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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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高福祉それとも低負担?
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マイケル・ムーア監督

「華氏911」でブッシュ政権のイラク政策を標的にした、アメリカの映画監督のマイケル・ムーアが今度は「シッコ(SiCKO)」でアメリカの保健医療を取り上げました。映画の評価はご自身でご覧いただくとして、映画が指摘しているのは、アメリカが健康保険の満足度が先進国最低で、国民の6人に1人が医療で無保険状態にあるということです。

映画では救急車に予約が必要だとか、色々な話題が満載されているわけですが、国民皆保険を基本とする日本人の大部分(今や少数とは言えない例外がでてきていますが)に、病気になって健康保険がないという不安は理解しがたいものがあるかもしれません。

アメリカは医療保険は基本的には個人の「自己責任」です。医療保険により受けることができる医療サービスも大きく異なります。日本でも差額ベッドをはじめ金を払えば、より手厚い医療を受けられる部分もありますが、健康保険でカバーされている治療内容は基本的に誰でも同様に同価格で受けることができます。

日本の健康保険料の支払いは所得によりかなり差があります。政府管掌保険の場合、標準月額報酬が5万8千円なら本人負担の保険料が月額2,378円なのに対し、最高の121万円の標準月額報酬に対しては、保険料負担は月額49,610円と20倍以上になります。

仮にこのような負担をそのままに、医療保険をすべて「自己責任」にして、生命保険のように負担と保障が比例するようにしてしまうと、所得の高い人はより手厚い医療保険に加入しようとするでしょう。アメリカで起きているのは、要するにそのような状況です(少し単純化しすぎてはいますが)。
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金さえ出せば高度な医療を受けられる

アメリカは社会福祉政策に対し伝統的に懐疑的です。社会福祉=共産主義という考えを持つ人も多く、自助努力、自己責任という建前を貫こうとします。「働く者食うべからず」という理念を守ろうとしているとも言えるでしょう。

ただ、医療にまでそのような考え方を徹底すると、医療費が払えないのでみすみす死ぬのをほっておくという事態も起きてしまいます。低開発国でHIV感染の患者は実際にそのような取扱いを受けますし、日本でも健康保険制度の確立する以前はそうしたことはいくらでもありました。

いくらアメリカ人でも、貧乏人が病気で死ぬのは自己責任とは思いませんし、何とか現行制度を変えたいという気持ちは持っています。しかし、いざ実行するとなると医療費がもともと高額であるため、公的援助の拡大が大きな負担になる上、「自己責任」ですでに高額の医療保険に入っている高所得の人たちには、何も得になる話ではないので、各論になるとまとまりません。アメリカに比べれば、相対的には今まで日本の健康保険制度は、非常にうまく運営されてきたと言えます。

このアメリカと日本は租税と社会保障負担つまり健康保険費や年金費用を合計した国民負担率は、GDPに対しほぼ同じで33-38%です。アメリカは軍事支出が日本よりはるかに多いのですが、GDPに対する比率では差は3%程度です。軍事費を除いた日米のGDPに対する国民負担率の差は概ね5%程度日本が多いと考えられます。

アメリカはブッシュ政権で大規模な減税を実施してクリントン政権で達成した財政の黒字化から再び財政赤字に転じてしまいました。財政赤字はいずれ国民自身が返却するしか解消の方法がありませんから、国民負担率に財政赤字を足して実質的な国民負担をみるとほぼ37-38%です。イラク戦争で多額の軍事費の増加がありましたが、その影響はGDP比でみると1%程度です。
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財政赤字の警告をするアメリカ政府の「借金時計」

これと日本を比べると日本の国民負担率は名目的には36-38%程度ですが、GDPの8%にもおよぶ莫大な財政赤字があるので、実質的な国民負担率は45-48%になります。これに対し財政赤字のGDP比が0-4%と小さいイギリス、ドイツ、フランスの実質国民負担率はそれぞれ概ね50%、60%、70%程度です。スウェーデンなどは実質国民負担率は75%近くになるのですが、ほとんど財政赤字がありません。

実質国民負担率がヨーロッパに比べ低い日本が莫大な財政赤字と借金を抱えているのは、要するに税金や社会保障費が低い、つまり税金が安いからに他なりません。財政赤字の問題は税金の安いということの単なる裏返しです。

もし日本の消費税率が5%ではなくヨーロッパ並みの15-20%になれば、(増税による経済への悪影響を無視すると)財政の黒字化は簡単に実現できます。結局財政赤字を解消しようとすると、今のヨーロッパ並みの租税負担、社会保障費負担を受け入れるか、アメリカのような社会福祉レベルにするかどちらかということになります。

高負担、高福祉にするか低負担、低福祉にするかは国民の選択です。今の日本のような低負担、高福祉(と言って良いかどうかは問題ですが)にすれば財政赤字は増大し続けますが、それは将来への問題の先送りに過ぎません。

これは官から民に権限や業務を移管して経済的効率を高めるというのとは本来別の話です。確かに国鉄からJRになって合理化が進んだとか、郵政事業を民間レベルで競争させた方が能率は高まるというのは事実でしょうが、もともと親方日の丸で経済的合理性を無視して業務を行っていたのを、民間企業になって無駄を省こうという話です。高負担高福祉か、低負担低福祉かというのは国民の間で所得移転をどの程度おこなうかという問題です。

ワタミの社長の渡辺美樹が「もう国には頼らない。経営力が社会を変える」という本を書いています。医療、教育、介護色々な分野で官が実行してきたものを民が行うことにより、物事がうまく運ぶということを言っているのですが、どんなに合理化を徹底しても、国民の間での所得移転ができなければ、金がないので医療費が払えず病人を見殺しにするという問題は解決しません。そして国民の間で所得移転を実行するためには官の権力がなければなりません。
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金があれば?「もう国には頼らない」(写真は渡辺ワタミ社長)

アメリカは日本と比べれば、税制の優遇もあって民間レベルでの寄付とチャリティーが活発に行われているのですが、額にすればGDPの1.7%に過ぎません。民間のチャリティーは官のものより柔軟で有効であることが多いのですが、格差社会のアメリカでヨーロッパ並みの福祉を低所得者層が受けるには、とても十分な額とは言えません。

今の日本はヨーロッパ的な高福祉を実現するには国民負担が低すぎるため、医療、教育、低所得者への援助などを削り続けています。国民が納得していればそれでも良いのかもしれませんが、結果は給食費を取り立てるために教員が駆り出されたり(給食費くらいただにしたら)、生活保護を無理矢理打ち切ったりと、末端で矛盾やトラブルを引き起こしています。

医療費にしても、医療費の総額を抑えたままで医師の不足を解消しようとすると、医療従事者の給与水準を下げるしか方法はありません。ワタミの社長なら、合理化で医療費も安くなると言いたいかもしれませんが、医療費のような人件費が大きなウェートを占める産業では限界があります。

製造業は合理化により大幅な生産性の向上を期待できますが、医療や教育のように高学歴の人間がサービスを提供するものに、同じような改善効果は期待できません。教育でもインターネットなどで効率化が達成できる要素は多々あるでしょうが、落ちこぼれ対策のようなきめ細かな対応が必要なものには限界があります。まして、生活保護のようなような「金がない」という状態は「金を与える」という以外根本的な解決策はありえません。

ついでに言うと、国民の負担率を高めるという選択肢を取ると、恐らく消費税の大幅な増額(がもっとも効率的です。「金持ちや大企業からもっと取れ」というのは一つの考え方ですが、高い税負担は節税、脱税によりかなり相殺されてしまいます。確かに消費税は貧乏人からも税金を取り立てますが、赤字会社にしておいてフェラーリを乗り回すような人々、さらにやくざや泥棒からも税金を取ることができます。
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消費税は痛いのは事実だが・・

もし、国民の中の所得移転を行うのなら、低所得者に低い税率、高所得者に高い税率を課すより、取った税金を後から福祉の名目で配ってしまうことはより簡単で確実です。共産党、社民党のように「大企業はつぶれても構わないから税金を取れ」と言うなら(そんな言い方はしていませんが)別ですが、消費税を福祉に回すというのは本来、社会主義的考え方を取るのなら当然選択すべき政策です。

社民党や共産党が本音で何を考えているかはわかりませんが、文字通り「消費税は悪税(というか一般国民への税金は全て悪税)」というなら、これは一種の囚人のジレンマ(少子化という囚人のジレンマ)です。自分たちの利益の最大化を目指すために、増税も福祉の向上も実現できなくなっているのです。

繰り返しますが、高負担高福祉を目指すか、低負担低福祉を目指すかは国民の選択の問題です。実際には高負担で財政赤字がなくなって、官の非効率的な部門の改善が遅れたり、意味のないばらまき型の公共投資(また公共投資ですか?)が行われてしまうこともあるでしょうから、安易な増税は気をつける必要がありますが、最終的には二者択一になります。

アメリカでは共和党が低負担低福祉型の政策を、民主党が高負担高福祉型政策(あくまでも相対的にはですが)をとりますし、イギリスではサッチャー政権の時に国営企業を大幅に整理し、福祉の切り下げで高所得層の税金を下げたことが今日の経済的成功につながってると言われています。しかし、基本は政策の重点をスイッチしながら官依存のモラルハザードを防ぎ、負担と福祉のバランスを追求しようとしています。

乱暴な言い方をすれば、今日本で財政赤字の「問題」は存在しません。存在するのは福祉に見合った負担を受け入れる決心を国民が受け入れるかどうかです。幸い日本は莫大な個人の金融資産があり借金を海外に依存していないので、財政赤字が直ちに経済の崩壊につながるようなことはありません。90年代のアジア経済危機やロシアの経済危機は外貨のない状態で赤字を積み上げた挙句、経済が崩壊してしまいました。

仮に消費税が20%になったらどうなるのでしょうか。ドイツ、フランスや北欧諸国を見る限り、社会が滅茶苦茶になることはなさそうです。しかし、いまだにコンクリートで国中を固めたいと思っている土建大国の名残りがある日本では、あまりに拙速な増税は避けたほうが良いでしょう。誰でも税金は払いたくありません。しかし、救急車を予約したいとも思っていないはずです。納得するのには少し時間がかかりそうです。

関連: 社会福祉は最大の景気刺激策
借金なんか怖くない
何故救急車はタダなのか?
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オレオレ詐欺と個人情報
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誰でも騙される?

知人がオレオレ詐欺に引っかかってしまいました。知人の名を名乗る電話が父親にかかり、友達の借金の連帯保証人になって友達が返せないので今すぐ300万円必要だとのこと。言われるままに振り込んでしました。知人は歯科医師なのですが、騙された父親もやはり現役の歯科医師です。電話がかかってきた時は母親も出産間近で実家に帰っていた姉までいたのですが、誰も疑うことをせず、銀行には身重の姉が出向いて振込みをしたそうです。

もう一人ほとんど騙されそうになった知人がいます。その知人は娘が医者なのですが、娘だと言う女から泣きながら医療過誤に巻き込まれたとの電話がありました。しかし、驚きはしましたが騙されませんでした。その場に当の娘がいたからです。それでも、一瞬娘が家にいたことを忘れて、どうしようと思ったと言っています。

話を聞いて思ったことがいくつかあります。一つはオレオレ詐欺が身近にもやたら沢山あるのだということ。二つ目は「オレオレ」ではなく、ちゃんと息子や娘の名を名乗るということ、そしてもう一つは騙されるのは、社会と接触の少ないお年寄りに限らないということです。オレオレ詐欺は、今や大掛かりな組織によって計画的に行われる犯罪です。やり口も巧妙になってきているので、よほど気をつけていなくては誰でも騙される可能性があると思っておいたほうがよいでしょう。

オレオレ詐欺は手口が多様化し「オレオレ」と名乗るとも限らない(知人の場合はどちらも息子、娘をの名を名乗り、職業も知っていました)ので警察では「振り込め詐欺」と呼ぶことになっています。警視庁管内で振り込め詐欺は2006年だけで3,150件発生しています。被害額も数百億に達していて、摘発されたなかには100名のグループで総計100億円も騙し取ったものもいます。ここまでくれば、麻薬なみの組織犯罪に成長してしまったと言えます。

組織的なオレオレ詐欺は、
・ 全体的なシナリオ、戦略作成担当
・ 振込み用の銀行口座収集の担当
・ 標的を絞り込むためのデータ収集の担当
・ 実際に電話をして演技する担当
のように役割分担が行われていると考えられますが、金を騙し取るという犯罪性を除くと、使われているテクニックは1990年代から盛んになったデータベース・マーケティングあるいはダイレクト・マーケティングと呼ばれる手法と基本的には同じです。電話をかけて注文(?)を取るという方法も、テレマーケティングと呼ばれる手法と同一です。つまり、オレオレ詐欺は最新のマーケティング技術を悪用したものだと言えます。
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基本はテレマーケティングと同じ

データベース・マーケティングというのは、顧客の年齢、職業、居住地など様々な特性から顧客の購買パターンを予測し、購買してくれそうな顧客を見つけようとする方法です。顧客がすでに購買履歴があれば、もちろんそれは重要な情報になります。典型的にはRFM(Recency、Frequency、Monetary)よばれる「いつごろ買ったか(Recency)」「どのくらいの頻度で買ったか(Frequency)」「いくら買ったか(Monatary)」という情報で顧客の購買意欲を分析します。

オレオレ詐欺でも、一度騙されるとRFM分析で「優良顧客」と見なされるようです。騙された知人はその後も何度か別口のオレオレ詐欺の電話がかかってきました。オレオレ詐欺に限らず、インチキ商法に一度引っかかると、どこかにデータが登録されているらしく、何度も詐欺のターゲットにされて、繰り返し騙されるということがあると報告されています。

データベース・マーケティングが新しいマーケティング技術として脚光浴びたのには、もちろんコンピューターの普及があります。コンピューターの助けを借りなくては、何千、何万人のデータを分析することは不可能です。コンピューターの処理能力が上がり、価格が劇的に低下したため、色々な角度からデータを分析することができるようになりましたし、複数のデータを組み合わせて優良顧客を絞り込むことも簡単にできるようになりました。

データベース・マーケティングを行うとき、当然ですがまず顧客をみつけるためのデータを集めることが必要です。ポイントカードを発行して、申し込みのときに年齢、性別、住所などを記入させるのは、データ収集の目的があるわけですが、オレオレ詐欺でポイントカードを発行するわけにもいかないでしょうから、色々な手段で名前、電話番号できれば職業、年齢などを集めることになります。細かい情報が集まれば集まるほど、詐欺のストーリーに真実味を加えることができるので、これはまともなデータベース・マーケティング以上に価値があります。

オレオレ詐欺でなくても、学歴や職業、所得水準が類推できるようなデータはデータベース・マーケティングにとって価値のある情報です。データベース・マーケティングが盛んになるのにつれ昔は大して価値のなかった、個人情報が急に貴重なものになってきました。しかし、自分についての情報が勝手に集められ分析されるのは気持ちが悪いと思う人もいます。オレオレ詐欺はもちろんですが、ちょっとどこかで買い物したときに名前と住所を書いたら、郵便箱からあふれるほどダイレクトメールが送られてきたり、四六時中売り込みの電話がかかってくるのは煩わしいだけでなく、プライバシーが侵されていると感じる人も多くなってきました。

個人情報は個人の人格を守るために保護される必要があるということで、日本では2005年に個人情報の取扱について定めた「個人情報の保護に関する法律」いわゆる個人情報保護法が施行されました。個人情報保護法では個人情報の利用の制限や違反した場合の罰則が定められました。それまでは企業が集めた個人情報の保護を怠っても法的には明確な罰則はなかったのですが、法律施行後は罰せられる可能性が出てきました。
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個人情報漏洩は企業のリスク

これは企業にとっては従来の考え方を大きく転換させるものです。個人情報は企業にとって価値があろうとなかろうと、きちんと管理し漏洩させることは許されなくなったのです。もともと新製品の設計図や会計データのように、企業の存亡にとって重要な情報の管理は厳重でしたが、個人情報に関しては必ずしもそうではありませんでした。マンションの見学で書かされたアンケートであろうと、フィットネスクラブの申し込み書であろうと、個人情報が書かれている限り、いいかげんに取り扱うことはできなくなりました。

今では、何か個人情報を書かされるたびに、「xx社における個人情報取扱の方針」というような注意書きを読まされることが多くなりました。あまり個人情報保護には興味がないような人でも、「何か変わったんだな」と感じさせられるようになったわけです。しかし法律施行前後から、個人情報保護については少し変な方向に世の中が動いているようにも見えます。

個人情報保護の基本的な理念には個人情報が個人の人格尊重に重要だからということはあるものの、コンピューターの普及で膨大なデータが処理できるようになったことが成立の背景にあります。つまり、個人情報が大切だというのは確かだとしても、一度個人情報がコンピュータの中に入ってしまうと、複製、加工、利用が極めて容易にできるようになってしまったというのが問題の根源です。
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個人情報を守るのは難しい

コンピューターが使えなければ数百人分の名簿を書き写すだけでも大変です。大量の個人情報を集めてコンピューターに入力した挙句、いい加減な取扱をするというのが問題なのです。個人情報保護法では5千人分以上の個人情報を集める企業を個人情報取扱事業者として、罰則などの対象にしています。明らかに学校のクラスの名簿などは法律の対象外なのです。

もちろん、世の中には金になると思えば、クラスの名簿であろうと何だろうと地道に集めて、データベースを作成して商売にしようという人もいるかもしれません。しかし、クラスの名簿で電話番号や住所を調べて、誘拐やストーカー行為に使うというのは個人情報保護法の範疇とは別の犯罪行為です。

最近はテレビで一般の人にインタビューをするとき、顔を隠すことが多くなりました。車のナンバープレートもモザイクをかけるのが普通です。有名人の車のナンバープレートが報道されて何か事件が起こったことがあったのかもしれませんが、アメリカの報道機関はナンバープレートを隠すようなことはしません。

今では学校ではクラスの名簿を作ることは稀になってきましたし、小学校の下駄箱の名前を個人情報保護に反すると言って、除去を要求する親までいるそうです。クラスの名簿で問題が起きることは昔はあまりなかったと思いますが、今になって何か新しい問題が起きるとはあまり考えられません。クラスの名簿はコンピューターに入力して初めて情報が活用できるようなものではないからです。今の日本ではクラスの名簿に限らず「個人情報だから」という理由で、何でもかんでも開示することを拒否するのが流れのようです。

どうも個人情報保護法をきっかけに、日本は匿名社会になろうとしているようです。個人情報保護法で必ずしも法の趣旨には反しない小さなグループの名簿つくりができなくなったり、大して理由もないにモザイクだらけのテレビインタビューが行われたりするようになってしまいました。もちろん、個人のプライバシーは重要で誰でも自分のことで知られたくないことを勝手に広められるのは防ぎたいでしょう。

しかし、背が高かろうか、低かろうが、太っていようが、痩せていようが、街を歩けば体型は一目瞭然です。女性に体重を聞いたり、年齢を聞くのは失礼以外の何者でもありませんが、本当は「見た目」こそが重要だとすると、数値データがわかるか、わからないかは二の次のはずです。できれば、匿名、覆面で済ましていこうというのは日本人が社会との係わり合いをできるだけ避けるようになってきたからかもしれません。

話がずれてきてしまいましたが、個人情報の保護で本当に問題なのは個人情報保護法があろうとなかろうと、データの不正取得はありうるということです。個人情報をマーケティング活動に利用しないように求めても、銀行やカードを全く使わないという人は稀でしょうし、医療行為を受ければ詳細な個人情報を提供せざるえません。カードの利用履歴、所得、病歴など多くの個人情報は好むと好まざるに関わらず、すでにコンピューターに入っています。そのデータが盗まれ、犯罪に利用される危険性は常にあるのです。

暗号化などの様々な技術や厳格な管理体制がデータ保護のために動員されていますが、全体としてみればデータを盗み出すということについては技術の進歩は盗む側に有利に働いているようです。とくにデータを改変して自分の預金を増やしてしまうようなことと違って、データのコピーを盗むだけであれば、証拠はずっと残りにくいので、盗まれたことさえ気づかない可能性は高いといえます。

技術の進歩が盗む側に有利に働くのは、莫大なデータを短時間に非常に小型の装置に格納したり、無線で送ってしまうことが簡単になってきているからです。うんと装置が小さくなれば、超小型ロボットを忍び込ませて機械からデーターを盗みだすこともできそうです。いささかSFじみているというなら、超小型ロボットを作るのが難しくても、絆創膏で記憶装置を隠すくらいのことはできるようになるでしょう。データは金塊と違って、技術進歩でますます小さくなっているので、盗むほうはどんどん楽になっているのです。
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データを盗むのは簡単になってきている

データを暗号やパスワードで守るようなことは当然行われていますが、システムがますます複雑化しているため、抜け穴のできる可能性は大きくなっています。そして何といっても最大の抜け穴は人間です。人間は弱いもので、脅迫、誘惑、怒り、正義感、英雄気取りなどなど色々な理由で犯罪者に協力したり、犯罪行為を行ったりすることがあります。完全な機密保護を追及することも大切ですが、集積されたデータは、いつか盗まれると想定する必要があります。オレオレ詐欺を実行できる知恵と組織力があれば、それほど難しいこととは思えません。

幸いまだ、大規模な個人情報盗難は起きていないようです(確信は持てませんが)。もし、オレオレ詐欺を企てたような連中が、データを盗んでいないとすると、考えられるのは、技術(脅迫、誘惑などの人間への攻撃を含む)を十分に備えていないというより、盗んだデータの使い道をまだ思いついていないということが考えられます。携帯電話の顧客情報を1千万人分盗んでも、それだけではオレオレ詐欺で大儲けできるとは限りません。犯罪集団もそれなりの製品開発が必要です。

データベース・マーケティングより新しいマーケティング技術として、Web2.0のマーケティング技術があります。Web2.0のマーケティングでは、膨大なデータから特定の条件で対象を絞り込むデータベース・マーケティングの手法とは違って、バラバラで個別な嗜好に合わせたロングテイル(分布図を描くと右に長く伸びた線の形からそう呼ばれる)に焦点をあてます。

ロングテイル・マーケティングには一人ひとりの細かい検索行動、メールの内容など、データベース・マーケティングより一歩も二歩も踏み込んだ情報が必要になります。ここで役に立つのがGoogleの保有するデータです。Googleは検索内容の履歴を個人別に記録していますし、Googleメールを利用していればメールの内容も保持しています。このようなデータが犯罪者により悪用されたらどうなるのでしょうか。世の中にはGoogle自身が、その役割を演じるのではないかと心配する人もいますが、それはひとまず置きましょう。しかし、データが集まれば盗まれたときの被害が大きくなるのは確かです。
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Googleは莫大な個人情報を保有している

たとえば、あなたが何かの抽選を申し込んで、当選のメールが飛び込んできたとしましょう。それが、マンションの購入申し込みで、手付けを振り込めといわれたら、どうなるでしょう。振込先がおかしい、契約せずに手付けだけは振り込まないなど、細かく考えれば色々ガードはありますが、騙される率はオレオレ詐欺よりずっと高くなるのではないでしょうか。

検索ワードから弁護士や医者を調べrた履歴を探り、それに関連した詐欺のストーリーを組み立てられたら、騙されないと確信を持って言えるでしょうか。Web2.0のマーケティング技術はデータベース・マーケティングより新しい分だけ様々な可能性(この場合は危険性)がありえます。世の中に悪いやつは尽きませんし、犯罪者が利用できる技術はますます増えてきています。犯罪を防ぐのに、一生懸命、顔をモザイクで隠したり、住所を隠してもあまり意味はありません。犯罪者が興味があるのはあなたの財布の中身だけなのですから。


原爆投下
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私の父親は第二次世界大戦で徴兵されニューギアに送られ(サラリーマンのニューギニア戦)、九死に一生を得て生還しましたが、生前「原爆投下で終戦になるのが何月か遅れたら、助からなかったな」と言っていました。もちろん、そんなことをどこかの防衛大臣のように、やたら口走るようなことはしませんでした。「自分はアメリカの原爆投下で助かった」という思いは、たとえ気持ちの底に多少あったとしても公言するようなことではないというのが、戦争で死線を越えてきた日本人の当然の心情だったのだと思います。

しかし、このことを考えだすと複雑な思いに囚われてしまいます。私は戦後の生まれですから、ニューギニアから父が生還できなければ、私もいなかったことになります。私にとって原爆はこの世に生を与えてくれた恩人なのでしょうか。とてもそんな気にはなりませんし、そもそも実感がありません。私には息子が二人いますが、かれらに自分たちは原爆投下がなければ存在できなかったかもしれないと言っても、心に重く響くものがあるとも思えません。息子たちには戦争も原爆投下も遠い歴史の出来事です。

アメリカは1945年8月6日に広島に、続いて8月9日に長崎に原爆を投下しました。広島では10数万人の人が一瞬で命を失い、長崎でも10万人近く(その後の死亡も含めれば10数万人に達すると推定されている)の人が亡くなりました。相前後して密かに日本政府が和平の調停を依頼しようとしていたソ連は日本に戦線を布告し満州に侵攻します。この状況で日本は8月14日の御前会議でポツダム宣言受諾、つまり無条件降伏を決定します。

現在から考えると、当時の戦局で戦争を継続することは無意味以外の何者でもなく、無条件降伏は当然の判断だと思う人が大部分でしょう。しかし、その時点でそのような正しい意思決定をすることができたかどうかは自明のこととは言えません。そもそも敗戦にいたるまでの10数年間、日本は大きい意味で意思決定の間違いを続けています。

広大な中国大陸でゲリラ戦を展開する中国(国民政府と、共産軍がありました)と泥沼の戦争を行い、ハードウェアの力つまり生産力が決定的になる海戦主体の戦争を太平洋域でアメリカと戦いました。相手の得意な土俵で、両面作戦を展開し、困り果てて日本の同盟国のドイツと死闘を行ったソ連に和平調停を期待するというのが日本の指導者たちがしてきたことでした。

戦争というものは始めるよりやめる方がずっと難しいものです。簡単に戦争をやめると、それまでの戦死などによる多大の犠牲を無駄だと認めることになるので、一般の国民と心理としても受け入れがたいものがあります。しかも、戦争の指導層は降伏によって地位を失うだけでなく、逮捕されたり処刑されたりすることも考えられるので、国民に多大の犠牲があっても権力を保持している限り、戦争を継続しようとします。

第二次世界大戦でもドイツはベルリンが陥落するまで降伏をしませんでした。ソ連は2千万人という日本の第二次世界大戦の全犠牲者の6倍以上におよぶ被害を出しながら降服せずに戦い続けました。ベトナム戦争ではアメリカ軍は第二次世界大戦で使用した爆弾の総量を超える爆撃を行いましたが、(北)ベトナムを屈伏させることはできませんでした。

日本軍は「虜囚の辱めを受けず」と言って、前線の兵士には降伏を事実上禁じて自決を強要していましたし、サイパン、硫黄島など数多くの戦場では玉砕でほとんど全員が死亡するまで戦いました。沖縄戦では一般市民を戦いに参加させ、事実上沖縄市民まるごとの玉砕戦法を取りました。本土に一兵の敵も上陸していない段階で降服を受け入れたのは、むしろ奇跡に近いことだと言ってもよいでしょう。

8月14日の御前会議から8月15日の玉音放送にいたるまで、玉音放送の録音の奪取を軍の一部が図ったり、近衛第1師団長を射殺するなど、降服に反対する勢力の動きは続いていました。玉音放送があっても、数百万の軍が整然と停戦、武装解除に応ずるかも問題でした。しかし、結果は玉音放送と阿南陸軍大臣が「一死をもって大罪を謝し奉る」と言って自刃したことで、終戦の動きは決定的になります。

終戦と本土決戦を唱える勢力が拮抗した当時のような状況は、ガラスに石をぶつけてどんな割れ方をするかというのと同じで、わずかなことで決定的な違いが起きてしまいます。そのようなある意味偶然の連鎖で物事が動いていく時に、原爆の存在が意思決定に極めて重要な要素となったことは確実です。

どのような防空壕も防ぐことができないような強力な爆弾(実際はそのようなことはないのですが)が存在するということは、天皇の生命の保証が、「国体の護持」にとって決定的だと考えると致命的です。海軍の崩壊、沖縄陥落、東京大空襲そしてソ連の参戦などを見れば、戦争にはもはや勝てないということは日本の指導層は誰でも認識していたでしょうが、原爆という「戦争の概念を変える兵器」を見るまでは本土決戦をあきらめることはできなかったのです。

それでは、本土決戦を実際に行っていたらどうなっていたのでしょうか。本土決戦の前哨戦と考えられた沖縄戦では、45万人の沖縄市民の約3分の1が死亡しました。これは日本全体に当てはめれば2-3千万人に相当します。信じがたい数ですが、国土が戦場になったソ連は大戦中2千万人の国民をドイツに殺されていますし、中国は日中戦争で1千万人程度の生命を失ったと思われます。朝鮮戦争でも市民の死者は3百万以上、人口の1割程度に及びました。日本全土が戦場になり、沖縄戦、硫黄島戦なみの抵抗を全国民が続ければ2-3千万人という犠牲者数は非現実的なものではありません。

アメリカ軍の被害も沖縄戦で1万2千人の戦死者と7万人以上の負傷者を出したことを考えると、どの程度のものになるか想像もできませんが、数十万人の死者がでるというのは妥当な想定です。原爆投下はアメリカ政府にとっては、議論の余地のない決定だったはずです。アメリカの一般的な原爆投下に対する評価は「戦争を早く終結させるために原爆投下は必要だった」というものです。

しかし、必要だということと許されるということは同じなのでしょうか。原爆投下および焼夷弾を主とした東京、大阪大空襲は明々白々に一般市民の組織的、計画的な虐殺です。第二次世界大戦中でも、これに匹敵する規模と計画性をもった一般市民の殺戮はホロコースト以外はありません。

広島市の平和記念公園にある原爆慰霊碑に『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』という言葉が刻まれています。この碑文に対しては誰が「過ち」を起こしたかという主語がないという批判があります。原爆はアメリカが落としたのだから、アメリカが主語だ、いや戦争を引き起こした日本が主語だと立場や主張により解釈は色々あるのですが、現在はWe=人類全体として戦争の悲惨さを反省するものだというのが大勢です。しかし、原爆は天災ではありません。人間の意志により投下されるものです。

不思議なことに戦後の日本の核兵器の反対運動は「世界で唯一の被爆国」という立場は強調しても、アメリカの戦争犯罪を糾弾するものは稀でした。米ソが対立しているとき、共産党などは「アメリカの核は悪だが、ソ連や中国の核は防衛上やむ得ない」と主張したこともあったのですが、アメリカの原爆投下を戦争犯罪として追及する姿勢は日本の左派勢力も明確ではありませんでした。原爆慰霊碑が主語がないと批判する人(こちらは主として右の人が多いようですが)もアメリカの戦争犯罪をあまり攻撃しません。

もしかすると「戦争犯罪」という概念は日本人には希薄なのかもしれません。しかし、だとしても「原爆を落としたアメリカを憎んでも憎みきれない」と言わないのは何故でしょう。「核兵器廃絶、戦争反対」と言い、被爆被害の補償を日本政府に求めても、アメリカに賠償させようとする運動は聞いたことがありません(私が知らないだけでしょうか)。

ソ連の参戦と満州での略奪暴行、シベリア抑留については右よりの人だけでなく多くの日本人が腹を立てるのに、これは不思議な現象に思えます。戦後のアメリカの政策がよほどうまくいって、日本人にはアメリカのすることは全て正しいと思う人が多いからでしょうか。そういう人もいるかもしれませんが、かつて社会党は「米帝国主義は日中共同の敵」とまで言っていたのですから、そうとばかりも言えません。

ひょっとして、日本人は原爆投下が戦争終結を早め、多くの日本人が結果的には命を助けられたと潜在的に思っているのかもしれません。そうだとすると一方で「世界で唯一の被爆国」と言いながら、他方で「その原爆で現在の自分が存在できている」と日本人の多くが心のどこかで思っているのでしょうか。

別の理由としては、爆撃機から原爆を投下するというのは、同じ殺人でも殺すほうも、殺されるほうも実感が乏しくなるのかもしれません。少なくとも爆弾を落とすほうは、目の前の人間を殺すより胸が痛むことが少ないでしょう。それでも、広島、長崎で原爆が実際に投下され、莫大な犠牲者を出したこことは、核兵器を保有する国に、核兵器使用のハードルを相当高くすることに役立ったことは確かです。

核兵器が普通の兵器とは次元の違うものだという認識が、広島、長崎の惨状なしで世界の共通認識になったかどうかは疑問です。もしかすると第三次世界大戦で世界が滅亡しなかったのは、広島、長崎への原爆投下のおかげなのでしょうか。そうであれば、人類は皆、原爆投下によって今生かされているということになるのですが。

また公共投資ですか?
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これで景気が良くなるの?

ソ連時代のロシアの小話を一つ。

アメリカ人がイギリス人の男が二人、片方が穴を掘り、 もう片方が穴を埋め戻すという作業を延々としているのを見て、一体何をやっているのかと尋ねました。 イギリス人の男が答えて、「ケインズ先生が、こうやっていると景気が良くなると教えてくれたんだ。」

アメリカ人が今度はソ連に行って、同じようにロシア人の男が二人、片方が穴を掘り、 もう片方が穴を埋め戻すという作業を延々としているのを見ました。アメリカ人が、これで景気が良くなるのかと尋ねると、「俺たちは植木屋だ。俺は穴を掘る役、こいつは穴を埋め戻す役。 で、あと一人、木を植える仕事の奴がいるんだが、今日は休みなんだ。」


あまりできのよい小話ではないですね。 実を言うとロシアで本当に語られていたかもはっきりしません。どちらにせよ、ただの小話ですが、ケインズ経済学ではまじめに、供給が需要を上回ったために不景気のなった時は、政府が金の入ったつぼを埋めて、それを掘り出させるようなことをすれば、「有効需要」が作り出されて景気が良くなると言っています(実際にこの通り実行したという話は聞いたことがありませんが)。

参議院選挙で自民党が大敗したことをきっかけに、地方に公共事業をもっと持って来いという圧力が強くなってきました。特に1人区での自民党の大敗は「構造改革の影の部分として、地方の切捨てが行われた結果だ」とする人も多く、内閣の弱体化もあって、また昔のような公共事業による景気浮揚策が脚光をあびるのではないかと危惧(または期待)する人が増えています。

確かに、公共投資による土木、建設などの支出は1995年をピークに減少を続け、2005年には半分以下になっています。政府はさらに2011年ごろまで毎年3%程度の削減を続ける考えです。すでに従来の半分以下の受注量で悲鳴をあげている地方の中小規模の建設会社にとって事態は深刻です。
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もっと道路を!

公共投資が一貫して減少する中、70-80万社もある建設会社数はあまり変わっていません。結果として、1990年ごろは製造業の90%程度あった建設業の生産性は、6割程度まで低下し高齢化も進んでいます。小泉構造改革は建設業を直撃したわけです。

小泉政権は「構造改革なくして景気回復なし」と宣言して、高い支持率を背景に進められたのですが、構造改革で景気回復を行うという理屈には多くの経済学者は首をかしげました。日本経済は物価下落というデフレ状態を続けていて、デフレは需要が供給を下回っているからだと経済学では考えるからです。景気回復の処方箋は「穴を掘って埋める」のでも「ヘリコプターで紙幣をばら撒く」のでもとにかく需要を喚起することで、小泉政権の構造改革は低温症の患者に解熱剤を飲ませるようなことになるはずなのです。

構造改革で日本経済は崩壊すると心配した人は多かったのですが、小泉政権は公共投資は減少させても、全体としてみれば別に「倹約」はしませんでした。小泉首相が在任した2001年から2006年の間に国債残高は400兆円ら700兆円近くに増大しています。少なくとも小泉政権の構造改革は緊縮財政を意味していなかったのです。

経済の規模を表すGDPは「個人消費+設備投資+政府支出+輸出-輸入」です。これはケインズ主義者であろうと、マネタリストであろうと、多分マルクス経済学者であろうと異存はありません。政府支出を「穴を掘ったり埋めたり」して増やさなくても、税金を取らないで国債で補えば、個人支出や設備投資が減るのを防げるので、経済効果はあります。

しかし、公共投資を減らした結果、地方の弱小建設会社は手ひどい打撃を受けました。その結果、建設業と農業くらいしか産業のない地方の景気は停滞しました。東京では六本木ミッドタウンに人が押し寄せているというのに、商店街は閉店した店ばかりになり、シャッター街になってしまいました。
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地方の商店街はシャッターが閉まったまま


では地方の活性化、景気浮揚には公共投資を増やす政策が有効なのでしょうか。公共投資で金をばら撒けば、建設会社は人を採用し、採用された人は地元で買い物をし、というか形で金が回りだすのは確かです。しかし、その効果は非常に限定的でしょう。最近の商店街のシャッター街化の大きな理由の一つは、消費者が車で遠くのショッピングセンターに出かけてしまうことです。地方都市のショッピングモールには県をまたがって客が来ます。地元の商店街に金が落ちる保証はありません。

しかも、建設会社に金を落として、将来その建設会社が独自の技術で世界に打って出るなどということは普通考えられません。公共投資がなくなれば元の木阿弥で、苦しい状況に戻ってしまいます。永久に「穴を掘って、また埋める」方式の公共投資でない限り駄目なのです。

地方では今でも、新幹線や高速道路を作って欲しいと言います。しかし、本当に欲しいのは建設工事そのものです。道路も立派な片側2車線のものを作ったりしますが、そんなことをせずに片側1車線でそこそこちゃんとしたものを沢山作ったほうが住んでいる人も助かるはずなのに、そうはなりません。

政治家は選挙で動いてくれる人や、献金をしてくれる人の意見を「国民の声」と思いがちです。地方の景気を何とかして欲しいと思っている人は地方には多いでしょうが、それが「公共投資推進」だと思っている人は建設業の関係者だけでしょう。そうでなければ、衆議院の郵政解散で郵政改革を訴えた自民党が大勝したり、談合廃止を公約にした東国原が宮崎県知事に当選したりすることはありえないでしょう。

効率性を考えれば公共投資が有効なのは地方よりむしろ首都圏です。首都圏では混雑した道路や、発着枠の足りない空港があり、増強は経済的効果が地方よりずっと大きくなります。公共投資の経済効果の差は首都圏と地方圏で4倍にも達しているとの調査もあり、地方経済の浮揚を公共投資に頼ろうとするのは国民経済の観点からは馬鹿げたことだと言わざる得ません。

もし(というかほとんど確実なのですが)大部分の地方が公共投資を減らされる中、経済的に立ち行かなくなったらどうなるのでしょうか。人は仕事のあるところに移動するので、マクロで見ると人口移動という点では、映画の「三丁目の夕日」で描かれていた集団就職や、出稼ぎの時代に戻ってしまうというのが可能性の高い予測です。いやこれは予測と言うより、戦後一貫した傾向です。地方の大学の卒業生は地元では県庁や市役所以外就職口がなく、大都市に出るのがずっと当たり前でした。
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集団就職の出発風景

地方が苦しいのは根本的には経済の生産性が低いからです。乱暴なことを言うようですが、つまり人口がまだ多すぎるのです。これはもっとも生産性の高い世代が大都市に出て行ってしまっているから仕方のない面もありますが、本当に競争力ある産業がないことに問題の根があります。日本の所得水準は高いので、世界中から優秀な製品を買うことができます。競争力ある産業とはグローバルに競争力がなくてはいけないのです。

どうすればグローバルに競争力のある産業を育成できるのでしょうか。経営学者のマイケル・ポーターはある地域が特定の産業で競争力を持つ条件を、クラスター理論として展開しています。クラスター理論では地方の産業の今日押す力決定要因は、

1. すぐれた戦略と競争相手
2. 高度な需要家の要求
3. 関連産業の存在
4. 人材、インフラの整備

であり、資源や資金、人口などは決定的ではないとしています。そして官の役割は、それぞれの要素が効率的、有機的に働くことができるような、触媒的な支援者に徹するべきであるとしています。
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マイケル・ポーター

洋食器で有名な燕市は人口10万にも満たない中都市ですが、製品はグローバルに受け入れられています。燕市は江戸時代からキセルの管を作ったりして、金属加工の歴史と技術があり、多数の小さな町工場ありました。そして燕市の洋食器と海外の需要家と結びつけたものに隣接する三条市の長い商業町としての伝統がありました。燕市、三条市はポーターのクラスター理論の実例です。

しかし、燕市の技術は江戸時代に遡ります。急に、グローバルに競争できるような産業が育成できるでしょうか。お気楽なことを言うようですが、現代の日本人の教育水準や経済水準、そして何より日本という高品質を要求する大市場があることを考えると、答えはいくらでも見つかるはずです。

もちろん、公共事業しか景気浮揚策を思いつかない人には答えを見つけるのは簡単ではないでしょう。そして産業を育成するには時間がかかります。「今倒産しそうなこの会社をどうしてくれる」という問題を解決してはくれません。それでも、公共投資を増やして地方を活性化するというのは、酒で一時の心の安らぎを得るような話で、実質的に何の解決策にもなりません。

ケインズも本心から「穴を掘って、埋める」ような公共投資が良いとは思っていませんでした。ケインズは快適な都市生活や美しいで年風景を実現させるような公共投資が望ましいと考えていたようです。工事のための工事で美しい森の木を切り倒したり、川をコンクリートで固めてしまうような公共投資は単に非効率という以上に、マイナスの効果しかもたらしません。そんなことをするくらいなら本当に「穴を掘って、埋める」方がよほどましでしょう。

長い目で見れば、地方の人口は産業の規模と生産性に見合ったものになっていくでしょう。公共投資を行っても、無限に効率の悪い投資を続けることができないのですから、効率の悪い建設業者は早いこと一掃して、人的資源をより有効に活用すべきでしょう。ただ、問題があります。高齢化の進んだ建設業界の人がいまさら新しい仕事を行うのは簡単ではありません。経済学の「均衡」が「いつ」を明確にできなければ人間にとっては意味がないということを、ケインズは「長期的にはわれわれは皆死んでしまう」と言って非難しました。もっとも政治家の先生たちには「長期的」とは次の選挙までのことかもしれませんが。

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ジョン・メナード・ケインズ


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アメリカ下院本会議で慰安婦決議案可決
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アメリカ下院本会議は7月30日(日本時間で7月31日)、日本政府の公式謝罪を要求する「慰安婦決議案」を満場一致で可決しました。この種の問題に深入りすると、ネットの世界では炎上の元になったりするのですが、以前このブログで取り上げたことがあるので(従軍慰安婦問題をフェルミ推定で解くと)、成り行き上(?)もう少し考えてみます。

決議案(原文)では第2次世界大戦中、日本が占領地から強制的に若い女性を連行し、「性奴隷」にしたとして、「20世紀最大の人身売買事件」と日本を断罪しています。決議文では慰安婦の数が20万人におよんだこと(この数は疑わしいというのは当ブログで解析した通りですが)、日本の教科書でも正しく教えていないことなどにも言及されています。韓国などの慰安婦問題を非難してきた従来からの意見に沿ったもので、日本の弁明は全く効果がなかったということがわかります。

なぜこんな決議案がしかもアメリカ下院で全会一致で決議されてしまったか日本人にはわかりにくいのですが、大きな要因となったのは決議案を出したホンダ議員が認めているように(朝鮮日報:慰安婦決議を推進したホンダ議員に聞く)にアメリカの韓国人、韓国系アメリカ人のコミュニティーの活動であるのは確かです。

一方、日本政府もロビー活動をそれなりに熱心に行い、以前何度か同様の決議がされそうになったときも、本議会に上がる前につぶしてきたのですが、今回はうまくいきませんでした。この問題をアメリカを舞台にした日本と韓国の外交戦争と考えると日本は完敗してしまったわけです。

今回下院で日本非難をする決議案が全会一致にまでなってしまった原因の一つに、6月14日ワシントンポスト紙に日本の立場を説明する意見広告掲載があったという見方があります。このことについては意見広告の中心人物の一人の花岡信昭は強く反発しているのですが(我々の国家はどこに向かっているのか)、決議案の発議を行ったホンダ議員は朝鮮日報とのインタビューなどでそのように認識していると述べています。実際のところどうなのでしょうか。

結果を見ると、ワシントンポストの意見広告が決定的とは言わないまでも、可決への最後の一押しになったことは確実に思えます。この意見広告は日本の国会の与野党44名が賛同者として名を連ねているのですが、国会議員の名前が沢山入ったことで、日本が国家的に頑なに第二次大戦中の戦争犯罪を否定していると思われることになってしまいました。花岡は意見広告は花岡他4人(屋山太郎、櫻井よしこ氏、作すぎやまこういち、西村幸祐)が中心で、国会議員は「賛同者」の立場だとしているのですが、裁判でもない世論形成のプロセスではあまり説得力はありません。

意見広告を出した人たちは「言うべきことを言わないと間違った日本観が定着しかねない。」ということだったのでしょうが、少なくとも結果は意図とは逆になってしまいました。
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上の図は「老婆と貴婦人」と名づけられた絵です。この絵を見て「老婆の顔を描いている」と言う人と、「貴婦人の後姿を書いている」と言う人がいます。どちらも間違いではありません。絵はどちらにも見えるように描いているのです。しかし一度、老婆あるいは貴婦人と思い込んでしまうと、別の見方をするのは簡単ではありません。

慰安婦問題も「日本は悪い」と思うか「日本は悪くない」と思うかで全く違って見えてきます。「いや、そんなものの見方なんという話ではないんだ。事実は事実なんだ、」と決議案に賛成の人も反対の人も言うでしょう。しかし、意見広告の中の「慰安婦の中には佐官級の収入を得ていたものがいた」という主張も、意見広告を出した人には性奴隷ではないという裏づけと思えても、「日本は悪い」と思っている人には、「ソープランドでの稼ぎは医者や弁護士を上回るから立派な職業だ」と言っているのと同程度の屁理屈に聞こえてしまいます。

慰安婦問題を日本を擁護する立場で発言、活動している人たちも、韓国を中心とした日本非難を行っている人たちも、相手を「事実を勝手に捻じ曲げて自分の利益のためにプロパガンダをするとんでもない悪党ども」だと思っているようです。相手を悪党だと思っているので、正しいことを強く主張し続ければ、中立的な人たちは自分を理解してくれるはずだと思い込んでいるのです。

実際には北朝鮮のように拉致問題と慰安婦問題を人権侵害という土俵で打ち消してしまおうとするように、慰安婦問題で直接的に利益を得ようとする立場はむしろ例外です。少なくともアメリカ下院が全会一致で日本非難を行ったのは、韓国系アメリカ人の票目当てというより、「単純な正義感」で賛成したと考えるのが妥当です。そして、ワシントンポストに載った意見広告は、この単純な正義感に火をつけてしまいました。

慰安婦問題、そして南京虐殺(ホンダ議員の次のターゲットは南京虐殺に対する日本の謝罪要求だという観測が広がっているようですが)も日本の悪行の証拠とみなされているものに怪しいものが多いのは事実です。どちらの事件も被害者の数を20万人としていますが、実数は10分の一か、もしかすると百分の一かもしれません。だからと言って、それらに一つ一つ意見広告のような派手な形で反駁することは、少なくとも日本に対し有利な結果を収めることにはならないでしょう。

それではどうすればよいのでしょうか。 まず、必要なのは利害関係のない人は、一般には被害者側の意見に共鳴しやすいということを理解することです。日本でも公害、薬害エイズ、原爆症などの被害者が運動を起こすと概ね世論は被害を受けたとする人たちに同情的になります。「そういう事件は被害者側の言っていることに理があるが、慰安婦問題や南京虐殺は違う!」と怒り出す人がいるのが目に見えそうですが、普通の人は証拠を精査せずに、報道だけをもとに被害者側に同情的になりがちだというのは一般的な事実です。そして報道はえてして「弱者」の味方です。

このような状況でうかつに細かい理屈で反論するとへ理屈ように取られ(「光市母子殺害事件」の弁護団もそうですよね)、世の中は反感を持ちます。公害を起こした会社や、厚労省は「科学的根拠がない」と口癖のように言いましたが、「証拠がないのは悪いと解釈する」というのが大方の世論の反応でした。

慰安婦問題も連行された「性奴隷」の実際の数が20万人の10分の一だろうが100分の一だろうが、現代の社会で起きればとんでもなく沢山の被害者がいたのは確かで、そのうち何人かをテレビカメラの前に引き出せば、真実とは別に被害のリアルな印象を一般に与えることができます。数字だけで20万人というのは「国家予算が80兆円」というのと同じで実感はありませんが、深い皺を刻んだ老婆の叫びを「あれは買収された、ただの元売春婦さ」とは世の中(この場合はアメリカ下院議員)は思いません。

今もう一つの「老婆と貴婦人」があります。慰安婦問題に関する河野談話です。河野談話は慰安婦を「残虐非道な日本は無理矢理若い女性を徴用された性奴隷」と思うか、「軍による組織的な売春の提供者」と思うかでまるで違って解釈できます。そして、一度見方が固定すると別の見方は想像もできなくなるのです。もし本当に慰安婦問題を世論形成を日本に少しでも有利にするという形で解決したければ、アメリカ下院議会(およびアメリカののマスコミの多く)「老婆と貴婦人」の絵に違うものを見ていることを認識しなければいけません。

慰安婦問題に意見広告を出した花岡、桜井などの書いたものを読むと、「中国、韓国は戦略的に日本を攻撃しようとしていて、慰安婦問題でも何でも事実を平気で歪曲しようとする連中だ」と思っているようです。この見方が正しいかどうかは別として、相手は中国、韓国ではなくアメリカそして韓国、中国、日本の一般の世論です。相手を悪党呼ばわりして頑張っても説得力はありません。普通に考えれば慰安婦問題も南京虐殺も加害者側は日本なのです。

日本を「加害者」と断定したことに反発を感じるのなら、20万人ではなくても少なくとも相当数の人が日本にひどい目に合わされた。人生を狂わされたとことは間違いないことを理解すべきでしょう。日本の裁判所やアメリカ議会で騒いでいる老婆を「嘘つきの売春婦」と言うなら、本当にひどい目にあった女性を一人でも二人でも探し出して、きちんとつぐなったらどうでしょう。意見広告を出す金があれば、そちらのほうがよほど日本への尊敬と信頼を勝ち得るはずです。

つぐなうと言っても、第二次大戦中の戦争被害者や朝鮮半島の人への賠償はそれなりに国家間でけりがついていて、政府レベルでは難しいことが多いのでしょうが、薬害エイズやらい予防法での差別の問題は、政治的に解決してきました。「日本は悪くない」と相手を納得させる理屈をひねくりだすより、そちらのほうがずっと簡単でしょう。

誤解を受けるといけないので断っておきますが、これは慰安婦問題を金で解決してしまえと言っているのではありません。「老婆と貴婦人」のように同じものを違った見方をする相手と話し合うときは、相手の視点に合わせてそれを認めないと話が進まないということです。「悪くないだから何もしない」では理解してもらうことはできません。

誰でも自分のことを悪し様に言う人に好意を持つことは難しいでしょう。しかし、相手の思い込みは何らかの理由があるはずですし、相手の思い込みから出発して事実を見直すと相手の言い分も理解できることも多いのです。「悪くもないのにそんなことできるか」と言いたくもなるでしょうが、アメリカ下院での日本を非難する慰安婦決議案可決は、当面の戦いで日本が負けたという事実を示しています。戦いに負けたら「反省すべきは反省する」とわが首相も言っているではないですか。

EVはトヨタ王国を終焉させるか?
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トーマス・エジソンとEV(電気自動車)

同じ市場に二つの製品があったとき、どちらの製品が勝利をおさめるかは、技術的な優位性だけでは決まりません。家庭用ビデオでVHSがベータマックスを圧倒したり、PCのOSでWindowsがマックを打ち負かしたのは、より沢山のソフトメーカーから自社製品の稼働するプラットフォームとして選ばれたからです。しかし、ソフトメーカーがVHSのあるいはWindowsを選んだ理由は、技術的にすぐれたからというより、市場でのシェアが高かったためです。

当初二つの製品のシェアの差が僅かでも、その差自身がシェアの差の拡大につながることは稀ではありません。顧客も含め市場全体がシェアの高い製品にシェアが高いという理由で支配されてしまうことを、英語ではLock-inと呼ぶこともあります。

Lock-inの例としてタイプライターのキーボードの配列があります。キーボードの一番上の文字列からQWERTYと呼ばれるレイアウトは、最初はタイプライターが速く打たれすぎて、故障するのを防ぐためにわざわざ使いにくくするために選ばれたのですが、その後タイプライターが進歩しても、変えられることはありませんでした。QWERTY以外の配列はQWERTYに慣れ親しんだユーザーから受け入れられなかったのです。
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現代の自動車のエンジンはガソリンによる内燃機関にLock-inされています。部品産業はガソリン自動車を作るために最適化されていますし、ガソリンスタンドのようなインフラも完備しています。顧客もガソリン自動車以外の選択肢は考えもしません。しかし、自動車が生まれてしばらく、20世紀の初頭まではガソリンエンジンは他の二つ動力機関、蒸気機関、電気モーターと市場をほぼ3分していました。

今となっては他の二つのエンジンと比べ、ガソリンエンジンの優位性は疑問の余地がないように見えますが、ガソリンエンジンのようなものがなぜ市場を支配できるようになったか、冷静に考えるとむしろ不思議です。

そもそもガソリンは非常に危険な物質です。消防法で危険物としての指定を受けていて、200リットル以上の保管は許可が必要ですし、火炎瓶の材料にもなるような代物です。ガソリンエンジンの動作原理自体が、ガソリンと空気を混合した爆発を原動力にしているため、エンジンは高い精度の気密性と堅牢さが必要となります。

おまけにガソリンエンジンは、本質的にエネルギーの効率が非常に悪いという問題を持っています。爆発と冷却のサイクルで大量のエネルギーが失われ、その比率は現代の技術でも実質60%以上にもなります。しかも、一定の回転数を維持しなければ著しく能力を落とし、そのため複雑な伝達機構(トランスミッション)で速度によりエンジン回転数が大きく変化しないように工夫する必要があります。複雑な伝達機構はさらにエネルギーの効率を低下させます。

これに比べれば、電気自動車(以下EV:Electric Vehicle)は少なくとも20世紀の初めごろは、ずいぶんとましに見えたはずです。EVの動力源は電気モーターで、電気モーターは内部のエネルギーロスが小さく、回転数で力が減衰することもないので、複雑なトランスミッションは必要ありません。確かに速度や一度走ることができる範囲はお粗末でしたが、同時代ののガソリン自動車と大同小異でした。20世紀の初めに最初に時速100キロを記録したのはEVです。

EVの弱点は当時もバッテリーでした。しかし、EVの推進者の一人のトーマス・エジソンは「バッテリーの問題は早晩解決される」と自信満々でした。実際、19世紀の終わりに、バッテリーのキログラム当たりのエネルギー密度(Wh/kg)は10程度であったものが、1901年に18Wh/kg、1911年には25Wh/kgに向上します。10年で2倍程度の勢いで改善が進んでいたのですが、そこからさらに2倍の改善を達成するのに80年かかってしまいます。EVとバッテリーの進歩はガソリンエンジンに阻まれてしまったのです。

ガソリンエンジンがEVとの競争に勝った理由は明確ではありません。一つの理由は1913年にキャディラックがバッテリー駆動のスターターを実用化したことがあります。それまで、ガソリンエンジンの欠点の一つは始動が難しく、危険でさえありました。クランクシャフトを回転させてエンジンを起動するのは力仕事でしたし、時としてクランクシャフトの逆回転で死亡事故まで起きました。

皮肉なことにバッテリー駆動のスターターの発明と、ガソリンエンジンの普及は、バッテリーメーカーにEV用の大型のバッテリーより、小型のスターター駆動用の小型バッテリーへの投資を推進させます。EVはガソリンエンジンに二重に発展を阻害されたのです。
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フォード モデルT

おそらくガソリンエンジンがEVに優位にたてた大きな要因は、ヘンリー・フォードが多分関連特許の取得しやすさからガソリン自動車の生産を行うことにしたことでしょう。フォードはモデルTの大量生産で自動車の価格を劇的に引き下げることに成功します。1914年ごろEVの平均価格が3千ドル近かったのに対し、モデルTは440-640ドルで販売されました。もし、フォードがモデルTのエンジンをガソリンではなく電気モーターにしていれば、自動車の歴史は全く違ったものになっていたかもしれません。

ガソリン自動車にLock-inされた自動車産業が再びEVに注目するようになったのは1973年の第1次石油ショックのころからです。1990年代に入るとGMのEV1をはじめ、トヨタのRAV4 EVやホンダ、フォードなど主要なメーカーが次々にEVを開発しました。
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GMのEV1

新世代のEVともいうべきそれらのEVは最高速度は100キロを超え、充電なしで100キロを走ることができましたが、ガソリン自動車の水準を考えれば実用レベルに達しているとは言い難いものでした。バッテリーの性能が不十分だったからです。

ガソリンの重量当たりのエネルギー密度が13,000Wh/kgに達ししているのと比べれば、鉛電池は1901年の18Wh/kgが1990年にようやく40Wh/kgになったレベルですし、効率の高いリチウムイオン電池でも70-150Wh/kg程度です。ガソリンと比べれば2桁の違いがあります。

もちろん、新世代のEVの歴史はまだ浅く、バッテリーの進歩はこれからも期待できます。充電を行ういわゆる二次電池ではなく、燃料電池を使用すればエネルギー密度はもっと高くすることができます。亜鉛空気タイプの燃料電池の理論的限界は1,000Wh/kgを超えますし、アルミ空気タイプの燃料電池の理論的限界は4,000Wh/kg以上です。

EVはガソリンエンジンよりはるかにエネルギー効率が高く、現在でも平均的な車の10倍程度、燃費の良いトヨタのプリウスやホンダのインサイトと比べても3倍程度のエネルギー効率を持っています。さらに駆動系がはるかに簡素になるので、バッテリーによる重量増をある程度相殺できます。発電所の効率や送電ロスを考えても、EVはガソリン自動車と比べCO2の発生量は半分以下ですし、火力発電を想定しなければCO2の削減効果は非常に大きいと考えられます。

走行距離に直結するバッテリーのエネルギー密度とともに問題だった充電時間の長さも改善が進んでいます。一晩かかると言われた時代から、今では10分程度で充電ができるようになってきました。これならガソリンスタンドとそう違いませんし、コンセントからコードを引けばよいだけですから、特別な設備もほとんどなく充電場所を確保することができます。

それでもEVがガソリン自動車を駆逐するようなことが近い将来たとえば10年程度で起きるとは考えにくいでしょう。ガソリン自動車は長い歴史の中で絶対的な性能を磨き上げていますし、ガソリンスタンドをはじめインフラが完備しており、EVの優位性が発揮できる場面はまだ限られています。

何よりEV普及の障害はコストです。バッテリーはまだ高価ですし、寿命も車自身ほど長くはありません。エネルギー効率の高さ(3-10倍あるいはそれ以上)から燃料代は安くなりますが、EVの量産が軌道に乗るまでコストの差は続くでしょう。自動車産業はガソリン自動車にLock-inされているのです。

しかし、石油の資源的な制約が大きいことや、エネルギー効率の悪さによる環境負荷を考えると、EVが次第に普及の臨界点に近づいてきていると考えることは妥当でしょう。ハイブリッドカーの普及もバッテリーの進歩と価格低下に貢献することでEVの進歩には有利に働きます。

今かりに、EVが普及と量産効果の好循環に乗ることができ、ガソリン自動車を駆逐することになったらどのようなことが起きるでしょうか。銀塩フィルムがデジカメに置き換えられたり、ブラウン管テレビが液晶テレビやプラズマテレビに席を譲ったようなことが自動車業界で起きたときの影響を考えてみましょう。

エンジンは自動車のまさに心臓部分です。ガソリン自動車、EVという言い方もエンジンの方式の違いを言っています。主要な自動車メーカーでエンジンを自社生産していない会社はありませんし、製品ラインの差別化に重要な役割を果たしています。

EVでは電池と電気モーターが、ガソリンエンジンとトランスミッションに置き換わりますが、これは従来の技術力や製造ノウハウの蓄積が使えなくなるということです。EVではもはやすべての自動車メーカーが個別に電池や電気モーターを開発するとは考えられませんし、逆に電機メーカーなどが新たに参入してくることが考えられます。同じようなことはデジカメがフィルム型のカメラを置き換えるときにも起こりました。

別の例ではMPUによりコンピューターの心臓部の演算装置がインテルを中心とした少数のメーカーに集約化され、しかもインテルがシェアの大部分を取ってしまったケースがあります。IBMなど一部のメーカーを除き、コンピューター会社はMPUをインテルなど外部から調達し、最終製品に組み立てるだけになってしまいました。

自動車の最重要部品であるエンジンの生産が一部のメーカーに集約化されると、コンピューター産業や電機メーカーのように生産工程の付加価値の流出が起きると考えれられます。同時にこれはメーカーごとの技術や生産性の差が大幅に縮まることを意味します。

今では電子製品の多くは半導体や液晶パネルに機能やコストの多くが集中しています。このような業界ではトヨタのカンバン方式のように部品を必要な都度納入させて、在庫を最小化する意味は小さくなっています。

それどころか、半導体の納入は一定数量を特定の時期に購入することを約束しなくては発注もできません。メーカー主導の発注管理は難しいのです。また部品製造の立場から言えば、電池は半導体や液晶と似て、巨大な設備で連続生産をする必要があります。規模の利益を維持するため、現在のエンジン部品と比べて生産調整はずっと難しいでしょう。

自動車は最終製品のメーカーを頂点とした垂直統合を基本とした産業です。コンピューター産業もかつてはそうでした。しかし、今ではコンピューター産業は半導体、OS、その他の部品メーカーが水平分業を行っています。
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EVは自動車の製造概念を一変する?

EVは自動車産業を水平分業に大きく転換させるでしょう。ガソリンエンジンをメーカーが内製している現在の形態では、「モジュール化」は限界がありますし、自動車の性能を決めるという最重要の戦略は自動車メーカーの手にあります。PCでは製品のサイクルはインテルのMPUの製品サイクルで決まってしまいます。

このような世界になっても、トヨタは最大の製造業者として大きな力を維持することは可能かもしれません。しかし、カンバン方式による在庫削減や、巨大な発注量を背景にしたコストの低下などの強みの多くは失われるでしょう。IBMはPCで一度は最大の生産メーカーの地位を得ましたが、コストの優位性は小さく、業界1位の地位どころかPC業界に留まること自身が許されませんでした。

EVがガソリン自動車に置き換わる日は来るのでしょうか。原理的なエネルギー効率の高さや、環境負荷の小ささから考えて、いずれEVが主流になると考えるべきでしょう。しかし、「壁掛けテレビ」ができると液晶技術がもてはやされてから、実際にブラウン管を液晶などフラットテレビが生産量で上回るまで30年以上の年月が必要でした。

家庭用テレビで液晶が主流になるまで、液晶は最初は電卓の表示装置、高価なノートブックPCと徐々にマーケットと生産量を拡大し、技術を進歩させてきました。EVもゴルフカートやヨーロッパなど一部の都市のコミューターから少しづつマーケットを広げていく必要があります。

それでも、今から20-30年のうちにEVが急速に自動車の主流になると考えるのは無理な予測ではないでしょう。そうなれば自動車産業は今とは大きく形を変えているはずです。想像はつきにくいかもしれませんが、20年前ソニーや松下が有力カメラメーカーになることは考えられませんでしたし、IBMがサービス主体の会社になると考える人も希でした。時代はゆっくりと、しかし気がつけば時として突然大きく変わっていくのです。

EVの立ち上がりのための施策として、宅配便配送車をEVに限り駐車可とすることも考えられます。