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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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チキンゲームは終わらない
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昨年10月に北朝鮮問題をゲーム理論の観点で分析した記事を書いたのですが(チキンゲームと北朝鮮(1)(2)(3)タカ戦略とハト戦略-チキンゲームを勝ち抜くために(1)(2))、その時の結論は米朝は50%以上の確率で衝突するのではないかというものでした。 しかし、その後米朝のベルリンでの二国間折衝と、それに続く6カ国協議で、北朝鮮が核施設の「無能力化」を条件に、エネルギー支援を受けるという形で、当面の解決が行われました。

50%以上という予想はあっさりはずれたわけですが、前述の記事で「北朝鮮は最後までタカ戦略を取り、回避行動を取ることはない」という部分の予想は正しかったと思います。つまり、北朝鮮は「核兵器を手放す」という妥協はしていないのです。

意外なのはアメリカがハト戦略、つまり回避行動を取ったということです。この場合ハト戦略でないタカ戦略とは「北朝鮮にあくまでも後戻りできない形で、完全な核放棄を実現を要求し続ける」というものです。

アメリカが北朝鮮が「寧辺の黒鉛減速炉を始めとする5箇所の核関連施設を2ヶ月を目処に稼動を停止すること」を核放棄を意味すると解釈するほど、お人よしとは思えません。したがって、今回の合意はチキンゲームで運転する自動車のハンドルを切った、少なくとも大幅にスピードを落とした、ことになるのは理解しているはずです。

今回のアメリカのハト戦略への転換は、アメリカ国内のタカ派から強く非難されていますが、なぜアメリカがここにきてハト戦略を取ることにしたかは今一つはっきりしません。一応考えられるのは北朝鮮が核実験をしたという現実があって、何もしないというわけにはいかない、北朝鮮を攻撃するか、そうでなければ「少しでも朝鮮半島の非核化に向け前進している」という印象を内外に示したかった、ということかもしれません。

ここであたふたと妥協的な態度を取るより、有効性が明らかになった金融制裁をはじめ、北朝鮮への兵糧攻めを続けるという選択肢はなかったのでしょうか。これは軍事オプションを取るという完全なタカ戦略ではありませんが、少なくとも回避行動を取るのとは違います。

アメリカにとって問題なのは、兵糧攻めを続けたあげく、北朝鮮が軍事的に暴発する、または国家として崩壊してしまうという可能性が否定しきれないということです。軍事的な暴発が生じた場合(アメリカから攻撃しても同様)クリントン政権時代の予測で、5.2万人の米軍と50万人の韓国軍の死傷者、および膨大な一般市民の犠牲が生じるとされています。これはイラク戦争とは比較にならない巨大な損害です。

北朝鮮国家が崩壊した場合の予測も困難ですが、これは中国と韓国にとって耐え難い打撃を与えると思われます。戦争ほどではないでしょうが、中国、韓国だけでなく、アメリカや日本にとっても影響は大きいでしょう。

軍事的暴発にしろ、国家の崩壊にしろ実際にどの程度の確率でおきうるかということは、北朝鮮のような閉鎖国家に対して予測することは困難です。私はどちらも起き得ないだろうと思っていますが、本当のところは金正日自身を含め誰もわからないでしょう。

アメリカとしては戦争も国家崩壊も避けたい、まして中東で足を取られている状況ではとても朝鮮半島には手が回らないというのが本音だったのでしょう。戦争は北朝鮮が核兵器を持った現在、クリントン時代の予測よりさらに大きな被害が生じる可能性があります。核兵器の所有は北朝鮮にとってチキンゲームの勝利に間違いなく大きく貢献しているのです。

ただ、チキンゲームはまだ終わっているわけではありません。寧辺の核施設を「無能力化」しても、北朝鮮としては持続的に援助が欲しいでしょうから、何かまた脅威を作り出して、それをネタに援助を引き出そうという戦略を続けることが予想されます。

同じことを繰り返すと、アメリカ政府に対する批判も国内的に高まるでしょうし、本当に堪忍袋の緒を切らせて軍事オプションに突入するか、そこまで行かなくても再び兵糧攻め作戦に戻ることは十分考えられます。また、ゲームは振り出しに戻るわけです。

日本はどうすれば良いのでしょうか。あまり大きな声で言われていないこととして(少なくとも、日本人でそんなことを言う人を私は知りませんが)、日本は北朝鮮問題では一貫して有利な立場を享受しています。これは日本人がそう思っていないだけで、韓国人、北朝鮮人はきっと思っているでしょう。

まず日本の戦後復興に朝鮮戦争が大きな貢献をしたということがあります。朝鮮戦争のとき日本は特需で(当時としては)大きな経済的利益を得ました。これに対し、朝鮮半島では3百万以上の人命が失われ、国土は徹底的に破壊されました。朝鮮戦争がなければ、日本の経済発展はずっと遅れて始まったでしょう。朝鮮戦後も日本はアメリカから旧敵国として敵視されずに、同盟国として扱われることなりました。

その後の日韓条約で日本は韓国に無償、有償合計8億ドル(当時のレートは1ドル360円)の援助を与えることになりましたが、北朝鮮への賠償問題は残っています。北朝鮮との国交正常化交渉が始まれば、北朝鮮への日本の賠償、援助が最大の課題になるでしょうが、核に加えて拉致問題があり、国交正常化交渉はなかなか始まりそうもありません。少なくとも日本は当面の支出は免れ続けているわけです。

北朝鮮の側から見ると、日本は拉致問題を盾に、国交正常化どころか、今回の6カ国協議の合意にもかかわらずエネルギー支援を渋っているという構図になります。北朝鮮は日本に強硬な態度を取っているように見えますが(事実強硬ですが)、日本に対しはチキンゲームを仕掛けることさえできない状態です。

北朝鮮が日本にチキンゲームを仕掛けられないのは、日本は憲法9条のおかげで、朝鮮半島への軍事的コミットをしなくても良いからです。日米安全保障条約や集団的自衛権のことを考えると、朝鮮半島有事の際、本当に日本は戦争に巻き込まれないか、という議論があるでしょうが、朝鮮半島有事すなわちアメリカの参戦ですから、日本だけを標的にはできません。

テポドン、ノドンや原爆で、一方的に日本に甚大な被害を与えることは可能なのかもしれませんが、甚大ではあっても「致命的」ではありません。北朝鮮工作員が原子力発電所や新幹線を攻撃することを心配する人もいますが、これは「戦争」のレベルでは甚大な被害にも相当しません。そもそも、日本は戦争するぞと北朝鮮を脅かしているわけではないので、チキンゲームにならないのです。

戦争ではなく北朝鮮が崩壊した場合はどうでしょう。武装難民が日本に押し寄せることを心配する人もいますが、船で100万人単位の難民がわざわざ日本を目指すとも考えられません(第一そんなに船をもっていないでしょう)。崩壊して困るのは韓国、中国で日本への被害は間接的です。

色々なケースを考えると、北朝鮮がどうなろうと、日本より先に韓国、中国、アメリカが困る以上、チキンゲームでいえば、日本は先頭車両の後ろを走っている状況です。スリリングかもしれませんが、命を的にしているというわけではないのです。

拉致問題は拉致家族にとっては極めて深刻な問題ですが、国家を揺るがすような事態ではありません。拉致問題でチキンゲームをやるなら、人質をとったハイジャック犯人のように、言うとおりにしないと、拉致した日本人を一人づつ殺すぞと言う手はありますが、拉致自身を認めない状況では、その手は最初から放棄しています。

最後は妥協の必要が出てくるかもしれませんが、北朝鮮が核なら日本は拉致問題だとつっぱり続けることで、北朝鮮以上に妥協の値段を高くすることができます(これは拉致家族の心情を無視した考えだというのはもちろんですが)。

このように考えると北朝鮮はチキンゲームでは強いが、チキンゲームの構図に持ち込まない限り、日本から当然受け取れるはずの賠償金ももらえない、損ばかりしている国ということになります。実際、今回の6カ国協議の合意でも、継続的に援助をもらえ続けるとは思えず、核保有国として自尊心を満足させただけで、果実をほとんど得ていないのではないかと思います。

イザヤ・ペンダサン(ユダヤ人となっているが実態は不明)の書いた「日本人とユダヤ人」で、ペンダサンは「日本人は外交的天才」と言っています。対北朝鮮の立ち回りを見ているとあながち間違っていないのかもしれません。

日本にいると「日本は外交が下手だ」「北朝鮮にいいようにあしらわれている」「日本は孤立化の危険がある」という論調ばかりが聞こえてきますが、見方を変えると日本は北朝鮮以上にしぶとく、巧みに事態を泳いでいるといえます。天才は自分のことを案外天才と気がついていないものなのかもしれません。

日本として難しい判断を迫られるとしたら、北朝鮮が再び拉致をあっさり認め「今いる拉致日本人の情報の完全な公開と日本人の返却に応じる」とした場合です。今の北朝鮮を見ていると考えにくいかもしれませんが、小泉訪朝で拉致を部分的であるにしろ認め、5人の帰国を許したことだって、以前の北朝鮮の言動からは考えられないことだったのです。

北朝鮮が絶対しないことがあるとすれば、核兵器を放棄することです。逆に言えばそれ以外は、なんでもありと思ってもよいでしょう。拉致問題が解決したら、核には目をつぶって北朝鮮と国交正常化を行い、莫大な資金援助を北朝鮮に行うのでしょうか。あるいは拉致された日本人を見殺しにするのでしょうか。

日本人はずるいというのは、韓国・北朝鮮、中国に限らず、日本人へのある種のステレオタイプとして存在するのですが、実際は国民的合意に基づき、長期的な観点で優先順位付けをするということが大変苦手な国です。合意形成ができないまま、国内事情に依拠した主張を続けるところが外側からはずるく見えるのかもしれませんが、結局は一番大きな果実を手にすることが多いのも事実のようです。まぁ、これこそ天才の天才たる所以かもしれませんが。
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それでもクジラ食べますか?
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グリーンピースの反捕鯨アピール船

去る2月13日から15日まで、東京で捕鯨賛成国を中心に国際捕鯨委員会(IWC)のあり方について議論が行われました。 反捕鯨派が優勢なIWCでは建設的な議論ができないという日本の主催により開催されたこの会議は、IWCの正式な催しではありません。あまり大きな報道はされなかった会議ですが、会場の外では海外からグリーンピースのメンバーが集まり、日本の捕鯨賛成国獲得の買収活動だと非難を繰り広げました。

IWCの加盟国は2006年末で66カ国ですが、日本の熱心な捕鯨賛成国獲得活動にもかかわらず、捕鯨反対国が過半を占めています。現在の捕鯨は1982年のIWC会議で商業捕鯨が禁止(正しくは「モラトリアム」:中断)されて以来、年間数百頭の調査捕鯨を細々と続けている状況ですが、商業捕鯨を再開するにはIWCで4分の3以上の賛成が必要で、実現は絶望的です。

IWCは1946年にアメリカを中心とした15カ国が条約締結を行い、1948年にそのうち9カ国が批准して成立しました。日本が加盟したのは連合軍の占領が終了する1951年でその時点でIWCの加盟国は17でした。その後、IWCは捕鯨国を中心に構成され加盟国はむしろ減少し、一時は14カ国にまでなりました。

ところが1970年代になり、反捕鯨派が捕鯨反対の票を増やすため、非捕鯨国の積極的な加盟運動を行い1980年には40カ国を超えました。新たに加盟した国の多くは反捕鯨の立場を取り、1982年に商業捕鯨が禁止され現在にいたっています。

この経緯でもわかるように、IWCが当初捕鯨国が資源保護も含め、産業としての捕鯨を国際的な協力で維持発展させようというものだったのに対し、途中から「クジラ保護国際会議」のようなものに変質してしまいました。今のIWCには捕鯨どころか海さえない内陸国もあり、捕鯨に反対するためにだけ加盟している国が多くなっています。

クジラは本当に絶滅しそうなのでしょうか。クジラは多くの種類があり、ミンククジラなどはIWCの推定で50万頭から110万頭(中央値76万頭)おり、商業捕鯨停止以来増加してきていると考えられています。 もっとも、広い海洋を遊泳するクジラの実数を把握することは困難で、IWCの推定値が大きな幅を持っていることからわかるように、どの程度増えているか(あるいは減っているか)を判断するのは簡単ではありません。
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なかにはシロナガスクジラのようにIWCが860-2,900頭(中央値1,700頭)と推定するように危険なレベルに達している種類もあります。シロナガスクジラはクジラの中でも最大の大きさを持つ象徴的な種類ですし、昔は20万頭程度生存していたと推定され、乱獲の影響をもっとも大きく受けており、頭数の回復も思わしくないようです。

グリーンピースなど反捕鯨団体はクジラ問題をシロナガスクジラ問題に置き換えて、絶滅の危機にあると言います。これに対し、捕鯨賛成派は主としてミンククジラを例にあげて「クジラは増えている」と主張します。数字を都合の良い部分だけつまみ食いするのは感心しませんが、捕鯨賛成派は少なくとも資源として安定的な種類を取りたいと主張しているわけで、シロナガスクジラの数を根拠にクジラ全種の捕獲全面禁止を求める反捕鯨派のようなことはしていません。

科学的には捕鯨派の方が分があるはずなのですが、捕鯨賛成派には不利な状況が続いています。これは反捕鯨派の作戦的な勝利と言うことができます。反捕鯨派の中心はグリーンピースなのですが、グリーンとピースつまり環境と平和を求めるグリーンピースの活動で反捕鯨は圧倒的に大きな位置を占めています。

反捕鯨はグリーンピースのような団体にとって標的とするには理想的と言えます。クジラは巨大で見た目にも美しい生物です。エコシステムという観点ではクジラのような食物連鎖の頂点に立つ生物より、蛙やミミズのような食物連鎖のハブ(多数の生物に捕食される)のほうが重要かもしれないのですが、何といっても印象的で環境保護のシンボルにうってつけです。

しかも、クジラの保護は捕鯨国が捕鯨を止めれば、ほぼ完全に達成されそうです。おまけに捕鯨国は日本、ノールウェーのような先進国で捕鯨禁止が国民を苦しめることはなさそうです(グリーンピースもイヌイットのような先住民族の捕鯨は認めている)。白熊は北極海の氷が温暖化で減少することで全滅の危機に立っているのですが、温暖化の原因は捕鯨のように単純な標的ではないので、キャンペーン向きではありません。

インドネシアのオランウータンは森林の乱伐で全滅しそうなのですが、森林を乱伐しているのは現地の貧しい住民です。同じようにアフリカの野生動物の減少は貧しさを解決しないと解決しないという面がありずっと複雑です。

これに比べれば反捕鯨はグリーンピースのように捕鯨船を付回して、スクリューをテープで巻いたり、小船で体当たりするという嫌がらせレベル(これらはシーシェパードのしわざです)の抵抗がかなり有効に機能します。こんなことをカスピ海のキャビアやアフリカ象の密漁者に対して実行したら、本当に殺されかねません。少なくとも英雄気分だけで、水着姿の美女と一緒にできるようなものではありません。

つまり、グリーンピースにとっては反捕鯨は自分たちの活動のPRとして最適なのです。科学的な根拠などもはやどうでもよいのです。グリーンピースの参加者でもミンク鯨が減ってはいないことは知っているかもしれませんが、クジラを殺すのはそもそも悪なのだと思っているので、捕鯨禁止の立場は揺らぎません。

クジラを殺すのは悪だというのは多くの国では基本的な認識だと言ってよいでしょう。クジラやイルカはチンパンジー並みの知能を持っている(必ずしも誤りではないようですが)と信じる人は多く、そのような人たちはクジラを食べるというのは、日本人がチンパンジーやゴリラを食べると言われたときに感じるのと同じような嫌悪感を感じるようです。

「クジラを食べるのは日本の文化」だというのは正当な主張ですが、相手により「犬を食べるのは文化だ」「チンパンジーを食べるのは文化だ」と言ってるのと同じだということは理解しておいたほうがよいでしょう。日本人がクジラがなければたんぱく質が不足するほど貧しいという主張は国際的には成立しませんから、クジラを食べることの理解を他の国で得るのは本当に難しいのです。

反捕鯨派は日本以外ではメディアも巻き込んでいますから、オーストラリア、ニュージーランドなどでクジラがモリを打ち込まれて血を流しながら苦しみ続ける映像を、家庭の食事時に長々と放映したりします。これは牛や豚のと殺現場を食事時に放映するのと同じではないかと思うのですが、このようなことをされたら日本人に対する嫌悪感は非常に強いものになる危険があります。

いっそIWCから脱退すればよいという考えもあるでしょう。しかしIWCから脱退してもグリーンピースの反対運動はなくなりません。脱退して捕鯨の規模を拡大するのは、グリーンピースの資金集めに協力するようなものでしょう。しかも海洋資源はマグロをはじめ保護しなければならないものが沢山あり、国際的な枠組みを無視するような態度を取るのは、他の問題で日本を不利な立場にさせかねません。

ここまで来ると、不当ではあっても捕鯨を放棄せざる得ないのかもしれません。反捕鯨派はクジラの捕獲技術や捕鯨産業を壊滅に追い込むのがねらいですが、これはかなり成功しつつあります。供給が減り値段が高くなったこともあり、クジラを食べさせる店も少なくなってきています。鯨クジラ連の産業が小さくなれば、日本にとって国際的評判を落としてまで捕鯨に執着する意義はますますなくなってきます。

捕鯨とIWCの問題は国際社会での民主主義という日本人の多くが善と考えるものが、時としてとんでもない状況を作り出すという一つの例でしょう。IWCの参加資格は「国」であるということだけです。IWCの状況は一株株主に株主総会を占拠されたようなものですが、株主総会と違ってIWCは1国1票なので、クジラ問題を十分に考えない国が数の点で大きな影響力を持ってしまいます。なかには、グリーンピースのメンバー(自国民ではない)が代表になっている国まであったのです。

アメリカはユネスコから脱退したり(現在は復帰)、国連を含め国際機関より自国が優位に立っていることをことあるごとに主張するのですが、国際社会の民主主義というものをどこまで信用するべきかは確かに問題なのです。カントは「永遠の平和のために」で、平和のための国際協力の前提としてそれぞれの国が民主主義国家であること(カントの表現では「共和的体制」)を求めています。捕鯨の問題は小さな問題かもしれませんが、IWC加盟各国は代表の選出方法まで考えれば、先進国も含め民主的なプロセスを持っているとは言えません。
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イマヌエル・カント

国際社会での民主主義を成立させるためには、国際社会の構成国が民主国家でなければいけないという主張は、アメリカの新保守主義者いわゆるネオコンの底流となっている考え方でもあります。北朝鮮やイランだけでなく、民主主義どころかアフリカ諸国の多くのように政府がきちんと機能していないような国と民主主義国が国連で1票づつ持っているのは不当である、さらにそのような国際社会に全てを委ねるわけにはいかないという考えは、ネオコンに限らずアメリカ人に根強くあります。

しかし、国際社会に背を向けるとイラク戦争に見られえるように、いったんトラブルが発生すると解決が非常に困難になってしまいます。国際社会がたとえIWCのようないい加減なものでも、無視するのは正しくないでしょう。日本人はとっていつまでクジラを食べ続けるか考えなくてはいけないようです。

(この後、考え方がもう一歩過激になりました。「もうクジラのことはあきらめましょう」参照)

中国のユダヤ人と新型戦闘機
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中国の新型戦闘機J-10

今年の1月15日中国の航空兵器メーカー中国航空工業第一集団は、新型戦闘機J-10(殲撃十型)の「自主開発」に成功したと発表しました。J-10はアメリカのF-16に相当する、いわゆる第4世代の戦闘機と言われ、中国がソ連から導入した旧式のMIG-21などを置き換えるものです。

J-10は1988年に開発が開始され、2004年には15機の配備が始まったのですが、今年1月の発表が正式なもので写真や模型も公開されました。J-10の能力はかなり高く、台湾空軍のアメリカ製のF-16A/Bには十分以上に対抗でき、すでに中国が制空権を持っていると言われる台湾海峡の軍事バランスは大きく中国側に傾くと言われています。

J-10は1座、2座などいくつもの派生型を持ち、地上攻撃能力もある多目的(Multi-role)戦闘機ですが、開発は難航を極めました。もともとアメリカを始め西側諸国の協力を求めることは難しかったところに、1988年の開発開始の翌年の天安門事件で中国への軍事協力はますます厳しくなりました。
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イスラエルが開発を中止したラヴィ戦闘機

ところが1990年代に入り、イスラエルが1987年に開発中止になった同国製のラヴィ(Lavi)戦闘機の技術を中国に提供をすることになり開発は進展を始めます。ラヴィ戦闘機はアメリカのF-16がベースになっていますが、イスラエルの独自技術が投入された高性能機になるはずでした。

1982年に開発が開始されたラヴィは開発が進む中、F-16の技術が利用されていること、国際兵器市場でF-16の競争相手になることを理由にアメリカで開発継続に反対が起きます。アメリカは多額の軍事援助をイスラエルにしており、アメリカの圧力で5機の試作機を製作後ラヴィ開発は頓挫しました。

同じ1980年代には日本でも「次期支援戦闘機」FS-Xの自主開発を行おうとして、アメリカが横槍を入れるということがありました。日本の場合は結局独自開発を断念して、F-16をベースにしたF-2支援戦闘機を日米共同開発することで決着しました。

1980年代はアメリカでは中国より日本の経済的脅威が問題とされており、経済的なヘゲモニーを獲得した日本が軍事技術でも独立性を高めようとすることに、アメリカは大きな危機感を持っていました。日本の方も、日米経済摩擦をこれ以上広げたくないという気持ちと、独自軍事技術開発への国内の抵抗があり、「日米共同開発」は妥協の産物でした。

日本が武器輸出をしないという原則を維持し、アメリカへの配慮をせざる得ない状況にある中で、日本以上にアメリカへの軍事依存が高いはずのイスラエルは、アメリカの最大の強敵になりつつある中国に軍事技術の援助を行うことにします。写真で見るとJ-10もラヴィも機体前方に小さなデルタ翼を持つことが共通しており、素人目にもよく似ていることがわかります。

ラヴィの技術の出発点はアメリカのF-16で、日本のF-2支援戦闘機とは兄弟とはいわないまでも、叔父と姪くらいの近親関係にあるわけですが、80年代のアメリカの友好国への自国の権益の押し付けが、21世紀になり極東の軍事情勢に大きな影響を与えることになったわけです。

イスラエルは中国にさらに先進的な軍事技術の提供を行うとしました。早期警戒管制(AWACS)ファルコンです。AWACSは高性能のレーダーを備え(と言うよりレーダーそのものが中核技術)、敵の攻撃の察知、味方の空軍の指揮統制を行う、近代航空戦の要とも言われる飛行機です。日本の航空自衛隊もアメリカ製のものを採用していますが、非常に高価で保有する国は限られています。

イスラエルは1998年、同時に60機の航空機を追尾できるファルコン(機体はロシア製のものを使用し、イスラエルはファルコン・フェーズドアレー・レーダーを提供)を4-8機、総額10-20億ドルを中国に売却する契約を行いました。しかし、中国の空軍力の増強を恐れるアメリカの強い圧力で2000年になり契約はキャンセルされます。

当初中国は、イスラエルがファルコンを中国のライバルであるインドに売却する意図であることを知ったこともあり、イスラエルを強く非難し10-20億ドルの賠償金を要求しました。その後2002年になり事態は沈静化し、イスラエルが前受け金の2億ドルに加えて1億5千万ドルを中国に支払うことで合意が成立しました。

ファルコンの件は正式なコメントを中国が拒否していることもあり、沈静化に至る経過は推測の域を出ませんが、J-10で築かれた関係をこれ以上悪化させたくない気持ちが中国にあったと思われます。中国はファルコン技術を搭載するためにイスラエルに運んでいたロシア製のII-76MDに自国製レーダーを搭載しますが、追尾能力はファルコンの同時60機に対し12機にとどまることになりました。

中国とイスラエルの日本人にとっては意外にも思われる親密な関係は長い歴史的背景があります。中国にユダヤ人が入植したのはローマ軍にエルサレムが占領された紀元前に遡るとう説もありますが、歴史的に比較的確かなものとして扱われているのは、12世紀に南宋の首都開封にユダヤ人が住んだのが最初です。

開封のユダヤ人については13世紀にマルコ・ポーロが存在を報告し、その後何度か開封のユダヤ人についてのヨーロッパ人の記事が見られます。開封のユダヤ人は16世紀には10-12家族程度だったようで、中国社会ではきわめて小さな存在でした。それでも、中国の小さなユダヤ人社会は独自の宗教を守りながら、太平天国の乱で19世紀に壊滅的な打撃を受けるまで存続します。

近代になってユダヤ人が中国に現れたのは、19世紀にロシアがシベリア開発のため、少数民族にシベリア移住のインセンティブを与え、ハルピンにユダヤ人コミュニティーが作られたことに始まります。その後上海、香港にヨーロッパから多くのユダヤ人が住みつくようになりました。20世紀始めに上海には3万人以上のユダヤ人が住んでいました。
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上海のユダヤセンター

上海を中心としたユダヤ人の中国への移住は、1917年のロシア革命、1930年代のナチスの登場によって加速化されます。第2次世界大戦中にナチスドイツは日本に上海のユダヤ人社会を消し去るように圧力をかけますが、日本は結局大戦終了まで実行しませんでした。これがヒューマニズムに基づくものだったとも考えにくいのですが、ドイツと日本が一枚岩ではなかったことの証明にはなるかもしれません。

ともあれ、上海には沢山のユダヤ人が戦争終了まで在住したしていたのですが、かれらの多くは共産中国の成立と相前後して建国間もないイスラエルに移住します。イスラエルには世界各地からユダヤ人が集まりましたが、その中にかなりの中国からの移住者がいたのです。

イスラエルにいる中国からの移住者がラヴィやファルコンという先端技術を中国に移転するのに何か影響力を行使したかはわかりません。実際にはイスラエルにとっては軍事産業の維持発展が主たる動機であることは間違いないでしょう。しかし、日本以上にアメリカに依存しているはずのイスラエルが、いつの間にか中国と軍事的な関係を深めているという事実は、単眼的なものの見方からはなかなか理解できないのはないでしょうか。

イスラエルが原爆を保有しているのはほとんど周知の事実です。そして、アメリカは国連の安全保障会議のイスラエル非難決議に数限りになく拒否権を発動して、そのイスラエルを守り通しています。そして、J-10の開発は台湾海峡だけでなく、世界の軍事バランスに大きな影響を与えるはずです。

うがった見方をすれば、J-10もアメリカの新型戦闘機F-35、F-22の敵ではなく、新型の戦闘機配備の理由付けのために、半ば古い技術であるラヴィ技術移転をアメリカは黙認していた可能性はあります。その中で本当に脅威となるAWACSの流出は断固許さなかったということかもしれません。

それでも、アメリカの隙を見てラヴィやファルコンを中国に売ろうとしたのは、イスラエルがアメリカの単なる属国ではないことを示すものでしょう。少なくとも日本とは別次元の現実主義をユダヤ人たちは持っているようです。世界でもっとも長い歴史を持つ二つの民族の関係をもっと注視しておく必要はありそうです。

八百長相撲は必要悪?
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間欠泉のように噴出してくるのですが、相撲の八百長問題が大きくなっています。今回は週刊現代の2007年2月3日号の「横綱・朝青龍の八百長を告発する」と題した記事で、朝青龍が昨年全勝優勝した九州場所の15勝のうちガチンコ(八百長ではない真剣勝負)は4勝だけ、と報道したのに端を発しています。

相撲協会は2月8日に週刊現代の発行元の講談社と記事のライターに民事訴訟を提訴しましたが、これは1996年に大鳴戸親方が「八百長―相撲協会一刀両断」と題して、八百長を告発したのに対抗して以来二度目のことです。

このときは著者の大鳴戸親方と共著者の橋本成一郎(大鳴戸部屋後援会副会長)が出版直前、同日、同時刻に同病院で死亡するという奇怪な事件が起き、疑惑に一層暗い影を投げかけました。ただ、かれらの死亡は当時は自然死であるとされています。

さらに2000年、大鳴戸親方の弟子にあたる元小結の板井は八百長の仲介をしていたと称して、「中盆―私が見続けた国技・大相撲の“深奥”」(「中盆」は八百長仲介の隠語)と題した八百長の告発本を出しました。板井は外人記者クラブで八百長に関する講演まで行ったのですが、相撲協会は告訴はしていません。

相撲に八百長は本当に存在するのでしょうか。アメリカの経済学者スティーヴン・レヴィットとスティーヴン・ダブナーは「ヤバい経済学: Freakonomics」で、1989年1月から2000年1月までの大相撲のデーターを分析して、千秋楽の7勝7敗の力士の8勝6敗の力士に対する勝率が79.6%であることを指摘しています。
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「ヤバい経済学」の著者スティーヴン・レヴィット

単純な確率論では勝率は48.7%になるはずなので、何らかの人為的な要素、つまり八百長があったはずだというのが著者の主張です。タバコと癌の発病の因果関係を、喫煙者の癌の罹患率から推定するような疫学的手法では、著者の言うとおり八百長の存在は真っ黒と言うことができます。

7勝7敗と8勝6敗の力士同士の取り組みに対しては疫学的方法論で真っ黒と言えても、朝青龍や曙(八百長を行っていると前述の板井に指摘された)のような横綱級の力士についてはどうでしょう。もともと勝率が8割以上もあるような力士に個々の取り組みの勝ち負けでの八百長の存在を疫学的に推定するのは困難でしょう。

横綱級の力士については千代の富士も八百長が多いと指摘されたり、「ガチンコ」で通したのは貴乃花くらいと言われたりもするのですが、本当に他の力士が簡単に買収に応じたりするのでしょうか。

相撲協会の報酬体系では平幕の力士が横綱に勝つ「金星」をあげると、月額4万円の昇給が現役を続ける限り(たとえその後大関、横綱に昇進しても)与えられ続けます。仮に10年現役を続ければ、500万円にもなります。過去最多の16個の金星を獲得した安芸の島は給与の半分以上が金星によるものでした。

これほどの経済的利益と金星獲得という名誉(うまくすれば敢闘賞、殊勲賞の可能性も高くなる)を捨ててまで、力士は容易に八百長に応じるものでしょうか。容易には応じないかもしれませんが、普通ならとても勝てないと思えば応じることもあるかもしれません。

逆に横綱の側から見ればほとんど勝てそうな相手に大金を支払って負けてもらう意味はあるのでしょうか。これはきっとあるでしょう。いくらほとんど勝てる相手でも。一八の捨て身で何をするかわからない状態で15日戦い続けるのは大変です。少なくとも「予想外の動きはしない」程度の予測ができればずいぶん楽なはずです。

このように考えると、八百長が存在するとしても、7勝7敗と8勝6敗の力士同士が千秋楽でぶつかるときに発生する相互扶助的なものか、圧倒的に強い横綱が楽をするために行うケースが主で、相撲の取り組みの何もかも八百長だというのも言いすぎと思われます。

全体として見れば、相撲が厳しい実力主義の社会であることは確実です。でなければ、一般の相撲ファンの希望に反して外人力士がやたら強かったり、いつまでも朝青龍が一人横綱だというのは説明がつきません。八百長と言っても、実力主義の中で一定のルールの範疇で行われていると推定するのが妥当でしょう。

それでは裁判などで八百長の存在が証明できるものなのでしょうか。常識的には八百長の取引があったとしても、文書や領収書が残っているとは思えないので、双方が否定してしまえば証明は難しいでしょう。週刊現代の記事でもライターはそれなりに慎重な取材を行っているようですが、録音テープのような確実な証拠を持ってはいないようです。

八百長を別名で注射といったり、真剣勝負をガチンコ、さらに板井が演じていたという中盆など、相撲の八百長関連の言葉が沢山あることをみても、八百長が一つの風習として角界に存在している可能性は非常に高いでしょう。しかし、一方で実力主義が徹底している中で八百長を横綱級の力士が行っているすれば、それはなぜなのでしょうか。

八百長の存在自身が推測に過ぎない以上、すべては憶測に憶測を積み重ねるしかないのですが、私は原因の一つが横綱、大関のような相撲独特の番付制度にあるように思えます。

番付制度のもとでは特に横綱は横綱なりの成績を出すことが求められます。年に1-2回優勝できれば、後は8勝7敗でも良いというわけにはいかないのです。これは他のスポーツと比べればきわめて厳しい条件です。

ボクシングはチャンピオンは負ければお終いですが、年に1-2度しか試合をしませんし、相撲のような瞬間で勝負が決まることはほとんどありません。野球でエースが打たれたり、ゴルフのトーナメントでトッププレイヤーが予選落ちしても、座布団が舞うということはありません。

横綱は8割勝って当たり前なのです。しかも一場所15日で、年に6場所、それに地方場所や海外遠征まであります。少しは息抜きしたいと思っても不思議ではありません。実力があって、いざとなればガチンコでも勝てるという条件で交渉できるとなればなおさらです。

なんとなく八百長を弁護するような論調になっていますが、相撲に関して言えば長い歴史の中で、実力主義と番付制度の良さ(横綱の土俵入りがないことを考えてみてください)がうまく調和しているのを見ると、あまり責めるのもなという気がしてきます。

もっとも八百長が公のものでない以上、調和を維持するにはよほど繊細な運用が必要でしょう。外国人力士である朝青龍は今一つ配慮の細かさが欠けていたのかもしれません。もちろん、あれもこれもすべては推測に過ぎないのですが。

放送メディアのうそ
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オーソン・ウェルズの「火星人襲来」放送はパニックを引き起こした

ヨーロッパが前の月9月に第二次世界大戦に突入した1939年10月30日、ハロウィーンの前日にオーソン・ウェルズの監督でハロウィーンスペシャルとしてアメリカCBSラジオでH.G.ウェルズのSF「火星人襲来」が放送されました。この時、オーソン・ウェルズは一つだけ原作に大きな変更を加えました。放送は実際のニュースのような形式で行われたのです。

放送に先立ちフィクションであるとの注意は行われましたが、反響は圧倒的でした。約3千万人におよぶと推定される聴取者のうち2百万人近い人が実際に火星人の侵略が現に行われていると信じて、大パニックに陥ったのです。この事件は翌月ヒットラーが「退廃した民主主義の証拠」と演説で引用するなど、その後大きな影響を与え続けました。

関西テレビが「発掘!あるある大事典II」で納豆がダイエットに効くと放送して、納豆がスーパーの棚から消えてしまい、その後捏造だったと判明した事件は、パニックこそ引き起こさなかったものの、オーソン・ウェルズの「火星人襲来」放送と同じように、放送の影響力を思い知らされたという意味で大きな事件でした。

もちろん、「火星人襲来」と「発掘!あるある大事典II」とでは根本的な違いがあります。「火星人襲来」ではオーソン・ウェルズは緊迫感を演出するためにニュース放送のスタイルを用いただけで、何度か放送内容はフィクションであると注意した(それでも5%以上は、本当と思ってパニックになってしまったのですが)のに対し、「発掘!あるある大事典II」はあくまでも科学的真実であるという立場で放送を行ったのです。

日本の放送業界、特にテレビの情報番組は以前からヤラセの温床でした。 ヤラセが広く問題視されるようになったのは、1985年朝日放送(現テレビ朝日)はワイドショーで暴走族のリンチを演技させ事実として放送したことが最初と言われていますが、その後も毎年のように過剰な演出、まったくの虚偽などを事実として放送されたことが報道されています。

ヤラセ問題はテレビの専売特許というわけではなく、新聞でも過去から多くの虚偽報道が行われてきました。1989年に朝日新聞が「サンゴを汚したK.Y.ってだれだ」という記事で、カメラマン自身がサンゴ礁に「K.Y.」とナイフで傷をつけて撮影した事件。さらに戦後すぐの大誤報事件として有名な、逃亡した共産党幹部伊藤律とのインタビューを同じく朝日新聞が報じた件など、虚偽、やらせの数は少なくはありません。

しかし、新聞の場合は記者個人の功名心やあせりに起因するものが多いのに対し、テレビの場合は複数というより組織ぐるみがヤラセを行っいてたという点で大きな違いがあります。そもそもヤラセという言葉自身、「やむえざる演出の延長」というニュアンスがあり、新聞社に対する「虚偽報道」という言葉と罪悪感の面で大きな差があることがうかがえます。

それでは、ヤラセは必要悪なのでしょうか。テレビは映像を伴う、というより映像が主役ですから、映像がなくては困ります。「沢山の人が集まりました」というなら、「沢山の人の映像」がなくてはテレビとしては「絵にならない」状況になってしまいます。

魚釣りの名人を映すなら魚を取るところ、雪が降ったら雪合戦をやっている子供の絵が欲しいとなっても、必ずしも都合よく撮影できるとは限りません。どうしてもうまい映像が取れないなら、魚ならどこかで採ったものを今釣っているように、雪合戦ならそこらにいた子供に頼んで雪球を投げ合ってもらうくらいのことは許されるはず、いやそんなことまで止めていたら仕事にならない、そんな感覚はあるはずです。

しかし、このような習性が視聴率獲得の圧力や、毎週放送という時間制限のなかで次第に「何でもあり」という状況になってきます。これは推察で言っているのではなく、テレビで放映されている内容を少し見れば判断できることです。

たとえば、オカルトや超常現象の放送はどうでしょう。心霊写真でわけのわからないものが写っていたり、死体の場所をずばりとあててしまうというものです。このようなことがこの世の中で絶対にありえないかどうかはわかりませんし、別に否定しようとも思いません。しかし、テレビ番組で放送されているものは全て真っ赤なうそと断定してよいでしょう。少なくとも、まっとうな科学的判断の持ち主ならとても信用できないずさんな情報やヤラセで構成されていることは確実です。

これはテレビだけではありませんが、占いや、血液型運勢判断もよく使われるテーマです。視聴率が稼げるから、「ズバリ言うわよ」とかやっているわけですが、個人のレベルで信じるのは勝手であるにしても、テレビの影響力を考えると、「事実」と並べて放送するのは本当は変な話なのです。

コマーシャルにしても、化粧品を使って美しくなれるとか、家を建てたら家族が幸せになりましたという話しはともかく、「髪がどんどん生えてくる」「体脂肪がお茶で溶け出してしまう」「飲んだらとたんに元気はつらつ」というのは、どう考えても本当とは思えません。「コマーシャルだから誇張はみんなわかっているだろう」というのはおかしな話で、大金をかけてCMをうつのは信用してしまう人間がいるからです。この点「オレオレ詐欺」でひっかかる人間を探しているのと構造的には同じです。

関西テレビの「発掘!アルアル大事典II」に対する対応では、総務省から不十分だと指摘されていますが、再発などはもし本気なら、多少科学的訓練を受けた人間がレビューを行う体制を作れば、ほとんどは防止できます。要はやる気がない、と言うより「そんなことをしたら自殺行為だ」と思っているのでしょう。

しかし、本当の自殺行為は現在のようなうそと本当をまぜこぜにして放送してしまう体質を温存することです。テレビを含め既存のメディアはネットで流れる情報を無責任で不正確だと言って非難してきました。ところが、無責任で不正確な点では既存メディアも十分に悪質だったのです。

むしろ、ネットであれば極端な意見、情報はネットの中で批判され、比較的早く穏当で正確なレベルに収束してきます。これに対しテレビのヤラセ報道は対応が簡単なものでも、実際には対策が取られることもなく、またお互いにチェックをしあうこともなく体質化され温存されてきました。

「大本営発表」というと先の大戦中の日本の軍部の戦局の報道のことです。もっとも権威のある組織からのもっとも責任ある報道とされるべき「大本営発表」が戦後は「都合の良いことだけ並べたうその報道」の同義語になりました。

しかし、戦争中も日本国民の多くは末期には大本営発表を信じることが少なくなってきました。替わりに、「流言飛語」あるいは「デマ」と呼ばれた情報、「大日本海軍はもはや存在しない」「巨大戦艦は沈んでしまった」などが巷間ひそかに広まりました。結果としてみれば、権威はうそを並べ、デマは真実を伝えていたわけです。

テレビの視聴率の1%は100万人程度の人数になるでしょうから、依然としてネットの世界と比べて影響力は圧倒的です。ネットの世界の口コミで納豆がスーパーの棚から消えてしまうようなことはいまだに起きていないわけですから、実力差は歴然です。テレビ放送はデマと言いぬけはできません。大本営発表と同じ権威からの発信です。

とは言っても、世の中ではネットの情報の方をより信用し依存する人が増えてきています。ネットの世界はうそも間違いもありますが、修正も早く、使い方になれてくれば相当正確な情報を得ることができます。でたらめ体質から抜け出せないテレビより将来はずっと明るいでしょう。ホリエモンも楽天も何で既存のメディアとネットを融合したいなんて思うのでしょうか。

産む機械作りますか?
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産む機械作りますか?

少子化が問題とされるようになってずいぶんになりますが、柳沢厚生労働大臣が「女は産む機械」と発言したということをめぐって場外乱闘のような状況になってしまいました。柳沢の女性観、人間性がどうかという議論はさておいて、少子化対策を考えていくと生産機械のように女性の出産効率をいかに高めるかというところに考えが固まってしまうのかもしれません。

ただ、少子化が「問題」とされているのは、個人ではなく国家の視点であることは間違いありません。個人の立場で考えると、「少子化という囚人のジレンマ」でも書いたように、子供をつくるというのは必ずしもベストの戦略ではなく、本来は人ごとです。少子化対策はどこまでも個人のためではなく、将来の年金財政や国力の維持のためです。

今はそんなことを表立って言う人は少なくなってきましたが、ついこの前まで子供を作るというのは、「家」の存続のためでした。子供を産めない女は家を危うくするという意味で、欠陥製品とみなされたのです。現在でも家がたまたま天皇家であれば、家が危うくなることと日本の根幹が危うくなるのと同じになると思う人は沢山いるでしょう。家の存続を絶対視すれば、女性は産む機械、道具ということになります。

少子化の問題は家のレベルを国家レベルに変えただけですから、「女は産む機械」というところに話が行きやすいのは確かです。しかし、機械と考えたとしても機械の性能が問題なのではないでしょう。現在の日本は工場に機械は並んでいて整備も行き届いているのだが、なぜか稼動していないという状況でしょう。

もともと子供が増えないのは(1)男女のいずれかないし双方が性的興味、能力を減少させている、または性的接触が減っている(2)妊娠しないよう避妊する、あるいは妊娠しても出産しない(3)子供が生まれても死亡することが多い。の三通りが考えられます。

上の中で(1)の男も女も性的興味を失ってしまうというのは、動物園のゴリラやパンダなどには見られ、テレビでゴリラにポルノ(ゴリラの!?)を見せるというのは実際あるらしいのですが、今のところ人間ではあまり心配なさそうです。性的な刺激は現代社会では過剰ではあっても、過小ではありません。

ストレスその他の原因で精子の製造能力や排卵に支障が出ているのではないかという説もあります。精子に関しては、精子の数が現代の男性は50年前の半分程度になったという話もありますが、真偽のほどは確かではありません。精子の数は量、密度とも放出の前後で大きく違ってくるので正確な統計を取るのは簡単ではなく、まして過去から一貫したデータもないので、今のところ与太話の範疇を出ません。

(3)の子供が十分に成長できないというのは、もちろん少子化の原因ではありません。今の日本では、生まれた子供の99%以上は成人に達します。乳幼児や子供の健康増進にやるべきことは多々ありますが、少子化対策になるわけではありません。

むしろ、子供が無事に育つということが少なく産むという傾向につながっているのかもしれません。20世紀の初頭のころの日本の乳幼児死亡率は15%を越えていましたし、もっと遡れば5人6人子供が生まれても半分も成人に達しない家庭がほとんどでした。1人、2人の子供ではとても安心できなかったのです。

結局(当たり前ですが)、少子化の原因は女性が妊娠・出産を避けることに尽きます。ではどうすればよいか。議論は百出していますが、女性が子供を産んでも職場に復帰できる、保育園を完備するなどの働きやすさと産みやすさを結びつける方法がまず、考えられます。

次に、子供を育てる経済的負担を減らすために学費を安くする、手当てを支給するなどの方法があります。このほかにも、産科を増やす、子育ての相談に応じるなどの方法もあります。また、結婚した女性は2人は子供を作ろうとすることから、結婚を奨励することで子供を増やそうという考えもあります。

しかし、出生率の増加に成功しつつあるように見えるフランスでは子供の5割近く、第一子に限れば60%以上が結婚していない女性による出産、いわゆる婚外子です。結婚しないと子供ができないという発想自体間違っているとも言えます。

フランスは経済的援助も沢山行っており、第2子からは月額1万5千円程度、3子以上は2万円を子供が20歳になるまでもらえます。そのため、4人の女性に20人子供を産ませ、何も働かず月額40万円もらって悠々と暮らしているという移民の存在が問題になったこともあります。

フランスに限らず、ヨーロッパ諸国やアメリカでは移民の出生率の高さが逆の意味で問題になることも多いのですが、移民も2、3世代をへると出生率が落ち着いてきて、他の国民と同じ程度になると言われています。移民は良くも悪くも少子化の長期的な解決策とは言えません。

少子化対策で面倒なのは、どのような政策がどの程度出生率の向上につながるかが定性的なレベルでさえ不明確なことです。フランスで一部に見られるように、貧しい女性が子供を作ることで生活しようとして子供を産むということはあるかもしれませんが、キャリア志向の女性には、少々の経済的支援では失うものの方が多いでしょう。このような女性は(子育ての義務は男性にもあるわけですから、男性も含めてですが)子育てを他の女性に依存するだけでなく、子を産むことも他の女性に依存することになるかもしれません。

もしかすると、少子化対策が進むと、文字通り産むことの専門化が進むかもしれません。こんな話をすると、ひそひそ声で「悪い遺伝子が多く残る」という古典的優生学丸出しのようなことを言う人が結構いるのですが、恐らくそんな問題は起きないでしょう。

母親がキャリアウーマンになれなかったのは、「悪い遺伝子」を持っているというより、育った環境、運不運など沢山の要素が関係していて、単純に「頭の良くなる遺伝子」が欠落したわけではありません。知能に遺伝的な部分があることは事実でしょうが、血液型のように単純なものではありません。産むことの専門化が進んだから日本民族の平均的知能が下がるというのは、妄想と言っても過言ではありません。

産むことの専門化が問題なのは、「女は産む機械」を非常に極端に社会が実現してしまうことにあります。これは代理母出産を社会的に大規模な形で行っているのと同じことかもしれません。あるいは、臓器提供のやや穏当なやり方とも言えるかもしれません。

SF的ですが、本当に「産む機械」を作ってしまったらどうなるでしょうか。精子バンクと卵子バンクから受精卵を作り出し、産む機械に装着して子供を作ってしまう。可能なら少子化対策はこれに勝るものはないということになります。

幸か不幸か「産む機械」は「考える機械」と同じくらい作るのが難しいでしょう。胎児の正常な発育には環境として人間の子宮が不可欠で、現実には機械でシミュレーションするのは困難というより不可能です。もっとも人間では許されない人工子宮の実験も他の動物では可能ですから、そのうち作れてしまうかもしれません。

話が横道にそれてしまったように思われるかもしれませんが、私は少子化対策というのは、本質的には「産む機械」開発計画的な意味合いがあり、その中で半ば無意識に「女性を産む機械」と例えてしまったのではないかとさえ思います。

働く女性が「個人」として子供を作ろうとしたとき、企業の対応の冷たさや、保育園の不足であきらめなければいけないのは確かに問題です。このような障害は解決されるべきです。婚外子もあらゆる面で社会的に差別されている現状は、改めるべきでしょう。その結果として、自然な形で婚外子が増加することもあるでしょう。

しかし、「少子化対策」は最後は女性もいらない「産む機械」を夢見るような不自然さを内に持っています。子供を作るのは個人の問題で国家の問題ではない。国家や政治は子育てを助けることは求められても、子作りの掛け声をかける必要はない。そう思っていれば、失言をしなくてもすんだと思うのですが。