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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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LPGAが英語義務化
このブログを書いて1週間もしないうちに、LPGAは方針を転換し、「英語のできない罰則としてツアー衆生資格を奪う」ことは止めることにしたようです(英語ですが興味があれば)。

8月26日に発表された英語義務化の方針ですが、世間から集中砲火を浴びて(LPGAに言わせると「多方面から貴重なるご意見をたまわり」となっていますが)、さすがに引っ込めたということのようです。何はともあれ、来年も宮里藍も上田桃子も安心してアメリカでプレーできそうです。


宮里
宮里藍もプレーできなくなる?

韓国人選手がターゲット

ゴルフに興味のない人でも、宮里藍が女子プロゴルファーだということは知っていると思います。宮里藍は現在アメリカに拠点にしてプレーをしていますが、アメリカの女子プロゴルフを組織運営しているのがLPGA(Ladies Professional Golf Association)です。

そのLPGAが去る8月25日、来年(2009年)末から、LPGAで2年以上ツアーに参加している選手に英語の会話試験を行い、落第するとツアーの出場権を失うと発表しました。

背景には(もちろんLPGAは否定していますが)韓国人選手のLPGAへの大量進出があるのは間違いありません。現在LPGAのトーナメントツアーにはは26カ国から121人の外国人プレーヤーが参加していますが、そのうち45人は韓国人です。

最近では大きな大会で決勝進出をする韓国人はアメリカ人選手とほとんど同数に程度になっています。メイジャーを含め大会で優勝する選手も多く、数だけでなく実力的にもアメリカ人を上回るような勢いです。

LPGAで韓国人が活躍するようになったのは、比較的最近のことです。朴セリという選手がプロ入り3年目の1998年にマクドナルドチャンピオンシップで初勝利をメイジャー大会で飾り、さらに全米女子プロ、全米女子オープンで優勝し話題をさらいました。その後朴セリを皮切りに次から次へと韓国人選手がLPGAで活躍をはじめ、現在に至っています・

なぜ、日本よりずっとゴルフ場もゴルフ人口も少ない韓国から、そんなに大勢のそれも女子プロゴルファーが輩出するか不思議と言っても良いのですが、今や家族ぐるみでアメリカに移り、娘をLPGAで活躍させようとしている韓国人が多数います。

朴セリなどは立派な英語を話すのですが、韓国人選手が増えるにつれ、英語ができなくても活動できるサポート体制が整ってきました。今LPGAで活躍している韓国人選手の多くが、それほど英語が得意でないようです。

LPGAの言い分は、LPGAのプレーヤーはプレーだけでなくファンに対し、きちんとコミュニケーションを行える能力が必要だというものです。LPGAは様々なファンサービスを行っていて、プロアマ戦といって、プロと素人が一緒にプレーするようなものもあります。

英語ができないとプロアマ戦に参加しているアマチュア(その多くはスポンサーだったりするのですが)が十分に満足できないというのは、同意せざる得ないでしょう。少なくともLPGAには「外国人差別をしていない」と言える根拠はあるわけです。

しかし、英語の試験が外国人選手にだけ大きなプレッシャーになるのは疑いもない事実です。正確に言うときちんと英語をしゃべれない選手には負担以上のものがあるでしょう。

いくらファンサービスが大切と言っても、LPGA以外で英語力を求めるプロスポーツ競技はアメリカにはありません。メイジャーリーグでプレーしている日本人野球選手の多くは通訳を頼ってプレーしています。

コミュニケーション能力が重要なチーム競技の野球ですら英語を必要条件としないのに、いくらファンサービスだからといって、個人競技のゴルフに「規則として」英語力を求めるのは、まともな話とは思えません。

LPGAの今回の措置の原因を作ったのは韓国選手の大量進出なのは確実なのですが、LPGAでは日本人プレーヤーとして、宮里藍の他、上田桃子がレギュラーシーズンで活躍しています。宮里はかなり英語も上手なのですが、上田はそうでもないようです。来年末までに英語の試験パスできる英語力を養えるでしょうか。

宮里、上田だけでなく、現在の日本人女子プロゴルファーのレベルを考えると、今後もゴルフの実力ではLPGAで活躍できる選手はどんどん出てくると考えられます。英語力が前提ということになると、それもどうなるかわかりません。

LPGAはファンのためと言っていますが、宮里藍や上田桃子の活躍を楽しみにしている日本人は沢山います。日本人選手の活躍で野球のメイジャーリーグが日本のマーケットを開拓したように、外国人選手によって、世界にマーケットを広げるのは高い水準を持つスポーツの常道です。LPGAは自ら世界最高の女子ゴルフ大会というカンバンを下ろすのでしょうか。

背景には人種差別?

一般的に言えば、外国でプレーする以上、その国言葉が使えるが望ましいのは言うまでもありません。日本でプレーする外国人野球選手、サッカー選手はほとんど日本語は使えません。それがいつまでたっても外国人はお客さん扱いになっている理由でもあります。

逆に相撲はモンゴル人もブルガリア人も日本語を使います。モンゴル人力士はモンゴル語が日本語と類似していることもあって、ほとんど母国語のように日本語を使います。それに比べると、外国でプレーする日本人の外国語能力はお粗末なケースがほとんどです。

しかし、英語力に関して言えば、モンゴル人の日本語が上手なのと同様に、同じインドヨーロッパ語族の人たち、ゴルフに限定すれば白人たちが圧倒的に有利なのは明らかです。

ゴルフはアメリカでも、金持ちのスポーツで白人が主流です。黒人のタイガーウッズが圧倒的な実力を持つ中で、二番手の白人の実力者のフィル・ミケルソンが、ずっと沢山の拍手を受けたりします。

アメリカは人種差別に対し非常に神経質な国で、人種差別的な言動を指摘されると、右よりの政治家でも当選が難しくなるくらいです。しかし、それは底流では根深く人種差別が存在しているという証拠でもあります。

今回のLPGAの英語能力を選手に求める動きは、いかにLPGAが否定しようとそのようなアメリカの人種差別的側面が、ゴルフという「白人のスポーツ」で表面化したものと考えてよいでしょう。それが邪推というなら、邪推されないためにそんな規則はやめるべきです。

人種差別的な背景から出てくる動きは、反捕鯨から北京オリンピックの偽装騒動まで、形を変えて色々な所に顔を出します(クジラとチベットなど)。それらはすべて正当な理由を看板にしていて、人種差別の本心は絶対に明かそうとはしません。

多くの場合、たとえば反捕鯨に対して、いきなり人種差別論を持ち出すのは良いことではありません。それは何かの行動を批判するとき、フロイト流の深層心理を突き動かす幼児期の性的体験を根拠に持ち出すようなものです。正しいかもしれませんが、生産的ではありません。

しかし、英語力をとやく言われたら、人種差別だと言って怒るのは妥当なことと思えます。韓国人が、そして日本人が英語が下手くそなの知能の問題ではなく、人種的なものだからです。LPGAで日本人選手が活躍するのは楽しみでもあったのですが、何だかつまらないことになってきてしまいました。
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なぜ救急車はタダなのか
救急車

救急車は無料タクシー?

「昔年寄り弱いものなし」というのは江戸時代の川柳ですが、年寄りが「近頃の若いものはなっとらん」というのは、今に始まったことではありません。

年寄りが若者への悪口を言うのは、「昔は良かった」と言われても、若者は昔を知らないので反論のしようがないということもあります。年寄りの方は、「昔は良かった」イコール、「自分たちは立派だ」ということになるので、悪い気持ちはしません。

そもそも若者の態度、行儀が悪いのは、赤ん坊が泣くのと同じくらい当たり前のことで、時代が変わればどうこうという話ではありません。年齢を重ねて物事を覚えれば、少しは礼儀作法が身に付きますし、エネルギーがなくなってくれば粗暴なこともしなくなります。

少年少女による凶悪事件があると、決まって「最近の親は悪い」「教育を何とかしなくては」という話になるのですが、少年少女による殺人、強盗のような凶悪事件は絶対数でも、人口当たりの発生割合でも、日本では戦後一貫して低下してきています。

記憶をたどってみても、電車で老人に席を譲る若者の割合が、昔より低くなったとはあまり思えません。町に落ちているゴミや落書きも昔は少なかったというのは、きっと何かの思い込みです。

「衣食足って礼節を知る」と言いますが、犯罪の発生率は国民の平均的な所得水準と大きく関係しています。昔の日本は所得も教育年数も低く、現在より公衆道徳の水準は高くなかったというのが実際でしょう。

ところが、昔と比べて明らかに悪くなっていると思われることの一つに、緊急性もないのに救急車を呼ぶということがあります。救急車の出動回数は東京だけをみても、ここ10年で3割ほども増加しています。

10年前と比べ救急車を呼ぶ必要が、3割も増えるというのは考えにくいことです。「タダなら使わなきゃ損、いっそタクシー代わりに」と思う人が多くなってしまったようです。

救急車だけでなく、最近はパトカーを「うちの猫が逃げ出した」といった程度のことで呼ぶ人が増えているそうです。統計的な裏づけを取るのは難しいのですが、ここでも「タダのものはドンドン使う」という気持ちが働いているようです。

公共財の負担は全員でしなければならない

救急車やパトカーに限らず、市場原理による価格設定で提供することが不適当なものを、公共財として無料ないし安価に供給する必要性は広く認められています。

極端な市場主義の考えの持ち主には、消防は損害保険会社が、警察は警備会社が代行したほうが効率が高いという人もいます。しかし、損害保険会社も保険のかかっている家の消火はするかもしれませんが、そうでない家の消火はしないでしょう。それでは、消火しないでほっておいたために、保険のかかっている家も含め町中が燃え尽きてしまうかもしれません。

かと言って保険のかかっていない家の消火もすれば、こんどは誰も損害保険に入らなくなります。少なくとも消火作業分の上乗せ費用は支払いを拒否するでしょう。拒否ができなくても、消防隊を持たず、安値を売り物にする損害保険会社が出現してしまいます。やはり、消防事業はタダで公共財として提供する必要があるのです。

自分の通る道路に対してしか料金を払わないと皆が言い出したら、道路はぶつぎれになって用をなさなくなってしまいます。学校教育も義務教育として非常に安価に全員に提供されることで、社会の安定度が増して、犯罪が減ったり、産業の生産性が高まるという効果があります。

一定水準の医療を公共財として提供することも大きな意味があります。アメリカは民間の医療保険に依存する割合が、他の先進国に比べ圧倒的に高いのですが、民間の保険会社はリスクの高い加入者を防ごうとしたり、疾病が契約時の申告漏れの事項によるものではないかの審査に、莫大な手間をかけています。

その手間にかかるコストの割合は医療費全体の4分の一程度に達していると言われています。これは、国民皆保険で公共財として医療が提供されていれば、まったく発生しないはずのコストです。市場原理は時として大きな非効率を招くのです(医療に関しては単なる経済的な非効率だけでなく、医療を受けられない多数の国民がいるという深刻な問題となります)。

ゴミ収集の有料化をしようという動きがありますが、このあたりをよく考えないと、とんでもないことになりかねません。有料でゴミを収集してもらうのをいやがって、ゴミを勝手に捨てる人が増えて、街中ゴミだらけになってしまう可能性があります。

ところが、公共財を無料ないし極めて安価に供給することの利益が大きい場合でも、問題はあります。タダにしたことで、平気で自分勝手にいくらでも使おうとする人が出てくるのです。そのような人が一定以上になると、システムそのものが崩壊してしまいます。

なぜ囚人のジレンマにならないのか

むしろ、タダなのに全員が無制限に公共財を使おうとするわけではないことの方が、不思議なのかもしれません。囚人のジレンマでは、別々に尋問されている二人の囚人は「合理的」な判断の結果として、どちらも自白して重い罪になってしまいます。二人とも「一方が自白したら自分だけもっと重い罪になる」という恐怖に負けて、黙秘を続けることができないのです。

公共財も、「自分が使用を抑制すると、タダのりする奴だけが得をしてしまう」と考えると、使わなければ損なはずです。タクシー代わりに救急車を使い、娘の駅からの迎えにパトカーを呼ぶという連中が、少なくとも多数派にならないのはなぜなのでしょうか。

警察、消防という「お上」に対し、それなりの敬意と恐怖を持っている人が多いのは確かです。そのような気持ちと無縁な人が増えた結果が、「払う必要がない」と言って平然と給食費を払わない親が出てきた原因でもあるでしょう。

しかし、幸いなことに大部分の人は依然とし公共財のタダ乗りには節度を持っています。誰も見ていないところでも、公共財を破壊したり、だまって盗んでしまう人は、そんなにはいません。

ただ、いったん誰かが公共財の破壊を始めると、一般の人も抵抗感をあまり感じずに、後に続くようになります。アメリカでは「割れ窓理論」といって、軽微な犯罪意を徹底的に防止することで、犯罪の蔓延を防ぐという考え方があります。ガラスが1枚割れるのを見過ごさないことで、皆が平気でガラスを割るようになるのを止めさせようと言うわけです。

囚人のジレンマでは、同じゲームを繰り返すことで、ジレンマが解消されることがわかっています。ゲームが何度も行われるので、一度不誠実な行動に出ると、相手に報復され、かえって損をする可能性があるので、自分の利益ではなく全体の利益を考えて行動するようになるのです。

コンピューターでシミュレーションを行うと、このような場合の最適な戦略は、相手が裏切るまで誠実な対応を続け、相手が裏切ったらこちらも裏切ることで、相手を罰すればよいということがわかります。

割れ窓理論は、人々が公共財の使用法をめぐって、互いに囚人のジレンマのゲームを続けていることを示しています。どこの誰かはわかりませんが、「ガラスは割らない」というルールを破る奴がでてきたら、自分だけ真面目でも損なだけだと考えるのです。

救急車の問題はどうするか

救急車の話に戻すと、どうすれば不心得な救急車の利用を減らして、公共財としての救急車のシステムを維持することができるでしょうか。

有料化は一つの答えでしょう。有料道路だってあるのですから、公共財といえども完全に無料なものばかりではありません。

しかし、救急車は有料化すれば、無料タクシー代わりに使う人は減るかもしれませんが、図々しい奴が、「金がない」と言って支払わないこともあるでしょう。取立てがきちんとできなければ、「割れ窓理論」で皆払わなくなるかもしれません。

おまけになまじ有料化をすると、金を支払う人も、「金を払っているからいいだろう」と考えて、逆に利用に節度をなくすことも考えられます。イスラエルの保育園では、定刻を過ぎても迎えに来ない親に業を煮やして、遅刻に追加料金を取るようにしたら、安心して遅刻する人が増えてしまったという例が報告されています。救急車利用の抑止を考えると、少なくともタクシーよりは高く価格を設定する必要があります。

価格が高いと、こんどは相当状態が悪いと自分で確信できるまで救急車をない人も多くなるでしょう。ただでさえ、救急の受入拒否が問題になっているのに、出だしで遅れれば、手遅れになる人がますます増加する可能性があります。

八方ふさがりなのですが、「割れ窓理論」の考えに立つと、救急車を不要不急な状況で呼ぶのは、社会的なモラルに反すると粘り強く言い続けるのは効果があるでしょう。どんな状況でも自分の都合しか考えない不心得ものは、そんなに多くはありません。「常識」として救急車の乱用は悪いということが浸透すれば、システム崩壊まではいたらないと期待できます。

「囚人のジレンマ」を教育でちゃんと教えるのは効果があるかもしれません。単なる道徳として公共財の乱用を戒めるのではなく、自分のことだけ考えて、重い懲役刑を食らう囚人の話と、社会は「囚人のジレンマ」のゲームの繰り返しだということ、つまり公共財を節度を持って使うことは、自分の利益にもなるという理屈を教えるのです。

「情けは人のためならず」という諺があります。最近は逆に解釈してしまう人も多いのですが、情けは回りまわって自分の利益になるということです。モラルとして押し付けるのではなく、損得勘定に訴えて、相互扶助を勧めているわけです。

皆が「合理的」に囚人のジレンマに陥ることを防ぐために、同じように合理的に社会は連続型囚人ゲームで、必勝法は相手の利益を考えることだと理解できれば、皆もっと公共財を大切にするようになるかもしれません。もっともそれで本当に「黙秘を続ける」囚人が増えても困るわけですが。

囚人のジレンマについては以下の記事もご参照ください

少子化という囚人のジレンマ
メダカはなぜ群れる
チキンゲームと北朝鮮
タカ戦略とハト戦略
最後通牒ゲーム
地球温暖化を止めるには
高福祉それとも低負担
未来の人類
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ホモ・フロシエンシスの想像図

驚異の新発見

開戦以来1年半が経過したイラクでの戦いが次第に泥沼化の様相を深めていった2004年10月、サイエンスと並んでもっとも権威のある科学雑誌のネイチャーが、人類進化の歴史観を一変させるような、驚くべき記事を掲載しました。

インドネシアのジャワ島の東端に位置するフローレス島から、新種の人類の頭蓋骨を含む人骨が発見されたのです。 ホモ・フロレシエンシスと名づけられたその人類は、身長がわずか90センチ程度と推定され、脳の大きさは380ccとチンパンジー並みしかありませんでした。

しかし、容量は小さいものの、頭蓋骨の形状は前頭葉がよく発達していることを示していました。また、頭蓋骨とともに発掘された石器や火の跡からみても、ホモ・フロシエンシスは、ジャワ原人や、北京原人の属するホモ・エレクトスと同様のレベルに達した、進化の段階にあると考えられました。

何より世界を驚かせたのは、ホモ・フロシエンシスの人骨が、人類史から言えば、ほんの最近に過ぎない1万2千年前のものだったことです。現生人類であるホモ・サピエンスが20万年前に登場するずっと前に消え去ったはずのホモ・エレクトスが、3万年近く前に滅亡したネアンデルタール人よりさらに長く、歴史年代に突入する直前まで、現生人類と同じ世界に生きていたというのです。

ホモ・フロシエンシスの発見までは、現生人類と同時期に存在したことがある人類は、ホモ・ネアンデルターレンシスいわゆるネアンデルタール人だけだと考えられていました。その、ネアンデルタール人は2万数千年ほど前、突然絶滅してしまいます。ホモ・フロシエンシスは人類史のパラダイムを大きく変えてしまうものだったのです。

人類が大きな脳を持つ理由

文明を発達させた現代人から見ると、高度な知性とそれを支える巨大な脳を持つことの利点は明らかに思われます。しかし、現生人類が文明とよばれるものを発達させ始めたのは、人類の歴史では、ごく最近のことです。農業の出現は1万年前に過ぎません。

20万年前に現れた現生人類は、最初から現代人と同じ大きさの脳を持っていました。正確に言うと、現生人類の脳の容量は文明が現れてから、むしろやや縮小しています。このような現象は狼と犬の関係にも見られます。犬の脳の大きさは同程度の大きさの狼より相対的に小さいのです。文明化、家畜化は脳を小さくする傾向があるようです。

それはさておき、全体としては人類の脳の大きさは進化を通じて急速に増大しました。現生人類の脳の容量は1,400CCで、これは700万年ほど前に同じ祖先から分岐したチンパンジーのほぼ4倍の大きさです。

ところが、そのような脳の容量の増大にもかかわらず、道具の使用という点では、長い間石器が一貫して使われてきました。金属器はもちろん土器でさえ、使われ始めたのは農業生産が始まる少し前、高々2万年前以降のことです。脳が大きくなったわりには、道具の進歩はそれほど画期的なものではなかったのです。

一方、脳を巨大化するコストは非常に大きなものがあります。まず、脳は莫大なエネルギーを消費します。人間の脳を維持するには、摂取エネルギーの20%以上が必要です。大きな脳は極めて大食らいなのです。

さらに大きな脳は出産を危険な事業に変えてしまいます。哺乳類の中で、大きな頭を持つ人間だけが難産を経験しなければなりません。それでも、人間は他の哺乳類と比べて、はるかに未熟な状態で生まれてくる必要があります。脳がそれ以上大きくなると出産自身が不可能になってしまうのです。

未熟なままで生まれてくる人間は成熟するまで長い時間がかかります。チンパンジーなら生後1年もすれば、蟻を捕まえて食べるくらいのことはできるのですが、人間では母乳からやっと離れる段階です。一人で食料を確保できるようになるのは何年も先の話です。

子供の養育に手間がかかるため、毎年出産を行うことは不可能でした。農業が始まる前の採取経済の時代には、人間の女は4年に一度しか出産を行いませんでした。人間の繁殖力は他の哺乳類よりずっと貧弱だったのです。

繁殖力が貧弱な上に、育つまで時間のかかる子供を養わなければならない人類の集団は、食糧の獲得という意味で生産性を高くすることが困難した。このような傾向は脳が大きくなるにつれて、高まってきたと考えられます。これほどの犠牲を払って得られるものが、石器のデザインが少し洗練される程度だとすると、脳を大きくするのはずいぶんバカバカしい話のように思えます。

おまけに人類は肉体的にはひどく弱体です。筋力はチンパンジーやゴリラのような他の霊長類と比べてもずっと弱く、もちろんライオンやトラのような牙も鋭い爪もありません。こんな人類がなぜ生き延びることができたのでしょうか。

いや生き延びるだけでは十分ではありません。色々な不利な条件にもかかわらず、人類の脳が大きくなり続けたのは、そのほうが相対的に子孫を残す可能性を高める、進化上の圧力があったはずです。不利な条件を上回る進化上の圧力とは何だったのでしょうか。

脳で生存競争に勝つ

弱々しく見える人類ですが、実は他の動物に対する戦闘能力という点では圧倒的なものがありました。マンモスが滅んだ理由は人間だというのは、ほぼ間違いない事実ですが、マンモス以外でも多くの大型の動物が人間によって絶滅させられたと考えられています。

大型の動物は大型であることで、生存競争に勝ち抜こうとします。アフリカ像はライオンのような猛獣でも容易に倒すことは出来ません。アフリカ象よりさらに大型のマンモスは無敵だったはずです。

無敵のマンモスを人間が絶滅に追い込むことができたのは、道具の使用と集団による狩だったと考えられます。人間は脳を使って高度のコミュニケーションを行うことで、どんな動物よりも強力な力を発揮することができたのです。

しかし、道具と集団活動という点では、人間は脳がチンパンジーの2倍を超える程度の1,000 cc内外になったホモ・エレクトスのレベルで、他の動物に対しては相当程度の競争力があったはずです。人類の脳が100-200万年という比較的短い期間でさらに増大を続けたのはなぜだったのでしょうか。

考えられるのは、大きな脳を持つことは他の動物の狩というより、人類同士の戦いで有利になっただろうということです。霊長類では脳の容量と構成できる集団の大きさは密接な関係があります。人類学者のダンバーはこの関係を研究して、構成できる集団の大きさをダンバー数と呼びました。

人間のダンバース数、つまり集団としてまとまることのできる人数は150人とされています。ダンバー数は霊長類の脳の大きさとほぼ比例して増加します。過去の人類のダンバー数は調べられませんが、脳の増大とともに、より大きな集団をまとめていくことが可能だったろうと類推できます。

ダンバーは脳の大きさがコミュニケーションの能力を高めることで、ダンバー数が増加すると考えました。人類のような集団で狩りを行う動物には、集団の大きさは他の種族に対する戦闘力につながったはずです。

ネアンデルタール


ネアンデルタール人は言語に敗れた

脳の大きさが人類同士の競争力に大きな影響を与えるとして、ネアンデルタール人の滅んだ理由は何だったのでしょうか。ネアンデルタール人の脳は現生人類の1,400CCを上回り、1,500CC以上もあったのです。

もちろん、脳の容量が絶対的に知的能力に比例するとは限りません。少なくとも現代人に関しては病的な小頭症でない限り、脳の大きさと知能は関係ないと考えられています。しかし、ネアンデルタール人が現生人類にほとんど匹敵する知能を持っていたと考えることは、それほど無理なことではありません。

確かにネアンデルタール人は現生人類が1万5千年前に描いたラスコーの壁画のような、知性を疑いもなく証明するようなものは残していません。ネアンデルタール人の人骨と花粉が一緒に発見されたことで、死者を埋葬し弔ったのではないかという説もありますが、単なる偶然とする考えも強いようです。

しかし、ネアンデルタール人が滅んだころは現生人類も芸術作品と呼ばれるようなものは残していません。決定的に現生人類が知的に優れていたとも断定できないのです。

ネアンデルタール人が現生人類と大きく違っていたと考えられるのは言語です。骨の構造からネアンデルタール人は音声言語を十分に使うことはできなかったようなのです。もちろん、これも今となっては決定的な証拠はありません。

音声を使わなくても、手話はほぼ完全に言語として機能します。ネアンデルタール人が音声言語以外に高度なコミュニケーション手段をもっていた可能性はあります。

それでも、音声言語と比べれば身振り手振りでのコミュニケーションは集団活動、特に狩や戦闘では不利なはずです。ネアンデルタール人は知能では同等だったものの、音声言語の能力で敗れてしまったのかもしれません。

人類種同士は共存できない

人類は猿から一直線に進化して、直立歩行をし、大きな脳を持つ現生人類になったわけではありません。700万年前のチンパンジーとの分岐の後、おびただしい種類の人類種が生まれ、消えてゆきました。

過去を振り返れば、地球上に複数の人類種が存在した時期はむしろ普通でした。しかし、異なった人類種は異なった場所に生存していました。複数の人類種が混在して同じ場所に存在したことは皆無か、非常に稀だったと考えられます。

ネアンデルタール人も寒冷なヨーロッパで生活しており、温暖な地域を中心に活動していた現生人類と生存圏はほとんど重なっていなかったと考えられます。ネアンデルタール人は現代のヨーロッパ人の祖先にあたる人々がヨーロッパに進出するのに合わせて、滅亡してしまったようです。

どうして人類は異なる種同士で共存できないのでしょうか。おそらく、道具と集団行動で他の哺乳類に対し無敵の人類も、多少でも脳が大きい、つまり知能が高い人類にはまったく戦う術がないからでしょう。同じ戦略で、より高度の武器と大きな集団同士で戦うと、弱い方は全滅させられてしまうはずです。

人類は数々の大型動物を全滅させてきました。ゾウガメなどは生息自身が、その地域で人間がいないことを証明するほどです。大きいとか強いとかだけに依存して、隠れたり、逃げたりする能力が乏しい動物を、人類はたちまち絶滅させてしまうのです。そして、より脳の小さな人類ほど、脳の大きな人類から見て捕獲しやすい獲物はいません。

進化の段階の異なる人類同士が同じ地域にいると、強い方の人類は弱い方の人類を圧倒数することができました。人類は肉食を行い、これが大きな脳のコストを負担することを助けていますが、弱い方の人類はたちまち「食べられてしまったはずです。

ネアンデルタール人は現生人類に遺伝的に吸収されたという説もありましたが、最近のDNAをもとにした研究はそれには否定的です。ネアンデルタール人はきっと消えたのではなく、現生人類の胃の中におさまってしまったのです。

現生人類でも未開の種族同士の出会いは非常に緊張感があるものでした。知らない種族同士での一般的なコミュニケーションのプロトコルは殺し合いだったのです。未開種族の調査、研究では食人の風習は非常に広く認められています。種族、部族が違えば、話し合いではなく、食物と考えるのが人類の伝統でした。

その中で、ホモ・フロシエンシスが1万2千年前まで生息を続けられたのは、フローレス島が深い海に隔てられて孤立していたからです。氷河期の海面がもっとも下がった期間でも、フローレス島はジャワ島など他の島からは隔絶されていました。

そのフローレス島に氷河期の終わり近く、1万2千年前に海面低下で狭くなった海峡を現生人類が渡ってきました。ホモ・フロシエンシスの絶滅に要した時間は非常に短かったと思われます。全滅にはゾウガメほどの手間もかからなかったかもしれません。

未来の人類

現在の私たち人類がより大きな脳と知能を持つように進化するということは考えられるでしょうか。進化が行われるためには、そうなることが生存と繁殖上有利になるという進化の圧力が必要です。圧力が弱ければ、チンパンジーが700万年間脳を増大させなかったように、進化は起こりません。

人類にとって、脳を大きくさせるための進化圧は人類そのものでした。脳の拡大に出遅れた種族は滅亡させられ、出し抜いた側は脳を維持する高い代償を払っても、生き延びていきました。

現代社会で、そのような進化圧が存在するとは言えないでしょう。IQの高い人間がより低い人間を皆殺しにしたり、食べてしまうという事態は幸いにしてありません。

しかし、人類は言葉と文字を発明することで、DNAなど頼らなくとも技術や知識という情報を子孫に伝えることができるようになりました。それまでは、どんな優れた能力もDNAに刻み込まれない限り、子孫に伝えることはできなかったのです(これは少し誇張があります。哺乳類や鳥類は狩りの方法を子供に伝授することがあります。同じ種で、地域によって行動内容が違って「文化」と呼んでよいようなものを持つこともあります。しかし、能力伝達と進歩の継承の基本がDNAであることは間違いありません)。

人間は言葉を発明することで、同じDNAのもとで文明を「進化」させることができるようになりました。そして、歴史を振り返ると、攻撃力という意味でより高い文明をもつ種族は、しばしば他の種族を滅ぼしてきました。

注意しなければいけないのは、高い文明や技術を持っているということは、DNAとは何の関係もないということです。情報はあくまでも、言葉や文字によって伝えられ、DNAはどんな役割も果たしてはいません。生物学的な意味での進化は、そこには存在しないのです。

もし、DNAが違うという意味で次の人類が生まれたとすると、自分たちが現生人類とは違うということをひたすら隠しながら、遺伝的な拡散を避けるために、小集団を作って社会に潜んでいるでしょう。本当の意味で「新人類」だと思われたら、現生人類が何をするかわかったものではありません。

新人類は現生人類より高い知性を持ち、そして希望的観測としては他の人類を皆殺しにしようという野蛮な性質を捨て去っているかもしれません。そうでなくても、現生人類がいつまで繁栄を続けられるかは疑問です。よりすぐれた人類に地球の未来を託することができるのなら、それはそれで結構なことではないでしょうか。

現生人類が滅んだあと、新人類は現生人類を次のように記述するかもしれません。

ホモ・サピエンス: 一時繁栄を極め、個体数は最大60億以上に達したが、1万年ほど前、自身が引き起こした環境破壊とそれに続く資源争奪の争いでほぼ絶滅した。現在はフローレンス島に約300人が厳重な監視のもとで保護されている。

フローレンス島では生存に必要な食糧は十分供給されているが、依然として殺人、窃盗など反集団的な行動が発生している。また、いくつかのグループに分かれて、快適な場所の奪い合いなどが原因で、闘争を行うことがある。多くの場合、闘争は苛烈で、しばしば一方のグループが他のグループを壊滅させようとするため、自然状態の保持という原則を破って介入する必要がある。

ホモ・サピエンスの繁栄と滅亡は強欲と攻撃性によるものであるが、その基本的形質はフローレンス島の集団でも変わっていない。このため、隔離状態が動物愛護の精神に反するという指摘はあるものの、ホモ・サピエンス種の島外への移動は厳しく禁止されている。


こちらもご参照ください。

隣のミュータント
地球という丸木舟 
ネオテニーの日本人
人類滅亡シナリオの雑学的アプローチ
イケメン進化論

追記: この記事は人類の進化の原動力が狩猟による殺し合いだったという仮説に基づいています。初期の人類については、他の動物の狩猟、つまり捕食を行うというより、捕食される側だったという考えもあります(「人は食べられて進化した」)。