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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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The Next Wave: インターネットの次に来るもの (2) : 転換
続き

PCとダウンサイジングの時代 (1980-1995):エポックメーキングな出来事 IBM PCの発表(1981年)

汎用機がコンピューターの王者として君臨してからも、半導体の進歩は着実に続きました。半導体の業界にはムーアの法則といって、半導体の価格性能比(正確には回路数ですが、実質的に同じことです)は2年ごとに2倍になるという経験則があります。

進歩を続ける半導体技術は、神殿の奥深くに納まっていたコンピューターを個人が使うことができるほど小型で安価なものにすることができるようになります。1970年代の後半になると、技術力と企業家精神に溢れた若者たちが、小さいながらもコンピューターとして機能する個人向けのコンピューター‐PC(Personal Computer)を作り始めます。
Apple_I.jpg
Apple I

そんな若者たちの中に、アップル・コンピューター社(2007年に「コンピューター」が取れて、アップルになりました)を設立したスティーブ・ジョブズとスティーブ・ウォズニャックがいました*。二人はジョブズのフォルクスワーゲンとウォズニャックのHP計算機売って作った1,300ドルを元手に、PCを開発し、1976年にApple Iを666.66ドル(ウォズニャックが数字の繰り返しが好きだったのでこの値付けになりました)で売り出します。

Apple Iは当時のPCが普通組立てキットとして売られていたのに、完成品として売り出されました(それでも何か意味のある動作と出力を行うにはユーザーは相応の技術が要求されましたが)。Apple Iは200台が作られましたが、それは手作りの世界からPCを「大量生産」の工業製品に変えるものと言えました。

Apple Iの成功を踏み台にして、翌1977年アップルはApple IIを発表します。Apple IIはブラウン管表示装置とキーボードを持ち今日のPCとあまり変わらない外見を備えていました。何と言ってもApple IIは完成品として一般の人が家庭で使用することが可能なコンピューターでした。今やジョブズとウォズニャックの作ったアップルは急成長する大企業となりました。
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Apple II

小型(と言っても、あくまでも大型汎用機と比べてですが)コンピューターの分野で一時はIBMを超えるほどの勢いがあったDEC社の創業者のケン・オルセンは、「個人が家庭でコンピューターを使う理由はない」と言ったことで知られているのですが、Apple IIはシリーズ全体で6百万台、最盛期には年間百万台以上が生産され、そのうちの多くは個人が家庭で使用しました。オルセンの言葉はコンピューターの歴史上で外れた予言としてもっとも有名なものになってしまいました。

しかし、Apple IIが成功しても、依然としてPCは企業がまともにビジネスに使うものとは考えられていませんでした。性能は限定的なものでしたし、信頼性も企業の貴重なデーターを取り扱えるレベルにあるとは考えられていませんでした。

PCがホビーのレベルからビジネスのレベルに転換したのは、ビジネスコンピューターの巨人IBMがPCを1980年に発表してからです。値段は1万ドルから2万ドルもして、とても「家庭用」とは言えませんでしたが、多くの企業はこぞってIBM PCの導入を始めます。IBM PCは最初から日産1千台の生産を行い、IBMはたちまちアップルを追い抜きPC業界のトップに躍り出ます。

しかし、IBMの成功は決して盤石なものではありませんでした。IBM PCはわずか1年という短期間で開発されましたが、そのためにIBMは基幹部品のマイクロプロセッサーを始め多くの部品とOSの外部調達を行いました。マイクロプロセッサーはインテル製の8088、OSはマイクロソフト社のMS-DOSが使われました(当初OSはMS-DOSだけでなく、CP/Mも選べました)。

当時のIBMは社内でインテルの8088より1ケタ以上高速のマイクロプロセッサーを開発済みでしたし、OSもMS-DOSよりはるかに高機能のものを作ることが計画されていましたが、もし自社製品にこだわっていたら、価格も高くなり、販売時期もずっと遅れてしまっていたでしょう。IBM PCが発表されたころ、Apple IIはすでに何百万台も売られていました。IBMがPCの主導権を完全に失わないためには、遅れは許されなかったのです。
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IBM PC

企業がIBM  PCを積極的に導入し始めたことで、情報処理の様相は大きく変化を始めます。「個人向け」という市場がコンピューター業界に出現する一方、企業の中では情報処理が情報部門の独占物ではなくなりました。PCの上ではワードプロセッサーや表計算のような便利なツールが利用できるようになり、コンピューター利用の前提と思われていたプログラミングをすることもなく、誰でもコンピューターで生産性を高めることができるようになりました。

企業に導入されたPCはすぐに部門の中で連結されるようになります。LAN(Local Area Network)を使って結ばれたPCを使うことで、情報の共有や業務の連携が始まりました。面倒で、時間と金がかかり、しかも使い勝手の悪い中央集権型のメインフレーム(汎用機)での処理をPCやLANを使って置き換えることは「ダウンサイジング」と呼ばれました。少し前まで、「大きなことは良いこと」だったのに、「小さなことは良いこと」に変わってしまったのです。

ダウンサイジングにはPCとは別の動きもありました。多種類のコンピューターで稼働するOSのUNIXです。UNIXは主にPCよりはもっと大きなワークステーションと呼ばれるコンピューターで利用されました。

UNIXはアメリカの電話事業に君臨していたAT&Tで開発されました。司法省との独禁法の裁判でも和解条件としてコンピューター事業への参入を禁止されていたAT&Tは、特定の機種に限定されずに稼働する小型コンピューター向けのOSとしてUNIXを開発し、その後一般にUNIXを公開します。莫大な開発コストがかかるOSが広く利用できることで、主として技術者向けに沢山のメーカーがUNIXワークステーションを送り出すことができるようになりました。

UNIXワークステーションは個人や家庭で使われることはありませんでしたが、企業の中ではPCと同じように汎用機の世界からのダウンサイジングを加速するものでした。UNIXが稼働するコンピューターはPCより強力だったので、LANだけでなくより複雑で大規模なネットワークを構築することができました。

UNIXが遠隔地のコンピューターを連結するのに使った通信方式はTCP/IPと呼ばれるものでした。もともとTCP/IPは1960年代にアメリカ国防省のARPANETというネットワークの研究プロジェクトが元になっています。ARPANETプロジェクトは一般の汎用機のネットワークが中央集権型で中央のコンピューターが破壊されるとネットワークの機能も失われるという問題を解決するために始められました。冷戦下の世界でソ連の核攻撃でも生き残れるネットワークの構築を目指したのです。

1980年代になりTCP/IPはUNIXの中に組み込まれます。UNIXのコンピューターは中央集権的な管理機能を持たずに、互いにTCP/IPで連結することができました。ばらばらのLANのネットワークはTCP/IPで一つのネットワークになっていきます。

TCP/IPは最初は大学や研究所のようなアカデミーの世界で使われはじめましたが、TCP/IPを使えば、企業内だけでなく電子メールでどこのシステムとも連絡が取れることで、個人を含めた多くのユーザーに普及していきます。ダウンサイジングで情報処理が汎用機からPCに移されたように、ネットワークも企業の占有物から一般のユーザーへと開放されることになったのです。

コンピューター利用の中心は企業の深奥から、広い世界へと広がることになりました。そしてTCP/IPで連携された巨大なネットワークは「インターネット」と呼ばれました。(続く


* アップルコンピューターを設立したのは、スティーブ・ジョブズ、スティーブ・ウォズニャックと他にもう一人、ロナルド・ウェインがいました。ウェインはAppleのロゴとApple Iのマニュアルを作ったのですが、アップルコンピューター設立後2週間で持ち分の10%の株を800ドルで売ってしまいます。他の設立者の負債に共同責任を取ることに不安を感じたためと言われていますが、もしウェインが株を持ち続けていたら、現在は200億ドル財産を持っていたことになります。

インターネットの次に来るもの:目次
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The Next Wave:インターネットの次に来るもの (1) :コンピューター最初の30年
コンピューターは15年の周期で新しい時代が来ます。とは言っても、こんなことを言うのは私以外にあまりいないのですが、根拠のない話ではありません。今、コンピューターはインターネットの時代ですが、インターネットが本格的に普及を始めたのは1995年頃です。15年サイクルの法則が再び当てはまるのなら、来年2010年は次の周期、新しいコンピューターの波が来るはずです。インターネットの次の主役は何なのでしょうか。 今何が見えて、何がみえていないのでしょうか。まずはコンピューターの歴史に立ち返って考えてみましょう。

コンピューター産業の成立(1950-1965);エポックメーキングな出来事 コンピューターUNIVAC Iの発表(1950年)

世界最初のコンピューター(電子式デジタル計算機)は、アメリカのアイオワ大学のアタナソフとベリーが1937年に開発したABC(Atanasoff–Berry Computer)ですが、実際には1946年に同じアメリカのペンシルバニア大学でモークリーとエッカートによって完成したENIACが世界最初のコンピューターと思われることが多いようです(ノイマン型コンピューター)。
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UNIVAC I

ENIACを始めとして創世記のコンピューターは全て特注品でした。製品と言うより、プロジェクトで作り上げられた「高速計算装置群」と呼ぶのが相応しいものです。現代でもスパコンはこのような作り方をされています(スパコン開発中止は正しい判断)。実際、当初のコンピューターは全てスーパーコンピューターそのもので、「コンピューターは世界に3台しか必要ない」とまで言われました。

コンピューターが特注品の世界から脱して、製品として産業を成立させたのは、レミントンランド社(現在のユニシス)が1950年に発表した最初の商用コンピューターUnivac Iです。Univac(Universal Automatic Computer: 万能自動計算)と名付けられた、このコンピューターは72トンもある巨大な代物でしたが、それでもUnivac Iを「買う」ことは可能でした。Univac Iの登場を見て、IBMはIBM701を1952年に発表します。IBM701は当時としては大量に生産され、大学や研究所は手作りでコンピューターを作るのは時代遅れとなりました。

Univac IやIBM701の登場に合わせて、コンピューターは大規模な技術計算だけでなく、情報処理に使われるようになってきました。Univac Iの最初の納入先はアメリカ国勢調査局ですが、それに続き多くの企業が大量のデーターを処理するためにコンピューターを導入するようになりました。

コンピューターの売り上げは急速に増大し、コンピューターは一躍花形の成長産業となります。アメリカではGE、RCAなどの有力電機メーカーがこぞってコンピューター事業に参入し、フランスではブル、イギリスではICLといった国策コンピューター会社が設立されます。

コンピューター技術的にはこの時期には、進化論の世界で5億年前の「カンブリア紀の大爆発」と呼ばれる、現在のほとんどの動物の原型が登場した時代のように、新しいアイデアが次から次へと現れました。仮想記憶、リアルタイム処理、時分割方式、マルチプログラミングのようなコンピューターの基礎技術のほとんどは、この15年の間に現れます。

コンピューターが人々の日常生活に大きな影響を与えるようになったのは、何よりオンライン処理が始まったことです。航空会社や銀行はコンピューターと端末をオンラインで結び、座席予約や入出金処理を行うようになります。コンピューターは社会生活に深く組み込まれることになっていきます。

汎用機の時代(1965-1980):エポックメーキングな出来事 システム360の発表(1964年)

1964年、IBMは大型から小型までの機種を網羅し、科学技術計算と商業計算の両方をカバーするとするIBMシステム360ファミリーを発表します。「ファミリー」と名付けられように、システム360には50倍も性能の幅のあるいくつものモデルがありましたが、それらのモデルはアーキテクチャーとよばれる共通の設計方式により、全て同じプログラムが稼働しました。システム360以前はコンピューターの機種が違えば、プログラムを書き直さなければならないのは当たり前だったのです。

IBMのシステム360は事業的には大成功をおさめます(日の丸コンピューターを再評価する(1)参照)。 IBMはシステム360が小型機から大型機まで共通のソフトウェアが使用できることから、他社への移行を阻止してユーザーの囲い込むことができるようになったからです。
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IBMシステム360ファミリーの最大機種モデル90

システム360の成功により、コンピューターは事実上IBMのシステム360が標準となります。IBMの市場占有率は60%から70%に達し、IBMは競争相手より、独禁法を恐れるようになっていきます。

コンピューターの製造メーカーがIBMに集約されていく一方、コンピューター業界では色々ビジネスが生まれてきます。ファミリーによりアーキテクチャーが統一され、同じソフトウェアがどの機種でも稼働することになったことで大きなソフトウェア市場が期待できることで、ソフトウェアを独立して販売する会社が現れました。それまでは、ソフトウェア、つまりプログラムはコンピューターメーカーが提供するか、ユーザーが自分専用に作成するのが普通でした。

コンピューターのリース会社も出現します。システム360ファミリーは同じプログラムが稼働するので、上位機種に移行したユーザーの使用していた機種を、規模の小さなユーザーが使用することも可能です。つまり、製品の寿命が長くなり、リース会社は再リースで大きな利益を上げることが見込まれることになったのです。

IBMシステム360の周辺で色々なビジネスが立ち上がっていく中で、最大のものは互換機ビジネスだったでしょう。IBMシステム360のアーキテクチャーは公開されており、同じアーキテクチャーのコンピューターを作ることは可能でした。IBMシステム360以外のコンピューターが次々に市場からなくなっていく中で、IBMは互換機メーカーに手こずることになります(このあたりの話は「日の丸コンピューターを再評価する」(2)(3)(4) をご参照ください)。

しかし、互換機メーカーとIBMの競争は、所詮汎用機市場というコップの中の争いでした。コンピューターに対する関心は、コンピューターという「機械」そのものではなく、どのようにビジネスにコンピューターを活かすかという点に移っていきます。コンピューターが大量のデーターを高速で処理する能力を与えてくれることで、情報は、人、物、金に並ぶ第4の経営資源と言われるようになります。

MIS(Management Information System: 経営情報システム)、SIS(Strategic Information System: 戦略情報システム)といった「3文字の略語」がブームになり、大規模なデーターベースを構築し、オンラインで企業と顧客を結び付ける形で、コンピューター化が進展します。

この時代、「大きいことは良いことでした」。情報の価値は集約が進めば加速度的に増していきますし、コンピューターの価格性能比は大型機ほど有利になっていました。巨大なシステムを構築するには巨額な費用がかかり、大型のコンピューターシステムを作るために、企業は合併を行うべきだとまで言われました。

急速に発達したコンピューターは企業の中で神殿のような存在になっていました。一般の従業員や顧客は神殿のご利益をありがたく受け取るだけでしたし、企業の情報システム部員は神官としてコンピューターに仕えつつ、神の言葉をユーザーに伝える役割を持っていました。しかし、それは多くの人々にとって必ずしも満足のいくものではなかったのです。(続く

インターネットの次に来るもの:目次

スパコン開発中止は正しい判断
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かつては世界最速を誇った国産スパコン「地球シミュレーター」

鳩山首相が「政権の目玉」と位置づける事業仕訳が始まっています。無駄な支出、効率的でない支出、国が行う必要性が乏しい支出を絞り込んで、3兆円以上の支出を切り詰めようという事業仕訳ですが、その中で267億円の次世代スーパーコンピューター(以下スパコン)開発プロジェクトの支出が削減の対象になりました。

このプロジェクトは、秒速1京回の計算を行い2012年に予定されている完成時点で世界最高の性能を持つスパコンを開発しようというものです。野心的なスパコン開発プロジェクトをバッサリ切って科学立国日本は大丈夫なのか心配する人も多いのではないかと思います。事業仕訳自身の仕組みややり方についての評価はここでは深入りせず、スパコン開発を行う意義を検証してみたいと思います。

スパコンというのは、計算を得意とするコンピューターの中でも特に大規模で高速に計算を行うために作られたものです。もともと、コンピューターが最初に作られた目的は高速で計算を行うためでした(ノイマン型コンピューター参照)。その意味でコンピューターとは生まれながらにスパコンであったということができます。

ところが、コンピューターは高速に計算を行うのと同時に、情報処理を行う機能を持っています。コンピューターが普及したのは、この情報処理の能力を企業が活用しようとしたからです。コンピューターの使用方法として高速に計算を行うことの重要性は少なくとも事業としては相対的に小さくなり、情報処理をいかに効率的に行うことができるかがコンピューターの発達の中心となりました。

しかし、どんなにコンピューターの活用方法が多様化しても、高速に計算を行うというニーズがなくなったわけではもちろんありません。情報処理を素早く行うためには、コンピューターの計算速度も高くなくてはいけませんから、コンピューターの発達と歩調を合わせて、高速計算を重視したコンピューターの進歩も続きました。

1960年代になるとコンピューター業界ではIBMの支配力が圧倒的になります(日の丸コンピューターを再評価する(1)参照)。その中で1964年CDC(コントロールデータ社)は、当時のIBMの最強機種Stretch(IBM7030)の3倍の計算速度を持つCDC6600を発表します。

StretchコンピューターはIBM技術の粋を結集したものでしたが、高性能と引き換えに極めて高価で商業的には失敗作でした。数千人の研究者を擁するIBMが、CDCという小さな会社(CDC6600開発に従事したのは僅か34名だったと言われています)にIBMのフラッグシップともいうべきコンピューターを上回る性能のコンピューターを開発されたのは大きな衝撃でした。

あせったIBMはCDC6600と同じ年に発表されたシステム360ファミリーの最大機種に後に「ペーパーコンピューター」と揶揄されたモデル90を加えます。そのモデル90の開発は遅れに遅れ、IBMはCDCのビジネスを阻止する目的でモデル90を発表したと独禁法で訴えられることになります。

その後IBMはしばらくスパコンと呼ばれる領域から離れてしまいます。情報処理の性能を追求する製品ラインとスパコンの開発はあまり相乗効果が期待できないと考えたからです。そして、スパコンの開発はCDCやさらにCDC6600の開発責任者だったセイモア・クレイが設立したクレイ社のような小さな企業が中心に行われることになります。

スパコン開発に再び大企業が参加したのは、80年代になって日本メーカーが現れてからです。アメリカではIBMがスパコンの開発から撤退し、スパコン市場はクレイが独占していました。そこに、豊富な資金と技術力を持つ日本メーカーが世界最高速を争う機種を次々にスパコンを市場に投入するようになったのです。

その頃は汎用機あるいはメインフレームと呼ばれる大型コンピューターが全盛の時代でした。日本のメーカーは官民一体となったコンピュータ産業育成策が功を奏して、IBMに対し汎用機市場で唯一の強力な競争相手になっていました。日本メーカーは大型汎用機のために開発した半導体技術をスパコンに応用し、世界最高水準のスパコンを生み出したのです。

現在の日本のスパコン開発は、80年代のスパコン開発の延長線上にあると言えます。つまり、高性能スポーツカーをレーシングカーに改造するように、数値計算に特化した機能を持たせた特注品の半導体を性能向上の核にするのです。

ところが汎用機がコンピューターの主役の座を降りてから、世界のスパコンの計思想は大きく変わります。少量生産で高性能の半導体ではなく、パソコンやワークステーション、さらにゲーム機に使われるマイクロプロセッサーを大量に連結させて計算能力を得るようになったのです。

現在開発中の「京速」スパコンは、もともと日立、NECがベクトル型という、数値計算を高速に行う半導体チップと、富士通が開発するスカラー型という普通の高性能マイクロプロセッサーを組み合わせる方式で考えられていました。ところが今年になり、ベクトル型計算を行う半導体チップ開発を日立、NECが経営悪化のため、降りてしまったために、ベクトル部分なしで開発が続くことになってしまったのです。

スカラー型プロセッサーだけでスパコンを組み立てるのはむしろ世界の主流です。世界のスパコンをランキングしたTop 500 Supercomputer Sitesを見ると上位を占めているのは全て、IBMのPOWER PCやインテルのマイクロプロセッサーのような、大量生産の半導体製品をベースに作られています。日本だけがベクトル計算に特化した半導体を開発しようとしていたのは、一重に政府の援助があったからに他なりません。

それでも、大量生産の製品ではなく、ひたすら高性能を追及する半導体を開発するのは無駄ではないという考えもあるでしょう。しかし、それは間違いだと断言できます。下の図は先程のTop 500 Supercomputer Sitesにあるものですが、スパコンの最大機種の性能は年に2倍の率で向上しています。


Top500.jpg

日本のスパコン開発計画は2012年の時点で世界最高速を目指すもので、製品が完成すれば(NEC、日立が降りて銅のように達成するか不明ですが)第一位になることはほぼ確かなのですが、その後すぐにさらに2倍4倍と強力なスパコンが出現することも確実です。世界一の座は数年も保つことはできないでしょう。

大量生産型のマイクロプロセッサーは毎年性能が向上しています。世界のスパコンの大部分は、開発サイクルが長い超高性能の半導体ではなく、もっと小回りが利くマイクロプロセッサー技術を中心にしているのです。現代のスパコン開発の焦点は、大量のマイクロプロセッサーを冷却する技術や、プロセッサー間のコミュニケーションを高速で行うデータバス、そして計算問題を多くのプロセッサーに効率的に分散させるプログラミング技術です。特殊な高速計算に特化した半導体を開発するのは、時代錯誤と言われても仕方ありません。

NEC、日立の脱落で結果的には日本のスパコン開発は世界の主流に沿ったものにならざる得ないでしょう。根本的な前提が変わっても予算執行は決めた通り行うのは、いくら科学技術のプロジェクトでもまっとうではありません。まるで、「治水」目的のダムをいつの間にか、正反対の「利水」目的にして作り続けるような話です。

日本のスパコンが時代錯誤の特殊な半導体開発に多大の資源を投入してきたのは、60年代からの国産コンピューター産業育成策が生き残ってきたためだからです。科学技術の育成を事業仕訳的な方法で切り捨てることに大きな疑問はあります。しかし、今の見当外れのスパコン開発は大幅な軌道修正をすべきです。「中身がわからない時は、銭勘定で判断する」というのも、悪くはないという一つの例と言えるでしょう。




で、どうします?
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岡田外務大臣が迷走を続けています。普天間基地の問題解決に嘉手納基地との統合という、昔のアイデアを引っ張り出したと思ったら、オバマ大統領の訪日までに合意への大枠の道筋をつけたい、クリントン国務長官と会談するための訪米を計画したところ、日程が合わないと理由で頓挫してしまいました。
岡田外相は前回の民主党代表選を鳩山首相と争った実力者です。民主党の最高権力者の小沢一郎とは遠いと言われていますが、それが外務官僚の一種のサボタージュでクリントン国務長官のスケジュール調整の不調につながったのかもしれません。

本当のところはわかりませんが、岡田大臣が嘉手納基地と普天間基地の統合を率直にぶつけることで事態が打開できると本気で考えたことは間違いないようです。それはそれで、悪い考えではないような気もしますが(実際過去にはアメリカも、統合案を検討したことはありました)、現時点ではアメリカは受入れがたいようですし、沖縄県民の抵抗も強いと思われます。

気になるのは岡田外相の物言いや動きが、前原国交相の八っ場ダム建設中止や羽田空港のハブ化発言に見られる「前のめり」な行動パターンと良く似ているように見えることです。二人とも民主党代表経験者で年齢的も若く、「無事務めあげる」ことより「積極的に政策の方向性を打ち出す」ことに意欲的なのでしょう。このこと自身は評価すべきです。

しかし、外交と内政は大きく違います。内政は政権を持っていれば、相当な裁量権を発揮することができます。現に八っ場ダムを始め多くの公共事業はストップをかけられていますし、羽田空港のハブ化はともかく国際化は進めることができそうです(国際化が進めば、自然と実質ハブ化も進みます)。

これに対し、外交は普天間基地の取り扱いという、ややかしいとは言っても友好国相手の「軽量級」の問題でも解決は容易ではありません。もちろん沖縄の基地問題は外交問題である前に、取り扱いの難しい国内問題です。何より閣内に社民党という強硬な反駐留米軍派を抱える以上、選択肢の自由度は大幅に制限されています。

それでも、普天間基地の問題が外交にかかわっていることが難しさを格段に高めていることは間違いありません。アメリカが納得するか、あるいは腹を決めてアメリカと決定的に対立しない限り(それでもキューバのグァンタナモ海軍基地のように、アメリカ軍が居座る場合もありますが)、何らかの「解決策」に到達することはできません。

不思議なことに、一般大衆はともかく、多くの政治家も外交で自国に有利な主張を通すこがそれほど難しくはないと思っていることです。自分たちの正しい主張(つまり自国に有利な主張)は、正しいからには、強く言えば結局は通るはずだと思っているようなのです。

民主党の岡田大臣だけではなく、「美しい国」という「友愛」以上に意味不明な目標を掲げた安部首相は同時に「主張する外交」を唱えました。安部首相の「主張する外交」とは「戦後レジームの脱却」つまり、「日本はそれほど前の戦争で悪いことはしていない」「北方領土は絶対に返せ」といったものですが、相手の抵抗に恐れをなしたのか、ろくに主張もしないままで、体調不良とかで辞任してしまいました。

安部首相がろくに「主張する外交」を展開しなかったのは、それほど悪いことではなかったでしょう。相手に気に入らないことを強く言えば、相手は当然反発します。この反発の程度はこちらの主張の強さの程度に比例しますから、まともに「主張する外交」を行っていれば、相当ひどいことになったと予想されます。

自分にはコントロールできない外国を相手に点数稼ぎをしようというのは、日本に限らず世界の政治家で広く見られます。それも国内問題がうまくいかなくなればなるほど、その傾向が強まります。どうも国内問題の難しさを目の当たりにすると、外国の方が言うことを聞かせることが簡単だという錯覚に陥ってしまうようです。

普天間基地の問題をどのように解決すべきか色々意見はあるでしょう。しかし、確実なのはどんなに大変そうでも、国内問題は外交問題より自国の政府のコントロールできる余地がずっと大きいということです。当たり前なのですが、岡田大臣を見ていると、そんな単純なことを本当には理解していないのでないかと思えてしまいます。余計なお世話なら良いのですが。



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