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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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死刑廃止をめぐって
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死刑を求める声は強い(写真は光市母子殺人事件で妻と娘を殺された本村氏)

去る12月25日法務省は1年3ヶ月ぶりに4人の死刑囚の刑を執行したと発表しました。これに対し、日弁連は会長名で直ちに遺憾とする声明を発表しました。 声明の内容は「死刑執行を行わないよう日弁連が事前に要請していたにもかかわらず、執行されたことは誠に遺憾。死刑制度の存廃について国民的議論を尽くし、改善を行うまでの一定期間、死刑執行を停止するよう改めて強く求める」というものです。

死刑を是とするか非とするかは、最高刑を何とするかという意味で、法体系の根幹をなす
重大な問題です。また、国家は犯罪者の生命を奪うことが許されるかという重い問いを投げかけてもいます。とは言いながら普通の日本人にとっては、臓器移植やいじめなどと比べて、さほど大きな関心を持たれる事柄でないのも事実でしょう。

死刑の是非がさほど関心を集めない理由に、大多数の日本人(統計によると80%以上)が死刑廃止を求めていないということがあるでしょう。死刑の廃止は国論を二分するような問題ではないのです。

さらに、臓器移植などと違って自分自身が死刑の問題に正面から向かい合う可能性はまずないと思われていることもあるでしょう。自分が死刑囚になることは考えられませんし、自分ないし家族が大量殺人に巻き込まれることを心配することもあまりないでしょう。結局、死刑になるのは、どこかのとてつもなく悪いやつで、そいつが殺されようがどうしようか関係ない。どちらかというと殺してしまった方が、世の中の筋道として正しいのではないか、というのが平均的な意見で、それが80%という死刑廃止に反対(つまり死刑賛成)になっているのでしょう。

おまけに、死刑について報道されるのは、池田小の児童殺人事件のような、残酷かつ衝撃的な事件に関連するものがほとんどです。池田小事件と犯人の宅間死刑囚の態様を見ていると、「死刑があってよかった」と思う人が多いのではないでしょうか。他の死刑事案も事件の残酷性を見ると、とても人間的な情けを犯人にかける必要性は感じられなくなります。

小説家の加賀乙彦は精神医学者として死刑囚を長年観察し、その中で強く死刑反対の立場を取るようになります。加賀は死刑囚を知ることで、死刑囚といえども鬼畜ではなく人間であり、死刑に至った事件を起こす過程があること、裁判が十分に理解しなかった人間性の内面があることを見出します。そして、国家が死刑囚という一人の人間の生命を奪うことの残酷さを厳しく指弾しました。

しかし、加賀が死刑囚の中に人間を見い出したのは、視点を加害者の側に持ったからです。視点を被害者の側に移せば、犯人を「憎んでも憎みきれない、殺しても殺しきれない」という被害者、被害者遺族の思いがあります。逆に、まったく犯人に人間性がない、つまり知性、認識能力がなくなったような場合、死刑囚が発狂したり、重篤な病気になったりすると、死刑は執行されなくなってしまいます。犯人に人間性があるからこそ、死刑にする意味があるというのが、死刑の考え方でしょう。

おそらく、「人間を殺す死刑は残酷か」という点から死刑を論ずると、加害者側、被害者側どちらの視点を持つかで意見が正反対になり、収束は難しいでしょう。死刑に関する報道が残虐事件と死刑囚の再審請求くらいに限定されているあいだは、80%という死刑賛成の比率は変わらないはずです。

死刑は冤罪の可能性がある以上よくないという意見もあります。冤罪の可能性はあるかもしれないが、それを恐れて死刑により社会的正義の実行をためらってはいけないという考えもあります。死刑は執行されてしまえば、取り返しようがありませんから、冤罪の確率が高ければ、死刑の執行には一層の慎重が求められるかもしれません。

亀井静香は2001年から死刑廃止議員連盟会長を務めている死刑廃止論者です。亀井は死刑反対の論拠として警察官僚としての経験から冤罪発生が構造的にかなり高いという点を指摘しています。容疑者を弁護士にも会わせず、昼夜を分かたず長期間締め上げるというやりかたでは、冤罪の発生は無視できないようです。

ただし、冤罪の可能性があるような場合、つまり被告が検事調書を翻し、「あれは言わされたことだ、やっていない」と裁判で主張し、その主張に対し支援団体などが形成されると、死刑の判決があっても、死刑は滅多に執行されなくなります。12人を毒殺したとして死刑判決を受けた平沢貞通は1955年の死刑確定の32年後の1987年、95歳で自然死を遂げました。

もちろん、裁判で無罪を主張したからといって自動的に死刑の執行が行われなくなるということありません。一般的には支援団体を形成するためには、無罪主張の蓋然性の高さと、被告の性格や背景が「支援向き」であることが必要でしょう。しかし、性格が悪いと冤罪で死刑になっても構わないというわけにもいかないでしょう。

死刑が存在するのでかえって、死刑に相当する犯罪に対し、裁判官が冤罪を恐れるあまり、有罪とすべきものを無罪としてしまう危険もあります。小野悦男は1974年の女性連続殺人事件の犯人として逮捕、無期懲役(これは容疑事実と比べると軽いと思われた)となるのですが、1991年高裁で冤罪として無罪となります。しかし、釈放後1996年に猟奇的な殺人事件を犯し逮捕されます。最初の事件も冤罪ではなかったと考える人は多く、もちろん支援団体も胡散霧消しました。

冤罪の危険と死刑は、インフルエンザの予防接種と予防接種による発病との関係に似ています。死刑の社会的な価値と、冤罪の危険のバランスがどこにあるかが問題で、一概に冤罪があるから死刑は認められないとも言えませんし、冤罪があっても悪いやつを見逃してしまうよりはずっと良いとも言えないでしょう。ただ、インフルエンザの予防接種と違って、冤罪の発生確率を推定することは困難です。社会的な最適解を求めることは出来ないのです。

1968年から1969年にかけて、4人を射殺した永山則夫は犯行当時少年でしたが、1997年に死刑を執行されました。永山は家庭環境が極めて劣悪でした。刑務所生活で学んだことを通じ、ほとんど覚醒と言ってもよいほどの成長、変化があったのですが、一度は無期懲役に減刑されたものの、1990年最高裁で死刑が確定しました。ただ、永山の場合は容疑自身は否定しておらず、いわゆる冤罪ではありません。鬼畜同然の状態から人間らしく変貌を遂げた場合、鬼畜の時代の犯行で人間を殺害してしまってよいのかというのが問題の本質でしょう。

永山の死刑執行は、少年犯罪に対する社会の目が厳しくなった最近の傾向が反映していると思われます。永山に対する死刑執行後すぐの1999年に起きた光市母子殺害事件は、犯人の少年の「判決はきっと無期で7-8年で釈放される」という意味の手紙が公開されたこともあり、死刑廃止どころか、少年にも場合に応じ死刑判決をためらってはいけない、という流れを作り出しました。

日本はむしろ死刑の厳格運用へと世論が向いているように見える中、世界的な傾向は死刑を廃止する国が増えてきています。2006年現在、死刑廃止の国88に対し存続国が68、さらに死刑執行停止国が30、通常の犯罪には死刑を提供しない国が11となっています。

EUは死刑廃止を加盟国へ義務付けており、EU加盟を求めるトルコも死刑を廃止しました。韓国では自ら死刑判決を受けた金大中大統領が1997年死刑を停止してから死刑執行は行われていません。ヨーロッパで最後に死刑廃止を行ったフランスは1981年、60%以上の世論の反対を押し切る形で死刑を廃止しました。

いまや先進民主主義国家で死刑を存続させているのは日本とアメリカ(50州のうち38州)くらいですが、民主主義国家とは言えないような国でも死刑が廃止されている国は多数あります。国家による暗殺が疑われるロシアは2007年までの期限付きで死刑停止。ポルポト政権下で国民の1割以上が虐殺されたカンボジアは死刑を廃止しています。軍事独裁政権の多い南米でも、死刑は戦時以外には行いません。

このような現状は日本の一般の死刑に対する認識と大きく乖離していると言ってよいでしょう。なぜ、日本以外の国で死刑廃止をしている国が多数存在しているのでしょう。一つには、死刑廃止をしている国の多くはキリスト教国であり、宗教上の背景が考えられます。

また、ヨーロッパではトーマス・モアの16世紀の著作「ユートピア」からの長い歴史があります。もっともヨーロッパでは魔女狩り、革命での死刑など宗教的、政治的理由で非常に多数の死刑が行われ、通常の犯罪よりむしろ多かったということもあるでしょう。戦後急速にヨーロッパで死刑廃止が進んだのも、ナチスの時代の死刑の乱発への抵抗感があったと言われています。

もし、近い将来日本で死刑廃止の論議が高まるとすると、ほとんど唯一の可能性はヨーロッパを中心とする死刑廃止がグローバル・スタンダードになることだと思います。それ以外で、死刑囚の人権や冤罪の可能性から死刑廃止の機運が高まるとは、現状を考えるとありえないでしょう。死刑廃止は日本ではあくまでも少数派なのです。

仮に、国連決議か何かで日本に死刑廃止を求める動きがでてきたらどうなるでしょうか。今でも、ヨーロッパ諸国は死刑執行の可能性のある犯罪人の引渡しは行いません。日本は死刑制度がある限り、国際的な犯罪者への対応ができない場合があるのです。

しかし、死刑を廃止すれば、直接の「受益者」は、およそ同情に値しないような、極悪非道の人間です。それに対し、「被害者」は肉親を殺され、憎しみのやり場を死刑執行に求めている人たちです。少なくとも世論にとって死刑廃止は、鯨やマグロが食べにくくなるのとは、次元の異なる問題です。

ここで私の意見を言っておきましょう。私は、日本も死刑を廃止すべきと考えています。死刑の犯罪の抑制効果は証明されておらず、むしろ疑問です。今の日本のように2人以上殺さなければ死刑にならないのなら、1人は殺すが死刑が怖いので2人目は殺さないというのは、あまりありそうもないからです。

犯罪への抑制効果が小さいとすると、死刑の意味は被害者の肉親、関係者などの加害者への加罰感情と社会正義の実践ということでしょう。この点は死刑を廃止している国でも同じです。死刑を廃止しても社会は機能しうるということを、それらの国は証明しています。

ただ、死刑を廃止したからといって、何か世の中が良くなるというものでもありません。犯罪は増えもしないが、減りもしないのです。まして、本来なら死刑になったはずの犯罪者が無期懲役になり、10年程度で出所するようでは、それこそ社会正義が行われてないことになってしまいます。死刑がなくなるのなら、「無期」懲役ではなく「永久」懲役のような刑罰が必要でしょう。

年の最後に答えのない、あまりめでたくもない話題を書いてしまいました。とってつけたみたいですが、皆さん良いお年を。

その後2007年12月18日国連は死刑廃止に向けての決議案を採択しました
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テーマ:意思決定 - ジャンル:政治・経済

夕張市の破綻は誰のせい?
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夕張映画祭も中止される

このブログは一応筆者がある程度知識があるか、調べて背景情報が把握できるものを書くことにしているのですが、夕張市の破綻のことが気になって、記事を書こうとして正直途方にくれました。基本的な情報があまりに乏しいのです。

良くご存知とは思いますが、夕張市は人口の減少に伴う税収減、観光事業の失敗などのために、財政的に行き詰まり、今年7月に夕張市長は北海道に財政再建団体を申請する方針を表明しました。企業や個人で言えば「破産」の申請を行ったと考えられています。

夕張市は財政規模が年間44億円程度なのに対し、金融機関から292億円、地方債残高187億円、公営企業、第三セクターなどへの債務・損失補償が120億円、合計500億円近くに上っており、要は「とても簡単には返せない」状態ではあるようです。結局、夕張市は特別職給与の大幅減(市長で60%!)、職員の3分の1減、さらに軽自動車税など増税も行い、20年で返済という計画を作りました。

納得できないのは(私だけかもしれませんが)、20年という期間が妥当か、さらにそもそも完済可能かどうかは別として、一応借金は返すという前提になっているということです。少なくとも企業や個人の破産なら借金は財産を処分した分しか返さなくても良いですし、会社更生法の場合も何が何でも最後は全部返せという話にはなりません。

夕張市の場合は、住民へのサービスの大幅な低下を引き起こしても、とにかく返せということになるのは、結局地方自治体に「破産」という概念がないからです。これはある意味当たり前で、企業は破産して再建できないとなれば解散消滅できますが、地方自治体は消滅などできません。

企業の支出は全て利益を生み出すためと考えられますが、市や県そして国は利益を生み出すために存在しているわけではありません。警察、消防、上下水道、道路、学校などは公共の福祉のためにあり、民間運営に任せては、公平な福祉サービスが行えないと想定されるので、強制的に税金を徴収しいても地方自治体(あるいは国が)サービスを提供するものです。

問題は税収などの規模に比較して過大なサービスを行った場合ですが、夕張のように人口が10分の1になれば、職員の首を簡単に切れない以上(それがいかんのだという考えはあるでしょうが)、ある程度は赤字が膨れるのはしょうがないことです。現に夕張市は炭鉱会社の残した住宅、病院などを引き受ける過程で500億円以上を支出したとされています。

夕張市は観光事業に事業性をろくに考えず多額の投資をしており、自己責任という点は追求されるべきでしょうが、自己責任が社会保障に依存せざるえない弱者に向けられ、金融機関に向けられないのはおかしな話です。

金融機関が融資や地方債の引受で「市は倒産しないから」という理由で、事業の採算性も考えず貸出しを行い(その通りでしょうが)、融資をいまだに不良債権にしなくてよいのなら、住民も基本的な福祉サービスが削られるのは理屈に合いません。

仮に住民税をさらに高額にするなどしていけば、少しでも余裕がある人は転居してしまうでしょう。転居しなくても住民票を移すくらいは簡単です。困るのは福祉に頼らざる得ない、あるいはぎりぎりで生活している人たちのはずです。

最初にこの話題に情報がないと書いたのは、一般の企業にはある財務諸表の類がなく、あるのはキャッシュフローにあたる、財政規模の話だけだからです。しかし、本質的に消滅できない地方自治体にバランスシートなどはそれほど重要ではないのかもしれません。もし、夕張市が優良な資産を持っていて、借金を減らすことが出来ても、事業を起こさないのなら、歳入と歳出のバランスしか長い目で見れば意味がないと考えられるからです。

夕張市と債務と日本国の国債残高を比較して、日本国のほうが悪いという人もいます。確かにその通りかもしれませんが、日本国が本当に破産して国債が暴落、ハイパーインフレにでもなれば貸手も無事ではすみません。国債を金融機関が買うというのは(そしてその金融機関に預金という融資を行うのは)貸手としてのリスクをいやおうなく負っているのです。

いずれにせよ、夕張市のようなケースは本来なら破産させて、貸手も責任を負うべきでしょう。少なくとも住民の一方的な犠牲を強いるというのは制度的な欠陥としか言いようがありません。しかし、1990年代のアジアの金融危機や南米、アフリカなどの金融危機では、IMFや先進諸国は、今の日本政府のように「自己責任だから歳出の切りつめで頑張れ、借金は全部返せ」と言っていました。人間は他人には冷たくなれるということは学んだ方が良さそうです。
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IMFと先進国は借金返済を最優先させた

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結合双生児と枯葉剤
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ベトとドクの兄弟は981年にベトナムで生まれた下半身が結合した結合双生児でした。1988年分離手術が行われましたが、ベトは重い脳障害を患って、今でも寝たきりの状態です。しかし、分離後ドクはコンピュータープログラムを学び、職を得ることができました。このドクが今月16日結婚したとのニュースが報じられました。

気になるのは、ベト、ドク兄弟について報じられるとき、ほとんど必ず「ベトナム戦争時に枯葉剤の影響で」結合双生児となったと枕がつくことです。ベト、ドク兄弟はベトナム反戦運動のシンボル的な存在で、1986年にもベトが急性脳炎になって治療のために日本に移送された時も、それら団体の支援がありました。しかし、ベト、ドク兄弟は枯葉剤の犠牲者なのでしょうか。

誤解を生じるといけないので断っておきますが、私は一般的な意味で枯葉剤散布の害を否定しようとしているのではありません。ベトナム戦争時ジャングルに紛れるベトコンや北ベトナム軍に手を焼いたアメリカは、密林の除去と、作物の死滅による兵糧攻めを狙って、7万4千トン以上、一説では100万トン近くの枯葉(除草)剤を、主として空中から散布しました。
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アメリカは大量の枯葉剤を散布した

枯葉剤は様々な種類が使用され、ドラム缶の色にちなんで、ブルー、ピンク、オレンジ、グリーンなどと名づけられました。中でもオレンジとよばれた枯葉剤は、ダイオキシンを含んでいました。ダイオキシンは極めて毒性が強い上に分解しにくく、長く地中に残留します。使用された薬剤の総量は致死量換算で400億人分におよぶとも言われています。

ダイオキシンは分解されないので、食物連鎖を通じ濃縮され、人体に影響を与えます。そのため、一般の成人でも心臓病、神経症、皮膚炎などの症状を引き起こしますが、さらに深刻なのはホルモン分泌系の異常により、DNAの複製、つまり遺伝に悪影響を与える可能性があることです。

正確な統計はないようなのですが、ベトナムでは枯葉剤の影響と思われる、奇形児(良い言葉ではないのですが、一応使っておきます)、死産が多数発生したと推定されます。奇形児の象徴がベト、ドク結合双生児ということなのでしょう。

しかし、少なくとも結合双生児はベトナムだけに生まれているのではありません。人間の場合、10万回の妊娠に1回の割合で結合双生児が発生していると考えられています。日本でも「シャム双生児」という言葉がベト、ドク兄弟の前は結合双生児を表す言葉としてよく使われました。

シャム双生児の呼び方はタイのエン、チャン結合双生児に由来していますが、この双生児は1811年に生まれ、1829年にアメリカに渡り、1834年にアメリカ市民権を獲得しています。2人は1874年まで結合したままで生き延びますが、生まれたときと同様にともに生涯を閉じました。残っている写真から見ても、兄弟は結合双生児にはまれな健康状態を保っていたことがうかがえます。
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シャム双生児は人気者になった

結合双生児の発生の原因はよくわかっていません。受精卵から成体にいたるまでの細胞分裂の過程で、成体を形成するオルガナイザーとよばれる機能が1個ではなく2個生じるためではないかと言われていますが、なぜ2個になるかは不明です。

オルガナイザーを複数発生させて結合双生児をつくことは、マウスでは薬品により再現性のある実験として行われていますが、人間ではもちろん実験などできないので、同様の効果があるかは不明です。

枯葉剤、タバコ、公害などの被害は、ナイフで刺したしたような意味では、障害、死亡との因果関係を証明することは困難です。この困難関係の証明が難しいことを利用して、企業や国家は「因果関係が不明」と言って責任を回避することが多いのは、ご承知の通りです。

ダイオキシンの害は青酸カリのように即死を招くようなこともありますが、致死量でなくても長い期間に蓄積、濃縮されることにより害を与えます。遺伝に対する影響も考えれば、危害は長い因果連鎖をたどっているため、直接的な因果関係の証明を求められてもどうしようもありません。

しかし、石綿と中皮腫のように病気の発生率が著しく通常より高くなった場合は、「疫学的」に因果関係が証明できたと考えるべきでしょうし、実際現在はそのような考えに基づいて訴訟などでの責任追及は行われています。

そのような意味で結合双生児と枯葉剤の因果関係の疫学的証明は少なくとも十分には行われていないと考えられます。ただ、ここで問題にしたいのは枯葉剤の恐ろしさを、結合双生児を見たときに普通の人が感じる「怪物!」という意識を反戦、平和運動に利用してしまっていることです。

最初に書いたように、枯葉剤が遺伝的な害も含め、長期的にベトナムに大きな害悪を与え続けていることは間違いありません。同じように劣化ウラン弾、クラスター爆弾、地雷などの長期的害悪は厳しく指弾されるべきです。本来なら戦争犯罪として裁かれるべきものが放置されているのです。

しかし、ベト、ドク結合双生児を何の証拠もないのに「枯葉剤の影響」と思い込み、断じ続けるのは止めるべきだと思います。それは結合双生児や種々の「奇形」を怪物として恐れ、同時に「怖いもの見たさ」の覗き趣味で見ているのを、反戦、平和でごまかしていると言うと言い過ぎでしょうか。

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日の丸コンピューターを再評価する: あとがき
日の丸


一応ブログなのですが、思いつくまま評論の真似事を書き連ねてきました。「ビジネスのための雑学」に全然なってねぇじゃないか、という突っ込みには素直にお詫びしますが、ブログだからまぁいいじゃん、ということでお許しいただければ幸いです。

とはいっても、簡単に「日の丸コンピューターを再評価する」つもりで、いつもの調子で書き始めたら、新書版半分程度の分量を書いてしまいました。もし、ずっとお読みくださった方がいらっしゃったら、忍耐力に敬意とお礼を申し上げたいと思います。

当初の「再評価」は最後の項に一応書きましたが、「日の丸コンピューター」という表現が、そもそも70年代、80年代的で今ではそんなことはどうでも良いのかもしれません。少年の風貌だったビル・ゲイツもすっかり貫禄のある中年親父になってしまって、コンピューターが先端技術、先端産業とは思われなくなった時代には、そぐわないテーマだったのかもしれません。

しかし、サービス化とはいっても、IT産業というと3K職場(これも古いのかな)として、新卒の学生さんたちが敬遠するようになってしまったのは、やや残念です。インドではITは若者に明るい未来を約束するものなのに、日本では出来の悪い学生で体育会系なら営業マン、オタク系ならIT技術者が、誰でも一応採用してもらえる職種として残っている。こんな現状はIT産業の自業自得とはいえ、憂慮すべき状態でしょう。

どうしてそうなってしまったか。IBMを軸に始まった日本のITベンダーの動きと、政府主導のプロジェクトについて色々書いてきましたが、問題の根幹は日本という国の社会構造や文化そのものにあるように思えてきました。長々書き連ねて、自分なりに得た結論です。皆さんはどうお考えでしょうか。

日の丸コンピューターを再評価する(7)
日の丸コンピューターを再評価する(6)
日の丸コンピューターを再評価する(5)
日の丸コンピューターを再評価する(4)
日の丸コンピューターを再評価する(3)
日の丸コンピューターを再評価する(2)
日の丸コンピューターを再評価する(1)

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日の丸コンピューターを再評価する (7)
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電電公社は日本のコンピューター産業育成に貢献した

日の丸コンピューター、つまり日本のIT産業の力は世界での位置はどの辺になるのでしょうか。1970年代後半から1980年代にかけて、メインフレーム中心の世界では、すくなくともハードウェアはトップランナーのグループでした。というより、大型のメインフレームを作っていたメーカーはIBM以外では実質的に世界でも日本のメーカーに限定されていました。

日本メーカーのハードウェアの強さの源泉は、ベースになる電子産業の力と有形無形の政府の支援、そして現在のNTT、当時の電電公社の研究開発能力でした。電電公社はDIPSという独自のメインフレームを開発し富士通、日立、NECに製造させていました。DIPSはハードウェア的には各社のメインフレームの製品系列と共通の設計に基づいており、国産メインフレームメーカーは電電公社の技術力を活用することができました。

電電公社の開発技術と国産メーカーの生産技術が互いに補完するというのは、電話交換機の製造で確立されたいわゆる「電電ファミリー」の構造を踏襲するものでした。メインフレーム全盛の頃は、先端技術を少量生産で実現するという交換機の開発手段とコンピューターメーカーの技術的方向性とはうまく適合して、日本メーカーはIBMを凌駕するような製品を生み出すことができました。

ところが、ダウンサイジングの時代に入り、コンピューターの心臓部がマイクロプロセッサーという大量生産の製品になると、従来のスキームはうまく働かなくなってきました。さらに電電公社が民営化されNTTとなって、メーカーの開発を肩代わりするようなことは次第に難しくなってきました。日本のコンピューターメーカーは強みの大きな部分を失ってしまったのです。

もともと日本政府のコンピューター政策は基本的にメーカーへの資金提供を行うことでした。1970年代前半のIBMシステム370対抗機の開発では、富士通、日立、NECを中心にした3グループに資金が直接提供されました。

IBMのFS対抗機開発のための超LSI研究協同組合、第5世代コンピュータプロジェクトでは、各メーカーに直接資金提供を行うことはなかったものの、共同研究グループに出向した研究者の費用、研究成果の利用などを通じ、主要コンピューターメーカーへの支援が実質的に行われました。

IBMのコンピューターというはっきりとした目標があったときは、資金は一番貴重で有効な資源でした。どのような機能のコンピューターをどのくらいの性能と価格で開発すればよいか、全ては明確でした。資金さえあれば開発は可能でした。

1970年代後半のFS対抗機開発から次第に日本政府の支援策は焦点を失っていきます。 IBMがFSをシステム370後継機としては放棄してしまったために、支援策はLSI(高密度IC)の開発、それもメモリーチップという、微細加工技術の改良に集中するという本質とははずれた方向に向かっていきます。
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第5世代コンピューターの成果(?)PIM機

さらに1980年代にはいって立ち上げられた第5世代コンピューター研究プロジェクトは、人工知能の実現という現在でもはるかな夢にしか過ぎない目標を掲げました。資金を投入すれば何とかなるという代物では全くなく、出来上がったものはただのガラクタでした。

明確な目標がない資金投入型の国策プロジェクトはうまくいかないということの学習は十分なされたはずなのに、通産省は1980年代後半には「ソフトウェア技術者の不足を解決する生産性の向上」を目的にΣプロジェクトを立ち上げ、250億円あまりを費やします。

Σプロジェクトはソフトウェアの生産性の向上を目標としながら、なぜかΣOS、Σコンピューターのようなものを作ろうとし、UNIXベースのツールをこまごま作った挙句、90年代のUNIXの国際標準化の流れに埋もれて消え去っていきます。

日本の戦後の産業政策の基本は民間企業が外国企業の研究をし、外国企業に追いつき追い越すための資金を国が提供するというものです。外国企業が明確で具体的な目標を設定している場合、このような政策は機能しますが、本当に先端的な研究プロジェクトにはこの手法は使えません。

コンピューターの世界を支配しているのは「収益逓増」モデルです。製品の価値や競争力はシェアの拡大とともに加速度的に増大し、実質的標準を確立した1社だけが覇権を獲得し、大きな利益を得ます。どの製品が勝ち残るかは、性能だけでなく偶然や運が作用し、予測は困難です。このような場合、沢山のビジネスモデルを試行するシリコンバレー型のやり方の方が、決め打ちで一点突破を図るナショナルプロジェクトよりはるかに適しています。

日本では国家プロジェクトとして2007年から2010年にかけてGoogle対抗のサーチエンジンを開発するプロジェクトを立ち上げますが、恐らく失敗するでしょう。Googleが強いからというわけではありません。Googleが創られたとき、Yahooで検索エンジンはお終いだと多くの人は思っていましたが、Googleはサイト間のリンク数を調べるというやり方で検索エンジンの新しい可能性を実現しました。同じように、アイデアと技術があれば、Googleの覇権を覆すことは可能でしょう。

問題は、出発点になるアイデア、理論をプロジェクトの中で見つけようとしていることです。GoogleがアイデアでYahooを出し抜いたように、何か具体的なアイデアと実現技術はあるのでしょうか。

実はITの世界でアイデア自身はそれほど創り出すのは難しくありません。考え出されたものを実際に作成するのも仕様が明確ならむずかしくありません。問題は無数のアイデアから技術的可能性、市場の要求、将来の拡張性などのバランスをとるアーキテクチャーの設計ができるかどうかです。未来を見据えて、現実的なアーキテクチャーを設計できる人材がなければ、アイデアもただの絵に描いた餅に過ぎません。

アメリカ計算機学会(ACM)は毎年4月に10万ドルの賞金とともに、コンピューター科学に貢献のあった人に賞を与えます。コンピューターのノーベル賞と言われるチューリング賞です。
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「インターネットの父」と呼ばれるサーフは2004年度のチューリング賞受賞者

チューリング賞の受賞者には、UNIXを作ったケン・トンプソン、RDBを考え出したエドガー・コッド、インターネットの基礎技術であるTCP/IPを設計したヴィントン・サーフなど、ITの発展に重要な足跡を残した人々の名前が並んでいます。しかし1966年のチューリング賞の発足以来、日本人の受賞者は一人もいません。

もちろん、チューリング賞もITの発展に功績のあった人をもれなく表彰しているわけではありません。たとえば、PCについてはアップルのスティーブ・ジョブズをはじめ、Windows、ペンティアムなどもっとも重要な製品の発明者は受賞していません。

とは言っても日本がITの発展に基本的な部分での貢献度が低いという事実は認めざる得ないでしょう。収益逓増モデルが支配するコンピューター産業では、いったん確立された覇権を持つ企業や技術に打ち勝つには革新性が必要です。チューリング賞を絶対視する必要はありませんが、後追いではリーダーシップを獲得するのは困難です。

日本のIT産業の基本的な問題として、依然として統合型企業である富士通、日立、NEを主導としてIT産業が築き上げられているということがあります。これは自社の独自規格で完結したシステム、ソリュージョンを作る傾向が強いということです。しかし、グローバル企業を目指すなら統合型企業ではなく、水平分業のもとで競争力のある分野を確立しなければなりません。

長く続いた政府の支援は、世界的基準で見れば捨て去るべき分野や企業を温存させ、なおかつ独自規格を残した結果、特にソフトウェアのグローバルな展開を難しくしてしまったといえます。ドイツはOSでは強力なメーカーはありませんが、どのOSでも稼動するERP(統合業務パッケージ)を開発したSAPはこの分野ではトップベンダーです。
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ドイツのSAPはERPでリーダーになった(写真はSAP本社)

サービスの分野でも、日本は問題を抱えています。主要ITベンダーを頂点とした下請けの階層構造に業界が組織立てられていて、グローバルに通用する独自の技術力を持った企業が育っていないのです。サービスビジネスのグローバルな展開という意味では、今やインドが日本のはるか先を走っています。

全体としてみると日本のIT業界はマイクロプロセッサーやOSのレベルだけでなく、業務ソフト、サービス、どの分野をとっても世界に通用するものはほとんどありません。もちろん電子部品のレベルでは、日本の製造業は強力ですが、統合メーカーとしてのコンピューター企業は携帯電話同様、日本という狭いローカル市場に閉じこもったニッチプレーヤーです。

現状を打開するために、簡単な方法はありません。まずすべきは、独自規格の生き残りを許す政府の支援策をとりやめることです。次にSAPがERPで成功したように、様々な分野に挑戦する企業を増やすような、環境を整えることです。日本独自の規格に政府が固執することは、そのような企業の可能性をむしろ狭めるほうに作用してしまいます。

教育も問題かもしれません。旧七帝大のうち6つに農学部があるのに、情報学部が一つもないというのはいかがなものでしょうか。 産業界がコンピューター科学の修得者を特に必要としていないという現状も健全とはいえません。誰がIT産業を3K職場にしてしまったか反省すべきでしょう。

日の丸コンピューターは事実上もはや存在しません。あったとしても、世界的水準で考えれば二流でしかありません。 そして、グローバル化したIT産業では二流は極論すれば存在意義がないのです。

しかし、日本には経済大国として分厚い顧客層と高いIT技術への強い需要があります。「今が最後のチャンス」などと言って、またも税金をIT産業振興に注ぎ込むより、長い目で見た投資環境、教育などの社会的インフラの強化努めるべきでしょう。創造力とチャレンジ精神に、IT産業は無限の可能性を開いているのです(あとがき)。

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日の丸コンピューターを再評価する (6)
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ルイ・ガースナー

1993年、このままでは倒産しかないという事態になって、IBMは初めて生え抜きでないCEOを迎えることにしました。RJPナビスコのCEOだったルイ・ガースナーです。

ガースナーの着任の前のIBMは混迷を極めていました。1991年に初めて伝統を破って行われた首切りは、毎年規模を拡大しながら続けられ40万人の社員数は30万人まで減少していましたが、赤字がとどまる様子はありませんでした。統合された企業としてのIBMの存続は不可能ではないか。誰もがそう思い始めました。

RJPナビスコのCEOの前はアメックスのCOO、その前はコンサルタント会社のマッキンゼで会社始まって以来のスピード出世でパートナーに上り詰めていた、ガースナーは、アメリカのプロの経営者の多くがそうであるように、リストラと同時に会社の切り売りを行うに違いない。しかし、予想は当たりませんでした。

ガースナーはベテランのコンサルタントらしく、社員と顧客への徹底的なインタビューを行います。顧客はバラバラになったIBMは望んではおらず、統合されたソリュージョンを提供する企業でいて欲しいと思っている。ガースナーはそう結論付けました。

顧客が望んでいる統合されたソリュージョンを提供するにはどうすればよいか。ガースナーは製品中心だったIBMの事業体系を、サービス主体へと転換します。ここでIT業界のサービスという言葉の定義を少し説明しておきます。

サービスは通常の製品では「保守」と同義語です。顧客に設置された製品が所定の性能を発揮できるように維持することがサービスです。コンピューターももちろん保守という意味のサービス(service)がありますが、ソリュージョンを提供する、つまり顧客の問題解決を行うために必要な作業を提供するという意味のサービスがあります。こちらのサービスは英語ではservicesと複数形になります。

サービス(services)にはシステム開発、コンサルティング、システム運用のアウトソーシングなど様々な形態が含まれます。実はIT業界ではハードウェアやソフトウェアという製品よりサービスビジネスの方がはるかに大きく、IBMのサービスへのシフトはある意味当然のことでした。

とは言っても製品と違ってサービスは人間自身を商品として提供するものです。IBMは従来から顧客のシステム開発の構築や、業務分析などのサービスを行ってきましたが、それを一層徹底する必要がありました。ガースナーは30万人にまで減った従業員をさらに25万人まで減らしますが、実際には15万がIBMを去り、10万人が新たに採用されました。IBMは外も内も別の会社へと変身を始めました。
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IBMインドは今やサービスの一大拠点(写真はバンガロールのIBMビル)

IBMに新たに加わった社員のうち、もっとも大きな部分を占めていたのは顧客の社員でした。IBMは顧客のIT部門の運用を引き受けるアウトソーシングを積極的に推進し、顧客のIT部門を社員とともに買い取り、ITシステムの運用の長期契約を次々に結んでいきました。

アウトソーシングは今では日本でも数多く実施されていますが、日本と日本以外の国では大きな違いがありました。日本では通常アウトソーシングのための新会社を、顧客とアウトソーシング会社が合弁で作ることが多いのに対し、他の国では顧客の社員はアウトソーシング会社に移籍するのが普通です。社員の帰属意識という意味では、日本のアウトソーシングは中途半端でした。

顧客との合弁を主体とする日本独特のアウトソーシングは、日本IBMを含めた日本の主要ITベンダーの基本的な戦略でした。これは日本の企業風土の中では必要なことで、これ自身は良い悪いの問題ではないでしょう。しかし、日本でのアウトソーシングが、独立した事業と言うより、顧客との関係を長期的に維持するという営業政策の一環としての色彩が強かったのは確かです。サービスそのものを中心に会社を再編するという点ではIBMは日本のITベンダーよりはるかに徹底していたのです。

IBMのサービスビジネスへの徹底はアウトソーシングだけでなく全ての分野で行われました。コンサルティング事業の強化では、トップコンサルタントに市場価格に見合った給与を支払うため従来の職階の概念も大幅に変更されました。本来、日本企業に近い人事、給与体系を持っていたIBMにとって、顧客社員を受け入れるアウトソーシングや高給のコンサルタントの雇用を可能にするためには、人事システムの柔軟性と多様化はサービス化の推進にとって必須のものだったのです。

富士通、日立、NECなどの日本のITベンダーにとって、サービスを製品販売の付属物として位置づける戦略を根本的に変更することは、非常に困難を伴いました。特に人事システムの変革は難しく、コンサルティング事業などはNECのアビームのように別個の子会社として持つという妥協策にとどまりました。

システム開発も、顧客任せにせず自ら汗をかくという伝統が逆に災いして、大規模システム開発を独立した事業として展開する力の育成は遅れてしまいました。日本市場では大規模システムの開発力はNTTデータと日本IBMに集中し、富士通、日立、NECは後塵を拝することになってしまいました。

サービス化へのシフトが進む中、IBMは製品戦略の大幅な変更を開始しました。まず、当然のこととは言え、インテル、マイクロソフトと正面きって戦う戦略は放棄されました。Windowsに対抗しようとしていたOS/2の開発は凍結され、Pentium(インテルのPC用マイクロプロセッサー)に対抗しようとしていたPowerPC搭載のPC開発は中止となりました。

IBMは依然としてメインフレームではナンバーワン企業でしたが、次第にナンバーワンからオンリーワンになりつつありました。メインフレームはコンピューターの王者から特殊なニッチマーケットになったのです。IBMのUNIXであるAIXはUNIX市場で一定の競争力はありましたが、マイクロソフトのWindows/NTに押され将来性は決して明るくはありませんでした。OSの覇権は完全にマイクロソフトに移りました。

皮肉なことにメインフレーム時代の終焉は、富士通、IBMのメインフレームOSの著作権紛争が解決して相前後して起こりました。メインフレームの覇者IBMが「製品を売るためのサービス」から「サービス中心のビジネスモデル」に急速に転換したのに対し、日本のITベンダーの変化ははるかに緩やかでした。本来ならば多様な組織形態や人材構成に対応して行うべき人事制度改革も、富士通の「リストラのための成果主義導入」のようなその場しのぎのものに過ぎませんでした。

メインフレームの時代は統合型の企業が有利な時代でした。欧米ではIBMだけが半導体からサービスにいたる、IT関連の全てのビジネスを垂直統合する企業でしたが、日本では富士通、日立、NECはみなIBM以上に幅広い製品系列を持つ統合型の企業でした。メインフレームメーカーは日本以外はIBMを除く全ての企業が敗れ去ったのに、日本で3つのメインフレームメーカーが生き残ったのは、政府の支援と垂直統合された企業の強みが組み合わさった結果です。

しかし、ダウンサイジングとオープンはIT産業を完全な水平分業型のモデルに転換してしまいました。またIBMがサービスにビジネスの主体を移したことで、サービスの重要性は一層大きくなりました。

サービスは製品のような「収益逓増」のモデルは存在しません。市場占有率の高さがそれ自身製品の価値を高めることはないのです。それどころか人件費が大半を占めるサービスでは規模の利益も製品のようには働きません。企業の強みは個人の能力の中に蓄積され、しかも特許のように防衛する有効な方法もありません。

現在IT業界で「収益逓増」モデルを享受しているのは、実質的にマイクロソフトとインテルだけです。インテルはAMDが互換チップを出しており、一方的な優位を持っているとはいえず、マイクロソフトが収益逓増モデルの最大の受益であることは間違いありません。

IBMは世界一のサービスメーカーですが、それは「覇権」とは程遠いものです。IBMは今Linuxの普及に多大の資源を投入していますが、それは誰も所有権を持たない「オープン」ソフトのLinuxにより中長期的にマイクロソフトの覇権を脅かそうとしていると思われます。

IBMはまた、一度はPCでインテルに挑戦しようとしたPowerPCチップをPS3、Xbox、ゲームキューブ以降の任天堂ゲーム機全てに搭載しています。全てがコンピューター化される「ユビキタス」の世界で再びインテルの覇権に挑戦しようとしているのは間違いありません。IBMは失った製品での覇権をあきらめてはいないのです。(http://realwave.blog70.fc2.com/blog-entry-78.htmlこの項続く)

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PowerPCはユビキタスを目指す

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日の丸コンピューターを再評価する (5)
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ゴードン・ムーア

IBMの覇権のもと、メインフレームがコンピューターそのものだった時代が長く続く間、時限爆弾が静かに時を刻んでいました。圧倒的な市場支配力を背景に、IBMはメインフレームの処理能力と価格性能比を年率15%づつ向上させる戦略をとっていました。15%の改善率を維持すると5年でコンピューターの価格性能比は2倍になります。

ところが、コンピューターの性能を決定付ける半導体ははるかに速い速度で性能を向上させます。半導体業界にはインテルの創業者の一人のゴードン・ムーアが提唱したムーアの法則というものがあり、半導体の密度は18-24ヶ月で2倍になります。半導体の密度の向上はほぼ処理能力の向上につながります。ムーアの法則は半導体の能力と価格性能比は24ヶ月つまり2年で倍になると読み替えることができます。

メインフレームの価格性能比は5年で2倍しか向上しないのに、処理能力を決定付ける半導体の価格性能比は2年で2倍になる。この傾向が20年続くと、メインフレームの価格性能比が16倍になる間に、半導体の価格性能比は1,000倍以上になります。本当はコンピューターはずっと安くなるはずなのに、そうならないのはIBMとメインフレームの支配力が絶対的だったからです。しかし、大きなギャップはビジネスチャンスにすることができるはずです。
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IBMはPCの開発を外部に依存した(写真は最初に発表されたIBM PC)

メインフレームではないコンピューターの挑戦はIBM自身から始まりました。IBMは1981年、それまでおもちゃと馬鹿にしていたPCをIBM PCとして発表します。IBM PCが発表される前にアップルはApple IIでマニア向けでない「製品」としてのPCで成功を収めていました。しかし、IBM PCの発表によって、ビジネスでもPCを使うという動きは大きく加速化されることになります。

IBMはPCを短期で開発するため、OSやマイクロプロセッサーなど多くの基幹部品を外部調達しました。OSはマイクロソフト製のPC DOS、CP/Mなどの選択肢があり、マイクロプロセッサーはインテルの8088が使われました。

もう一つの流れはオープンです。AT&Tで開発されたUNIXは、ほとんどのOSが特定のメーカーのハードウェア上でしか稼動しなかったに対し、移植性にすぐれていて、様々な機種の上で稼動することができました。UNIXはメーカーに依存しない「オープン」なOSだったのです。

UNIXは移植の容易性やソースコードが公開されていたこともあって、多くのバージョンができ混乱も起きますが、ハードウェアさえ作ればOSはUNIXが使えることで、従来は大企業に限定されていた、コンピューターメーカーへの道をベンチャー企業に開きました。
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UNIXワークステーションは急速に普及した

ベンチャー企業の多くはUNIXでワークステーションという、強力な対話型のパーソナル・ユースのコンピューターを動かしました。ワークステーションの価格性能比は、限定された用途では従来のどのコンピューターも圧倒しました。ワークステーションは技術者や研究者さらにデリバティブで複雑な計算を必要とするトレーダーのように、それまでコンピューターの恩恵を十分に受けられなかった、専門職のビジネスマンに急速に普及しました。

重要だったのはUNIXが通信方式にインターネットの中核技術であるTCP/IPを取り入れたことです。大学や研究所に多数設置されたUNIXコンピューターはインターネットを通じて、一体化され始めました。コンピューター産業誕生以来の大革命の準備は整いつつありました。

IBMをはじめ既存のコンピューターメーカーは、UNIXやPCは信頼性が低く管理不能で,まともなビジネスで使える代物ではないと考えていました。IBMはPCをメインフレームを補完する「高機能な端末」と位置づけようとしました。メインフレームにより統合され管理されたコンピューターシステムこそ「正しい」システムだと考えたのです。

IBMも富士通、日立、NECなどの日本のメインフレームメーカーさらにDEC、タンデムなど従来型のコンピューターメーカーは変化する時代を十分に認識できていませんでした。技術が理解できなかったわけではありません。顧客を理解することができなかったのです。
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既存のコンピューターメーカーは「イノベーションのジレンマ」に囚われていた(写真はクレイトン・クリステンセン)

ハーバード・ビジネス・スクールのクレイトン・クリステンセン教授は、技術が進歩を続け、ほとんどのユーザーには過剰性能となっても、企業が最先端の最優良顧客の声に耳を傾ける結果、かえって一般ユーザのニーズから乖離した製品を出し続けてしまうことを「イノベーションのジレンマ」と言っています。また、クリステンセンは技術の進歩を安価な製品を開発することに使って、それまで需要がないと考えられていた顧客層を創造することができることも指摘しています。

クリステンセンは、このような「イノベーションのジレンマ」をHDD(ハードディスク装置)の製品の世代交代とリーディング企業の交代が同時に起きる事実をもとに、見つけ出したのですが、UNIXやPCに対するコンピューターメーカーの姿勢は「イノベーションのジレンマ」そのものでした。技術の進歩が全く新しい市場を作ろうとしていることが、既存のコンピューターメーカーには見えなかったのです。

UNIXはハードウェアに依存しないで稼動しました。TCP/IPは一つのメーカーに統一しなくてもネットワークを構築することを可能にしました。ユーザーはメーカーによって囲い込まれるのではなく、ニーズに沿った製品を組み合わせることが可能になってきました。違ったメーカーの製品を組み合わせることは困難も伴いましたが、大きなメリットがありました。ハードウェアもソフトウェアも価格が桁違いに安くなったのです。ムーアの法則を押さえ込んでいた、メインフレームや既存のコンピューターメーカーの築いた堤防は音を立てて崩れ始めました。

IBM PCもIBMの意図とは違った方向に進み始めました。1984年にIBMが発売したIBM PC/ATはシステム360同様に各部分の接続方式が明快に定義され、それまで以上に色々な機器や部品を組み合わせることが簡単になりました。システム360や370と違っていたのは、PC本体すら部品の組み合わせで作ることが可能だったことです。

システム370の場合、日立や富士通は「互換機」を開発しましたが、中身の回路や設計はそれぞれ独自のものでした。開発は莫大な費用がかかり、大企業でなければシステム370互換機の開発は不可能です。しかし、IBM PC/ATは違います。もっとも重要なマイクロプロセッサーはインテル製で、大部分の部品は市場から調達できます。PCの組み立ては個人でさえ可能になったのです。

IBMはIBM PC/AT互換機がコンパックをはじめ、ほとんど無数と言ってもよい企業により作られ始めたことに危機感を持ちます。しかし、IBMのPC事業は創設時のベンチャーの気風は失われていました。IBM PCは「5年ごとに新製品を出す」というメインフレームのスピード感に支配され、次第に競争力を失っていきます。インテルの最新鋭のチップ搭載のPCは常にコンパックから発売され、IBM PCに組み込まれるのはずっと後になってしまったのです。

IBMが起死回生の策として打ち出したのはPS2と名づけた新世代のPCでした。PS2はIBMの独自規格で身を固め、OSもMSDOSではなくOS/2と呼ばれた高機能なOSでした。OS/2はマイクロソフトとIBMの共同開発でしたが、二つの全く異なる企業文化が衝突し、OS/2の開発は予定を大幅に遅れます。
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ビル・ゲイツはIBMと決別した

OS/2の開発はIBMとマイクロソフトの関係、正確に言うとマイクロソフトのIBMの下請けという立場に終止符を打ちます。ビル・ゲイツは悩みながらもIBMから完全に離れ、OS/2と真っ向から衝突するWindows/NTの開発へと進んでいきます。

時代はIBMのような統合型のコンピューター企業が支配から、多数の企業が対等な立場で製品を供給する水平分業の世界に急速に変わりつつありました。顧客である企業の内部も大きく変わっていきます。 情報システム構築の中枢であったIT部門とCIOは権力と予算をユーザー部門に奪われ、ユーザー部門は独自のシステムを持つようになります。

ユーザー部門のシステムはUNIXやPCで構成された、オープン技術をベースにしたものが主流でした。ユーザー部門のシステムでは、それまで開発案件の滞貨の山に埋もれていたものや、全く新しいものまで様々でした。メインフレームからより価格性能比の高い、小型のシステムに移行する「ダウンサイジング」が始まったのです。そして企業で唯一のシステムという座から滑り落ちたメインフレームは、 過去の遺物という意味の「レガシー」と呼ばれるようになりました。

IBMにとって事態は深刻でした。IBMと二人三脚で企業のコンピューター化を推進してきたIT部門とCIOが力を失ってしまったのです。IBMの営業はIT部門とは密接な関係を保っていましたが、ユーザー部門はむしろメインフレームベースの既存のシステムとIBMに反感すら持っていました。80年代の終わりになるとIBMの業績は明らかに低下を始めます。
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IBMは史上初めて首切りを始めた

1991年、IBMは歴史上初めての赤字を経験し、頑なに回避してきた従業員の首切りを実行します。しかし、業績の低下に歯止めはかからず、IBMはほとんど倒産一歩手前までの状態になります。40万人にいた従業員は3年で30万人までに減少しましたが、収入と支出のバランスは回復しませんでした。ビジネスには使えないと思ったオープンシステムとPCにIBMは命脈を絶たれようとしていたのです。

IBMが危機に陥り大リストラに着手し始めた頃、日本の状況はどうだったのでしょうか。日本でもオープンシステム、ダウンサイジングはブームになりましたが、アメリカほど徹底したものではありませんでした。富士通も日立もNECもバブル経済の続きで、業績は好調でした。日本IBMすら本国とは異なり利益を出し続けていました。

理由は色々考えられますが、一番大きな要因はアメリカ(および日本以外)と比べると、日本は国内メーカーがユーザーにより深く食い込み、自社システムの中に閉じ込めておくことが可能だったことでしょう。また、タイプライターが普及していたアメリカでは、エンドユーザー・コンピューティングが早く成長できる土壌があったこともあるでしょう。

しかし、理由はともあれコンピューターの分野ではアメリカで起きたことは、遅かれ早かれ日本でも起きることが多いのは事実です。IBMがもはや覇権を失い、年率15%づつの価格性能比の改善という「価格の傘」はなくなってしまいました。IBMに替わって覇者になった、マイクロソフト、インテルは統合システムのメーカーではなく、言ってみれば部品メーカーです。いまや、IBMのようなコンピューター産業全体の覇者は存在せず、水平分業を行う多くの企業がコンピューター産業を動かすようになったのです。

IBMの「価格の傘」がなくなって、消滅したものがあります。 IBMメインフレーム互換機のビジネスです。IBMが急速にメインフレームのハードウェアの価格を低下させたことで、IBM純正機と比べすぐれた価格性能比を強みにしていたIBMメインフレームの互換機ビジネスは意味を失っていきます。

互換機ビジネスの喪失は日本メーカーの国内のビジネスにも影響を与えました。海外での販売も含めて生産量を確保していた、富士通、日立のメインフレーム事業は縮小を余儀なくされたのです。メインフレームを核にした統合システムの提供というモデルがなくなるとしたら、どうすればよいのでしょうか。製品からサービスへ、IBMは必死で変身をしようとしていました。(http://realwave.blog70.fc2.com/blog-entry-77.htmlこの項続く)

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日の丸コンピューターを再評価する (4)
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富士通はIBMに対し強硬路線を取ろうとした

日立とIBMの間で起きた「IBM産業スパイ事件」が刑事の司法取引、民事の和解という形で落ち着こうとしていた1983年になって、事件とは無関係だったはずの富士通がIBMとソフトの使用に関する秘密協定を結んだとのニュースが飛び込んできました。

IBMは互換OSを開発、販売していた富士通、日立がIBMのOSをコピーしているのではないかという疑いをずっと持っていましたが、IBMと違って富士通も日立もユーザーにOSのソースコードを提供しておらず、確たる証拠をつかむことは難しい状態でした。

話は1977年にもどりますが、アムダールや日立のIBM互換機が売上げを伸ばす中、IBMはそれまで無料で提供していたOSの有料化を始めます。ハードウェアから見ればわずかな金額でしたが、互換機で稼動するIBMのソフトウェアの対価を得ることにしたのです。

OSが無料では、たとえコピーがあっても対価の請求は難しいが、有償のソフトウェアのコピーがあれば請求できる。IBMは富士通のOSがIBMのOSと同一のバグ(ソフトウェアの障害)を起こすなど、証拠を積み上げて1982年10月にソフトウェアの無断使用に関する交渉を富士通に申し込みます。IBM産業スパイ事件の発生から4ヶ月がたっていました。

1983年7月にIBMと富士通は秘密協定を結びました。協定では富士通は有償でIBMのOSと互換性を保つための外部インターフェースを使用できることなりました。互換OSの存在自身は認められたのです。しかし、内部コードのコピーは許されません。IBMは富士通のOSのソースコードをチェックする権利を得ます。続いて日立も同様の協定を結びました。

協定は結びましたが富士通は基本的にはIBMに対し強気の立場を保ちます。これに対し日立は事件の影響もあり、ずっと低姿勢でした。1983年12月になり、日立は国内の日立製IBM互換OS (VOS3/SP)の顧客の一部に自社ソフトを回収、交換した上、IBMの有償ソフトウェアの使用契約を結ぶよう依頼します。事実上、公にIBM OSのコピーを認めたのです。

ここで当時のソフトウェアの著作権についての当時の認識を、説明しておきます。現在ではソフトウェア製作者の権利を著作権で保護するというのは当然の考え方ですが、富士通とIBM]がOSのコピーについて交渉を始めたころは、そもそもソフトウェアを著作権で保護するのが適当かどうか、日本では議論がありました。
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IBMは当初はOSを無償で提供した(写真は最初に有償OSを導入したIBM3033機)

またIBM自身、システム360、370上で稼動するIBMのOSは1977年まで原則無料にしていましたし、ソースコードはユーザーの求めに応じ提供していました。IBMはOSを「パブリック・ドメイン」としてO一種の公共財的に位置づけ、先進的なユーザーが必要に応じて改変することを認めていたのです。

製品を分析し同等製品を開発することを「リバース・エンジニアリング」といって、製造業ではごく当たり前のことです。そのような環境で富士通や日立がIBMのOSのソースコードを入手し、内容を分析し自分たちのOSを開発するのは、常識的には違法行為とは認識されていませんでした。

しかし、ソフトウェアはハードウェアや一般の工業製品と違って、コピーすることにより開発費用を劇的に削減することができます。現在の常識ではたとえ無償提供されてもソフトウェアの著作権は認めれますが、IBMはパブリックドメインだった無償版のOSのコピーへの請求をあきらめても、有償版のソフトウェアは不当なコピーは許さないという姿勢を取ることにしたのです。

IBMとの協定では富士通や日立のソフトウェアの検査をIBMは行うことができました。IBMが昔から計算センターを置いていた、日本橋の古ぼけたビルに、IBMは富士通、日立のソフトウェアの検査とハードウェアの評価を行う施設を作ります。IBMは初めて、富士通、日立のコンピューターを自社内に設置したのです。

TSEL(Tokyo Systems Evaluation Laboratory)と名づけられた、その施設は組織図上は日本IBMの配下にありましたが、実質上完全にIBM本社の管轄化にありました。IBMの開発部門からは一線の開発者が次々に来日し、富士通のソフトウェアの分析を開始したのです。

富士通のソフトウェアの分析を行うことは、相応の犠牲が伴いました。ソフトウェアの著作権の考え方では、ソースコードにアクセスした人間は、同種の製品の開発はすぐには行えません。IBMと富士通は1年間の期限を設定し、ソースコードを見た開発者がすぐには開発に戻れないというルールを設定しました。最優秀の開発者が分析に従事した後、さらに1年戦力にならなくなるのです。

TSELでは主に1983年の協定違反のチェックを行うことが目的でしたが、同時に富士通、日立の製品のリバース・エンジニアリングにより、IBMより進んだ技術を学ぶという側面がありました。ハードウェアについては、コンパクトな設計、クリーンな組み立てなど、日本製品の優秀性が改めて認識されました。

ソフト面でも学ぶべき点はありました。当時IBMも日本のメーカーもシステムの漢字化を行う製品を出していました。しかし、IBMの漢字関連製品はひどく使いにくい上に、製品化の速度が遅く、漢字で大きく遅れをとっていたのです。

富士通の製品を分析すると、富士通は漢字化を製品の内部構造に組み込まず、コンパイラー(プログラム言語をコンピューターで実行できる機械語に変換するソフトウェア)の前処理で主に行っていることがわかりました。コロンブスの卵的な発見でしたが、同様のことを行うことにより、IBMの漢字化は一挙に進展することになります。
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AAAによる富士通とIBMの仲裁裁定の内容の発表

TSEL発足後2年を経過した1985年、IBMは富士通を協定違反があったとして米国仲裁裁協会(AAA: American Arbitration Association)に提訴します。TSELの分析では富士通は日立のように完全な形ではIBMソフトウェアの不当コピーを止めていなかったのです。

係争は激しいものでしたが、富士通の足場は不利でした。互換OSをすでに何千という顧客に出荷してしまっている以上、うかつにOSの書き換えを行うと、従来製品と互換性が崩れてしまう危険がある上に、ユーザーの心理的不安によるビジネスへの影響も無視できませんでした。富士通とIBMは合意に達し、1988年の暮れ、AAAは会見を行い仲裁裁定の内容を発表しました。

裁定では富士通およびIBMは開発部隊から遮断された施設(SF: Secured Facility)で、外部インターフェースの互換性を確保するために製品分析することができることになります。さらに富士通はすでに支払った分も含め、IBMに8億3,742万ドル、約1千億円を支払うことになりました。

1千億円はOS開発費と比べても巨大な金額です。富士通は互換OSという戦略に大きなツケを払わされたのです。しかし、IBMも著作権紛争は禍根を残しました。IBMは多くの製品のソースコード提供を取りやめるなど、知的所有権(または知的財産権:Intellectual Property)の維持を最優先として、他システム接続情報などユーザーの使いやすさを損なう方向に向かっていったのです。

メインフレーム業界で巨人たちが死闘を繰り返している間に、コンピューター業界を根本的に変える流れが始まっていました。オープン化とダウンサイジングです。(http://realwave.blog70.fc2.com/blog-entry-76.htmlこの項続く)

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日の丸コンピューターを再評価する (3)
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高密度パッケージのTCMはFS技術の復活

1980年IBMは新世代のメインフレーム3081を発表します。3081は心臓部である高密度LSIを熱伝導モジュール(TCM:Thermal Conduction Module)という全く新しいパッケージに組み込みました。TCMこそ放棄されたFSプロジェクトの回路実装技術として、IBMが長年研究開発を続けていたものでした。3081はシステム370アーキテクチャーという衣はまとっていましたが、ハードウェア的にはFSそのものでした。FSはついに発表されたのです。

しかし、日本のメーカーのハードウェア製造技術はすでに十分に熟成し、3081の性能に匹敵するコンピューターを開発することは、十分に可能でした。それでもIBM互換機メーカーの富士通や日立にとって、3081は重大な脅威でした。IBMは互換機メーカーの互換性維持を困難にしようとしていたのです。

もともとシステム360、370アーキテクチャーは不完全な部分がありました。32ビットをベースにしながら、メモリーのアドレスは24ビットで指定していたのです。アドレスが24ビット表記ではメモリーの大きさは最大16メガバイトに制限されてしまいます。

システム360が発表された1964年には16メガバイトのメモリーは、ほとんど非現実的に巨大なものでした。ところが、年々メモリーの価格が低下するとともに16メガバイトの制限はシステムの性能向上の最大のネックになってきました。

基本的に32ビットベースのシステム360,370のアドレス方式を24ビットから32ビット(正確にはシステム370XAでは31ビットを使用した)に変更するのは、それほど困難なことではありません。しかし、具体的にどのように変更するかは互換機メーカーにとっては大問題でした。少しでも、変更方法が異なるとソフトウェアの互換性が失われてしまうからです。

さらに、370はメモリーアドレスだけでなく、別のネックもありました。入出力装置を接続するためのパスが16本しか許されず、大きな構成を組むのが難しくなってきたのです。入出力装置はメモリーアドレスよりずっと複雑なアーキテクチャー上のルールで接続されます。複雑なルールはマイクプログラムと呼ばれるハードウェアの一部に隠れています。

システム370のアーキテクチャーを富士通、日立は熟知していました。OSなど基幹ソフトウェアはソースコードを入手することができました。しかし、マイクロプログラムとなると、通常の方法では詳細な情報を入手することは困難でした。発表された3081のハードウェアを見ると、大幅な拡張が可能で、システム370のメモリーアドレス、入出力方式に収まるのは早晩困難になるのは明らかでした。IBMは3081でシステム370のアーキテクチャーを変更するに違いない。互換機メーカーは何らかの対応策が必要でした。

1982年6月22日、日本国民を驚愕させる事件が勃発します。日立製作所、三菱電機の合計6人の社員がIBMの機密情報を盗もうとした、産業スパイ容疑でアメリカでFBIに逮捕されたのです。いわゆる「IBM産業スパイ事件」です。

逮捕劇の前年、IBMは3081の機能拡張として、370XA(eXtended Architecture:拡張アーキテクチャー)を発表しました。XAはメモリーアドレスを24ビットから31ビットに拡張し、入出力機構も一新しました。XAを稼動するにはOSを従来のMVSからMVS/XAに移行することが必要ですが、IBMの大手顧客がMVS/XAを導入するのは時間の問題です。

アメリカ市場でIBMのOSを稼動させる互換機ビジネスを展開し、大きな利益をあげていた日立にとって、XAを稼動させるための詳細なアーキテクチャーの情報は喉から出るほど欲しいものでした。また、三菱電機はその数年前にIBM互換機ビジネスに進出することを決めており、やはりXAの情報を必要としていました。

日立は従来からIBMの内部情報を様々なルートで収集していました。しかし、その中でXAに関する情報の収集に、問題がありました。IBM研究所内部から違法に取得したものがあったのです。ただ、その情報は不完全でした。「アディロンダック・ワークブック」と呼ばれたXAの情報は、アーキテクチャーよりさらに詳細な、3081機に実装する方法論を記載したものでしたが、数冊のうち一部が欠落していたのです。

日立が欠番を探しているという情報をキャッチしたIBMはFBIに通報します。そしてFBIは手の込んだ囮捜査をしかけます。日立の担当エンジニア、さらに上層幹部に欠落情報の購入を持ちかけ、取引の模様をビデオで撮影したのです。

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FBIは囮捜査を日立に仕掛けた(写真はFBI本部)

逮捕された社員は渡米して取引にあたったエンジニアでしたが、日立はコンピューター開発の総責任者の神奈川工場長、さらに本体の社長まで逮捕状が出されるという事態にいたります。

ここまではセンセーショナルですが、ただの経済事犯です。経緯を考えれば、囮捜査以前の情報取得に違法な部分が含まれたのは、必ずしも意図的とは言えません。違法性、合法性を意識せず情報屋からビジネスの一部として、情報を買っただけと考えられたからです。囮捜査もその延長にあったわけですから、日立に同情すべき点は十分ありました。

しかし、日本での反応は同情をはるかに超えるものでした。「囮捜査は日本のコンピュータメーカーの進出を恐れた政商IBMが、米政府を動かしFBIと組んで行った陰謀劇だ」と言う見方がマスコミを中心に支配的になります。日立は真っ白なのに、無理やり有罪に仕立て上げられたというのです。

日本IBM の本社は連日右翼の街宣車が不当逮捕を糾弾し、大手顧客はIBMの不当行為を日本IBMの営業マンに抗議しました。日本IBM社員の子供が学校でいじめられるようなことまで起き、日本IBMは日本で企業市民としての立場を云々されるまでになります。

日本のような情報が開放され、教育程度も高い国で、なぜ事実を歪曲してここまで感情的な反発が起きたのは不思議な気もしますが、80年代はアメリカと日本が経済での摩擦が沸騰状態に達した時代でした。その後、デトロイトで自動車労働者が日本車をハンマーで壊したり、東芝機械が潜水艦建造用の工作機をソ連に不正輸出したとして、東芝製のラジカセが叩き割られたりという事件がアメリカで起きます。その時のアメリカの反応は、IBM産業スパイ事件に対する日本の反発をはるかにを上回るものでした。

日立も法的には不利な状況と判断したのでしょう。翌1983年検察側との司法取引で日立は有罪を認め、同時にIBMが提訴した損害賠償訴訟で日立とIBMは和解を行います。 和解条件は日立の最新鋭機の検査をIBMが日立の費用負担で行うというものでした。

IBM産業スパイ事件は基本的にアメリカを中心とした海外市場で、日立がIBM互換機を販売するために必要とする情報収集の過程で生じたものでした。稼動するOSはあくまでもIBM製で、必要な情報はハードウェアに限定されていました。

しかし、日本国内では日立も富士通もIBM互換(厳密には国内では独自仕様が加わっており、海外市場のIBM完全互換機とは異なっている)機の上で自社の「IBM互換」のOSを稼動させていました。これはIBM産業スパイ事件がハードウェアの話であるのに対し、ソフトウェアの話です。

IBMにとってはハードウェアの決着がついても、ソフトウェアは別でした。そして、今度は日立だけでなく富士通もターゲットになりました。5年以上にもおよぶソフトウェアの著作権紛争が始まったのです。(http://realwave.blog70.fc2.com/blog-entry-75.htmlこの項続く)

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Mシリーズ・コンピューターはIBM追撃に成功した(写真は富士通製M380)

太平洋の向こうから聞こえてきたIBMのFS(Future System)は日本のコンピューター業界とそのスポンサーである通産省、電電公社(現在のNTT)を震撼させました。断片的な情報をつなぎ合わせるとFSは、革新的な高密度半導体技術をベースに、巨大な単一レベル仮想記憶、高水準言語インターフェース、リレーショナルDBを備え、プログラムの生産性に革命をもたらすと考えられました。IBMはシステム360、370と続いたアーキテクチャーから全く新しいアーキテクチャーに乗り移ろうと考えていたのです。

せっかく、Mシリーズで開発したシステム370互換機がポンコツになる。そんな心配は文字通り杞憂に終わりました。IBMはシステム370のアーキテクチャーからFSに顧客は容易に移行しないだろうという現実に直面しました。IBMに覇権をもたらした「収益逓増」の原理はIBMの新製品も同じように排除したのです。

FSの開発はシステム370の発表の翌年、1971年にスタートしましたが、直接のきっかけとなったのは、一時IBMのメインフレームの売上げが低迷したことにあります。IBMはその原因は年々向上するハードウェアの性能をソフトウェアが使いきれないことにあり、ソフトウェアの開発生産性を飛躍的に向上させる必要があると考えました。長期的には正しい見方でしたが、心配するのは早すぎたのでしょう、メインフレームの売上げはシステム370の発表後すぐ回復しました。

技術的にもFSは難問だらけでした。高水準言語インターフェース、単一レベル仮想記憶装置などは、使いやすさをハードウェアの性能で補おうとしたものでしたが、あまりにも性能が悪すぎました。使いものになるレベルではなかったのです。

結局IBMは1975年にはいり、FSプロジェクトを放棄します。しかし、投入した膨大な研究開発費のかなりは、その後回収されます。超高密度回路技術は1980年代にはり3081シリーズというアーキテクチャー的にはシステム370の発展系の機種で実装されました。そして、高水準言語インターフェースなどの革新的なアーキテクチャーは日本では「オフコン(オフィスコンピューター)」と位置づけられたシステム38で使用されました。システム38はその後AS400となり、現在はSystem IとしてIBMのサーバー製品の一角を担っています。
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IBMのFSはオフコンになった(写真はIBM AS400)

話が前後しますがMシリーズなどのシステム370対抗機種は通産省主導のもとで開発されました。通産省は国産コンピューター各社を統合するためのエサとして開発研究費の補助を行ったのです。それでも、実際の開発は各メーカーは補助金を受けつつ自前で行いました。同じシステム370互換機を開発した富士通と日立も対IBMでは一致したものの、商売の現場では激しく争っていて、共同研究などできなかったのです。

日立はRCAからの流れもあり、自力でシステム370互換機開発を行うことができました。しかし富士通はFACOM230シリーズという異なるアーキテクチャーの機種を持っていて、IBM互換機の開発を行うことは困難をともないました。

ちょうどその頃、アメリカではシステム360開発の3人の立役者の一人のジーン・アムダールが、IBMを飛び出してアムダール社を作り、IBMの互換機ビジネスを始めようとしていました。IBMの互換機ビジネスというのはインテルに対するAMDのような存在で、同じアーキテクチャーに基づいてより高性能の機種をよりすぐれた価格性能比で提供しようというものです。
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富士通はアムダールを互換機開発に利用した(写真はジーン・アムダール)

アムダールの構想は、システム370と比べ圧倒的な高密度のLSIにより、IBMでもっとも強力なシステム370ファミリーの機種より、2倍以上強力なコンピューターを開発しようというものでした。内部構造も、アーキテクチャーこそシステム370と同一でも、IBMとは全く異なる革新的なものでした。

しかし、アムダールは資金的に行き詰まり開発は頓挫しようとします。そこで富士通はアムダールに出資して、IBM互換機の開発を一気に推進することにしたのです。完成した富士通のIBMの互換機は日本では富士通M190、アメリカではアムダール470V6として販売されることになります。

アムダール470V6 は傑作機でした。IBMの最大機種だったシステム370-M168の1.5から2倍の性能と、はるかにコンパクトな概観と消費電力。さらに、信頼性も高くIBMの大手顧客は次々にアムダール470V 6を導入します。

しかし、互換機ビジネスは問題も含んでいました。アムダールのIBM互換機は最初からIBM製のソフトウェアを稼動させることしか考えていませんでした。AMDはWindowsしか動きませんが(そのうちMacも動くことになるかもしれませんが)、もともとインテルもその点は同じです。

ところがメインフレームの場合IBMはハードウェアとソフトウェアの両方を作っています。いってみればマイクロソフトとインテルが一つの会社のようなものです。単なる互換機というハードウェア屋に徹するのでなく、IBMのような総合的なコンピューター会社を目指すのならソフトウェアも自前で開発する必要があります。

富士通のとった戦略は、アメリカではアムダールを通じIBMと100%互換の製品を単なるハードウェアとして販売する一方、日本のMシリーズはIBMのOSと非常に良く似たOSを搭載するというものでした。PCの上で稼動するソフトウェはインテルのチップで稼動するとは言わず、Windowsのもとで稼動すると言います。メインフレームも同様でユーザーのプログラムが稼動するかどうかは、OSに互換性があるかどうかにかかっているのです。

国内向けにはIBM互換OSの開発、海外市場はIBM完全互換機の販売という戦略は同じくMシリーズを持つ日立も同様でした。しかし、互換OSは問題の多い戦略でした。まず、OSが互換になると、IBMの顧客を奪うのに好都合かもしれませんが、逆も真なりです。もし、IBMとのOSの機能の差が大きく開けば、自分たちの顧客が雪崩をうって逃げ出すかもしれません。「収益逓増」モデルの犠牲者になってしまうかもしれないのです。

Mシリーズの開発が行われていたころ、OSのソースコードの取り扱いが現在と大きく異なっていました。現在はWindowsなどOS、その他のソフトウェアは原則的にソースコードを公開していません。Linuxは例外ですが、Linuxのようなソフトウェアはオープンソフトウェアと明示的に呼ばれています。一方、IBMは当初OSを始め大部分のソフトウェアのソースコードを公開していました。

このため日立も富士通も全く合法的にIBMからOSのソースコードを入手していました。ソースコードがあれば、マニュアルに記載されていないような詳細なインターフェース情報や動作特性を知ることができます。互換OS 開発には必須とも言えるものです。

しかし、ソースコードを入手して、その情報をもとに互換OSを開発するのは、危険な罠になる可能性がありました。開発者の中には中身を細かく研究するのではなく、安易にコピーしようとする人もいるかもしれません。また、コピーはしていなくても実際に開発者が詳細にソースコードを分析して同じ機能のソフトウェアを作ってしまったら「コピーではない」と明確に証明することは困難になります。

互換OS というのはかなり無理のある考え方でした。OSの互換性というのは同じメーカーの製品でさえ、バージョンアップで維持するのが難しいものです。ましてメーカーが異なれば複雑なソフトウェアの稼動を保証するのは相手のOSの中身に相当入り込まなければ不可能なことだったのです。

それでもMシリーズは日本で好調に売上げを伸ばしました。大型機で圧倒的な地位を築いていたIBMのサービスに対し、中堅規模以下の顧客には不満を持っていました。特にシステム開発で計画段階まではサポートするものの、プログラム開発で汗をかくことを嫌うIBMの体質は、日本では問題でした。富士通、日立そこをついたのです。

富士通は1979年ついにIBMを日本のコンピューター市場で首位の座から引きずりおろします。日立もそれに続いてシェアを伸ばしました。NECも順調に売上げを伸ばしたのですが、市場は中小型機と政府関係が中心でした。IBM互換OS はNECの提供するOSより、機能も豊富で進歩も早く、国産メーカー、あるいはIBM嫌いという理由では、まず富士通、日立が選ばれたのです。

ここまで、日本のコンピューターメーカーが強くなった状況では、もはや政府主導の国産コンピューター育成は不要だったのかもしれません。しかし、通産省はIBMのシステム370対抗機種開発の次のプロジェクトとして、IBMのFS対抗のための超LSI技術研究組合を1976年にスタートさせます。IBMがFS開発を中止した翌年のことですが、FS対抗という錦の御旗は降ろされませんでした。

IBMのFSはコンピューターを一新するような多くのコンセプトが盛り込まれていましたが、日本のFS対抗策は、その中で高密度のLSI、それもメモリー技術に絞って研究を行うというものでした。一見、ばかばかしく見えるこの目標も、最終的に1千億円に達した政府予算を、半導体メーカーで同時にコンピューターメーカーでもある富士通、日立、NECに与えるという点では有効に機能しました。

80年代半ばには日本のメモリー半導体は世界シェアの大部分を占めるようになりました。しかし、その影響をもっとも強く受けたのはIBMではなく、インテルでした。インテルは世界最初の半導体メモリーを開発したのですが、日本メーカーに押されてメモリー半導体市場からの撤退を余儀なくされたのです。

日本のコンピューターメーカーには勢いがありました。80年代に入ると、自動車産業をはじめアメリカの製造業は次々に日本のメーカーに敗北していきましたが、電子製品や半導体もそうでした。コンピューターはソフトウェアとハードウェアの両者でできていますが、ハードウェア技術の中心となる半導体技術で日本のメーカーはIBMとほぼ同等の水準に達しました。信頼性と生産性を考えればIBMを凌駕するレベルだった言っても良いでしょう。

最初IBM互換機はCPUだけでしたが、すぐに日本メーカーはHDD、プリンターなど周辺機器にも進出しました。従来からアメリカには周辺機器の互換メーカーが沢山ありましたが、日本メーカーの製品は価格が安いだけでなく、信頼性もIBM製品より高く、機能的にもまさっている場合も多かったのです。

1980年当時を見ると、日本以外で国産のコンピューターが活躍している国はアメリカを除けばありませんでした。日本のMシリーズはIBM互換とは言っても、厳密には独自規格(富士通と日立の間でも互換性は確保されていなかった)で、周辺機器も含めて日本のコンピューター産業は特殊な環境を作り上げていました。

これは現在の携帯電話と似ています。携帯電話は日本が独自規格で小さく特殊な市場を形成しており、世界的にはサムソン、ノキアのようなグローバルプレーヤーがいます。コンピューターの場合も、ソフトウェアやシステムの市場環境、利用環境は世界の趨勢とは違った動きをしていた点は同じです。

携帯電話とコンピューターが異なっているのは、携帯電話が高価ではあっても機能的には日本独自のものが進んでいるのに対し、コンピューターの場合は独自規格のせいで海外のソフトウェアが国産メーカーの上では稼動しない(Mシリーズでは比較的わずかな努力で移植できましたが)ため、市販のスフとウェアマーケットのが成熟が遅れ、総じてソフトウェアのレベルも低かったことです。

通産省の視野には富士通、日立、NECという大メーカーしかなく、マイクロソフトやヤフーを生み出したベンチャー育成の重要性は全く認識されていませんでした。通産省も大メーカーも、自動車産業がGMを目標としたように、IBMをモデルとしてIBMに追いつき追い越すことだけを考えていたのです。

IBMを追い越そうという試みが本格的始まったのは、超LSI 技術研究組合の後継プロジェクトとして作られた「第五世代コンピューター」開発でした。1982年に立ち上げられた、このプロジェクトには10年間で570億円の国費が投じられました。

第五世代コンピューターはその後アメリカ政府の圧力もあって、国際的に開かれたプロジェクトとしての体裁を整えていきますが、国産メーカーに資金援助を行うという発想は変わっていませんでした。とは言え第五世代コンピューターは人工知能を作るという誇大妄想狂的なアイデアがベースになっており(http://realwave.blog70.fc2.com/blog-entry-59.html参照)ほとんど意味のあるアウトプットは得られませんでした。

第五世代コンピューターが「IBMを超える」という目的でスタートした頃、絶好調のIBM互換機路線に、押し込められていたマグマが爆発する、重大な危機が訪れました。IBM]産業スパイ事件と著作権紛争です。(この項続く

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IBMはシステム360でコンピューター産業の覇権を確立した

日経ビジネスの2006・11・27号の特集は「電子二等国ニッポン 国策IT(e-Japan)の敗戦」と題して「国産コンピューターメーカー」富士通、日立、NECそれとNTTデータを中心としたIT振興策の挫折を描いています。「電子立国の中核を担う彼らが、国策のくびきを断って立ち上がらなければ、我が国は電子二等国に成り下がってしまう。」ということなのですが、どうすれば良いのでしょうか。いや、その前にそもそも何が起こって、何が問題だったと言うのでしょうか。もう一度過去を振り返って、将来を考えたいと思います。

日本が国策としてコンピューターを基幹産業の一つにしようとしたのは1960年代に遡ります。第二次世界大戦中に発明され、当初世界に3台もあれば十分と言われたコンピューターは1950年代になると、IBM、ユニバックなどが商用機を開発し、急速な普及を始めました。これを見てアメリカではGE、RCAのような大電気メーカーが参入し、ヨーロッパでもイギリスのICL、フランスのブルなどが国家的支援を受けてコンピューターの開発を始めました。コンピューター業界では国境を越えて、激しい競争が展開されました。

ところが、1964年に発表されたIBMのシステム360により、勝負は早いうちにあらかたついてしまいました。システム360はICの使用、最初の統合的OSの搭載など種々の先進技術を導入してはいましたが、当時としても最先端とは必ずしも言えないものでした。システム360が革新的だったのは、同じアーキテクチャーのもとで、超大型から小型まで複数の製品がファミリーとして発表されたことです。

アーキテクチャーは「設計方式」とも訳されますが、デルでもソニーでも東芝でも、どのメーカーのPCでも同じWindowsが動くのは、どのメーカーの製品もアーキテクチャーというルールが共通になっているからです。アーキテクチャーが同じであれば製品が違っていても、同じソフトウェア、同じ周辺機器が稼動します。

システム360はファミリーの中で、I超大型コンピューターから小型コンピューターまで共通のS360アーキテクチャーにもとづいて設計されているので、同じプログラムが稼動します。一見当たり前ですが、システム360の前はIBMのコンピューターの間でも同じプログラムを動かすことはできませんでした。

WindowsとMac、VHSとベータマックスのように、異なるアーキテクチャー間で競争があると、多くの場合どれか一つが単により多くのユーザーを持っているという理由で、市場を占有してしまいます。このような現象を「収益逓増」と言ったりしますが、システム360発表以前にコンピューター市場で高いシェアを持っていたIBMは、システム360で製品系列の統合を同一アーキテクチャーで行うことにより、収益逓増の構造を作り上げたのです。

メーンフレーム(システム360のような古典的大型コンピューター)の時代にIBMは70%以上の市場占有率を得たと思われます。これは非常に高い数字ですが、他の収益逓増型のモデルであるWindowsやVHSがほとんど100%近くまで市場占有率を高めたのに比べると、それには及びません。

IBMのメインフレームが100%にまでの市場占有率を達成できなかったのは、メーンフレームでは市販ソフトより個別に開発されたプログラム、システムが主流を占めていたからです。別のコンピューターで稼動するシステムをシステム360に移行するのは簡単ではなく、そのまま同じメーカーのプログラムを使い続ける方が経済的な場合が多かったのです。

それでも、システム360の出荷が始まるとIBMの覇権は決定的になりました。アメリカのコンピューター業界はIBMとそれ以外のコンピューターメーカーをガリバーと七人の小人(IBMのコンピューターメーカーが7社あったため)にたとえました。フランスは国策会社のブルが、7人の小人の1つのGEに買収にされそうになり、政府がストップをかけるなど、コンピューター業界はIBMの突出した支配力のもとにおかれることになりました。

IBMの支配力は1970年にシステム360の後継機として発表されたシステム370により一層決定的になります。システム370は一番の売り物が「価格性能比の向上」で、技術的新味はあまりありませんでした。それでも、仮想記憶、マルチプロプロセッサー、タイムシェアリングという3つの大きな機能を付け加え、他のメーカーに付け込まれたシステム360の弱点を抜け目なく解消しました。

話は少しずれますが、システム370で付け加えられた3つの機能は、MITのコンピューターセンターの受注をGEのMulticsシステムさらわれた原因となったものでした。その後GEはコンピューターから撤退し、MulticsはAT&Tで大型システム用から小型システム用に書き換えられ1人用のMulticsという意味のUNIXになります。UNIXはその後PCとともに80年代にIBMの大型メインフレームを追い落とす「ダウンサイジング」の中心になります。これは歴史の皮肉と言えるかもしれません。

システム370の圧倒的な支配力を見て、通産省(現在の経済産業省)はコンピュータ産業の再編を急ぎます。通産省の戦略は、国産コンピューターを統合することでしたが、結果的には富士通、日立、NECを核とする3グループに集約されました。特に着目すべきだったのは、富士通、日立はグループは異なるものの「IBM互換(システム370互換)」という意味で、共通のアーキテクチャーをもつ「Mシリーズ」に製品系列を移行することになったことです。

Mシリーズは従来からIBM互換をベースにしたRCAと提携していた日立より、「純国産」を標榜していた富士通のコンピューターにより大きな転換をもたらすものでした。しかし、Mシリーズは立ち上がりから大きな試練に直面します。一つはハードウェア上の互換性だけでなく、OSを含めたソフトウェアでもIBMとの互換性を確保すること、もう一つはIBM自身がシステム370と全く異なる、未来のコンピューターとも言うべきFS(Future System)の開発に着手しているという情報が伝わってきたことです。(続く

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