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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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コンサルタントを使うには
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ジェラルド・ワインバーグ

ジェラルド・M・ワインバーグは、ソフトウェア開発のコンサルタントですが、著作の一つ「コンサルタントの秘密」の中でコンサルティングとは「人々に、彼らの要請に基づいて影響を及ぼす術」と言っています。

これはものすごく広い定義で、普通コンサルタントとは思われないような占い師、デパートの案内係、ゴルフのパートナー(「要請に基づいて」というところは怪しいですが)、人生経験豊富な気のよい友人などもみんなコンサルティングをしていることになります。

反面、要請とは無関係に命令する上司、売り込み熱心な営業マン、懲役を宣告する裁判官などはコンサルティングではなく人に影響を及ぼします。 また、医者が手術の方法を説明したり、弁護士が訴訟手続きについて解説しているのはコンサルティングではありません。説明の目的は「影響を及ぼす」ことではなく、自分のすることを了解してもらうためだからです。

とは言っても、コンサルティングはこれほどありふれたもののはずなのに、職業としてのコンサルタントとなると一般のイメージは様々です。イメージが混乱する原因の一つは、広範囲な定義にもかかわらず、定義に入らないような職業がコンサルタントと称することが多いからでしょう。

コンサルタントに対する悪い印象を代表するものに、経済事件などで事件の渦中で動き回っている、実態不明なビジネスマンがコンサルタントを名乗っていケースがあります。この種の人の多くは人間関係のブローカーのようなもので、ワインバーグの定義にはあてはまりません。

また、言葉のインフレもあります。IT会社がプログラマーというと、人を集めるのにもサービスを売るのも値打ちが低そうに聞こえるので、システムエンジニア、さらにコンサルタントと名前をつけたりする場合です。これは便所をトイレ、さらにRestroomと表示するようなもので、実態とは無関係にコンサルタントとつけているわけです。

一方、非常に沢山の種類のコンサルタントがいるのに、コンサルタントの免許なぞは存在しないということがあります。中小企業診断士、ITコーディネーター、ファイナンシャルプランナーさらにMBA取得など、コンサルタントの仕事をする人が持つ「資格」は星の数ほどありますが、コンサルタントの「免許」に類するものはどんなコンサルタントにも存在しません。コンサルタントは名乗ればその日からコンサルタントになれるのです。

コンサルタントに「免許」がないのは、コンサルタントが「人の行動に影響」を与えることが仕事で、実際の行動は行わないということにあります。癌への対処を教えても、手術をしなければ医者の免許はいりませんし、節税法をアドバイスしても税務申告をしなければ税理士の免許はいりません。社会としては顧客の行動を代行したり、実際の作業を行うことのないコンサルタントは、免許制の必要はないと思っているのです。

ではコンサルタントは何をしてくれるのでしょうか。問題を解決するためのヒント、方法、データーその他もろもろのアイデアを提供するのが本来のコンサルタントの仕事です。問題が存在しなければコンサルタントに頼むことはありませんし、問題を解決するためのアイデアを実際に実行するのはコンサルタントの仕事ではありません。実行するのは、依頼者しかできない場合もありますし、誰か別の人がすることもありますが、コンサルタントとしての仕事は「影響を及ぼす」ところまでです。

では、問題をどのよう解決する、あるいは解決にはいたらないまでも何か解決の足しになるような知恵をどのように出すのでしょう。これには (1)すでに問題解決の答え、ないし有用な情報を知っている (2)星占いその他、理解しがたい手段で答えを作り出す (3)問題を分析し論理的に解決法を作り出す の三通りのやり方があります。

世の中でコンサルタントに期待される解決策の提示方法は(1)のコンサルタントがすでに知っている知識を与えてくれるというものが多いのではないでしょうか。アメリカによくある有名な経営者や政治家が引退後コンサルタントになったような場合は、経験豊富な人から指針を示してもらいたいという客が、高額のフィーにもかかわらず集まります。

しかし、答えが非常に明確で知っていれば間違えようがない、たとえばトイレの場所を知りたいといったケースや、「後継者の育成の心構え」のような漠然とした場合には良いかもしれませんが、問題が複雑だったり、いくつかの案を比較検討しようというときにはあまり好ましい方法ではありません。「このあたりで良いレストランはどこ?」程度の質問でも、一人で行くのか、恋人と一緒か、それも最初のデートか、懐具合は、腹のすき具合はといった沢山の情報を分析しないと満足のいく答えを出すわけにはいきません。

世の中には(2)の占い師の類に頼るという場合も多いでしょう。占いのプロセスは不可解で、未来を予測できる根拠も根本的には存在しないのですが、決断を求められる経営者や政治家が沢山訪れます。アメリカのレーガン大統領が星占いを頼りにしていたのは有名な話です。日本でも多くの政治家や経営者が高額な占い師を訪ねているのは周知の話です。

もっとも決断の理由を表立って占いだと言う政治家や経営者は滅多にいません。「今回の20億ドルのM&Aは、xxx先生の占いで間違いないと出たから安心してください」などと言ったら、株主代表訴訟になっても不思議はありません。

そこで、一般には(3)の問題を分析して論理的に解決策を見出すという方法に行き着きます。しかし、このやり方も色々悩ましいことがあります。「論理的に解決策を見出す」とは言っても、解決策発見ソフトウェアがあるわけではありません(あれば売れるでしょうが)。

それでも、コンサルタントがまともであれば、それなりに役に立つ結果は得られるのですが、何しろ免許もない仕事ですから(医者でも弁護士でも免許を持っていても油断は全くできないのですが)、問題分析法や解決策の組み立て方が理にかなっているか保証がないのです。

企業を相手にする経営コンサルタントや戦略コンサルタントは、問題解決に仮説検証という方法を一般的に使用します。仮説検証とは、仮説を設定してその仮説を検証することを繰り返していくことですが、これは科学研究の方法論です。

科学ではたとえば「癌は遺伝する」という仮説を設定して、検証するために親、兄弟で癌にかかる割合と、赤の他人同士で癌にかかる割合を比較したり、様々なデーターを集めていきます。さらに、遺伝的傾向あるなら、癌にかかる遺伝子があるはずだという仮説を設定して、遺伝子を特定するという検証作業を行っていきます。

科学で仮説検証は普通と言うより、仮説検証しか科学研究の方法論はないと言ってもよいほどですが、科学は普通コンサルティングよりずっと時間をかけますし、空振りはしょっちゅうです。仮説検証というくらいですから、検証して仮説が否定されてしまうとか、検証法が見つけられないということはいくらでも起きる(むしろその方が多い)からです。

コンサルタントも「A事業部の売上げを伸ばしたい」という問題には、売上げ増大を阻んでいる原因を仮説として設定して、原因の正しさを検証し、次に解決策の仮説を設定し、その正しさを検証するとうプロセスを踏んでいきます。しかし、仮説が有効かどうかを本当に検証するには、結局その通り実行してみるしかありません。

コンサルティングに科学の方法論を持ち込むということは、逆説的に言うとコンサルティングはエンジニアリングではないということです。エンジニアリングであれば、ビルや橋なら通常きちんと作られますし、盲腸の手術なら新米の外科医でも概ね大丈夫です。しかし、仮説検証はこのように確実に結果を生み出すエンジニアリングの手順とは違います。

解決策が得られるかどうか保証がないということになると、コンサルタントも顧客も困るので、万能薬のような理論やコンセプトがしょっちゅう生まれてきます。特に経営コンサルタントの世界では、競争ベースの経営論、資源ベースの経営論、コアコンピーテンシー、リエンジニアリング、第5水準のCEO、ブルーオーシャン戦略などの言葉飛び交いますが、必ず解決策を導き出してくれるようなものではありません。

それぞれの理論が間違っているというわけではありません。しかし、新しい経営学のコンセプトの多くは、特定の企業のケースには当てはまっても、汎用的に適用可能というわけではありません。誰かに効果のあったダイエット法が、他の誰でも効果があるというわけにはいかないのです。良くないのは理論そのものより、万能薬のような言い方をするコンサルタントやセミナー屋の方です。

経営についてはコンサルタントの良し悪しの前に、経営は科学なのか技術なのかそれとも他の何かなのかという議論があります。MBAは「経営は技術」という立場が強いのですが、有名な経営学者のミンツバーグは「MBAが会社を滅ぼす」という本を著して、技術論に傾きがちのMBAのカリキュラムを否定しています。 ミンツバーグは職場でのマネージメントの実務に焦点を当てたマネージメントスクールの開発までしています。
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ミンツバーグはMBAに否定的

ミンツバーグの指摘はもっともな点は多いのですが、トップマネージメントは戦略だビジョンだというMBA好みの話題に向き合う必要が中間管理職よりは格段に多く、MBAのカリキュラムにより近い知識も求められます。ただ、MBAのカリキュラムが分析的、還元主義的な意味でも本当に必要な知識を与えてくれるかどうかは別問題です。

企業は大きな組織ですから、単純な人間業だけでコントロールすることは不可能で、様々な数字や分析手法を「エンジニアリング」として利用することは不可欠なのですが、最終的な決断のレベルになると、機械的な方法は存在しません。コンサルタントのできるのは、せいぜい様々な可能性を多角的に検討することを助けることまでで、決断そのものにはコンサルタントより占い師のほうが役に立つでしょう。

それでも優秀なコンサルタントなら「ハウツー」を噛み砕いて教えることはできます。ビジネス関係ほどハウツー本があふれている分野はありませんが、ビジネスほどハウツー本が役立たないものも稀です。少なくともダイエット本を読むのではなく、専門家にダイエットメニューを組んでもらう程度のことはしてくれます。メニューの通りするかどうかはあなた次第ですが。
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給食費くらいただにしたら?
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給食費の未払いが問題になっています。全体の約1%、額にして20億円程度が滞納されているという文科省の調査が発表され、大きな反響が起きているのですが、何といっても生活苦ではなく、「払いたくない」「払う必要を認めない」という保護者が未払いの6割以上もいるというのですから、呆れてしまうのも無理からぬことです。マスコミは「モラルの崩壊」とまで言って、この状況を憂えています。確かに、払えるのに払わないのはモラルの上で問題なのは当然なのですが、不思議に思うのは、最近急に給食費を支払わない保護者が増えたのかということです。

一般的に考えて、給食費のように支払わなくても刑事罰を与えられるようなものでないのに、未払い者が1%しかいないというのは相当驚異的な納付率です。NHKの受信料の未納率は36%くらい、国民年金のような将来年金受給資格を失うという損害を被るものですら4割は未納者なのです。1%という数字は、正直私などは子供を思う親の気持ちの切なさまで感じます。

確かに、払えるのに払わないというような親は最近増えてきたのかもしれませんが、今になって大きな問題になったのは何か文科省側に事情があるのだろうと想像されます。現に、教育委員会から学校への給食費取立て圧力は最近急に強くなったようです。おそらく、多くの予算が削られる中、給食費の未払いに目を付けたというの実態でしょう。圧力の一環としてマスコミが踊らされているというところではないでしょうか。

マスコミでの報道では、給食費の未納のため給食の質を落とさなければいけないということも言われています。学校によって未納率に差はあるでしょうが、1%の未納のために給食全体の質が低下するというのは常識的に考えるとありそうにもありません。未納費総額の20億円という額は小さくありませんが、一番の問題は給食費の取立てに追い立てられる教職員が神経をすり減らすことではないかと思います。

繰り返しますが、1%というのは大変小さな数字で、その程度の割合でモラルが欠如したり、変わり者だったり、身勝手だったりする保護者がいるのは、この世の中では仕方がないでしょう。そのわずかな人のために多大な努力を傾けるより、この際いっそ給食費をただにしたらどうでしょう。

給食費は月4千円ほどで、日本全体で年2千億円以上ですから、個人にとっても国にとってもそれほど小さい額ではないのですが、無料にすることのメリットはいくつもあります。

まず、少子化対策として子供を持つ親に補助を与えるとき、給食費の無償化は確実に児童のために費用が使われるという保証があります。単なる補助金では親のパチンコ代に消える可能性もあります。次に、教職員が給食費徴収という余計な仕事をしなくてもすむことがあります。金の徴収というのは楽しい仕事ではありませんし、先生と保護者の関係を決定的に悪くする場合もあります。

「給食費を払わない家の児童には給食を与えるな」という人までいるのですが、給食費も払わない親は、子を虐待、ネグレクトする危険が高いと考えるべきでしょう。給食で栄養を得るという児童も世の中にはいるのです。児童福祉の観点から考えても、義務教育の給食は重要な役割を演じているといえます。

今のように、給食費を支払わないことに社会的な指弾が強まると、児童に対するいじめに発展することも考えなくてはいけません。モラルの欠如で教育されるべきは保護者であって、児童ではありません。給食費がただだからといって、1日で2食も3食も給食で食べるというわけにはいかないのですから、ただにすることでフリーライダーが増えるということもありません。

未払いが1%ということは99%は支払っているわけですし、所得の高い親もいるわけですから、一律無償というのはいかがなものかという話はあるでしょう。文科省が中教審などで配布している資料では、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、韓国の例が示されていて、給食費は日本と同じく、全て有償です。

しかし、たとえばスウェーデンは給食費は無償ですし、フランスは第2子からですが、親の所得に関係なく月に115ユーロ(約1.6万円)が支給されます。給食費の有償が世界の常識というのは文科省の世論操作と言われても仕方ないでしょう。

もちろん、給食を無償化して発生する2千億円は税金でまかなうことになるでしょう。子供を持つ親だけが給食費を負担するのではなく、国民全体で負担することになるわけです。ただし、徴収の作業、未納の罰則は税金に集約されるので、効率性は高まります。

世の中は不公正であるより、正しいほうが良いに決まっていますから、1%の未納をさらに減らすのも悪くないでしょう。しかし、教育委員会の圧力で教員が給食費を立て替えるような状態もあまり公正とは言えないと思えるのですが。

Web2.0って何?
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Web2.0の提唱者の一人のティム・オライリー

Web2.0と言われてもぴんとこないという人と、「話題としてはもう目新しくないね」という人と二つに分かれてしまうと思うのですが、Web2.0という言葉は2004年のO'Reilly Media社とMediaLive International社のブレーンストーミングから生まれた、Webの新しい環境を作りだす、サイト、製品、企業、技術、標準などの総称です。

Web2.0と言い出したティム・オライリーは、Web2.0を定義するために、企業やサービスをWeb1.0とWeb2.0に分類しています。それによると、YahooはWeb1.0でGoogleはWeb2.0。、同じようにWeb1.0のmp3.co、BritanicaOnline 、AkamaiはWeb2.0ではそれぞれNapster、Wikipedia、BitTorrentがそれぞれ対応します。

このような分類をされて「常識でしょ」と言う人も多いのでしょうが、何が違うのかよくわからないという人も沢山いるでしょう。だいたいインターネット2.0と言わずにWeb2.0になって、インターネットという言葉すらどっかにいってしまったのは、少なくとも日本ではやや唐突な印象もあります。Web2.0とは何なのでしょうか。

PC2.0などというのは誰も言ったことはないと思いますが、1995年ごろを境にして、PCの世界が従来と大きく変わったと考えられるので、ちょっとオリジナリティーを発揮して、それ以前とそれ以後をそれぞれPC1.0、PC2.0と呼んでおきます。

まずPC2.0ではWindows支配が決定的になりました。 PC1.0でもマイクロソフトの力は圧倒的だったのですが、PC2.0になるとアップルやOS2を擁したIBMは完全に市場から脱落し、Windowsが事実上PCで唯一のプラットフォームになります。

さらにマイクロソフトはWindowsの支配力を背景に、Windows上で稼動するワープロ、表計算などのソフトウェアを独占します。PCを使うための基本的なソフトウェアはOfficeに統合され、競争と呼べるものはなくなってしまい、結果としてこの10年間大きな進歩を止めてしまいました。

「大変な改良を施している」とマイクロソフトは主張するでしょうが、少なくともタイムマシンで10年前のPCユーザーを現在に連れて来ても、大して違和感なくPCの操作ができるはずです。これがさらにもう10年昔に遡れば、PCの操作性は全く異なっています。ユーザーの観点に立つとPCは事実上10年前のままなのです。

PC2.0でもう一つPC1.0と大きく違うのは、ほとんど全てのPCがネットワークつまりインターネットに接続されたことです。PC1.0ではインターネットに限らずネットワークにつながっているPCは少数派でした。

ネットワークにつながったために、PCユーザーはウィルスに感染するという危険に直面することになりました。このことはマイクロソフトにウィルス対策を名目に、新しいバージョンを買わせる脅迫手段を与えてしまいました。マイクロソフトの力はますます強くなってしまったのです。

PC2.0に移行する過程でマイクロソフトが大きな危機だと感じたことが一度だけありました。それはネットスケープがブラウザーでの支配権をベースに、Windowsに代わるプラットフォームの地位を確立しようとしたことです。

結局ネットスケープがマネージメント能力の問題で開発のペースと品質を低下させる一方、マイクロソフトがビル・ゲイツの掛け声の下、莫大な経営資源をブラウザーなどインターネット関連製品開発に投入することで、ネットスケープの野望は失敗に終わりました。以後PCの世界はマイクロソフトの一極支配が続いています。

PCの一極支配はマイクロソフトに大きな利益をもたらしましたが、同時にジレンマも引き起こしています。ユーザーの目から見て、画期的と思われるソフトウェアの機能が提供されないので、ユーザーの買い替え意欲がなくなってしまったのです。Vistaが最終的にPCのプラットフォームの中心になることは確かでしょうが、そのペースはマイクロソフトが期待するほど速くはないでしょう。もっともウィルス対策という武器をマイクロソフトがいつまでも使わずにいることはありえませんが。

Web2.0ではマイクロソフトのような圧倒的な企業はありません。Web2.0の代表的企業と言われるGoogleの時価総額は1千5百億ドルで、すでにマイクロソフトの半分ほどになっていますが、GoogleがPC2.0でマイクロソフトがそうだったように、Web2.0の何もかも支配しそうになっているわけではありません。

Googleについて知識がほとんどない人もいるかもしれないので(そんなことはあまりなさそうですが)、簡単にGoogleについて説明しておきましょう。Googleは収入のほぼ99%が広告収入です。この点では日本の民間放送局と基本的にビジネスモデルは同じです。Googleは検索エンジンというコンテンツをただで提供し、スポンサーが広告料を払います。

Yahooも今はなきAOLも収入の大部分が広告であることは同様です。つまり、GoogleはWeb1.0のネット企業と、広告費依存型のビジネスモデルという点では共通で、この意味で新しいところはありません。
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Googleの創始者セルゲイ・ブリン(左)とラリー・ページ(右)

Googleの新しさと強みはGoogleが検索エンジンの圧倒的なシェア(日本ではヤフーのが依然として優位ですし、中国、韓国は自国の検索エンジンが強いのですが)を支える強力な検索機能の実現方法です。Googleはインターネットのホームページ(いまや英語的にWebページと呼んだほうがよいかもしれませんが)を有用と思われる順に検索単位に並べます。そのため、ユーザーは情報を得るのに最適なホームページに簡単に行き着くことができます。

ところがGoogleは検索結果と同時にその検索ワードに対応する広告も一緒に表示します。「大きな靴」と検索すると、「大きな靴」を売っている店が上位に検索されますが、同時に「大きな靴」で検索されたいと思っている広告が表示されます。検索ワードの組み合わせは無数にありえるので、広告スペースの数も無数に存在できます。広告媒体としてのGoogleのビジネスモデルがすぐれているのは、広告資源にテレビの放映時間のような制限がないことです。

ここでちょっとした矛盾が生じます。Googleを広告に使いたい場合、Googleに広告料を払って検索結果と同時に表示してもらうのと、検索結果の上位に表示されるのと二通りの方法があって、広告スペースに表示されるより、検索結果の上位になる方が普通は広告効果が高いのです。

そこでSEO(Search Engine Optimazation)というテクニックとそれを売り物にする商売が現れます。SEOを行う企業はWebページをGoogleで検索上位に表示されるような手練手管を(もちろん有料で)駆使してくれるのです。テクニックには検索ワードになりやすいものを、本筋とは無関係に羅列するという単純なものから始まって、次から次へと新しい方式が編み出されています。

新しい方式を作るのは、Googleの側も事実上の競争相手のSEOを締め出すために、姑息なテクニックを無効にする改良を日々続けているからです。広告主から見ると、SEOに継続的にコンサルティング料を支払うのと、素直にGoogleに広告料を支払うのとどちらが有効かということなのでしょうが、SEOもWeb2.0の生み出したビジネスの一種であることは確かです。

Googleの検索エンジンの価値は検索ワードに対応したWebページを有用なもの順に表示することにあります。GoogleがWebページの有用性を判断する基準はそのページが、どれだけ沢山のWebページからリンクされているかということです。これは論文の価値を他の論文の引用回数から判断するのと同じ方法ですが、インターネットの世界でも非常にうまく機能しました。

SEOはWebページは有用な順に並べるというGoogleの基本思想と反対の考え方をとります。Webページが有用な順に並ぶのではなく、上位に並ぶことで有用性を得ようというのです。これは人気企業の就職案内に行列する求職者に自分の会社の就職案内のビラを配るような方法で、まっとうなやり方ではありません。

SEOの会社はどう主張するか知りませんが、Googleとのいたちごっこは続くとしても、SEOが大企業になれるようなビジネスモデルではありえないでしょう。少なくとも、次のYahoo、Googleを目指すのならSEOだけでは無理だということは間違いありません。

Googleはなぜ現在のような成功をおさめることができたのでしょうか。Googleの前にYahooが行ったのはインターネット上のWebページの見やすいカタログを作ることでした。カタログを作るためのWebページの分類はYahooの仕事です。Webページの所有者はYahooに登録されたとき、どのカテゴリーにしたいかを申し込むことはできますが、最終的に決定するのはYahooです。

これに対し、GoogleはWebページの重要性のランクを自分では決めません。決めるのはそのページにリンクする数多くの他のWebページです。GoogleがするのはSEO的なごまかし、たとえばWebページ同士がお互いにリンクし合って順位の向上をねらうような行為をチェックして排除するだけです。

基本的なアイデアは単純でもGoogleは世界中のWebページを四六時中なめまわして、索引を更新し続けるために、50万台程度のサーバーを持っていると思われます。おそらくこれは世界最大のシステムでしょう。もともとのアイデアは簡単で特許で防御し切れるとも思えないので、このシステム今やGoogle最大のコアコンピテンスと言っても良いかもしれません。

巨大なコンピューターシステムを除くと、Googleが成功したのはリンクを張るという個々のWebページの判断、努力をまとめることで「Webページの価値」という判断が難しい問題の答えを出したからです。、インターネット全体に分散されている、知識、コンピュータ資源をうまく活用することがWeb2.0に分類される条件です。

BitTorrenと言われても知らない人も多いかもしれませんが、基本はユーザー間でファイル共有を行うという点で、著作権問題で倒産させられたNapsterと同じです。BitTorrenが新しいのはNapsterでは人気のあるサイトはアクセスが集中してレスポンスが悪くなりがちだったのを、アクセスするユーザー自身が他のユーザーにダウンロードする作業を一部負担することで、アクセスが集中するほどレスポンスがよくなる仕組みを作ったことです。

将来Googleに検索エンジンで勝つ方法として考えられるのは、数十万台というGoogleの巨大システムに対抗してインターネットの全サーバーの処理能力を有効に使って索引を作ることでしょう。一極集中という点ではGoogleのシステム構成はWeb1.0的です。

しかし、物理的なコンピューター資源の分散よりはるかに重要なのは、分散された知識を「衆合知」として活用することでしょう。Googleは検索エンジンでは大きな成功をおさめたわけですが、Googleが使ったのはWebページへのリンクという衆合知のほんの一部だけです。

Wikipediaはネット上の百科事典ですが、BritanicaOnlineのようにただ百科事典をネットで読めるようにしただけでなく、膨大な参加者が日々更新を続けるという方法で衆合知を活用したサイトです。

Wikipediaに対する批判者はWikipediaに項目として載せられるような有名人(たとえば野口悠紀雄や西和彦)にも多いのですが、経済、政治、科学さらに芸能ネタと従来の百科事典ではありえなかったような幅広い項目をカバーしています。Wikipediaの寄稿者は専門家であるとは限らないのですが、多くの人が参加して常に推敲を重ねることで、誤りは修正され品質が向上していく仕組みです。

Wikipediaより信頼性はさらに低くなりますが、掲示板やブログでは膨大な人が知識、意見をネットに提供しています。2チャンネルの情報に疑問はあるにしても、少々怪しげでも裏の話を知っておきたいときには貴重な情報資源です。情報の品質と速報性は時々相反しますが、それは官報と週刊誌の関係と同じで理解していれば必ずしも決定的な問題ではありません。

Web1.0、つまり初期のインターネットでは広範な情報がオンラインになりました。これだけでも大変なことですが、ある意味高機能タウンページと言えないこともありません。これに対し、Googleはページの有用性を決定するためにWebページ相互のリンクを使ってインターネットに集まる衆合知を利用することができました。

Googleを除けば、衆合知を「意味のある形でまとめる」ことに成功したものはほとんど見当たりません。SNSは「場」としての意味はありますし、それは沢山の参加者の知識、意見が集まっているからですが、集合体として結果を出すことは目的にはしていません。

衆合知をまとめるための仕組みとして株式市場があります。株式市場は時として過熱したり、暴落したりを繰り返しますが、景気の実態と将来をかなり正確に予測することが知られています。個々の投資家の知識や判断力は限られていても、全体としては経済の方向性を示すのです。
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証券取引所は衆合知を価格に集約する

ブログに書かれているような、膨大ではあっても内容も品質もまったくバラバラなものを関連付け何か意味のある結果を取り出すことは難しいでしょう。今のところ有効な方法はGoogleで検索して価値のありそうなものを探し出すくらいですが、これでは優良な記事を見つけることはできるかもしれませんが、衆合知としてブログの記事をまとめているわけではありません。

どうすれば衆合知を有効に活用できるかがわかればGoogleと同じくらい儲けられるかもしれませんが、衆合知の活用方法はもちろん、衆合知を集めてどうも儲けるかのビジネスモデルもわかりません。

「できればいいな」というレベルでは「手足がしびれる」という症状から、色々な医療情報を集めて診断ができるとか、判例集や法令のサイトを集めて訴訟で勝てそうか、勝つにはどうすればよいかというアドバイスをすることができれば、喜ぶ人は多いでしょう。ただし、これは信頼性も相当高くなければ使い物にならないでしょう。

結局分散された知識を衆合知として活用するには文書の意味を理解する必要があるかもしれません。しかし、コンピューターにはリンクの数を数えることはできても、本当に記事の「意味」をコンピューターが理解することは、当面できそうもありません。

最近は「セマンティック:意味論」という言葉が再びはやってきて、セマンティックサーチとかいって、意味を考えながら記事の検索を行おうという試みが沢山行われていますが、別にコンピューターが本当に中身を理解してるわけではありません。そんなことは今の技術ではできないのです。

それでも、コンピューターと人間を有機的に連携させることで、実質的にインターネット全体から意味のある方向付けの情報を抽出することが可能になるかもしれません。Wikipediaもある程度の参加者が集まれば情報の質が相当高くなることを示しています。

2チャンネルのようなガセネタと本当が入り混じっているサイトでも、株式市場のような正しい情報に基づいて行動するほうが結局有利になるような機能ができれば、有用性はずっと高くなるでしょう。株式市場ではデマで儲けようとする連中は沢山いますが、あくまでも短期勝負です。

もっとも株式市場は証券取引監視委員会のような法的規制機関があって、初めて機能するのかもしれません。あまり楽しい話ではないのですが、公的な選挙の投票などはルールの強制が必要ですから、ケースバイケースで対応する必要は確かにありそうです。

幸いなことにWebの世界はPCのマイクロソフトのような支配者はいません。GoogleもWeb2.0をコントロールできるわけではありません。支配者のいない自由な世界では次々に新しいものが生まれます。PC3.0はありそうにありませんが、Web3.0なら期待はもてそうです。

インテリジェントデザインと人間原理 (前項の続き)
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ポパーは「科学的であること」の定義を示した

(前の項の続き)IDがまず主張するのは、IDは進化論に対するもう一つの科学的選択肢であるということです。つまり、IDが正しいか間違っているかを論じる前に、科学的な方法論としては既存の科学と対等に扱われるべきだというのです。

確かに科学の世界では互いに対立する学説が多数あり、それらの対立が科学の進歩を促します。IDを推進する人から見ると、「偏狭で狂信的なダーウィン主義者や唯物論者」が不当にもIDを議論の場から排斥しようと策謀しているというのです。

もっとも、こののようなイデオロギーの匂いのするような言い方は、日本ではよく聞かれますが、アメリカはもっと緩やかに「IDは進化論を代替しうる科学」との主張が前面に出ます。おそらくこれは、アメリカでは進化論に対する反対が広く存在するため、「進化論を代替しうる科学」ということが抵抗感なく受け入れられる素地が社会にあるからでしょう。

これに対し日本で「進化論は間違っている」と正面切って言うと、「地球は平面だ」と言っているのと同等の受け止め方をされるので、それよりはむしろ受け入れられやすい反共のイデオロギーに沿った言い方になるのでしょう。

アメリカでIDを信じる人は保守的なキリスト教徒が中心と思われますが、日本では統一教会の支援者が主流だと言われています。このブログでは、そのような議論に深入りする気はありませんが、日米のID推進の力点の置き方が多少異なっていることは、理解してもよいと思います。

さて、それではIDは科学と言ってよいのでしょうか。科学と言えるかどうかは、結果的に間違っていたかどうかでは判断されません。間違っていたという意味では、アインシュタインの相対性理論が正しいとされた時点で、ニュートン力学は間違っていることになりました。しかし、ニュートン力学が科学であったことは疑いありません。

オーストリア生まれのユダヤ系の科学哲学者、カール・ポパーは、ある命題が科学であるかどうかの判定をする基準を示しました。ポパーは命題が「反証可能である」ということ、つまり間違っていると証明されてしまう可能性があることが、その命題が科学的であるために必要な条件であると主張しました。

逆に「反証可能ではない」とはどのような命題なのでしょうか。「一角獣は角を一本持っている」というような同義語反復のものは科学ではありません。同じことを繰り返すだけでは、科学的には無価値であると判断されます。定義の明確でないもの、「美人は得」などというのは「美人」や「得」に客観的な定義がなければ、正しいとも間違っているとも言えないので科学ではありません。

次にいかなる方法を持っても、真偽の判定する方法が見つからないものは科学ではありません。「霊魂は疑う気持ちがあると現れない」という命題を検証しようとしても、検証すること自身が霊魂を遠ざけてしまうというのですから、検証のしようがありません。 この場合、命題は科学的とは言えないということになります。

似たようなものに「悪魔の証明」があります。「悪魔は存在する」という命題が間違っていると証明するにはどうすればよいでしょうか。いくら「ここには悪魔がいない。あそこには悪魔がいない」と証明しても、別のどこかから悪魔が現れるかもしれません。悪魔でも宇宙人でも「存在しない」という証明は難しいのです。事実上証明が不可能なら、もはや科学とは言えません。

IDの主張は、生物が今のような形態を持っているのは優れた知性が「目的」をもって設計を行ったというものです。バクテリアの鞭毛の構造とネズミ捕りを比較して、突然変異と自然淘汰の繰り返しだけで、鞭毛が機能するように各部分がそのように進化することは考えられない(IDの言い方では「還元不能の複雑性」を持っている)、高い知性を持つものが設計したと考える以外にありえないというものですが、これは科学的と言えるでしょうか。

「鞭毛は還元不能の複雑性を持っている。つまり構造が突然変異と自然淘汰の結果得られたものではない」というところは反証可能です。現に進化論そのものが反証を行っているわけですから、 IDの主張は科学的命題であると言えます。それでは、「そのような複雑な構造、すなわち還元不能の複雑性、が可能なのは高度な知性が目的を持って設計したからだ」というIDの本丸はどうでしょう。

問題は「高度な知性」の存在をどのように証明あるいは否定できるかです。「還元不能の複雑性」が証明になっているというのはダメです。「還元不能(そうに思える)の複雑性」を見て「高度な知性による設計」を推定したというのですから、それではただの同義語反復になってしまいます。

IDが科学的命題の地位を確立しようと思ったら、「高度な知性」がその設計を実現するために、どのように生物の進化(または創造)に関与したかを示し、なおかつその関与を肯定(または否定)する可能性がなくてはいけません。今のところ、高度な知性がどのように構造物を(単に設計しただけでなく)実現したかをIDは何も示していません。

IDではない(古典的な)創造説なら、宇宙を神が造ったときに設計どおりのに生物ができあがった、ということになっています。また、天地創造の後も、神は啓示、奇跡など色々な形で人間の世界に関与を行っていることになります。しかし、これは宗教としての話で、宗教人自身(少なくともローマ法王庁などは)創造説を科学だとは主張しません。宗教は科学の範疇には入らないというのが現代では普通の考え方です。

ID論者はIDが物質主義に凝り固まり、何でも自分の中で解決しようとする「閉じた科学」(進化論も当然ここに含まれるわけですが)ではなく、その外側に設計者の存在を許す「開かれた科学」であるとします。開かれた科学では、科学的な現象は「目的」をもった存在が引き起こすと考えます。逆に目的なぞ考えない進化論などは自動機械のように世の中を見る「機械論」だということになります。

IDの主張が間違っているか正しいのかはわかりません。つまり世界が「目的を持つ、高度な知性による設計によって造られた」というのはポパーの反証可能性の立場では真偽の判定の可能性がないという意味で科学ではないのです。したがって、あくまでも反証可能なものが科学なのだという基準では、IDは科学であるという主張は根本的に間違っていることになります。

IDに批判的な進化論を擁護する立場(つまり日本ではおそらく圧倒的な多数派)の人には、これで一件落着ということになるかもしれませんが、問題がないわけではありません。ポパーの反証可能性による科学かどうかの判定は強力ですが、強力すぎて科学の定義をかなり狭くしてしまうからです。

たとえば、歴史は同じことを繰り返して検証するということは普通できないので、厳密な意味で反証可能性は持てません。歴史にIfは禁物だと言いますが、織田信長の歴史的な役割を証明したければ「本能寺で織田信長が死ななかったケース」を再現しなくてはいけないわけですから、信長の役割について何を言っても本質的には反証は可能ではないことになります。

最先端の物理学の超ヒモ理論は、当初は反証も検証もできない、科学とは言えない代物ではないかと思われていました。今でも超ヒモ理論の検証方法は示されていませんが、最後までその状態が続けば科学ではないということになってしまうかもしれません。

進化論も地球の歴史の繰り返しはできないので、物理学のように反証可能なモデルを作って理論の証明をするのは難しいことは同様です。進化論にとって地層から出る化石は重要な証拠、あるいは検証方法ですが、化石は普通生物の一部しか残りませんし、年代測定も厳密に行うことは容易ではありません。骨や硬い外皮部分だけしか残っていない状態で、生きている時の各部分の機能を推定しても、正しさ(あるいは誤り)を証明するのは難しいのです。

IDの「還元不能な複雑性」は進化論の使っている方法論の危なっかしさを突いているといえます。「還元不能ではない」と言いたくても、鞭毛や目の各部分が進化の過程でどのように形成していったかを示して「還元可能」を否定するのは簡単ではないのです。

それでも、進化論で使っている方法論は不完全であっても、根本的に科学的ではない、反証可能ではないというものではありません。化石の年代測定は年々進歩していますし、DNAから進化の過程を相当精密に調べることもできるようになりました。難しいということと不可能とは違います。

これに対しIDの「開かれた科学」とか「高度な知性を持つものによる設計」という考え方は、原理的に反証も証明も科学的には不可能です。これは地球の生物が本当に「高度な知性」により作られたことを否定してするのとは違います。

もしかしたら、地球上の生命はどこかの宇宙人が実験(たとえば進化論の検証!)のために造ったのかもしれません。しかし、その可能性を検証しようとすると、突然変異や自然淘汰ではなく、たとえば鞭毛の、あるいは目の設計図のとおりに生物を作る方法を示す必要があります。

設計図から生物を作り出す方法は、人類のまだ知らない物理法則の応用かもしれませんが、宇宙人にできるのなら(すくなくとも原理的には)人類にもできるはずだというのが科学の考え方です。物理現象を使うのではなく、「奇跡」を使うのなら科学ではなく宗教です。

進化の途中で介入しようとするから、奇跡だ何だと「非科学的」な方法を仮定しなければならないので、宇宙のできる最初から現在のような世界ができるように設計したことにすればよいのではないか。

そのように考えたかどうかはわかりませんが、ID論者は「人間原理」を高度な知性や、目的論敵世界観の証明として持ち出します。人間原理とは宇宙や地球が人間の誕生に適したものになっているのは、そもそもそうでなければ人間は存在できず、宇宙に関する議論もできないという考え方です。

弱い人間原理は「宇宙あっての人間」つまり宇宙の法則、年齢その他もろもろは人間が存在できるようなものにならざるえず、そうでなければ今ここで人間が宇宙を考えることはできないというものです。

当たり前のようですが、ノーベル物理学賞の受賞者のフレッド・ホイルは人間原理を使った発見をします。恒星内でヘリウム3個から炭素が形成されるトリプルアルファ反応が起こるためには、炭素が特定のパラメーター(エネルギー準位)を持たなければならず、炭素ができなければ酸素のように炭素より重い元素は作られない、しかし宇宙には炭素より重い元素がたくさんあるのだから、パラメーターはそのように設定されていなければならない、このようにホイルは考え、その考えが正しいことが後に証明されます。これは人間原理を使った最初の科学的発見と言われています。

さらに強い人間原理は「人間がいない宇宙は存在していない」あるいは「存在しないのと同じ」という立場を取ります。「存在しない」と「観測できないのだから存在しないのと同じ」というのは大きな違いがあるようにも思えますが、同じことだというのが強い人間原理です。

余計なことですが、強い人間原理をさらに発展させると「自分がいなくなれば世界はなくなる」という最強(?)人間原理になります。これは一種の不可知論ですから、科学的議論をしても意味はないことになります。

ホイルの発見もそうですが、宇宙や地球の研究が進めば進むほど、人間が今存在していることが奇跡に思えてきます。地球の温度や大気圧は水が液体でいられる微妙な範囲におさまっていますが、地球生命にとってはそれくらいの条件では十分ではありません。

月は潮の干満を引き起こしますが、潮の干満は海の生物が陸上にあがる上で重要な働きをしたと思われています。しかし、月が地球からもっと離れていたら、あるいは小さかったら、そもそも月がなかったら、進化はずっと遅くなったと思われます。

木星がなければ太陽系の外側からくる天体がもっと頻繁に地球に飛翔するので、生命体は存続できなかったかもしれません。太陽がもう少し大きければ、太陽の寿命が短くなって進化する時間が足りなかったかもしれません。

宇宙自身ももし3次元でなく2次元なら、バクテリアのような簡単な袋状のものなら可能かもしれませんが、口から肛門のような管を作ると2つに分離してしまいます。2次元では複雑な生物は作れそうにありません。

人間原理を強く信じるか弱く信じるかは別として、宇宙の様々な要素が人間誕生に必要な非常に狭い範囲(のように見える)になっているのは確かです。IDではこれを「巧妙に調整されている(fine tuning)」と考えます。だれかが目的を持って調整したというのです。
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地球の生命はそれ自身「奇跡」

もしIDが高度な知性が奇跡などという非科学的な方法をあてにせず、巧妙に宇宙や地球の初期条件を調整し、後はなすがままにすることで目的を達成したというのなら、実質的には進化論と同じことになります。つまり、鞭毛も目もどこかの工場で組み立てるのではなく、進化という時間軸でゆっくり形成したということになります。

後は、進化の過程が「目的に沿った」ものなのか、「自然法則にしたがって物質的な因果律にしたがって行われた」ものなのかは、「科学的」には区別のしようがありません。人間原理はものの見方、考え方ではあっても、科学的に検証できるようなものではないのです。

結局、IDを認めるか認めないかは、自然の外側に(人間から見れば)超越者の存在を信じるかどうかと同じことになります。つまり、宗教としてはIDは存在できます。しかし、科学と主張するなら、科学を自分勝手に定義しているだけとしか言いようがありません。

IDを反証可能性や人間原理のような一般にはあまりなじみのない言葉を使って議論するのは、知的な遊戯に過ぎないかもしれません。しかし、議論のための議論のようなことをしなくても、IDの持つ宗教性や危なさを直感的に感じることができるのが、普通の知性でしょう。

ブッシュがIDを支持(多面的な見方を養うために進化論と公平に取り扱うというのは支持と同じことです)しているというのは、国家の指導者として驚くべきことです。指導者がキリスト教徒、イスラム教徒あるいは共産主義者であるというのは、知性が低いからではないでしょうが、IDを信じる(IDは信じるもので本来理解したり支持したりするものではありません)というのは知性が低いからだと断定してよいでしょう。

ただここで知性と言っているのはIQとか知識とかいう意味ではなく、健全な常識人としての判断力です。他の職業ならいざしらず、国家の指導者が健全な常識を欠いているとしたら、しかもその国が世界最大の強国であるとしたら世界はどうなるのでしょうか。今私たちはその実験をしているわけですが。
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まだまし?

インテリジェントデザイン
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ブッシュ大統領はインテリジェントデザインを支持している

日本人には少し想像しずらいのですが、アメリカでは人間は下等生物から進化したという意味で進化論を信じる人は少数派です。2005年に行われたアメリカの世論調査会社のハリス社の調査によると、アメリカの成人のうち進化論を信じている割合が22%、64%は神によって人間は創造されたという創造説を、そして10%は高度な知性が人間を設計し作り出したというインテリジェント・デザイン(以下ID)を信じていると解答しています。

現代的な進化論は1859年にチャールズ・ダーウィンが表した「種の起源」から始まっています。ダーウィンは生物は生来の違いがあり、自然淘汰という生存競争を通じて「適者」が勝ち残ることで、徐々に進化を遂げていくと考えました。ダーウィンの時代には遺伝子は知られていませんでしたが、ダーウィンは後に突然変異といわれる、個体にわずかな変化がランダムに起こり、その変化が個体にとって有利なら、生存競争を通じて子孫に伝えられることが、進化の原動力になり、人間を含め今あるような生物種ができ上がったとしました。

進化論は、キリスト教の聖書の教える、神が地上の生物を一度に今あるように創造したとする考え方と真っ向から対立するものでした。このため進化論はキリスト教の立場から当初激しい反発を受けましたが、化石の研究や、突然変異、メンデルの法則の発見などを通じ徐々に科学的事実と認められるようになって来ました。

それでも、進化論に対する抵抗はアメリカでは根強く残り、多くの州で進化論を教えることを違法とする「反進化法」が成立しました。反進化法は1968年になってやっと連邦最高裁判所が反進化法の制定を違憲であるとするまで、いくつもの州で存続しました。

その後もアメリカでは1982年アーカンソー州で創造説を創造科学として進化論と均等に教えるべきだとする法律が制定される(最高裁で違憲とされた)など、ファンダメンタリスト(聖書を字義通り解釈しようとする立場のキリスト教宗派)を中心としたキリスト教右派からの反撃が続きました。

最初に紹介したハリス社の調査では進化論を信じる割合は10年前と比較してむしろ減少しており、アメリカ社会の保守化とともに進化論に対する反発が強まっていることが示されています。化石が進化論の証明にはならないという人さえ、半数以上いるのです。

しかし、進化論に対し、いきなり神を持ち出して否定することはあまりに「科学的」でないという考えも強まってきたのでしょうか。進化論の問題点を「科学的」に指摘することを通じ、偉大な力の存在を気づかせようというのが、90年代後半から出てきたIDです。

IDでよく引き合いに出されるのは、バクテリアの鞭毛の仕掛けです。バクテリアは器用に鞭毛を動かして自由に水中を泳ぎまわりますが、鞭毛の構造はモーターが駆動力を作り出すように各部分が部品として適切に配置されています。ネズミ捕りでバネを一つ取り除いても道具として役に立たなくなるように、鞭毛の部分、部分は必要不可欠なものとして機能します。こんなことが、突然変異という偶然と自然淘汰だけでつくりあげられるのでしょうか。そうではない、誰か高度な知性が設計しない限り、バクテリアの鞭毛さえ作られるはずはない。IDはそう主張します。

IDのこの考えは、ばかばかしいと一笑に付すこともできるかもしれませんが、直感的には進化論よりむしろ納得しやすいと感じられるかもしれません。進化論はキリンが高い木の葉を食べようとしているうちに首が長くなったとか、寒いところで保温のために動物の体が大きくなるということの説明にはなるかもしれませんが、複雑な構造物を作るための理論としては無理があるような気がする人も多いのではないでしょうか。

しかし、ダーウィンは進化論に対しそのような疑問が生じるだろうということを十分理解していました。進化で複雑な構造が作られていくことを、ダーウィンは「種の起源」の中で目を例にして説明しています。

目はレンズによる集光や網膜による光の感知など、カメラと同じような精緻な構造を持っています。しかし、ダーウィンはそのような構造が、感光機能を持つ皮膚細胞を出発点として、集光増すためのくぼみを生じさせたり、徐々に形作られていったこと、それぞれの過程で、それらの小さな変化が生存競争上有利に作用していったことを論証します。複雑な構造物の形成を進化論で説明することは進化論の最初から行われていたのです。

進化論だけで複雑な生物の構造を説明できるということが直感に反するのは、進化が途方もない時間の結果であるということを忘れているからでしょう。物理学の世界でも、微小な世界では量子力学が、宇宙的なスケールでは相対性理論が支配的になります。時間が伸び縮みするとか、物質が波と粒子の二重性を持つなどというのは、日常感覚で理解するのは難しいのですが、科学的には事実です。

人間の1世代は30年くらいですが、この10万年、3千世代のを経て、少なくとも外見的には目立った変化はありません(肌の黒い、白いくらいの違いはありますが)。進化の様子は日常的な時間感覚で感じられるようなものではないのです。

進化がなかなか目に見えないのは、生物の形態が環境に適合していて、生物に有利な変化はランダムな突然変異では滅多にないことと、有利な突然変異も単に個体の生存競争にプラスになるだけでなく、より沢山の子孫を残す結果にならないと進化としては意味をなさないからです。

犬はチワワからブルドック、ドーベルマンなど多種多様で、とても同じ種に属するとは思えないほどですが、全て同一種で互いに交配も可能(種の定義そのままですが)です。このようなバリエーションは高々人類が犬を飼いだしてから、それも数千年でできあがったものだと思われますが、これは人類という「環境」が変化を選択的に繁殖に反映したからに他なりません。

農産物の品種改良は数十年の単位で相当な変化を実現します。突然変異による変化は意外なほど頻繁で大きなものなのです。ただ自然界では環境への適応と子孫の増加になかなかつながらないため、進化による変化は非常にゆっくりしたものになってしまうのです。

日常感覚だけで判断すると地球も平面に思えてきますが、地球を平面だと主張する人はいません。進化論に対しIDが主張されるのは、進化論が人間も動物にすぎないという点で、キリスト教の信仰のから認めたくないという人が多いからなのは間違いありません。

IDの話が一段と大きくなったのは、ハリス社の調査(2005年6月)と同じ年の8月にブッシュ大統領が、「IDを公教育で教えるべきだ」との発言を行ったからです。ブッシュ大統領は明らかに進化論に賛成しないアメリカ人の多数派に属しているのです。

ブッシュの発言以来アメリカで一層高まったID論議に、ローマ法王庁は反対の立場を明確にしています。バチカン天文台長のジョージ・コイン神父は、ヨハネ・パウロ法王の「進化論はもはや仮説ではない」という言葉を引いた上で、「われわれは強く創造説を信じるが、IDは神を矮小化し、世界を愛するものからただにエンジニアに貶めてしまう」としてIDを批判しています。
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ローマ法王庁は「進化論はもはや仮説ではない」との立場

ローマ法王庁の明言にもかかわらず、アメリカではIDの影響力はむしろ増しつつあるように見えます。ある意味奇妙なことなのですが、ID論者はIDが背後にキリスト教のファンダメタリストがあることは明らかであるにもかかわらず、「IDは宗教ではなく科学である。IDのデザイナーは神を指しているわけではない」という立場を鮮明にしています。ブッシュの公教育でIDを教えるべきだというのも、その文脈からきています。

日本ではIDは一般的には無視または嘲笑の対象ですし、アメリカでも主要な報道機関は進化論に対立する科学的選択肢の一つなどということを真面目に論じることはありません。しかし、IDは進化論では一見説明が困難そうに見えるバクテリアの鞭毛の話など、多くの巧妙なレトリックに満ちており、頭から「非科学的なたわごと」と決め付けると思わぬ落とし穴にはまる危険があります。IDの道具立てをもう少し見てみましょう(この項続く)。
中央リニア新幹線 番外編
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東京一極化は進んでいるが・・・

前の続き) うかつな話なのですが人から指摘されて、今週号の日経ビジネスの特集「東京大誇張」の最初記事で「超巨大都市に賭ける-リニアで始まる日本再生」として、中央リニア新幹線の2020年実現に向けてのJR東海が頑張っていることが書かれていることに気がつきました。

読んでみたのですが、JR東海の意気込みはわかったものの、整備新幹線との優先順位の入れ替えなど、「国家プロジェクトにする」という以外実現への決め手はないようです。国家プロジェクトにしない場合、JR東海が自分で建設してしまうということも理論的には可能なのですが、民間企業ではとても不可能でしょう。

中央リニア新幹線の建設費について7.7兆円-9.2兆円という建設促進のための楽観的と思われる数値が使われていましたが、それでもJR東海の新幹線収入年1兆円、設備投資可能金額3千億円と比べてあまりに巨額です。

建設金額が恐らく楽観的なものである上に、革新的な技術利用に伴う問題の発生、環境問題や住民の反対による建設の遅れなどリスク要因が多く、莫大な建設費とあわせて考えると民間企業が容易に手を出せるものではないでしょう。
                                

建設費が巨額でかつリスクが高くても、それを上回るビジネスモデルが提言できれば、市場から資金を調達する方法があるかもしれません。19世紀の鉄道は、有望な投資対象として主として民間資金で建設されたのですから、まったく不可能ではないのかもしれません。ただし、ビジネスにノーベル賞があれば受賞できるほどの革新性が必要です。

皮肉なことに日経ビジネスの特集「東京大誇張」は、東京への集中の進展がメインテーマで、東京、名古屋、大阪が一体化した東海道メガロポリスにはあまり関心をはらっていません。意気込んでいるのはあくまでもJR東海(と山梨などの関係地域の政治家)だけなのです。

結局、前回のブログの内容を覆すものはあまりないと言ってよいと思うのですが、私自身はルートに不満は残るものの、そして成田-羽田のような優先すべき路線があると思ってはいるものの、東京と大阪をリニアで結ぶというアイデアには否定的ではありません(ブログを読まれた方はそう感じなかったかもしれませんが)。

東海道新幹線も建設前は不可能だとか、世界的に鉄道が衰退する中で建設するのは、エジプトのピラミッド、戦艦大和とならぶ世界の三馬鹿だとか散々だったのですが、開業以来死亡事故を一度も起こさず、巨大な経済効果を生み出しました。

リニアが同等の効果を発揮できるかは疑問ですが、東海道メガロポリス化は進展しており、今の日本で数少ない、それなりの経済価値が期待できる公共事業(民間での建設は前述のように現実的ではありません)です。 たとえ20兆円かかっても長期的には勘定に合うでしょう。

それに引きかえ整備新幹線は建設に10兆円くらいかかるでしょうが、効果は非常に限定的で、投資に見合う見込みはなさそうです。中央リニア新幹線は技術革新も含めた広範囲の波及効果も期待できます。

それにつけても、中央リニア新幹線の予定ルートは良くないですね。東海道メガロポリスの主要都市は結ぶべきですし、そうしないと現在の新幹線との有機的な運用も難しいでしょう。そもそもJR東海だって、本当の意味の利便性が高くなければビジネスとして魅力がないはずです。

日経ビジネスの記事で面白いと思ったのは、リニアができれば東京-大阪の飛行便は不要になるので、羽田の発着枠に余裕ができるということが指摘されていました。そうすれば整備新幹線の必要性はますます小さくなるはずです。総合的交通政策としては、はるかに整合性のある考え方です。

しかし、残念ながら整備新幹線もできず、中央リニア新幹線もできず、成田―羽田もリニアでは結ばれずということで、多分革新的なことは何もなしで、次第に細る公共事業と疲弊する地方という図式が変わることはなさそうです。本当は日本にとって残された資源も時間も、そう多くはないのですが。

中央リニア新幹線の行方
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JRリニアは技術的には実用段階

一昔前なら新年のめでたい夢として適材だったのかもしれませんが、中央リニア新幹線の建設について書いてみます。中央リニア新幹線のリニアは、リニアモーターカーの略なのですが、これは電気モーターの替わりに、磁石を線形(リニア)に並べることで駆動力を得ることからきた呼び方です。

リニアに磁石を並べて電気モーターを使わない方式で列車を走らせる技術は、大江戸線でも使っていて、それほど斬新な技術ではありません。中央リニア新幹線では磁気の反発力を利用して、列車をレールから浮上させて高速で走行するところがミソです。英語ではリニアモーターカーとは言わずに磁気浮上と言う意味のMagnetic Levitated略してマグレブ(MAGLEV)と呼びます。

中央リニア新幹線ではJRが開発しているJRマグレブを使う予定なのですが、世界にはドイツのトランスピッドなどもあって、こちらは上海で空港と都心を結ぶ高速交通機関として2003年に開通して、30キロの区間を最高速度430km、7分半で結んでいます。

磁気浮上式のリニア(以下単にリニアとよびます)の魅力は何と言っても、レールと接触しないために、摩擦の限界に縛られず高速走行が可能になるということです。実用化されている上海のトランスピッドは最高430kmですが、JRの実験では550km以上を記録しています。

技術的には車両側に安定的に強力な磁力を発生させるために超伝導技術を使用するなど、目新しいものもあるのですが、JRが宮崎の実験線でテストを始めて30年以上たち、かなり完成の域に達してきていると思われます。

中央リニア新幹線はリニアを使って東京と大阪を1時間で結ぼうというもので、現在は1997年に供用された山梨リニア実験線で実用化に向けてテストが繰り返されています。技術的に成熟してきているのですから実現に動き出したら良さそうなものなのに、掛け声ばかりで進展はありません。

実現を阻んでいる大きな要因に建設費があります。現在の予想では7.5兆円から10兆円となっていますが、これは「作りたい」と思っている人たちの計算ですから、軽く2倍くらいかかると思っていたほうが良いでしょう。仮に20兆円なら、時代が違うとはいえ、東海道新幹線の60倍以上にもなります。

金がかかっても、元が取れればよいのですが、東海道新幹線の売上げが年間約1兆円ですから、それと比べても相当な金額です。それでも現在の新幹線の売上げをそのままあてにできれば良いのですが、そうなりそうもありません。

そうなりそうもない理由の一つは、中央リニア新幹線の予定コースにあります。図で見るとわかるように、中央リニア新幹線は東海道新幹線を置き換えるものではなく、東京から山梨、長野を通り、横浜、静岡のような大都市は素通りになります。近畿では三重、奈良経由となり京都は通過しません。
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中央リニア新幹線の予定ルート


このようなルートになった理由は、東海大地震の際のバイパス機能を果たすためとか、広範囲な経済効果を生み出すためとか色々言われていますが、要は自民党の実力者だった山梨が地元の金丸信を始めとした、強力な政治的圧力の結果であることは明白です。

単に地震対策だけなら、建設時の規格を高めるとか、地下部分を増やすとか他にもやり方はあるでしょうし、代替ルートなら航空機や北陸新幹線の延伸などもあるでしょう。一度流れが決まると方向変換が難しいのが、この手の話の常ですから、公共投資が難しくなってきた今も見直しは行われそうもありません。

政治的圧力で決定したルートですが、実はもっと強力な政治的圧力、整備新幹線を作るという決定が中央リニア新幹線の実現の前に立ちはだかっています。中央リニア新幹線は整備新幹線にもなっていないので、整備新幹線が完成(!)してからでないと、着工を認められそうもないのです。

中央リニア新幹線の採算性やルートに疑問があるとしても、完成すればそれなりの需要は期待できるでしょう。これに対し、たとえば整備新幹線で札幌まで新幹線が延伸されても、東京から札幌まで7時間半もかけて飛行機でなく新幹線を使う人が、それほどいるとはとても思えません。

日本は南北2千キロ以上の長さがあり、山が多く、隅々まで鉄道で結ぶより、飛行機、自動車と組み合わせたほうが、より効率的にアクセスを確保できることは明らかなのですが、「とにかく新幹線を作れ」という圧力はなくならないのです。

リニアはモーターの材料をレールに並べるようなことをするので(この他に列車の数だけ変電所が必要になります)、通常の鉄道と比べ基本的に建設費がかさみます。しかも、高速を維持しようとするとなるべく直線に近いコースを取る必要があります。結果として、大都市では大深度地下利用が必須となってきますし、中央リニア新幹線のような山岳地帯ではトンネルだらけで、まずます建設費が高くなります。

常識的には、上海のように空港から都心まで数十キロを10分程度で結ぶような利用法がもっとも威力を発揮します。成田と羽田、約80kmを15分程度でリニアで結べば、二空港を一体的に運用することも可能になります。建設費も2-3兆円程度でしょうから、空港をもう一つ作るくらいですみます。ただ、こんな計画は中央リニア新幹線推進派は黙っていないでしょう。

JRのリニアはほとんど純粋の国産技術ですから、無駄にするのは惜しいのですが、このままでは政治的圧力でお蔵行きになるのは避けられそうもありません。こんなことで良いのでしょうか。(続き
ホワイトカラーエグゼンプション
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やってられねー

みのもんたが「わからない英語を使うな!」と言っていましたが、まったくそのとおりで、「残業代適用除外」とか「サービス残業合法化」とか日本語にしないとこところが、誤魔化したいという気持ちの表れと言われても仕方ないでしょう。「ホワイトカラーエグゼンプション」を推進する経団連の要望を受けて、厚生労働省は2007年にも関連法案を成立させる、制度改変に向けて動き出しました。

ただ、厚生労働省はさすがにホワイトカラーエグゼンプション(めどうなので以下WEと略します)とはいわず、「労働契約法制及び労働時間法制の在り方について」の労働政策審議会の答申の中で「自由度の高い働き方にふさわしい制度の創設」という項目でWEを提言しています。

WEとは、主としてホワイトカラーの労働者が一定の条件を満たせば、労働時間規制を免除する、つまり残業代を支払わないというものです。その一定の条件も「専門的な業務に従事している」、「年収400万以上」、「管理者に順ずる」とか色々言われていますが詳細はまだ決まっていません。しかし、経団連の目論見どおりになると、大企業なら大学卒後入社2-3年目のホワイトカラーは基本的に残業代がなくなることになりそうです。

当然のことですが、WEに労働側は反対、経営側は賛成ということになるのですが、経団連が積極的にWEを推進しているのに対し、経済同友会は時期尚早としており、必ずしも一枚岩ではありません。

WEについて反対派と賛成派に共通しているものがあります。それはWEを導入すると給与は減少するというものです。しかし、本当にそうなるのでしょうか。確かに残業代がなくなれば、理屈の上では人員削減を行い、残った従業員の労働を強化、しかも残業代は払わなくて良いということで、人件費は大幅削減となるのですが、そう物事が進むとはあまり思えません。

現在でも従業員とくに正社員を減らせば、残業代を払っても人件費は削減できます。つまり、WEがあろうとなかろうと、従業員を減らせることできる企業は、今でも一生懸命減らしています。WEが直ちに従業員削減につながることは、あまりなさそうです。

残業代を請求しない残業、いわゆるサービス残業が増加する、ひいては過労死が増加するというのはどうでしょう。これは確かにありえるのですが、過労死に関してはWEと別に考えたほうが良いと思います。

厚生労働省の指針では、死亡前に80時間以上の残業が2ないし6ヶ月続くと過労死と認定されます。100時間以上なら一ヶ月でも過労死と認定される可能性があります。これは相当厳しい基準で、毎日10時まで残業し、休日出勤を3-4回すると超えてしまいます。この程度働いたことが一度もないホワイトカラーはあまりいないのではないでしょうか。

一見厳し過ぎるように見える厚生労働省の指針ですが、実際残業が80時間を越えた月が続くと、高血圧による脳内出血、鬱病さらに鬱病による自殺などの危険が生じてきます。人間は案外もろいものなのです。

WEがなくても管理職は残業規制がありませんし、管理職のほうが一般的に年齢が高く過労死、過労死にはいたらないまでも疾患を生じる可能性は高いはずです。過労死の防止は管理職も含め、WEの導入とは別個に考えるべきでしょう。

過労死の危険は別としても、サービス残業が公認されることでの労働強化どうでしょうか。残業規制を従業員の健康上というより、経費削減の観点で実施している企業は多いので、管理職としては大助かりとなることはあるでしょう。

しかし、WEが導入されてしばらくすると、残業手当が出ないので終業時刻になると皆いそいそと退社することが多くなるでしょう。フレックスタイムも本来はライフスタイルに合わせて、早出、遅出が自由に行われるということだったのですが、すぐに遅出が大部分になってしまいました。

管理職は残業を命じることはできますが、残業代があって命じるのと、なくて命令するのでは大違いです。残業代がなくなると、やたら強権をふるうか、人格識見でリードするか、どちらかでないと残業させられなくなってくるでしょう。

結局、残業代を支払わないとなると、仕事と成果を明確に定義して業務配分を行うということが今よりずっと重要になります。かりに命令された仕事が、どう考えても残業を沢山しないとこなせないほど多いとなると、部下に露骨にいやな顔をされる場合も多くなるはずです。管理職はますます胃が痛くなる局面が増えるわけです。

WEが普及すると、大多数の決められた仕事を定時まで行うだけの社員と、少数の上昇志向が強く、出世のためにはいくらでも働く社員に二分化が進むでしょう。残業に対する抵抗感が強くなると、業務の増大には社員の増加か、本物の効率化(つまりサービス残業による計算上のではない)が必要となります。本物の効率化は大変ですから、社員を増やさないと仕事の質の低下が起きる可能性が高くなります。

一方出世のためにはいくらでも働く社員は、出世ができないと長時間のただ働きをすることになってしまいます。誰もそんなことは嫌ですから、転職してしまう可能性が高くなります。WEの趣旨はホワイトカラーの多くは労働時間と成果が必ずしも比例しないということですから、優秀な社員は残業手当を出さなくても、残業手当以上の給料を与える必要が出てきます。

以上は私の頭の中で考えただけの話ですから、実際にWEが導入されて何が起きるかはわかりませんが、残業手当廃止による人件費削減の効果は一時的である可能性は経営側も覚悟しておく必要があるでしょう。

WEの前に成果主義といって、成果が多ければ給料を増やし、成果が少なければ給料を減らすという制度がありました。これは過去形ではなくほとんどの企業は成果主義を大なり小なり導入しています。

成果主義は一見合理的な考えですが、成果の定義が明確にできるのは営業マンくらいで、その他の社員は人事考課の本質が変わらないまま、恣意的に成果を決められる結果になりました。しかも、成果主義は給与総額を減らすという方針が経営側にあったので、社員の不満は非常に大きくなりました。

今回のWEも経営側にとっては柳の下の二匹目のドジョウなのかもしれませんが、今の雇用市場は成果主義導入時と比べずっと従業員側に有利になってきています。つまり、自分自身の判断で自由に仕事を進めるという、WE推進側の建前と実際が一致することも十分に予想されるのです。

もちろん、WEで残業代カット、経費削減にてぐすねひいてまっている企業のWE濫用をさけるために、運用に関する十分な注意は必要ですが、WEは必ず従業員に不利に働くとは限らない、特に好況時にはむしろ有利に働くことはもっと理解されても良いと思います。

借金なんて怖くない
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日本の将来は?

確実なことなど何もないような世の中で、確かなことがあります。日本が少子高齢化の社会に向かっているということです。今40歳の人は30年後には70歳になります。20年後の20歳は現在の零歳児です。将来の人口構成が予測を根本的にはずれることは、まずありえません。

2006年の日本の総人口約1億2千7百万人、65歳以上の割合20.5%は、現在の推定では2020年ごろには1億2千4百万人、28%になります。さらに2050年ごろには日本の総人口は1億人を切るかきらないか、65歳以上の36%程度に達すると予想されています。

2050年ごろになると仮定のおき方で、数字のふれも大きく異なってきますが、それでも少子化の進行が遅いケースで総人口1億8百万人、65歳以上が33%、早いケースでは総人口9千2百万人程度、65歳以上39%になると見積もられています。

高齢化もさることながら人口が減少していくというのは、あまり楽しい予想ではありません。ピーター・ドラッカーは日本の人口減少の速度を「民族の集団自殺」と表現しましたが、単純に現在の傾向を延長していくと、数百年という歴史的にはそれほど長くはない時間軸で、日本民族は消滅してしまいます。

もっとも、将来予測は2050年ごろが限度で、それ以上になると色々な条件が影響するので、むやみに悲観的になったり、楽観的になることは良くないでしょう。2・26事件の理論的首謀者として処刑された思想家の北一輝は1923年に「日本改造法案大綱」を著し、21世紀には日本の人口は当時の4倍の2億5千万人になり、海外に進出しない限り日本民族は存続し得ないとして、日本の中国侵略を正当付けました。国家百年の計と言いますが、先を読みすぎるのも時には良し悪しです。

先を見すぎるのは危険であるとしても、2050年ごろまでの予想はそう大きくはずれることは考えられません。人口が減少し、年金支給開始年齢の65歳以上の割合が増加すれば、年金財政は苦しくなります。対策として、年金支給開始年齢を上げる、支給額を減額する、保険料率を上げるなどを行っても、後の世代ほど、負担に対し受け取る年金額が減ることは変わりません。

現行の制度のままだとすると、1930年生まれの負担に対する支給額の割合が、3.78倍なのに対し、団塊の世代の1950年生まれは1.63倍、1990年生まれは0.9倍になります。このうち1990年生まれあたりになると、少子化の進行度合いにより、もっと数字が下がる可能性もあります。

ただ世代間格差はあるものの、1990年生まれで0.9倍ということは年金制度が崩壊することは、少なくとも近い将来はあまりありそうもないということです。年金制度は崩壊するからせっせと納めても意味がないとか言って、国民年金を納めようとしない人がいますが、そんなことはありません。1930年代生まれのように4倍近い大儲け(?)ができないというだけです。制度改革で0.9倍は1倍に近い数値に落ち着いてくるでしょうから、出した分程度は返ってくることになりそうです。

ただし、出した分だけ取り戻そうとすると、少なくとも平均寿命程度は生き延びる必要があります。また、何とか国民年金納付を逃げとおして、もっとうまい利殖を行ったのに比べれば、損になることは事実です。「年金」という言葉が自分の積み立てた金を将来一定額で返してもらえるという誤解を与えているだけで、納めた金をそのままその時の支給に使うという点で、建前はともかく年金は税金と根本的には同じです。

それでも世代間で不公平があるということに不満は残るかもしれません。たまたま生まれた年代と人口構成の変化という、本人の努力とは何の関係もないところで、支払額と受取額の割合が大きく異なるからです。

ただ、世代間の不公平というのは簡単に比較することはできません。1930年ごろに生まれた人たちは、納付額よりずっと多くの支給を受けていますが、その親の世代は年金をほとんど受けていません。つまり親の扶養を考えると、1930年代の子供にあたる団塊の世代のほうが実質的には負担が少ないかもしれません。

親子の年齢差は当然個人差がありますから、世代間の負担割合のような平均値が問題なのではなく、一人ひとりの親子の年齢によって損得は違ってきます。まして、親の扶養は兄弟の数や同居の有無などで異なってくるので、比較はますます難しくなります。しかし、世代ごとの不公平を云々するのなら、本来は親の扶養や、将来負担を行う子供の養育を考える必要があるはずです。

平均的な比較が難しくても確かなことがあります。それは親から遺産を受け取れる人と、そうでない人は経済状態に大きな差が生じるということです。世代間の不公平は逆に見れば、世代内では公平ということになりますが、遺産は世代間の不公平を世代内で拡大再生産をさせてしまいます。

日本の人口が減少に向かえば、個人の財産の蓄積を考えると、年金の支給額が減っても平均的にはむしろ日本国民は豊かになると考えられます。しかし、それはあくまでも平均で、過去の財産を受け継ぐことができるかどうかは、親の世代の経済状況によるわけですから、親に財産がなければ少ない年金支給だけが残ることになります。

親に財産があれば有利だったのは今に始まったことではありませんし、まして少子高齢化とは関係のない話なのですが、GDPの1.5倍の借金を日本国がかかえて年金支給が実質的に減額され、格差社会が問題になっていることを考えると、矛盾がないとは言えません。

世代間の不公平を世代内に拡大再生産するのを減らすために、相続税を増税することが考えられます。現在日本の相続税は1兆3億円程度ですが、3兆円まで増加させれば消費税を1%減少(あるいは増加を抑制)することが可能です。

しかし、相続税の大幅な増加の影響は小さくありません。ほとんどの人にとって相続税の大半は不動産で、場合により住んでいるところ売却する必要があります。中小企業ではオーナーが相続税のために事業を売却し、事業継続そのものが困難になることもありえます。国際比較でいえば、日本の相続税は低いほうではありません。大幅な増税は現実的ではないのかもしれません。

それでも、相続税や固定資産税のような財産に対する税を強化しない限り、世代間格差が増幅して世代内格差につながる状況は改善しないでしょう。一つのアイデアとして税金を支払う替わりに、超長期の国債たとえば50年程度の国債の購入を行わせることは考えられます。

いっそのこと永久国債を発行して、購入分の相続税を全て免除してしまってはどうでしょう。相続税が重くなることの問題をすべて解決することはできませんが、積みあがってしまった国債の返済は大分楽になるはずです。実は通貨は一種の永久国債と考えられるのですが、国債の返済で通貨の大量発行(政府の日銀からの借金で発行する)を行うと大インフレは避けられないでしょう。それよりはましなはずです。

今の日本の財政状況を家計にたとえると、年収460万円で支出が800万円、差は借金でまかなっていることになります。しかも積み上がった借金が7,500万になっているということになり、個人なら自己破産が射程圏内です。しかし、国家は個人と違って寿命があるわけではありませんし、今のところ貸手も大部分は日本国民自身です。破産するぞといたずらに危機感をあおるのではなく、冷静に対応すれば大借金も解決は可能なはずです。

こどもに愛国心の教育をするのも良いかもしれませんが、永久国債を愛国国債とでも呼んで、愛国心で借金返済をする方が日本国のためには役に立ちそうです。いずれにせよ、借金を孫子の代に残すことを恐れてはいけません。財産も残すのですから。