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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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「国益」を考えない日本の対外援助
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ODA(政府開発援助)は先進工業国が開発途上国へ行う援助や出資のことで、日本の拠出額は2007年度で7,800億円です。この金額はアメリカ、ドイツ、フランス、イギリスに次いで5位ですが、GDP比率では非常に低い水準です。

かつては世界一のODA出資国だった日本は、政府財政が逼迫する中で2000年以降は毎年ODA予算を削減しています。対外援助が減ることは、ただでさえ霞がちな日本の世界でのプレゼンスをますます小さくしてしまうのですが、国民のODAに対する見かたは決して暖かいものではありません。

「海外援助なんて現地の政治家や役人の懐に入るだけだろう」「ダメな国に金を与えたって無駄遣いするだけだ」「別に援助してくれたからとって日本を感謝しないだろう」という意見が強いのです。

あまり論理的とは言えない「食流自給率が低い」という農水省のPR(食料自給率の愚)は、かなりの成功を収めているのに、対外援助の減額はよく取り上げられる話題ではありません。

輸入制限で締め付けて国際価格の5倍の値段のバターを国民に無理矢理買わせた挙句、国産生乳の生産が減少してバターが足りなくなったのを「食料自給率が低いからだ」と開き直るのと比べれば、1兆円にも満たないODA予算を無駄だと言うのは、安全保障上もおかしいと思っても良さそうなものなのですが、そうはなりません。

多分最大の原因は、ODAの意義が地球の平和だとか、飢えている子供を救うとかいう、高邁ですが、ある意味きれいごとの建前以上には語られいないことがあるでしょう。

外務省の外郭団体でODAの執行機関であるJICA(独立法人国際協力機構)の緒方貞子理事長の言をJICAのホームページから引用すると「日本も国際社会の一員として、世界の国々と協調しながら解決の道を模索していかねばならないのです。 日本にとって、ODA(政府開発援助)は、国際貢献の主要な手段です。」ということになるのですが、世の中には「国際貢献」なんかより、バターの値段を気にする人のほうが多いのです。

ODAのPRの資料をずいぶん読んだのですが、日本の援助で現地の人が喜んだという話や写真は延々と紹介されるのですが、ODAが日本の資源確保や地位の向上に役立ったという話は出てきません。

これでは製品の技術的優秀性ばかりを言い立てて、顧客にとってどのような価値があるかを説明できない、ダメな営業マンと同じです。感心はしてもらえるかもしれませんが、買ってはもらえないのです。

「そんな営業マンみたいなことができるか、対外援助はもっと高い理想のもとにするもので、目先の利益を追いかけるようでは国際貢献なんかできないんだ」と言うのもわからないのではないのですが、ODAはれっきとした税金から支払われています。宗教団体の寄付金とは違うのです。

確かに、世の中には宇宙ロケットや、遺跡の修復のように直接国民生活の利益にならなくても税金であがなわれるものは沢山あります。防衛費も戦争しない限り、本当に意味があるのかは不確かなのですが、一方的に減額しようという意見は、そんなにはありません。

しかし、ODA予算に限って言えば、ピークだった1997年の1兆1千億円から2007年には7千億円へと40% 近く減少しています。高邁な理想に対する支出は、懐が寂しくなると真っ先に減らされてしまうのです。

日本国民の意識が低いと嘆くのもよいのですが、もしODA予算が減らされるのは日本国家にとって良くないことなのだと思うのなら、やり手の営業マンのように顧客価値、つまり日本国民にとっての価値をもっと訴える必要があります。

被援助国に出向いて活動を続けている日本人は、現地の人の幸せを何よりも考えて献身的に働く必要があるでしょう。そうでなくては困ります。しかし、外務省やJICAなどで対外援助の政策を立案する人たちは、日本の国益に対外援助がどのような役に立つのかの説明責任があるはずなのですが、どうもそのような意識は希薄なようです。

そもそも一つ一つの対外援助が具体的にどのように日本の国益と結びついているか、きちんと考えているか疑問です。皮肉に言えば外務官僚が外交の舞台で大きな顔をするために、ODA予算が大きいほうが良いと思っているだけのようです。

外務官僚に対しては「国益を考えていない」という批判がよく聞かれます。批判は「とにかく日本の主張を強く言い立てて、絶対妥協するな」というものが多いのですが、この場合の国益を考えてないというのは、対外援助と日本国民の利益が論理的に結びけられていないということです。

もちろん、対外援助は息の長い政策です。大局的に考えれば、低開発国がより豊かになることは日本の経済にも安全保障にも有益でしょう。しかし、10年で4割予算を減らされたら、とにもかくにも一般の日本人が納得できるロジックを考えるべきです。少なくともまともな営業マンならそうします。

考えてみると役人は、対外援助だけでなく、公共投資も社会福祉も国民の利益にどう結びつくかを深く考えずに、予算枠の確保を優先しているだけのようです。政治家の選挙にはあまり役立たず、圧力団体も弱体のODA予算がひとり割りを食っただけなのかもしれません。

しかし、長期的であろうと短期的であろうと、税金の使い道は全て国民の利益に役立つものでなくてはいけません。「国際貢献」がなぜ必要なのか、本気になれば説明する方法はいくらでもあるはずです。もし、実はそんなことは考えたことがないのなら、そろそろ考えてみたらどうでしょうか。
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宅配便の電気自動車の駐車違反免除を
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ガソリンの値段が上がって電気自動車(EV:Electric Vehicle)の普及が現実的なものとして取り上げられるようになってきました。しかし、EVの普及最大の障害は依然としてコストです。現代の産業やインフラはガソリン自動車に最適化されていて、EVがそれをくつがえすのは容易ではないのです(EVはトヨタ王国を崩壊させるか)。

現在のEVは最高速度が時速300キロを超えるものさえあり、スピードはガソリン自動車と遜色ないどころか、上回るものもあるのですが、一度に走れる距離は100キロメートル程度です。電池の性能がネックになっているのです。

電池がネックになっているのは走行できる距離だけではありません。価格は同程度の出力のガソリンエンジンと比べると、電池とモーターの合計で3倍ほどにもなります。価格差で約100万円で、200万円前後の中級車では決定的と言えます。

価格差が生じる最大の原因は、EVがガソリン自動車と比べて圧倒的に生産量が少ないことにあります。潜在的な優位性があっても、後発技術がすでに量産化の確立した技術に追い付くのは簡単ではありません。液晶がブラウン管を追い抜くには40年以上かかっています。

それでも、液晶は電卓の小型表示装置や、高価なコンピューターのディスプレイとして、競争力を持てるニッチ市場を見つけることができました。EVがいずれガソリン自動車を置き換える日が来るとしても、そのようなきっかけとなるニッチがなくては、長い時間がかかってしまうでしょう。EVを地球温暖化防止の切り札の一つと考えるのなら(地球温暖化を止めるには)あまり悠長なことも言っていられません。

EVに最適なニッチとして考えられるものの一つに宅配便の自動車があります。宅配便は一日当たりの走行距離は40キロメートル程度です。現在の電池の性能でも2日に一度の充電で十分です。速度も宅配便の運転手は厳格に交通規則を守りますから、時速100キロも必要ありません。

それでも価格は問題になるでしょう。そこでEVの宅配用自動車に限り15分まで駐車違反を免除にするのです。これならEV普及のための補助金に税金を使う必要もありません。交通渋滞も宅配便が15分程度駐車するからといって、それほど悪化することもないでしょう。宅配便のなかには駐車違反にならないように、わざわざ助手席に人を乗せておく場合もあります。駐車違反にはなりませんが、交通渋滞という点では同じことです。

宅配業者からすれば、駐車違反になったり、駐車場、助手の乗車などのコストを負担することを考えれば、大きなメリットになります。100万円程度の価格差ならそれだけでも、お釣りがくるくらいかもしれせん(ちょっと大袈裟ですが)。それでなくても走行距離を考えると燃料費は年間20-30万円程度は安くなるはずです。

EVはエネルギー効率が高く、二酸化炭素の発生量はガソリン自動車よりずっと小さいので、宅配業者のイメージアップの点でもメリットは大きいでしょう。宅配便に限らず、コンビニの頻雑な在庫補給など、都市内の物品の輸送はEVでカバーできるものは多いはずです。高速道路を150キロで疾走するような怪物を、EVで置き換えることは現実的な選択です。形を標準化すれば、駐車スペースも能率的に設計できます。

原油価格の上昇は石油資源のない日本にとって大きな痛手であることは間違いありませんが、優秀な技術を持つ自動車メーカー、電気、電池メーカーがあります。それと日本的な宅配便、コンビニなどのきめ細かな配送システム、さらに高密度で駐車スペースもろくにない大都市をうまく結びつければ、世界のEV普及にリーダーシップを取ることができます。どうでしょうか。

竹島: やっぱり韓国も変だよ
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韓国は竹島原理主義

前回の竹島問題へのブログでは「韓国に肩入れしている」とずいぶん批判されました。批判されるのは構わないのですが、別に韓国に味方するつもりもないので、韓国側の問題も改めて指摘しておきます。

何度も書いているように、竹島は位置が日韓のほとんど中間の無人島で客観的に日韓どちらの領土にあるか判断するのは困難です。日韓双方は古文書を持ち出して歴史的に自国領と主張していますが、昔の国境、領土の認識を現在に引きなおすのは必ずしも適当ではありません。 竹島が日韓どちらかの「固有の領土」であったと言うのは、「固有」の拡大解釈でしょう。

ところが韓国(乱暴な言い方ですが、竹島については韓国国民を一つにしてしまってもよいでしょう)は、竹島が韓国領であるのは、太陽が東から昇る程度に自明のことと思っています。太陽が西から昇ると言うのは、狂人しかいませんから、日本人が竹島は自国領と主張するのは日本が、どんな無茶も主張するどうしようもない連中だからということになります。

竹島が自国領で、それと反対のことを言う相手を悪人呼ばわりする傾向は、日本人の側にもあるのですが、韓国人の反応はある種の偏狭な原理主義、つまり自分の信念を絶対化して、それに反する存在を徹底的に攻撃するという段階に達しています。

韓国では竹島の領有権を日本が主張していることを、「日本の右傾化」の表れとも言っています。教科書に竹島の記述を入れようというのは、最近の日本の右寄りの勢力の影響があると思われますが、韓国があえて右傾化を口にするのは、「まともで正気な日本人は竹島が日本領土などと思うはずがなく、竹島の領有権を強弁するのは、狂信的な右派勢力の連中に違いない」という気持ちがあるからです。

韓国がそのように見ていることは、竹島問題が日韓の全面的対立になるのを防ぐのにある程度の助けになっているのかもしれませんが、一部の狂信的な侵略主義者の日本人だけが竹島を自国領と信じているというのは、もちろん間違っています。

日韓併合へと続く一連の日本の朝鮮侵略で、日本が朝鮮を軍事的に支配して黙らせていなければ、日本が一方的に竹島の領有を国際社会に認めさせることはできなかっただろうというのは、おそらく正しいでしょう。だからと言って、それが竹島が固有の韓国領だという証明になるわけではありません。

韓国の竹島領有権の主張には、日本に占領されたとことに対する悔しさと怨念が根底にあることは確かです。しかし、「竹島を韓国領と認めない日本人は、それだけで侵略主義の大悪人」という観点で、全てを断じようとする韓国の態度は誉められたものではありません。極めて危険と言っても構いません。

今回日本が竹島の領有権を教科書に記述しようとしているのに対応して、韓国の与党ハンナラ党の幹部が「対馬は韓国領だと主張しよう」と言い出しました。これは突然降って湧いた話ではなく、韓国ではそのように主張する人はいましたし、それを報道するメディアも「一つの考え方」程度の妥当性を認めています。

言うまでもありませんが、対馬の住民は日本語を話し、日本人と自己認識しています。対馬を韓国領にしようとすると、強引に軍事的に占拠するしかないでしょう。

韓国の対馬韓国領土説を唱える人たちは、朝鮮が対馬を占領していたことががあるとか(それも500年以上前です)、対馬人は血液の抗体が朝鮮半島の人々と共通であることなどを持ち出しているのですが、その理論だとモンゴルが韓国を自国の領土だと言っても良いことになってしまいます(かつてのモンゴル帝国は朝鮮半島を一部としていました)。

対馬韓国領説をどの程度韓国国民が支持しているかわかりませんが、本気で信じていているなら、国際的な常識ではそれこそ正気をなくしていると言えます。韓国の竹島韓国領説は、主張だけ聞けば原理主義も過激派の方に属すると言えます。

原理主義者と正面衝突は危険

日本はどうすればよいのでしょうか。「相手が盲目的に領有権を主張するのだから、こちらも主張するべきところはとことん主張すべきだ」というのは、チキンレースで相手がハンドルを切るまで相手の車に爆走を続けるのと同じでしょう。この場合韓国側のハンドルはほとんど固定されていて、誰もハンドルを切れない状況です。

本当は竹島領有を放棄する代わりに、竹島周辺のEEZ(排他的経済水域)での漁業権や資源(そんなものがあるかどうかは知りませんが)の共同利用をするというのが、日韓にとって一番得策なのですが、とてもそんな妥協は成立しそうにありません。

相手はハンドルが切れず、かと言って自分がハンドルを切る(公式に竹島の領有権の主張を取り下げる)のは不本意だというのなら、とりあえず車を驀進させるのを止めるしかないでしょう。

敵にだんだん似てくるというのは、ビジネスでも国家間でもよくあることです。アメリカはイスラム原理主義者と対峙しているうちに、捕虜の拷問(アメリカはテロリストは捕虜ではないとして、ジュネーブ条約違反ではないと言っていますが)、主権国家の主権の無視や国民の虐殺など、敵方より被害の規模ではよほどひどい状況を作り出しています。

日本は韓国の竹島原理主義に原理主義で応えるべきではありません。自信を持って言いますが、それは国益にも地球平和にも反します。

幸い、韓国も口では激しいものの、行動は比較的穏やかです。対馬に軍隊を上陸させるようなこともないでしょう。日本が何もしなければ、振り上げた拳は宙を切るだけです。

2台の車が相手に向かって疾走して、先にハンドルを切った方をチキン(臆病者)と言って嘲笑するというチキンゲームは、1950年代にアメリカの高校生が始めたと言われています。大人でそんなバカなことする人は普通はいません。

それでもチキンレースをやりたいというなら、免許も車も取り上げた方が良いでしょう。もちろん、私はチキンゲームの車に同乗させられるなどまっぴらごめんです。

ふたたび竹島
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フォークランド紛争の犠牲は大きかった

口調は厳しいが激越ではない韓国の反応

日本政府は14日、竹島の領有権が日本にあるとした中学校社会科の新学習指導要領解説書を公表ました。竹島は日韓どちらもが自国の領土であると主張しており、現在は武装警察を常駐させ、レーダー施設などを建設した韓国が1952年以来の占拠を続けています。

これに対し、韓国政府は厳重な抗議を行い、駐日大使の事実上の召還(実際は一時帰国)を行うことになりました。また国会議員などがヘリコプターで急遽竹島に赴き、竹島が韓国領土であることのアピールを行っています。今回の一連の反応には一般国民の反日活動もあり、運動団体の一部が日章旗を燃やす様子も報道されています。

しかし、全体として韓国の対応を注意深く見ると、言葉は激しいものの、むしろ実質的な対応策としては緩やかなものであることが印象的です。日本国旗を燃やす様子も「お約束」の映像ですが、参加している人はいかにも少なく、BSE問題で10万人が参加した言われるキャンドルデモとは比べようもありません。

もし、韓国が日本に対し本気で抗議を行うとすると、航空機の飛行制限による人的交流の縮小や、貿易の一部停止などができないわけではありません。それでは韓国経済に対し影響があり過ぎるというなら、竹島周辺に韓国海軍の艦艇を集結させることなどはできなくはありません。

今回の日本の新しい「教科書問題」に対しては、政府は一定のポーズは取るもののそれ以上実質的な動きは行わないというのが、韓国側の方針なのでしょう。世論も日本大使館に数万人が押しかけるようなヒートアップはしていません。一部にはBSE牛肉の輸入問題で分裂した韓国を一つにする力になることを期待する向きも韓国にはあるようですが、その程度の影響力もないようです。

韓国の竹島に対する認識に変化はないが

だからと言って前のブログ記事で書いたように、韓国民はほぼ100%が竹島は韓国領土であると信じ込んでいる状況が変わったとは、とても思えません。韓国人から見ると完全な韓国領土の竹島を「自国領」と主張し、あまつさえ子供に教え込もうというのは長期的な日本の領土拡張の野望の表れということになってしまいます。

もちろん、逆の見かたは日本側にもあって、韓国は戦後のどさくさに竹島を占領して日本が大人しいのをいいことに、不当占拠を続けるとんでもない国だということになります、声高な主張は、言っていることが正しいからではなく、居丈高で図々しいからだということにもなります。竹島は日本領土であると信じていれば、そう思うのは自然でしょう。

ただ、全体としてみると、竹島の占拠により「実効支配」続けている韓国がスタンスをあまり変化させていないのに対し、日本が1990年ごろから竹島の領有に対する明確な意志の表明を強めてきたという韓国側の見かたは当たっているでしょう。

韓国人の多くは日本が領土拡張に非常に長期的なビジョンと戦略性を持っており、竹島がその象徴的な存在だと考えています。これは日章旗を公園で燃やして気勢をあげるような人々だけでなく、マスコミや知識人にも共通したものです。

日本が軍国主義化して再び領土拡張をしようとしているというのは、冷戦時代のソ連、中国の主張でしたし、日本でも社会党(現在の社民党)や共産党は同様の文脈で自衛隊批判を行っていました。忘れた人も多いでしょうが、社会党などは成田空港は軍事空港化するといって、滑走路予定地に妨害のための土地購入を党首以下率先して行っていたのです。

冷戦時代の社会党は「北朝鮮は拉致などするはずがない」とも言っていたのですが、そのようなピントのずれ方から比べれば、韓国が次第に右傾化を強める日本を警戒するというのは、はるかにまっとうな考え方だと言えます。日本の国会議員の中には、「韓国に日本の力を見せつけろ」とまで言う人がいるわけですから、日本に対し韓国が潜在的以上の危機感を持つのは国際的な常識から考えても普通のことでしょう。

戦争するまでバカだと気づかない

竹島が日韓どちらの領土かということを科学的な厳密さで決めることなどできっこありません。日韓の主張はそれぞれ一定の妥当性があり、第三者から見ると「当人同士で話し合って決めてよ」という類の話です。当人同士で決めることも当面不可能なようですから、今の状況が続くことは間違いありません。

竹島のような経済的、軍事的に全く無価値な島(EEZ:排他的経済的水域を考えてもです)で日韓が揉めるのは、バカとしか言いようがない話なのですが、歴史上はこの程度の問題で戦争になることはいくらもありました。戦争をしてしまうと双方血を流すために、ますます領土に対する執着心が高まり、戦争が繰り返される結果にもなりました。

とことん戦争して、あまりに大きな犠牲を払うと、最後には領土に執着したのはバカだったと多くの国民は気づきます。フランスとドイツの国境にあるアルザスロレーヌ地方は「最後の授業」で有名ですが、フランスとドイツの間で領有権が何度も移り、現在はフランス領です。今ドイツ政府は「アルザスロレーヌはドイツ固有の領土」などと主張していませんし、国民も関心はありません。しかし、そこにいたるまでには二つの世界大戦で何百万人も死ぬ必要がありました。

1982年にイギリスとアルゼンチンの間で、フォークランド諸島の領有権をめぐって起きた、フォークランド紛争は、何百万人も死ぬようなことはありませんでしたが、多大な損害は発生しました。イギリスとアルゼンチンの戦費を合わせれば、フォークランドの島民全員を百万長者にできるほどで、多数の艦艇が沈み、戦死者も数千人におよびました。

フォークランド紛争では破れたアルゼンチンでは、軍事政権が崩壊し、軍隊も半分に縮小されてしまいました。熱狂的な支持を得て始まったフォークランド紛争でしたが、何のために戦ったか、敗れたアルゼンチン国民はわからなくなってしまったのでしょう。ただし、戦勝国側のイギリスは不人気なサッチャー政権は息を吹き返して、その後の長期政権の土台となります。バカバカしさに気づくほどには、犠牲は大きくなかったわけです。

竹島も日韓がこの問題で衝突して大きな犠牲を出せば、最後は両国民ともバカバカしさに気づくでしょう。どの程度犠牲を出せばそうなるかわかりません。双方数千人の戦死者かもしれませんし、都市を攻撃しあって数十万人が死なないとダメかもしれません。とにかくとことんやり合えば、竹島なぞくれるといっても欲しくないという心境になるでしょう。何しろもらったところで何の価値もないわけです。

でもどうして教科書なのか?

いまのところ、日韓双方とも対応は冷静です。韓国への配慮を口にする日本政府。表面的な抗議以上のことをしない韓国政府。大して関心を示さない一般世論。事態が加速度的に悪くなっているという印象はありません(多分)。

しかし、疑問なのはなぜ教科書に竹島が自国領であることを改めて記載しなければいけないかということです。確かに、自分の国がどのような地域からできているかを教えなければ地理の授業は成立しないでしょう。しかし、竹島が「科学的」に日本領土であるというのは無理があります。「日韓両国が領有権を主張しているが、韓国が武力で占拠を続けている」と記述するにしても、試験で「竹島は日本領土である」に○をつけないと点数はもらえないのでしょうか。これは「愛国心」のように、セックスとおなじくらい本能に根ざした感情を学校で教えようとする以上に問題です。不必要というより危険だからです。

「日本国が竹島の領有を主張している」と教えるのも良いでしょう。しかし、「正しいのは竹島が日本領土であるということ」と学校で教えるとなると、おかしなことになります。「正しい」ことを理解できない韓国人(100%竹島は韓国固有の領土と信じています)はバカかとてつもない悪人ということにならざるえません。少なくとも理屈の上ではそうなりますし、教わった生徒の多くもそう思うでしょう。

竹島は韓国人より強く日本人が領有を信じ込むようになったからと言って、領有権を確立できるような代物ではありません。日本が実質的に竹島を獲得には、日本人と韓国人の血を莫大に流す必要があります。そんなことを恐れるような国民は侮られるというなら、侮れれるほうがよほどましでしょう。ちなみにアルゼンチンはフォークランド紛争の敗北後国際社会から相当にバカ扱いされました。 (もちろん韓国も悪い:続く

体罰で学校は良くなりますか?
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体罰を認める「愛のげんこつ条例」

宮崎県の東国原知事が学校での体罰を認める「愛のげんこつ条例」を作っても良いのではと発言して、体罰は是か非かという議論が少し盛り上がりました。もっとも、当の「愛のゲンコツ条例」自身は周囲の反対が多く、東国原知事はあきらめるようです。体罰に賛成する人は少なくないのですが、体罰は認めるべきなのでしょうか。

案外知られていないのですが、学校での体罰は昭和22年に出された学校教育法の11条で「校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。」として、はっきり禁止されています。もっとも学校での体罰がほとんど行われなくなったのは、日本では比較的最近のことです。学校教育法施行後も体罰は一般に行われていました。

学校教育法を持ち出さなくても、体罰で怪我をさせれば傷害罪になりますし、民事上の損害賠償の対象になります。もし「愛のげんこつ条例」を本当に作るとすると、どのような体罰なら許されるかを明文化する必要があるでしょう。「そんなの常識で判断することだ」と突っぱねてしまうと、現場は判断できずに大混乱に陥ってしまうに違いありません。 もともと「常識」で判断できるのなら条例など必要ないのです。

現場からは、「げんこつ」はいいのか、物を使ったらダメなのか、体罰を加える身体の部位はどこなら許されるのか、そもそもどんな状況、条件のもとで体罰が許されるかなどあらゆる問い合わせが来るでしょう。そんな質問に一々答えることはできっこありません。

一方、教員側に体罰に対して幅広い裁量権を与える問題もあります。教員の中には粗暴な性格だったり、興奮しやすい人もいるので、感情にまかせて鼓膜を破ったり、歯を折ってしまってしまうこともありえます。体罰を許すとなると、そのような教員の暴走をどのようにチェックするかも考えておかなければなりません。

東国原知事は「げんこつ」がいけないのなら、「愛のでこピン条例」「愛のしっぺ条例」ではどうかとも言っているのですが、それでは「げんこつ」は絶対的にダメなのかということにもなりそうです。 体罰をある範囲で容認しようという趣旨が、逆に体罰を厳格に制限することにもなってしまいます。

体罰は必要なのか

どのような時に、どのような体罰が許されるのかということを突き詰めると、体罰はなぜ必要なのかということになります。体罰が社会的にも認められるとすれば、生徒は学校の秩序を乱すことがあり、それに対し一定の罰を加えるのは、秩序を守るということと、教育として有効だと考えるからです。

このような考えは根拠がないわけではありません。体罰が普通に行われていた時代でも、やたら殴りまくる教師の授業は静かで、口でしか注意をしない教師の授業は騒がしいことが多かったということはありました。整然と授業を行うために体罰は有効だったわけです。

授業が静かなだけでなく、それ以外の学校の秩序の維持という点でも昔のほうが学校の権威は大きく、生徒が文句を言ったり、父兄が口を挟むことはずっと少なかったのは事実です。たとえば、最近よく言われるようなモンスターペアレントのような存在は滅多にありませんでした。

「いじめ」も大きな原因の一つは、学校の秩序が弱まったために、「いじめる」という面白い行為をみんな勝手にするようになったためだと思われます。残念ですが人は他人をいじめるのが大好きで、欲望のまま行動させると、想像もつかないほどひどい「いじめ」をするようになるのです。現在の学校での「いじめ」の蔓延は、性的な欲望を抑えつけずに婦女暴行が平然と行われているのと大した違いはありません。

面白おかしく取り上げられるモスターペアレントの話のどこまで本当なのかわかりませんが、学校側の権威が確立していれば、自分の子供を特別扱いして欲しいという欲望が表面化することはほとんどないはずです。

それでは学校の秩序回復に体罰は有効なのでしょうか。学校の権威が低下したのは、時代的背景が大きく体罰がなくなったからではありません。高等教育が普及して、教員だからと言って尊敬されることはなくなってきた。世の中全体として、権威主義的な支配に対する反発が強まってきたなどが、学校の権威が失われてきた理由で、体罰がなくなってきたのは、むしろ一つの結果に過ぎません。

学校が権威を失墜させたのは問題なのですが、権威の失墜の全てが悪いというわけではありません。有力者の子弟に対するあからさまなエコ贔屓など、モスターペアレントでなくても怒りたくなるようなことがあっても、昔は父兄から声があがることは、ほとんどありませんでした。正確な統計はありませんが、校内の怪我や死亡などの事故も表沙汰になることはずっと少なかったと思われます。学校の権威の下で、色々不明瞭なことが覆い隠されていたのです。

体罰自身の効果も静かな授業など秩序を維持する上の効果はあったでしょうが、当然行き過ぎもありました。感情にまかせて恣意的に体罰を加えたり(そのような場合の対象はめぐまれない家庭環境の子が多かったりしたのですが)、自分に都合の悪いことを誤魔化すために殴ったりすることもありました。単なる趣味としか思えないような体罰もありました。

体罰が最近になって認められなくなってきたのは日本だけではありません。アメリカやヨーロッパ諸国でも、195年代、60年代くらいまで学校での体罰はむしろ一般的だったのですが、近年はほとんど見られなくなってきました。家庭内暴力がDVとして犯罪と見なされるようになってきたように、暴力に対し世の中がより神経を尖らせる傾向になってきたのです。

今の時代は、学校で体罰を積極的な教育手法や秩序維持の手段として使うことを許すような状況ではないでしょう。仮に体罰を行うとすると、それこそ「愛のげんこつ条例」のようなもので、「これは許されている」と明示されているものを行うことになってしまうでしょう。 それでは意味がないことは前に書いたとおりです。

学校の秩序をどう回復するか

いじめの蔓延、モンスターペアレントのように自分の主張だけ押し通そうとする親、それに小学校の低学年からみられる授業の実施が不可能になってしまう学級崩壊。このような最近の現象は体罰がなくなったからというより、学校という集団生活を行う組織体が組織の秩序を維持する方法を失ってしまったからです。

学校が教育機関として有効に機能するために、一定の秩序が必要なのは当然でしょう。しかしそれは簡単ではありません。アメリカの高校では銃を携帯した警備員が昼間から常駐していたりするのですが、これは銃が必要になるような凶悪事件に対応するためで(これも驚きですが)、静かな授業を行う助けにはなりません。

学校に昔のような権威を回復させることは可能でしょうか。東京などでは、私立の学校に子供を入学させたがる親が多いのですが、慶応幼稚舎(小学校)のように入学させること自体がモンスター的な頑張りを要求する学校では、学校に文句ばかりつけるモンスターペアレントは存在しません。そんな行動に出ればたちまち退学になってしまいます。退学させられるという一種の暴力装置が学校に権威を与えているのです。

退学させるという選択肢のある私立学校はいじめも、それほど徹底的にはなりにくい傾向があります。「面白い」という欲望が無制限に発揮されることを学校の権威が抑制しているのです。このような学校でも体罰を普通に行っているわけではありません、入学が難しい、言葉を替えると退学された場合のコストが大きい学校は、秩序を維持するのはそれほど難しくないのでうす。

高校までが事実上の義務教育化している日本で、退学という暴力装置を持たない一般の学校は、どのようにすれば権威を保てるでしょうか。そもそも退学させても、義務教育期間中はどこかの学校がその子を引き受けるわけですから、社会全体として本当は問題は解決していてはません。

理想的にはPTAが学校と父兄の間で、公平で合理的な判断を行って、親や生徒の個人的なわがままや、教員の暴走をチェックできれば良いのでしょうが、現在のPTAはそんな存在ではありません。PTAの役員になることは、ほとんどの人は避けたがるのですから、とても面倒なことはできません。

学校での種々の問題を解決する第三者機関を作り、裁判員制度のように一般から委員を有給で採用する方法もあるかもしれません。そこで「学芸会で自分の子供の出番が少ない」と文句を言う親に、「あなたの不満は学校の運営に対する不当な介入です」とはねつけたり、いじめをする子供に「いじめをやめない場合は、転向させます」と叱るのです。もちろん、暴力を使ったり、幼児性愛の傾向のある教員は退職を含む、懲戒措置を行えるようにします。

そのような機関を作ろうとすると「愛のげんこつ条例」どころではない反発が起こるでしょう。具体的な運営もとても簡単とは思えません。しかし、体罰が必要だと思える現在の学校の状況を解決しようとすれば、相当の覚悟が必要なのです。体罰を認めれば子供がもっとまともに育つのでは、と考えるのはあまりに粗雑な発想です。すぐに引っ込めるという運動神経の良さは認めざる得ませんが・・。