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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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「有能」なら官僚出身でもいいんですか?
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日本郵政の西川社長が辞任し、その後任に大蔵省(現在の財務省)の次官を務めた斎藤次郎が就任しました。齊藤次郎は「10年に一人の大物次官」と呼ばれた、大蔵省の有力者でしたが、自民党が細川内閣に政権を譲り渡した際、小沢一郎と組んで国民福祉税構想を打ち出したことでも記憶されています。

斎藤は野党時代の自民党に冷たかったからという理由で、政権に復帰した自民党から深く恨みを買い、おそらく自民党寄りの勢力から意図的に流された、大蔵省の接待スキャンダルなどの責任を取る形で、異例の短期間で大蔵次官の退任に追い込まれました。これは政権交代で辞任に追い込まれた西川日本郵政前社長と、符合した状況と言えるのかもしれません。権力闘争ではしばしば歴史が繰り返されます。

その後斎藤は「10年に一度の大物次官」というキャッチフレーズとは裏腹に、不遇をかこちます。大物大蔵次官経験者の指定席であった、日銀総裁や、東京証券取引所社長などに就くことはなく、事実上の浪人生活を5年ほど強いられた挙句、大蔵次官経験者としては「格下」の東京商品取引所社長に2000年に就任し、現在に至ります。

小沢一郎との関係が深い有名な官僚でしたが、自民党政権が続く間は半ば忘れられた存在でした。その斎藤次郎が日本郵政社長になるとの発表に世間は驚きましたが、この驚きには二重の意味がありました。「官僚体制打破、天下り全廃」を唱える民主党が、よりにもよって、官僚の中の官僚とも言える財務官僚を、民間出身の社長の後任に据えることにしたからです。

日本郵政はこれからどうなるのか、どうするべきかは様々な見解が交錯していますが、ここでは詳しく議論はしません。一つだけ私見を述べておくと、郵政はもはや日本の戦略的重要問題ではないだろうということです。

人口の大部分が居住する地域では、郵便局に行くより、コンビニで投函や切手の購入をする方が便利ですし、宅配便の方が郵便小包より手軽です。郵貯の巨大資金はありますが、それが財政投融資で第二予算として国会のチェックなしで支出が行われた時代ではありません。問題は積み上がった国債や財政赤字です。郵政事業はもはや国民に絶対不可欠なインフラではもはやありません。

郵政事業自体が昔ほど重要ではないとしても、その長に官僚出身者を充てるのはどうなのでしょうか。少なくとも民主党の「脱官僚支配」と矛盾することは疑いようもありません。鳩山首相は「有能な方だし、15年民間におられており、天下りにはあたらない」と述べていますが、本気でそう思っているとしたら、ただの愚か者ですし、嘘を言っているなら国民を愚弄しています。

好意的(?)に解釈すれば、連立政権のパワーバランスで亀井大臣の顔を立てる必要もあるし、斎藤と関係の深い絶対権力者の小沢のご機嫌を損ねるにはいかないという、苦しい事情があるのでしょう。もちろんそれは内輪の論理でしかありません。

まず指摘しなければいけないのは、「有能なら官僚出身者かどうかこだわるのはおかしい」という「へ」理屈です。有能、無能というのは客観的基準ではありません。それでも、大企業の経験の有無、郵政事業の知識などスコアカードのようなものがあり、その採点表が公開されていれば多少納得もいきますが、一言「有能です」では説明にも何にもなりません。

つまり、「有能なら官僚出身かどうかこだわらない」と言うということは、「天下りは認めます」と言っているのと同じです。今後色々な政府関係の機関、団体に官僚出身者が天下りする時、「有能だからです」と言えば済むことになってしまいます。

官僚出身者の全てがダメなわけではありません。民主党から立候補した官僚出身議員の多くは、所属した省庁と縁が切れています。このような人たちは、どこに行こうと天下りではありません。天下りとは、官僚たちが退官後も実質的な出身官庁主導の人事異動として、就職先を見つけてもらうことです。企業の出向者と同じで、忠誠心は元の出身官庁にありますし、退任、転出は人事発令のように出身官庁が決めます。

斎藤新社長は、前職の東京商品取引所が財務省の天下り先だったことを考えると、「現役」の官僚です。官僚をやめて15年も経ってなどいません。斎藤社長と財務省は今後も日本郵社長に財務省出身者が就くことができるように、全力を尽くすでしょう。

アメリカでは経営者をヘッドハンティングで採用することは一般的です。ヘッドハントされる経営者は「有能だから」選ばれるのですが、結果はともかく、判断基準は有能かどうかということにかかっていますし、判断をするのも個々の企業です。しかし、天下りではヘッドハントをするように、現役次官を給与を倍にしてスカウトするなどということはありえません。異動はあくまでも、出身官庁の人事(実際は官房と呼ばれる組織が中心となる)の判断です。

人事が出身官庁主導であれば、天下りした経営者、幹部は出身官庁の利害関係人になります。会計基準では役員を送り込むと、資本関係が小さくても、連結決算の対象になります。利害関係人かどうかというのは、有能、無能よりずっとはっきりした概念として取り扱われているのです。

「天下り」の根本的な問題は、官僚組織が天下り先を増やし、より多くの利益を官僚組織の人間に分配することを、ビジネスモデルそのものにしてしまっていることです。天下りを維持し、増加させることは官庁の基本的行動規範と言って間違いありません。その結果の政策が、国民にとって「たまたま」有益なものになるかどうかは、二の次三の次です。

民主党は天下り先の外郭団体に12兆円以上の金が流れていて、その無駄をなくせば増税などしなくてもマニュフェストの政策は実施できると主張してきました。算盤勘定はともかく、天下りが無駄の根源であり脱官僚支配が必要というのは政策の柱だったはずです。

官僚支配というのは、天皇の家来で東国の代官程度の位置付けでしかなかった征夷大将軍が幕府を開いて権力を持ったように、民主的に選ばれた議院内閣制のもとで、実質的な権力を官僚が握り、国民に奉仕するための組織から、天下り先を増やすというビジネスモデルを追及する組織に変質してしまったものです。

官僚支配を終わらせるには、官僚組織の人事異動の延長で行われる、政府関連機関の人事を止めさせなければなりません。それには先ず官僚組織の「利害関係人」と考えられる人物の幹部登用を排除することが必要です。有能か無能かはその次の問題です。この規準では斎藤次郎は確実にバツです。

鳩山首相の「有能ならよい。15年前に退官したらよい」は天下りを無くすのは止めると宣言したようなものです。官僚はきっと大いに力づけられたでしょう。官僚支配から脱却するには江戸幕府を倒すくらいのエネルギーが必要です。残念ながら民主党にその力はないのかもしれません。

参照: 天下りを考える
天下りを考える:もう一言
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それを言っちゃおしまいだよ
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羽田空港のハブ化が話題を集めました。前原国交相の発言がきっかけですが、都心に近く24時間離発着が可能な羽田を、4番目の滑走路ができるのを機会に、国際線を大幅に増便し、国内外を結ぶ本格的なハブ空港にしようというものです。

問題になったのは成田空港の位置づけです。従来の国際線は成田、国内線は羽田という住み分けがなくなり、成田空港の地位が危うくなると思われたのです。この件は、羽田や成田単独では首都圏の航空需要をまかないきれず、どちらの空港も活用を続けるということで、取りあえず落ち着きました。

しかし、成田空港の存在意義が問われたことで、成田空港の歴史の中での払われた多大な犠牲が改めて思い出せれました。成田空港建設には非常に強い反対がありましたが、それは並の公共事業の反対運動とは次元が全く違う激しいものでした。

成田空港は羽田の容量が限界になってきたことから(その予測自体が運輸省が天下り先を増やすために、埋め立てなどの拡張案を実現不可能としたためと言われています)、首都圏に第2空港を建設する必要が生じたことで計画されました。

ところが、大物政治家の関与や様々な思惑が交差した結果、当初有力だった富里ではなく成田に空港建設が行われることが地元に何の説明もなく発表され、事態はこじれます。成田空港建設の閣議決定が行われたのは1966年ですが、おりしもこの頃から1969年の日米安全保障条約改定阻止を目指す全共闘運動を中心にした、過激な反政府活動の時代になっていきます。

全共闘運動は東大入試の中止にいたった東大紛争を始め、激しい闘争を経て、日米安保改定阻止が失敗に終わったことから急速に勢いを失っていきます。しかし、一般の学生が次第に政治的関心を無くしていく中で、「過激派」と呼ばれた先鋭的な活動家たちは、ますます暴力的な運動にのめりこんでいきます。

過激派の活動家が日米安保の次のターゲットに選んだのが成田空港建設反対運動でした。過激派は空港建設反対の農民と共闘する形で、警察との衝突、空港施設の破壊など長年にわたる「成田闘争」が展開されていきます。

その中でも1971年に機動隊が過激派の奇襲を受け、3名の死者を出したのは痛ましい事件でした。過激派による機動隊員の殺害は、その翌年の赤軍派があさま山荘事件で2名を射殺(この他民間人が1名射殺されている)して以降は起きていません。 全共闘運動はプロ化の度合いを強めながら、成田空港建設で硬直的な対応を続ける政府との対立を深めていきます。

成田空港は、当初の滑走路3本の計画から1本だけの「日本の玄関」としては極めて不満足な状態で、計画より大幅に遅れた1978年に、何とか開港にこぎ着けます。その後も反対闘争は続き、現在でも3本の滑走路はおろか、第2滑走路が2,500メートルの予定を2,180メートルにしてやっと供用されている状況です(2009/10/22より2,500メートルに延伸)。成田闘争は完全に過去の歴史になったわけではありません。

こんな中で「成田空港見直し論」を言うなどとんでもないことだという空気があります。成田闘争では警察官の犠牲だけでなく、賛成派、反対派に分かれることで、地域のコミュニティーも破壊されてしまいます。成田空港の建設計画が青天のへきれきで発表されたことが、混乱の根本原因であることを思えば、いまさら、羽田が再び国際線の中心にするなどと平然と言うのは無神経にもほどがあると関係者が怒るのは当然と言えば当然です。

同じような構図は、やはり前原大臣が火を付けた、八っ場ダムの建設中止にも見られます。ダム建設が突然発表され、激しい反対運動が、住民の中で賛成派、反対派の対立を生み、地域コミュニティーを崩壊させた挙句に、「ヤ―メた」と言うのは何事かという強い反発が起きました。

前原大臣の唐突で「政治的配慮」をひどく欠いた物言いが、事態を一層こじらせたことは間違いありません。これは前原大臣の性格が大いに関係しているでしょう。永田メール事件の時も、あまり深い考えもなさそうな強気な発言をして状況を悪くしました。

しかし、羽田空港のハブ化、成田空港との内外分離の撤廃にしろ、八つ場ダムの建設中止にしろ、根回しをきちんとしたところで、騒ぎがそれほど小さくなったとも思えません。特に八つ場ダムのように工事に伴う利害がからむ場合は、説得に相応の見返りがなくては済みそうもありません。

それにしても、気になるのは「過去に大きな犠牲を払った以上、簡単には止めるべきではない」という理屈です。殉職した警官、引き裂かれたコミュニティー、それでも空港に、あるいはダム建設に賛成したのは「お国のため」という大義名分があったからです。それをいまさら撤回とは、あまりにも人を馬鹿にした話ではないか。そもそも死者に対し非礼ではないか。

これは感情論としてはわかりますが、国の政策を決める時、過去の犠牲を理由にすることは絶対に避けるべき態度です。戦前、日本が国際社会の強い圧力にさらされながら、満州の権益を手放そうとしなかったのは、日露戦争での莫大な戦費と10万人の戦死者という犠牲を無駄にするということが政治的にも感情的にも許されなかったからです。

満州の権益確保は中国との戦争へと進んでいきます。戦争は当然多数の戦死者を出し、それが「英霊に申し訳ない」という理由を一層強固にしていきます。戦死者に申し訳ないと言っていたら、戦争を止めることはできなくなってしまいます。

危険なのは、「過去の犠牲を無にするのか」という理屈は反論するのが難しい、と言うより反論自体を憚らせてしまうことです。本当は「過去の犠牲を無にするのか」というのは理屈でも何でもないただの感情論なのですが、面と向かって非難することは政治家もマスコミも避けようとします。

空港の役割分担も、ダム建設も、得られる利益と不利益のバランスで考えるのが基本です。過去の死者や関係者の苦痛を勘定に入れてはいけません。たとえ、それが10万人の戦死者であってもです。「過去の犠牲」を事業継続の理由にすることは、過去の犠牲を利用しようとしていることです。それこそ「死者への非礼」と言えなくもありません。あるいはただのアジテーションに過ぎません。「それを言っちゃお終い」なのです。

人間を「バカ」にする装置
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林横浜市長

林文子氏はBMW東京社長から再建中のダイエーの会長になり、その後日産の役員を務めるなどした、女性経営者として有名です。 今年の9月に突如辞任した前任の中田市長の後を受け、横浜市長に就任しました。たまたま、林氏と面識のある人から、横浜市長になって驚いたという話を先日聞きました。伝聞ですので真偽は分りませんが、いかにもありそうな話だと思うので、ご紹介します。

林市長は副市長を4人にするという思い切った組織改革を最初に行ったのですが、市長室から副市長の一人の部屋を廊下を渡って尋ねようとして、驚いた秘書官に止められてしまいました。市長が副市長に面会するときは秘書官を通じて、きちんとアポを取ることが必要なのだそうです。

会議を開いてまたびっくり、会議に5分ほど早く来て、雑談をしようとしたら、「市長が早くいらっしゃっては困ります」とのこと。市長は最後にゆったり登場してくれなければダメなんですね。それでも、まぁ早く来たからということで、雑談でもということにしようとしたら、それもダメ。 結局、「市長の懇談を会議前に行うということで」ということで落ち着いたとか。

市庁舎に到着したら、秘書官以下、幹部数名が最敬礼でお出迎え。「そんなこといいですよ」と断ろうとしたのですが、「どうかそれだけは」ということで、その儀式は続くことになりました。

林市長は、ホンダの販売店の事務職員から営業に転身するところからキャリアをスタートさせているのですが、そんな市長の目から見ると横浜市長としての体験はまるで異次元世界のように映ったようです。だいたい、民間企業で社長が副社長の部屋を訪ねるのにアポだ何だと大騒ぎするような会社は、とても長続きはしないでしょう (と書きましたが、財閥系の大会社や、ワンマン社長が威張っている会社では似たようなことはあるようですが)。

この話を聞くと、いかに官僚が選挙で選ばれた首長を、バカ殿にしようと一生懸命になっているかが、よくわかります。首長よりもっと偉い大臣は俗に「三日やったらやめられない」と言いますが、きっと本当なのでしょう。こんな状況を横浜市の前市長を始め、多くの首長、大臣は止めさせるどころか、快感マッサージのように感じているのでしょう。いまや麻痺して快感でさえないかもしれません。

政治家叩きや官僚叩きをすれば世の中が良くなるものではありませんが、こんな話を聞くと「叩いてばかりいないで」と言う前に「徹底的に叩け!」と言いたくなってしまます。

温暖化ガス削減の道:鳩山首相のコミットメントをめぐって
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鳩山首相のコミットメント

鳩山首相は、就任早々の9月22日、ニューヨークで行われた国連気候変動サミットの開会式で、日本が2020年に1990年比で温暖化ガスの排出量を25%削減するとのコミットメントを行いました。実はこの件は、別のブログ「評論家山崎元の「王様の耳はロバの耳!」で読者同士のかなり白熱した議論があり、私も自分のブログをほったらかしにして(というと言い過ぎなのですが)、議論に参加していました。

議論を続ける中で、鳩山首相のコミットを「スタンドプレーで国際社会に向け格好を付けて、日本の産業と経済を無茶苦茶にする暴挙」と考える派と「国際社会に貢献し、日本の産業に新しい道を開くリーダーシップ」と思う派の二つに分かれました。

私は後者の立場、ブログオーナーの山崎さんも概ね後者で、ブログ読者の間では、鳩山首相を支援する意見が強かったようです。これは元々、山崎さん自ら「自民党は昔から嫌いだった」と言われているように、民主党に比較的近い記事が多く、読者もその考えに賛同する人が多かったからだと思われます。ただ、中にはかなり強硬に鳩山発言への懸念を示す人もいて、いかに鳩山発言が日本の国益を減じるかを論じたサイトの紹介もありました。その中で"l澤昭裕の『不都合な環境政策』は、豊富なデータで、かなり説得力のある論理を展開しています。

温暖化ガス削減のための規制を強化することは、少なくとも短期的には経済に対しマイナス要因になります。エアコンを買えば消費電力は増えますし、部屋数が増えれば台数も増え、消費電力がまた増加します。経済成長は温暖化ガスを増やすことが多いのは間違いありません。省エネには新技術の開発、設備投資、ライフスタイルの変更が必要で、多くの場合短期的には達成されません。

まして、自国だけが温暖化ガス削減の厳しい規制を行えば、企業は競争上不利な立場に置かれます。環境は資源や労働力、工場設備と違って、企業が購入するものではありません。経済学では外部化という言葉があって、企業が費用を他に押しつけてしまうことを言いますが、環境はその代表的なものです。

実際には、環境コストの全てが外部化されてはいません。現在の日本では、排水や排煙には厳格な規制があり、企業はその規制を守るように有害物資の除去装置を設置しなくてはいけません。それらの環境コストは内部化されています。

ところが、温暖化ガスの削減は十分な内部化は行われてはきませんでした。それは二酸化炭素のような温暖化ガスは、地球全体の環境に悪影響を与えても、工場の周辺住民に被害を与えるようなものではないからです。つまり、各国の政府にとって温暖化ガスの削減は、自国民にとっては何の利益もなく、経済的負担だけを背負わされることになるのです。

このような状況を踏まえれば、野心的な温暖化ガス削減を各国に先立って行うことの危険さを指摘することは十分な根拠のあることだと言えます。そこで先述の『不都合な環境政策』を頭に入れながら、温暖化ガス削減の先陣を切ることの意義を考えてみたいと思います。なお、読者の皆さんには『不都合な環境政策』の一読をお勧めしますが、当ブログ記事を、それとは無関係にお読みいただくことは可能です。

地球温暖化はどこまで深刻なのか

温暖化ガス削減についての議論は、最後はこの命題に行きあたります。この命題は、
(1) 地球は温暖化しつつあるのか
(2) 地球温暖化がこのまま進むと、人類を含む生物圏は重大な影響を受けるのか
(3) 地球温暖化の主な原因は人類の経済活動に伴う温暖化ガスなのか
の三つ部分からできていますが、一つ一つが反論の対象になっています。

地球の大気の動きは非常に複雑で完全なモデル化どころか、十分なモデル化もできていないのが現状です。2週間後の天気が全然わからないのに、50年先の地球気候を予測できるというのは、確かに信用できない話です。 地球温暖化というのは環境原理主義者の妄想に過ぎないと主張しても、それを間違いだと言い切ることはできません。

しかも、地球の温暖化、寒冷化は大気の組成だけでなく、太陽活動、地軸の傾き、さらには大陸の配置まで関係します。火山の大爆発があれば、破滅的な寒冷化になる可能性もあります。人類が少しくらい温暖化ガスの削減を行ったところで、どれほどの役に立つのかと言いたくもなります。

地球が温暖化したからといって、どれほどの事態になるかも、よくはわかっていません。生物圏に大変動が起こることは確実でしょうが、シベリアが快適な気候になり、南極に住むことができるのなら、温暖化もそれほど悪いことではないのかもしれません。

しかし、このような楽観的な考え方は、温暖化ガスの増加が破滅的な地球破壊につながるという予測と比べて、十分に説得力のある根拠があるわけではありません。科学界全体としては国連の下部機関IPCCの「産業革命以来、特に20世紀以降の急激な二酸化炭素増加は人類によるもので、将来加速度的な地球温暖化を招く危険がある」というのは標準的な考え方です。

このIPCCの予測は外れるかもしれません。また当たるかもしれません。それではIPCCの予測が当たって悲劇的な結果を招く確率はどれくらいなのでしょうか。 歴史を繰り返すことはできません。将来には色々な可能性がありますが、私たちの経験できる未来はただ一つです。どの程度の確率や危険性なら、私たちは受け入れることができるのでしょうか。飛行機の落ちる確率が30%と言われたら、その飛行機に乗るでしょうか。6連装に1発弾丸の入ったロシアンルーレットをする気になる人はどれくらいいるでしょうか。

地球温暖化を否定し、温暖化ガス削減の努力が無用だと言う人は、ロシアンルーレットを進んでやりたがっているように思えます。地球温暖化はIPCCの悲観的な予測が当たった時の被害は相当に破滅的で、そんな危ないゲームに参加するくらいなら、取りあえず地道に温暖化ガス削減努力をする方がまっとうな考え方ではないでしょうか。あくまでも私の感触ですが、地球温暖化は6連装の銃に弾丸が3発入っているロシアンルーレット程度には危険なゲームのように思えます。

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他国に先立って温暖化ガス削減努力をするのは損ではないだろうか

これが鳩山首相のコミットメントに対する一番の非難でしょう。日本の温暖化ガスの排出量は世界全体の5%以下、GDP比で言えばすでに相当省エネが進んだ状況です。日本が少々努力したくらいでは世界全体の温暖化ガスがいかほども減るものではありません。

これに対し、アメリカや中国は世界全体の20%以上の温暖化ガスを排出します。米中両国が頑張ってくれなければ、自分だけ損をして、しかも世界中は何もよくならないという最悪の結果になります。これはアメリカや中国といえども同じことが言えます。自分が努力せずに他の8割の排出量が削減されることが一番楽なはずです。

どの国も自国は削減努力をせず、他国の削減努力の果実を待つというのは、典型的な囚人のジレンマです。囚人のジレンマでは、2人の囚人のどちらも、自分だけ自白して、相手が黙秘することが最善で、自分が黙秘して、相手が自白してしまうことが最悪です。結果は、2人とも黙秘すれば、無罪になるのに、2人とも自白することになります。温暖化ガス削減にあてはめれば、どの国も自国の削減は最小にとどめようとすることになります。

温暖化ガス削減が囚人のジレンマになってしまう根本的な原因は、世界の多分大部分の人は、地球温暖化がロシアンルーレットのような危険なゲームであるとは認識していないからです。別の比喩を使えば、ボートが滝壺に向かっていると思えば、一生懸命オールを漕ぐ損得など考えずに、オールを奪い取っても滝と反対の方向にボートを漕いで行こうとするでしょう。地球温暖化は全体としてそれほど深刻には受け止められていません。

事態がそれほど深刻に受け止められていないという前提で、囚人のジレンマを解くことはできるでしょうか。ジレンマはあくまでもジレンマですから、そのままでは解けないのですが、囚人のジレンマ型のゲームでは繰り返しゲームを行うとジレンマでなくなることが判っています。

囚人のジレンマ型のゲーム、つまり双方が自分に得になることだけ考えると、全体最適にならないようなゲームでも、繰り返しゲームが行われ、繰り返す回数が無限だったり(これは実世界ではありえませんが)、繰り返し回数が予め参加者には知らされていない場合は、「しっぺ返し戦略」つまり、最初は譲って、相手が裏切ったら報復する(こちらも裏切る)戦略が最強だということが、コンピューターシミュレーションで検証されています。

「私は温暖化ガスを積極的に削減しますよ」と言っておいて、相手が全然乗ってこなければ「それでは残念ながら、こちらも約束を反故にします」という戦略は「繰返し型の囚人のジレンマ」では有効なのです。温暖化ガスの削減交渉は、これから何度も行われるでしょうし、それが何回になるかはだれも判りませんから、「しっぺ返し前略」が有利になる条件を満たしています。

これは確かに実世界でも正しそうです。「自分はもう目いっぱいだから削減努力は、ほどほどにしかしないが、温暖化ガスを沢山出す国は、うんと頑張ってくれ」というより「自分は挑戦的な目標達成に努力する。君も頼む」と言う方がずっと説得力があるでしょう。

しかし、国際社会というのは弱肉強食のジャングルのようなもので、甘い顔を見せても侮られていいようにされるだけだ、という考え方も当然あります。現にアメリカは京都議定書に参加していませんし、中国を筆頭に新興諸国は、「先進国こそ削減負担の大半を負うべきだ」と主張しています。このような物言いは、誰も地球温暖化とは同じボートに乗って滝壺に向かっていくようなものだ、あるいはロシアンルーレットで遊ぶよりもっと危険だ、などと全然思っていない証拠です。

こんな状況で「しっぺ返し戦略」など効果があるのでしょうか。 だいたい「しっぺ返し」などできるものなのでしょうか。これは難しい質問ですが、仮に地球温暖化が最後は破滅的結果につながるとすると、弱肉強食型の世界観は囚人のジレンマよりもっと危険なチキンゲーム型ゲームをしていることになります。

チキンゲームとは、お互い正面を向けた車を運転し、衝突すれば死んでしまうのに、アクセルを踏み続け恐怖に駆られてハンドルを切って逃げ出した方を「チキン(臆病者)」と嘲るものです。正気の人間から見れば馬鹿げているとしか言いようのないものですが、戦後アメリカのカリフォルニアで若者たちの間でチキンゲームはやっと言われています。国際社会では「瀬戸際戦略」とも言われる北朝鮮の手法がチキンゲームの典型です。

他国にいいようにされることを心配する人たちは、地球温暖化をめぐる各国間の対立はチキンゲームかもしれないという認識はまるでないようです。どんなに馬鹿にされても、正面衝突するより「チキン」と呼ばれた方がマシだと思うのですが、そんな論法は文字通り「チキン」だと嘲られそうです。実際、「日本だけバカ高い排出権を買わされるというのは、老練なヨーロッパ諸国に利用されているだけだ」と言う精神構造は、昔のカリフォルニアの若者たちとそう変わらないかもしれません。譲るやつは、ダメなやつだというわけです。

実際の温暖化ガス削減交渉はチキンゲームよりさらに悪いとも言えます。チキンゲームなら自分がハンドルを切れば、とりあえず命は助かりますが、IPCCの悲観的な予測が当たると、自分だけが努力しても人類が破滅的状況に陥るのは変わりません。ハンドルを切るのは自分だけでダメで、他の参加者にもハンドルを切ってくれなくてもはいけません。

滝壺が眼前に迫る前に、危険を察知していち早くリーダーシップをとる国が必要です。そして、リーダーシップを得るには自己犠牲の精神がなければいけません。しかし、ボートが滝壺に向かっていると思えば、勇気も自己犠牲の精神も湧いてくるのではないでしょうか。

本当に温暖化ガスの削減は可能なのか

温暖化ガスの発生が、経済活動つまり文明生活に結びついているのだとすると、石器時代に戻らないで大幅な温暖化ガス削減は可能なのでしょうか。製鉄技術が生まれたとき、製鉄の方法は大量の木材を燃やすしかありませんでした。木材資源の減少は鉄の生産高の減少を招き、ついには文明の崩壊にまでつながりました。中東の砂漠は、その名残と言われています。

石油文明も石油がなくなってしまえば崩壊します。しかし、石油の消費量と経済の規模は必ずしもリニアな関係にあるわけではありません。現に、70年代初頭の第一次石油ショック、80年前後の第二次石油ショックを通じて日本はGDPあたりの石油消費量を大幅に減少させてきました。

ところが、日本の石油消費、言葉を換えれば温暖化ガスの排出量は、90年を境に増勢に転じます。そして、京都議定書も、今回の鳩山首相の25%の温暖化ガス削減も、90年を基準年にしています。一方、ヨーロッパ諸国は90年代は共産主義政権が崩壊した東ヨーロッパ諸国の遅れた産業インフラを廃棄していくだけで、温暖化ガスの削減が達成されました。京都議定書は老練なヨーロッパ外交の勝利だったという見方は、あながち僻みではありません。

しかし、日本が90年代から再び石油消費量を増やしたのは、「できることはやり尽くしたから」というより、第二次石油ショックの後石油価格が極めて安定的に推移したことが大きな原因と考えられます。省エネは技術開発にしろ、設備投資にしろ、効果が表れるまで遅行性があり、石油価格のトレンドと石油消費のトレンドは、ずれるので、90年代以降のエネルギー需要の増大は十分説明のつくものだと考えられます。

石油価格は世紀をまたいで、再び上昇カーブを描きます。これがロシアの復活にもつながるのですが、日本の省エネの努力も再開されます。70年代の省エネルックはクールビズとして生まれ変わることになります。プリウスは売上第一の車種になりました。

中長期的には省エネは技術開発や設備の入れ替えで実現できるとしても、2020年までの1990年比25%削減は達成可能なのでしょうか。これは日本の削減努力にどれだけ他国が足並みを揃えるかによります。日本だけ独走すれば温暖化ガス削減で国際競争力が低下した企業は海外に出て行ってしまうでしょう。

これはあまり好ましくない事態です。 企業が日本から出ていくことで雇用が失われるだけでなく、税収も減ってしまいます。おまけに海外に企業が出て行っても、他所の国で生産活動を続けるわけですから、温暖化ガスは削減されません。日本が損をして、他国は温暖化ガス削減コストを「外部化」して、地球温暖化の流れは止まらないという、まったく面白くない結果です。

しかし、日本ではどの道、実施しにくい温暖化ガス削減策があります。たとえば原子力発電所は日本のような狭くて人口が密集している国では立地が難しいのですが(本当にそうかは細かく検証が必要でしょう。これはあくまでも表面的な分析です)、立地の容易な国で発電し、電力多消費型の産業を移転してしまえば、地球全体として温暖化ガスの削減は達成されます。

これは、温暖化ガス削減コストではなく、原子力発電所立地のコストを外部化してしまうことでもあります。ただ、原子力発電所がライフサイクルで温暖化ガスを排出する火力発電所より、好ましいのかは難しい問題です。すくなくとも温暖化ガス削減と比べると、原子力発電所の設備自身を含めた放射性廃棄物を長期間安全な状態に閉じ込めるのははるかに困難な技術です。原子力発電所の生み出すプルトニウムの半減期が2万4千年ということを考えると、完全に安全なシステム構築は現代技術ではほとんど不可能です。

ここでは適当な立地さえ選べば、原子力発電所は安全だと仮定しましょう。そうすれば、自動車と発電の分だけで温暖化ガスは50%程度削減できます。さらに太陽エネルギーや、燃料電池による発電設備の分散化などを行っていけば、21世紀末までに80%の温暖化ガスの削減を行うことは可能でしょう。森がなくなっても、石炭で製鉄ができるように、代替エネルギーと省エネで目標を実現することは可能です。

問題は再び、2020年までに政治的、経済的に大きな困難を伴わずに25%削減ができるかどうかです。多分とても簡単とは言えないでしょう。しかし、25%が未達になったときの一番の心配事は(人類が破滅することを除けば)、国際的な非難のあげくに、経済が大きなダメージを受けることでしょう。これは、国際間で温暖化ガス削減ための国際的取り組みができあがれば、相当程度緩和される問題です。もし、そんな仕組みがついにできなかったら、削減目標は達成されず、身勝手な非難を浴びて、地球は破滅に向かうということになります(この部分は正確にはロシアンルーレットの確率ですが)。

取りあえず頑張ろう

ここまで述べたように、温暖化ガス削減のリーダーシップを取ろうとする考えに反対する意見は、本質的に温暖化ガス削減は「自分のため、人類のため、地球のため」という発想を欠いていると言えます。もし、野心的な削減目標を達成しようとすることを、「国際政治の現実を知らない甘ちゃんの妄想」というなら、知らずにロシアンルーレットをやろうとしているという現実にも目を向けるべきです。

また、日本の削減努力がすでに乾いたタオルを絞るに等しいというのは、短期的な温暖化ガス削減と経済縮小のリニアな関係を、中長期にも当てはめるという誤りを犯しています。木がなくなっても鉄は作れるのです。

世界中が温暖化ガス削減に努力すれば、削減努力のかなりは循環型社会を作ることに」向かうはずです(原子力発電所という重要な例外はありますが)、これは資源の節約につながりますし、温暖化ガス以外の汚染原因を減少させることにもなります。

温暖化ガスの増大は経済発展のために生み出された技術が原因です。文明を破壊しない解決策は、技術でしか得られませんし、その技術は経済的枠組みで進歩します。温暖化ガス削減は、経済的には温暖化ガス排出コストを内部化させることと、技術的にはそのコストを最小化する努力で達成されます。これはやる価値と勝ち目は十分ある戦いです。

参照:
地球という丸木舟
地球温暖化を止めるには(もし本気なら)
科学は多数決?
地球温暖化
人類絶滅のシナリオ
ロシアと石油
喫煙の行動経済学
少子化という囚人のジレンマ
チキンゲームと北朝鮮