよりずっと厳しいようなのです。

もしかすると地球は全宇宙で唯一知的生命を育んでいる星かもしれませんし、他に知的生命体があっても宇宙はあまりに大きくお互い連絡をとりあうのは実質的には不可能なのかもしれません。フェルミの残した最大のフェルミ推定の問題はまだ解かれていません。

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社会問題に対するフェルミ推定の応用例です:
従軍慰安婦問題をフェルミ推定で解くと

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バンビーノの呪い
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レッドソックス時代はピッチャーだった
西武の松坂投手に対し、ポスティングという名前の競売で約5千万ドル、日本円で60億円の値段でボストン・レッドソックスが入団交渉権を落札しました。おそらく松坂投手は来年はレッドソックスでプレーをしていることになるのでしょうが、この話題に関連して、レッドソックスの「バンビーノの呪い」の話が良く出てきます。

バンビーノというのはベーブ・ルースの愛称なのですが、ベーブというのも愛称(ただしMLBの登録名はベーブ・ルース)で、本名はジョージ・ハーマン・ルースJr.、1895年にボルティモアで生まれています。ベーブ・ルースは、もちろんアメリカの野球史上で伝説的なホームランバッターで、生涯記録714本のホームランはハンク・アーロンが破るまで、34年間歴代トップでした。ホームランだけでなく3割4分2厘の生涯打率は歴代9位。時代は違いますがイチローのメジャーリーグでの平均打率が3割3分1厘ですから、コンスタントにも打てた大打者でした。

ベーブ・ルースはメジャーリーガーとしてのキャリアを1914年ボストン・レッドソックスで始めるのですが、最初はピッチャーでした。それも通算成績94勝46敗、防御率2.28ですから、並以上のピッチャーだったといえます。1916年には23勝12敗で防御率1.75でワールドシリーズ出場に貢献。ワールドシリーズでは14イニング無失点の記録を持っています。

そのベーブ・ルースを1920年レッドソックスは12万5千ドルの現金と30万ドルの貸付の合計42万5千ドルでニューヨークヤンキースに売り渡します。理由は色々あるようなのですが、主にレッドソックスのオーナーのハリー・フレイジーがブロードウェーミュージカルの製作費用を捻出すためと、レッドソックスのホームグランドの間借りしていたフェイウェーパーク球場の権利を確保したかったためと言われています。

レッドソックスの時はピッチャーとして活躍したベーブ・ルースですがヤンキースに移ってからはバッティングでチームに貢献します。もっとも移籍の前年1919年はピーチャーとしては9勝5敗、バッターとしてホームラン29本、打率3割2部2厘でヒット139本を打っていますから、レッドソックスに残っていてもバッターとして活躍するようになっていたでしょう。

それでも、ヤンキースに移籍した年はホームラン54本、打率3割7部2厘という驚異的な成績を残す一方で、ピッチャーとしても出場し1勝0敗、防御率4.50の記録を残しています。しかし、さすがにこれではバッターとしての方がチームへの貢献度が大きいということになったのでしょう。以後はバッター稼業に専念しています。ところが選手生命も最後のほうになった1930年と1933年、ルースは突然ピッチャーを、それぞれ1試合づつやっています。結果は3点、5点の失点があったものの勝利投手になっています。どちらの年も打率は3割以上、ホームランは49本、34本打っていますから、打者としてはちゃんと活躍していたわけで、大したものです。もっとも相手の打者が気後れした可能性がないわけではありません。

ルースはヤンキースに1934年までいましたが、1935年の選手生活最後の年はボストンに戻ります。もっともこのときは古巣のレッドソックスではなく、今はアトランタにフランチャイズを移したブレーブズでセンターを守りました。成績は28試合に出場して6本のホームランを打ち、打率は1割8部1厘でした。

「バンビーノの呪い」という奇妙な都市伝説が話題になり始めたのは1990年ごろからのようです。ルースが移籍されるまではレッドソックスは毎年のようにワールドシリーズに出場する強豪チームでした。これに対しヤンキースは球団創設以来一度もワールドシリーズに勝ったことがなく、格落ちのチームでした。

ルースが移籍した後はヤンキースはルースの活躍もあり、何度もワールドチャンピオンになります。ところが、レッドソックスはワールドチャンピオンどころか、ペナントレースにもなかなか勝てず、1918年のワールドチャンピオンを最後にワールドシリーズに勝てないチームになってしまいます。その中には、後2試合のうち一つ勝てば良いのに、といった状況であっさりに連敗したり、何かに呪われているのではないかというほど、勝てなくなってしまったのです。

結果的には2004年にワールドチャンピオンになることで「バンビーノの呪い」は86年ぶりに解けたことになるのですが、ベーブ・ルースを40万ドルで売ってしまったことが、ひどく損な取引だったことは間違いありません。もっともルースの40万ドルと松坂の5千万ドルを直接比較することはやや無理があるでしょう。

1920年ごろの40万ドルは消費者物価の換算では3百万ドルくらい、一般の給与水準を考えると2千万ドルくらいです。また、メジャーリーガーの給料との比較となると、当時のベーブ・ルース自身の年俸が1万ドル(それを2万ドルに上げろと言ったのが、オーナーのフェイジー放出を決断した理由の一つとも言われています)で、それを考えると40万ドルは数億ドルに匹敵するかもしれません。貸付金を除いた現金だけでも年俸の10年分以上ですから、イチロークラスの選手ならそれだけでも百億以上に相当します。

ま、こんな議論は松坂投手はベーブ・ルースを討ち取れるか、といった類の話と同じであまり意味はないのでしょう。しかし、ベーブ・ルースに付けられた40万ドルというのは、6年間の投手としての実績に対するものだったのでしょうか。それともバッターとしての将来性に対するものだったのでしょうか。このあたりは今となっては良くわからないようなのですが。

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蛇足ですが・・・モンティ・ホール問題の不思議
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(「モンティホール問題」の続き)モンティ・ホール問題は別名モンティ・ホール・パラドックスとかモンティ・ホール・ジレンマとも呼ばれて、何度も議論されてきました。しかし、ベイズの定理やデシジョン・ツリーなどでモンティ・ホール問題はちゃんと解決されています。論理的にはパラドックスでもジレンマでもありません。疑り深く、コンピューターでシミュレーションをしたり、実際にコインと3つのカップのような模型を使って、友人と二人で実験してみても、答えは残っているドアに変更したほうが2倍有利(新車獲得の確率が3分の1から3分の2になる)というのは簡単に確かめられるので、疑う余地はありません。しかし、どうしても納得できない気持ちが残る人も多いのではないでしょうか。

釈然としない気持ちにさせる原因の一つは、ドアを開けるのは答えを知っている司会者のモンティ・ホールの意志によるものだということです。もし、モンティ・ホールが開けたのではなく、風か何かで偶然ドアが開いてしまって、そこに「たまたま」ヤギがいたら残りのドアの後ろに新車が隠れている確率は3分の2になるのでしょうか。

もし「たまたま」ドアが開いて「たまたま」そこにヤギがいたのなら、残りのドアに新車がある確率は3分の2ではなく、最初に多くの人が間違えた答え50%になります。これを先ほどのコインとカップのような模型を使った実験に置き換えて考えてみると、何度も実験を繰り返すと「たまたま」開けたドアには3分の2の確率でヤギがいますが、3分の1の確率で新車があります。新車がでてきたら、慌ててこっそり(回答者はまだヤギを見ていないとします)ヤギと新車を入れ替えてしまうとしましょう。そうするとこれはモンティ・ホールの最初の形と同じになるので、残りのドアに新車がある確率は3分の2になります。つまり、今や残りのドアはもともと持っていた新車が隠れている3分の1の確率に、こっそり開けたドアから譲り受けた新車が隠れている3分の1の確率を合計した3分の2の確率を持つからです。

誰かがこっそりヤギと新車を入れ替えるようなことをしなかったらどうなるでしょう。この場合はコンピューターや模型を使ったシミュレーションでは「たまたま」新車があったときにどうするかを、きちんと決めておかなくてはいけません。もし、「たまたま」新車があったら、そのゲームは「なし」ということにすると、3回に一回はゲームは無効になります。残った3回に2回のゲームでは、回答者が選んだドアと残ったドアの後ろに新車が隠れている確率は2分の1づつで同じになります。これは「こっそり入れ替える」という「知っていてヤギのいるドアを開ける」と同じことをしなかったためです。

しかし、ここで疑問が起きます。コンピューターを使うにしろ、模型を使うにしろ、3分の2とか2分の1とかの確率が得られるためには、それなりの数を繰り返さなければならなりません。何度も繰り返すと、「たまたま」開けたドアに新車が隠れている時ゲーム無効とするルールが意味を持ってくるわけです。ではゲームが1回限りならどうでしょうか。ゲームが1回限りというのは、まさに本物のテレビ番組のルールです。このとき、司会が「意志を持って」ドアを開ける前に、何かのはずみで「たまたま」ドアが開いてしまって、そこにヤギがいたらどうでしょうか。司会者は自分がドアを開ける前に開いてしまったドアにヤギがいるのを見て「良かった。新車のドアが開いたら全部やり直しのところだった」と胸をなでおろします。「たまたま」ドアが開いて、「たまたま」ヤギだったいうことですが、 それとモンティ・ホールが「意志を持って」ドアを開けたのと違いがあるのでしょうか。

ドアを100枚にしてみましょう。オリジナルのモンティ・ホール問題のルールに従えば、まず1つのドアを自分で選び(新車がある確率は1%)、残りの99のドアのうちヤギが隠れているドアを司会者は親切にも98開けてくれます。99のドアの後ろに新車が隠れている確率は大変大きい(99%)ので、司会者はまず新車の隠れているドアを見つけて、残りのドアを気前良く開けることになるでしょう。

今度は99枚のドアを司会者ではなく回答者が開けることにします。99枚のドアをうち98枚まで開けていきます。途中で新車の隠れているドアを開けたらそこでゲームはおしまいです。もちろん新車はもらえません。さて、極めて運が良いことに回答者が開けた98枚のドアには全てヤギがいました。今残っているのは99枚の最後の1枚のドアと、回答者が最初に選んだドアの2枚です。ドアを交換する意味があるでしょうか?これはないですね。残った2枚のドアの後ろに新車が隠れている確率は2分の1です。むしろ、気分的にはここまでヤギばかりが続いたのは、実は自分が最初に選んだドアの後ろに新車があることに他ならないのではないだろうかと思えるのではないでしょうか。

上のケースで考えると、司会者がドアを開けてヤギがいるのと、回答者が開けてヤギがいるのでは決定的な違いがあることがわかるでしょう。回答者が開けたドアにヤギがいると、回答者の最初に選んだドアに新車が隠れている確率は大きくなります。確率が大きくなる量は、回答者のドアも残されたドアも同等です。つまり、回答者が最初に選んだドアと、他のドアは同じグループです。

ところが、司会者が開けたドアにヤギがいても、回答者の最初に選んだドアの後ろに新車がある確率は大きくなりません。確率が高まるのは回答者が選ばなかったドアです。回答者の選んだドアと残りのドアは別のグループということになります。

それでは、ドアを開けたのが司会者でもなく、回答者でもなく風か何か他の偶然だったらどうなるでしょう。回答者と同じだというのが、答えなのでしょうが、司会者が開けたときとの違いはピンと来ない人が多いのではないでしょうか。もしろん、素直に受け入れても構わないわけですが・・・。

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モンティホール問題
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「テレビのクイズ番組にあなたは参加しています。番組の中で3つのドアがあって、そのうち1つのドアの後ろには新車が、2つのドアの後ろにはヤギがいます。あなたからは、ドア向こうが何かわかりませんが、新車の隠れているドアを開けると新車がもらえます。ヤギの隠れているドアを開けても何ももらえません。あなたが1つのドアを選んだ後、ドアの後ろに何があるかを知っている司会者が残りの2つのドアのうちヤギがいる方のドアを開けました。そして、今あなたは自分が選んだドアと、残っている開けられていないドアを交換しても良いと言われます。あなたは交換すべきでしょうか。」

多くの人は「2つのドアが開けられていないので、ヤギか新車かはどちらのドアも50%づつ」だから「変えない」と考えます。ところが、直感的には正しそうなこの答は間違いです。残っている方のドアの後ろに新車がある確率は50%ではなく、3分の2、約66.7%なのです。

この問題はLet’s Make a Dealという実際のアメリカのテレビ番組がもとになっていて、番組の司会者のモンティ・ホールの名前をとってモンティ・ホール問題(Monty Hall Problem)と呼ばれています。この話が有名になったのは、パレードマガジン誌のコラムニストのマリリン・ヴォン・サヴァント(自称IQ228と称しているそうですが)が1990年9月9日号で読者からの質問に答えたことに始まります。
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サヴァント

サヴァントはドアを変えれば新車がもらえる確率は3分の1から3分の2に高まると言ったのですが、納得できない読者から山のような(1万通!)投書を受ける羽目になります。反論を寄せた人には一般の人だけでなく、大学教授や確率論の専門家もいました。納得しなかった有名人には20世紀最大の数学者の一人と呼ばれるエルディッシュもいました。

答えはこうなります。まず、最初に選んだドアの後ろに新車が隠れている確率は3分の1です。これは司会者が残りのドアのうち1つを開けようが、開けまいが変わりません。ところが司会者が開けなかったドアは、違います。片方がドアが開けられる前は2つのドアのどちらかに新車がある確率は3分の2ですが、ヤギが隠れているドアが開けられたので、3分の2の確率は残されたドアが独り占めします。結果的には1つのドアが開けられることで、残りのドアの後ろに新車がある確率は3分の2になります。

納得されたのでしょうか。この結果はコンピューターでシミュレーションをしたり、実際に模型を使って、実験することで確かめられるのですが、理屈はわかっても釈然としないかもしれません。納得されない方はドアが100あると考えてみてください。この場合1つのドアを選んだら、その後ろに新車がある確率は100分の1、1%になります。さて、司会者が99残っているドアのうちヤギが隠れている98のドア全部を開けたとしましょう。この時、開けられていないドアに新車がある確率は99%、あなたのドアの確率は依然として1%です。ドアを交換しない手はありません。これは大分納得しやすい気がするのではないでしょうか。

似たような問題をもう一つ。ある人に子供が二人いることがわかっています。二人のうち、一人が男の子だとわかったとき、もう一人が男の子、女の子である確率はどれくらいでしょうか。

「もちろん、50%づつだ」と思う人が多いと思いますが、答えは女の子である確率が3分の2、男の子である確率は3分の1です。二人の子供がいるとき、年上を左、年下を右に書いて、組み合わせを考えると、1)(女、女)2)(女、男)3)(男、女)4)(男、男)です。二人のうち一人が男の子とわかったわけですから、1)はありえません。残った組み合わせは2)、3)、4)ですが、残りの一人も男であるのは4)だけです。したがって、男の子である確率は3分の1となります。

これも説明を聞いてもすぐには納得しがたいものがあるのではないかと思います。問題を変えて男の子がいて、兄弟が一人いることがわかったとします。その兄弟が男の子である確率と、女の子である確率はどうでなるでしょう。この場合は五分五分です。女の子である確率が3分の2ということはありません。何が違うというのでしょうか。

この問題は多少引っ掛けがあるのかもしれません。「もう一人」という言い方がそうです。本当は最初の質問は「もう一人」の性別を聞いているのではなく、兄弟が男、女のどんな組み合わせになっているのかを尋ねているのです。

最初の問題の形を変えて、黒い石と白い石が同じ数だけ入っている大きな袋から一個づつ石を取り出すことを考えて見ましょう。袋からは2個石を取り出し、2個づつ小さな袋に入れるとします。2個取り出すときの取り出し方は、(黒、黒)、(黒、白)、(白、黒)、(白、白)の4通りです。ここで、小さな袋の石の少なくとも一つがが黒だったとわかったとしましょう。もう1個の石の色は何色でしょうか。黒の入っている袋は、(黒、白)、(白、黒)、(黒、黒)のどれかの組み合わせですから、白である確率が3分の2、黒である確率は3分の1になるでしょう。

結局、質問はある石が黒か白かを聞いているのではなく、袋の中身が(黒、白)、(白、黒)、(黒、黒)のいずれか、つまり組み合わせのパターンを聞いているということになります。「もう一人」という言葉が、誤解を招く原因になっているわけですが、引っ掛けに目をつむれば、モンティ・ホール問題でドアを開けても、残りのドアの後ろに新車が隠れている確率が変わらないと思ったのと同じように(正確に言うと、開けたドアにヤギがいたという情報は、最初に選んだドアと残ったドアに公平に新車がいるの確率を高めると考えた)、「男の子がいる」という情報が何も状況を変えないと思った点で共通しています。

上記の男の女の子、黒石、白石を選ぶ問題は、どうも1/3、2/3ではなく1/2、1/2という普通の人の推論が当たっているようです。通俗書の解説をそのまま採用したのですが、コメントでkiwiさんからご指摘をうけました。考え直した私の答えは、


モデルを少し変えて、
A(黒x100)、B(黒x1、白x99)、C(白x99、黒x1)、D(白x100)
のようなケースを考え、最初に袋から黒を取りだしたとします。取りだした袋はA、B、Cのいずれかで、B、Cなら次に取りだす石は白ですが、最初に取りだした石はAの袋に入っていた確率は100/102で、次も栗である確率もその通りになるのは直感的にも明らかです。


ということです。この話は私同様の間違いをしている本がいくつも出ているので、ご注意のほどを。

18世紀のイギリスの数学者トーマス・ベイズはある事が起きる確率(事前確率)が何か情報をもたらせてくれる出来事が起こった後はどうかわるか(事後確率)ということに、ついてベイズの定理と呼ばれる計算式を見つけ出しました。ここでベイズの定理でモンティ・ホール問題を解きなおすことはしませんが(数学の得意な方にはごめんなさい)、ベイズの定理を使うと3つのドアの後ろに新車が隠れている「事前確率」は皆3分の1ですが、回答者が取らなかった2つのドアの一方が開けられると、開けられなかった方のドアの事後確率は3分の1から3分の2になることがわかります。
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トーマス・ベイズ

ベイズの定理の応用の例として、偽陽性の問題があります。今1万人に1人が罹患する病気があったとします。この病気にかかっているかどうかを検査する検査薬があって、検査の精度は99%だとすると、検査で陽性になったとき、本当に罹患している確率はどれくらいでしょうか。99%の精度と聞いて、陽性と言われると99%罹患していると思ってしまうかもしれませんが、そうではありません。

この病気に罹患している確率は事前確率として1万の1です。99%の精度を誇る検査薬で陽性になったわけですが、本当に罹患して陽性になるのは、1万分の1の99%つまり99%の1万分の1、確率0.000099です。これに対し、本当は罹患していないのに検査薬のエラーで陽性になる確率は、1万分の9,999の1%、0.00999です。ですから、検査薬で陽性になったという条件が発生して、本当に罹患しているという事後確率は0.000099/(
0.000099+0.00999)=約0.01(1%)です。つまり、陽性と言われても、たった1%しか本当に病気である確率はないのです。

これだけならヘェーというだけかもしれませんが、DNA検査ように非常に高い確度で本人を特定できると思われているような場合注意が必要です。DNAバンクみたいなものを作って全国民を登録してしまった場合、DNAが同一であると特定された人が犯人である確かさは、DNA検査のエラーの確率が1千分の1、1百万分の1、100億分の1で大きく違ってきます。DNA検査が100億分の1のエラーしか起こさないなら、DNAが同一なら犯人である確率は国民が1億だとして99%ですが、100万分の1なら1%、千分の1なら0.001%しかありません。千に1つしか間違えない検査で犯人とされたらほとんど間違いないと思われそうですが、とんでもないわけです。

DNA検査の偶然の一致確率は、実際は1億8千万の1とか、最新技術で77兆分の1とか言われています。しかし、これらの値は「理論的」なDNAの一致確率で、検査自身がエラーを起こすことは考慮されていないでしょう。実際には77兆分の1のエラーしか起こさないような検査は、検査者や測定機械の間違いの可能性を考えれば、あまりありそうもありません。DNA検査による犯人探しは、他の証拠で犯人がある程度絞り込まれた状況でないと、間違えてしまう危険があると思うほうが良いでしょう。アメリカでは指紋については10年に1度くらいで、間違えることがあると言われています。

ベイズの定理の事前確率、事後確率という考え方を入れることで、事前確率がそれほど確かなものでなくても、新しい情報で事後確率を上げていくことが可能になります。科学の世界では事後確率を大きく向上させるような発見は価値が高いと考えられるので、科学的成果の定量化を行うことにも使えます。また、迷惑メールの発見に、システムが学習しながら事後確率を高めることにも使われています。ベイズの定理は2世紀以上を経過して、インターネットの世界でも重要性を増してきています。

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顧客志向を考える
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お客様は神様です
「Customer First」を日本語に訳すと「お客様は神様です」になるのでしょうか。顧客にフォーカスしろというのは、洋の東西を問わず言い続けられてきました。あまりに、言い続けられてきたので、「いい加減にしてくれ!」という気持ちになってきたのかもしれません。アメリカのウルスター大学教授のスティーブン・ブラウンは「ポストモダン・マーケティング-「顧客志向」は捨ててしまえ!」という勇ましい題名(原題は Free Gift Inside!!: Forget the Customer, Develop Marketease)の本を書いています。

ブラウン教授によると顧客に色々知恵を絞ってサービスしようとしても、今や顧客はスレてしまっていて、そんな手には引っかからない、そうではなくて「じらしてじらしてじらしまくり」それによって顧客を引き付けるべきだということになります。 つまり、手を変え品を変えて媚を売るのではなく、もったいぶり、隠し、じらすことで、顧客から主導権を取り返そう、「客を悩ませろ(彼らは、そうされるのが好きなんだ)」という、ほとんどヤケクソのような話ですが、顧客、顧客と言い続けている割には成果があがらないことの反省は必要かもしれません。

「顧客は常に正しい: Customer is always right」というのはよく言われている言葉ですが、これも常識的に考えて100%正しいとは思えません。顧客といっても、悪い人やゴネ得を目指す人もいるでしょう。全然利益に結びつかない顧客もいます。医者が患者(これも立派な顧客です)の意向を尊重することは必要であるにしても、治療方針を全て患者の言う通りにすると、患者は命を失う危険すらあります。

顧客満足という言葉を文字通り追求していくと、札束をつけてニコニコしながらタダで商品を渡すようなことになってしまいます。顧客が大切なのは、顧客が売上げや利益をもたらしてくれるからで、慈善事業の自己満足を味あわせてくれるからではありません。ドラッカーは「企業にプロフィットセンター(これもドラッカー自身が作った言葉ですが)はない、プロフィットは顧客からしか得られない」と言っていますが、「だから」顧客は重要だとも言えますし、「だから」顧客からは絶対に利益をあげなければいけない、ということにもなります。

クレイトン・クリステンセンは「イノベーションのジレンマ」で、もっとも優良で先端的な顧客の要求に応えている間に、技術の進歩で市場のほとんどには不必要な高機能で高価な製品に特化してしまい、ついには業界のリーダーシップを失うことを警告しています。クリステンセンはHDDのトップメーカーがHDDのサイズが5.25、3.5、2.5インチと小型化されるたびに入れ替わることに着目し、HDDのトップメーカーが高性能の求める一部の顧客を重視して、より小型のHDDで満足できる顧客の要求を無視してしまったことが、HDD製品の世代交代でその地位を失った原因だと結論付けました。優良顧客の言うことを聞いたために、結局市場から見放されてしまったのです。

「顧客志向」というのは、身を削っても顧客の得になる何かを提供することではありません。「顧客の視点で顧客が欲すること」を提供することです。あたり前に聞こえますが、現実には何か顧客志向の施策をしようとすると、ゼロサムゲームのように自分の取り分を減らして、顧客に便益を提供するようなことがすぐに出てきます。営業推進策の多くは、単なる値引き、割引のオンパレードになりがちです。ウォールマートのELDP(Every Day Low Price)は確かに、お得な商品を提供するということですが、本当の価値は「もっと安いところがあるのじゃないか。明日になればもっと安くなるんじゃないか」といった、値段に関する悩みを消費者に与えず、安心して必要な物を買うことに専念できるようにするということです。

今顧客に何か売ろうとするのではなく、戦争で敵と戦うことを考えて見ましょう。敵を殲滅するためには、敵を狙いやすいところに陣取るのも大切ですが、敵から狙われにくいことはもっと重要です。敵から狙われにくい場所を見つけるには、敵の立場に立って文字通り「敵の視点」を持つことが必要です。顧客志向とは、売る側の立場ではなく、買う側、サービスを受ける側の視点で、全てを見直そうということに他なりません。

カール・アルブリヒトが「サービス革命」で書いていますが、ホテルで大きなセミナーを開催した時、休息時間でどのようなサービスを期待しているか、ホテル側のスタッフに聞いたところ「香りの良いコーヒーを上等なカップに入れて提供すること」などと答えたのに対し、セミナーの参加者は「短い時間を有効に使えるように、コーヒーは待たずに飲めること」とか「トイレや電話が便利なこと」といったことを求めていました。一方的に顧客にためになることをしても、顧客には評価されないこともあるのです。

スティーブン・ブラウン教授の言うように、顧客をじらしたり、苛立たせることが顧客を引き寄せるのに役に立つことはあるでしょう。こんなことは、年頃の女の子なら男の子に対して皆やっていることです。しかし、顧客が本当にどう感じるか、それがどう消費行動に結びつくかの理解とシナリオがない限り、顧客を怒らせる結果を招いてしまう危険も大きいでしょう。

売る側と買う側の関係はゲーム理論ではプレーヤーが自分の利得を最大化しようとして行うゲームと考えられます。ゲームが一回限りの場合は、プレーヤーは相手の弱みに付け込んだり、自分の利得の増大だけを考えて行動しますし、相手のプレーヤーもそうするだろうと予想します。観光地の高くてまずい食事、ゴミを片付けない観光客というのは一回限りのゲームだとお互いに思っているのでしょう。しかし、ゲームが繰り返し行われるとすると、プレーヤーは相手の利得も考慮することによって、自分の利得を高めようとします。売る側は得意客を優遇し、得意客も時として最安値でなくても同じ相手から購入を続けようとするのは、繰り返し型のゲームで相手の利得を考慮する例でしょう。

顧客志向も、戦争も、ゲームも相手の視点で考えることが必要です。それを忘れて、「お客様は神様です」とか「顧客は常に正しい」と言っても、多分それは中身のないから念仏でしょう。大体スローガンの張り紙は実態の逆を表していることが多いのです。もちろん、ブラウン教授のように「顧客志向を捨てろ」と言っても、顧客が戻ってくるわけではありません。

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複雑系
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サンタフェの古い教会
サンタフェというと、今でも宮沢りえのヌード写真集の名前を思い出す人が多いかもしれません。1991年に発売された同名の写真集は、ニューメキシコ州の州都になっている人口6万人ほどのこの街で、篠山紀信によって撮影されました。スペイン語で「聖なる街」を意味するサンタフェは17世紀始めにできたアメリカで2番目に古い町で、多くの古い教会や街並みが残り、アメリカの宝石と呼ばれています。

サンタフェ研究所は1984年にサンタフェから50キロほどにある、ロスアラモス国立研究所の科学者たちによって作られました。原爆開発のために第二次世界大戦中に創設され、水爆の開発も行ったロスアラモス研究所は、10,000人以上の研究員を擁し、核兵器だけでなく、物理学、生物学、社会科学にいたる広範な研究を行っていますが、より学際的な問題にアプローチするために新しい研究組織が必要だと考えられたのです。

学際的なアプローチを必要とした問題とは、複雑系と呼ばれる分野でした。複雑系とは一言で言えば、沢山の要素から構成され、それぞれの要素が互いに作用をし合って、個別の要素とは全く異なる動きをするものです。複雑系とよばれるものは、生物学、社会科学、人工知能など広範囲は分野に存在しますが、複雑系の科学はそれらの共通点から複雑系独特の性質を解明しようというものです。

複雑系では非線形の問題を取り扱います。というより複雑系は本来非線形の性質を持っています。非線形の逆の線形とは比例するということです。10個のリンゴは1個のリンゴの10倍の重さがあります。1個200円なら10個で2,000円です。1個のリンゴのことが十分にわかれば、10個のリンゴのことも、100個のリンゴもわかるし、100万個のリンゴのこともわかるというのが線形問題の特徴です。

複雑系はそうではありません。複雑系では個々の要素と全体がお互いに作用する、フィードバックがあるので、全体と部分とは違うのです。たとえば、水の性質は単に水の分子が集まっただけと考えては解明できません。物には色がありますが、分子レベルで色があるわけでもありません。脳には1,000億個以上のニューロンがありますが、個別のニューロンの動きはかなり理解できているのに、知能とか意識の解明はまだできません。沢山のリンゴがあって、空から見ると「リンゴ」という字になっている、こんなことは1個1個のリンゴのことがいくらわかっても想像もできないというわけです。

複雑系では沢山のものが集まって、個別の部分と全く異なった性質を現すことを「創発」と言います。逆に言えば創発がなければ本来の意味で複雑系とは言えません。ただ、なぜ創発が起きるかというとその理由は様々ですし、全体を個別の要素と比べて、どのように違う振る舞いや状態になれば創発と呼べるのかも、決まっていません。複雑系で創発が起きるのは、沢山の要素の相互作用、全体と部分との間のフィードバックがあるからですが、ただ沢山の要素を集めても創発が起きるとも限りません。個々の要素の相互作用が一定の方向に組織化されることで、創発が起きるのです。

複雑系で沢山の要素が互いに結びついて、一定のパターンを形成することを自己組織化といいます。自己組織化の例としては雪の結晶があります。雪の結晶は、水の分子が冷却される過程で発生しますが、結晶の構造は水の分子と違って、それ自身意味を持っています。自己組織化で一番典型的なのは生物です。生物はまわりの栄養を吸収して、繁殖し生物として栄養物とは全く異なる細胞やさらにより大きな単位を作り出します。自己組織化は複雑系で創発が起きる原因として重要なものですが、全ての創発が自己組織化によるものではありませんし、自己組織化が必ずより大きなレベルでの創発を引き起こすとも限りません。

自己組織化は経済学、社会学の分野でも意味のある考え方なのは容易に想像がつくでしょう。そもそも「組織化」という言葉自身、人が集まって組織を作るということが元になっています。組織は個人と違う考え方、動きをしますし、人が集まって都市を作っていく過程は自己組織化の代表例だと考えられます。

複雑系が話題になり始めたころ、一部で複雑系は従来の還元主義で解決できない問題を解決できると言われていました。還元主義はReductionismという言葉の通り、Reduce-減らしていくことで物事の解明をしようとします。100個のリンゴをまとめて分析しようとしても難しいので、1個取り出してみる。1個のリンゴを皮、果肉、種にわけて分析する。果肉をすりつぶして、水分や栄養素を分析する。1個のリンゴの中身が理解できれば100個のリンゴの中身もわかるはずだというのが還元主義です。

還元主義を文字通り実行すると、各要素を細かく調べようという話になるので、確かに創発や自己組織化で現れる動きや状態を分析することはできません。伝統的な科学の方法論は還元主義が基本ですから、複雑系の考え方を導入することで、従来の科学が解けなかった問題を解けるのではという期待があったのです。

サンタフェ研究所は創立当初シティーバンクが大きなスポンサーとなっていました。シティーバンクは経済予測に複雑性の研究が役に立つのではないかと期待したのです。経済予測で単純に還元主義を応用すると、個人個人の消費動向を考えることになるでしょう。しかし、個人の消費動向は経済の好不況に影響を与えるでしょうが、経済の好不況も個人の消費動向に影響を与えます。経済は複雑なフィードバック・システムであり、非常に多数の要素を含んでいるという意味で、複雑系そのものです。シティーバンクはサンタフェ研究所が物理学や生物学、人工知能といった経済学より確かそうな分野から、よりましな経済予測を編み出すことが可能ではないかと考えたのです。

しかし、予測という点については複雑系は難しい問題を投げかけています。複雑系で自己組織化の例として気候現象があります。気象現象は空気や水蒸気が、太陽熱や海面の温度などのエネルギーにより、どのような振る舞いをするかで説明されますが、時として台風や竜巻のような極端なパターンを生み出します。このようなパターンは気象現象の自己組織化で生じますが、パーターンがどのような形でいつ発生するかは、最初の条件がわずかに違っただけで全く異なってきます。カオス理論でバタフライ効果と呼ばれるものです。

バタフライ効果は、蝶が羽を羽ばたかせたために、竜巻が起きてしまうようなことをいいますが、わずかな初期条件の違いで予測できない出来事が起こすのがカオスです。複雑系で自己組織化によって作られるパターンの多くは、初期状態によって全く違ったものになる可能性があるのです。経済が気象現象と同じようなものなら、バブルの発生や、来年の流行色を予測(経済学ではないかもしれませんが)しようとするとカオス理論が行く手をさえぎることになります。

実際、カオス理論にしろ、カタストロフィーの理論にしろ、還元主義による要素分解、分析だけでは手に負えないのは事実でしょうし、自己組織化や創発はそれを別の言葉表現したものでしょう。しかし、科学理論の価値は予測ができることだという考えに立てば、複雑系の科学も役に立つためには、ある種の還元主義を使わざる得ません。自己組織化によるパターンの出現など、複雑系の多くの現象はコンピューターのシミュレーションで調べることができますが、シミュレーションというのは目の前の実体を何かもっと単純なモデルに置き換えて、そのモデルの動きをコンピューターで計算することです。モデルが単純でなければコンピューターでも計算しきれないないでしょうし、モデルが妥当なものかどうかはモデルを作る人の洞察力にかかっています。
図A
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図B
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図Aで中の要素が相互作用によってパターンを形成する(図B)


結局、物理学、経済学、生物学など様々な分野を学際的に複雑系で考えようとしても、複雑系としての共通項を見つけようということ自身が還元主義と言えなくもないでしょうし、共通項が経済学なりなんなりの特定分野の複雑系に当てはまるかどうかは、その分野の専門家の検証が必要なのは言うまでもありません。

複雑系は興味深い考えをいくつも提供してくれますし、学際的な研究により他の分野のアイデアが大いに参考になるということはあるでしょう。しかし、複雑系が独立した科学として、万能的に今まで還元主義の方法論で解明できなかった問題を解決してくれるというのは過剰期待でしょう。創発というのは魅力的で便利な言葉ですが、意味するものがあまりに広くかえって物事を理解するときに行き過ぎた単純化をしてしまう危険すらあります。最近一時の勢いがなくなっている気もする複雑系ですが、このあたりを意識していれば、まだまだ多くの刺激を与えてくれのではないでしょうか。

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「教育改革」って何?
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教育改革国民会議の報告書提出(クリックで拡大)
教育基本法の改正が新内閣の最優先課題だということで、国会の審議が始まったところで、いじめによる自殺、高校の必修課目の未履修問題などが起き、おまけにタウンミーティングのやらせ質問発覚と、教育問題が最近になく関心を集めています。色々な意見が聞かれるわけですが、テレビの報道番組などで共通しているのは「日本の教育の現状は嘆かわしい」ということです。教育は個人にとっても国家にとっても重要なものですから、「嘆かわしい」なのであれば何とかしなくてはいけないわけですが、実際はどうなのでしょうか。

国会で教育基本法が審議されているのは、安部内閣が最優先課題にしているという理由はもちろんあるのですが、もともとは2000年から2001年にかけに江崎玲於奈を座長とし26名の識者を集め総理大臣が主催した教育改革国民会議の答申報告(http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/)が基礎になっています。報告書は日本の教育の改革の必要性とその実行のために教育進行基本計画の策定と教育基本法の見直しを提言しています。教育改革国民会議の報告は「中間」報告となっていて、これから最終報告が出るかと思いきや、教育改革国民会議はそこで終わっています。詳しい事情はわかりませんが、その後は文科省の諮問機関の中央教育審議会の初等教育、大学、生涯学習などの分科会でより詳細が議論され、そこでの答申を受けて教育基本法の提案を行ったということのようです。中間報告が最終報告というのも変なのですが、「最終」というのもおこがましいと思ったのでしょうか。

教育改革国民会議はその名からして教育には改革が必要なのだという前提があったのは間違いありません。教育基本法は戦後にできてから時間がたつし、技術は進歩して情報化は進んでいるし、国民の行き方はますます多様化しているし、だから改革が必要という訳です。確かに企業は不断の改革が必要です。顧客の変化、競争相手の変化、グローバル化の進展、技術の進歩などなど、環境の変化は既存の仕組み、システムのいわゆる制度疲労を引き起こします。古いビジネスプロセスやシステムをそのままにしていると、次第に競争力が衰え、場合によっては倒産してしまいます。環境変化に不断に対応し続けることは企業にとって生き残りの必須条件と言えます。

教育改革国民会議と中央教育審議会の答申などを見ても同様の主張が貫かれています。「まわりが変わっているのに教育が変わらなくて良いという道理はない」というわけです。さて、教育を考えるとき、6334制のような制度や仕組みつまりシステムの話と、教育内容つまりコンテンツの二つがあります。システムが世の中の不適合を起こしているかどうかはおくとして、コンテンツはどうなのでしょうか。「学歴無用論」というのはあっても「学力無用論」を言う人はいないでしょうから、コンテンツはシステムより重要、少なくともコンテンツあってのシステムで、その逆ではないでしょう。

コンテンツに関しては、「急速に進展する情報化」とか「創造性に富んだ科学立国を目指す」という言葉から推察して、急速に進歩した科学に対応するため、教育内容も変えなくてはいけないと言っているようにも見えます。ところが、この100年高等学校レベルの教育内容は根本的な変化はありません。少なくとも、数学、物理、化学、英語などが内容を大きく変更することはなかったのです。100年前の旧制高校の秀才(今の高校と違って大学の教養課程を一部含みますが)を連れてくれば、今でも秀才で通るでしょう。特に科学の進歩の影響が一番大きいはずの、数学や物理について言えばほとんど何も変わっていません。

この100年の間には相対性理論、量子力学、DNAなどの画期的な研究、発見がありました。量子力学などはそれなしでは、原爆も半導体も作れませんし、半導体がなければコンピューターもインターネットもないわけですから、科学の基本中の基本と言っても良いくらいです。しかし、まともに量子力学を勉強しようと思えば、関数論だの測度論だの高校でカバーする数学をはるかに超える数学知識が必要でとても教えられないのです。

数学にしても微積分や三角関数と言われると、体の具合が悪くなる人が出てきそうですが、これらは17世紀、18世紀には少なくとも高校レベルの内容はできあがっていて、100年間中身は変わっていません。化学も高校の内容は19世紀にできあがった周期律表を理解していれば、こなせる内容です。唯一生物がDNAについて教えていて、ここは100年の科学の進歩が反映されていると言えます。ただ、DNAの話もメンデルの法則から説き起こせば大まかな理解は可能ですから、100年前の生徒も驚くことはあっても途方にくれることはないはずです。

100年前と現在の高校生で学力差があるとすれば、国語力というか漢字力で、これは100年前の生徒がはるかに出来ます。漢文は100年前はまだ重要な課目でしたし、そもそも新聞、小説など普通の文章の漢字量が今とは比較にならないほどあったのです。そんな100年前の学生も、江戸時代の漢文を素読していた人たち(江戸時代に学問がある人は皆そうだったわけですが)と比べれば、大人と子供くらいの漢字力の差があったでしょう。このあたりは「英語力より国語力」と言っている人たちの大半も100年前の教養人の国語力に追いつけと言われたら悲鳴をあげてしまうでしょう。

基本的な課目の中身が変わっていないわけですから、後はどの程度習熟しているかが勝負です。これについてはOECDが各国の15歳(義務教育終了年)の学生の統一テストを2000年と2003年に実施しました。結果は2000年と2003年を比較して、日本は数学が1位から6位、読解力が8位から14位、科学が2位で不変、2000年にはなかった問題解決能力が四カ国ほぼ横一線の1位(厳密には4位)となりました。これを見て「ゆとり教育の弊害だ」という声が大きくなってきて、「国家の品格」を書いた藤原正彦などは「日本の教育は歴史上最低になった」とまで言っています。

確かに、学力の順位が下がるのは良いことではないのでしょうが、ゆとり教育で授業時間を減らしたら学力が下がったのなら、授業時間を増やせばよいはずで、こんなに問題解決の簡単な話はありません。じつはテストの結果を少し仔細に見ると、数学で日本は順位を下げたものの、点数の最上位のレベル6の生徒が占める割合は韓国、香港と並んでOECD平均の倍以上の8.2%になっています。ゆとり教育といっても、成績上位者は塾だ何だと学校以外に勉強していて、学力を維持しているということのようです。

コンテンツは変わらない、達成度もまずまず、少なくとも世界の最上位だとすると何を変えろというのでしょうか。学力がゆとり教育で落ちてきたことが問題だというなら、授業時間を元に戻せば良いのは明らかです。ところが話はそんなに単純ではありません。教育改革国民会議の報告では「日本の教育は、今、大きな岐路に立っており、このままではたちゆかなくなる危機に瀕している。 いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊など教育の現状は深刻である。」と言っています。「このままではたちゆかなくなる」のなら何とかしなくてはいけません。

そこで問題認識から解決策の提示ということになるのですが、教育国民会議は17の提言をしています。その中で「人間性豊かな日本人を育成する」ということで家庭教育の重視、学校で道徳教育実施を行う、「一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む日本人を育成する」ために一律主義を廃し多様化を行う、さらに「新しい時代に新しい学校を」作るために教師に成果主義を導入する、授業をわかりやすくする、などが述べられています。

大変結構なことかもしれませんが、100年前と今とコンテンツが変わらないのに、どうしてそんなに色々しなくてはいけないのでしょうか。いじめ、校内暴力など多くの学校で起きている問題は、近代の学校教育が「一定年齢の児童を集団として一律の教育を施す」という枠組みを破壊している、つまりシステムの機能不全を引き起こしている、という点で「解決すべき課題」でしょう。ところが答申を読むと「いじめ」や「校内暴力」を解決する直接的な方策は書いていません。どうも家庭のしつけや道徳教育によって「人間性豊かな日本人を育成する」なかで自然に、そのような問題は解決されると考えているようです。

しかし、いくら教育問題を論じているからといって、全ての問題を教育で解決しようというのは無理な話です。教えれば誰でも微積分が理解できるとは限らないように、命の大切さや人の和を教えても、システムに対する破壊行動に出る生徒は現れるでしょう。システムを維持するには人間教育と同時にシステムを守る施策が必要で、多分そのほうが人間教育に期待するよう確実で即効性があるでしょう。

アメリカのスタンフォード大学の教授だったウィルター・ミスチェルは1960年代に「マシュマロテスト」と呼ばれる、4歳児の忍耐力のテストを行いました。テストは空腹な4歳児に1個マシュマロを置いた皿を前にして、「ちょっと外に出るけど、皿のマシュマロを我慢して食べなければ、私が戻ったときに2個マシュマロをあげよう」と言って立ち去ります。立ち去った後すぐにマシュマロを食べてしまう子は3分の1くらいでした。3分の1は我慢した挙句結局食べてしまいました。3分の1の子は、マシュマロを見ないようにテーブルの下に隠れるような努力までして、何とか食べずに我慢しました。

ミスチェルは14年後に被験者の幼児がどのようになったかを調べたところ、我慢した3分の1の幼児は総じて成績が良く、アメリカの大学進学適正試験、SATで平均210点(満点は800点)高い点を獲得しました。追跡調査はさらに続けられ、我慢した子は修飾語の平均年収や結婚生活でより高い成功率を達成したことがわかりました。
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「マシュマロ・テスト」は何を教えてくれるのでしょう。「三つ子の魂百まで」で人の生まれつきは変わらないとも考えられるかもしれませんし、「すずめ百まで踊り忘れず」で幼児教育が大切という考えもあるでしょう。一般的にはマシュマロ・テストは教育以前に人間には克己心に富んだ人と、そうでない人がいるという現実を示していると考えられています。

子供は厳しく育てたほうが良いか、伸び伸び育てたほうが良いかもよく議論になります。この疑問は双子の比較、犯罪者の調査など多くの研究が行われ結論は「大差がない」とされています。つまり、子供に肉体的に大きなダメッジを与えたり、極端に放置するようなことがない限り、子供の道徳性、勤勉性に大きな差は生じないということです。たしかに、親がやたら口うるさければ誤魔化すことを考えることもあるでしょうし、逆に煩くなければ仕方なので自分から努力するということもあるでしょう。犯罪については家庭環境より、むしろ友人など外部環境のほうが影響が大きいことも知られています。

要は教育、家庭は大切ですが、決定的なファクターとは必ずしも言えないし、まして何でもかんでも教育問題とするのはあまり科学的な態度とは言えないということです。しかし、教育改革国民会議という名称に、わざわざ「改革」をつけたところを見ると、何が何でも教育を改革する必要があるとの思い込みがあるようです。そして思い込みの原因を探ると、いじめ、校内暴力さらには少年の凶悪犯罪の激増で学校教育は危機なのだという認識があるようです。

しかし、少年犯罪について言えば、戦後一貫して減少傾向にあり、現在でも顕著な増加に転じたというデーターはありません。終戦直後の少年犯罪が貧困によるものが多かったのに対し、近年は貧困とは無縁の教育熱心な中流家庭での親の殺害などセンセーショナルなものが目立っているのは確かですが、そのような異常な犯罪が昔と比べて急に増えてかというと、確かな証拠もありません。昔から、異常な犯罪というのは時々発生していましたし、それが現代的な要因、特に教育問題によるものかどうかはわかっていないのです。

教育改革国民会議をはじめ最近の教育論議多くは、データーの裏づけなしに問題認識を行い、さらに解決策を思い込みと無理やり結び付けているという点で、通常の問題解決のプロセスを踏んでいるとは思えません。教育改革国民会議でグローバルな競争環境について語っても、諸外国のデーターの検討、比較は行った様子はあまりありません。唯一GDPに対する教育費への公費支出が日本が、3.6%なのにアメリカは5%、イギリス、フランス、ドイツはそれぞれ4.6%、5.6%、4.6%と日本が比較対象国では最下位というデーターが示されていますが、なぜかこのことは報告書では言及されていません。本当はこの部分こそ最大の問題ではないでしょうか。

どうして人は教育問題を語るのが好きなのでしょうか(このブログもそうですが)。多分それは利害の点で自分の懐が痛む話ではないからでしょう。他の問題、医療費、年金などは内容の改善と支出の増大は裏腹ですが、教育問題はそうではないように見えます。日本の教育費は20兆円程度と決して小さくはないのですが、「心の育成」を語っても支出は増えないと思っているのかもしれません。

また、人はそもそも「いまどきの若い者は・・」と言いたがる傾向があります。今の日本人で大学以上の教育を受けた人でも、高校の教育内容を十分に理解している人はかなり少数でしょう。それでも人は学力低下を嘆き、新卒の学生が会社で役に立たないことを怒るのです。しかし、思い込みで解決策に飛びつくと企業でも何でも通常ろくな結果になりません。ゆとり教育の導入もそうですがし、大きな教育制度の変更は概ね副作用のほうが大きかったというのが過去の経験です。

そんな中で、教育現場は何とか辻褄をあわそうとします。家庭科、音楽、美術は高校にもなれば大半の人には数学、英語より力を入れる必要のない学科のはずですが、表立ってそんなことは言えません。世界史にしろ何にしろ課目の中で、「こんなものいらない」と正面きって言えるものはないのです。そこで一部の高校では建前はやったことにして、別教科に時間を当てるということになるわけです。ゆとり教育、土曜日休日も塾に通うことが増え、家計の教育支出が増える結果になっています。改革しようとしても、学力が高ければより多くの機会に恵まれるという現状認識が変わらない限り、根本は変わりません。しかし、学力が高ければより多くの機会に恵まれるということを否定してしまったらどうなるでしょうか。それこそ日本は滅びてしまうでしょう。

何でも数字に頼るのは危険ですが、データーの裏づけも、仮説の検証もなく改革を行うのは企業でも、教育でも間違ったやり方です。日本の碩学、有識者が集まった教育改革国民会議は問題解決の基本を無視したとしか言いようがありません。本当に日本はどうなるのでしょうか。今日は珍しく慨嘆してしまいました。


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チューリング・テスト
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アラン・チューリング
チューリング・テストは、コンピューター科学の父と言われるイギリスの数学者アラン・チューリング(1912-1954)が考えた、機械が人間と同様の思考を行うことができるかどうかをテストする方法です。チューリング・テストでは判定者がカーテンの向こうの機械と人間の両方に質問をいくつも投げかけて、最終的にどちらが機械か人間か判定できなければ、機械はチューリング・テストに合格した、つまり知能を持っていると考えます。テストはキーボードで質問を入力しプリンターかスクリーンで答えが返されるので、声で人間か機械かを判断されることはありません。

チューリングは西暦2000年ごろ、100MBのコンピュータがあればテストに合格することができるのではないかと考えたようですが、現在にいたるまでテストに合格した機械(コンピューター・プログラム)はありません。もっともチューリングがチューリング・テストの論文を書いた1950年当時では、100MB といえば天文学的というのとほとんど同義語で、チューリングが具体的にチューリング・テストに合格するプログラムの構想を持っていたわけではありません。アメリカのヒュー・ロブナーはロブナー賞を創設して、10万ドルの賞金で毎年チューリング・テストのコンテストをしています。このコンテストでは審査員がチューリング・テストのルールで判定を行って、半数以上の審査員の判定を通り抜ければ合格になります。

チューリング・テストについては、そもそも機械が「知能」を持つという証明になっているのかということも含め、当初から様々な反論が出ていました。チューリング自身もチューリング・テストのアイデアを書いた論文を友人に笑いながら読み上げたという話もあります。それでも、「知能」という漠然とした概念をチューリング・テストの合格という「操作的」な定義に置き換えることで、コンピューターでの知能実現の議論を推し進める上で、チューリング・テストは大きな力がありました。

チューリング・テストに完全に合格するプログラムをはないのですが、人間に機械に対し擬人的な感情を持たせることは可能です。1966年に開発されたElizaというプログラムはキーボードから打ち込んだ質問に対し「もっと詳しく言って」「それでどうしたのですか?」「他に理由はないのですか?」といった答えを適当に返すだけなのですが、多くの人を本物のセラピストと会話しているような気持ちにさせることができました。Elizaを機械とは知らず会話した人は、涙ぐむことさえあったそうです。実はElizaはセラピストの代わりをするために開発されたのではなく、おざなりな言葉しかかえさないセラピストへのパロディーとして作られていたようなのですが、それでも知能を十分に有しているように見られたのです。(Elizaを試したい人は英語ですが、http://www-ai.ijs.si/eliza/eliza.htmlを参照)

人工知能(AI: Artificial Intelligence)という言葉は、1955年にジョン・マッカーシーというコンピューター学者が言い出したのが最初とされていますが、機械が人間と同じように思考できるのではないかという思いは、コンピューターが登場したときからありました。人工知能の実現は最初はかなり楽観的に考えられていました。コンピューターがビジネスでも使われるようになり始めた1950年代後半には、「ビル丸ごとの大きさのコンピューターを作り、都市ほどの電力を供給し、ナイアガラの瀑布を冷却水に使えば」人間の脳と同等の能力を作ることができると言われていました。要するにハードウェアが高性能になれば人工知能は作ることができると思われたのです。

その後ハードウェアは急速に進歩して、1950年代には冷却にナイアガラの瀑布を使用しなければいけないような回路数はPCにも搭載されるようになりましたが、一般の人が人工知能に期待するレベルの能力は全く実現されていません。Elizaのように人間側が機械を人間性を持つように考えてしまうということはあり、たとえばゲームで機械相手にいらだったり、怒ったり、優越感を感じることはあるでしょうが、ゲームのプログラムが知能そのものや、まして「意識」を持っていると思う人はあまりいないでしょう。

知能だの意識だの難しいことは言わないから、自動翻訳くらいできないかという要求はあるのですが、満足からはほど遠い、と言うよりここ数十年画期的な進歩はほとんどないといのが現状です。翻訳する分野を絞込み、ある程度使い込めば、そこそこは使えるのですが、汎用的とは言えませんし、時としておそろしくトンチンカンな訳語を作ってしまうことに変わりはありません。人間でも、専門的な内容を訳すには専門知識が必要ですし、滅茶苦茶な訳文はいくらでも作ってしまうのですが、コンピューターとは間違い方そのものが違っています。人間が間違うのは「内容が理解できないから」なのに、コンピューターが間違うのは「蓄積されたルールと適合しない文章」を訳す場合だからです。

結局、人間は1)認識し 2)理解し 3)理解に基づいて行動(たとえば翻訳)するのに、コンピューターは依然として2)の理解というプロセスはありません。理解の代わりに、パターンとの照合、評価関数による順位付けなど色々なテクニックをつかっているだけで、本質的な理解、意識の実現に少しも近づいてはいないのです。

このような言い方をすると「理解するとか、意識するとかの定義を示して欲しい」という反論もでてきます。確かに、チューリング・テストのような「操作的」な定義なしで、理解だ、意識だと勝手に使われても困るのかもしれませんが、「定義すらできない」「定義が山ほどあって統一的なものはない」ほど「理解」「意識」の中身はわかっていないのです。

中身もわからず、闇雲にインターネットでコンピューターを沢山連結して何か知能みたいなものができるのではないかと期待するのは、中世の錬金術師と同じです。錬金術師は金以外の物質から金を作るために、ありとあらゆる物質を混合し、熱したり、圧力をかけたり、衝撃を与えたりしました。もちろん金を作り出すことに成功することは誰もできなかったわけですが、「できないことの証明」は金が元素であること、元素は化学合成ができないことがわかるまでできませんでした。
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中世の錬金術師
「知能」も「意識」も実体が明確に定義できないうちは実現は不可能でしょう。チューリング・テストというのは、金とある物質を並べて、さわったり、匂いを嗅いだりして、金とその物質の区別ができなければ金だといっているのと同じで、金そのものを定義しているわけではありません。金が元素だということがわかって、はじめて金を他の物質から生成する可能性がでてくるように、理解、意識の本質的な中身がわからないのに「本物」の人工知能作り出すことはできないでしょう。

「原理のわからないものは作ることはできない」というのは全く当たり前の話だと思います。ところが、コンピューターが登場して以来、人工知能への期待はマスコミ、一般レベルではなく、専門家の間でもかなりまじめに議論されてきました。錬金術が実用上多くの技術を生み出し、化学(Chemistryは錬金術Alchemyが語源)の基礎になったように、人工知能実現の努力が様々な技術を生んだのは事実です。一太郎のATOKもYahooの検索技術も自然言語解析の成果が使われています。しかし、そのような技術的派生物ではなく、「人工知能を実現する」という名目で巨大なプロジェクトが動いたことがありました。1980年初期の日本の第5世代コンピュータ開発プロジェクトです。

第5世代コンピューターというのは、1970年代のコンピューターを第3世代とか3.5世代とかよんでいたため、第4世代も飛び越えて当時世界のコンピューター市場で圧倒的だったIBMを打倒するコンピューターを作ろうという日本の国策プロジェクトでした。国家主導の産業政策の有効性はここでは議論しませんが、驚くべきことに第5世代では人工知能を実現しようという謳い文句でプロジェクトが企画、実行されたのです。

結果は10年の歳月と570億円を投じてできあがったのは並列型推論マシーンと称する、ビジネス上も学問上の全くといっていいほど価値のない鉄の箱でした。もちろん、人工知能は実現などはしませんでした。おそらく当事者はプロジェクトの目的は人工知能の実現ではなく、従来型とは違う応用分野を持つコンピューター技術の開発だったと主張するでしょうが、人工知能の実現という思い込みが予算獲得に絶大な効果を発揮したことは間違いありません。日本政府は錬金術師に多額の資金を提供した中世の王様と同じようなことをしたわけです。

話が少し脇道にそれてしまいました。チューリングは知能、理解、意識というものの根本的な原理を知ることが難しいということを知っていたからこそ、チューリング・テストを考案しました。それから50年以上が経過して、コンピューターの性能はチューリングが夢に描いたレベルを超えるまでになりましたが、チューリング・テストを不要にするような、知能の根本的な原理の解明は進んでいません。意識にいたっては、チューリング・テストのような操作的な定義すらないのです(意識という存在は錯覚にすぎないという人もいますが、「錯覚しているという意識がある」ということなのでしょうか)。人間の脳は、依然として一番奥深いところで、人知をはるかに寄せ付けないのです。
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日本はイギリスになれるか(3)
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発展する中国の象徴の上海
1980年代に頂点を迎えた日本経済はバブルの崩壊とともに失われた10年とも15年とも言われる停滞期に入ります。1990年から2004年までの14年間の日本の名目経済成長率はわずか10%にとどまります。人口は2005年に1億3千万弱でピークを向かえ、これからは高齢化の進展と人口縮小が同時に進行すると予測されています。

日本が停滞している間に単なる巨大下請け国家と思われていた中国は急速な発展を遂げます。日本が14年で10%成長しかできなかったのに対し、中国は毎年10%内外の成長を達成しました。それでも名目GDPは日本のまだ半分程度なのですが、実質購買力や元が安値に抑えられていることを考えると、すでに事実上日本を抜いているとも考えられます。実際、原油輸入量は日本の2倍、鉄鋼生産量は3倍近くになっていて、中国の動きが全世界の一次産品の需給環境に非常に大きな影響を与えています。

軍事費は名目上日本の防衛費の7割程度の4兆円以下と発表されていますが、信じている人は誰もおらず、実質は2-3倍に達していると推定される上、急速に拡大を続けています。発表している軍事費だけでも、物価とくに人件費が圧倒的に安いことを考えると、日本の防衛費を大きく上回っていることは確実です。内容的にも核兵器、ミサイル、原子力潜水艦を含め、アメリカ、ロシアを除けばもっとも強力な破壊力と攻撃力を持っています。

20世紀の始め、ドイツの急速な発展はイギリスにとって最大の脅威でした。ドイツ民族の国々を糾合し1871年に成立したドイツ帝国は、ヨーロッパで最大の面積(ロシアを除く)と人口を有することになります。植民地をほとんど持たないドイツでしたが、すぐれた科学力を背景に工業化の進展は著しく、ついにはフランス、イギリスに植民地の再分割を要求するまでになります。イギリスは対抗上、19世紀の「栄光ある孤立」を放棄し、ロシア、フランスと次々に同盟を結びます。ドイツもまたオーストリア・ハンガリー帝国などと同盟を結び、複雑な同盟関係と相互の不信が第一次世界大戦につながることになります。
ドイツ皇帝ウィルヘルム1世の戴冠式
ドイツ皇帝ウィルヘルム1世の戴冠式
現在の中国は急速に国力を伸ばし脅威となった20世紀初頭のドイツ帝国にたびたび例えられます。また、中国の面積、人口を考えると20世紀初頭に20世紀はアメリカとロシアの世紀と予想された(これは半ばあたったわけですが)ように、21世紀は中国とインドの世紀になる可能性は大きいでしょう。日本はイギリスがドイツとの戦いに勝ち抜いたように、中国に対抗することが可能でしょうか?

実はこの設問はあまり妥当なものとは言えません。イギリスが直面したドイツの脅威は、覇権に対する脅威でした。つまり、領土、制海権など国家が支配できる範囲をめぐる争いでした。国家と国家が覇権の及ぶ範囲で争うと、最終的には軍事的な優位が決定的になります。しかし、中国と日本は覇権を求めて争っているのではないでしょう。いや、中国は依然として軍事力、支配力の及ぶ範囲を拡大するという意志を持っているという意味で覇権主義的ですが、日本は経済的な勢力、競争力、国民の福祉が重要なはずです。少なくとも国民が経済的に繁栄するために軍事的に競争相手を打倒する必要はありません。

企業から経済的利益を得る方法は、株主になる、顧客になる、納入業者になる、従業員になる、の4つしかありません。そしてこの4つのうち国籍が決定的になるものは一つもありません。日本人であるにしろ、中国人であるにしろ、あるいはアメリカ人、イギリス人何であっても、自国の覇権の及ぶ範囲と自分の経済的利益は本来関係ないのです。

尖閣列島の石油など、資源の所有権は覇権と関係あるという人がいるかもしれません。しかし、石油が尖閣列島で産出しようが、イランで産出しようが、はたまた北海沖、アラスカで産出しようが、石油の購入価格は石油市場で決定されます。要するに、世界全体での需給バランスが石油の価格を決め、それ以外ではありません。

もちろん、第一次石油ショックでアラブ諸国を中心にOPECがアメリカに対する交渉力に石油を使ったように石油資源は時として武器にもなります。自国に安定的な石油供給を実現しようとして石油資源の確保に走る必要が生じるということはありうるでしょう。しかし、今の世界で「カネはあるが石油はない」という状態になった国は北朝鮮を含め皆無です。石油の確保が物理的に重要になるのは第二次世界大戦の日本のように戦争状態にあるときだけです。

その戦争状態が心配なのだという考えもあるでしょう。しかし、中国と日本の関係に限れば、中国と日本が戦争し尖閣列島の石油の供給が両国の戦闘能力で決定的な役割を果たす、というほとんどありえない仮定を設けない限り、尖閣列島の石油が中国、あるいは日本の存亡に決定的に重要になることは考えられません。

経済の世界では軍事力でも覇権でもなくカネが全てです。北方領土で日本人の漁民が射殺、拿捕されるというのは本来北方領土は日本のものであるという認識に立てば許しがいたい暴挙です。しかし、花咲ガニを食べたいだけなら、今でもロシアの漁船が捕ったものを含めて根室の市場でいくらでも買うことができます。花咲ガニが食べられるかということと、国後、択捉が日本の支配権が及ぶかどうかということは別の話です。

ニューヨークのロックフェラーセンターが三菱商事に買われたとき、アメリカでもこのままでは日本に占領されてしまうという話まで出て大騒ぎになりました。しかし、バブル崩壊で三菱地所が売却し、現在にいたるまでアメリカ資本、日本資本そしてアメリカ資本と変遷したことは何か変化をもたらしたでしょうか。ロックフェラーセンター名物のクリスマスツリーは相変わらず11月末になれば点灯されます。国境を超えて広がる経済と、領土に制約される国家とは全く違う存在なのです。

イギリスは第一次、第二次世界大戦を経て領土は、元の100分の一の大きさに戻りました。しかし、絶対的には今イギリス史上もっとも高い一人当たりのGDPを実現しています。また、イギリスの多くの製造業が外国資本の下になっても、イギリスから工場が消滅したわけではありません。かつてのロールス・ロイスの自動車工場は今も職人芸をこめた車作りをしています。「ウィンブルドン化」と呼ばれるように、ロンドンの国際金融市場のシティーは外国の金融機関が中心となって動かされていますが、イギリス人の職場が減ったわけではありません。

「日本はイギリスになれるか」という問いには二つの答えがあると思います。一つはコモンウェルスを中心に築き上げ、世界言語となった英語を基にした影響力を日本は持ちえないという意味でイギリスになることは不可能です。あまり愉快な話ではありませんが、これからますます英語力の必要性は高まるでしょう。食べていくためには国語も他の必修科目も減らしてひたすら英語を勉強しなくてはいけなくなることも考えられます。いや、実際はすでにそうなのに、問題から逃げ回っているだけかもしれません。日本の心は大切ですが、江戸時代の生活水準に戻るわけにもいかないでしょう。

もう一つ、覇権を失っても経済は成り立つかという意味では、イギリス以上の成功をおさめることは十分に可能でしょう。なんといってもイギリスは植民地に依存することがあまりに多すぎました。「狭い国土で一生懸命頑張る」という意識は日本ほどはありません。皮肉ですが、この点では英語が世界言語であることが一面マイナスに働いているのかもしれません。イギリス生まれで南アフリカ育ち、カナダに移住してアメリカ企業に就職、現在はオーストラリア駐在、というような人はいくらでもいますが、彼らは東京生まれで京都の大学を出て、九州で働いている程度の気持ちなのでしょう。英語の世界では国境はそれほど重いものではありません。Imagineではジョン・レノンも「Imagine there's no countries .It isn't hard to do 」と歌っています(日本人にはすごく大変なのかもしれませんが)。

国家と覇権という点については、イギリスの現実主義はやはり見習うべきものがあると思います。イギリスはアメリカとの特殊関係を最大限活用して、ドイツやソ連という強敵と対峙してきました。軍事的には米ソについで3番目の核保有国になったのに、今では事実上アメリカ製の核兵器と運搬システムに依存していますし、将来数兆円と予想される核兵器の更新をやめて核兵器の放棄を行う議論がされていますが、実現すれば史上初めて核兵器を放棄する国にイギリスはなるわけです。

日本の相対的経済力が1980年代末を上回ることは将来ないでしょう。しかし、国家の領土、覇権と国民の経済的利益を混同せずに、日本人の勤勉さや高い教育水準を活用すれば、生活水準の向上を実現することは今後とも可能なはずです。もちろん、どこかの国が日本を侵略してきたとき、最後まで血を流して戦い抜くと期待できるのは日本人以外にはありません。その意味で日本自身による国防は必要でしょう。しかし、軍事力は何の経済的利益をもたらさないし、何の関係もないということは肝に銘じておくべきでしょう。

日本はイギリスになれるか (1)
日本はイギリスになれるか (2)
日本はイギリスになれるか (3)

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日本はイギリスになれるか(2)
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セシル・ローズ
アフリカのナポレオンと呼ばれ、「神は世界地図が、より多くイギリス領になることを望んでおられる」と言い放ったセシル・ローズは、1853年から1902までを生き、南アフリカでのイギリスの権益確保のために動き回りました。今日の基準ではローズは侵略主義者、人種差別主義者、強欲、人殺しとあらゆるレッテルを貼られるのにふさわしい男でしたが、彼がイギリスの植民地およびアメリカの若者をオックスフォード大学で学ばせるために創設したローズ奨学金は、今日にいたるまでアメリカではもっとも権威のある奨学金制度として認められています。ローズ奨学金を受けたアメリカ人著名人には最近だけでもビル・クリントン前大統領やSOX法を提案したポール・サーベイン上院議員、国防次官を勤め「ソフトパワー」で有名なジョセフ・ナイなどがいます。アメリカもまたイギリスの数ある「元植民地」の一つなのです。

イギリスは大陸国家であるドイツの伸張に対し、アメリカとの連携を軸に、パワーバランスを巧みに利用した外交政策で対抗しようとします。結果から見れば、2度に渡るドイツとの世界大戦を勝ち抜いたイギリスの戦略は成功だった言えるでしょう。ただ、イギリス自身は戦勝国になったにもかかわらず、第一次世界大戦では覇権のアメリカへの移行、第二次世界大戦では植民地の喪失など、相対的な国力の後退を免れることはできませんでした。

また、第二次世界大戦ではチャーチルは「ヒットラーと戦うためには悪魔とも同盟を結ぶ」と言ってスターリンのソ連と共同戦線を組み、結果的に戦後の米ソ二大陣営の冷戦を招きました。スターリンと悪魔とヒトラーの誰が一番ましかはわかりませんが、チャーチルもルーズベルトも反共主義者だったにもかかわらず、最後はスターリンを信用し、東欧のソ連支配や、朝鮮半島の北朝鮮政権樹立に手を貸してしまいます。

第一次世界大戦では戦後のオスマン帝国の分割をめぐり、イギリスの現実主義外交はバルフォア宣言(実際はロスチャイルドへ外務大臣バルフォアが送った書簡)でパレスチナでのユダヤ人国家を約束しつつ、エジプト駐在高等弁務官のマクマホンはアラブによるパレスチナの独立を認めるという二枚舌外交を展開します。このときのイギリスの二枚舌が今日のイスラエルとアラブとの抗争の最大の原因の一つであることは確かです。

イギリスは日の沈まない帝国から元もヨーロッパのはずれの島国に戻る過程で、常に勝者側にいることに成功しましたが、その勝利はアメリカの存在がなくてはありえないものでした。しかし、アメリカは二度の世界大戦とも開戦と同時には参戦しませんでした。第一次世界大戦はドイツのUボートの無差別攻撃、第二次世界大戦は日本の真珠湾攻撃で自国の船が攻撃されるまで、国論が参戦で統一されることはなかったのです。

アメリカを孤立させずに常にヨーロッパにコミットさせなくてはいけない。この思いは第二次大戦後のNATOの創設でほぼ実現しました。冷戦下のヨーロッパで東側に対する、いわゆる欧州正面にアメリカ軍は常時展開されたのです。しかし、それでもフランスはソ連の核攻撃にアメリカが自国を危険にさらしてまで報復するかわからないとして、核兵器を開発所有することになります。また、イギリスもアメリカの原爆開発(マンハッタン計画)に当初から参加していた強みを生かし、第二次世界大戦後いち早く核兵器を開発します(現在のイギリスの核兵器システムは実質的にアメリカに技術的にも運用的にも大きく依存した原子力潜水艦搭載のものだけとなっており、近い将来核兵器システムの更改を行うべきかの議論が起きています)。

イギリスとアメリカの「特殊な関係」はフランスなどヨーロッパからはいつも問題視されてきました。フランスはEUの前身であるEECへのイギリスの加盟を何度も拒否しています。一方、現在でもイギリスもEUの主要メンバーであるにも関わらず、英ポンドを捨てず、EUの統一貨幣単位のユーロの採用は行っていません。また、イラク戦争に参加したように、アメリカと一体化することによりアメリカを制御しようという姿勢(単にアメリカの飼犬だという批判は国内外に強く存在しますが)に変化はありません。イギリスはヨーロッパとアメリカのバランスをとることの大切さと難しさを実感しているように見えます。

文化的にはイギリスとアメリカの関係の親密さは想像以上のものがあります。ロンドンとニューヨークは今やファッション、マスコミ、金融関係の人には事実上一体化した双子都市(Twin Cities)化していると言われています。運行が最近中止された超音速のコンコルドはファーストクラスの席しかなかったのですが、そのような人たちでいつも満員でした。言葉が共通であるため、小説、音楽、映画などはアメリカとイギリスを中心とした文化圏を一つのマーケットと考えることができます。たとえばブロードウェーミュージカルは年に一度地方公演を行うことが多いのですが、開催地はアメリカ西海岸のサンフランシスコとロンドンが普通選ばれます。

ヨーロッパ国家の集合であるEUでも英語は公用語です。フランス語、ドイツ語なども公用語であることは間違いありませんが、他国語を併記しない場合は英語で書かれることがほとんどです。EUが独禁法の運用など国家としての枠組みを持つようにつれ、裁判を何語で行うか、契約を何語で書くかが重要な意味を持つようになってきました。裁判での係争などは英語で行われることが多く、ビジネス関係の法律の専門家は英語で仕事をする必要がますます高まっています。

さらに普通イギリス連邦と訳される、コモンウェルスがあります。コモンウェルスはロシア連邦のような国家の体裁は持っていませんが、かつてイギリスの支配下にあったほとんどの旧植民地が所属していて、国数で53、人口は世界の人口の30%を占めています。これらの国は公用語に英語が採用されているだけでなく、他の言語が公用語であっても、高等教育を受けるためには英語が不可欠です。

英語が世界の共通語化していることは今さら言うまでもないのですが、英語といえどもイギリスという一国家の言語から出発したことは間違いありません。200年も遡れば、英語で書かれた文学作品はシェークスピア、スイフトなどイギリス人のものしかありません。英語で教育を受け、職業的訓練を積むというのは、根幹でイギリスの文化を受け入れるということになります。この点では、江戸時代の作品すら原文では特殊な人しか読めなくなっている日本人と比べると、非イギリス国民で英語を母国語にしている人々がイギリス文化に影響を受けている度合いはずっと強いかもしれません。(この項続く
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シェークスピア

日本はイギリスになれるか (1)
日本はイギリスになれるか (2)
日本はイギリスになれるか (3)

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日本はイギリスになれるか (1)
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「日本はイギリスになれるか?」と言うと、「何でいまさらイギリスなんかになりたいの?」の聞き返されそうです。確かに、イギリスは人口、GDPは日本の半分以下、ジャガー、ローバー、ロールス・ロイスなどの有名な自動車メーカーは全て外国に売り払われ、日本で有名なブランドといえばダンヒルくらいです。実はダンヒルも今はフランスのリシュモン・グループの傘下でイギリス資本の会社ではありません。

多くの日本人には「英国病」と言われた1960年代から80年にごろにかけての極端な経済の不振がまだ印象に残っています。当時の英国は「ゆりかごから墓場まで」という福祉国家を実現したものの、国有化された鉄鋼、鉄道、石炭などの主要産業が労働組合の専横と経営努力の欠如から国際的な競争力を失っていました。

世界最初のジェット旅客機のコメットを送り出した航空機産業も、コメットは予期しない機体の金属疲労で墜落が相次ぎ、アメリカの航空機メーカーに市場を奪われていきました。起死回生を狙ってフランスと共同開発したコンコルドは、莫大な開発費を投じた挙句、運用費の高さ、騒音、少ない乗客数などの欠点のため市場は小さく、後継機をうみだすことはできませんでした。現在でもマンチェスターなどの昔の産業都市は過去の賑わいはなく、ロンドンだけが国際的な都市として繁栄しています。「日の沈むことがない」と言われ、世界の陸地の総面積と人口の5分の1を支配した大英帝国の面影はどこにも残っていないように思えます。

しかし、かつてイギリスは紛れもなく日本の目標であり手本であったことがありました。日本人はイギリスが大陸から離れた島国であること、本国の面積は小さく資源に乏しいこと、国民が勤勉で教育熱心であることなどの多くの共通点があると考えました。イギリスが王室を持っていることも親近感を深めました。現在の皇室は伝統的な部分と西洋的な部分と二面を持っていますが、西洋的な部分は明らかにイギリスをモデルにしています。

日本がもっともイギリスを意識したのは大日本帝国という呼称でしょう。これは大英帝国(British Empire)に倣って、日本もいずれはイギリスのように日の沈むことのない大帝国を築きたいという思いをこめたものでしょう。ただ皮肉なことに、日本が日清、日露戦争さらにその後の日韓併合を通じて領土の拡大を始めたとき、イギリスは1901年のオーストラリアの独立など次第に領土を縮小し、コモンウェルスとして緩やかな統合に向かっていくことになります。

大日本帝国が膨張主義に突き進もうとしていたなかで、イギリスは新たな脅威に直面していました。ヨーロッパでは19世紀に統合を果たしたドイツ帝国は20世紀に入り工業力ではイギリスを凌いでいました。また、広大な国土と莫大な人口を持つアメリカ合衆国とロシアが力を増していて、20世紀はアメリカとロシアの世紀だと言われていました。イギリスでは単独では世界的な覇権を維持することは困難となり、他国との連携と対立のバランスを絶妙に取る、バランス・オブ・パワーを外交政策の柱にすることになります。

日本の経済的頂点は1980年代だったことは今となれば間違いありません。1980年代の後半には日本のGDPは円高の影響もあって、人口が2倍のアメリカの70%に達し、ドイツ(西ドイツ)、フランス、イタリア、イギリスの合計額に近づきました。半導体の世界シェアは1988年には50%を超え、乗用車を始めあらゆる製品で世界制覇が達成されそうな勢いでした。ニューヨークのロックフェラーセンターを三菱地所が買収し、ワイキキビーチに並ぶホテルはほとんど日本人の所有になりました。

70年代初めアメリカの未来学者のハーマン・カーンは21世紀は日本と予測しましたが、エズラ・ボーゲルは1979年「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を著し、日本の影響力の大きさを警告しました。最初は半信半疑だった日本人も次第に「自分たちは大したものではないか」という気分になってきました。1986年にはソニーの盛田、現都知事の石原が「ノーといえる日本」で「日本の半導体なしではアメリカはやっていけない」と気炎をあげましたが、アメリカ人の受け止め方も「その通りかもしれない」というように変化してきました。

1980年代の後半、日本のGDPの世界でのシェアは、ほとんど20%になっていたと思われます。これは大英帝国の最大時の世界の面積と人口に占めていた割合とほぼ一致します。日本は全盛期の大英帝国についに追いついたとも言えるかもしれません。司馬遼太郎の書いた「坂の上の雲」が手元に届いたと感じられたのが1980年代の日本だったのです。(続く


日本はイギリスになれるか (1)
日本はイギリスになれるか (2)
日本はイギリスになれるか (3)

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ヴィッケルトと白洲次郎
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エルヴィン・ヴィッケルト
エルヴィン・ヴィッケルトは1915年にドイツで生まれた歴史小説家で、ドイツ作家協会会長をつとめたこともあります。彼は第二次世界大戦前中国、日本の各地を旅行し、極東の専門家として終戦まで6年間駐日ドイツ大使館で外交官として勤務しました。彼の書いた「戦時下のドイツ大使館」(中央公論社刊)は、大戦中同盟を結んだドイツと日本が双方ある意味騙しあいながら、しかし結局一蓮托生の道を進んで行く有様を描いており、なかなか興味深い本なのですが、本の最後に終戦後しばらくしてドイツ本国に送還されてからのエピソードが書かれています。

ヴィッケルトは1947年になって日本から送還され、ドイツへの送還者が皆送られるルートヴィヒスブルグにある収容所に入ります。ルートヴィヒスブルグ収容所の所長はマードック大尉というアメリカ軍人なのですが、彼は狩猟に、彼の部下のグリーンバウム中尉は闇商売に現を抜かしています。ところが1947年ともなると、終戦後2年を経過しドイツ人の送還者の大きな団体はヴィッケルトのグループがほとんど最後になっていました。そのため、収容所長の生活を満喫し、収容所の閉鎖を恐れるマードック大尉はヴィッケルトの出所許可をなかなか出そうとしません。

業を煮やした、ヴィッケルトは一計を案じ、当時アメリカ大統領選挙の候補者にも取りざたされていた有力政治家のタフト上院議員の知り合いであることを装います。ヴィッケルトがタフト議員に不当抑留の抗議をするつもりだと言うと、マードック大尉は慌てて出所許可を出します。ヴィッケルトはニューズウィークやタイムを毎週読んでタフト議員の履歴から家族構成まで熟知していたのです。

首尾よく出所できたのですが、出所許可証の最終目的地は行きたかったハイデルベルグではなく、昔住んでいたベルリンになっていて、ハイデルベルグに住むことはできないことがわかります。そこで、ヴィッケルトは再び収容所に戻るのですが、マードック大尉はどうやってかヴィッケルトの嘘を見破ってかんかんになっています。もちろん、ハイデルベルグへの移住許可どころか再度抑留しかねない勢いです。そこでヴィッケルトは今度はライカのカメラを譲っても良いと、ほのめかします。カメラにつられてマードック大尉はハイデルベルグ移住の出所許可を出すのですが、当のカメラはとっくの昔に東京で盗まれていたのです。

ヴィッケルトは平然と二度もアメリカ軍大尉の収容所長を騙してしまうのですが、もちろんこれはそんなには誉められた話ではありません。しかし、1947年という同時期に一般の日本人がどのようにアメリカ軍人に対応していたかを考えると、二つの敗戦国の差を思わざる得ません。
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白洲次郎

白洲次郎は占領下の日本で吉田茂の側近として占領軍との交渉を数多く行い、アメリカ側から「従順ならざる唯一の日本人」と言われました。白洲は神戸一中を卒業後イギリスに渡り10年を過ごし、ケンブリッジ大学を卒業しています。彼の数あるエピソードの中で、ホイットニー准将に英語を誉められて「あなたももう少し勉強すればうまくなる」と言ったのは有名です。真偽の点はともかく、流暢なイギリス英語、180センチ以上の当時の日本人としては異例の長身でアメリカ軍人に何も臆するところがなかったのは確かなのでしょう。

白洲次郎のことは最近ふたたび話題になることが多く、ここで繰り返すことは避けますが、彼は単なるへそ曲がりで権力に盾を突くことを喜びにするような人物ではありませんでした。白洲は晩年軽井沢のゴルフクラブの重鎮として過ごすのですが、そのとき田中角栄総理の秘書がプレーを日曜にしたいと頼んだのを断っています。これは日曜にはメンバー以外のプレーは認められていなかったからで、巷間言われているように、田中のことを馬鹿にしていたわけではなかったと思われます。 白洲が嫌うのは無闇にいばる人間で、軽井沢のゴルフクラブで運転手に靴紐を結ばせていたメンバーに向かい「君は手はないのですか?」と言って叱ったことが知られています。

つまり白洲の占領軍に対する態度は、イギリス教育をかさにきて虚勢を張って突っ張り通したというより、合理的な主張を合理的に行ったということでしょう。サンフランシスコ講和条約締結の時に吉田全権代表が演説を日本語でするように白洲が勧めたのも「日本人だから堂々と日本語で演説すべきです」と言ったのではなく、「吉田さんの英語は下手くそで聞いている人わからないから」と思って日本語にさせたというのが本当のようです。

ヴィッケルトは極東での遍歴、大使館員として権謀術数を経験していて、蒼顔の文学青年ではなかったでしょうが、歴史小説家になるくらいですから、普通の教養人です。要するにドイツ人で一定上の教育がある人たちは、英語力も十分ですし、気分的にアメリカ人に何も遠慮することがなかったということなのでしょう。ドイツには多分、アメリカ人に平気で物を言うということだけ取り上げれば、白洲次郎のような人が山のようにいたのでしょう。「従順ならざる無数のドイツ人」がいたのです。

さて、ヴィッケルトの話も、白洲次郎の話も終戦直後のことです。ドイツも日本もアメリカの占領下にあるわけではありません。しかし、両国には依然として大規模なアメリカ軍が駐留しています。核の傘はヨーロッパでは、もはやそれほど大きな意味はないかもしれませんが、ドイツもフランスやイギリスではなくアメリカの核の力に最終的なレベルでは依存しています。では両国とアメリカの関係はどうなのでしょうか。日本では、一番基本的な部分で対等のコミュニケーションが行われていると言えるのでしょうか。

白洲もヴィッケルトも劣等感と優越感という上下関係でアメリカと付き合うことはありませんでした。今では日本にも大量の留学経験者、帰国子女がいて、英語を自由に話せる人の数という点では終戦直後の日本とは比較にならないでしょう。また、「アメリカに物申す」官僚、ビジネスマンも沢山いるでしょう。しかし、白洲次郎やヴィッケルトのように平らなレベルで国際人としてコミュニケーションを行える人は、それほど多くないのではないでしょうか。対米追随と反米、あるいは嫌中と媚中の振り子の振れを見て、気になるのですが。

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近づく日本版SOX導入
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「金融商品取引法」という法律が今年の6月に成立しました。この法律は最近話題の多いインサイダー取引の厳罰化やファンドへの規制の整備など、証券取引法を全面的に改正するものなのですが、その中で上場企業は内部統制の強化をしなければならないという規定が盛り込まれました。企業の内部統制と言われてもイメージがつかみにくいかもしれませんが、これはアメリカで2002年に成立したサーベイン・オックスレー法(Sarbanes-Oxley Act)、通称SOX法に由来しています。そこで金融商品取引法を日本版SOX、JSOXと呼ぶこともあります。

アメリカのSOX法はワールドコム、エンロンという大企業が粉飾決算が原因となって、数兆円規模の倒産を引き起こし、株主に多大の損害を与えたことがきっかけになって作られました。特にエンロンの場合は、最大、最古の監査会社であったアーサー・アンダーセンの担当者が粉飾決算に加担し証拠隠滅を行ったことや、経営陣が従業員に自社株買いを勧めながら自分は売りぬけを行うなど、経営者のモラルの欠如が社会的な強い批判の対象になりました。

SOX法では全ての上場に対し不正を行うことを防ぐための仕組み、内部統制を確立すること。内部統制の仕組みが機能していることを確認、報告することが求めています。さらに、経営者が粉飾決算などで財務報告書に虚偽の記載を行ったときは最長20年の懲役になることが含まれています。経営者への罰則は意図しない場合でも10年までの懲役はあるとされていたので、アメリカの経営者は一種のパニックになりました。

罰則を免れるためには内部統制の確立が必要になるのですが、これが半端な話ではありませんでした。企業の中には、入出金だけでなく、在庫の払い出し、先払いの承認など、会計上に影響を与えるビジネスプロセスが山ほどあり、それらの適正な運用とリスクへの対応を確認しなければいけなかったからです。結果として、膨大な文書の作成、不備の改善などのために社員やコンサルタントが大量に投入され、多大の出費が発生しました。出費の規模は上場企業の平均で数千万ドルにおよんだとの話もあります。

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日本では、アメリカで発生した事件に対しアメリカで作られた法律と同じものを日本でも作るという話には抵抗感がありました。莫大な費用が予想される上に、日本の独特な商慣行のためにアメリカ以上にSOX対応が難しくなるのではという懸念もあったからです。しかし、日本企業でもアメリカに上場している企業(これは超大企業が多いわけですが)はいずれにせよSOX対応をしなければいけないこと、ライブドア事件などで日本でも粉飾決算に関心が高まったことなどで、最終的に金融商品取引法の成立と2008年3月期からの適用が決まりました。もはや不平を言っても対応するしか仕方がない状態になったわけです。

アメリカのSOX法や金融商品取引法で求める内部統制の強化は粉飾決算の防止にどの程度有効でしょうか? 実際には、ワールドコムの営業費用を資産勘定にしてしまう、エンロンのSPC(特別目的会社)をトンネルに損を隠してしまうといったやり口自身を防ぐことは難しいでしょう。日本でもカネボウやライブドアで発生した粉飾決算が今回の法律があれば防げたかというと、そうとは思えません。内部統制の強化は末端の社員や現場の管理職の不正を減らすことはできても、内部統制の強化だけでは経営トップが関与するする不正には有効でない場合が多いのです。また、末端の社員の不正であっても犯罪者は常に創造力を発揮して仕組みの不備を突いてくるため、不正を完全に防ぐことはできないでしょう。銀行は日本でもSOX法が求める内部統制を昔からほぼ実行してきましたが、横領事件がなくなったことはありません。

結局、内部統制の強化は意味があるとしても、経営者が関与する粉飾決算は取締役会の構成など統治の仕組みを厳格化することと、SOX法で決められた最長20年の懲役など経営者の犯罪に対する厳罰化によって防ごうということになるのでしょう。経営者の犯罪に対する厳罰化は異論も多いのですが、私は上場会社は株という「貨幣」を発行できる以上重い責任を負わされるのは致し方ないと思っています。偽札作りは重罪ですが、偽札がせいぜい数百万、数千万程度の規模しかないのに対し(北朝鮮の偽ドル作りは別ですが)、株は数千億円の規模の信用創造を行うこともあるからです。エンロンやライブドア事件で財産を失った人のことを考えれば、粉飾決算は重罪なのは当然でしょう(ただ、堀江被告の関与の程度に私は個人的な疑問を感じてはいますが)。

今回の金融商品取引法では虚偽の財務報告を作ると最長10年の懲役になります。また、インサイダー取引も今までの3年が最長5年までの懲役となります。アメリカの20年にはおよびませんが、かなりの厳罰であることは間違いありません。いままでの日本ではよほどのことがない限り、経営上の問題で経営者が実刑に問われることはなかったのですが、これからは違ってくるかもしれません。



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