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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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ホロコーストはなかった
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連行されるユダヤ人

ホロコーストというのは言うまでもなく、第二次世界大戦中ナチスドイツが「組織的で十分に練り上げられたユダヤ人絶滅計画」に基づき、6百万人と推定されるユダヤ人を殺戮したことを指します。

恐るべき出来事ですが、6百万人という人数自身は5千万人以上におよぶ第二次世界大戦の犠牲者と比べて、必ずしも圧倒的なものではありません。大戦で戦勝国側になったソ連は2千万人以上の将兵、市民がドイツにより殺害されています。また、日中戦争では5百万から1千万人の中国人が犠牲になっています。

戦争状態でもないのに殺されてしまったということでは、ソ連のスターリンは30年の在職中に1億人程度の自国民を殺したと言われています。また、中国の毛沢東の時代には、人民裁判、大躍進政策による飢饉、文化大革命などを通じ1-2億人程度の中国人が犠牲になったと推定されています。

ホロコーストがそれ以外の大量殺戮と比べて際立っているのは、殺される理由が「ユダヤ人である」こと以外何も必要とせず、綿密なユダヤ人絶滅計画にしたがって、整然と殺害が実行されたことです。これに比べれば、スターリンや毛沢東はまだしも「反革命的」つまり「体制にとって危険」という論理がありました。

ユダヤ人はヨーロッパの各地にいましたが、組織的にナチスドイツに戦争を挑んだわけではありません。むしろ経済的な貢献によりドイツにとって本来は有益な存在のはずでした。科学技術の世界ではアインシュタインをはじめ、優れた学者、技術者が沢山いて、それらの人々が亡命や殺害により失われたことで、大きな損害を被ったはずです。

にもかかわらず、ユダヤ人の殺戮は徹底的に実行されました。ホロコースト以前、ヨーロッパには9百万人近いユダヤ人がいたと言われていますが、そのほぼ3分の2の6百万人が殺されたのです。ポーランドでは3百3十万人のユダヤ人の90%、3百万人が命を失いました。

ホロコーストを日本人が理解するのが難しいのは、なぜユダヤ人がそれほど嫌われたかということです。その前にユダヤ人とは一体何のかということ自身が日本人には、よくわかりません。

ユダヤ人とはもともとパレスチナ、現在のイスラエル付近に在住していた民族でした。しかし紀元前586年にバビロニアにユダ王国が滅ぼされた後は民族独自の国を持つことはありませんでした。そして約2千年前ローマ帝国に反乱を起こし、徹底的に弾圧され、ヨーロッパをはじめ世界の各地へと散らばっていきます。

世界のあちらこちらに移って2千年の時を経て、普通民族を他の民族と区別する外見的な特徴は失われていきます。ヨーロッパのユダヤ人は白人にしか見えません。細かく言えばドイツにいるユダヤ人はドイツ的な、フランスにいるユダヤ人はフランス人的な風貌を持つようになります。「民族の血」という点では、実質的な同化というより同一化が進んだのです。

ただ、「金髪で青い目」はアーリア人、ドイツ民族の大きな特徴とされ、ユダヤ人かどうか素性のはっきりしない場合、虐殺を免れたことはあったようです。しかし、ドイツ人にも黒い髪、茶色い目の人は沢山いますし、皆が皆、顎の張ったいかつい顔をしているわけでもありません。

ヨーロッパにいるユダヤ人が白人になったのと同様に、エチオピアのユダヤ人は黒人になりました。中国に移り住んだ開封のユダヤ人(中国のユダヤ人と新型戦闘機参照)の19世紀に撮影された写真を見ると、外見的には中国人にしか見えません。

民族を定義するとき、外見以上に重要な言語でも、ユダヤ人は独自の言語を使ってはいませんでした。現代のイスラエルで話されているヘブライ語は古代ヘブライ語から19世紀に改めて作り出されたものです。ヨーロッパのユダヤ人が日常語として話していたわけではありません。

結局ユダヤ人をユダヤ人たらしめているのはユダヤ教を信仰しているかどうかくらいしか残りません。しかし、実際にはキリスト教徒のユダヤ人もいます。ユダヤ教の信仰は必ずしも決定的なユダヤ人の定義とはならないのです。

外見的にも、宗教的にも、文化的にも、言語的にも何をとってもユダヤ人を明確に定義づけることはできません。少なくとも一般の日本人を納得させるような定義はないといっても良いでしょう。

しかし、ユダヤ人というものは明確に存在します。アメリカにはイスラエルの人口とほぼ同じ6百万人のユダヤ人がいるとされていますが、ユダヤ系のアメリカ人は、ユダヤ人であると周囲から認識されています。ついこの前まで(もしかすると今でもかもしれません)伝統を重んじる会社ではユダヤ人は一定のポジションまでしか昇進できないと言われていました。

政治の世界でもキッシンジャーなど有力なユダヤ系政治家は何人もいますが、ユダヤ系のアメリカ大統領はまだいません。学問の世界では最初のノーベル経済学賞を受賞したポール・サムエルソンがハーバーと大学ではなく、経済学では二流であったMITの教授になったのはユダヤ人だったからだと言われています。

アメリカがイスラエルの最大の支援者だということは周知のことですが、外見上全くの白人であるにもかかわらず、ユダヤ人はアメリカ社会である種の差別の対象になっていることは間違いありません。

ホロコーストからアメリカのユダヤ人に話がずれてしまいましたが、ナチスドイツがユダヤ人の絶滅計画を立てたとき、ユダヤ人を明確に識別、区別することは可能だったのは確かです。もちろん、ユダヤ人であることを誤魔化して虐殺を免れた人や、間違って殺害されてしまった人も沢山いたでしょうが、ホロコーストはほぼ正確にヨーロッパのユダヤ人を標的にし、殺戮してしまったのです。

ホロコーストでのユダヤ人の殺し方を見ると、他の大量虐殺は全く違って、殺すことを生産計画を実行するように精密に行っていたことがわかります。「ユダヤ人問題の最終的解決」と名づけられたホロコーストを実務的に実行したアイヒマンの仕事ぶりは、虐殺者というより生産管理の専門家のようです。
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アイヒマン

実際、アイヒマンは収容所へのユダヤ人の輸送(これが短期間では大変な仕事だったらしい)、ガス室の処理能力、死体からの有効成分の抽出などを淡々と計算し実行していきます。ホロコーストは残酷な殺人というより、最高度の知性が成し遂げた見事な効率化の実現と言って良いほどです。

このホロコーストは存在しなかった、6百万人が虐殺されたというのはたわ言に過ぎないと言う人たちがいます。ホロコースト否定論者(Holocaust Denier)です。

ホロコースト否定論者達は普通自分達のことをホロコースト否定論者とは言わず、ホロコースト修正論者(Holocaust Revisionist)であると主張します。ホロコースト否定論者が主張するホロコースト否定の根拠としてはたとえば次のようなものがあります。

・ 大量殺戮のためのガス室など存在せず、小さな殺虫用のものしかなかった
・ 大量の死体を焼却するようなエネルギーの無駄遣いは戦争中は不可能だった
・ 6百万人というユダヤ人の数は当時のヨーロッパに居住するユダヤ人の全数にほぼ匹敵し、そんなことは不可能だった。多くはべソ連、パレスチナ、アメリカなど海外への移住した
・ ホロコーストの証拠写真は反ナチスのプロパガンダのために捏造されたものだ

上のような主張は一つ一つ事実に基づく証拠で反駁可能ですが、ホロコースト否定論は当初はナチス自身、さらには主としてヨーロッパ各国の反ユダヤ人主義者などによって喧伝されてきました。

第二次世界大戦中、一般のドイツ人はホロコーストについては、「うすうす、何となく」存在を感じていただけのようです。ユダヤ人がまとめて収容所に送られていることは、大部分のドイツ人が知っていたはずですが、そこで機械的に殺されていたことまでは少なくとも明確には認識していなかったと思われます。いやかりにわかっていても「知らないふりをしたい」と考えていたのではないでしょうか。

最近ではイラン大統領のアフマディーネジャードがしばしばホロコーストに否定的な演説を行っています。ホロコースト否定論は反ユダヤ、反イスラエルの立場から今も主張され続けているのです。

ヨーロッパの多くの国ではホロコーストを公に否定することは罪に問われます。ドイツでは最長5年、チェコでは3年、フランスでは2年の実刑が科せられます。オーストリアでは最長では20年もの懲役になります。ただ、イギリス、ロシア、アメリカなどではホロコーストを否定しただけでは罪にはなりません。

ホロコースト否定論といえども、主張するだけなら言論の自由として許されるべきだという考えもあるわけですが、他の主張と異なりホロコーストは様々な観点、意見が水掛け論の様相を呈するよりは、「国家として断固事実として認識しているという立場を鮮明」にすべきだということなのでしょう。裏を返せば、それだけヨーロッパの人が持つホロコーストへの恐怖と、それを否定しようとする勢力の根深さがうかがえます。

平和な現代の日本から見れば、大量虐殺はどれも身の毛もよだつものばかりです。1990年代でもルワンダのフツ族によりツチ族が100万人以上虐殺されたルワンダ紛争が起きていますし、70年代にはカンボジアのポルポト政権が150万人におよぶ市民を殺害しました。

それでも、ホロコーストは狂気と綿密さ、徹底振りが共存したことを考えると一段と異常さが浮き彫りになります。そしてこれほど明白な事件でも否定しようという勢力が一定の影響力を持っていることにも驚かされます。私たち日本人にはホロコースト、そしてユダヤ人問題はなかなか理解できず、「何故」という思いがどうしても残ります。しかし、「何故?」と思う方が「理解」してしまうより、ずっとまっとうなのかもしれません。
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機械音痴のコンピューター屋
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メインフレーム時代のコンピュータールーム

今から30年以上前のことになります。空調の効いたビルのフロア一杯に林のように立ち並んだコンピューターの中を、私はたった一人でおろおろと歩き回っていました。土曜日の夜遅くから日曜の明け方にかけて、やっと確保した超大型メインフレームコンピューターを使って、顧客のテスト用にOSのセットアップをしなければいけなかったのです。

大学で電子工学を修めたことになってはいましたが、入社して日もない私にはあまりにも何もかもがわからないことだらけでした。「マニュアルをちゃんと読めばいいんだ」と先輩は言いましたが、英文のマニュアルは電話帳ほどの厚さのものが何百冊もあるような代物で、全貌を理解することなど全く不可能なことに思えました。

単純にコンピューターを起動させるだけでも、わけのわからないないコマンドを山ほど入力させる必要がありました。システムのセットアップのための入力情報は、葉書を細長くしたような数百枚のパンチカードと呼ばれる紙の束に書かれていて、それをコンピューターに読み込ませるところから作業は始まりました。

パンチカードにはシステムにどのような機器を接続させるか、どのような機能を取り込むかが定義されているのですが、一枚一枚がどのような意味を持っているか私には見当もつかないものばかりでした。

そんな私でもわかっていることがありました。コンピューターの使用料が1時間あたり30万円以上になるということ、システムのセットアップができあがらないと、顧客システムのテストが大きく遅れるということです。誰もいないコンピュータールームの中で、コンピューターの冷却用ファンの音が、闇に潜んだ猛獣のうなり声のように低く聞こえていました・・・・。

それから30数年後。

「ええ、こちらの機種はVistaではサポートされていないので、機種変更が必要です」店員は私の持ってきたPHSのカードを見て言いました。借りていたノートブックPCを返さなければならなくなって、新しいものを買うことにしたのですが、店頭で標準で搭載されているノートブックPCのOSは、いっせいにWindows XPからVistaに切り替えられていたのです。

軽いのが気に入って買うことにしたパナソニックのLet’s Noteは標準の512MBではVistaを快適に動かすことはできず、最大の1.5GBに拡張するのに4万円以上も支払わなければなりませんでした。Let’s Noteは小さいのはよいのですが、拡張メモリーは専用品が必要で普通の倍以上も値段がするのです。それでも、一からWindows XPを入れなおす気がしなかった私は仕方なしに標準搭載のVistaをそのまま使おうと思ったのです。

結局30万円ほども支払って、Let’s Noteと拡張メモリー、Office2007それにウィルス対策用のソフトも購入して家に戻った私は、NTTのADSL接続用のソフトが揃っていないことに気がつきました。私の住んでいるマンションはまだNTTの光ファイバーが使えないのです。

ところがNTTに電話すると「ADSLはVistaにはつながりません」という返事。目の前が暗くなるような感じを覚えながら、それでもLet’s Noteは外出用に使うのだからと、割り切ってあきらめることにしました。

自宅の外でもPHSではなくEMOBILEのカードを使うと高速で利用できるのですが、使用可能なエリアがあまりに限定されています。PHSとEMOBILEの二つのカードを使うのは、やはりばかばかしく、結局低速のPHSだけがLet’s Noteとインターネットをつなぐ細いクモの糸と言うことになりました。

私は工学部に入ったのは間違いとしかいいようのないようない機械音痴です。いまだに、家にはフラットテレビどころかDVDすらありません。本当はテレビくらいは大画面で見たいのですが、デジタルだフルハイビジョンだといった機能がマンションに引かれているケーブルでどこまで利用できるかわからず決心がつきかねているのです(金の問題ももちろんありますが)。

多少自分の名誉のために言っておきますが、入社したメインフレームのメーカーでその後、メインフレームに関してはずいぶん詳しくなることができました。何もわからなかったシステム操作のコマンドやセットアップのためのパラメーターの数々も、人(専門家です)に教えることができるほどになりました。しかし、メインフレームの知識は最適なPCの仕様を決めたり、セットアップを間違わずに行うためには、ほとんど全くといっていいほど役に立ちません。

こんな悩みは私のまわりには沢山いるコンピューター好きの人たちには、あきれるしかないようなものでしょう。しかしそのような人の大部分も別に原理がきちんとわかって、PCと付き合っているわけではありません。

PCに詳しい人たちがPC導入の手順を間違えないのは東京の地下鉄網に詳しくて、どこに行くにも最適な乗換駅をたちどころに言うことができるのと同じです。別の街、たとえばニューヨークに行ったら、東京の地下鉄網の知識が役立たないように、コンピューターの体系が変わってしまえば、また最初から学びなおす必要はあるはずです。ちょうどメインフレームの知識が役立たなくなった私のようにです。

確かにコンピューターは恐ろしく複雑なものです。今私の膝の上にのっているLet’s Noteはディスクが60GBあります。これは私が30年前にうろつきまわった、巨大なコンピュータービル丸ごとのデスク容量と同じくらいです。メモリーにいたっては30年前の日本の全てコンピューターを合わせたよりもっと大きさがあります。難癖をつけるのは筋違いかもしれません。現に機械音痴の私でも、1日でとにかくインターネットに接続して使えるなる程度には、「ユーザーフレンドリー」ではあります。

しかし、マイクロソフトのVistaについては、Vistaの提供する機能とVista導入にともなう様々なコストを比較すれば、Vista移行はほとんどのユーザーのためではなくマイクロソフトのためのように思えます。いまさら表計算やワープロに機能を付け加えたいと思っている人は少数派でしょう(機能を削ってもらいたいと思う人は多いと思いますが)。

今のマイクロソフトとPCの状況はダウンサイジングに直面していた頃のIBMと大変よく似ています。一部の特殊なユーザーの要求には応えながら、普通のユーザーには過剰な機能を提供しているのです。Linuxやインターネット上のオープンオフィスに対する言い分もそっくりです。「責任のあるメーカーが作ったものではない、信頼性、安定性の低い製品だ」と言うのです。

今後さらにマイクロソフトが自分の都合で互換性も乏しく、コストだけやたらかかる製品を、「古いOSにはウィルス対策のソフトを提供しない」という手段で押し付けようとすれば、ある段階でユーザーは雪崩をうってオープンソフトに流れていくでしょう。マイクロソフトのビジネスモデルでは、それを防ぐのは難しいでしょう。

不思議なことにマイクロソフトではIBMを叩きのめした「イノベーションのジレンマ」(日の丸コンピューターを再評価する(5)参照)をバイブルのように学んでいるそうです。イノベーションのジレンマとはハイエンドのユーザーに焦点を当てて、技術の進歩が一般ユーザーにははるかに低価格で十分な性能の製品を提供できるようになったことに、気づかないことです。一体マイクロソフトの人たちは何を学んでいるのでしょうか。


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ブッシュ大統領の知能指数
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ブッシュ大統領が就任した2001年の6月、アメリカ、ペンシルバニア州スクラントンにあるシンクタンク、Lovenstein Instituteが4ヶ月におよぶの調査研究の結果として、過去50年のアメリカ大統領のIQ(知能指数)の推定値を発表しました。

推定にあたっては、著作やスピーチの語彙や用法、出身校やそこでの成績など、様々な資料が使用されました。それによると、ブッシュ大統領のIQ は過去50年の歴代大統領としては最低の91であると結論付けられました。

調査結果では、ブッシュ大統領に次いでIQが低いのは、ブッシュ大統領の父親の先代のブッシュ大統領の98、逆に最高はクリントンの182とされています。また、クリントンの次はカーターの175となっています。

ブッシュ大統領がこのように低い評価しか得られなかったのは、使用語彙数が6,500と他の大統領の平均10,000の半分程度であること、クリントンがローズ奨学生であるなど多くの大統領が高い学歴を有しているのに、MBA取得以外これといった結果を残していないことが影響しています。

いずれにせよ、IQ が91であるということは、ブッシュ大統領はアメリカ大統領としての必要な知能を基本的に持っていないのではないかと疑わせるに十分なものであると言えるでしょう・・・・・・・。

日本にとっても心配な調査結果なのですが、ブッシュがIQ91であるとしたLovenstein Instituteの報告はHOAX(いたずら、ひっかけ)で本当の話ではありません。この話は2001年6月にインターネットのメールで広がったのですが、ペンシルバニア州あるいは全米どこにもLovenstein Instituteなるシンクタンクは存在しません(ただし、今はwww.lovenstein.org というWebサイトはあって、このHOAXも含め政権対する批判をしたりからかったりしています)。

話に真実味があったせいでしょう。イギリスのガーディアン紙のような高級紙が「事実」として報道して後で慌てて取り消したり、かつがれたメディアはいくつかありました。人から聞いた話ではワシントンの観光案内でガイドがまことしやかにこの話をしたそうです。どうも様子を聞くとガイドは本当に信じ込んでいたようです。

人間は一般に、自分が思っていることを補強するような話は信じやすく、逆の話は疑り深く証拠を求める傾向があります。私などはブッシュのIQ が91と聞いたときは「そうかやっぱり」とあっさり信じそうになってしまいました。

その後2006年になって、インターネットメディアの一つのBlackwell Synergyがカリフォルニア大学デービス校のDean Keith Simonton 教授の研究結果を掲載しました。このサイトの中身は有料になるので結論だけ書いてしまいますが、教授の推定ではブッシュ大統領のIQは111.1から138.5、中央値で125になっています。

推定の根拠は「がせねた」のほうとあまり変わらず、スピーチやSAT(アメリカの大学入学のための学力検定試験)の成績で、値もかなり大きな幅がありますが、ブッシュにIQテストをさせるわけにもいかないので仕方がないでしょう。少なくても中央値の125なら、自慢するほどでありませんが、アメリカ大統領くらいなら務まるかもしれません。

本来IQなるものは、知能の正常な発達度合いを調べるため、知能年齢÷実年齢で計算します。普通は大人は実年齢を18で固定して、成人のIQは最高でも160くらいです。過去の偉人についてIQ180、200という値を算出する学者もいますが、「お話しとして聞く」レベルにしたほうが良さそうです。また、「自称」220というような人もいますが、これも別に法律違反でもないでしょう(少なくとも学歴詐称とは違います)。

IQは試験の設計上は100を真ん中に正規分布をなすようになっていて、実際概ねそうななるのですが、だからと言って他の正規分布になる特徴、つまり身長や体重ほど絶対的な正確性があるとは言えません。そもそも「知能」の絶対的かつ物理的な定義は存在しませんから、IQテストの結果好成績をおさめてもその知能は、「IQテストで良い成績を取れる」という以上の意味は本当はないのです。

それでも人はIQの値を気にしますし、アメリカ大統領がIQ91と言われれば心配したり、変に納得したりしがちです。紹介した「がせねた」はそのあたりの心理をうまくついていて、現在に至るまで本当と思われたりするのでしょう。ただ私はSimonton教授が何を言おうと、やっぱりブッシュのIQは91くらいじゃないかとつい思ったりします。少なくともアメリカ大統領として十分な知能があるかは疑問に感じています。もちろん、「知能」の絶対的定義は私も持ってはいないわけですが。

サラリーマンのニューギニア戦
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私の父親は、日本が開戦した1941年に大学の経済学部を卒業して小樽で銀行員をしていました。戦争中でも地方ののんびりした銀行員生活をすごしていましたが、1943年徴兵されて主計中尉としてニューギニア島に送られます。当時、南太平洋の戦線はガダルカナルが陥落し、日本軍は連合国軍の反攻にさらされていました。

開戦始め、破竹の勢いで勝ち進んだ日本はフィリッピンを占領し、マニラにあったアメリカ太平洋軍の司令部はオーストラリアへ移されました。オーストラリアと海を隔てたニューギニア島の南岸には連合国軍の拠点のポートモレスビーがあり、そこを落とせばオーストラリアは目と鼻の先になります。

開戦の翌年1942年3月にポートモレスビーを目指す日本軍はニューギニア島北岸のラエとサラモアに大軍を上陸させ、終戦まで続く長いニューギニアの戦いが始まります。日本軍は北からポートモレスビーの背後を突くという戦略でしたが、日本の参謀本部の秀才たちはニューギニア島を佐渡島程度の大きさだと思っていたのではないかと思えるほど、作戦は無理なものでした。

ニューギニア島はもちろん佐渡島よりはるかに大きく、面積は島としてはグリーンランド島についで世界で2番目、日本全土のほぼ2倍の77万平方キロもあります。また、島の中央は峻険な山脈が貫いていて、最高峰のウィルヘルム山の標高は富士山よりはるかに高い4508mに達します。

山谷が入り組んだ複雑な地形を熱帯雨林が覆っているニューギニア島は、人間が入り込むのを厳しく拒絶していました。島での移動は容易ではなく、20世紀に入っても探検はなかなか行われず文明社会からは遠い未知の島でした。移動が困難だったのは、文明人だけではありません。未開のままにとどまっていた原住民も同様でした。

ニューギニアには数千とも言われる言語があります。それらの言語は世界中のいかなる言語グループにも属さず、互いにも全く関係がありません。ニューギニアの自然は、原住民すら言語的に大きく離れてしまうほど長い時間、小さな集落単位で孤立してしまうほど厳しいものだったのです。

今となっては日本軍の作戦策定の責任者たちがニューギニア作戦にどのようなイメージを持っていたかはわかりませんが、まるでアルプスを象を連れて越え、ローマに不意打ちを食らわせたハンニバルや、鵯越(ひよどりごえ)で平家の背後から騎馬で急斜面を駆けて攻め入った義経のような、天才的な軍事戦略の真似をしようとしたのではないかと疑われます。

ニューギニア島のジャングルは象や馬を連れていけるどころか、人間の歩行すら困難でした。大型の蛭が始終樹上から落ちて人血を吸い、蚊は分厚いシャツの上からも皮膚を刺しました。ニューギニア島の広大で険しい地形のジャングルを大部隊で作戦行動を行うというのは非現実的だったのです。

ニューギニア島のような場所では軍の移動は、海上や航空機に依存するのが妥当な方法です。しかし早々と制海権、制空権を失った日本軍は、ニューギニアの北から南まで縦に300キロにおよぶ道路をジャングルを貫いてほとんど重機もなしに建設しようと考えます。それも連合国軍の空爆や激しい攻撃を受け、工事は180キロまで進んだところで放棄されまっした。

ニューギニア島には合計20万人におよぶ日本軍将兵が送られましたが、補給がほとんど途絶える中、ポートモレスビーははるかかなた目標でした。当初いくつかの大規模な戦闘はあったものの、日本軍は連隊レベルでの作戦行動も難しくなり、将兵たちは小さな集団に別れて自活生活を余儀なくされます。

アメリカの潜水艦の攻撃を逃れて、父がようやくニューギニア島に着いたとき大規模な戦闘はあらかた終わっていて、すぐにジャングルでの生活が始まります。

「ニューギニアには昭和18年(1943年)に着いたが、終戦まで2年間アメリカ軍と戦ったことは一回もなかった。敵に一発の弾も撃たず、撃たれることもなかった。砲撃はあったが、遠くに落ちるだけで危険と思ったことはない。アメリカ軍の近くの地域に行かなければ安全だったし、アメリカ軍もジャングルに入って攻撃する気はなかった」

しかしアメリカ軍の攻撃はなくても、補給がなければ軍隊はどうしようもありません。

「履いていた靴は半年足らずで脱げてなくなってしまった。そのときは死体から靴を取ることができてしばらく履いていたが、またなくしてしまった。今度は靴を履いた死体はもう見つからず、1年近く裸足でいた」

「主計将校の仕事は補給や会計で、物資さえあれば結構おいしい思いもできるのだけれど、何もなくては意味がない。食べることができるものは何でも食べたが虫はご馳走だった」

こんな中では連合国軍に殺されなくても生きていくのは大変です。

「人はどんどん死んでいったが、自分が死ぬという気はしなかった。そんなことを心配するやつは頭が変になってしまったはずだ。戦場では10人に1人は頭がおかしくなってしまう。頭がおかしくなれば死ぬしかない」

「死体なんてどこでもころがっていて、みな蛆虫がわいていたり、半分骸骨だったり今考えればひどい有様だが、気持ちが悪いなんていうことはすぐになくなって慣れてしまう。慣れないやつはやっぱり頭がおかしくなるしかない」

飢えの中で人肉を食べるということもかなり普通に行われていたようです。さすがに、物事に頓着しない私の父親もその点は明言を避けてはいましたが・・・

「たまに、マンハントに誘われた。マンハントというのは原住民を襲って捕獲することで、やることは猪狩りと同じで、獲るのが猪でなく人間だということだ。オレはそれだけは嫌で断った」

一般的には殺して食べる相手は、原住民、アメリカ兵やオーストラリア兵、さらに日本軍同士もあったはずです。極限状態というようなことをよく言いますが、極限状態が日常生活になってしまうと、食人のハードルはそれほど高くないようです。

ニューギニアに派遣された20万人の日本軍将兵で生き残ったのは10%、2万人に過ぎません。それでも私の父親は、2年間を生き抜き終戦になります。

「終戦の日、いつものアメリカ軍の砲撃の音がしない。みんなとうとう戦争が終わったんじゃないかと考えた。確かめようということになって、勇敢なやつがここから先はアメリカ軍に撃たれるというところにある原住民が作った芋畑に侵入してみた。撃たれたらおしまいなのだけど、撃ってこない。それで戦争が終わったと確信できた」

その後連隊本部とも連絡がつき、連合軍に対し武装解除しろという命令が来ます。

「降伏することになって、それまで持っていた自決用の手榴弾がもういらないことになった。そこで、川の中に手榴弾を投げ入れて爆発させて魚を採ることにした。みんなの手榴弾を次々に使って、魚を沢山採ることができた。あれは楽でよかった」

しかし、楽なことばかりではありませんでした。

「運の悪いのが不良品の手榴弾を持っていて、ピンを抜いたらすぐに爆発してしまった。怪我で虫の息になって「日本に帰りたい」と何度も繰り返して死んでしまった。あれは可哀想だったな」

もっとも私の父親は、気の毒な戦友の最期を話すときもたんたんとしていて、考え深げな様子はありませんでした。意識してそうだったというより、センチメンタルな感情を余計に持っていた人間は生き残りにくかったのかもしれません。

父はアメリカ軍の捕虜となり、終戦の翌年1946年に奇跡的に沈められずに残った氷川丸で帰国を果たします。

「捕虜収容所では食い物をくれるのはよかったんだが、タバコはくれなかった。連中はどういうわけか紅茶を山ほどくれるので、紅茶をタバコの代わりに吸ってみたりしたけど、あれはまずかったな」

日本に帰った父は再び小樽で銀行員生活に戻ります。終戦後間もなくはアメリカ兵による日本人への暴行、傷害事件が絶えませんでした。

「夜暗くなってアメリカ兵に襲われた時のために、しばらくナイフを持って通勤していた。襲われたら、刺して逃げればいい。素早くやれば捕まるはずがない」

本当に捕まらなかったかどうかはわかりませんが、幸い父はアメリカ兵に襲われることも、刺し殺すこともなく、世の中は次第に落ち着いていきます。ただ、白洲次郎を「従順ならざる唯一の日本人」と言ったアメリカ人(ヴィッケルトと白洲次郎)も、小柄な日本人の銀行員がいざとなれば、ナイフでアメリカ兵を刺し殺して逃げる覚悟でいたと知っていたどうかはわかりません。

ニューギニアにも慰安婦問題が起きました。1997年週刊朝日は現地人の告発として第二次世界大戦中に日本軍による強姦5,164人以上、慰安婦12,718人、食人被害1,867人などとした、ニューギニアでの日本軍の残虐行為の報道を行いました。

この記事はその後朝日新聞などの続報もあり、南方での日本軍の慰安婦問題、残虐行為の一つとして扱われたりすることもあったようなのですが、正直首を傾げざるえません。人数がやたら細かいということもありますが、日本軍の「マンハント」のような食人被害にあったのは文字もなく、他の村落とは言葉も通じないような未開な原住民です。このような被害が戦後50年以上もたって、記録として残っているなど考えられません(語り継がれることはあるかもしれませんが)。目の前で残酷な行為を目撃した人はいるでしょうが、統計的な数字はでたらめでしょう。

一方、例によって「慰安婦はいなかった、強姦はなかった」という論ももちろんあります。確かに、ニューギニアのような場所でのんびり慰安所を開設できたとは思えません。しかし、「原住民は皮膚病がひどく性的対象になりえない」というのはどうかと思います。原住民の皮膚病はひどいかもしれませんが、おそらく日本兵の皮膚病もそれ以上にひどかったのです。そんなものを気にする日本兵は、とても生き残れなかったでしょう。

20万人の日本兵がニューギニア島の人々にどの程度ひどいことをしたかは、今や闇の中です。個別の話は残っていても統計など不可能ですし、人肉を食べた話をべらべらは話す人は滅多にいないでしょう。ついでに言うと、食べられた原住民の多くは食人の習慣がありました。食べられる仲間を見て恐怖は感じても、文明人とは違った受け止め方をしたはずです。

ニューギニアの慰安婦問題は朝鮮半島、中国のような大きく扱われることはありませんでしたが、「ある」とする側も「ない」とする側も、主張の根拠はおよそニューギニア戦の実態を理解しているとは思えないものでした。それにしてもジャーナリズムの多くが基本的な事実関係や状況を無視して、このような報道をするのはなぜなのでしょうか。

さて、私の父はその後銀行で役員にまで昇進します。10人以上いた同期の大卒で戦後も勤務を続けたのが父だけという有利な状況が幸いしたことは言うまでもないでしょう。その父が死んでずいぶんになりますが、戦争のことで残念そうに言っていたことに、中尉で終戦を迎えたことがありました。

「現地で正規の命令もろくに来なくなって昇進も通知されなくなった。本当は終戦の前に大尉になっていたはずなんだ」

大尉になれなかった悔しさがサラリーマンとしての頑張りにつながったのかもしれません。出世欲だけは非日常のニューギニア戦から日常生活にサラリーマンの父が持って帰ったものでした。


従軍慰安婦問題をフェルミ推定で解くと
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マイク・ホンダ議員

従軍慰安婦問題というのは、日本が第二次世界大戦中、朝鮮半島や占領地域の女性を強制的に連行し、日本兵に対する性的サービスを強要したとするものです。今年の1月になり、アメリカの民主党マイク・ホンダ議員他7人の下院議員が、「日本は若い女性を強制して性的奴隷である慰安婦とした事を認めて謝罪すべきである」とする非難決議を提案し、民主党優位の中で採択される見通しが高まってきたため、問題は深刻化の様相を帯びてきました。(その後2007年8月に下院で非難決議は可決されました

従軍慰安婦問題については安部首相がアメリカ議会の動きに対し「狭義の強制はなかった」と答弁したため、1993年8月の当時の河野官房長官が従軍慰安婦への日本軍の関与を認め謝罪した、いわゆる河野談話と矛盾したとして韓国、中国だけでなくアメリカからも非難を受けました。結果的に安部首相は河野談話を踏襲するとする立場を再確認したため、今度は従軍慰安婦問題の存在そのものに否定的な勢力から反発を受ける羽目になってしまいました。

河野談話は外務省のホームページにも掲載されており、日本政府の公式の見解と言って良いのですが、韓国やアメリカの従軍慰安婦問題で日本を非難する勢力は、この談話を日本の責任の重要な根拠としています。また、こうした動きに反発する勢力は繰り返し河野談話の取り消しを求めています。

河野談話に対して、日本の責任を追及する側も、責任はなかったとする側も、ある意味共通の解釈があります。そうした解釈を「解釈A」とすると解釈Aは次のようになるでしょう。

「第二次世界大戦中、日本軍は兵士の性的欲求を充足させるため、朝鮮半島および占領地域から多数のおそらく20万人を超える女性を強制的に連行し、戦地の慰安所に送り性的サービスを強要した。これらの措置は軍部による計画的組織的なもので、女性の徴発に際しても官憲が率先してこれを行った。

慰安所では女性たちの人権は全く無視され性的奴隷として悲惨で屈辱的な生活を余儀なくされ、女性たちは一生涯癒せない傷を負った。かかる暴挙は日本の軍国主義政策が招いたものであり、20世紀類を見ない残虐なものである」

確かにこれでは、アメリカ議会も非難決議をしようという気になるかもしれません。しかし、河野談話を次のように読むこともできます。これを解釈Bとしましょう。解釈Bは次のようなものです。

「日本軍は兵士が性的飢餓や交戦による興奮状態から占領地域で強姦事件をおこし非占領地域民の反感を招いたり、性病に罹患して兵力が損耗することを防ぐため、性的サービスを行う施設の設置を進めた。同様な措置は連合軍を含め広く行われ、近代的な軍隊としてはむしろ当然のことである。性的サービスは主として当時の公娼制度のもとで売春を業とする女性によって行われた。これらの女性に対しては相応の報酬が支払われ、特に外地での業務はかなりの金額が支払われた。

しかし、売春に従事する女性の多くは、売春にいたる過程で貧困やそれによる借金返済などのがあり、甘言、脅迫を含む不本意な原因により売春を業とするに至ったものもある。日本軍は慰安所の存在に対し、事実上公的な性格を与えたが、女性の徴募は売春に携わる業者にこれを任せた。これらの業者が時として正当ならざる手段で女性を慰安婦としたことがあった可能性は否定できない。

特に、朝鮮半島においては経済状況が日本本土より劣悪なこともあり、業者がより強圧的な態度に及んだことも十分ありうる。また、単に稼ぎの良い職があるといった甘言をもって、売春を職業とする意志のまったくない女性までもが慰安婦とさせられた可能性もある。

慰安所での生活は性質上大量の兵士を毎日相手にしなければならないという肉体的過酷さはもちろん、借金などのため業務が強制性を帯びていたことも多くあったと推察される。さらに、戦地で日本軍の敗走とともに、そのまま取り残されたり、自決を行ったり悲惨な最後を遂げたものも多いと思われる。」

少し長くなってしまいましたが、解釈Bであれば韓国、中国はともかくアメリカ議会が「これは20世紀に起こった大きな人身売買犯罪の1つで、まだ(解決されない)人権問題」とまでいきりたつことはないのではないかと思います。

解釈A、Bの他には「慰安婦問題は中韓のプロパガンダが生んだ妄想に過ぎない。慰安婦はプロの売春婦としてハッピーに稼ぎまくった」というのもあるのですが、河野談話はそのような考えは否定しています。

解釈Aと解釈Bのどちらが真実に近いかは別にして、河野談話をいきなり否定してしまうと、解釈Bも結果的には否定することになります。河野談話は韓国からの圧力に対し、頭の良い官僚が考え抜いて、一見解釈Aを認めたように見せながら実は解釈B を矛盾なくもぐりこませるという芸当をしています。しかし、芸当がうますぎて解釈Aで責めまくられたとき、もともとの河野談話自体は論理的にも否定できないという矛盾を抱えることになってしまいました。

従軍慰安婦問題について日本を責める側と、問題はなかったとする側を、仮にA派、B派としましょう。今日本の責任があったとする証拠が10あったとして、B派はそのうち一つでも二つでも嘘や間違いが見つかると「ほら見ろA派は嘘ばかりついている反日主義者のプロパガンダ集団だ」と決めつけます。これに対しA派は一つでも真実が見つかると、後の証拠は関係なく「日本の責任は実証された」と断定します。

論理的にはどちらも正しくないので、相手方の信念がゆらぐことはありません。本当に中立な第三者なら、証拠の質と全体的な構造を見て判定するのでしょうが、A派もB派も相手を攻撃するためには何でもするというスタンスですからそうはいきません。

従軍慰安婦問題の論点の一つ(B派が論点にしているだけですが)に従軍慰安婦は何人だったのかということがあります。A派はこの数を20万人あるいはそれ以上と言い、さらに文脈的にはその大部分が強制連行された性の奴隷であったような言い方をします。

従軍慰安婦は公的な統計などなく、今となっては正確な数字はわかりません。しかたがないので当ブログでもご紹介したフェルミ推定という方法で推測してみましょう。

1) 第二次世界大戦および日中戦争に参加した兵士の数500万x4年(兵役年)=2千万人・年
2) 兵士の休暇間隔を3ヶ月として休暇ごとに慰安所を利用したとして利用回数は年4回
3) 1)、2)から第二次世界大戦中の慰安所利用総回数=2千万x4=8千万回
4) 慰安婦の1日の接客数を10人とする
5) 慰安婦の勤務日を年300日とする
6) 慰安婦の平均年限を2年とする
7) 4)、5)、6)から慰安婦一人当たりの接客数は合計=10x300x2=6千人
8) 慰安婦の総人数は3)8千万を7)6千で割って約1万3千人
9) 8)のうち朝鮮半島および非占領地の女性を40%とすると5千人
10) 9)のうち慰安婦になる以前に売春業に従事しておらず実質的に強制された被害者を50%とすると2千5百人

以上の中で、戦争期間を第二次世界大戦中に限定し日中戦争を含めないという前提を除き、兵士の兵役や慰安所利用は多目に、慰安婦の負担は少な目に仮定しています。つまり慰安婦の実数はさらに少ない可能性もあります。また、9)、10)は常識的なものより大きく取っていると思います。

特に10)はある意味議論の中心ですが、「まったくだまされ、あるいは強要されてて」従軍慰安婦にさせられた女性が半分もいたとは考えにくいと思います。したがって強制連行の可能性のある慰安婦の2千5百人というのはかなり大きく振れているはずです。

さてフェルミ推定で考えると20万人の強制連行による性的奴隷の被害者は多分、多くても2千5百人になりました。しかしこれでA派がひるむことはないでしょう。2千5百人を丸呑みしても(しないでしょうが)、これはこれで小さな数字ではないからです。少なくてもB派の一部の主張する0人との乖離は巨大です。

逆に20万人が本当だとしても第二次世界大戦での被害者の数から比べると大した数字ではありません。日中戦争では中国人が5百万人から1千万人死亡した(日本軍に殺された)と言われていますが、これに比べれば同じく20万人を主張して真偽を問われている南京事件の被害者の数も誤差のうちです。

結局中国、朝鮮を中心とするA派は根本的に戦前の日本の乱暴振りに腹を立てているというのが背景にあります。また腹を立てる人が多いのには反日教育があるのは事実でしょう。国をあげての反日教育を行ってはいないフィリッピンでは、この種の問題はあまり起きていません。実際は第二次大戦中のフィリッピンの日本軍による被害は最悪のものでした。

話を従軍慰安婦問題に戻すと、日本は大変弁解がしにくい状況にあると思います。まず20万人は過大であるということはできますが「たったの2-3千人の被害者しかいませんでしたよ」と言えば「2-3千人」を公式に認めたことになってしまいます。現在の価値観から考えれば2-3千人は決して小さな数字ではありません。

慰安婦の存在自体、強制の有無は別にして売春であることは間違いなく、売春は今では日本を含め多くの国では法律で禁止されています。公的に売春を認めていたことも現在の価値観から非難される可能性が十分あります。

現代の日本でもソープランドで働く女性の多くは、借金やそれにからむ強要によるものと考えられています。ソープランドで働く女性をテーマにして悲劇的な話を見つけるのは簡単でしょう。A派は10の証拠で1でも真実があればよいと書きましたが、従軍慰安婦について悲劇的な例は、いくらでもあったはずです。全ての証拠を否定しさることなどできないでしょう。

給食費の未払いは1%程度ですが(給食費くらいただにしたら参照)、それでも「モラルの崩壊」「教育の危機」だという人がいます。「国家的に売春を組織化し、中には強要により悲惨な人生を歩まされた女性が数千人いた」という事実(このあたりが河野談話の本音だと思います)がある以上、公に「日本は特別に悪い国とは言えない」とは従軍慰安婦問題では言いにくい環境にあります。

今後いくら調査を進めても朝鮮半島で官憲が直接脅迫的に慰安婦の徴募を行ったという証拠はでないでしょう。これではまるでゼネコンの正社員が土木現場の作業員の人集めに上野でホームレスの採用を行うような話です。この種のダーティーワークは専門の業者がいくらでもいます。

従軍慰安婦問題は数ある日本非難の中では根拠の薄弱なものの一つです。ただここまでこじれた原因は、執拗な反日勢力の存在と同時に第二次世界大戦の問題の精査を行うことにいつもは不熱心な日本の対応があります。これでは「隠すからには後ろ暗いのだろう」という疑いを引き起こすのはしょうがない面があります。

ただし従軍慰安婦問題は日本政府は例外的に相当大規模な調査を行っています。しかし、「なかった」という証明は本質的に「あった」という証明よりずっと難しい上に、それこそ「広義」に考えれば国家による主導、強制がなかったとは言えないため、頑張っても河野談話に落ち着かざるえなかったのでしょう。

改めて読み返すと河野談話はそれなりにうまく書けています。しかし、幅広い解釈を許した政治的決着がいまだに尾を引いているわけです。やはり言葉だけで物事は解決しないのです。(関連記事