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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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櫻井よしこの「南京事件捏造論」について
前回の「櫻井よしこ 反中の論理と非論理」について、「櫻井は南京事件、慰安婦問題を捏造だと言っている」と指摘したことに対し、「そんなことは言っていないのでは?」 というコメントをいくつかいただきました。

南京事件については櫻井のブログ記事「 存在しなかった『南京大虐殺』を材料に いまだ日本非難を続ける中国の戦略 」で、そのまま「存在しなかった」と題名で書いているように、全面否定です。

慰安婦問題は同じくブログ記事で「 慰安婦問題の意図的歪曲に沈黙は禁物 事実をもって反論する勇気が必要 」で「歪曲」という言い方で事実上全面否定しています。正確に言うと「強制」「性的奴隷」という点が間違いだと言っているわけですが、櫻井自身が読者に慰安婦「問題」はなかったと言いたいのです。これは櫻井に悪意のある読み方ではなく、櫻井の期待する読み方でしょう。

現在のソープランドでも借金で「強制的」に「性的奴隷」(借金の返済でただ同然という意味ですが)として働かされる女性はいくらでもいるわけですから、全面否定は、常識的には難しいでしょう。ただし慰安婦20万人という数の信憑性は、それとは別の議論です(「従軍慰安婦問題をフェルミ推定で解くと」)

コメントに「この記事は公平に櫻井さんのことを書いているとは到底思えませんね。」というものもあったのですが、公平かどうかは別にして、櫻井の言いたいことはできるだけ正確に拾い上げたつもりです。「全面否定」というのは、櫻井の言い分に理解がある受け取り方だと思うのですが、いかがでしょうか。

(追記)
ちなみに「 存在しなかった『南京大虐殺』を材料に いまだ日本非難を続ける中国の戦略 」で櫻井は、ミャンマーのカチン州の女性たちの訴えとして、「カチン族の女性たちが中国に売られ、杭州、湖南、南京、北京、長春など、中国全土に送られて売春などを強要されているという。 」と言い、「売春などを強要」と中国を厳しく指弾しています。

ここで中国を櫻井が非難する道徳水準で、戦時中の慰安婦問題を見るとどうなるのでしょうか。また、日本の軍、政府の関与は、この現代中国のミャンマー女性への売春強要問題と比べてどうなのでしょうか。どう考えてもこれはひどいダブルスタンダードです。

「南京大虐殺」を捏造というのも、「大虐殺」を20万人以上の殺戮と定義してしまえば、「存在しなかった」可能性大です。しかし、多くの研究者の1-2万人という死亡数の推定、虐殺、強姦の外国人の目撃談などから、相当規模の虐殺があったのは、ほぼ事実です。

国際社会で「20万人は嘘だ」と主張しても、「「1万人殺す」より嘘をつく方が悪い」とは思ってくれません。もし、櫻井のこの問題での中国批判が厳密な歴史研究者という立場での否定であれば、アジテーター的な発言は慎むべきでしょう。

こちらもご参照ください。

南京事件という物語
従軍慰安婦問題をフェルミ推定で解くと
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櫻井よしこ 反中論の論理と非論理
莉恵さん2
櫻井よしこ

櫻井よしこの反中の論理

櫻井よしこは、ニュースキャスターとしての長いキャリアがある、著名なフリージャーナリストです。独特のソフトで上品な語り口で、はっきりと厳しいことを言うのですが、日本の歴史や文化に肯定的な立場を取ることで、特に保守的な男性層で高い人気があります。

櫻井は週刊新潮やダイヤモンドなどの有名誌に毎週寄稿するなど、著作、露出も多く、大きな影響力を持っていると思われます。先日も「独立自尊の国家の構築に一役買いたいと念じて」創られたという国家基本問題研究所の理事長に就任しましたが、この国家基本問題研究所には石原慎太郎や平沼赳夫を始めたとした、国会議員、大学教授などが役員に名を連ねています。

櫻井は薬害エイズ、住基ネットなど色々な問題を論じていますが、最近の発言の中心は中国に対する警戒論と南京事件慰安婦問題に対する捏造論など保守というより、国粋主義儀的な傾向の強いものです。櫻井のこれらの意見に対しては当然賛成論も反対論もありますが、ネット世界での印象は櫻井よしこに同調するものが目立ちます。

このような論争に飛び込むのは慎重でなければなりませんが、櫻井よしこの影響力を考えると、「櫻井よしこの意見」ではなく、「櫻井よしこの論理展開」を検証してみるのは無駄ではないと思います。検証に当たっては、櫻井よしこの主張の中核とも言える、反中論に焦点をあててみます。

櫻井の反中論は概ね次のような論理展開になっています。(たとえば 「 『日本支配』を目指す中国の野望 」  を参照)

A) 共産中国は建国以来の国是として軍事中心の対外膨張主義を信奉しており、日本の無力化、併合まで計画している
B) 南京事件、慰安婦問題での反日キャンペーン、尖閣諸島での領土権の主張、硬軟とりまぜた対日外交などは、全て遠大な日本の無力化の計画に基づくものである
C) これは国家的な未曾有の危機であり、中国に対抗するためには日本は自国の価値を正しく認識させる教育の改革、真の独立国としての防衛力の確立のための憲法9条の改正など、中国の野望への備えを磐石にすることが日本の最大の課題である

櫻井は結論としては、教育の改革、憲法9条の改正を求めるのですが、その論拠は悪の帝国中国の脅威による危機です。教育の改革や日本の伝統的な価値感の復活などは、本来は中国の脅威とは別の次元の話でしょうし、一般的には憲法9条についても自衛隊の法的な不安定性から改正を考える人も沢山いるでしょう。しかし、「自国を自力で守り抜く決意を国民が共有し、必要な軍事力と、意思力を養うこと」が今の日本にとって最大の課題と言うためには中国の野望という具体的な脅威が必要なのです。

櫻井の論理の中で、A)の中国の長期的な野望の証拠として、B)の反日運動や、尖閣列島の領有問題があげられることはあり、A)とB)は相互に補完しあうものなのですが、様々な中国の動きが「賢く、長期的な計画」が背後にあると断言するには、A)の中国の一貫した膨張指向が日本併合にまで向かうことを仮定しなくてはいけません。

恐らく、A)を仮定、仮説と言うこと自体、櫻井とその賛同者が認めにくいことでしょう。しかし、中国の日本に対する野望の宣言、文書などが確認されたものとして存在しない以上、「中国というのは本来、危険な膨張主義の国家」だというのは、推定に過ぎません。少なくとも「地球は丸い」とか「連合艦隊は真珠湾を攻撃した」といった類の事実とは違います。櫻井の反中論の根幹がA)であるなら、そこには相当の確からしさが求められます。

毛沢東が中国の野望の証拠?

本当に中国は日本を併合しようというまでの野望を持っているのでしょうか。そんなことはわからないというのが結論でしょう。推定を客観的に肯定することも否定することもできません。ただ、櫻井が指摘するように中国が依然として共産党一党独裁で、民主主義の国家でないのは中国の意思決定の不確定さを増しているのは確かです。

民主主義の政体でも、国民がある種の熱狂に浮かされてとんでもないことをする危険はあるのですが、独裁国家はもともと意思決定のプロセスの透明性が低く、何をするか予測しにくいという問題があります。しかも、独裁政権は選挙を経ていないため、レジティマシー(政権の正統性)がありません。多民族国家で膨大な人口を持つ中国が、政権への求心力を維持するために、日本を脅威として利用する可能性はあるでしょう。

しかし、中国が日本を併合しようとする長期計画まで持っているというのは、相当飛躍のある考えです。ここで櫻井は毛沢東の独裁者としての悪行を野望の傍証として取り上げます。毛沢東が数千万の中国国民を殺して、何の痛みも感じなかったどころか、60年代にソ連にアメリカに核戦争をすれば、半分の中国人民が生き残り最後は戦争に勝利すると言ったことが言及されます。共産中国は毛沢東という危険な独裁者が作り出した以上、冒険主義的な本質を持っているというのです。

毛沢東は数千万どころか、在任中に1億以上の中国人を死に追いやったと言われていますし、大躍進政策で農業を壊滅させ、文化大革命で知識階級を崩壊させてしまいました。それでも、いまだに人民元の紙幣には毛沢東の肖像が描かれていますし、公式には建国の父としての名誉を保っています。しかし、毛沢東思想がいまだに中国政府の根本原理だというのは無理があるでしょう。中国の共産党一党独裁は変わっていなくても、「毛沢東はもうこりごり」と本音では思っている人が多いはずです。

小平は、文革で長男を障害者にさせられた挙句、党副主席の地位を追われ、工場労働者として働きながら、長男の介護を続けるという経験を強いられました。それでも、小平は権力復帰後も「毛沢東は功績第一、誤り第二」という立場を取りました。表面的には毛沢東の権威を保つことで、国家としての一貫性を保とうとしたのです。現実的な小平ならではの対応ですが、毛沢東が中国に多大の害悪をもたらしたと思われていることは間違いありません。

ただ、毛沢東が見捨てられたからといって、国家としての中国が毛沢東のようなことを二度としないという保証があるわけではありません。スターリンはソ連を収容所列島にし、人口比では毛沢東よりさらに多数の自国民を殺してしまい、その後フルシチョフに徹底的に批判され、功績も否定されました。しかし、そのフルシチョフはキューバに核ミサイルを持ち込み、世界を核戦争一歩手前まで追い込みました(「危機管理」)。

さらにソ連はチェコの自由化を戦車の力で圧殺し、スターリンのハンガリー暴動鎮圧の歴史が繰り返されました。スターリンの名をとったスターリングラード市は1961年にはヴォルゴグラード市に改められましたが、スターリンが第二次大戦のどさくさで獲得した日本の北方領土が返還されるようなことはありませんでした。それどころか、ソ連が崩壊して民主国家の道を歩むようにみえたロシアは、プーチンの時代になって強権でジャーナリズムを弾圧するような国に戻ってしまいました。政体が変わっても国家の体質はなかなか変わるものではありません。

とは言っても、国家の体質が変わりにくいということと、中国が一貫して日本を併合するような長期計画を毛沢東の時代から持っているというのは全く別の話です。そもそも毛沢東自身、櫻井も指摘するとおり軍事中心で、人民の命の値段をひどく安く考える典型的な独裁者ということはあっても、日本の併合まで考えていたというのは、少なくとも自明といえるほどの話ではありません。

中国はどこまで危険か

毛沢東の意志はともかくとして、中国は一貫して日本に対し様々な陰謀を企んでいるのでしょうか。陰謀というより、国際関係ではあらゆることがありうると考えていたほうがよいでしょう。日本のアメリカとの同盟関係、地域大国としての地位、中国侵略の歴史などを考えれば、中国が積極的に対日諜報活動や工作を展開していると想定するのは妥当です。

米ソが対立しているとき、イタリア、フランスなどのヨーロッパ西側諸国で共産党は国会に多くの議席を持ち、かなりの勢力を持っていましたが、ソ連の崩壊とともに皆崩壊してしまいました。イデオロギーで敗れたのではなく、ソ連からの資金援助がなくなって運営ができなくなってしまったのです。ソ連が西側各国の共産党に期待した西側転覆の謀略は実を結びませんでした。

中国の自衛隊の機密への諜報活動、政治家への美人局のような工作活動などは、恐らく事実でしょう。しかし、そのようなものは国家間では当たり前のことです。日本に対し敵対的なことをするから、日本を征服しようと思っているという論理が正しければ、情報活動が戦争行動そのものだという理屈になってしまいます。

中国に限らず、他国は日本に自国の思うとおりなって欲しいと考えています。アメリカは有形無形に日本に強い圧力をかけます。アメリカの意に染まない政治家は、それこそスキャンダルの暴露という陰謀も実行しているようです。韓国も、北朝鮮も、ロシアも、日本と強い利害関係にある国は、日本をコントロールしようと様々な策を弄しています。

その中で中国は、経済力の急速な充実と実態が不明なままに伸び続ける軍事力で、アメリカに対抗するスーパーパワーの道を歩んでいます(「日本はイギリスになれるか(3)」。中国は世界最大の人口と広大な国土を持ち、核保有国でもあります。日本として付き合い方を十分に考えなければいけない相手であることは間違いありません。

それでも、核ミサイルで攻撃するという方法を除けば、日本を攻撃する軍事力があると考えるのは、妄想に過ぎません。海を渡って強固な防衛陣に上陸作戦を遂行できる手段を持っているのは、世界でアメリカだけです。戦後長い間、中国が台湾に軍事的に手を出さなかったのは、政治的な理由もさることながら、単純に軍事的に不可能だったのです。

「現在中国が日本を制圧する軍事作戦を展開する力はない」ということと「将来ともあり得ない」ということは違います。しかし、蒙古襲来のように中国軍が、海を渡って日本に殺到するというのは、現段階では絵空ことと言って良いでしょう。台湾は日本よりはるかに中国本土に近いですが、それでも無理矢理上陸作戦を敢行すれば、中国軍に何十万人の損害がでるか見当もつきません。核ミサイルを除けば、海に囲まれた日本には、中国は真の意味では軍事的脅威ではありません。

直接軍事的脅威はなくても、中国の対日諜報活動は続いていくでしょう。機密を奪われることがどの程度危険なことか、正確なことはわからないのですが、中国が本気になれば日本が秘密を守り抜くことは非常に困難だということは思っておいたほうが良いでしょう。

戦後アメリカはほとんどヒステリックなまでにソ連の諜報活動を警戒したのですが、一番重要な原爆と水爆の製造ノウハウはすべて奪われてしまいました。それに対し、アメリカは対ソ諜報活動に莫大な費用を投じたにもかかわらず、ソ連崩壊までソ連経済の実態の把握さえできませんでした。独裁国家は防諜能力は非常に高いのです。

アメリカではCIAが暗殺を行うことの正当性が議会で問題になることがあり、今は正式にはCIAは暗殺活動はしていないのですが、ロシアは平然と暗殺を実行します。予算の執行、命令伝達の透明性が低い独裁国家は諜報活動の自由度が非常に高く、どのような手段を使っても機密を奪うことができます。機密性を高めることはかえって、機密の存在を知らせるようなものだとさえ言えます。

櫻井が中国の諜報活動に中国脅威論の根拠を言い出せば、否定は困難になります。何しろ中国の諜報活動がどのようなものかを確かめるすべはほとんどないからです。

陰謀史観への傾斜

確かめる方法がないという意味で、陰謀史観があります。櫻井は日本は悪くなく陰謀にはめられたのだという論理を往々にして展開します。その一つに満州事変のきっかけとなった張作霖の暗殺がKGBの陰謀だったというものがあります。面白い話かもしれませんが、一般には当時の関東軍参謀河本大佐が犯人とされています。河本大佐は犯行後、首謀者と認定され処分も行われています。KGB陰謀説は奇説と言って良いでしょう。

櫻井が飛びついたものには、真珠湾攻撃をルーズベルトは知っていたというものもあります。9・11のテロもそうでしたが、アメリカ大統領には膨大な情報が上がってきます。その中に日本軍の真珠湾攻撃の可能性を示唆したものもあったのでしょう。しかし、真珠湾攻撃で戦艦が全滅するなど甚大な被害をアメリカ側が被ったことを見ても、ルーズベルトが知っていて黙認していたと考えるのは、あまりに常識と乖離した考え方です。

当時ルーズベルトがイギリスを助けるために参戦したがっていたのは恐らく事実でしょう。また、日本蔑視から日本など一撃でうちのめせると思ってもいたようです。しかし、かりに日本の攻撃を知っていれば、準備万端待ち伏せをしても良いはずで、不意打ちを食らう必要は参戦の理由としてもありません。櫻井が見つけてきた連合艦隊が無線封鎖をしていなかったという議論も、事実に反します。日本海軍は暗号解読されているのに気づかずに同じ暗号を使い続ける程度には愚かだったかもしれませんが、無線封鎖をしないほど馬鹿ではありません。

櫻井はいくら日本を弁護するためとはいえ、なぜ陰謀史観が好きなのでしょう。それは主流の歴史観で日本に不利な場合でも、明確な証明のしようもない陰謀に論拠をおくことで、一発逆転ができると考えるからです。陰謀が陰謀であるためには、秘密であることが必要です。証明のできない陰謀の存在を前提にすることは、それが歴史観の一転を招くようなものであれば、相当慎重な検証が必要です。

櫻井にはそのような態度はまったくありません。自分の主張を助けるような(つまり日本は悪くなかったというものがほとんどのわけですが)、陰謀には実にやすやすと賛同して「これが本当なら従来の歴史観は一変しなければいけない」と言ってしまうのです。

南京事件も慰安婦も全くの捏造?

南京事件慰安婦問題については中国、韓国が日本に対する批判の内容はそのまま事実とは言いがたい点が多々あるのですが、少なくとも「そんなものは存在していない。すべて捏造だ」というのは正しくないというのが主流です。ところが、櫻井の論では「そんな事実は一切ない」となります。しかも、論拠としては陰謀や南京事件の写真に嘘のものが混じっているからといったもので、強固なものではありません。

「捏造は自明」ということになると、南京事件や慰安婦問題で日本を非難する人は「うそと知りつつ、日本を攻撃するために被害を言い立てる悪人」と「悪人にだまされる、単純で馬鹿な連中」ということになります。櫻井の中国、韓国での南京事件、慰安婦問題での反日活動にはこの見方をとります。

この悪人が反日運動を扇動しているという見方が、最初に言った「中国の日本併合という遠大な計画」に結びつきます。しかし、反日活動を主導する人たちが櫻井の「真珠湾攻撃をルーズベルトは知っていた」と考える半分程度の思い込みで、南京事件、慰安婦問題を事実として信じているなら、反日運動は遠大な計画とは無縁の話になります。

反日運動は、国家として日本への対抗、牽制として利用している面があります。北朝鮮は非常にはっきりと利用しようとしていますし、韓国のノムヒョン政権も、反日を積極的に活用しようとしました。中国はより戦略的に利用しているのは事実でしょう。

しかし、櫻井の論理では、中国はじめ南京事件、慰安婦問題で日本を攻撃する連中は、大うそつきばかりということですから、話し合うことは意味がないことになります。さらに、アメリカなど第三国へは「嘘をあばく」式の言い方しかできなくなります。少なくとも、南京事件や慰安婦問題さらに第二次世界大戦の日本の侵略性などは「ものの見方」としては、日本にそれなりの言い分が認められるべきでしょうが、全くの捏造の立場で貫き通せるようなものではありません。 (「捏造論」については次回ブログ記事を参照)

結局はただのアジテーター

陰謀論を含め、従来の認識と異なる見解に対する慎重な裏づけ、仮説の事実による検証は、科学者、ジャーナリストでは基本的に必要な態度です。櫻井は「日本が悪くはない」という気持ちに、非常に粗雑な理論武装をさせているだけです。これは、ジャーナリストではなくアジテーターと言うべきでしょう。

櫻井のような人物が脚光を浴びる理由の一つには、日本の明治から第二次世界大戦にいたる歴史を、やはりアジテーター的に攻撃してきた伝統的左翼への反発があるのでしょう。ソ連崩壊のころまでは、社会党(現在の社民党)などは毛沢東礼賛、北朝鮮擁護の立場でしたし、朝日新聞などマスコミの多くもそれに同調していました。南京事件、慰安婦問題なども教科書での歴史認識に結びつけるようなことは、日本の一部勢力の助けがあったのは事実です。アジテーションで批判するなら、それは確かに「自虐史観」でしょう。

しかし、櫻井の論理は左翼のアジテーションを逆の立場で、さらに極端に展開したものです。そして、櫻井の結論は愛国教育と憲法9条の改正、というより戦争できる態勢を作ることです。中国が本当に日本に攻めてくるなら、憲法など改正しなくても日本人は戦うでしょうから、本当に必要なのは核保有でしょうか。

櫻井はなぜか、日本の核保有を求めていません(私が知らないだけかもしれませんが)、櫻井の論理を突き進めると核保有しない方が愚かしく感じられますが、櫻井はアメリカとの同盟と愛国心で乗り切れるというのでしょうか。そのあたりはよくわかりません。

確実に言えることは、櫻井の著作の題の「この国をなぜ愛せないか」という設問は無意味だということです。愛国心だけは、数学や歴史と違って教える必要はありません。なぜなら愛国心は仲間内を守ろうという人間の本性に根ざしているからです。おそらく櫻井の求めるのは、過去の日本の歴史、文化、伝統的制度に無条件に肯定的であることが愛国心の定義なのでしょう。これは余計なお世話というのを通り越して、ほとんど日本原理主義ともいうべき考え方です。

原理主義は妥協を許しませんから、他の原理主義ときわめて危険な緊張関係を作ります。それこそ櫻井が真に求めていることなのかもしれません。でも、原理主義同士の衝突が起きたらどうなるのでしょうか。アジテーターはそんなことは気にしないのかもしれませんが。

行動経済学関連の記事
当ブログで行動経済学に関連したものをあげておきます。

喫煙の行動経済学
ウェイソン・テスト
モンティ・ホール問題
埋没コスト
最後通牒ゲーム

日本は大企業病
IMDview.jpg
スイスのIMDは国の競争力を判定している

国と企業は違うが・・・

最初にお断りしておきますが、国と企業は違います。 企業は利潤を生むという明確な目的がありますが、国にはそのようなものはありません。社員はCEOの部下ですが、国民は総理大臣の部下ではありません。企業は従業員を雇用し、時には解雇しますが、国民であることは普通は国にも国民にも選択の結果ではありませんし、解雇もありえません。

国と国とが企業のようにある産業で競争をし、どちらかが勝ってどちらかが敗れるというのは意味がなく、あくまでもは個々の企業の問題です。 国の問題ではありません。国どうしの競争力が本当の意味で発揮されるのは戦争をするときだけです。

しかし、ある国に住んでいることが国民にとって他の国の国民であるより幸福かどうかというのは重要です。そして幸福の度合いの大きな部分が経済的な成功に依存していることは間違いありません。高度な医療、飢えのない暮らし、そして相対的に他の国より快適で便利な生活をおくっていると実感できるためには、「貧しくないこと」がどうしても必要です。

スイスのローザンヌにあるIMD (International Institute for Management Development)は世界でも有数のビジネススクールをですが、毎年各国の国際競争力の調査結果を発表しています。そのIMDの2007年版の調査では日本の国際協力は総合で24位とされています。ちなみに1位はアメリカ、2位、3位は香港、シンガポールの順となっています。

IMDは各国の国際競争力をマクロ経済、政府の効率性、ビジネスの効率性、インフラの全部で314項目を、「企業のビジネス環境」という観点から評価しています。日本の24位という順位は、中国(15位)、イギリス(20位)、フランス(28位)、韓国(29位)、と比べてそれほど悲観的なものではないのですが、2003年の24位が景気回復とともに2006年に16位まで上昇してきたのが、ふたたび24位に逆戻りしたのは気になります。日本はバブル経済の崩壊の後のいわゆる空白の10年から回復基調にあったのに、再び後退局面になったように見えます。

IMDの国際競争力比較は、絶対的な意味合いがどの程度かという議論がありますが、国民のひとりひとりの豊かさを示す一人当たりのGDPは1993年の2位から、昨年はOECD30か国中の18位になってしまいました。日本の経済力が相対的に弱体化しつつあるのは間違いないようです。大田弘子経済財政担当相は本年1月18日、衆参両院の本会議で、世界の総所得に占める日本の割合が24年ぶりに10%を割り込んだことなどに触れ、「もはや日本は『経済は一流』と呼ばれる状況ではなくなった」と、国際的な地盤沈下に危機感を表明しました。

危機感の欠如

繁栄していた企業が下り坂になったとき、大企業病の症状が顕著に現れてきます。その中で代表的で一番深刻な症状は危機感の欠如です。カルロス・ゴーンは著作の中で、ルノーから日産に派遣されたとき、社内の食堂で日産の幹部の一人がゴーンに箸の使い方を教えながらたんたんと「日産の社員は危機感がないんだよ」と言うのを聞いて驚いた、と書いています。言っている当人がまるで日産の危機を他人事のように語っていたからです。

上場しているような大企業が突然倒産して、朝出社して来た社員が呆然としているといった映像がニュースで流れることがよくあります。倒産は多くの社員にとって突然のものだったのでしょうが、危機が認識されていなかったわけではありません。それどころか、職場で、あるいは酒場で危機を社員たちが熱をこめて語るような光景はいくらでもあったでしょう。しかし、ほとんどの社員は「まさか本当に倒産するとは思わなかった」のです。大企業ともなれば、たとえ経営危機でもボーナスはともかく、月給はきちんと支払われます。月給が支払われているうちは、本物の危機感は持ちにくいのです。

航空業界は競争の激化、燃料費の高騰などで世界的な再編が進んでいます。アメリカではユナイテッド航空のような世界最大の航空会社が倒産してしまいましたし、ヨーロッパではアリタリアが事実上倒産しました。ナショナルフラッグを自認する日本航空も客観的に見れば、それらの航空会社よりましな状況にあるとはとても思えません。

それでも社員たちは心の底では「絶対にJALがつぶれることなどありえない」と思っているはずです。もし、本当に危機感があれば多数の組合が協調せずに既得権の守ろうと頑張ったり、経営陣が縄張り争いをしているはずがありません。

しかし、どんな会社でも倒産することはありえます。国がつぶれても残るとまで言われた、大銀行も多くが消滅してしまいました。法的な倒産は免れても、多数の社員が一生安泰だったはずの職場から離れざるえませんでした。

国の場合は営利企業と違って危機は一層見えにくくなっています。一人当たりのGDPが2位から18位になったと聞いても、2位だった頃が今より幸せだったかというとそうでもないように思えます。中国やインドの追い上げが急だと言っても、中国国民やインド国民になりたと思う日本人は少ないでしょう。

日本国民の生活は昔より悪くなっているのでしょうか。もちろん、この質問に対する答えは個人個人で違うでしょう。しかし、10数年前まで、日本の大企業のOLの多くは働き蜂の企業戦士を横目に、しっかりと有給休暇を取って海外旅行と買い物を楽しんでいました。今、そのようなOLたちの仕事は年収300万円にも届かない派遣社員に置き換えられてしまいました。

企業戦士たちも頑張れば(あるいはあまり頑張らなくても)定年まで勤めて、退職金を受け取ることができましたし、大企業であれば系列会社に天下りすることもできました。今では多くの大企業が実質50歳定年のようなことになってしまいました。

「格差社会」ということが最近よく言われますが、問題は格差自身ではなく、勤労者の多くが安定性も、そこそこのレベルの賃金も得られなくなってしまっていることです。安定性を失ったのは企業の勤労者だけではありません。地方の疲弊は公共投資と農業補助の削減が大きな原因ですが、つまりは国家の財政的な余裕がなくなってしまったのが根本です。

日本人が貧しくなってきたのは事実のようです。現在はまだ貧しさがワーキングプアとよばれるような一部の層に限定されていますが、今後高齢化社会で年金、社会保障の財源が枯渇してくると、日本国民の大部分にとって海外旅行は再び夢の世界になってしまうかもしれません。これは予測ではなく、すでに派遣、フリーターには現実になっているのです。

それでも、日本国民が危機感を持つことは難しいでしょう。「ゆとり教育」が学力低下に対する懸念から批判をあびていますが、円周率を3.14でなく3として学んだところで、国際競争力がなくなるというものではありません。問題は「ゆとり」が「勤勉」より正しいと思う人生観、文化の蔓延です。残念ながら「ゆとり」は勤勉の結果として得られる報償で、経済的な裏づけがなくてはゆとりは持てないようです。

新規事業が育たない

大企業が既存の事業だけでは先がないと思って、新規事業を立ち上げようとしてもなかなかうまくいきません。 新規事業は自分たちの積み上げた強みは発揮しにくく、そもそも成功しにくいものですが、うまくいかない大きな理由に社員が成功させようと一生懸命にならないということがあります。

大企業の多くは「出世コース」が決まっていて、普通は主力の事業で業績をあげることです。リスクが多く不慣れな新規事業に配属された社員は、それだけでやる気をなくし、主力事業に早く戻りたいと考えます。トヨタは自動車事業の次の柱として住宅事業を長い間育成しようとしてきましたが、結局成功していません。

トヨタの資本力、技術力、販売力と比べれば、住宅メーカーは吹けば飛ぶようなものなのですが、トヨタは魅力ある住宅を作ることも、効率的に販売することもできませんでした。本当に本気ならは積水ハウスやダイワハウスを買収して、買収した会社にトヨタの住宅部門を吸収させる(逆ではありません)ようなことが必要なのでしょうが、そのような思い切ったことはしそうもありません。

日本は全体として大企業が資源とくに人材を独占しています。大企業に資源を集中させることは、産業が未熟なうちは効率的なのですが、現在の日本では弊害が目立ってきています。たとえば日立は日本国にとって必要な企業でしょうか。こんなことを言うと日立の社員は顔を真っ赤にして怒りそうですが、日立の作っている製品、サービスの大部分は他社で代替可能なものです。そして日立の利益率は、他の重電メーカー、電子機器メーカーと比べて最低水準です。

にもかかわらず日立の技術力や人材は依然として業界の最高レベルです。日本全体の効率性を考えれば、日立をバラバラにして、新規の事業立ち上げに振り向けたほうがよいでしょう。アメリカでは1980年代から90年代にかけてIBMやDECなどのコンピューターメーカーが大規模な人員削減を行ったことが、その後インターネット関連などの新興IT企業が技術力や経営管理能力を素早く充実させる上で大きな力になりました。

日本はいまだに優秀な新卒が大企業に就職しようとするだけでなく、大企業の社員もいられるだけいようとします。結果的には日本のベンチャー系IT企業は付加価値の低い人材派遣型の労働者提供を体育会系ののりでうりまくるものが大部分です。マイクロソフトやグーグルとまでいかなくても、シリコンバレーに山ほどあるようなまともな製品を持つIT企業はほとんど育っていません。マイクロソフト、IBM、SAPのような巨大IT会社は世界中の優秀な製品を持つIT企業を買いまくっていますが、日本の企業が買収されたという話はとんと聞きません。買いたくなるような会社がないのです。

現在の日本の人材市場は依然として官庁、大企業を頂点にしたハイアラキーがあり流動性が低いままです。大企業が優秀な人材を集めようと努力するのは当たりまえですが、30年かけて優秀な人間を石頭に改造しているだけと言われても仕方ないのも事実です。社会の流動性が高まらなくては、経済効率の低くなった大企業の支配する構造から、将来を支える企業を輩出する社会に変わるのは難しいでしょう。

「ものづくり」という成功体験への固執

日本の食糧自給率は40%と主要先進国中最低で、これも本物の危機なのかもしれませんが(本当は嘘です)、そうなってしまった理由には農業だけでは食べていけないという現実があります。日本の農家の平均耕作面積は1ヘクタール程度ですが、これはベトナムの2倍程度です。補助金なしで先進国の日本人に魅力のある職場、年収1千万円以上の農家を目指そうとすると、平均耕作面積を数十倍にもしなければならないでしょう。

日本の農業の生産高は総額で約4.8兆円ですが、これはトヨタの売上げの5分の1程度です。農業人口は300万人以上ですがトヨタの従業員は連結ベースで30万人にも足りません。この比較は色々な意味で乱暴で無茶なのですが、製造業と農業の生産性の違いを実感することはできるでしょう。生産性の低い産業は人を引き付けることはできません。

大企業が不調になると、よく聞かれる言葉は原点回帰です。最近の日本でも「ものづくり」こそ日本の強みなのだから、このものづくりの強さを維持させることが大切だとよく言われます。しかし、日本国民全員が優秀な旋盤工や溶接工になっても生活水準を向上させることはできません。

ソニーや東芝のような電機メーカーの工場の多くは海外に移転してしまいました。残っている工場もがらんとしたところが多くなっています。部品の高密度化やモジュール化で手作業の部分が大幅に減少してしまったのです。投入される工数の多くは現場の組み立てではなく、ICチップのためのソフトウェアの開発やテストになりました。ものづくりと言っても中身はずいぶんと違ってしまったのです。

昔、製造業の設計部門には製図版がずらりとならんでいました。工業高校や高専の卒業者の多くは、最初は製図版を使って上級開発者の設計を正確に製図するところからキャリアをスタートさせたのですが、今ではそういった作業はコンピューターに置き換わってしまいました。もし昔のように製図を手作業でしていたら、1ヘクタールの農地で農業をするような生産性になってしまいます。

今や製造業の中で、テレビがものづくり特集をするときに紹介されるような匠(たくみ)の世界はごく一部にすぎません。そもそも製造業に従事しているのは全労働人口の20%以下です。ものづくりだけでは端的に日本国民の大部分を食べさせていくことはできないのです。

左前になった大企業の原点回帰は、多くの場合危機から目をそらし新しいことへチャレンジすることを避けているのに過ぎません。環境も社員の質もすっかり変わってしまっているのに、本当に原点回帰してしまったら、倒産するだけです。それでも原点回帰を言うのは、成功体験にしがみつくことで社員の志気をとりもどそうとしているのでしょう。あるいは何も具体的なアイデアがないのを隠そうとしているのかもしれません。

人材登用メカニズムの機能不全

企業と国家を混同してはいけないとは言っても、リーダーの重要性は変わりません。昨年の安部首相の辞任の有様を見ると、どのような基準でも彼がリーダーにふさわしい資質を持っていたとは言えないでしょう。マスコミが指導的立場の政治家を良く言うことはまずないのですが、これほど本物の無能者が首相に選ばれてしまうようなことは過去にはほとんどありませんでした。日本に有能な人がいないはずはありません。人材選抜のメカニズムが狂い始めているのです。

日本の政治のリーダーは官僚出身者が長い間中心でした。戦後の歴代の首相の多くは官僚です。岸、池田、佐藤と三代続いた官僚出身者の政権は、米国の軍事的な庇護のもとに経済成長を達成するという目標に邁進しました。その後も、福田、中曽根、大平の各首相は官僚出身です。官僚経験のない田中角栄は例外だったのです。

しかし、官僚出身の首相は宮沢喜一を最後にその後は現れていません。代わって台頭したのは二世議員たちです。橋本龍太郎以後、森 喜朗を除いて、小渕、小泉、安部、福田と最近の自民党総裁、首相は全て二世議員です。福田首相の対抗馬だった麻生太郎も二世(というより3世、4世ですが)です。二世だから悪いというのではありません。二世しか首相になれなくなってしまった、人材選抜メカニズムが問題なのです。

二世議員の首相ばかりが生まれる理由ははっきりしています。自民党は当選回数がポスト獲得で最大の考慮点、つまり年功序列です。二世議員は若いうちに当選できるので、当選回数で有利な上に地盤が確立されていて、選挙に強く無理をする必要があまりありません。今の自民党はプロ野球や相撲はもちろん、芸能界と比べてさえ実力主義でなくなってしまったのです。

官僚支配は天下りのような弊害は大きいのですが、社会の流動性を維持するという意味では、二世議員しか首相になれないような状況よりむしろましと言えます。日本は官僚支配から政治主導の国家への移行がうまくいっていないのです。かつて、薩摩、長州出身者ばかりが出世した藩閥政治から、官僚支配に移行する過程でも日本は機能不全に陥りました。

藩閥政治は軍部を完全に掌握し、日露戦争で国民の反対を抑えても戦争を終了させました。藩閥政治からより平等な官僚主体とした政治体制に移行した日本は、軍部の暴走をとめることができず、破滅的な戦争を起こしてしまいました。

皮肉なことに、官僚出身ではない二世議員ばかりが首相になるようになって、官僚が起こす汚職事件が目立ってきました。守屋前防衛次官の汚職が象徴的です。驚かされるのは、守屋の腐敗ぶりより、たかが数百万円のゴルフ代で、世界二位の防衛支出に責任を持つトップ官僚が魂を売り渡して、まるで下級役人のような収賄事件を起こしてしまったことです。官僚がずいぶん小物の集まりになったのは間違いないようです。天下りも昔と比べて、組織的な汚職の色彩が強くなってきました。(詳しくは「天下りを考える」を参照してください)

大企業でも創業者社長が引退すると、二世、三世が後を継いで衰退に向かうことは枚挙に暇がありません。逆に創業者一族ではなく、サラリーマン社長が後継者となって求心力がなくなってしまうこともあります。権力の中枢を担う人材の選抜プロセスがうまく機能しなくなることは、企業も国家も危機の原因であり同時に結果でもあります。

ではどうするのか

企業も国家も一度衰退に向かうと容易に回復の軌道に戻ることはありません。今はクラシアと呼ばれているカネボウ、昔の鐘淵紡績は戦前は日本最大の企業の一つでした。今のトヨタやNTTのような存在であったわけです。しかし、紡績業の衰退とともに、戦後は一貫して実質的には赤字を出し続けながらた衰退、縮小していきました。それでも、2007年クラシエとして根本的な再編を行うまで、名門企業として存続を続けました。

カネボウが存続を続けられたのは、戦前の蓄積があったからです。カネボウは戦後は利益という意味では何も価値を生み出すことができず、資産を切り売りを50年以上行っていたのです。しかし、カネボウの末期の経営の混乱を見ると、本当の意味で危機感を経営陣や社員が持つことは最後までなかったようです。

企業は急速な円高や、強力な外資の進出のような明確な危機には、効率的に対応することができます。国家も戦争のような脅威には一致団結することができます。硬直した官僚主義国家だったソ連でさえ、第二次世界大戦では驚異的な高効率と生産性を実現しました。

しかし、じわじわと忍び寄る危機に対応することは非常に困難です。敵は外部ではなく、むしろ内部の資源の競合です。全体のパイを大きくするより、自分の取り分を少しでも守ることが最大の関心事になります。悪いことに衰退に向かうと資源の総量が減ってくるので、資源の争奪はますます厳しさを増してきます。前向きで戦略的な資源の投入は一層困難になり、危機を皆が叫び対策を策定しても、実行の段階になると資源配分で紛糾して最後は失敗してしまいます。

イギリスのサッチャー首相は既得権で硬直化した資源配分の大幅な変更を行いました。国有企業は民営化され、福祉の切り下げも行われ、労働組合の力は弱められました。規制緩和は徹底的に進められました。犠牲は小さくはありませんでした。製造業を始めとして、国内の産業の多くは英国企業ではなく外国企業に支配されました。「ウィンブルドン化」といわれるように、金融業の中心のシティーは圧倒的に外国の金融機関が活躍する場になりました。大学も長い目で地道に研究を行うイギリス流の良さが失われ、アメリカ的な成果主義が重視されるようになりました。
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マーガレット・サッチャー

サッチャーには強い意志とビジョン、政策や経済への深い洞察がありました。しかし、サッチャーが首相になり、強力なリーダーシップを発揮できるようになるまで、イギリスは100年近くの長期的な衰退過程を経験する必要がありました。その間、7つの海を支配した超大国はヨーロッパの中級国家に転落していました(日本はイギリスになれるか)。それと比べれば日本は国力が低下したと言っても、国民が犠牲をはらう覚悟を持つほどには衰退はしていないのでしょう。

ただ、危機感が日本の国力回復に重要とは言っても、どのような危機感を持つかという問題はあります。戦前の日本は日本の国土で国民を養うことは早晩できなくなるという理論を基にした危機感で、中国に領土を広げようとして崩壊してしまいました。一般的に、防衛や資源、領土というような危機感に訴えやすく、国民のまとまりも得やすいものは、国力の増大にはほとんど役立ちません。

第二次世界大戦以前、アルゼンチンは世界でも最高水準の生活水準を誇っていました。アルゼンチンは人口に比べ広大な面積を有し、食料を含め、多くの資源を持っていましたが、戦後は経済はいつも混乱し、国民の生活水準は低下の一途をたどりました。今、世界で高い生活水準を保っている国は日本を含め、ヨーロッパ諸国など鉱物資源などないに等しい国ばかりです。例外はオーストラリアくらいでしょうか。アメリカも石油を含め、多くの自然資源は輸入に依存しています。

軍事力にいたっては、第二次世界大戦後、国力の向上に役立った国などほとんどないと言ってよいでしょう(例外はイスラエルくらいでしょうか)。アメリカは余計な戦争をするたびに国力を消耗しましたし(ただし、第二次世界大戦と比べれば、GDPに対し無視できるほどで、戦争してもしなくても国力としての地位はあまり影響がなかったと思われる)、ソ連は軍事力増強が国家崩壊のとどめになってしまいました。

国力そして国民経済の向上に役立つのは、民主的で清潔な政治システム、効率的で公正な官僚機構、活力のある産業そして高度な教育システムや医療を公平に受けることができる環境などです。戦後日本は概ねこれらの条件を満たしてきました。少なくとも、南米諸国や発展途上国と比べて、非常に高い水準にあったことは間違いありません。結果的には日本の高度成長は約束されたも同然だったと思われます。

それらの条件に関して、日本が昔より悪くなったということはあまりありません。それでも少子高齢化に伴う年齢構造の変化、官僚機構の陳腐化、格差の拡大による社会の硬直化などの問題がでてきていることは確かです。何より気をつけなければならないのは、「企業の環境」という意味では日本も他の国と競争しているということです。環境は常に競争力のために、改良し続ける必要があります。これはIMDが評価している評価項目そのものと言ってもよいでしょう。

日本は大企業病から脱出できるか、「危機感のないという危機」にどう向かい合うか、これは日本国民自身の問題です。イギリスがサッチャーを得たように、問題を正確に認識し、正しい危機感が持てれば、正しいリーダーシップを発揮する政治家が現れることは歴史が証明しています。日本国民にそれは可能でしょうか。可能であるとしても、それはいつになるのでしょうか。

こちらもご参照を
天下りを考える
天下りを考える もう一言
また公共投資ですか
日本はイギリスになれるか (1)
日本はイギリスになれるか (2)
日本はイギリスになれるか (3)
もうクジラのことはあきらめましょう
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シーシェパードの活動船

おそらくほとんどの日本人は納得しないでしょうが(2006年のYahooのアンケートでは90%以上の日本人が南洋捕鯨に賛成しています)、あえて言います。クジラを獲るのはあきらめたほうが無難です。たとえ、調査捕鯨が資源としてのクジラの枯渇をまねくことはなくても、シーシェパードやグリーンピースの反捕鯨活動がほとんどテロのようになっていても、クジラを食べるなというのが白人優位主義が根底にある文化的偏見であっても、もはやクジラを獲り続けることは日本の国益に反しています。

今年1月16日、捕鯨に反対する環境保護団体、シーシェパードは調査捕鯨船「第2勇新丸」を襲撃して活動家二名が乗り込み、拘束されました。拘束は日本の側からは当然なのですが、シーシェパード側は日本が反捕鯨運動の制限を活動家開放の条件にしているとして引受を拒否しています。活動家の拠点であるオーストラリアの政府も反捕鯨を標榜していて、日本に好意的な対応をしていません (その後オーストラリア政府は引き取りました)。

クジラの問題は色々ややこしい背景がありますが、詳しくは昨年「それでもクジラ食べますか?」に書いたので、そちらをご参照いただければと思います。ともあれ、結論としては日本の捕鯨は、「国際的」には北朝鮮の核兵器開発波なみの反感(感情的にはそれ以上かもしれません)を買っているといっても過言ではありません。ただしここでいう「国際的」とはアメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアなどの白人文化圏です。底流には日本に対する人種的、文化的偏見もあることは確かでしょう。

それでも、今後、粘り強く説得を続ければ、日本の捕鯨が国際的に認められるなどとは到底考えられません。シーシェパードは日本のマスコミでは無法者扱いですが、世界を支配する英語メディアは好意的でほとんど英雄です。日本にとって捕鯨のメリットは経済的には小さく、国際的な非難のコストのほうがはるかに大きいでしょう。

このままでは、ほとんどの日本人が年に一度も食べないクジラのために、国際的な評判を悪くして、グリーンピースやシーシェパードの資金集めに協力するだけです。大義名分が立たず、納得もできず、人種的偏見が透けて見える反捕鯨活動に屈するのは屈辱的で、心情的には難しいでしょう。しかし、ここは引くのが妥当な判断です。アメリカがベトナムで、あるいはソ連がアフガニスタンで敗れて撤退したように、最後は意地より国益が優先されるべきです。


閏年
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今年2008年はご存知の通り閏(うるう)年です。閏年にはオリンピックとアメリカ大統領選挙という4年に一度の大きなイベントがあるので、ただでさえにぎやかなのですが、経済成長率が高まるという現象も起きます。もちろん景気循環が閏年に合わせて4年ごとに必ず高くなるということではありません。閏年は1年の長さが1日長いので、1年間の経済活動をあらわすGDPがその分高くなるからです。

こんな見かけ上の話は大したことでなさそうですが、1日は1年の約0.3%ですから、GDPの成長率に0.3%の下駄が履かされることになります。日本の最近のGDPの成長率は1-2%程度ですから、決して無視できるよ大きさではありません。しかも、2月が1日長いので、年の最初の3ヶ月だけ見ると下駄の割合は1%になります。

4半期で1%成長率が高いと、年率換算すると4%の見かけ上の下駄が履かされることになります。これは無視できるどころか、大変な成長率のかさ上げです。もちろん1%の下駄を1年に引き伸ばすようなことは無意味と言うより間違いなのですが、数字は数字です。

こんなややこしいことがあっても、4年に1度の閏年は、地球の公転が365日きっかりではないのでし方ありません。正確には西暦が100で割り切れる年は閏年でも365日、さらに400で割り切れる年(直近では西暦2000年)は366日になります。これは1582年にローマ教皇のグレゴリウス13世が決めたグレゴリオ暦のシステムです。

地球の公転は厳密には365.24199日ですが、グレゴリー暦では365.2425日になります。このずれが1日分になるには3320年もかかるので、実用上は十分です。閏年に関してこれほど正確な現代のグレゴリオ暦ですが、月の長さという点では合理的とは思えません。

普通の月は30日か31日ですが、2月だけ28日、閏年でも29日です。そのくせ、7月、8月は31日が続きます。たとえば、2月を31日として、偶数月の4、6、8、10月を31日にすれば、月の日数は30日か31日に揃います。閏年は12月を31日にすれば、1年の最後の1日が付け加わることになるので、考え方としては自然です。

それでは、なぜ今のよう暦の形になったのでしょうか。グレゴリオ暦のもとになったユリウス暦を作ったのは、その名の通りジュリアス・シーザーですが、シーザーの後を継いだ初代ローマ皇帝のアウグストゥスが、シーザーの月である7月(July)が31日なのに、自分の名をとった8月(August)が30日なのが不満で、2月から1日とってしまったという説がありますが、これはどうも俗説のようです。

実際は、もともとは355日が1年の基本日数だった太陰暦では月の日数は28日か、29日で(それでも31日の月などあってややこしいのですが)、太陽暦で1年が365日になったとき、他の月の日数が増やされたのに、なぜか2月が28日に取り残されたというのが真相のようです。

太陰暦では調整のために23日または24日の閏月が必要だったのですが、閏月は2月の後に挿入されました。その流れで、閏年の1日の追加は2月になりました。2月は閏月、閏年の調整という意味で特殊な位置づけで28日のままになったのかもしれません。

別に2月が28日でも世の中大して変わらないじゃないかというのも確かかもしれませんが、色々な支払いが月単位で行われることを考えると、そうとばかりも言っていられません。ニッパチと言って2月、8月は商売が落ち込むと昔から言われていましたが、8月はお盆休み、2月は月の日数が少ないため、売上げが下がるのが原因です。

こんな理屈をこねまわしても、いまさら暦を変えることなどできない話なのですが、ついでに文句をつけると時間の単位もあまり合理的ではありません。1日は24時間、1時間は60分、1分は60秒ですし、1日は12時間を2回と数えるので、計算がやたら面倒です。

12進法は2、3、4、6と割り切れる数が多いので、便利だと言う人もいるのですが、世の中は言語体系から電卓にいたるまで10進法が基本なので圧倒的に不便です。第一時間は12進法そのものではなく、24進法と60進法のあわせたものです。小学校のとき時間の足し算、引き算で苦労した人は多いと思います。円周率を3にするのと比べれば、時間が10進法になれば、「ゆとり教育」への貢献は比較にならないでしょう。

風速は日本では秒速何メートルといいますが、アメリカでは時速何マイルと言います。メートル法と、ヤードポンド法の違いもありますが、直感的に換算する難しさの大半は秒速から時速への計算です。別に必要もないかもしれませんが、時速1000キロの飛行機は秒速330メートルの音速より速いかどうかも、電卓なしではすぐにはわかりません。

1日を10万秒、1分を100秒、100分を1時間にすれば、計算はずっと簡単です。だいたいお金は円だけで、コンビニのつり銭から国家予算まで扱っているのですから、秒だけで全てをあらわしても特に不便はないでしょう。月給を1円単位で言わないように、待ち合わせ時間を1秒単位で言ったりはしないはずです。

正月休みで暇なせいか、実用上は何の役にも立たない愚にもつかない話をしてしまいました。これではブログの題名を「ビジネスの役に立たない雑学知ったかぶり」にしないといけませんね。