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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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チキンゲームはもう終わり? PAC3の配備
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PAC3の配備が始まった

3月30日、日本政府は弾道ミサイル防衛システム(BMD)の一環として、地対空誘導弾パトリオット・ミサイル3(PAC3)を自衛隊入間基地に配備したことを発表しました。PAC3はイージス艦に搭載される、SM3、警戒管制レーダー(FPS-5)と連携して日本を攻撃する弾道ミサイルを迎撃することになります。

BMDは2011年に当面の整備を終える予定になっていますが、配備が急がれたのはもちろん北朝鮮がノドン、テポドンという弾道ミサイルと原爆の実験を行い、核兵器およびその運搬手段の開発を行っていることに対応するものです。

BMDがきちんと働いてくれれば、北朝鮮が日本に核ミサイルを打ち込むという、日本がおよそ考えうる最悪の事態を回避できることになります。逆に言えば北朝鮮が国際社会を敵に回して開発し、チキンゲームに他国を引きずり込んだ兵器体系が実質的に無力化します。日本にとってはチキンゲームは終わることになります(チキンゲームは終わらない参照)。

北朝鮮の切り札が無力化されるというのは、見方を変えると北朝鮮が核実験をしたのと同じくらい大きな事件だと思うのですが、PAC3配備自身は予定されていたこととはいえ、報道は無視とは言わないまでも随分と控えめなものでした。

しかし、もしこれで北朝鮮の核兵器が日本にとって脅威でなくなれば、日本は北朝鮮に対し交渉力で絶大な優位に立つことになります。また韓国が日本が拉致問題を盾に北朝鮮への援助をしぶることに対し「朝鮮半島の非核化という果実を得て、何もしないということはありえない」と非難する理屈にも対抗できます。北朝鮮の核は今や脅威ではないからです。

なぜ、そこまではしゃぎまわらないか不思議な気もするのですが、一つはBMDなるものをとことん信じてよいかという健全な疑問があるからかもしれません。実際第一次湾岸戦争で有効性を喧伝されたPAC2はイラクのスカッドミサイルに対し40-70%程度の撃墜率だったと言われています(撃墜できても無力化はできず実効性はそれを大幅に下回るという説もある)。

ただ今回配備されるPAC3は対弾道ミサイル用に開発されてはいない(航空機用と言われている)PAC2と異なり、弾道ミサイル撃墜を目的としており、性能は大きく向上しています。また、BMDはイージス艦のSM3とPAC3の二段構えで撃墜率を高めています。

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ミサイル防衛構想の概略(クリックして拡大)

軍事や兵器は電力ネットワークの制御システムやデリバティブ取引などと比べても専門的で一般には評価が難しいものです。いや専門家であっても、日本の軍事能力のレベルについて軍事評論家の江畑謙介が「やってみなければわからない」と言うように有効性の判断は難しいのです。個々の戦闘機や戦車の必要性など、総額で兆単位の投資になるにもかかわらず、きちんとした説明も滅多にありません。かりにあったとしても、軍事オタク以外には興味も意味もないものになりがちです。兵器体系はあまりにも評価軸が多く、絶対的な効果の数値化は困難なものがほとんどです。

この中でBMDのKPI(Key Performance Indicator)は極めてシンプルで、弾道ミサイルの撃墜率に尽きます。もちろん、運用費を含むコストは重要ですが、そもそも原爆を一発大都市で爆発されたら被害は東海大地震と比べても甚大で、払える範囲であれば費用対効果はあまり考えるようなものではないはずです。

このほか、有効に機能させるためには迅速な指揮命令系統が確立されているかとか、偽装ミサイルに対し有効な識別が行えるかとかなど心配、考慮事項は色々あるでしょうが、全ては撃墜率という単純な数字に集約されます。

ここまで単純であれば、性能の評価についてそれほど意見の違いはなさそうですが、そうでもないようです。一応発表されている数値としてはPAC3は実験で12発のミサイルのうち10発、SM3は8発中7発というものがあり、国会答弁でも引用されているのですが、それらの数字をそのまま単純に計算すれば、約98%の撃墜率が達成できます。

この数字をそのまま達成できるかどうかは問題ですが、この種の兵器はコンピューターのソフトウェアを含め改良が日々進むこと、北朝鮮の能力がそれほど高くないこと(核兵器をミサイルで本当に日本まで打ち込めるレベルに達しているかすら疑問)などを考えると、「枕を高くして寝られる」とまではいかなくても「座して死を待つ」というほどひどい状態でもないでしょう。

BMDは核兵器を無力化できるという意味では、核兵器と同等と言ってもよいほど強力な兵器です。アメリカと旧ソ連は1972年ABM(Anti Ballistic Missile)条約を締結し双方ともABMの基地を一箇所に制限しました。このABMは大陸間弾道弾(ICBM)に対抗する点で違いはあるものの、基本的な目的はBMDと同一です。米ソはABMにより核ミサイルの均衡が崩れ、軍拡競争からかえって核戦争の危険が高まる可能性を恐れたのです。

アメリカは2002年ABM条約から脱退し、本土防衛のためのNMD(National Missile Defense)の整備をしようとしていますが、ICBMはPAC3では防御できず、より高高度での撃墜が可能なTHAAD(Terminal High Altitude Area Defense)システムの開発を行っています。

気がつけば日本は世界でほとんど唯一(イスラエルはどうかわかりませんが)核ミサイルに対応できる防衛システムを持つ国になろうとしています。これは中国にとっては脅威なのですが、中国は日本のBMDに対し表立って強い非難はしていません。中国も北朝鮮の滅茶苦茶ぶりを前にして、日本に文句をつけにくい状況なのでしょう。

ここでまたしても日本は北朝鮮をダシにして、極めて強力な軍備拡張を行ったことになりました。BMDのようなコンピューター技術、レーダー技術に依存したハイテク兵器は中国も容易に追随できないでしょうから、日本は実質的に中国の軍事力を大幅に減殺したことになります。核ミサイルが本当に無力化できれば中国の軍事力が日本に実質的な脅威になることはほとんどありえません。

中国は核ミサイルだけでなく、潜水艦や航空機のような他の核兵器の運搬手段を持っていますが、対潜水艦攻撃能力と航空機迎撃能力は自衛隊が唯一世界レベルに達している分野と言われ、中国も少なくても現時点では日本に対する攻撃能力は乏しいと思われます。いつの間にか、中国の軍事力は日本に対し「使えねぇー」ものになりつつあるのです。

軍事力のバランスが崩れるのは平和にとって必ずしもプラスではないのですが、日本のことだけを考えれば北朝鮮どころか中国も深刻な脅威でなくなるのは悪い話ではないでしょう。六カ国協議で孤立化まで心配されている日本ですが、国内的に大した議論もなしにちゃっかり極東の軍事バランスを自国に有利に傾けているのは、チキンゲームは終わらないで指摘したように日本が「外交的天才」だからかもしれません。

PAC3の配備について反対らしい反対をしたのは沖縄の人だけだったようです。昨年10月には沖縄で反対勢力による県民大会があり、PAC3の沖縄配備は「沖縄の基地負担を増加させる」などとして1,200人(主催者側発表)が集まりました。

PAC3が沖縄に配備されるのは、アメリカ軍基地が密集しているからですし、PAC3という最新兵器が配備されれば基地負担がその分増えるのは事実でしょう。しかし、PAC3はアメリカ軍基地を守りますが、同時に沖縄の市民も守ります。「アメリカ軍基地を撤去しろ、しないならせめてPAC3を配備しろ」というのはわかりますが、配備に反対するのはいかなる故なのでしょうか。

もちろんPAC3が軍事バランスを崩し、それにより平和が危険にさらされることは十分ありうるのですが、沖縄の市民を守るということに関してはPAC3はないよりあったほうがずっと良いはずです。

これでは観念的な平和のほうが沖縄市民の生命より大切だと言っているのに等しいという気がします。第二次世界大戦のときの沖縄戦では沢山の市民が「捕虜になってはいけない」というばかげた観念論で自決を強いられました。市民の生命より自分の観念を優先するという点で、PAC3の反対運動は実質的にこれと変わりがないのではないでしょうか。不思議です。
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代理母出産-その2
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最高裁判所

去る3月23日最高裁第2小法廷は、向井亜紀、高田延彦夫妻が代理母出産でもうけた双子の男児の出生届の受理を求めた家事審判の許可抗告審に対し、東京都品川区に受理を命じた東京高裁決定を破棄する決定をしました。向井夫妻の代理母出産で生まれた子供を実子としたいという願いは否定されました。このブログでも昨年代理母出産で取り上げましたが、法的な決着は一応ついたわけです。

ただ、法的に決着がついたと言っても、最高裁と東京高裁で判決が分かれたように、法律の専門家でも意見が一致する問題ではないのは確かです。それでも、最高裁の判決は2003 年厚生科学審議会生殖補助医療部会の「代理母出産は禁止する」とした報告書に沿うもので、現時点では概ね妥当なものと言わざる得ないのかもしれません。

逆に東京高裁判決の論理に従うと、日本では代理母出産を禁止する(ただし法的拘束力はない)としたのに、「アメリカで代理母出産を行う」→「アメリカの裁判所で実子の認定を得る」→「日本で実子としての出生届を受理する」という流れを認めてしまうことになってしまいます。「それのどこが問題だ」という考えもあるでしょうが、東京高裁の判決が従来の結論と矛盾するものだったことは確かです。

とは言っても最高裁の判決に矛盾がないかというとそうでもありません。日本では実子としての認定は生物学的な親子関係の存在を重視していて、それが母親の「分娩」によるものかどうかが判断の基本になったと思われます。しかし、誰でも知っているように代理母出産で生まれた子供のDNAは代理母のものとは無縁で、受精卵を提供した男女のものです。生物学的実態を重視した判断が、生物学的な事実と矛盾してしまったわけです。

DNA鑑定は歴史は浅いものの、犯罪捜査、血縁関係の確定、死亡者の身元の確定など広範囲に利用されおり、信頼性は非常に高いとされています。今「離婚後300日以内に出産した子は前夫の実子と見なす」という民法の規定の見直しが進められていますが、背景の一つには「DNA鑑定をすればわかるのに、そんな法律は不必要」という考えがあります。

科学的にはDNAの一致で親子関係が判断できるとされていますが、代理母出産は実子とみなさないとなると、論理的にはDNA鑑定だけでは親子関係を断定してはいけないことになってしまいます。これは論理の遊びのようなもので、何か将来大きな問題を起こすことは考えにくいですが、科学と法律が一致しないというのはあまり気持ちの良いものではありません。

もっともDNAの不一致ということでは、AID(提供された精子による人工授精)では夫のDNAが受け継がれていなくても、嫡出子として夫の実子とすることが行われています。DNAを絶対視するとAIDで夫以外の精子提供を受けると実子とすることができないことになってしまいます。AIDにより生まれた子供は1万人以上いると言われていますから、いまさら実子関係の否定はできるはずもありません。

考えれば考えるほど難しい問題で、最高裁も判決の中で「立法による速やかな対応を求める」と言っています。将来どのような医療技術が発達するかの予測は困難ですから、その時々の状況に合わせた法制度を作っていくしかないのでしょう。

話が少し変わりますが、「科学的」にはDNAの継承が親子関係の判断に決定的だというのはよいとしても、DNAが何事によらず絶対的な役割を演じているというのは、」これはこれで問題のある考え方です。

アメリカの天文学者のカール・セーガン(1934-1996)は「猫のDNAを宇宙人に送れば、猫を送ったのに等しい」と言ったのですが、今ではこのような考えに同意する生物学者はほとんどいないでしょう。従来DNAに固定的に規定されていたと思われる生物の形質が、最近は次々に環境によって発現することがわかってきたからです。
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「猫のDNAを送れば猫を送ったのと同じ」とセーガンは言ったが

雌雄のように遺伝子で全て決まってしまいそうなものでも、両生類の多くの種は温度により性が決定されます。人間でも背の高さは遺伝的要因と、栄養状態のような環境の複合で決まるのは当然としても、乳幼児の時の栄養状態が悪いと中高年になってから糖尿病に罹る割合が高くなることが知られています。

環境要因の中でも受精から出産までの子宮の状態は大きな影響を与えることがわかってきました。母親が妊娠中にニンニクを良く食べると、生まれた子供もニンニクが好きになります。ニンニク好きのDNAはありませんが、ある意味ニンニク好きが「遺伝」したことになります。胎児は環境としての子宮の中で、様々な刺激や影響を受けるのです。

もちろんDNAは生物の形質の決定に重要な役割を果たします。猫の子が猫になり、朝顔の種から朝顔ができるのはDNAがあるからです。しかし、DNAだけではパズルのピースが全て揃うわけではなく、DNAがもたらす遺伝的な要素と環境は融合して生物のありようが決まります。DNAと環境の影響を分離することは多くの場合困難ないし無意味です。

最近DNA鑑定や遺伝子治療など発展で、一般にはDNAの絶対視が強まっているようなところもあります。けれどもどのような子ができるかという点に関して言えば、子宮を提供し分娩を行う女性の影響は非常に大きいことは間違いありません。その意味で分娩をもって実子関係を認定するとした最高裁の判決は、科学的に全くナンセンスとまでは言い切れないものがあります。

なぜ人は自分の遺伝子を残すことにこだわるのでしょうか。「利己的な遺伝子」を書いたイギリスの生物学者のリチャード・ドーキンスは、自分の遺伝子をより沢山残す生物が、自然淘汰勝つ、逆に言うと遺伝子を残すことに生物は最適化して進化する。遺伝子にとって個体は乗り物のようなものだと言っています。
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「利己的な遺伝子」を著したリチャード・ドーキンス

ドーキンスの理論から、自分の遺伝子を残したいというのは、生物としての人間が自然淘汰を通じて獲得したもっとも本源的な欲求であり、自分のDNAを継承させることは本能そのものと考える人もいるかもしれません。

しかし、代理母出産という手段で自分たちのDNAを残そうというのは、受精卵やDNAといった科学的知識が間に介在した、観念的あるいは文化的なものです。人間も生物である以上「利己的な遺伝子」の支配を免れないところはありますが、それは性欲の存在や、男女の異性に対する態度の違い(一般に男性は多数の女性と関係したがるが、女性は特定の男性に限定する傾向がある)には影響しているでしょうが、それらはDNAの理解とは違います。

代理母による出産を実子と認定すべきかどうかということは、科学的な側面と同時に文化的な側面を無視して考えることはできないでしょう。DNAの存在というものが一般常識として深く浸透しつつある現在、DNA鑑定で実子と判定されるものを、法的に実子とできないというのは科学的というより、文化的に違和感を感じられ始めてきているのです。

今回の最高裁の判決は法的な枠組みがない以上、やむ得ないのかもしれませんが、「これは赤ですか白ですか」という質問に「いいえ、三角です」と答えているようなところがあります。DNAという問題の切り方をしているのに、分娩という切り口で判断しているからです。

AIDによりDNAを継承しない実子の親子関係がすでに多数存在していることや、代理母出産という手段が実用化していることを考えると実子、養子という二種類の親子関係しか存在しない今の法律の枠組みが破綻をきたしてきているのは明らなように感じられます。

ヨーロッパの多くの国やアメリカの一部州では同性同士の婚姻関係を認めています。親子関係や婚姻は生物としての人間の特性から出発していますが、社会的な仕組みと言う意味では極めて文化的な色合いの強いものです。どのようなものが親子であるか、夫婦であるか、親子、夫婦間にどのような権利、義務があるかということは、社会情勢の変化によって変わりうるものなのです。

現在は代理母出産については日本では抵抗感が強く、不道徳だとか自然の摂理に反すると考える人が多いようです。しかし、代理母出産は人を殺して臓器移植を行うような明白な悪ではありません。善悪の判断は人により、時代により違ってきます。自然の摂理に反するというなら、江戸時代は盲腸炎も致命的な病気でした。できることは何をやってもよいということはまったくないのですが、「自然」という概念も極めて曖昧で、変わりうるものだというのも事実です。

それにしても、日本の法律、裁判所は親子や夫婦という概念に対して、極めて保守的な態度を取るようです。同じように臓器移植についても、一般的には他の先進国より保守的です。理由は良くわかりませんが、これもまた文化なのでしょうか。

PowersetはGoogleキラー?
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Powersetというアメリカのベンチャー企業が最近注目を集めています。Powersetはまだ製品を送り出してはいないのですが、自然言語で検索できる機能を提供してGoogleを打倒するという振れ込みで、昨年末には1,250万ドルの資金をベンチャーキャピタルから集めることに成功しました。

Powersetによると、現在のGoogleの検索エンジンは前置詞や冠詞などありふれた言葉はストップワードといって検索に使用しません(これは本当です)。そのためbooks for children、books by children、books about childrenの区別ができないことになります。Googleの検索エンジンは「子供のための本」か「子供が書いた本」か「子供のことを書いた本」の区別はせずに、
books とchildrenの二つの言葉で検索し、区別は検索したユーザーがしなくてはいけません。

この話はPowersetについて書かれた記事では必ずと言っていいほど例として挙げられているのですが、実際にbooks for childrenとGoogleで入力するとBFCという子供向けの書籍を紹介するサイトが出てきますし、books by childrenと入力するとMyiBooks.org and BooksByChildren.comという子供の書いた本を集めたサイトがでてきます。

こんな簡単なことをPowersetも取材した記者も確かめなかったのは、いささか不思議ですが、Googleがいつもこの例を挙げられるので対抗策を立てたのかもしれません。もっともbooks about childrenの方は、どんぴしゃりのサイトは検索されず、子供のことを書いた本が上位に並ぶということはありません。

自然言語による検索では「シスコ社がもっとも最近買収した10社はどこですか?」とか「六本木のイタリアンレストランで一人1万円以下で食べられるところは?」とか、聞きたいことを素直に入力すると、自然言語検索エンジンが意味的な解釈をして検索する機能の実現を目指します。

コンピューターと自然な言葉で会話したいという要求は今に始まったものではなく、コンピューターに人間的な知能を与える人工知能という分野ができてからずっとありました。昔はコンピューターを使うといえばプログラムを書くしかなく、プログラムは専門家以外には難しいものでしたから、普通にしゃべった言葉でコンピューターが使えれば素晴らしいと多くの人が考えたのです。

しかし、コンピューターに人間と同じような会話能力を持たせるのはあまりにも難しく、プログラムを書かずに自然言語でコンピューターを使うことは事実上不可能でした。しかしプログラミングではなく、データーを検索することなら自然語でも何とかなるのではないだろうか、ということで多くの研究が行われました。確かに質問で使われる言葉が「xx以上」「xxxの中で」「上位10個」などのようなものなら、沢山の例をコンピューターに覚えさせれば何とかなりそうです。

ところが、実際は用途を限定しても自然言語による検索は簡単ではありませんでした。自然言語はプログラムのような厳密な規則のもとで使われることはなく、曖昧だったり、不完全だったり、突飛だったりと処理できないものがいくらでも出てきて、「実用化」といえる段階には容易に達することができなかったのです。
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Powersetの経営陣

自然言語によるコンピューターとの会話はデモンストレーションではかなり劇的な性能を発揮します。つまり、自然言語を解釈するプログラムを特定の質問向けにチューニングしていれば、一見コンピューターが人間の言葉を理解しているように見せかけるのは難しくありません。

Powersetは一部の人にNDA(Non Disclosure Agreement:機密保持契約)を結んでデモを見せています。見せられた人の多くはひどく感心していますが、デモはPowerset側の人間が入力するようです。これでは本当の実用性はわかりません。

Powersetの商売の邪魔をする気はないので、自然語検索一般について述べようと思いますが、自然語検索エンジンの開発はほとんど「いかに自然言語の質問を解釈するか」ということに努力を注いでいます。

しかし、検索する側からいれば、「マドンナのCDで2000年以降に発売されたものは何ですか」と入力せず、「マドンナ CD」とGoogleで入力してマドンナの作品一覧のサイトにいければ実用上は十分です。ほとんどの検索の入力語数は1語か2語、せいぜい3語です。「books for (by, about) children」のような例もありますが、3語程度では自然言語で解釈するといっても大した意味はないでしょう。

それでも、自然言語で検索できれば、現在のように試行錯誤をしなくても目的の結果を早く得ることができると思う人はいるかもしれません。ところが実際にこのようなことを実現するためには検索する文章を自然言語のままで理解できるだけでは全く不十分です。

「マドンナのCDで2000年以降に発売されたものは何ですか」という検索に戻ると、望みどおりの検索結果を探そうとすると、マドンナのCDについて書いてあるサイトや文章を検索して、その中で作品の発表年を見つけなくてはいけません。このためには検索の文章が自然語として理解できるだけでなく、検索対象の文章も自然言語として理解できなくてはいけません。

検索用に入力された文章は自然言語といってもそれほど長くないでしょうし、そもそも何か検索したいという目的が最初からわかっています。けれども探されるほうの情報はどのような形式か、どこに何が書いてあるか見当もつきません。そんな文章を自然語として検索条件にあう部分を探り出すなどということが容易にできるとは到底思えません。

一昔前に自然言語で情報検索をしようとしたときは、検索用の文章は自然語でも、検索されるデーターは、顧客ファイルとか、営業店別売上げファイルとか固定的なフォーマットのものでした。これなら「昨年A営業所で、売上げ上位の顧客10社をリストアップしなさい」と打ち込めば、質問の解釈さえ間違えなければ答えは出ます。

インターネットの検索の世界では検索文章が理解できただけでは、作業は1%も終了していません。その1%でさえ、デモ用にチューナップされていなければ、なかなか使い物にならないのです。

検索対象の文章を処理して、インデックスを作成する作業はGoogleも行っています。そのためにGoogleは自然言語の専門家を大量に雇っています。また、Googleは自然言語の専門家だけではなく、インターネットのサイトをなめまわして、インデックスを作り上げるために、数十万台のサーバーを連結しています。それでも、Googleでは中身の意味に入り込んだ検索はほとんどできません。

自然言語で検索する機能を提供しようとする試みは、入り口の検索文章の理解でつまづき、そこを乗り越えたとしても膨大なインターネットの中にある文章を自然言語として理解するという全く克服不可能な壁にぶつかってしまうでしょう。これなら永久機関を作るほうがまだ簡単に見えるくらいです。

Powersetが私の予想に反して、実用的な自然言語検索の機能を提供できれば大したものですが、まずそんなことは起きないでしょう。そんな不可能な(としか考えられない)ことに挑戦するより検索機能を強化する道はイメージ検索(これもすごく難しいとは思いますが)などいくらでもあるでしょう。少なくともGoogleが最後の検索エンジンになると決まったわけでは全くありません。

とは言ってもPowersetも新しい技術的可能性に挑戦することでベンチャーキャピタルから資金を集め、成功に向けて邁進しています。日本のITベンチャーの多くが、内実は体育会系のノリで特に独創性もないSEOなどを売り歩いているよりは、ずっとましなのかもしれません。こんな「アメリカは進んでいる、しかるに日本は・・・」式の言い方はあまりしたくはないのですが。
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ブルーオーシャンを求めて
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昨年2006年のアマゾンのビジネス書ベストセラーの11位はINSTEAD(パリにあるビジネススクール)教授のW・チャン・キム、レネ・モボルニュによる「ブルーオーシャン戦略」でした。ビジネス書とはいっても、ベストセラーの上位に並ぶのは「なぜ、社長のベンツは4ドアなのか」などのハウツー物、入門書的なものが多い中で、企業戦略策定のためのメソドロイーを正面から書いた、それも翻訳本が売れるというのはかなり珍しいことです。

ブルーオーシャン戦略というのは、血で血を洗うような競争(レッドオーシャン)ではなく、競争のない新たな市場(ブルーオーシャン)の創造を目指すというものです。著書の中ではブルーオーシャン戦略に成功した例として、イエロー・テイル(ワイン製造)、サウスウェスト(航空輸送)、シルク・ドゥ・ソレイユ(サーカス)などがあげられています。
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W・チャン・キム(左)とレネ・モボルニュ(右)

それではブルーオーシャンである競争のない市場をどのように見つけ、作り上げるのか。キムとモポルルニュはいくつかの、方法論や考え方のフレームワークを提供しています。それらは恐らく実際にそれなりに役に立つと思われますが、競争相手のいない市場創造の方法論というものは、アイデア創造のハウツーと同じで、その通り実践したからといって、自動的に答えが導かれるようなものではありません。

それでも、ブルーオーシャン戦略は26ヶ国語に訳され日本だけでなく世界中でベストセラーになりました。その大きな理由の一つにブルーオーシャン戦略以前に企業戦略論の主流であった(今でもそうでしょうが)、マイケル・ポーターの競争戦略の影響があまりにも強かったことが考えられるでしょう。

ポーターの戦略論は企業は製品を競争という観点からポジションニングすべきだというものです。製品が市場で成功するためには競争を勝ち抜く必要があり、勝ち抜くためには競争にもっとも有利なポジションを製品は占めなくてはいけないというのです。

ここまではある意味当たり前なのですが、ポーターは競争は同業他社だけでなく、バリューチェーン(ポーターは企業内の活動についてもバリューチェーンの考え方を提唱し、バリューチェーンはそちらの意味で使うことが多いのですが、ここでは企業間でバリューチェーンを形成していると考えます)、サプライヤーや顧客とも生じることを指摘しました。ポーターは同業他社、サプライヤー、顧客にさらに(将来の)新規参入者、(可能性としての)代替製品の5つの競争相手、5フォーシズというフレームワークで競争を分析すべきであるとしました。

5フォーシズのフレームワークで競争を分析するというのは確かに画期的で、ここから市場の中で価格で競争するのか、付加価値で競争するのかという選択や、市場のセグメンテーションをどのように行うかという問題にも、より明瞭な分析とアプローチが可能になりました。
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マイケル・ポーター


しかし、ポーターは決して、血で血を洗うような競争を勧めていたわけではありません。むしろ製品のポジショニングを分析することで、もっとも利益が多くなるような戦略を探ろうとしたのです。その意味でポーターは一つの市場に横並びで参入し、最後はコスト競争に陥りがちの日本企業を「戦略がない」と言って批判しています。

それでもポーターの代表的な著作の「競争優位の戦略」などを読むと、競争こそが全てという立場が徹頭徹尾貫かれています。競争に勝つための方法論はビジネスというより本物の戦争の戦略論のように、相手の経営陣の性格まで分析するという徹底したものです。

ポーターは単純な競争原理主義者ではないのですが、彼の企業戦略の中心が競争戦略というのは確かでしょう。ブルーオーシャン戦略は、その点ではポーター流の戦略論へのアンチテーゼだということはできるでしょう。

ポーターは競争に勝つには、コストで勝つ、差別化で勝つ、集中化で勝つ、の3つの戦略があるとしましたが、ブルーオーシャン戦略はその中の差別化戦略とよく似ているように思えます。しかし、ポーターの差別化戦略は別の市場を作るというのではなく、その中で非価格的競争力により競争に勝とうとするものです。

差別化戦略では製品の機能を増やす、ブランド価値を高める、品質を高めるという、一般には付加価値を高めることで市場で勝ち抜いていこうとします。しかしブルーオーシャン戦略は必ずしも高級化を求めるものではありません。

サウスウエスト航空は大手が無視していた地方都市間の路線を使用料の高いハブ空港を使わないことで安価に実現することで新しい市場を作り出しました。ここでサウスウエストはコスト戦略をとったわけでもありません。機種の統一や様々なコスト削減は新しい顧客層を開拓するために必要だったのであり、大手に勝つためではありません。地方都市間や不便だが安価な空港を使うことで、新しい航空旅客を作ることに成功したのです。

ブルーオーシャン戦略は確かに素晴らしいのですが、そこには「簡単に競争がない市場が見つかればね」という但し書きがつきます。もちろんこれは競争のないブルーオーシャンを追求するのが無駄だと言っているのではありません。そもそも簡単に誰でも思いつくような市場では競争がないはずがありません。

むしろ問題なの本物のブルーオーシャン市場の多くは、最初は規模が小さいことです。なかには新しい製品やサービスが潜在的な需要に火をつけて、いきなり巨大な市場が形成されるということもあるかもしれません。しかし、そのような場合は沢山の競争相手を引きつけて、ブルーオーシャンがたちまちレッドオーシャンになりかねません。

また、ポーターの5フォーシズの視点で考えると、ブルーオーシャーン市場でも、サプライヤーや顧客との競争関係は存在します。つまり、「同業他社」というものはいなくても、市場自身が小さいため、サプラヤーに対し強くなれないということは考えられます。たとえば、制御用の半導体を半導体メーカーが安くは作ってくれないといったようなことは、同業他社がいないためにおきがちなことです。

市場が未成熟なときにどのような戦略をとるべきか。コンサルタントのジェフリー・ムーアは製品市場の成熟度に応じて戦略を柔軟に変えていく戦略論を「ライフサイクル イノベーション」で展開しています。ジェフリー・ムーアはシリコンバレーのハイテク企業を中心にコンサルティングを行っていることもあり、新市場の創造をイノベーションを中心に考えています。この点は顧客視点で新市場を作ろうというブルーオーシャン戦略とは違いますが、市場自身を育成するという点では、補完的な関係にあるといってもよいでしょう。

戦略論ではマイケル・ポーターのポジショニングに基づく競争戦略と並んでジェイ・B・バーニーの資源ベースの戦略論が有名です。資源ベースの戦略論では企業の組織に根ざした競争力がもっとも強力であると考えます。バーニーの戦略論はポーターのポジショニング論が外的環境に注目するのに対し、内的要素に着目するもので対照的ですが対立的ではありません。

資源ベース戦略で考えると、ブルーオーシャン戦略を長続きさせるためには、市場が未成熟な間に市場のリーダーシップを組織力に組み込む必要があります。ブルーオーシャン戦略で代表的な成功例とされている、シルク・ドゥ・ソレイユは従来型のサーカスとは一線を画する芸術性の高さや演目の豊富さにより、新しいサーカス市場を作りましたが、これは団員の能力によるところが大きく、また大きいからこそ長い間競争の少ないブルーオーシャン市場を独占することができました。

しかし、ムーアのライフサイクルの考え方によると、競走上優位な組織力は製品のライフサイクルによって違ってきます。組織力とは言っても、高度の開発能力、強力な営業能力、高品質の製造能力、効率的なサプライチェーン運営力と色々あります。どれも重要ですが、何がキーになるかは、自社のコンピーテンシーや競争関係だけでなく、市場の成熟度によっても異なってくるのです。

市場が未成熟なうちは、製品機能の全てを自分で提供する必要があり、開発能力が重要です。市場が成熟しコモディティー化するとモジュール化が進み外部依存するすることが可能な部分が多くなり、営業力やオペレーションの効率性がより重要になってきます。デルはオペレーションの効率の高さで市場をリードしてきましたが、PCの主軸がノートブックに移り、単純なコモディティーから差別化が求められるようになって開発力の弱さが弱点になってきました。

当たり前ですが、ブルーオーシャン戦略、ポジショニング戦略、資源ベース戦略など色々な企業戦略論の多くは、ある特定の状況、課題に対する切り口を与えても、一つだけで全てを解決できるというわけではありません。少なくとも「xxxはもう古い、これからはyyy」式の言い方は戦略論では適当ではありません。

こんなことは当の戦略論の提唱者自身が一番よくわかっているのではないかと思うのですが、ブームはブームとして起こってしまいます。ブームに集まる人の多くは、眉にツバをつけながらも、「万能薬がついに現れたか」という期待で新しい戦略論に耳を傾けます。
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シルク・ドゥ・ソレイユはサーカスに芸術性を持ち込んだ


万能薬はありませんが、有名な戦略論はどれでもきちんと適用すれば、企業が自分自身を分析する鏡としては機能してくれます。まずいのは、色々な戦略論を中途半端に食い散らすことです。ダイエットと同じで、どんな方法も効果を得るにはある程度、徹底して実行する必要があります。

しかし、一番いけないのは一つの戦略論をドグマのように信じ込み、現実が適用範囲から外れてしまっているのに気がつかないことです。ブルーオーシャン戦略も市場がコスト競争や付加価値競争が行き詰った時には有効ですが、市場が未成熟なうちは焦点を失わせてしまう危険があります。

食べ物と同じで、戦略もバランスよく体調に合わせて摂取しましょうということなのですが、これはこれで難しいかもしれません。難しいならいっそのこと流行の戦略論に惑わされないように、「戦略論なんか意味ないよ」と実務一筋に邁進するという手もあるかもしれません。カリスマ的な経営者だったGEの元CEOのジャック・ウェルチも「戦略論には興味がない」と言っていました。と言って、誰もがジャック・ウェルチほど自信が持てるわけでもないでしょうが。

1千万分の一の地球
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地球の直径は12,756kmですが、1千万分の一に縮小すると127センチほどになります。地球儀とすればずいぶん大きいですが、両手を広げれば収まるほどの大きさです。この縮尺だと、人間は概ね0.2、ミクロン以下、ウィルスは0.05ミクロン程度ですから、ウィルスより少し大きい程度です。

大腸菌は縦横3x1ミクロン程度なので、千万分の1に縮小された人間には、長さ30m、幅10mくらいになり、鯨より大きく見えます。人間と比べれば地球は巨大ですが、人間を地球くらいの大きさにすると、鯨より少し大きな細菌や、人間より小さなウィルスに病気にさせられます。環境破壊は人間がウィルスに冒されているのと同じようなものなのかもしれません。

直径127センチの地球の重さは、大体5トンです。同じ体積の鉄より少し軽いのですが、そんなに変わりません。1千万分の1の世界では地球は5トンくらいの鉄の玉と思ってもよいでしょう。

この鉄の玉の3分の2くらいを平均0.38ミリメートルで薄く水が覆っています。これが海ですが、海の体積は全部で2リットル弱になります。陸水はその3%ほどですから、約60CCです。この60ccの大部分は南極で氷になっています。人間が利用できる水は1ccもないでしょう。

6千5百万年前、この1メートルより少し大きな地球に、直径1ミリ程度の隕石が衝突しました。砂粒ほどの大きさですから、地球は何の影響も受けなかったのですが、表面にいる生物種の90%は恐竜以下絶滅してしまいました。1メートルの地球儀に砂粒をぶつけても、表面の細菌が全滅するようなことはありませんから、大きな生物はずいぶんやわだと言えるかもしれません。

地球の外に目を向けると、月は大体38m離れたところにある、直径35センチくらいの天体です。重さは72キログラムくらい。頑張れば持ち上げられないこともありません。バスケットボールの直径は25センチ、バスケットコートが縦横、28m、15mですから、バスケットボールより4割大きなボールが、バスケットコートのはしとはしより少し離れたところに転がっているというのが、地球と月の関係です。
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太陽系を見渡すと、距離感がぐっと違ってきます。地球から一番近い火星は大きさが直径68センチくらい。地球に一番近づいたときでも、7.5km先にあります。太陽の直径は140メートルくらい。霞ヶ関ビルの高さとほぼ同じです。地球からの距離は約15km。太陽を東京駅に置くと地球は川崎の少し手前になります。

同じように考えると、太陽に一番近い水星と太陽の距離は3km程度ですから。田町駅あたりです(東京在住じゃない方、ごめんなさい)。これが木星では直径14メートルで太陽から80km弱ですから、熱海くらいになってしまいます。

冥王星が惑星じゃないということになったので、太陽系で一番遠くにある惑星の海王星は、太陽から450kmくらいはなれていることになります。東京駅からの直線距離では神戸あたりです。こんなに遠くではいくら太陽が霞ヶ関ビルくらいの直径があっても、点のようにしか見えないでしょう。

太陽系の外に出ると、一番近い恒星のケンタウルス星系のアルファA、Bで太陽からの距離は実寸で4.36光年、千万分の1の縮尺で4百万キロくらい離れています。せっかく千万分の1に縮めたのに、(実寸の)月の10倍以上遠くにあることになります。

さらに続けると、銀河系の直径は10万光年ですから、1千万分の1にしても、1千億kmになってしまいます。これは実寸上の太陽と海王星の距離の20倍です。これではイメージがわかないので、もう1万分の1に縮めると太陽は1.4センチのハエくらいの大きさになって、一番近いケンタウルス星系のアルファA、B星までの距離は400kmくらいになります。

この縮尺で銀河の直径は1千万km。東京と神戸くらい離れたハエが、月と地球の30倍くらい離れた空間に散らばっているというのが銀河系の星の密度ということになります。

1千万分の1の、さらに1万分の1、つまり1千億分の1の縮尺で宇宙を見ると、銀河系から一番近いアンドロメダ星雲は2億kmで地球と火星が一番近づいたくらいの距離の2-3倍です。この縮尺で考えると、宇宙の大きさは1兆3千億kmくらいで、太陽系の3百倍くらいの大きさです。

この縮尺を人間に当てはめると、人間の大きさは原子の10倍くらいでそれでも、陽子や中性子の百万倍以上あります。この世界で人間が陽子や中性子を見ると、大腸菌と同じくらいの大きさになりますから、肉眼ではとても見ることができません。

陽子や中性子を1センチ程度にしようと思うと、さらに人間側が1万倍縮小する必要があります。そうすると宇宙の大きさも、1億3千万kmくらいになるので、実寸上の太陽と地球の距離と同じくらいになります。つまり、宇宙が太陽と地球くらいの距離に縮んで、その世界の人間がこちらの世界に来ると、陽子や中性子が1センチ程度に見えるということになります。

この縮尺でも電子は1センチのさらに10分の1の1ミリです。今の物理学では陽子、中性子はクオークというさらに小さな粒子からできていると考えられていますが、クオークの大きさは電子のそのまた1百分の1程度です。

クオークを1センチくらいにするように縮尺を続けると、電子は1メートル。陽子、中性子は10m、原子は1千kmにもなります。何度も縮尺を続けているので、わからなくなっているかもしれませんが、クオークを1センチ程度の大きさに見えるように人間が小さくなれば、全宇宙は13万kmくらいの大きさになってしまいます。実寸の地球の直径の10倍くらいですね。

物理学の最先端の超ヒモ理論では宇宙の基本は極小のヒモで、そのヒモの振動で全ての物質ができているということになるのですが、超ヒモ理論が予測するヒモの大きさはクオークの1千京分の1程度です。ヒモが1センチ程度に見えるように人間を縮めると、宇宙は13万kmの1千京分の1、つまり、0.13ミクロン程度になります。これはウィルスより少し大きい程度です。

逆に言えば、超ヒモ理論的スケールでは、原子ですら百万光年くらいの大きさがあることになります。これは銀河系の10倍で、銀河系から一番近い星雲であるアンドロメダ星雲との距離とおなじくらいです。

以上単なる計算上の話で、積極的に何か意味があるということではありません。もしかしたら途中で何桁か計算を間違ってしまってるかもしれませんが、ここまでくればたいした違いではないでしょう(別に開き直っているわけではありませんが)。宇宙は巨大ですが、極小の世界もまた底なしに大きいのです。

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地球温暖化
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人間の活動が地球を温暖化する

日本は記録的な暖冬ですが、この暖冬は世界的なようでモスクワでもこの冬の降水量は雪より雨によるもののほうが多かったそうです。ナポレオンやヒットラーの攻撃もはね返したロシアの冬将軍さえこの有様では、地球温暖化がいよいよ現実味を帯びてきます。

地球の温暖化は産業革命以来急速に増加した人間活動により、主として二酸化炭素を中心とした「温室効果ガス」が増加して気温が上昇するためと考えられています。国連の下部機関であるIPCCの今年2月に発表によると、「最近の気温上昇が人間活動によるものである確率は90%以上」となっています。

21世紀末にはIPCCの予測で気温が2-6度程度上昇し、北極やグリーンランドの氷が溶けて、海水面が50センチ程度上昇するとなっています (正確には、水に浮いている氷が溶けても、水面は上昇しないので、北極の氷が溶けても海面は上昇しません。ただ、気温が上昇して水の体積が増大して海面が上昇することは考えられますし、南極の氷が溶けると本当に海面が上昇します)。もっとも、地球温暖化や氷の溶解には多くの要素が関係して確実なことを予測するのは簡単ではありません。

地球が温暖化に向かっているということを批判する人は「1週間後の天気も当たらないのに、100年先のことなどわかるはずがない」と言ったりしますが、IPCCの予測は科学者の主流を占めるものであっても絶対的なものではありません。予測が狂うことはいくらでも考えられます。

もっとも予測が狂って、地球の気温が現在とあまり変わらない状況が続けばよいのですが、当然逆もありえます。気温が上昇すると海水の二酸化炭素を吸収容量は減りますし、北極の氷が溶ければ太陽熱を反射する量が減ってしまいます。結果的に正のフィードバックがかかって、急激な気温上昇が起きることもありえます。

地球の二酸化炭素の濃度は産業革命以前は0.0028%なのですが、2005年には0.0038%になっています。人間活動が地球の環境を大きく変えてしまってきているのは事実で、IPCCは20世紀になってからの平均気温の上昇の前半は自然的要因が主だが、後半30年は人間の輩出する温室効果ガスが主因と結論付けています。

さすがに何とかしなくてはという機運が高まり、1997年には各国が京都に集まり、」1990年を基点として、2008-20012年平均で温室効果ガスの排出量を5%削減しようという数値目標の合意にいたりました。

ところが京都議定書締結をリードしたゴア副大統領を2000年のアメリカ大統領選挙で破ったブッシュは京都議定書の批准を拒否してしまいます。アメリカは世界最大の温室効果ガス排出国ですから、議定書の効力は著しく減ってしまうことになりました。

アメリカ(というよりブッシュ政権)の京都議定書への批判は、一つには経済的打撃が大き過ぎるということ、もう一つは効果がはっきりしないということです。確かにその指摘は必ずしも間違ってはいません。

二酸化炭素は物を燃やすと発生しますが、要は経済活動をすれば二酸化炭素は排出されててしまいます。日本は1970年代の第一次石油ショック以来省エネを進め、GDP単位当たりアメリカの半分程度の二酸化炭素排出量に抑えているのですが、日本も1990年から総量では8%程度二酸化炭素の排出量が増えてしまっています。

結局、温室効果ガスの削減に簡単かつ有効な方法はなかなかなく、無理やり目標達成をしようとすると、大不況に転落する危険は否定できません。また、京都議定書が達成されても温室効果ガスは増加し続けることに変わりはなく、どの道気温の上昇は続く可能性が高いのです。

さらに、温暖化の予測がいうほど簡単でないのは確かです。地球の歴史上、寒冷化と温暖化は繰り返されていますが、メカニズムを完全に解明できているわけではありません。
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地球は何度か全面的に凍結した

数億年という単位で見ると、「スノウボールアース」といって、地球が赤道付近まで数キロの氷に覆われるということは何度もありました(ただしまだ仮設のレベル)。一度地球の温度が下がりだし、表面上の氷が増えると太陽熱を反射して、気温低下が止まらなくなります。スノウボールアースは、生物が二酸化炭素を光合成で酸素に変えて、二酸化炭素ガスの濃度が低下したため、気温低下が暴走したために起きた現象だと考えられています。

一度スノウボールアース状態になるともとに戻らなくなるのですが、長期的(億年単位)には火山活動で生じる二酸化炭素を海水が氷に邪魔されて十分吸収できなくなるため、今度は二酸化炭素濃度が上昇し逆に気温が急激に上昇(50度以上までになったらしい)して寒冷期は終了したと考えられます。

スノウボールアースのように劇的ではありませんが、地球には周期的に氷河期という寒冷な期間があります。今は4千万年前にはじまり3百万年前から活発化した氷河期の最中だと考えられています。

氷河期も寒冷な時期と比較的温暖な間氷期があって、現在は1万2千年前に終了した氷河期の後の間氷期であるとされています。地球温暖化が問題になる以前は、氷河期が再び来ることのほうが人類にとって脅威だと考えられていました。

氷河期が恐れられたのは、氷河期にはヨーロッパや北米大陸という現在の先進地域が氷河に覆われていたことがあるでしょう。氷河期には海面が下がるので、オーストラリアと東南アジアが地続きの温暖で広大な陸地を形成するので、人類とって必ずしも危機的な状態ではないかもしれません。

もっと短いサイクルでは、最近では19世紀にミニ氷河期とも言われる寒冷な時期が数十年続きました。日本では東北地方を中心に天明の飢饉など大規模な凶作に何度も襲われました。それ以前でも12-14世紀に寒冷化したときには、グリーンランドに小さな国家を形成していたバイキングが全滅しました。

4千万年前から始まった氷河期と間氷期は地球の公転、地軸の傾きが複雑にからみあった「ミランコビッチ・サイクル」によるものとの説が有力ですが、もっと長期には大陸の位置などが関係しているようです。

結局地球の気温には数十年から数億年におよぶ様々な周期があり、一概に寒冷化、温暖化に向かっているということはできないのは確かです。しかし、現在の二酸化炭素濃度の上昇はスノウボールアースを発生させた数億年にもおよぶ生物の活動を化石年代から見ると一瞬の間に行っているもので、スケールからいうと数億年単位の気候変動に匹敵する可能性があります。

温暖化に限らず、最近の生物種の絶滅速度は6千5百年前に隕石が恐竜以下多くの生物種を絶滅させことに比較できるものです。産業革命以来の人類の活動は地球に対し、巨大隕石の衝突と同程度の負荷を与えている危険性が高いのです。

このように考えると、あまり悠長に構えている気にならなくなってくるのですが、温暖化対策とさらに広い意味での環境保護は容易なことでは実現しません。まず、自分だけ楽をして切り抜けたいという「囚人のジレンマ」(「少子化という囚人のジレンマ」参照)があります。

囚人のジレンマというのは一人ひとりが自分の利益の最大化を目指すと全体の利益が損なわれるというものですが、環境問題はその典型といえます。きれいな空気や、安定した気候を求めても、自分ひとりが空気を汚したり、自動車を乗り回しても影響はわずかです。

つまり自分は環境保護に協力せず人生を楽しみ、努力は他人に任せるというわけです。地球の人口は60億人ですから、自分だけ努力してもしなくても地球環境には何の影響もありません。

環境意識が高く、ゴミの分別収集やエコ生活に熱心な人でも、普通は自分の勤めている会社まで交通機関を使います。今の日本では米だろうと肉だろうと大量の石油消費があって生産されるものばかりですから、生きている限り省エネ(つまり温室効果ガス削減)はたちまち限界に達してしまいます。

このため、地球温暖化に反対しても生活自身を追及されると極めて偽善的、控えめに言っても矛盾に満ちたものになります。地球温暖化をテーマにした映画「不都合な真実」を製作したゴア元副大統領の家の電気消費量が平均の10倍だという批判を保守派のメディアのFOXテレビがしましたが、ゴアに限らず、生きている限り、まして活動的であれば、大量の温室効果ガスを発生させてしまうのです。

地球温暖化に関しては温室ガス削減反対派は「温暖化の科学的根拠が不明確」と「個人生活と矛盾している」という批判を続けるでしょう。この論点は、海面が何メートルも上昇してニューヨークや東京が水没しても、少なくてもその時点をとらえれば正しい意見です。

「対策の経済効果が疑問」というのは、もっときちんと考えるべき問題でしょう。ビョルン・ロンボルグは「環境危機をあおってはいけない」という著書で、環境保護の対策の多くが根拠がない、あるいは経済的に全く引き合わないという主張をしています。
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ビョルン・ロンボルグ


ロンボルグの個々の主張は別として、環境に対し過度にヒステリックな反応をするのはよくないでしょう。地球温暖化問題の話を聞いていると明日にも、海面上昇で東京がなくなってしまったり、日本中マラリアが流行するような気がしてくるのですが、事態はもう少しゆっくり進行するはずです。

ヒステリックな反応の一番大きな問題は優先順位が正しく設定できないことでしょう。優先順位をつけることさえ拒否して、「今すぐ、全面的に、完全な」対策を要求する人も多いのです。このような要求は不可能なだけでなく、結果的にかえって環境を悪くする可能性もあります。

前回の「ウェイソン・テスト」でも書いたように、人間は論理的、数学的に考えるのは苦手です。子供の誘拐を恐れて自動車で送り迎えしたとき、誘拐されて殺される確率より自動車事故で死ぬ確率のほうがきっと高いはずですが、そんな理屈を納得するのは難しいでしょう。

しかし、環境保護や、地球温暖化を考えると二者択一、利害相反が山のようにでてきます。このようなものに対しては現時点で最善の論理的判断をせざるえません。たとえば原子力発電はどうでしょう。グリーンピースは鯨保護(「それでも鯨食べますか」参照)と反原子力が二本柱ですが、原子力が危険な技術であるのは事実でしょう。

原子力発電で生成される放射性物質は何万年も危険なレベルの放射能を出し続けますが、そんな長期間安定して貯蔵する技術を人類が持っているかは疑問です。ひとたび事故が起きると、チェルノブイリのように広大な地域が汚染され、多数の命が失われる危険があります。まだ一度も起きていませんがチャイナシンドローム(原子炉が融解して地球の裏側まで達してしまう・・後半はもちろん冗談ですが)の潜在的危険は原子炉である限り皆持っています。

しかし、化石燃料を燃やすのでなければそれに代替できる可能性が実際的にあるのは原子力だけです。太陽発電、風力発電など代替エネルギーは限定的な役割しか果たせません。結局、所用でタクシーを使ったり海外旅行に飛行機で行く度胸があるなら、原子力を全面的に使っていくしかないでしょう。

原子力発電所を増やすということは危険を考えれば大都市の近郊は不可で、田舎に作るということです。事故が起きればその地方の人は死んでしまうかもしれないが、原子力発電所を造ればそれは仕方がないということになります。本当に有効な対策をしていこうとすると環境保護はいつもこのような現実に向き合わなければなりません。

現実には色々なトレードオフがあるとしても、科学的に明確に重み付けを行うのは難しいことが多いでしょう。当然、それを利用して自分に都合のよい対策を実現させようというグループは沢山いるでしょう(このブログを原子力推進キャンペーンと思う人も、あるいはいるかもしれません)。だからこそ、環境問題に感情的な反応を極力抑える必要があるのです。

地球温暖化が人間活動によるというのは事実です。少なくともタバコが体に悪いというより確かな事実でしょう。この際、あわてずじっくり考え、そして行動したいものです。

ウェイソン・テスト
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アルコールはIDカードを見せてから

片面はアルファベットが、その裏側には数字が印刷されているカードが4枚テーブルの上に並んでいて、見えている面はA、F、3、4となっています。 今「母音の裏側の数字は偶数になっている」という規則があると言われてその規則を確かめるとしたら、どのカードを裏返してみればよいでしょうか。

(この問題を始めて見た人はちょっと考えてみてください)

まず、Aのカードを裏返してみる。これはいいですね。裏が偶数ならOkです。次にFは裏返さない、Fは母音ではないから、裏が何でも関係ありません。さて、3、4のどちらを裏返すか。もし4と思ったら、それは違います。4の裏が子音でも規則に反しているわけではありません。子音の裏側について規則は何も言っていないからです。

正解は3です。3の裏側が母音なら規則は間違っていることになります。簡単ですか?間違っても恥ずかしくはありません。このテストはウェイソン・テストといって、1966年にイギリスのピーター・ウェイソンが同様の実験(オリジナルはアルファベットではなくカードの色)を行った結果では、大半の人が間違えました。

簡単に解いた人の中には、論理学の知識を使った人がいたかもしれません。論理学では「AならばB」であると「BでないならAでない」は同じで、それぞれ対偶であるといいます。対偶の考えを使えば、偶数ではなく奇数を裏返せばよいということがすぐにわかります。

しかし、対偶のような論理学の定理に頼らずに考えると、数学者でも間違ってしまうことがあります。たった4枚のカードの話なのですが、これはなかなか難しい問題なのです。ところが、カードではなく設定を変えると話が違ってきます。

酒場に4人の若者がいて、飲み物を飲んでいます。アメリカでは飲酒年齢に達しているかどうかわからない場合はIDの提出を求めるのですが。4人の若者はそれぞれ、

・ ビールを飲んでいるがIDカードの年齢は見えない
・ ジュースを飲んでいるがIDカードの年齢は見えない
・ IDカードは飲酒年齢に達していないが、何を飲んでいるか見えない
・ IDカードは飲酒年齢に達しているが、何を飲んでいるか見えない

このとき、飲み物、IDカードの年齢を確かめなければいけないのは、どの若者でしょうか。これはすぐにわかりますね。ビールを飲んでいる若者のIDは要チェック、ジュースを飲んでいる若者は調べる必要がない。

次に誰の飲み物をチェックするかですが、IDで飲酒年齢に達している若者は調べる必要がない。当然でしょう。ということで飲酒年齢に達していない若者の飲み物を調べる。ジュースならOk、ビールならアウトです。

これはとても簡単な問題ですが。実はビールを母音、ジュースを子音、飲酒年齢に達しているのを偶数、達していないのを奇数と考えると、最初のカードの問題と全く同じ問題なのです。

どうして、カードの問題は大半の人が間違える。あるいは対偶のような論理学の助けが必要なのに、酒場の問題はあっさり直感的にわかるのでしょうか。はっきりしているのは、酒場の若者の飲酒年齢の問題と比べると、カードの母音、偶数の問題は抽象度が高くなっているということです。

酒場の問題では文脈的に実生活と結びつけて考えることができる(言われなくてもそうしてしまう)のに、カードは結びつける実生活はないので、論理的に考えるしかありません。人間は(たとえ数学者のように数学が得意な人でも)、抽象度が高い問題を直感的に解決することは苦手なようなのです。

ウェイソン・テストは結果が劇的なので、「なぜ」ということについて、進化論的な分析(数学はたった数千年の歴史しかない・・・)や文化論的(人間は規範については頭が回るのだ・・など)解釈は色々あるのですが、ほとんどは人間の数学や論理学を直感で理解するようにはできていないというのは事実のようです。

人間が数学的な計算を直感的にはできない(あるいは間違えることが多い)というのは、「人間は合理的に利益の最大化を目指す」という経済学の一般的な前提が間違っているということではないかという疑問につながります。

「行動経済学」は人間のそのような特性に焦点をあてて、経済学そのものを見直そうというものなのですが、確かに人間は単純な意味での合理性とは異なった行動を取るのは事実です。

典型的な例としては、不公正は結果は受け入れないという「最後通牒ゲーム」があります。最後通牒ゲームでは相手の申し出を受け入れないと損とわかっていても、申し出が不公正だと思うと多くの人は拒否をします。

最後通牒ゲームは感情の問題なのですが、感情を抜きにしても確率だの論理学などが必要な時、人間の直感は間違うことが多いのです。確率がからむと間違えるという例では、「モンティホール問題」があります。モンティホール問題では高名な数学者でさえ間違えてしまいました。

実際の世界では経済的な判断は、数字を確率的に考えるというさらに複雑な話になります。進化論的に考えるのなら、「10人でマンモスを追いかける」のと「2人づつ5組で、ウサギを追いかける」のとどちらの方が得なのか、という問題を直感的に判断する能力を発達させることはなかったようなのです。

経済学的に考えれば、「明日100万円もらうか10日後に200万円もらう」かという判断と「1年後に100万円もらうか、1年と10日後に200万もらう」かという判断は同等のはずですが、大部分の人が後者に対しては1年と10日後に200万円もらう方を選ぶのに、前者では明日100万円もらうという人が多いということがあります。

もちろん、1年後に100万円くれるという約束が守られるなら、1年と10日後に200万円くれるという約束も守られそうだが、明日と10日では気が変わらないうちにもらう方がよいという、「実際的」判断があるでしょう。

再び進化論を持ち出すなら、今ウサギを捕まえるほうが10日後にマンモスを捕まえる方に賭けるより妥当なことが多かったということなのかもしれません。だとすると、目先の利益を追求するように人間は進化してきたのかもしれません。

色々実験をしてみると確かに人間は目先の利益を重視することが多いようです。つまり「タバコをすう」「博打で有り金をはたく」「レジの現金を誤魔化す」といった行動を取るのは、愚かというより人間の「進化の過程で獲得した合理性」なのかもしれません。

しかしウェイソン・テストの示すように、数学的な論理がからむと人間は簡単に間違えてしまうことが多いのです。面倒くさいし、「そもそも人間は数学を考えるようには進化してこなかった」と言いたくなるかもしれませんが、時には謙虚に考え込んでみる必要なありそうです。