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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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喫煙の行動経済学
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こんな質問にはどう答えるでしょうか。一つは「あなたは1万分の1の確率で死亡する重大なウィルスに冒されている可能性があります。この危険から逃れるためにいくらなら支払いますか」というもの、もう一つは「1万分の1の確率で死亡する危険のある医学実験の被験者になるとすると、いくらなら引き受けますか」というものです。

単純に考えれば二つの質問は1万分の1の確率の死の危険に対しいくらの値段をつけるかというもので、答えは同じ金額になりそうです。ところが実際にアンケートを実施すると、金額では何桁もの違いが出てきます。一般に人は前者の今ある危険を取り除くより、後者の新たな危険を負わない方にはるかに高い値段を付けるのです。

「一物一価」ということを言いますが、伝統的な経済学では物の価値は定義でき、人は自分が最大の価値を得るように行動すると考えます。ところが今の例でもわかるように、実際の人間の行動はもっと複雑な心理状態に支配されていて、簡単には決まりません。このような現実を前提として経済学を見直そうというのが行動経済学です。

このブログの記事「喫煙文化と嫌煙文化」で、喫煙、嫌煙というのは文化の違いと書きました。文化の違いは相対的なもので本質的な理由は必ずしもありません。しかし、喫煙派が嫌煙の広がりを「ヒステリック」とさえ感じるのは、行動経済学的な理由があるのかもしれません。

喫煙者にとって、煙草を止めるというのは、喫煙のリスクを取り除くために、禁煙という代償を支払う行為です。これに対し、非喫煙者にとっては煙草の煙にさらされるのは、新たな危険を負わされることです。同じ煙草の健康上のリスクでもリスクの値段は喫煙者と非喫煙者では冒頭の例のように何桁も違っている可能性があります。これでは文化の違いがあろうとなかろうと、喫煙派と嫌煙派の意見の一致をみることは不可能です。

行動経済学的には同じリスクでも人間は売るのと買うのでは全く違った値段を付けることがあるということですが、それ以前に喫煙者にとっては煙草を吸うことのリスク自身の評価が非喫煙者と違っている可能性があります。喫煙のリスクは、たとえば1万分の1確率で今死ぬ可能性があるというものではありません。何年あるいは何十年か先にガンその他で、早死にする確率が高くなるというものです。

経済学では将来の利益あるいは不利益は現在の利益、不利益とは同等ではなく一定の割引率で割り引きます。割引率が年利10%だとすると、1年後の1万円は9千円、10年後であれば3千5百円の現在価値を持つというのが割引率の考え方です。割引率は将来の不確定性を織り込む方法だと考えられます。

ところが、ふたたび行動経済学的に実際の人間の行動を見ると、人間は目先の利益にとらわれやすい、つまり割引率を不合理なほど高く設定してしまう傾向があります。たとえば、今日10万円をもらうか1月後に12万円もらうか、どちらかを選べと言われると、多くの人は今日10万円もらう方を選びます。ところが、1年後に10万円もらうか13ヵ月後に12万円もらうかどちらかと言われると、今度は13月後の12万円を選びます。割引率は時間的に近いほど大きいのです。

これは今とりあえず10万円を確保しようという話と、12ヶ月後に10万円くれるなら13ヶ月に12万円くれそうだという話を比較しているところがあるので、必ずしも単純な割引率の違いではないかもしれません。ただ、目先の利益に目を奪われがちなのは、目の前の獲物を逃したらいつ捕まえることができるかわからなかった昔の人類の経験の積み重ねが原因だとも言われています。確かに、言葉すらないような時代の人類が割引率などということを計算しながら行動していたとは思えません。

喫煙者にとって、肺ガンその他の健康上のリスクがあったとしても、そのようなリスクが現実になるのはずっと先の話です。今煙草を吸う快楽がわずかなものでも、遠い将来のリスクの高い割引率と比較すれば、十分に割りのあうものに思えるのです。

喫煙のよりずっと中毒性の強い薬物の場合は、割引率がもっと高くなります。薬物を摂取することのリスクが経済的、社会的に非常に大きなものでも、当座の快楽と比較して高い割引率のために、なかなか止めることができないと考えられます。

将来に不当なほど高い割引率を設定してしまうのは、地球温暖化の危険を防ぐために化石燃料の消費を押さえようとすることに対する反発や、少子高齢化にともなう年金政策の見直しなどにも現れます。高い割引率は喫煙者の専売特許ではありません。

それでは、そもそもなぜ人は喫煙の習慣を身に付けてしまうのでしょう。習慣的喫煙者にとって煙草を吸うことは快楽でしょうが、普通人は最初は煙草をそれほどおいしいとは感じませんし、もちろん中毒になどなっていません。おそらく大部分の人は中学生か高校生の頃、ちょっと大人のふりをしたり、親や学校に禁止されていることをすることをしてみたいという気持ちで、煙草を吸い始めたはずです。

いくら子供が思慮が足りないといっても、特に好きでもない煙草を、親や学校、それどころか法律に逆らって、わざわざ吸おうとするのは、あまり合理的とは思えません。自分にとって目先の利益にならないのに、ちょっと大人びたふりをしたり、親や学校に権威に屈しない態度を見せようとするのは、特に男の場合は性選択を求めているからだと考えられます。

性選択というのは、ダーウィンの進化論で個体の生存確率を犠牲にしても、配偶者を獲得しようとすることです。性選択の典型的な例としてはオスの孔雀の見事な羽があります。孔雀のオスは見事な羽を持っていますが、羽を作るために栄養的にも多大のコストをかけています。ところが、立派な羽は動きを鈍らせ獲物を取るのに不利になる上に、敵には見つかりやすく捕まりやすくなります。

それでも孔雀のオスが羽の立派さを競っているのは、メスが羽の立派なオスを好む傾向があるからです。メスから見ると、様々の不利な条件にもかかわらず立派な羽を維持できるのは、それだけ生命力の強い、つまりよりすぐれた子孫を残せことを示しているのです。
孔雀


人間の男も、フェラーリに乗ったり、高級時計を身に付けるのは、高い物を持つと豊かになれるからではなく、高い物を買える経済的な余裕を示して、女性の気を引こうと思うからだと考えられます(まぁ、純粋に車が好きだったり、時計のデザインが気に入っているということもあるでしょうが)。同じように、禁止されても煙草を吸うのは、「社会に逆らっても生きていける」ような強い男だということを意識的あるいは無意識に証明しようとしているのです。

そう考えると、煙草を吸うのが圧倒的に男性が多いのも理解できます。女性は反社会的な行動を成熟の象徴と考えるようなことはあまりせず、性選択には化粧や豊胸という手段を使います。もっとも男も煙草をすったからといって、性選択の恩恵にあずかる、つまりもてるようになるかは全く疑問なのですが、主観的にはそれがうまくもない煙草を吸い始める大きな動機になっているようです。

性選択のために喫煙を始めたり、将来のリスクに対し不当に高い割引率を設定したりするのは、少なくとも健康を維持するという点では、経済的には不合理な行動です。ただ、冒頭の例で示したように、それでもリスクを新たに背負い込むのではなく、もともと持っているリスクを取り除くためには、人間はあまり高いコストを負担をしようとしません。やっぱり、喫煙派と嫌煙派は理解できない間柄なのでしょう。
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国連で死刑執行停止要請決議採択
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ちょうど1年前の当ブログで「死刑廃止をめぐって」という記事を書きました。その時の結論は、現在の日本で死刑廃止の方向に向かう可能性があるとすれば、国連などの国際的圧力が加えらるときしかないだろうというものでした。

さる12月18日、国連は死刑執行の一時停止を加盟国に要請する決議案を賛成104、反対54、棄権29で採択しました。この決議案は死刑廃止を加盟国の条件としているEUをはじめ87か国の共同提案として提出されました。

現在死刑制度を維持している、日本、アメリカ、中国は反対にまわりましたが、決議案では死刑の存続に対し「深い懸念」を表明するとともに、加盟国に「死刑廃止を視野に入れた死刑執行の停止-モラトリアム」を求めています。

私の死刑廃止に関する意見は「死刑廃止をめぐって」に尽くされているので、繰り返しませんが、国際的圧力が意外に早く来たなというのが率直な印象です。その間日本では「死刑執行を法相の判断なしで自動的に実行するシステムを作るべきだ」という鳩山邦夫が法務大臣になりました。

鳩山法相の下、12月7日には3名の死刑が執行され、氏名の公表も初めて行われました。以前はマスコミが裏情報から死刑執行された人物の氏名を報道しており、死刑執行からかなり日をおいてから、一般に明らかになるようなこともありました。

今回の国連決議に日本の世論がどのような反応を示すかわかりませんが、捕鯨禁止に対する反応(「それでも鯨食べますか」)と同様に、「日本文化を理解しない奴に何がわかるか」という意見に支配されるのでしょうか。

国際的評判ばかり気にしてもしょうがないというのはわからないのではありませんが、捕鯨や死刑の実施は、それらを支持する保守的な人の多くが賛成する、インド洋での給油活動での国際貢献などより、他国の一般市民にはよほど強い印象を与えるものです。

日本が調査捕鯨をやめたからといって、鯨の資源保護に大きな影響はないでしょうし、死刑を廃止したから日本社会が明るくなるということもないでしょう。しかし、意地を張るコストは決して馬鹿にできないことは認識しておいてもよいでしょう。

沖縄戦の集団自決に軍の強制はあったのか
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沖縄戦は、太平洋戦争末期の1945年3月から6月のにかけて約3ヶ月、日米両軍の間で行われた激戦です。双方の被害は甚大で、勝者のアメリカ側の戦死者は1万2千人以上(これは4年にわたるイラク戦争でのアメリカ軍の総戦死者約2倍です)、日本側は20万人におよぶ人命を失い、そのうち民間人の死者は半分以上にのぼったと言われています。

民間人の死者は村役場が焼失して戸籍そのものがなくなるなどのため、確定が困難なのですが、当時45万人の沖縄島民の4分の1から3分の1が死亡したと思われます。この比率は苛烈だった独ソ戦でのソ連市民の死者の割合から考えても、非常に大きな値です。沖縄戦は民間人の犠牲と言う意味では第二次世界大戦でもあまり類のないほど悲惨な戦いだったのです。

沖縄戦で死亡した多数の民間人の死の多くが「軍に強制よる集団自決」であったかどうかで再び議論が起きました。議論のきっかけになったのは、今年の4月文科省が教科書検定で沖縄戦での「集団自決」が軍の命令、強制によるものとした教科書が歴史の事実を誤解させるものだとして訂正を求めたことに始まっています。

私自身は当の検定対象になった高校の教科書を直には読んでいませんし、文科省の指導自身の詳細を知っているわけではありません。ここでの話はあくまでも報道などに基づくものだとお断りしておきます。その上で、慰安婦問題と同様の議論の構図があるように感じています。

沖縄で集団自決が多数あったということを否定する向きは、今回の文科省の当初の検定意見に反対する側はもちろん、賛成する側にもあまりいないようです。ですから、論点は「自決が軍による強制」によるものかどうかということになります。軍による強制とする立場に反対する人たちの根拠としてよくあげるのは、軍命の証拠となるものが物理的に何も存在していないということです。

むしろ、軍は民間人の命を救うということに力を注いだので、民間人に自決を強制したり、まして殺害するようなことはありえないというのが反対論者の立場なのですが、物理的証拠がないことが強制がなかった証拠だというのは相当に無理があるでしょう。

そもそも「自決」というのは字の通り「自ら決して命を絶つ」ということで、これは民間人でも軍人でも同様です。太平洋戦争では玉砕という形で圧倒的な米軍に突撃して戦死した将兵が多数いましたが、同時に自決したものも沢山いました。しかし自決が自分の意志によるものという建前がある以上、「捕虜になる可能性がある場合は自害すること」という命令書は存在するはずがありません。自決はあくまで形式上は自発的なものです。

では、なぜサイパンや硫黄島をはじめ多くの戦場で日本兵はほぼ全員が死亡するまで戦い、その多くは自決してしまったのでしょう。それはよく知られているように「生きて虜囚の辱めをうけず」という戦陣訓を皆守ることを当然だとしたことによります。書き物としての戦陣訓以上に、最後は自決するのは当然だというのが日本軍の「文化」だったのです。

そのような文化に支配された軍人と共に戦い、降伏勧告文書を持ち帰っただけで、スパイ扱いされて殺されてしまうような状況では、民間人といえども最後は自決せざるえなかったのは当然です。では、それをはたして「軍による強制」とまで言ってよいのでしょうか。

これは「強制」「命令」という言葉の解釈の問題でしょう。少なくとも日本軍と一緒に戦うようなことがなければ、自決を含めあれほど多数の民間人が死亡するような事態はあり得なかったはずです。その意味で強制的な自決、戦死であったことは疑う余地がありません。

反面、悪辣な軍国主義者が組織的な意思決定に基づき民間人の自決を強要しようとしたというなら、これはいくらなんでも言いすぎでしょう。組織的な意思決定としては、沖縄戦が必至と考えられるようになった沖縄戦の前年1944年の夏から、沖縄島からの集団疎開に政府、軍は努力し6万人以上が島外に移動しました。ここを見れば「軍は民間人の生命保護に最大限の努力をした」という意見は間違いではありません。

同様に「防空壕で泣き叫ぶ赤ん坊の声で米軍に発見されるのを恐れた日本兵が赤ん坊を殺した」からといって、日本軍が民間人を殺しまくろうとしたというのは乱暴でしょう。極限状況の中での行動を組織的な軍国主義の証拠とするのは議論のすり替えです。もし自分は同じ状況で、同じ行動をするはずがないと確信しているとしても、それはただの願望です。これは軍国主義と言うより人間の本性の問題です。

しかし、ルワンダやカンボジアなどの大量虐殺を上回るような民間人の死亡率を「末端の日本兵の追い詰められた挙句の暴発」の結果に過ぎないというのは、物事を正面から考えない態度としか言いようがありません。組織的な大量虐殺を上回るような殺し合いを沖縄の民間人は自分たちで行わざるえなかったのです。

このようなことを高校の歴史教育でどのように教えればよいのでしょうか。中国の反日教育ように「悪くて残酷な日本兵が中国人を殺しまくった」というような図式ではないのです。残酷性や狂気ではなく、周りの人の意見をよく聞き、国民としての義務に忠実でいようという気持ちがこのような結果を招いてしまったのです。「国が何を言おうと、嫌なことは絶対に逆らうべきだ」などと学校で教えてしまったら、給食費も年金も税金も誰も払わなくなってしまうでしょう。

それでも、国、法律、道徳、文化という普通なら社会を円滑に動かすことために必要なものが、時としてそれらが単なる軍命以上の強制力で人々を死に追いやることがあるということはとにもかくにも伝えていく必要があるのでしょう。単なる解釈の違いと言うには、結果はあまりに重大だからです。