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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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逆説的北朝鮮論 (1): 拉致問題は解決できる
この問題については、拉致被害者家族会の元事務局長蓮池透氏の著作が注目されます(拉致問題解決に向けて: 元家族会事務局長の提言)。拉致は北朝鮮というやっかいな相手を全体としてどう扱うかという視点で政治が解決すべき問題です。政治的問題に拉致家族が家族という立場を超えてあまりにも大きな影響力を持ち、日本の対北朝鮮政策全体をこう着状態に陥れているという事実に目をつぶってはいけないでしょう。
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北朝鮮との6ヵ国協議はアメリカが北朝鮮に歩み寄る姿勢を見せたために、北朝鮮に有利に展開しているように見えます。その中で、日本の拉致問題は置いてきぼりを食らうのではないかという心配が出てきました。

拉致被害者家族会は拉致問題に熱心だった安部首相が退陣したことで、日本がアメリカなどと同調して北朝鮮に妥協的態度を取り、結果として拉致問題への追求の姿勢が弱まることの懸念を表明しています。

アメリカを始め日本以外の国が核問題の解決を最優先し、北朝鮮が相変わらず「拉致問題は存在しない」と強弁する状況で、拉致問題の解決は絶望的にさえ見えます。もはや日本にできることは、アメリカに「拉致問題を忘れるな」と頼むしかないのでしょうか。

しかし、見方を変えると拉致問題の解決は決して絶望的でも不可能でもありません。もし、本当に日本が拉致問題の解決を最優先にするのなら、拉致問題解決は簡単だとさえ言えます。

北朝鮮にとって、もっとも重要視していることは現体制が維持できること、そしておそらく、それとほとんど同等に死活的に重要と考えているのは核戦力を保持することです。他のことは絶対的に重要な問題ではありません。拉致問題は日本が煩いので気にはしているでしょうが、北朝鮮にとれば本来はどうでもよいような話です。

もし日本が、北朝鮮の核を容認し、莫大な援助も約束し、それと引き換えに拉致問題の全面解決を求めれば、拉致問題の解決は大きく近づくことは確実です。もともと金正日が小泉首相に拉致の存在を認めたのは日本からの援助を期待したからです。北朝鮮にとっては、拉致問題はせいぜい銭金の話です。

むしろ、問題は日本が拉致問題解決と引き換えに核も認め金も出すということを、日本国民が受け入れるかどうかということです。北朝鮮の核を安易に容認すれば、アメリカも文句を言うでしょう。中国やロシアでもクレームを出すかもしれません。

それにしても不思議なのは、拉致被害者家族が異口同音に北朝鮮に対する非妥協的な厳しい対応を要求していることです。もし、拉致被害者がすでに死亡していることが確実ならそれもわかりますが、生存を信じる以上、拉致被害者家族会の目的は拉致被害者の生還であって、北朝鮮制裁ではないはずです。

アフガニスタンで韓国人ボランティアが誘拐されたとき、国際社会が警戒したのは莫大な身代金を韓国が支払うのではないかということでした。身代金の支払いはテロリストの活動資金となり、将来さらなる誘拐の危険を増やしてしまいます。

それでも誘拐被害者の家族は、身代金を支払ってでも早期に解決したいと考えるのが自然です。拉致被害者家族会はなぜ日本政府に北朝鮮に妥協してでも拉致問題を解決しろと言わないのでしょうか。

戦略的に考えれば、拉致被害者家族が安易な妥協を日本政府に要求するより、徹底的な強固姿勢貫き、その陰で拉致被害者返還の代償をこっそり値切るというのは、悪いやり方ではありません。しかし、拉致被害者家族会はそんな交渉戦術として、対北朝鮮の強硬策を主張しているのでしょうか。

ここからは、想像の範囲を出ませんが、拉致被害者家族は長い間、日本政府の無関心と北朝鮮の白々しい拒否姿勢に苦しまされ、救いの手を差し伸べたのが、安部前首相のようなある意味単純な対北朝鮮強硬論者だったので、その意見に支配されてしまっているのでしょうか。

真相はわかりませんが、報道されている範囲では、北朝鮮に対し妥協してでも、拉致被害者を返して欲しいという意見は拉致被害者家族から聞いたことはありません。団結力は大したものですが、不自然な印象はぬぐえません。

ともあれ、拉致被害者の返還は日本が本気になれば可能です。しかし、それは日本の国益と必ずしも一致しないかもしれません。核も認めない、金も払わない、でも返せと言っても北朝鮮は聞く耳を持たないでしょう。

拉致被害者家族会が北朝鮮と妥協してでも、拉致被害者を返して欲しいというようなことを言わないので、日本国民は難しい問題と正面きって向き合わなくても済んでいます。それで本当に良いのでしょうか。(続く

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天下りを考える: もう一言
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大久保利通は日本の官僚制度の基礎を作った

前々回のブログ記事「天下りを考える」は、かなり高級官僚のことを悪く書いています。もちろん高級官僚が悪党の集まりとか犯罪者集団であるわけがありません。一般的には高い地位を持ち、尊敬を集める人たちです。ではなぜ天下りのような一種の公然たる汚職のようなことが行われるようになってしまったのでしょうか。

もともと日本の官僚制度は明治政府の事実上の創始者と言ってもよい、大久保利通の作った有司専制から出発しています。有司専制という言葉自身は板垣退助など明治の民権主義者が、議会によらずに政府官僚が政治を実際上行うことを非難するための言葉です。

しかし、大久保利通は自身が薩摩藩の出身だったにもかかかわらず、藩閥や門閥に支配される政治体制に批判的で、そのために出身にとらわれず優秀な官僚によって政治を行うことを目指しました。封建社会から近代社会への移行で、有司専制は必ずしも悪いものではなかったのです。

大久保利通の作った官僚制度はその後帝国大学法学部、現在の東大法学部が官僚養成機関として創られることにより、非常に有効に機能することになります。特定の出身母体を持たず、政治家のように大衆迎合にも陥らず、継続的に専門家集団として献身的に国家の舵取りを行う。そのために最優秀の人材を公平に選抜する仕組みを確立する。明治時代の富国強兵、戦後の復興などでは、日本の官僚制度は十分にその役目を果たしました。

優秀で、腐敗せず、高い志を持った官僚たちが、なぜ自分たちの職の確保のために国の政策を平気で捻じ曲げるようになってしまったのでしょう。やはり根っこは日本の官僚も「権力は腐敗する。絶対権力は絶対に腐敗する」という法則の例外ではなかったいうことでしょう。

官僚が特定の出身母体を持たなくとも、時間がたてば官僚組織自身が自分の利害を考えて行動するようになります。さまざまな規制、組織が国家、国民のためというより、官僚の権力を維持し、天下り先を確保するために作られるようになったのは、官僚組織が自分の繁栄自体を目的とするようになった結果です。規制大国日本が官僚大国であるのは偶然ではありません。

確かに民主主義は危なっかしい制度です。よく「国民に目を向けた政治をして欲しいですね」などとテレビのコメンテイターが言ったりしますが、政治家はいつも国民というより有権者に目を向けています。向き過ぎているくらいです。そして、国民はおうおうにして身勝手で近視眼的です。「税金は払いたくない。福祉は受けたい」などと無茶なことを言ったりします。それどころか、少し煽られると極めて攻撃的になることもあります。「民主的」な意思決定で戦争に突き進むことなど歴史上いくらでもあります。

それでも民主主義は全体としては特定の集団の利益だけを考えて政治を行うということはしません。チャーチルの言う通り「民主主義は最悪の政治形態と言うことが出来る。これまでに試みられてきた民主主義以外のあらゆる政治形態を除けば」なのです。天下りは明治の有司専制が生んだグロテスクな怪物です。もっと「国民に目を向けた」官僚制度を作る必要があるのでしょう。

再録: 日の丸コンピューターを再評価する
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1年近く書いたものなのですが、「日の丸コンピューターを再評価する」のアクセスが最近なぜか増えています。IBMを対立軸にした、国策としてのコンピューター産業の盛衰を30年の筆者の実際の見聞をもとに書いたものですが、7部作で読みにくいとの感想もいただいたので、インデックスを付けました。ご一読いただければ幸いです。

日の丸コンピューターを再評価する(7)
日の丸コンピューターを再評価する(6)
日の丸コンピューターを再評価する(5)
日の丸コンピューターを再評価する(4)
日の丸コンピューターを再評価する(3)
日の丸コンピューターを再評価する(2)
日の丸コンピューターを再評価する(1)

天下りを考える
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「天下り」とは普通高級官僚が、民間企業、特殊法人等に高い地位と報酬で迎えられることを言います。実際は高級官僚と一口に言っても、省庁による違いや、技官のような特殊技能を持つ場合など形態は色々です。

また、国家公務員上級試験に合格した高級官僚、いわゆるキャリア官僚だけでなく、ノンキャリア官僚も「天下る」こともあります。さらに、国家公務員だけでなく地方自治体の公務員の転職、民間企業の親会社会社から子会社への移動、銀行員の親密融資先への派遣・転職も「天下り」的なものも多くあります。

「天下り」のような人事にまつわるものは組織、個人、状況により大きく違ってくるので、一律に一般論を展開することは危険だということは認めざるえませんが、あえてここでは典型的なキャリア官僚の関連団体、民間企業への転職について考えてみます。

中央省庁には官房といわれる組織があります。各省庁のスタッフ部門を掌握している部門で天下りに関する人事は官房が全てコントロールします。官房は自分の省の出身者が、適正な処遇を得ているかを判断しつつ、国家公務員を退職した後も、出Oの実質的な人事異動を行い、OBが70歳に達するまで面倒を見ます。つまり、キャリア官僚にとって、本当の意味の定年は70歳ということになります。

70歳に達するまで、OBは複数の外郭団体や民間企業を転職し、多くの場合退職のたびごとに退職金を得ます。天下り後の処遇は公務員を退職した時点での地位に基本的にはリンクしているので、平均的な数字を求めることは難しいのですが、50代で局長級まで昇進した官僚なら、70歳まで3千万円程度の平均年収をほとんど保証されていることになります。

天下りの制度(法的な根拠な何もないのですが)がある背景には、キャリア官僚が完全な年功序列型の人事システムを採用していることがあります。同期で入省したキャリア官僚は出世競争で決して後輩に抜かれることも、先輩を抜くこともありません。

一見無競争でお気楽に思えるシステムですが、実際には課長補佐までは一律に昇進しても、課長、部長、局長とポストは減っていくので、40歳前後から「肩たたき」による退職が始まります。この肩たたきで異動させられていく先が天下りになるわけです。

日本のキャリア官僚は長い間東大法学部卒が圧倒的な割合を占めていました。東大法学部自身が大学としては最難関ですが、国家公務員上級試験はさらにその中で優秀な学生が合格できるものです(と言っても3分の1程度は合格できたのですが)。

つまり、日本の学生の中でもっとも学力の高い学生から選びぬかれて中央省庁に採用されるわけです。このように最優秀の学生を採用し、さらにその中で順次優秀なものを選りわけて、残りを退職させるというのは、雇用する側から言えば夢のような贅沢です。

しかし、このような贅沢が許される場合、アメリカでも比較的似たような人事システムをとることがあります。たとえばマッキンゼーのような超一流コンサルタント会社は一流MBA校の最優秀の卒業生を採用し、その中で順次すぐれた成績を収めたものを昇進させます。

コンサルタント会社の場合はパートナーという会社の経営に参画するレベルになれるかどうかが処遇面で決定的に重要で、パートナーになれないと見切りをつけた社員は自発的に退職します。また、会社側もある種の肩たたきのようなやり方で、見込みのあまりない社員を退職させます。

アメリカ社会は日本のように終身雇用がなく、社員は転職を繰り返すというのは、概ねあたっていますが、今でもGEのような会社は生え抜きから上級幹部を選抜していきます。ジャック・ウェルチが3人の対抗馬の中で、現CEOのジェフリー・インメルトを指名した時は他の2人は直ちに退職しました。

日本の中央省庁が最優秀の学生を採用し、時間をかけて組織のピラミッドを維持しながら、優秀なものを選抜していくというやり方自身は間違っているとは言えません。問題は、退職させ、結果的に天下りさせるキャリア官僚が天下り先の地位に相応しいかということと、中央官庁に入省する学生が本当に最優秀と考えてよいかどうかということです。

まず、後者に関しては、議論はあるでしょうが、少なくとも歴史的には正しかったと言ってよいでしょう。中央省庁でもキャリア官僚の最重要の仕事は、国家を運営するための施策を考え、それを実行するための枠組みを法律として成立させること考えられていました。東大法学部はまさにそのような役割を行える人材を養成するための機関として設立されたものです。

天下りの問題は退職したキャリア官僚およびキャリア官OBが、その仕事と処遇に値するかどうかということにあります。マッキンゼーの社員が他のコンサルタント会社に移ったり、企業幹部として採用されるとき、マッキンゼーは別に権力の行使はしません。あくまでも、各個人の能力を採用先が評価して転職が行われます。

ところが、中央省庁の天下りは、受け入れ側の意向より、省庁の官房の人事事情がずっと大きなウェートを占めます。相手先との相性や、当の官僚自身の意向は考慮するでしょうが、決定的ではありません。天下りは各省庁の非公式ではあるが、実質キャリア幹部人事異動なのです。

今となっては、このようなやり方は人事システムとして無理があると言わざるえません。明治、大正のように大学卒の数が非常に少なく、大卒レベルのマネージメント能力を持った人材が希少だった時代はともかく、現代のように大卒があふれかえっていては、中央省庁出身者だというだけでは希少な能力を持っているとは言えません。

このあたりが、キャリア官僚の自己認識と一般企業社会の認識とが根本的にずれているところではないかと思います。ほとんどのキャリア官僚は、小学校からトップクラスの成績をおさめ、東大法学部でも上位の位置を占めていました。

学生は成績の優秀な人間が偉いと思われる社会です。その認識のまま卒業してすぐに勤めた(ほとんどのキャリア官僚はいまだに卒業後すぐ入省します)中央官庁は官尊民卑の強い文化風土を持っています。自分は民間で働いている人間より本来的に優れているという自己認識が覆されることはないのです。

そもそも官という言葉自身、英語に訳すのは難しい言葉です。英語なら官民はPublicとPrivateとなるでしょうが、これは公と私という意味合いです。無理して官をBureaucratと訳してしまうと、官僚主義の総本山のように思われ、少なくとも尊敬されるようなものではありません。

にもかかわらず、キャリア官僚の多くは自分たちは基本的に一般民間人で東大にも入れなかったような連中より優れた能力を持っているという認識を持っています。また、キャリア官僚としての仕事は民間を指導、監督することですから、このような認識が変わることはありません。

自分たちが優れているのだから、天下りで高い地位、報酬を得ることは当然だと考えている限り、天下りに対して何か罪悪感のようなものを持つ必要なないわけで、ここが天下り問題の難しさの一つです。

しかも、これと矛盾しているようですが、キャリア官僚は自分たちは優れてはいるが、完全な自由競争あるいは一般雇用市場で勝ち抜いていけるという自信もないようです。心底自分たちは優れていると思っているキャリア官僚の多くは天下りなどせず、比較的早く退職してしまいます(やめる理由はそれだけとは限りませんが)。

今、キャリア官僚の天下りの弊害を除去するため、各省の官房が行っている、キャリア官僚OBの人事管理権限を取り上げ、官僚の再就職の斡旋をする「官民人材交流センター」というようなものを設立しようという構想があります。

もし自由市場で価値がある人材なら、ヘッドハンターなどからしょっちゅう声をかけられるはずで、そんなセンターは必要ないでしょう。必要もない人を雇わせようとするので、何らかの権限を行使する必要があるわけです。

今ではさすがにあまり言わなくなってきているのではないかと思うのですが、高級官僚の天下りの際、受け入れの民間企業は個室、秘書、車の三点セットを要求されました。これらは普通のサラリーマンでも夢としては望むものですが、天下り官僚の場合は多少切実な意味があります。

民間企業に行って、他人に交じって働くのはそれほど心易いものではありません。物理的に個室があれば、隔離されて気分的にも安心です。大体天下りした人は仕事など、ほとんどないことが多く、遅出、早退、居眠りが気楽にできることは重要です。

会社の内外との連絡も秘書がいれば自分であれこれ手配する必要もありません。話し相手にもなりますし、何かもっともらしい資料を作ることも自分でする必要がありません。車もよその会社を訪問して会社の外でタクシーを拾うようなみっともないことはしたくない、というのが本音でしょう。

多少漫画的に言っていますが、多くの天下り官僚が仕事の実質ではなく体裁、見た目の方がずっと大切だというのは本当でしょう。人事異動は勤め先の上司(いればの話ですが)ではなく、古巣の官房が行い、官房は処遇のバランス、前例の踏襲をもっとも重んじますから、よほどの酔狂でない限り、勤め先で実績をあげようと必死になるインセンティブは働きません。

これではかつて青雲の志と憂国の情にあふれたキャリア官僚が、民間企業や外郭団体に寄生して、体の良い飼殺しになるようなものですが、年を取って今さらチャレンジする気持ちがなくなった元キャリア官僚にとっては、自分はxx社社員でなく、xx省OBだというプライドと、高く安定した処遇で満足しようということでしょう。

以上は非常に悪い例だけを言っているかもしれませんが、典型的な天下りの現状でもあります。しかし、天下り禁止法案のようなものを作ろうと作るまいと世の中は急速に変わってきています。

まず、民間企業は国に頼る必要がなくなってきています。製造業はもちろん、かつては護送船団方式で守られていた金融機関も競争原理で動くようになり、天下りの先としてはか細くなっています。

民間企業が天下りを受け入れなくなってきている状況はずいぶん前からあり、その対抗策として天下りを目的として各省庁は沢山の外郭団体、特殊法人を作ってきました。それらの法人は民間企業と比べれば圧倒的に非効率なのですが、税金をつぎ込んだり、法的な特権を保持したりして存続しました。

このような状況は国家のために働くべき官僚が、国家を自分たちのためのサービス提供機関としてしまっているわけですから、とんでもないことです。民間企業への天下りも、それによって国からの事業を有利に獲得する方策になっていれば、広義の汚職行為です。

天下りという特権を保持しようという官僚の抵抗は、天下りの利益があまりに大きいため、きわめて強く続くでしょう。しかし、全体的に見れば、民間企業の政府依存の低下、国の事業予算の縮小と透明化により、天下りが社会から受け入れられなくなるのは、法律の有無とは関係なく間違いないでしょう。

天下りが本当に中央省庁の基本的人事システムとして機能しなくても、最優秀の学生はキャリア官僚を目指すでしょうか。この面でも、崩壊現象は進んでいます。昔ならキャリア官僚を目指したような多くの優秀な学生は、外資系コンサルタント会社、金融機関、法科大学院などに進路を変えています。

天下りというのは、日本の中央政府が置かれていた社会的な役割、構造に根差すもので、天下りだけを禁止しようというのは、無理な話でしょう。天下り禁止に反対する人の言うように、確かに職業の自由は無視してはいけません。

しかし、天下りできないのなら、人事の逆転を甘受した上で、国家公務員のままで勤務を続けてもらおうというのなら、キャリア制度そのものを見直すべきでしょう。もともと、キャリア制度は大卒が社会のごく一部だった時代の名残りなのです。

国の施策を考え、施策実現の枠組みとしての法律を作成するというのは、本来は国会議員の仕事のはずで、この点はアメリカの国会議員が沢山のスタッフを抱えるような体制に変わる必要があるでしょう。

同時に、中央省庁として優秀な人材が必要なら、それこそ「官民交流センター」のように、官と民の人材交流が行われるべきでしょう。アメリカでは中央省庁の課長クラス以上、1万人程度の高級官僚は政治任命(Political Appointee)として政権交代と同時に異動します。

ただし、政治任命については当のアメリカで批判が強いことは指摘しておくべきでしょう。政治任命の反対者が反対の論拠として挙げるものの一つに、軍は政治任命などなく、すべて生え抜きで構成されているということがあります。

つまり、専門性が高く、高度の組織への忠誠心が必要な職種は、生え抜きの方がうまくいくというのです。中央省庁のどのような仕事がそれに該当するかわかりませんが、多くの場合そのような専門性が高い仕事は現在はノンキャリアや技官が行っていて、一般のキャリア官僚は、次から次へとポジションを移るゼネラリスト志向です。

天下り制度は、民間企業の政府依存、最優秀学生の採用のような土台が崩れてきており、早晩崩壊は免れないでしょう。天下りのための莫大な国家予算の不効率な支出、外郭団体を守るためにある不合理な規制など、さらに本来は優秀な人材を無為に過ごさせるなど、天下りによる不経済はあまりにも明白です。

ただし、前述のように天下りだけを取り上げて、事態を改善しようとしても、複雑な事情がからみあってなかなか解決には至らないでしょう。何といっても、日本はアメリカではなく、アメリカは日本ではないのです。

それでも、キャリア官僚が今や構造不況業種になってきていることは間違いありません。金を稼ぎたい人はビジネスや起業を、国家を変革したい人は政治家をそれぞれ志した方がこれからはよいでしょう。いや、官僚も本人たちには一つのビジネスであるかもしれないのですが。(続き

南京事件という物語
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日本軍の南京入城

1937年12月、松井岩根大将指揮下の日本帝国陸軍の中支那方面軍20万人は、蒋介石率いる中国国民党政府の首都であった南京の攻略作戦を展開します。その時点で蒋介石は奥地の重慶に遷都を宣言していて、南京からは政府首脳部は脱出しており、南京はなかば無政府状態で取り残されていました。

指揮命令系統が崩壊した中国軍が散発的な抵抗を続ける中、12月13日南京は陥落し日本軍は南京入城を果たします。松井大将は12月17日に入城式を行いますが、その前後から6週間あまりにわたり、南京の多数の市民、中国兵が日本軍により殺されます。いわゆる南京事件です。

南京事件はそこでの市民、中国兵の殺害が不法な大量虐殺あたるとされる問題です。南京事件は日本では南京大虐殺とも呼ばれますが、中国では南京大屠殺、英語ではNanking MassacreあるいはRape of Nankingと言います。

Nanking Massacreは日本語で南京大虐殺と訳せますが、Rape of Nankingは南京大陵辱という意味合いになります。アメリカ下院議会はすでに日本の戦争中の慰安婦制度に対する謝罪を求める決議を行っていますが(アメリカ下院本会議で慰安婦決議案可決)、この決議案を推進したホンダ議員は南京事件を次のターゲットにする考えを表明しています。

南京事件に対しては被害者の数と犯罪性の有無について大きな意見の相違があります。中国を中心とする日本批判の立場からは、死亡者の数を20-40万人程度としているのに対し、日本の南京事件に否定的な人たちは、数百人から多くて1-2万人程度と考えています。戦争犯罪としての虐殺は存在しなかったという主張もあります。

一つの都市での犠牲者の数としては、20-40万人という数(50万以上を主張するものもいますが)でさえ、第二次大戦中で最大のものではありません。ナチ・ドイツに対するワルシャワ市民の蜂起への報復として、ナチ・ドイツはレジスタンスや市民を50万人を処刑などで虐殺したと言われています。

レニングラード(現在のサンクトペテルブルグ)の包囲戦では100万人の市民が砲撃や飢餓によって死亡しました。東京やドイツのドレスデンでは10万人以上の市民が無差別爆撃(というより一般市民を狙った爆撃)でほとんど一夜のうちに死亡しました。広島、長崎では一瞬でそれ以上の死者がでています。

物理的にどのくらい南京市民を殺害できたかについて、南京事件に否定的な人からは、南京市民が20万人もいなかったということを否定論の論拠にあげています。また、20万人-40万人という犠牲者がいると1万トンから2万トンの死体の処理が必要で、そんなことは不可能だったという意見もあります。

このような反論は根拠がないとは言いませんが、南京市民の範囲をたとえば南京周辺の地域に広げて考えれば不可能とまでは言えなくなります。死体の処理も、ワルシャワや東京では放置も含め、ともかく処理できたわけですから可能と言えば可能です。

ただ、20万人以上の市民を虐殺するためには、ワルシャワやレニングラードでのナチ・ドイツのように組織的な作戦行動を行うことが必要なはずです。東京、ドレスデンの無差別爆撃では大量の市民を効率的に殺害できるように、爆撃方法が事前に慎重に計画され、爆撃機は爆撃範囲を細かく割り当てられました。

南京事件に否定的な人には南京事件は中国の単なるプロパガンダだと言う人がいます。それはある意味あたっています。南京は国民政府の首都であったので外交官、宣教師など多数の外国人がいました。多くの外国人達は南京市民を救うための努力をしたのですが、多数の虐殺や凌辱が起きるのを目撃する結果になります。それらは諸外国に広く報道されました。

中国にとって圧倒的な日本軍相手の戦いはほとんど絶望的に不利でした。そして対抗する手段は、広大な国土と国際社会に日本の侵略性、残酷性を訴えるしかありませんでした。南京事件はそのような反日キャンペーンには絶好の材料でした。中国側は断片的な虐殺の目撃談の報道から、組織的な日本軍の戦争犯罪行為を宣伝したのです。

戦時下で日本軍が支配している南京の状況を知る方法は限られていました。報道された事実は、そのまま組織的な犯罪行為の証拠としてアメリカなど連合国にも記憶されることになります。南京事件は日本の中国に対する侵略戦争の犯罪性のシンボルになりました。

外国では南京が日本の中国侵略のシンボルになろうとしている時、日本は南京落城の勝利にうかれていました。提灯行列が行われ、松井大将は英雄として東京に凱旋します。その中で、日本のマスコミは兵隊(正確には将校ですが)に南京落城のヒーローを作り出します。「百人斬り」の向井少尉と野田少尉です。

毎日新聞、東京日日新聞は二人の少尉のどちらが100人はやく斬り殺すか競争をし、二人とも達成したことを報道しました。二人は一躍英雄になり、オリンピックで金メダルを獲得した選手のように有名になります。そして、戦後この報道が証拠となり二人の軍人は南京で戦争犯罪人として処刑されます。

百人斬りの話は、ある意味南京事件自身を象徴するものです。報道された事実が事実として戦後の戦争裁判の証拠とされたのです。しかし、機関銃のようなものを使わず日本刀で100人斬り殺すことは、相手が縛られてでもいない限り常識的には不可能です。

この点では百人斬りを捏造とする見方は恐らく正しいでしょう。ただ、百人斬りを信じたのは、二人を処刑した中国側だけでなく、南京事件当時の日本の世論も同じです。あるのは信じる根拠が「日本兵は残酷だ」なのか「日本の兵隊さんは強い」かという違いだけです。報道が信じることを補強する限り、人は容易にバカバカしいことを信じてしまいます。

「日本兵は残酷だ」というのは日本兵に対するステレオタイプ的な認識として中国、アメリカに存在し、このステレオタイプが東京裁判で南京事件を裁く際、大きな影響を与えたのでしょう。断片的な証拠から、日本の組織的な戦争犯罪行為として南京事件は裁かれました。

南京落城の英雄、松井岩根大将は極東軍事裁判(東京裁判)でA級戦犯として死刑を宣告され処刑されました(正確には松井は「平和に対する罪」を犯したというA級戦犯としては無罪。「人道に対する罪」のBC級戦犯として有罪・死刑になった)。それでも、いかなる先入観をもってしても南京事件当時の首相として、裁判で文官として唯一処刑された広田弘毅の関与は疑問が残るものでした。東京裁判当時の検察側にさえ広田の死刑判決には驚きがあったようです。

東京裁判で絞首刑の判決を受けた7人のA級戦犯のうち、松井岩根、広田弘毅の二人が南京事件への関与を理由とされています(広田は日中戦争の開始責任も問われた)。南京事件がいかにハイライトをあびた戦争犯罪案件だったかが想像できます。

「日本兵は残酷」という認識はどの程度事実に基づいているのでしょう。日本軍が少なくとも現代日本から見ればお優しい軍隊でなかったことは認めざるえないでしょう。一般市民に対してというより、それ以上に日本軍内部の暴力的傾向は従軍経験者の多くが等しく語るところです。

意味もなく殴ることはほとんど日本軍内部では習慣的なもので、人権などという概念は皆無に近かったようです。また指導部でさえ、戦争犯罪に対する認識が乏しく、毒ガスの使用も中国戦線では広く行われていました。

しかし、日本軍の残酷さ野蛮さは軍隊固有のものというより、全体主義に傾いていた当時の日本という国自身の権威主義、軍国主義を色濃く反映したものでした。その意味で、スターリン主義のソ連、ナチ・ドイツは日本軍以上に苛烈な敵国への対応を行ったようです。

日本ではソ連により日本兵60万人がシベリアに抑留され多くの(おそらく3分の1程度の)死者が出たことや、満州にいた日本人にソ連兵が大規模な暴行、略奪を加えたことが記憶されています。

満州の日本人のソ連兵による災禍は筆舌に尽くしがたいものだったでしょうが、日本本土にソ連兵は上陸しませんでした。これに対しドイツ本土にソ連軍は進撃し、200万(正確な数字は把握のしようもないでしょうが)と推定される陵辱事件を起こします。

これでもヒトラーのナチ・ドイツがソ連でしたことの何分の一も復讐できていないとソ連では考えたようです。ナチ・ドイツに殺害されたロシア人は2千万から3千万におよぶと言われています。虐殺、暴行、処刑などあらゆる暴力が一般市民にも向けられました。

日中戦争で、日本軍により殺害された中国人は兵隊、市民合わせて5百万人とも1千万人とも言われています。正確な数は不明ですが、日中戦争が10年に及んだこと、補給が乏しかった日本軍が現地で略奪的な徴発を行ったことなどを考えれば、驚くほどの数字ではありません。独ソ戦の半分以下の数字です。

結論を急ぎましょう。南京事件自身の被害規模に対する中国側の主張は、事実の積み上げによるというより、断片的な事実を日本の侵略性、残酷性というストーリーでつなぎ合わせたものであり、正確なものとは言えないでしょう。南京事件に対して否定的な人の反証も、同様に部分的には正しいところを多く含んでいるでしょう。

しかし、かりに南京事件での被害者が20万人ではなく2千人程度だったとしても、日中戦争全体での中国人の被害者が1千万人ではなく10万人であったとは考えられません。中国人が日本軍により甚大な被害を被ったという事実は変わりません。

南京事件は「100人斬り」がヒーローを創ろうというフィクションだったように、日中戦争のシンボルとして創られた物語と言っても過言ではありません。しかし、「風と共に去りぬ」がフィクションだったからと言って、南北戦争やアトランタ陥落時の混乱と略奪がフィクションだということにはなりません。

100人斬りで処刑された二人の少尉や南京事件の責任を問われた広田弘毅にとっては、フィクションをベースに処刑されたことは不当です。だからと言って南京事件を全く否定することもできません。外国人宣教師、外交官が目撃した虐殺は、20万人虐殺の証拠ではなくとも、虐殺そのものの存在は証明しています。

何千万人という死亡者の数字を聞かされても、人間はあまり感情を動かされませんが、小説や映画で感情移入できる形で事件が語られると、怒りや憎しみが湧いてきます。南京事件は日中戦争という歴史の中で日本の侵略を物語として描くための題材なのです。

その意味で英語のRape of Nankingという言葉はComfort Women-慰安婦と並べることで、性的な文脈で生々しい感情をアメリカ人に引き起こす要素を持っています。アメリカ議会は再び日本への非難決議を可決するかもしれません。

日本はその時どうすればよいのでしょうか。悪いのは「「風と共に去りぬ」がフィクションだから南北戦争もフィクションだ」式の反論です。慰安婦問題の時は、このようなやり方は強い反発を招いてしまいました。

多分最善の策は何もしないことでしょう。東京大空襲もワルシャワ蜂起も、その事件だけを取り上げてアメリカやドイツをこと改めて非難したりはしません。一つの事件で戦争全体を語るやりかたは、それが事実だろうとそうでなかろうと結局は物語ですべてを語ろうとすることです。長続きがする性質のものではありません。

これは蛇足かもしれませんが、南京事件が「大虐殺」の意味のNanking MassacreよりRape of Nankingが一般的になったり、Comfort Womenいわば軍隊直営売春宿が注目されるのは、欧米ではゲイシャガールに象徴される日本人の性的嗜好への偏見がベースにあるからだと推察されます。

なぜか日本男性は欧米の主要メディア(というよりあおそらく一般のステレオタイプ)にもスケベと思われていて、東京発のニュースで痴漢男の検挙や、女性専用列車がもっと大きな事件を差し置いて話題になったりします。

南京事件は報道された事実が、物語のまま歴史としての事実になった一つの例でしょう。それは日本人にとって愉快な物語ではありません、しかし当時の日本人にとって心地よかった100人斬りの物語は二人の少尉と元首相を殺してしまいました。それでも私たちはいつも報道に物語を求めます。まるでそれは歴史に脚本があると信じているようでもあります

喫煙文化と嫌煙文化
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かつて喫煙をポジティブにとらえる文化がありました。「紫煙をくゆらす」というのは、大人がゆっくりとくつろいでいる様子を想像させましたし、男らしさを象徴する小道具として、007やゴルゴサーティーンにも欠かせないものでした。

昔の映画を見ると、外国映画でも日本映画でも驚くほど煙草を吸うシーンが出てきます。そのような映画で二枚目俳優が煙草を優雅に口にくわえる仕草は格好良く、男なら真似をしたくなるようなものでした。喫煙は嗜好品としてだけでなく、ファッションとしても溶け込んだ文化だったのです。

現在では喫煙文化は嫌煙文化という正反対の文化の攻撃にあっています。喫煙文化と嫌煙文化は対立する文化です。一つ場所は喫煙が許されないかの二つに一つで、中間ということはありえません。

文化とはある人間の集団が共有する認識です。文化は科学的な根拠がある場合も、ない場合もあります。ユダヤ教徒が豚を食べない、日本人が犬を食べないというのは文化です。殺人や泥棒が犯罪なのも文化です。

文化は万有引力の法則のような科学的事実ではある必要はないので、文化が違えば同じことが正しいことも悪いこともあります。そして、異なる文化同士では往々にして、鋭い対立が起きてしまいます。

喫煙を支持する、あるいは喫煙を単なる個人の趣向の問題だと思う人を喫煙文化派だとしましょう。当然ですが多くの場合喫煙文化派の人々は喫煙者です。

喫煙文化派の人は喫煙の害をそれほど深刻には考えていません。それどころか喫煙の害を極めて否定的に考える人もいます。煙草を十本続けて吸うと死んでしまうとか、煙草の煙を吹きつけられたら気絶するということはないので、喫煙は害がないという主張を維持することは不可能ではありません。

統計的には喫煙者は非喫煙者に比べ5年ほど平均寿命が短い(香港男性は何故長生き)のですが、喫煙者が一生の間に30万本から100万本くらいの煙草を吸うことを考えると、1本の煙草の害など無視してもよいかもしれません。まして、他人の煙草で間接喫煙させられたかといって、大騒ぎするのは科学的におかしいのではないかというのも必ずしも誤りではないでしょう。

喫煙の害を小さく考える、ないしは無視する喫煙文化派からみると、嫌煙文化派の人はヒステリックで独善的にも見えてしまいます。本来個人の嗜好の問題なのに、あたかも罪悪であるかのごとく言うのは、それこそ自分の嗜好を押し付ける感情論だというわけです。

しかし、嫌煙が文化であるなら、嫌煙文化派の面前で煙草を吸うのは文化に対する挑戦になります。床に落とした食べ物を食べるというのは、科学的には衛生上のリスクはほとんどありませんが、人に落とした物を食べろとは言えないのは、落ちた物を食べないという文化があるからです。

レストランでウエイターが落とした食べ物を目の前で皿にのせ直して出してきたら怒る人がほとんどでしょう。ビジネスマンの集まった立食パーティーで、落とした物を拾って平気で食べるところを見られたら、社会人としての常識を疑われます。

厳密な科学的根拠がなくても、嫌煙文化の人にとって他人の煙草の煙を吸わされるのは、落とした物を食べさせられるのと同じように文化的に極めて不愉快なことなのです。人前で煙草を吸うことが、落とした物を食べたり食べさせたりするほどには非難を浴びないのは、嫌煙文化が、まだそれほどは一般的でないからに過ぎません。

人間は食べたり、飲んだりして体内に物を入れることに本来大変神経質です。賞味期限切れの食品、アメリカ牛、中国の野菜など実際のリスクはそれほど高いとは思えませんが(中国野菜の農薬汚染は多少気になりますが)、食べないという選択肢を選ぶことができます。しかし、他人の煙草の煙を吸うのは同じ空気を共有する限り不可能です。他人に文化的に受け入れられないものを強制的に摂取させられるのは、煙草くらいしか普通はないのです。

「世の中にはゴミを捨てる人や、ガムをクチャクチャかむような行儀が悪い人がいるのと同じで、生きている限りは我慢しなくてはならないこといくらでもある」から、喫煙をいちいち気にしたり、うるさく言うなと意見もあります。

確かに世の中には行儀の悪い人、社会道徳に欠けた人が沢山いるのは事実です。しかし、嫌煙文化派の人は「ちゃんとした社会常識のある人は人に自分の煙草の煙を吸わせるな」と言っているわけです。喫煙文化派の人はゴミを路上に捨てるほどには、喫煙は悪くないと思っているはずです。

「車の排気ガスのほうが煙草よりはるかに有害だし、車に乗ることのほうが人類社会に対して負担を強いている」という理屈もあります。確かに科学的には車の排気ガスはそのまま吸うと死んでしまうほどで、毒性は煙草より強いのは確かですが、平均寿命への影響という点では、煙草のようなマイナスはありません。

二酸化炭素や資源の浪費という点では、車に限らず人類の活動の多くを考え直さなければならない状況になってきているのですが、大型のSUV車を乗り回すことは「文化」としては非難の対象にはまだなっていません(これからはわかりませんが)。

結局世の中で喫煙文化を認める力と、嫌煙文化を求める力のどちらが強いかということが問題の根っ子です。流れからいうと嫌煙文化の力は時とともに強まっています。もっと嫌煙文化が強くなれば、煙草を吸う場所が公共の場所から消えてしまうだけでなく、煙草を吸うことが落ちたものを平気で食べるような無神経で行儀の悪い行為とみなされるようになる可能性もあります。

ネットの世界を覗くと、喫煙文化派、嫌煙文化派は熱く議論を戦わせています。文化の違いを理屈で説明しようとしても本来無理があるので、議論自体の収束は難しいでしょう。また、喫煙文化と嫌煙文化はイスラム教とキリスト教より共存が困難です。

ディズニーは先月映画で喫煙のシーンをなくすことを発表しました。これはこれで、それこそファシズム的なやり方のような気もしますが、いまや「格好良く」煙草を吸う場面はハリウッド映画からも消えつつあります。喫煙をポジティブにとらえるという意味での喫煙文化は確実に世の中から消え去ろうとしています。

(文化論ではなく行動経済学で喫煙を考えることもできます。・・「喫煙と行動経済学」)

地球という丸木舟
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毎年こんなことを言っているような気もしますが、今年の夏は記録的な暑さで熊谷、多治見で40.9度と74前に山形で記録した40.8度の日本記録を塗り替えてしまいました。気温が40度以上もあると、体温よりずっと高いので何をしなくても熱中症になってしまう危険があります。

人間の体温は36-36.5度位が平熱ですが、普通はこの温度を維持するために、カロリーを消費する必要があります。逆に運動などでカロリーを大量に消費したり、今年の夏のように気温が高い時は、汗をかいて体温を下げなければいけません。

人間のような哺乳動物は恒温動物といわれるように、非常に精密に一定の平熱を保っています。これにはかなりコストがかかります。暑い時にかく汗は大量の水分やミネラルを体から奪いますし、逆に気温が低ければじっとしていても、多くのカロリーを必要とします。

人間の体温は他の哺乳類比べて比較的低く、犬や猫は38-39度が平熱です。その分人間以外の哺乳類は毛皮で被われているので、気温が低いときでも熱を奪われる度合いは人間より小さくなっています。人間は進化の過程で衣服を着るようになって、寒さに耐えることができるようになりましたが、いざとなれば裸になって高い気温にも対応するので、より低い平熱で暑さに対抗することもできます。

爬虫類や魚類、というより哺乳類と鳥類を除くほとんど全ての動物は、周りの気温の上がり下がりで体温も変化します。このため気温が低くなると生理活動が維持できなくなってしまいます。爬虫類なら気温が20度を下回ると食物を消化することさえできません。

哺乳類は高い代謝を行うことで、爬虫類などと比べてはるかに活動的に動くことができます。大型の蛇やワニは非常にゆっくりとしか動きませんが、これは代謝が不活発なのでしかたがありません。

ただ、爬虫類は代謝が悪いのでノロマだと馬鹿にしていると、とんでもないことになりかねません。ワニが獲物を襲ったり、コブラが飛びかかったりするときは、哺乳類も襲われるほど素早い動きをします。

これは爬虫類が体内に瞬発用のエネルギーを蓄えているからです。しかし、この蓄えは一瞬の動きには使えますが、持続的な動きを行えるほど沢山はありません。ですから、ワニやコブラと遭遇しても、走って逃げれば人間のように足のあまり速くない哺乳類でも、逃げのびるのは簡単です。

のろまな爬虫類と俊敏な哺乳類が喧嘩をすると、普通は哺乳類がずっと有利です。ワニはあんなに大きく強力な歯を持っていますが、河川に潜んで動物を襲うようなことしかできません。確かに哺乳類は爬虫類より、進化した動物と言えます。

一方、哺乳類の俊敏さはコストもかかります。一定の温度を維持しないと、代謝が行われなくなり死んでしまうので、爬虫類より体重当たりは大量の食物を必要とします。しかも、体温があまり高くなるとタンパク質が変性して、言ってみれば生きてるままで料理されてしまうようなことになるので、また高いコストをかけて汗のような体温を下げるメカニズムを持たなければいけません。

哺乳類は生きているだけで、多大のコストがかかるので、飲まず食わずで海を長く漂流するようなことはできません。そのため、孤島に爬虫類は生育しているのに、哺乳類はいないということがよくあります。

ダーウィンは太平洋の島々に点在するイグアナが少しづつ異なっているのを見て、進化論を思いついたと言われます。離れた島にイグアナがいるためには、少なくとも雌雄のコンビ以上の集団で他の島からイグアナが渡ってこなければいけません。
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イグアナ

そのような出来事は長い時間の中でもそうあるものではないでしょうが、哺乳類ならそのような機会があっても、海を越えて集団が別の島に移動するようなことは極めて困難です。イグアナのような爬虫類は省エネが徹底していて、海を飲まず食わずに相当長く漂流していることができるのです。

大洋に点在する島々に分布するには爬虫類の方が有利なのですが、ひとたび人間が犬や猫のような哺乳類を持ち込むと致命的なことになる危険があります。まともに喧嘩したら、爬虫類は哺乳類に勝てないのです。

哺乳類は高い体温を保って代謝を維持することで、爬虫類よりはるかに寒冷な土地で生き抜くこともできるようになりました。雪の降る中を動き回る爬虫類はいませんが、哺乳類は立派に生活していけます。

もっとも、寒くなると哺乳類も体温の維持に色々工夫が必要になります。一つは分厚い毛で被われることですが、体を大きくするという手もあります。体積は体長の3乗に比例して大きくなるのに、表面積は2乗にしか比例しないからです。

人間でも寒い所に住む人たちは相対的に体が大きくなっています。日本人の平均身長は成人男子で170センチくらいですが、北欧のスウェーデンやノールウェーの人は180センチを超えています。

同じアジア人の中でも、北方系の人は大型です。韓国人の成人男子の平均身長は173センチと日本人よりは高くなっていますし、中国北東部の人たちは栄養状態がよければ、北欧人に近いほど大きくなります。

逆に、暑い地方では小さく、かつできるだけ平板に体を作った方が放熱上有利です。白人と比べて、胸板が薄く、背の低い南方のアジア人種は高温多湿の気候に適した体です。

体の大きさや形状に差がある人類ですが、出身地域を問わず比較的乾燥した20-25度の気温を快適と感じます。これはアフリカのサバンナの高原地方の気候です。人類の発祥の地はアフリカの乾燥したサバンナの付近だと推定されていますが、生理的にはこの気候に人類は最適化されているようです。

人類と700万年前に同じ祖先から分離したチンパンジーがアフリカに閉じ込められたままなのに、人類が地球上広く分布できるようになったのには、体温の調節を衣服で行うようになったことと、火を使用するようになったためと考えられます。衣服や火によって、人類は他の哺乳類と比べてもずっと高いレベルの恒温性を獲得できました。

近代になると、人類は自動車や飛行機を発明しました。自動車や飛行機を生物だと考えるとエネルギーの代謝率は哺乳類よりはるかに高く、哺乳類と爬虫類のよりもさらに大きな違いがあります。

恒温性についても火だけでなくエアコンにより、年中乾燥サバンナのような条件を手に入れることができるようになりました。今や人類は気温や湿度の違いを克服し、宇宙空間ですら生存可能です。
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人類は宇宙でも生きていけるが・・

しかしこのような人類の成果は大量のエネルギー消費や文明の維持という極めて高いコストを支払って得られるものです。哺乳類が爬虫類には可能な長い期間での海の漂流に耐えられなかったように、資源やエネルギーの不断の供給がなくては人類文明は存続できません。

北極の氷が消滅しそうと聞きながら、良くエアコンの効いた部屋で冷たいビールを飲む。快適ですが、これほどコストのかかる代謝システムを維持するのは大変です。現代の人類も丸木の上で大海を漂流するイグアナと同じように、地球という丸木舟で宇宙を漂流しているはずなのですが。