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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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足りないのは資源、それともお金?
暫定税率復活
暫定税率復活前安いガソリンを求める車の列

資源のない日本は危ない!

暫定税率の復活と、原油価格の高騰のダブルパンチで、ガソリン価格はリッター30円以上値上がりしそうです。原油価格は1バーレル100ドルの壁をとっくに超えて120ドル近くになってしまいました。原油が高騰するとウランや石炭も上がります。電力会社だけでなく、鉄鋼会社も材料費の高騰の直撃を受けています。

エネルギーの値段が上がると食料の値段も上がります。現代の農業は肥料、農薬、機械化と石油で作っているようなものです。おまけに、バイオ燃料をトウモロコシや砂糖キビから作ることで、農産品の値上がりは加速しています。さらに、バイオ燃料はトウモロコシの値段だけでなく、農地をバイオ燃料用の作物に転換することで、他の農産物の値段も引き上げてしまいます。

値段が上がっているのは、エネルギー関連や農産物だけではありません。レアメタルと呼ばれる、主に電子部品に少量使用される種々の金属の値段は高騰しています。これらの金属の多くは中国から産出されますが、中国は自国の電子産業の育成のために輸出には決して積極的ではありません。

こうなってくると、昔からよく言われた「狭い国土で資源もなく沢山の人を食べさせていかなければならない」日本の危うさが再び語られるようになってきました。たった40%の食糧自給率、中国など新興国との資源争いは「買い負け」してしまい、必要量の確保も難しい。マグロのトロまで買い負けで食べられなくなりそうです。大トロは回転寿司の店のメニューからは消えてしまいました。

物価高は家計を直撃しますが、テレビのコメンテーターはほとんど例外なく現状を危機だと警告します。「食料を自分で作れない国は滅ぶ」「輸出で稼ぐと言ってもトヨタなど上位20社に依存している」「20世紀は資源がなくても日本は技術で優位に立てたが、21世紀は資源を押さえるものが強い」。このままでは日本国民は飢え死にしかねないような話に聞こえます。本当なのでしょうか。


物がなくなることはない


今から30年以上前、1973年の第一次石油ショックのときは、原油価格は一挙に3倍も上がりました。石油依存度の高かった当時、衝撃は現在とは比較にならないほど強烈で、物価は一年に30%以上も上昇しました。それだけでなく、今でも語り草になっている「トイレットペーパー」騒動が起きます。トイレットペーパーがなくなるというので、消費者がスーパーの店頭に殺到して日本中でパニックが起きたのです。

騒動が一段落して分かったことは、物価は上がったが、品物はなくならなかったということです。トイレットペーパーがなくなるのはトイレットペーパーの工場が止まった時で、石油の値段があがった時ではないのです。もちろんトイレットペーパーの値段がどんどんあがって1ロール3千円にもなったら、よほどの金持ちでもない限り、トイレットペーパーを気楽に使うことはできなくなってしまうでしょう。しかし、それとトイレットペーパーがなくなるのとは違います(事実上同じことだと言いたいかもしれませんが、ちょっと待ってください)。

食料の値段がどんどん上がっていくとどうなるでしょうか。トイレットペーパーが1ロール3千円になったら、買えなくなるように、買えなくなってしまうでしょう。しかし、トイレットペーパーと違って食料品はなくなったら死んでしまいます。

食料品の値段が上がると最初に生死の危険にさらされるのは、60億人の世界の人口のうち、今でも飢餓の苦しめられている人々です。世界で日本より一人当たりのGDPが高い国の人口は多くても5億人くらいでしょうから、日本人は少なくとも平均的には世界の90%の人が飢え死にするような食料の高騰には耐えられる理屈です。食料の値段が上がって世界中で餓死者が続出して世界の人口が半分くらいになってしまたら、きっと食料は余るでしょう。食料の値上がりもそこでお終いです。

物の値段は需用と供給のバランスで決まるというのが大原則です。京都産のマツタケは1本1万円もします。カスピ海のキャビアは1グラム500円位。重さあたりでは、銀より金にずっと近いほど高価です。こんなものを日常的に食べる人は滅多にいないでしょうが、供給もそのわずかな需要に見合った程度しかありません。その値段で需給は釣り合っているのです。

確かに、物の値段が急に上がると、調整には痛みがともないます。気楽に買えたり、使えたりするものが、高値の花になってしまうのです。しかし、高価になれば結局それに見合った需要しかなくなります。昔の日本人は肉を口にすることは贅沢でしたが、今はそんなことはありません。反面多くの「庶民の味」が食卓から消えてしまいました。

材料費の高騰も、需要家に価格転嫁をするまでは、企業の減益になりますが、そのうち値段を上げたり、代替品を開発したりして、落ち着くべき所に落ち着きます。「わが業界は競争が激しく価格転嫁ができない」と嘆く経営者は沢山いますが、問題は材料費の高騰ではなく、競争の激しい業界で差別化もできずにいることです。

材料費の値上がりは皆に平等ですから、長期的には業績に与える影響は中立的です(製品が材料費の値上がり最適化し、材料の節約、代替品との置き換えが進むまでは、マイナスの影響が出る可能性があります)。

物価の値上がりで困る人は、年金生活者のように収入が物価に見合って増えない人々です。昔は、年金も物価で調整してくれていたのですが、最近は物価が落ち着いていることもあり、年金の受け取りは実質減ることはあっても増えることはありません。

いつまでも、低賃金に甘んじていなけれならない派遣社員もつらいのですが、物みな上がる中で人件費が抑えられていると、海外に流出した産業は戻ってきて、その結果賃金も上がるはずです。賃金も需給で決まる物価の一つです。

投機資金は資源の値段を上げるか?

最近の原油価格や天然資源、食料品の高騰の原因の一つに投機資金の流入が挙げられます。サブプライム問題などで冷え込んだ金融市場から、膨大な投機資金が実物市場に流れ込んでいるのです。投機資金の額は、何兆ドルか見当もつかず、思惑で集中的に買い漁りをするので、極端に価格を吊り上げる可能性があります。

しかし、投機資金がいくら短期的に物の値段を大きく動かしても、長期的に需要を増大させることはありません。金やダイヤモンドはまだしも、石油は貯め込んでおくだけで巨額の経費がかかります。まして、食料品は長持ちをするものではありません(日本の商社がマイナス50度の倉庫に海産物を貯め込んだ例がありますが、それでも2年程度が限度です)。買ったものはいつか、それも数カ月の単位で決済する(つまり売る)しかありません。

テレビのコメンテーターの発言を聞いていると、資源を持っている方が売り惜しみで日本を苦しめるのではないか、という心配をよくしています。そんな7並べで、カードを止めるような真似をしても、空売りをかけられると、大変困ったことになります。いくらカードをとめても、パスは3回までしかできないように、売り惜しみをしてもいつかは売らなければならないわけですから、先物市場で空売りをかければよいのです。投機資金(というより先物市場)はむやみに売り惜しみをする輩への対抗手段として機能します。

物の値段を心配しないで、生産性を心配するべき

食料自給率を心配したり(食料自給率の愚参照)、資源を持っていないことを心配する必要は、全くと言っていいほどありません。資源がなくて困るのは、第2次世界大戦のような総力戦で、資源もなしに、資源国に戦いを挑んだ場合です。そんな戦争はこの先ないでしょうし、やれば日本に勝ち目はありません。そんなことは前の大戦で実験済みです。

心配するべきなのは、一人当たりのGDPが世界平均を下回って、食糧が高騰した時に、飢えてしまう側に回ることです。それを防ぐには日本人の生産性を高め、他国との買取競争で値段負けしないようにすることです。食料自給率を上げても意味はありません。農民(人はすべて)は食料を高く買ってくれる人に売るので、自国民だからといって売ってくれるわけではありません。

戦後日本の農民が米を作り続けたのは、政府が国際価格より高い値段で米を買い取ってくれたからです。もし、国際価格が政府の買い取り価格より高くなれば、誰も政府に米を売ろうとはしなかったでしょう。同じように資源ナショナリズムを叫ぶ国も、資源の国有化はしても売り先は高く買ってくれるところです。

国民の生産性を高く維持することこそが、飢えの危機を遠ざける唯一の方法です。どうしてこんな当たり前のことが、当たり前で通らないのでしょうか。ちょっと慨嘆したくなります。

関連記事:
食料自給率の愚 (02/11)
日本は大企業病 (01/21)
ロシアと石油 (07/28)

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マーケティング活動としての聖火リレー妨害
TorchOlympic.jpg


(前の続き)チベット問題をアピールした、北京オリンピックの聖火リレー妨害は,長野では複雑な思いを多くの日本人に残しました。こんなことがなければ、有名人やスポーツ選手の聖火リレーをお祭り気分で眺めていられたのが、興ざめどころか何が起きるかわからないという緊張感で見守ることになってしまったからです。

チベット問題が当事者にとって深刻なのはもちろんなのですが、「平和の祭典」としてオリンピックを楽しむのはいけないことなのでしょうか。チベットで深刻な人権侵害やという事実がある限り、北京オリンピックを楽しむのは、欺瞞的、偽善的な態度なのでしょうか。

その通りと思う人も、「そんな煩いこと言わないでよ」という人もいるでしょう。実際には、中国の強力な公安警察や中国政府の北京オリンピック成功への執念から考えると、北京オリンピック自身は、平穏かつ盛大に行われると考えて間違いありません。

少なくともテレビに映るのは、北京市内でのチベット活動家たちのアピールの場面ではなく、華やかな開会式や白熱した競技ばかりになるはずです。チベット問題を引き起こし、聖火リレーを政治的アピールの場に変えたのは、中国の全体主義ですが、オリンピックを平穏に実行できるのも、同じ全体主義のおかげです。

他のスポーツに目を移すと、純真な高校野球は、裏では金まみれの監督や親、先輩の後輩への暴力、有力選手の野放図なセックスだらけです。相撲の相互扶助的な八百長は今や公然の秘密ですが(八百長相撲は必要悪?)、可愛い娘ぞろいの女子プロゴルフは、意地悪と足の引っ張り合いが横行し、男子プロゴルフにいたっては、理事長選挙をめぐって、暴力団を使った脅迫騒ぎまで起こしています。

オリンピックも今回のような政治的アピールに使われるだけでなく、開催都市決定から始まって、あらゆることに膨大な金がなかば公然と動きます。選手は国民の代表と言いながら、スポンサー第一、ばれなければドーピングはし放題、審判を買収して試合に勝っても、恥じるどころか「名誉を守った」と言って大威張りです。

だからと言って、「高校野球を球児が純真だから素晴らしいというのはバカだ」とか「オリンピックは平和の象徴だと思うのは何もわかっていない」などと言う人がよく物事がわかっているとも言えないでしょう。会社員が「わが社の製品は消費者のためではなく、会社の利益を優先している」と叫ぶのと同じで、正しいかもしれませんが、あまり大人の態度とは言えません。「王様は裸だ」というのは子供が言うからよいので、大人が言ったらただの愚かな無鉄砲です。

というわけで、北京オリンピックが開かれる今年の8月ごろには、聖火リレーの妨害騒ぎはとっくに昔話になり、「ニッポン頑張れ!」とタレントが叫ぶのを、ややうっとうしいと思いつつ、日本人がメダルを取りそうな種目だけは一生懸命見てしまう、というのが平均的日本人だと思われます。

チベット問題があるのに、このような態度は嘆かわしいと思う人もいて、そのような人で行動力があれば、北京オリンピック中に何かアピールをするかもしれません。しかし、テレビで報道されるほどのアピールとなると簡単ではありません。北京での派手なアピールは難しいでしょうから、日本でなら何千人も集めてデモ行進するくらいはしなくてはいけません。

沢山人を集めることができなければ、中国大使館に火炎瓶を投げつけるとか(門の外で抗議するくらいでは、当たり前すぎで普通注目されません)相当過激な行動が必要になります。そう考えると聖火リレーの妨害は、宣伝という意味で非常に費用対効果が高かったといえるでしょう。

宣伝とか、費用対効果などという言葉に抵抗感を持つ人は多いでしょう。チベットの人権弾圧に抗議することとは清涼飲料水を売るのは全く違うことです。しかし、「知ってもらい」「主張を理解してもらい」その結果、できるだけ多くの人に「買ってもらう」か「支援してもらう」かの違いだけだと考えると、どちらもマーケティングを通じて、何か(主張または製品)を売っていくということでは共通しています。

チベットの人権侵害は深刻でしょうが、世界中で一番ひどい問題かというとそうでもないでしょう。たとえば、北朝鮮の人権侵害は程度から考えて、中国政府のチベット人に対するよりものましとは思えません。北朝鮮の政権はならず者みたいかもしれませんが、アフリカ諸国に見られるような、無政府、あるいは本物のならず者による政府と比べればまだましです。少なくとも、政府に逆らわなければ、泥棒や強姦を公然と行うことは防いでくれます。

ならず者が何でも好き勝手をする国では、自分以外は誰も自分を守ってはくれません。ルワンダのように、事実上の無政府状態で部族間の争いのために、百万単位の虐殺が起きました。同じアフリカではエイズで親を失った孤児が大量に捨て置かれて、悲惨な生活を送っています。そんな中、チベット問題は世界中の悲惨な問題の中で、世界に訴えるという点で一歩も二歩も前に出ることに成功しました。

1970年代カンボジアのポルポト政権は自国民の20%以上を殺してしまいました。しかし、当時は世界のほとんどは、そんなことは知りませんでした。「バカは報道されたことしか世の中で起きていないと思い込む」という批判がよくありますが、自分の周りで起きない限り、報道された事実以外はほとんどの人は知りようもありません。知られなければ、決して支援も得られないのです。

企業は製品を売るために莫大な広告宣伝費を使いますが、ほとんどの運動団体はテレビCMを打つことは資金的に不可能です。ですから、いかにして報道機関に報道してもらえるかが重要になります。とくにテレビで報道してもらうとなると、「絵になる」ことがとても重要です。テレビカメラの前で、聖火に水をかけるなどは、映像的にパワーがあって、テレビ受けのとても良いものでしょう。

クジラもここまで、執念深く反対運動が付きまとうのは(それでもクジラ食べますか?)、クジラが「絵になる」ということが多分にあります。日本ではシーシェパードの不法行為が問題にされますが、オーストラリアのテレビのように、クジラがだらだら血を流しながら捕鯨船に引きずりまわされるところを見せつけられると、大抵の人(少なくとも欧米人)は反捕鯨派に賛成してしまいます。

主義主張を製品を売るようにマーケティングをするのは決して悪いことではありません。と言うより、自分自身で何とかするのではなく、他人の支援を得ようとすれば、マーケティング活動は絶対に必要です。そして、私たちには郵便箱のダイレクトメールのように、山ほど色々な主義主張、運動が売り込まれてくることになります。

チベット問題は重要だが、北朝鮮の国民はほっておいてよいのか。そもそも自国民が拉致されているのはどうすればよいのか。アフリカのエイズの孤児は気の毒だし、世界中で10億人以上の人が餓死の危機にさらされているのは黙っているのか。北極の白クマは温暖化で滅亡してしまいそうだし、アマゾンの熱帯雨林の乱開発は心配だ。

ナイキはインドネシアの子供を、スタバは南米のコーヒー農民を搾取している。あんなものを買ったり、飲んだりしてはいけないのではないか。アメリカは国外でテロリストの疑いがあれば平気で拷問し、ロシアは暗殺が当たり前。鳥インフルエンザが人間同士でうつったら、世界で1億人くらい死んでしまうかもしれない。生活保護をうちきられて、餓死する人をほっておいて良いのか。

こういったあまり楽しくもない話の中で、支援してもらい、あわよくば寄付金、政府への働きかけをしてもらいたければ、他に先んじたマーケティングを行わなければ、どんなに深刻な問題も埋もれるどころか、気がついてももらえません。儲け本意の企業のCMでも、もしもなければスーパーマーケットの棚から何を選べばいいか途方に暮れてしまうことを防いでくれてはいるのです。

私たちはあらゆることにコミットしたり、あらゆることを支援したりはできません。どんな問題に、自分の金や時間や、少なくとも関心を注ぐかというのは、当の問題の当事者たちのマーケティング活動にかかっているのです。それにしても、拉致問題で苦しむ人たちは、聖火リレーを通じてアピールすることは思いつかなかったのでしょうか。韓国で脱北者はそうしました。やはり日本人はオリンピックを聖なる平和の祭典と思い込んでいるのでしょうか。それはそんなに悪いことではないでしょうが。


科学は多数決?
このブログ記事の趣旨は全体として今も妥当を考えていますが、地球温暖化に警告を発するIPCCの多数決的な分析手法が問題がないとは言えません。詳しくは「地球温暖化を考える(1):IPCCという官僚機構」をご参照ください。

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ガリレオ・ガリレイ

養老猛が最近のアエラの巻頭文で「地球温暖化キャンペーンの欺瞞」と題して、環境庁の役人が二酸化炭素が地球温暖化の原因だということを「世界の科学者の8割が認めている」と言っていることをとらえて、「科学はいつから多数決になったのだ!」と非難しています。

養老の議論は二酸化炭素を減らしたからといって、温暖化がおさまるということは証明されていないとして、しまいには「そんなに炭酸ガスを減らしたいなら、世界中の石油の元栓を閉めてしまえばいい」と進んでいきます。そんなことはできないので、「地球温暖化キャンペーンの欺瞞」となるわけです。

養老は東大医学部の教授(解剖学)を勤めた偉い先生ですし、「バカの壁」というベストセラーもあって、ある種のオピニオンリーダーですが、最近は「煙草を吸っても死ぬとは限らないので、禁煙はバカバカしい」とか「医者はガン検診は無駄だと思っているから受診しない」など、いささか乱暴な理屈を説く傾向があります。

今回の説もその一つだと思うのですが、「科学は多数決か」という問いかけは、養老が本来は正規の訓練を受けた科学者であったことを考えると、少し突っ込みを入れたくなります。確かに「科学は多数決か」と聞かれれば違うと答えるのが、正解でしょう。

ガリレオ・ガリレイは地動説を捨て去ることをローマ教皇庁に約束させられて「それでも地球は回っている」と言ったと言われています。実際にガリレオがそんなことを言ったかどうかは別にして、世の中の大部分が何を信じていようと、科学的な正しさを否定することはできません。

科学ではなく、道徳や文化ということになると、何が正しいかどうかは絶対的な基準があるわけではなく、どれだけ多数の人がそのことを正しいと思っているかどうかで決まります。絶対的な基準がないので、時代や場所が違えば、正しいことは違ってきます。文化に関しては「郷にいっては郷に従う」のが正しい態度です。さもないと、バカにされたり、場合によっては命をなくしてしまう危険すらあります。

道徳や文化を制度化した法律は、民主主義国家では文字通り「多数決」が正しさの根拠になります。多数決で決まった法律には皆従わなくてはいけません。これに対し科学は「多数がそう思っている」というのは少なくとも「科学的な証明」にはなりません。「親子は似る」と大部分の人が思っていても、その科学的な証明は遺伝子の存在が発見されるまで、できませんでした。

そんな意味合いで言えば、地球が温暖化している原因が二酸化炭素だというのは、DNAがあるから親子は似るというレベルの因果関係は証明できていません。地球は太古の昔から何度も寒冷化や温暖化を繰り返しています。そのサイクルも数か月、数年のものから数億年単位のものまで様々で、原因もよくわかっていません。

過去のことが充分に解明できていないのですから、未来のことを予測するのは困難です。他の条件が全て一定なら、空気中の二酸化炭素が増加すれば、温室効果で地球の気温は上がるでしょうが、二酸化炭素が増加すること自身が色々な条件を変動させてしまうので、そうはいきません。

しかし、世の中で一応正しいとされている理論には、この程度の曖昧さや不確実さを持つものはいくらでもあります。むしろ、物理学のように精密に未来を予測できるような確かさを理論が備えていることは、まれだと言ってもいいくらいです。

その物理学でも、ニュートン力学は相対性理論や量子力学によって根本的には「間違っている」ことになってしまいました。ニュートン力学は長い間正しいと信じられていましたし、正しさや有効性を証明するような現象はいくらでもあったわけですが、間違いは間違いです。

正しいと証明された科学理論といっても、結局はそれらはすべて「まだ間違っていると証明されたことがない仮説」に過ぎません。それではなぜある科学理論は正しいとされ、ある科学理論は間違っているとされてしまうのでしょうか。それは「その部門で多数の科学者が支持する」理論をとりあえず一般には正しいと考えるからです。

理論物理学の世界ではこの20年ほど、超ヒモ理論というものが主流をなしています。今のアメリカの主要大学では、理論物理学の教授になろうとすると超ヒモ理論家であることが、ほとんど条件のようになっています。ところが昔を遡ると超ヒモ理論は、「そんなものに手を染めると理論物理学者としての将来を失う」とまで思われていました。

そこまで、事態が逆転したのは、超ヒモ理論で宇宙の統一理論が作れるのではないかと、多くの理論物理学者たちが信じ始めたためです。しかし、超ヒモ理論は数学的にはエレガントなのですが、どうもエレガント以上のものではないのではないかとも言われています。後20年もすると超ヒモ理論にしがみついていると、大学教授の職を得ることができなくなってしまうかもしれません。いや、何か画期的な理論や実験によって、一夜にして超ヒモ理論はゴミ箱行きになるかもしれません。

科学は多数決ではないとはいえ、科学的な実験手順、論理展開など理論を証明するための方法は厳密に決まっています。その分野の多くの科学者が支持している理論は、それなりに多数の検証を経てきていると考えてよいものです。多数決で理論の正しさを証明することはできなくても、多数が支持しているのにはそれなりの理由があるのです。

地球温暖化にいたる原因、過程は複雑で単純な因果関係で解明するのことはできないでしょう。それでも、地球温暖化によって引き起こされる影響の甚大さを考えると、「完全な証明ができないから何もしない」というのは感心した態度ではありません。因果関係が完全に解明されなくても適度な運動、栄養バランス、規則正しい生活をした方がガンに罹る確率は低そうですし、そうした方がしないより正しいでしょう。

地球温暖化に関しては、政治的プロパガンダ、環境ビジネスでの一獲千金狙いなど、純粋ならざる連中の誇張や、ヒステリックな環境保護派の思い込みなど、捻じ曲げられている部分は多々ありますが、役人が言ったこととはいえ「8割の科学者が二酸化炭素が地球温暖化の原因となっている」から「二酸化炭素と地球温暖化は因果関係があるとみなす」というのは、妥当な見解でしょう。

もちろん、2割は「原因でない」と言っているわけですが、その反対に2割程度は「何をしてももう遅い」と思っているでしょう(こちらの意見はあまり表に出ませんが)。「取りあえずできることからやろう」というのは、温暖化対策が最後は政治と経済の問題にならざる得ない以上仕方がないでしょう。

未来に確定的なことは言えません。確定的なことが言えないので、確率的に考えるしかないのですが、「8割の科学者が言っている」ということと「8割の確率で起きる」というのは全く意味が違います。本当は未来の出来事の確率などわからないことがほとんどです。

ところで星の位置というのは、この世の中には珍しく何年先でも正確に予測できますが、星の位置で運命を占う星占いは、何年先でも占ってくれるのでしょうか。そうなら、地球温暖化も占ってくれるとありがたいのですが。

クジラとチベット問題
ダライ・ラマ
ダライ・ラマ14世

前回の「何を今さらボイコット -チベット問題と北京オリンピック-」でいくつかコメントをいただきました。少し説明不足のところもあるようにも思えるので、補足をしておきたいと思います。

私はチベットの独立運動家たちが聖火リレーの妨害をすることは、「何を今さら」とは思っていません。少なくとも独立運動の当事者のチベット人にとっては、世界から注目をあびる方法で自分たちの主張をアピールするのは、当然と言っても良いでしょう。

多くの日本人は、こんなことでもなければチベット問題のことなど意識の端に上ることなどなかったでしょうし、他の国でもそれほど事情が違うとも思えませんから、政治的アピールとしてはそれなりに有効だったことは間違いありません。アルカイダのようにハイジャックした飛行機をビルに突入させるようなテロ行為と比べれば、極めて穏当な方法と言っても良いかもしれません。しかし、それはチベット独立運動家の話です。

気になるのは欧米の政府高官やリーダーたちの開会式ボイコットの動きです。聖火リレーの妨害と同様にオリンピックを政治的に利用することの是非もありますが、60年も続いてきたチベット問題がなぜ急に国際政治の表舞台にでてきたのでしょうか。

一つには、北京オリンピックという国際的に注目を浴びるイベントを利用して、政治的アピールをしようとしたチベットの独立運動家たちの作戦が功を奏したということはあるでしょう。さらに、政治的アピールの一環としてチベットで起きた抵抗活動へ中国が暴力的な弾圧を加えたということもあるでしょう。しかし、暴力的な弾圧ということだけを取り上げるなら、それは今に始まったことではありません。

チベットを中国が占拠しているやり方は、日本が日中戦争で中国に行ったことと基本的には同じです。相手を独立国としてまったく認めず、国内問題だと言張っているという点ではもっと悪いと言えます。中国が何人くらいチベット人を殺したかはわかりませんが、60年も占領を続けていることを考えると、おそらく人口比では日本が日中戦争で殺した中国人の数より多くても不思議ではありません。

しかし、中国の側から見れば、チベット人の人権を認めるということは、チベットの独立を認めるということとほとんど同義語です。ダライ・ラマ14世は「中国からの独立を求めない」と言っていますが、ダライ・ラマのような宗教的な絶対権威を許してしまうと、共産党という絶対的な権威の否定につながることは確実です。

アメリカでもケネディーが最初のカソリック教徒の大統領になろうとしたとき、「アメリカよりローマ法王に忠誠を誓うようなカソリック教徒をアメリカ大統領にするわけにはいかない」という意見がありました。ケネディーの場合は単なる言がかりだったのでしょうが、チベット人とダライ・ラマとの関係を考えれば、中国が心配するのは当たり前です。

共産主義が、資本主義に対抗するイデオロギーとしての光を失った現在、中国共産党の支配は単なる全体主義的な一党独裁体制に過ぎません。選挙という正当性もないのに、中国人民やチベットなど周辺地域の支配を続けているのですから、その点を問題にしだすと中国という国家そのものの否定になってしまいます。

きわめて本質的で重大なテーマであるのに、ヨーロッパの国々の政府の対応を見ていると、日本がクジラを取るのに反対するのと大して変わらないレベルで抗議をしているように見えます。いやこれは言い過ぎではなく、欧米諸国が日本の捕鯨に反対するのも、中国のチベット問題に抗議するのも、根っこは共通するものがあるように思えます。相手の事情や言い分にあまり注意を払うことなく、自分たちの価値観からアジアの強国の振る舞いが気に入らないと言っているのです。

ついでに言うと、日本が捕鯨反対運動が欧米の価値観を日本に押し付けていて、根底にある種の差別感情があると感じているなら(もうクジラはあきらめましょう)、対抗するには欧米の価値観に対抗する軸を設定するしかありません。それは中国やイスラム諸国と連帯して、キリスト教的価値観を押し付けるなと主張することです。バカバカしいようですが、クジラの問題はそのくらい根深いもの含んでいます。

クジラを取り続ける日本の言い分は「捕鯨は日本の文化であり、科学的にもクジラは減っていない。科学的に根拠のないのに、環境テロみたいな連中の言うことなぞ聞けない」ですし、中国の本音は「国家の崩壊を招いてまで、チベット人の独立や人権を認めるわけにはいかない」ということでしょう。それに対し「そんなこと知ったことか、悪いものは悪い」というのが欧米諸国の考え方です。

チベット問題は簡単な解決などありえません。現在の中国がソ連のように崩壊しない限り、解決はないと断言してもよいでしょう。中国は国際社会の中で、大きな傷を抱えながら生きていかざる得ないでしょう。しかし、中国にそのような大きな傷があることは、アジアの地域の中で日本のために損なことではありません。

尖閣諸島の領有権や、国連の常任理事国入り、あるいは靖国問題など中国と日本が争うタネはいくつもありますが、チベット問題をうまく利用すれば、日本は中国と有利に交渉を進める材料になります。だからこそ、中国はますますチベットの独立運動を抑えざる得ないことにもなるわけですが。(続く


何を今さらボイコット -チベット問題と北京オリンピック-
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イギリスのチャールズ皇太子も開会式出席を取りやめるらしい

チベットの独立運動を中国政府が弾圧していることに抗議して、聖火リレーの妨害が行われています。聖火リレーの妨害のような過激な行動は行わないまでも、開会式の参加を見合わせるという形で、ヨーロッパ諸国の政府も暗黙の抗議をしています。ドイツのメルケル首相は早くから不参加を表明していますし、フランスのサルコジ大統領も出席しないようです。

チベットの独立運動への支持は「人権を守ろう」という主張のもとに行われることが多いようですが、日本の中国批判が「人権派弁護士」を攻撃するような右寄りの勢力からのものが主だったのに、一般的にはリベラルな立場からという点で大きな違いがあるようです。もっとも「人権派、人権屋」と書いている週刊誌が「中国は人権を守らない」と言って攻撃するのは、なかなか興味深いものがあります。

もちろん、中国のチベット独立運動の弾圧は人権無視と非難されてしかるべきものですが、それより何より中国のチベット支配の正統性が問題です。1950年中国は軍をチベットに送り、大規模な虐殺行為を行った挙句、ずっとチベットを中国の一自治区として支配を続けています。当然ですが、チベットのもともとの住民にとれば、中国は侵略者以外の何者でもありません。

逆に人権無視ということを非難しだすと、中国は漢民族にだって人権を大して認めていません。一党独裁で政府批判をうかつにすると逮捕されかねないような状況は本質的には変わっていないのです。一般国民は依然として職業選択と居住の自由は大きく制限されています。

中国がそんな国だというのはある程度知識のある人にはわかりきった話です。チベット問題も60年間続いてきたわけで、全く目新しい問題ではありません。中国が人権を重視しないというのが、突然重大な問題になってきたのでしょうか。

チベットの独立運動家や人権擁護を訴える人たちが、北京オリンピックや聖火リレーという耳目を引く機会を利用しようというのは当然でしょう。しかし、ヨーロッパ諸国の首脳達が、今頃になって北京オリンピックの開会式出席を見合わせて、チベット問題に抗議するというのはどういうものなのでしょうか。北京がオリンピック開催都市に決まったのは2001年ですが、そのときもチベット問題も、中国の人権弾圧も今と同じように存在していたのです。

1980年のモスクワオリンピックをアメリカや日本など西側諸国は、ソ連のアフガニスタン侵攻に抗議してボイコットしました。ボイコットの是非は別にして、ソ連のアフガニスタン振興は、ベトナム戦終了後、デタントとよばれた平和の機運が高まった1970年代の後に起きたもので、当時のカーター米大統領が「一夜にしてソ連への認識を変えた」と言ったように、西側諸国を驚かせたものでした。チベット問題とは性質がずいぶん違います。

中国のチベット支配は不当そのものです。しかし、ロシアのチェチェン問題などと比べても、チベットの独立を認めることは中国には困難でしょう。チベット人の人権を認めることも、中国一般国民の人権軽視を改める、ひいては共産党の一党独裁を止めない限りできそうにはありません。繰り返しますが、こんなことはわかりきった話です。

それをなぜ今さら開会式に出ないとか皆言い出したのでしょうか。いかに人権問題が根底にあるにしても、ついこの間まで北京オリンピック開催を祝っていたことを考えれば、軽薄で首尾一貫しない態度です。中国政府への嫌がらせとしてはなかなかなものですが、こんなことでチベット問題がそれほど良い方向に向かうとも思えません。だいたいオリンピックが終わったらどうするのでしょうか、チベット問題も忘れられてしまうのでしょうか。(続き