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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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英語が絶対に上達する方法
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筆者は英語教育の専門家ではありません。そもそも英語も大してできません。ネーティブレベルからは程遠い英語力です。ここで書かれている内容は、雑学的知識と筆者自身および筆者がマネージメントとして部下の英語力向上に苦労した経験に基づくものです。


ダイエットと英語

この二つには数限りない方法が今まで提案されてきましたが、ほとんどの提案には共通点があります。「楽して効果的に目的が達成できる」というものです。確かに「好きな物を好きなだけ食べてダイエットできる」という方法はあります。一日30分から1時間の有酸素運動をすればよいのです。食べる量がどんなに多くても運動量をそれにあわせて増加させれば、ボクシングの試合に出るのでもなければ、ほとんどの人は満足できる程度まで痩せることができます。

「有酸素運動を毎日続けるような面倒くさいことはできない」と言いだすと、食事を減らせばやはりダイエットは達成できます。しかしそれもつらくて嫌だということになると、ダイエットは急に難しくなります。というより科学的には信頼のおける、運動も食事制限もなしでダイエットできる方法は存在しないと断言してよいでしょう。

食べた物を記録するだけで痩せるというレコーディングダイエットも記録することで徐々に食事量への自覚が高まって、結果的に食べる量が減るというものです。簡単そうですが毎食の食事内容を全て記録していくのはそれなりに忍耐と努力が必要ですし、効果も個人差が大きく全然痩せない人も少なくありません。

食べたり飲んだりして痩せるとはっきり証明された食品はありません。カロリーの高いものを別な食品で置き換えることで痩せることはあるでしょうが、付け加えて痩せる食品などあるはずがありません。「体脂肪を洗い流す」という宣伝をしているメーカーもありますが、そんなものは仮に効果があったとしても非常に限定的でしょう。

食事制限と運動というはっきり確実に効果がある方法が存在するのに、科学的な根拠もなく自分には効果があったというだけで(それも本当かどうか確認できないことも多いのですが)「画期的な我慢せずにできるダイエット」という本が次々に出るのは、人間は努力がいかに嫌いかということです。

英語もダイエットを同じで楽して上達する方法などないことはわかりきっているはずですが、簡単にベラベラ英語をしゃべることでできるような宣伝があふれています。実際には英語力の向上はダイエット以上に困難です。少なくともダイエットは食事を制限して運動するというつらいかもしれないが、絶対確実な達成方法がありますが、英語力向上で全員が合意せざる得ないような確実な方法論はありません。

睡眠学習

楽をして英語を身につけたいという気持ちにストレートに応えるのが、睡眠学習です。寝ている間に英語の会話なりなんなりを流して、目を覚ましたら頭にそっくり入っている。こんな楽なことはありません。「もっと勉強しなさい」と言われたら「はい、一生懸命もっと寝ます」と言えばいいのですから、まさに究極の努力のいらない勉強法です。

残念ながら、睡眠中に効果的な学習を行えるという科学的な実証実験は存在しません。音楽のメロディーのようなものであれば、あるいは知らないうちに睡眠中の曲想が記憶に残るようなことはあるかもしれませんが、語学のように複雑なものを組織だって記憶にとどめるのに睡眠中の学習は全く役に立たないと言ってよいでしょう。

睡眠学習のようなものは科学的な手法としてはもちろん、宗教的な儀式や信仰心を高めるためにも利用されたという話はありません。長い人類の歴史の中でも睡眠学習の有効性は否定されてきたと考えられます。夢占いはあっても、夢修業は存在してこなかったのです。

子供の言語習得法

子供は言葉を自然に身につけてしまいます。子供のように意識的な努力なしで、いつの間にか英語をしゃべるようになる方法はないのでしょうか。意識的でも子供のように能率的に流暢に英語がしゃべることができないものでしょうか。

人間は生まれてから何カ月の間かは、意識もなく、言葉の中身もなにもわからないうちに、話しかけられた言葉を覚える能力があります。この能力はパソコンがウィンドウズを立ち上げる時のようにハードウェアとしての人間が持っているもので、一生のうちで一回だけ使うことができます。このような学習法が利用できるなら、語学を学ぶことはほとんど生理的な現象のようなものになるでしょう。

再び残念ながら、この人間がハードウェアとして持っている語学習得力は生まれてから数カ月しか有効ではありませんし、使えるのは一回限りです。母国語を学ぶように別の言語を学ぶことはできないというのが結論です。

しかし、生まれたばかりの赤ん坊でなくても子供は外国語を素早く習得します。習得が速いだけでなく、年少のうち、遅くても12歳以下で現地で学んだ外国語はほとんど母国語同然に話すことができるようになります。この場合自分の両親の言葉、つまり本来の母国語もどちらも話すバイリンガルの能力を持つことも可能です。

共通の言語を持たない民族がお互いの意志粗疎通のために両方の言葉を合わせて作られた言葉をピジン語ということがあります。ピジン語はいってみればネーティブのいない言語です。誰一人ピジン語を流暢に話すことはできません、誰にとってもピジン語は外国語です。

ピジン語の表現力は限られていますし、確立された文法もありません。非英語国民の外国人と英語しか共通の言葉がなく、どちらも片言の英語で会話した経験を持つ人もいると思いますが、ピジン語というのはそのようなものです。

ピジン語が次の世代に受け継がれると、言葉としての完全さを備えたクレオール語になります。クレオール語は他の言語と同様に洗練されていて複雑な意志疎通を行うことができます。クレオール語を作り出すのはピジン語を話していた大人の子供たちです。子供たちにとってもクレオール語は本当の母国語ではありません。

クレオール語を作るのと同じ能力を使えば、外国語を母国語同然に身につけることができます。しかし、このような能力は12歳を過ぎると急速に失われます。移民の子供で年齢が2-3歳しか離れていない兄弟で上の方が訛りの強い言葉しか話せないのに、下の方は自然なアクセントで話すことができるということはよくあります。

何とか12歳以下の子供がクレオール語を作り出すような能力を獲得することはできないでしょうか。可能性が完全に否定されているわけではありませんが、言語習得力が年齢によって根本的に異なっていることから、この能力は脳の発達状況に密接に関係したものと推定するのが妥当でしょう。子供のように言葉を簡単に覚えて、ネーティブ同然に話せるようになるのは、ほぼ不可能と考えるしかありません。

聞き流しで覚える

子供と同じやり方はできなくても、四六時中英語を聞いていてるうちに自然に英語を覚えるというのはどうでしょう。このようなことを標榜している英語教材の会社もありますし、これなら効果がありそうな気もします。

しかし、これらの教材の説明を見ると単純な聞き流しではなく、たとえば5分づつの単位で一日何度か時間の隙間を見つけて聞くことで英語独特の音やリズムになれるというものです。 これではちょっと目には普通の英語教材とあまり変わらないように思えます。

英語を勉強しようと思ったら、英語の音に慣れることは必要ですし、録音されたネーティブスピーカーの英語を聞くのは基本中の基本です。「聞き流し」とか「聞くだけ」とことさら言うこともないのではないかという気がしてきます。そのような従来型の焼き直しのような方法ではなく、本当にバックグラウンドミュージックのように英語を聞いているだけで、「ある日突然英語が口から飛び出してきた!」という具合にならないでしょうか。

まぁ無理でしょうね、というのが結論です。少なくとも音楽のように聞くだけでは英語が頭の中に入ってくることはないでしょう。英語の音に慣れることは意味があるでしょうが、FENを一日中聞いていたから英語ができるようになることは考えられません。なぜならいくら音に慣れても言語の音は意味と結びつく必要があり、ただ音を聞くだけでは、いつまでたっても意味との結びつきができないからです。

英語の音にずっとさらされることで英語の音に慣れることは効果があるでしょうし、発音もネーティブ風になることも期待できます。しかし、ただ英語の音声を流すだけで、いつの間にか英語が身に付くことはまずありえません。その部分は別の努力で克服することが必要です。少なくとも英語を学ぶための努力が聞き流し方式でそれほど軽減されることはないでしょう。

英会話スクールはほとんど役に立たない

世の中に溢れている英会話スクールの効果はどうでしょうか。もちろんどの程度英語力が向上するかは、英会話スクールに行く頻度と時間によって大きく違ってくきます。とは言っても、週1回1時間程度の授業(これでも費用、時間とも少ない犠牲ではありませんが)では効果は非常に僅かでしょう。

生まれてから英語で外国人と会話をしたことがない、という人も世の中には少なくありませんから、経験していないことを経験するという意味はあります。しかし、それは最初何回かスクールに行けばすむことで、それ以上の効果はあまり期待できません。

問題の一つは英会話スクールが全くなじみのない言葉、たとえばスワヒリ語とかタミール語のように基本的な文法もろくに知らない人を対象にするような、やり方をしていることがあります。初心者は単純な文章を疑問文にしたり、主語を替えたりして英語を勉強するような方法を取らされます。ところが多くの日本人、大学受験を経てかなり英語を学んできた日本人は基本的な文法などは十分理解していて、不足しているのは英語をベラベラしゃべる能力です。簡単な文法を一生懸命教わるのは時間の無駄というものでしょう。

結論から言って、英会話スクールは効果がない、少なくともかける時間と費用に見合った効果はないと断言できます。とくに会話能力でレベル分けされたグループレッスンは役に立たないと考えて間違いありません。グループ分けでは英語スクールに長年通っていて、英会話にはそれなりに慣れていても、単語力など本質的な英語力の劣る人が上級になりがちです。そのような人たちと同じグループでとつとつを下手な英語を聞きあっても英語がうまくなるはずがありません。

呆れるのは英会話スクールが映画が字幕なしで楽しめるとか、外人と対等に議論を闘わせることができるような宣伝をしていることです。これはゴルフスクールが初心者が翌年のマスターズの参加資格を得ることができると言っているようなものです。広告に誇張は付きものですが、もう少し現実的なことが言えないものでしょうか。

受験英語は役に立つ

日本の英語教育批判で一番納得がいかないのは受験英語批判です。平均的な大学出たての新入社員に英会話能力はあまり期待できませんが、訓練で向上する可能性が高いのは、一般的には受験英語が強かった偏差値の高い学校の卒業者です。英語での受験をしなかった大卒者は向上のための努力が相当要求されます。

理由ははっきりしています。外国生活が長いなど特別な環境で育たない限り、平均的な日本人の英語力は受験のための英語の勉強に支えられているのです。受験英語を一生懸命勉強した人は、文法能力は十分ですし、単語力もかなりあります。どんな外国語でも文法や単語を学ぶのには相当努力が必要です。簡単に英語力を向上させる方法などないのですから、過去の努力は貯金として役に立ちます。

受験英語に対する批判の主な理由は、いくら受験勉強をしても会話能力が身に付かない、英語をしゃべることができない、というものです。しかし、英語で本当に努力が必要なのは単語力です。単語を知らなければ知的な会話はできません。単語力さえ確かなら会話能力が低くても高度なコミュニケーションは可能です。

受験英語で不足しているものがあるとすれば、もっと沢山の文章を読み、もっと沢山の単語を覚えることでしょう。そんなことを要求すれば英語の勉強の負担はさらに大きくなります。しかし、英会話の授業を必修にするくらいなら、もっと沢山英語を読ませる訓練をした方がよほど本質的な英語力は向上するでしょう。

会話能力の向上を目指すなら、日本の学校なら大量の文章を書かせるやり方が効果的だと思われます。日本人の英語教師に十分な英作文の能力は期待できませんが、細かい文法や表現の英語らしさをあまり気にせずに沢山の文章を書く能力を向上させれば、しゃべる訓練は後からいくらでもできます。


英語が絶対に上達する方法

どのような英語力を身につけるべきかは「何のために」ということがはっきりしていなければ答えようがありません。留学したい、就職で英語力を求められている、ということなら、ToeflやToeicで一定の点数を取ることが必要ですし、傾向と対策のない試験はありませんから、点数がとれるような訓練をすればよいでしょう。理屈はありません。

タンカーで外国人の船員を使って船を動かすというのなら、お互い訛りの強い英語でコミュニケーションを行う会話力が要求されます。海外旅行ならチェックインができて、レストランで注文ができれば団体旅行でなくても概ね楽しめます。どちらも英語力を高めると言うより、特定の状況に慣れることで用を足すことができます。

多くの日本人のビジネスマンが求められているのは、電子メールで確実に意志疎通したり、プレゼンをすることができることでしょう。業界特有の単語や技術的な単語は仕事をしながら、それこそ自然に大きな努力をしないで覚えられますから、求められるのは知的な人間と思ってもらえる程度の英語能力です。

このような英語力を確実身に付ける方法はあります。ただし、前提としているのは大卒のビジネスマンです。このレベルの人たちは会話学校で文法を改めて学ぶ必要はありません。不安があれば、学習参考書を1冊買って、ざっと復習すれば十分です。

(1) 辞書を引く時間を除き、10-15分程度で読める英文を、英字新聞、雑誌などから選ぶ。身近な話題の記事で内容に親しみが持てるものにする。辞書を引いても意味の十分わからないものは使わない。
(2) 英文を声を出して読み、次に書き写す。筆記、タイプどちらでも良いが、ワープロで自動的にスペルチェックを行えるものを使うと、スペルを間違えない訓練になる。
(3) 書いた文章をできるだけ記憶して音読する。間違えても構わないが、何度か繰り返してできるだけ記憶する
(4) スピードが速くなってきたら、英文の長さを長くしていき、最終的に雑誌半ページになるくらいまで長くしていく。
(5) この作業を1回2時間を目安に毎日、最低週6日行う。
(6) 選択する文章は、ビジネス、政治など一般のビジネスマンにとって身近なものを中心にする。スポーツ、芸術、医療関係もよいが、単語に特殊なものが多いので、趣味に偏り過ぎないように注意する
(7) ある程度単語に慣れてきたら、FENやCNNなどの英語のニュースを聞いてみる。単語と内容はかなり理解できるので、聞き取れないことを気にしないで聞いてみる。ただし、この練習は毎日の2時間の勉強とは別に時間を取って行う。

上の訓練を1年続けると英語力は格段に向上します。多分、特別勉強をしないで数年海外で暮らしたビジネスマンよりはるかに地力のある英語力がつくはずです。

1日2時間ですからかなり忙しい人でも不可能ではないでしょう。英会話スクールのようには金もかかりませんし、予約が取れない悩みもありません。正しい英文を書くことに習熟するので、電子メールで戸惑うこともなくなってきます。

良いことずくめのやり方ですが、効果はあっても実行できる人はごく僅かでしょう。正直言って筆者は1週間で挫折しました。挫折しなかった人は、いつの間にか読み書きのコミュニケーション能力は日本人としては達人の領域になっていました。

ダイエットも英語も確実に成功する方法があります。その方法を実行するのは至難の業です。しかし、楽な方法というのはまず間違いなく科学的根拠も実績もない不完全なものです。世の中努力してもダメなことはいくらでもありますが、努力しないで大きな成果を上げることは至難のようです。


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小沢一郎氏のマキャベリズム
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チェーザレ・ボルジア

塩野七生は「チェーザレ・ボルジアあるいは優雅なる冷酷」という小説で、この日本ではあまり知られていなかった、ルネッサンス時代のイタリアの英雄の生涯を描きました。ローマ教皇を父に持つチェーザレ・ボルジアは、15世紀末から16世紀初頭を生き、小国に分裂したイタリアの中でローマ教皇領の安定と確保に奮闘します。

塩野七生の小説の題名の通り、チェーザレ・ボルジアは当時の基準でさえ、残酷、冷酷な人物と思われていました。しかし、君主論を著したニッコロ・マキャベリは、その中でチェーザレ・ボルジアこそ理想の君主であるとしました。分裂し混迷するイタリアを統一し平和と安定をもたらすためには、冷酷さ、非情さは君主にとって持つべき資質であるというのです。

マキャベリが君主論で語った君主像は「目的は手段を正当化する」というマキャベリズムとして知られています。実際にはマキャベリは単純に目的が手段を正当化するとしたわけではなく、「国家の危機に際して、君主は手段を選んではいけない」としたので、通俗的なマキャベリズムはマキャベリの考えを摘み食いしただけという批判もあります。また、マキャベリが理想の君主としたチェ-ザレ・ボルジアもマキャベリは高邁な思想や卓越した自己制御を高く評価しており、残酷さ、権謀術数だけが君主の条件としたわけでもありません。

チェーザレ・ボルジアの目指したものは、教皇の権威によって分裂して新興大国のフランスなどの脅威にさらされていたイタリアを統一することでした。そして手段を選ばない冷酷さは、そのために必要なものとしてマキャベリには正当化されるべきものでした。

しかし、マキャベリが君主論で語った、「君主は愛されるより、恐れられた方がよい」という言葉は、その後現れた独裁者に座右の銘のように受け継がれていきます。優雅でも何でもないむき出しの冷酷さが支配者の統治の道具であり、マキャベリはあたかもその擁護者のように思われるようになりました。

選挙原理主義というマキャベリズム

小沢一郎氏にとって達成されるべき目的、目標とは何なのでしょうか。もちろん、本当のところは心の中をのぞくことができない以上わかりません。しかし、小沢氏が一貫して主張してきたのは、二大政党制によって政権交代ができるような国、具体的にはイギリスのような政体に日本を変えるということです。

当然ですが小沢氏はイギリスが日本の理想そのものだなどとは言ってはいません。しかし、小沢氏のウェッブサイトの政策とオピニオンには小沢氏の憲法改正構想が載せられていて、その中で参院議員を選挙では選出せず天皇による任命による終身制とする実質的な一院制を提唱しています。これは上下院のうち、上院議員は貴族から選ばれるイギリスとほぼ同じです。そしてイギリスは小選挙区制により二大政党政治を実現している国でもあります。

小沢氏の考える小選挙区制度の一院制によるイギリス型議会に比例区はありません。小沢氏は小選挙区での当選者と比例区の復活当選者を厳しく区別しています。このような傾向は自民党でもありますが、小沢氏の場合はずっと徹底しています。比例区の復活当選者など、小沢氏の理想とする選挙制度の下では存在しないはずのものなのです。

イギリスのような二大政党制によって政権交代が行えるように日本を変え、それによって日本人がより主体的に自分自身の責任と判断で民主主義に参加する。これが小沢氏の考える国家像、「普通の国」です。

このような小沢氏の描くイギリス型の政体という理想像は、賛否はあるにしても特にゆがんだものとは言えないでしょう。民主党が自民党から政権を奪えたのも、政策の中身より政権交代を実現したいという国民の意志が強く働いたからです。しかし、小沢氏が個別の政策より枠組みとしての選挙制度の変革を重視しているとすれば、納得できない人の方も多いはずです。一般の人にとっては選挙制度は単なる手段で、実施される政策こそが重要だからです。

小沢氏の場合、選挙という手段があらゆるものに優先します。どんな政策でも、政権を取らなければ実行できないし、政権を取るためには選挙に勝たなければなりません。小沢氏にあるのは、選挙に勝てずに理想を語っても全く意味はなく、政治家にとっては、選挙に勝つことが第一歩であり全てである、という選挙原理主義です。

小沢氏は政策論議をするなどというのは大して興味もないし、意味もないと考えているのでしょう。小沢氏のこのような姿勢は、一見思想的に非常に柔軟な態度を取らせます。民主党の中で小沢氏を支持するグループに旧社会党系がありますが、小沢氏は過去も現在も改憲論者です(小沢一郎ウェッブサイト 憲法改正論)。その小沢氏を現行憲法絶対保持の旧社会党系議員が民主党で強い小沢氏支援を行っています。

確かに二大政党制実現は政策の中身とは別に追及する意味はあります。自民党政権が長く続いているうちは、二大政党制の実現は、まず選挙で自民党を破ることに他なりません。小沢氏の選挙原理主義の目的と手段は一致していました。

しかし、選挙原理主義は政権を獲得するということにとどまりません。一つの政党の中で自分の意見を通していこうと考えると、政党の中で多数派である必要があります。さらにその多数派の中での多数は占めていこうということになると、非常にコアな仲間、というより意のままに動く手下を作るのが一番です。その集団でより大きな集団を支配することで、最終的には一つの政党そして国会の多数派を確保することになります。

このやり方は、小沢氏が師事した田中角栄氏の手法をそのまま踏襲したものですが、小沢氏の場合は、それをさらに徹底させています。たとえば、小沢氏は信条、力量と無関係に有名で票が取れそうだというだけで、タレント候補を擁立するのが得意です。タレント議員であろうと何であろうと議席には変わりがないというのが小沢氏の考えです。

逆に議員は議席を持っているという価値しか認めることはありません。議員の値打ちは選挙に勝てるかどうかということと、自分の言うことを文句を言わずに聞くかどうかが一番大切で、どんなに能力があっても取り換えのきく部品としての意味しかないのです。

小沢氏の選挙原理主義は選挙手法にも現れます。テレビで意見を述べて政策と顔を売ると言うやり方は小沢氏は評価しません。重視するのはどれくらい沢山の有権者と直に顔を合わせ、握手をし、言葉を交わすかということです。小選挙区制は二大政党制を作りやすいということと、小沢型選挙に向いているという二重の利点が小沢氏にとってはあります。

小沢氏の目的は手段を正当化するのか

このように考えると小沢氏の中で、イギリス型の二大政党政治システムのもとで自立した日本人を作るという小沢氏の目的と、そのために選挙に勝ち抜くという手段が倒錯してしまっているのではないかと思えてきます。自分の意志がなくトップダウンで言われた通り投票する投票マシンとしてしか国会議員を見なくなっているのです。

一連の資金疑惑にしても、カネの出所は別として多額の資金が、自分の意のままに動く議員部隊を作るために必要だったと考えて間違いないでしょう。新しい日本の政治システムを目指しながら、自分の意のままに動く手下を作るために昔以上の金権選挙を行うことになってしまっています。

小沢氏が信念の政治家であることは間違いありません。小沢氏を支持する人々の多くは、政党を作っては壊す「壊し屋」の小沢氏が政権獲得に向かう強固な意志と信念を持っているということを支持の理由にしています。

問題は二つあります。政治改革が現代日本にとってそれほど重要なのかということ、もう一つはそのためにはロボットのような小沢氏の意のままに動く国会議員を作るような小沢氏のマキャベリズムを許すかということです。目標の実現のために、15年前の細川政権の発足以来、小沢氏は共産党を除くほとんど全ての党と連立を組んできました。小沢氏にとって、政党の政策は関係なく、政党も一つの投票マシンに過ぎないのです。

チェーザレ・ボルジアの生きたルネッサンス期のイタリアは小国に分裂し、常にトルコのような大国の脅威にさらされていました。一方ではフランス、スペインなどの新興の国民国家がヨーロッパの中心になりつつありました。ローマ教皇が権威の中心だった中世はすでに終わっていました。

その中で、イタリア統一のためには冷酷、非情の限りを尽くしたチェーザレ・ボルジアは、同じ時代のマキャベリにとって理想の君主だったのでしょう。今の日本にとって選挙制度や政体の改革がそれほど重要な課題かどうかは疑問が残ります。民主党政権が成立した今となっては、政権交代自身は目的ではなくなっています。それとも、参議院の実質的廃止を含む小沢氏の考える新しい憲法を作ることを、イタリア統一のような大目標と考えるべきなのでしょうか。

このまま何の障害もなければ、小沢氏はロボットのように動く議員団をコアの手下として衆院支配、参院支配と進んでいくでしょう。小沢氏の執念と統率力があれば、憲法改正すら可能かもしれません。しかし、小選挙区を土台にした二大政党政治にしろ、憲法改正にしろ、枠組みに過ぎず中身ではありません。

小沢氏が政策を連立する政党(繰り返しますが、小沢氏にとってはただの投票マシンです)によって融通無碍(ゆうづうむげ)に変える中で一貫しているのは、議員のロボット化という言ってみれば民主主義の否定です。資金疑惑もさることながら、ここまで目的のために手段を選ばない小沢氏のマキャベリズムを日本は許容することができるのでしょうか。

マキャベリズムは本来君主が民衆を支配するためのものです。しかし、文字通り主権在民の国である日本で、支配者は国民でありどんな権力者も単なる僕(しもべ)に過ぎません。選挙と世論調査という意思表示によって、権力がたちまち奪われてしまうことは、私たちが見たばかりのことです。

マキャベリの言うように「愛情は利害によって裏切られるが、恐怖は必ず行われる処罰により裏切られることは」ありません。しかし、恐怖を感じなければいけないのは、ロボットのような小沢チルドレンではなく、小沢氏自身の方ではないでしょうか。

参考:日本はイギリスになれるか

おかしいぞ検察批判
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ねじ曲がった理屈

小沢民主党幹事長の資金疑惑捜査がいよいよ佳境に入っています。小沢氏が特捜本部の事情聴取に応じる構えを見せたことで、小沢氏が実際に聴取に応じるか、応じてどのような証言をするか、あるいはしないかで、事態の進展の大きな岐路を迎えています(2010年1月21日現在)。

世論調査でも、小沢氏が疑惑の十分な説明していないと大部分の人が思っていることが示されており、「小沢が金のことでおかしなことをやっているらしい」というのは一般のコンセンサスになっていると言っても良いでしょう。

その中で、民主党を中心に検察に対する批判が出てきました。検察が情報リークにより世間を誘導しているのではないか、国会議員(石川衆議院議員)を政治資金収支報告書の虚偽記載という「形式犯」で逮捕連行したことは検察権力の横暴ではないかなどが主な論拠です。

マスコミでも、週刊朝日の今週号(1・29号)は表紙に「検察の狂気」と書いて、検察の捜査の問題を追及しています。検察批判の論理は当ブログ「小沢氏は何を説明すれば「説明責任」を果たせるのか」の中でも紹介した堀江貴文氏のブログにもあるように、検察は無謬ではなく、特に特捜部は恣意的に事件をでっちあげる傾向をあるというのが、大きな論拠になっています。

特捜部に限らず、検察、警察が数々の冤罪事件を引き起こしたことは間違いありません。取調べ方法も、容疑者に弁護士も面会させず、脅迫的に長時間締めあげるやり方で自白を強要するなど、先進国の水準では相当問題のある捜査方法が行われてきたことも事実です。

しかし、「検察はいつも正義と限らない」と言う人たちは、「検察は間違えたり、恣意的に事件をでっちあげることがある」だから「小沢氏の事件もでっち上げの公算が極めて高い」と暗に主張しています。これは理屈がねじ曲がっていると言わざるえません。

検察が間違えたり、でっち上げを行ったりすることはあるにしても、四六時中嘘ばかり言っているとか、検察が起訴した犯人は全て無罪だということがあるはずはありません。こんな粗雑なレトリックを週刊朝日のような「正当」なマスコミが主張するのはあきれるしかありません、

とは言っても検察批判をする人の言い分を検討してみることも必要でしょう。過去にマスコミが捜査当局の話に乗って犯人を決めつけ、結局間違いで犯人扱いされた人の人権を著しく侵害したことは何度もあったからです。

ただし、矛盾するようですが、ここでは報道された、おそらく大部分は検察のリークによる情報に基づいています。もし、検察が徹底的に嘘の情操を流していた場合、たとば石川議員が「4億円を現金で土地代金として小沢しから受け取った」という話しも全て根も葉もなければ、事態は全く違ってきます。後でそのようなことが明らかになれば、それこそ検察を厳しく弾劾する必要があります。

色々の検察批判

罪状も明白でないのに捜査が行われ、聴取が要求されている:

小沢氏の現在の状況は、夜中に歌舞伎町の路上で不審尋問を受け、バックの中から札束がバサッと落ちたようなものです。その札束がどのような性質なのか、盗んだのか、麻薬の代金なのか、あるいは自分の貯金を下ろしたものなのか、「取りあえず警察署にご同行いただけますか」と言われても仕方ないでしょう。

このような場合、「全ては任意なのだから、警察署への同行は一切応じる必要がない」とか「住所、氏名を明らかにしさえすれば、それ以上警察がとやかく言うのはおかしい」といった考え方もあるでしょう。法律的には正しいかもしれません。しかし、小沢氏の場合は、この例で言えば住所氏名といっても、口頭で伝えるだけで、免許証を見せることさえ拒否したという状況です。

検察が取りあえず、事情を聴取し、金の出所、保管方法などを問いただそうとするのは極めて常識的な話だと思います。世の中には「常識なんて関係ない。あくまでも法律にどう書いているかだ」という人もいるのですが、一般には通用しないでしょう。

怪しげな金が、窃盗など何らかの犯罪性があるかは、取り調べなければ判らないのは当然です。罪状が不明確だから、「犯罪がないのにでっち上げている」という理屈は成立しないでしょう。

検察は最初にストーリを作り上げて、そのストーリーに合うように証言を強要している:

検察、警察が何か不審な事態に遭遇すると、まず仮説を立てます。先程の例なら「この金は窃盗によるものではないのか」とか「麻薬取引に使う金に違いない」と想定して、その想定のもとで捜査を行い証拠を固めようとします。

仮説が間違っていたため、証拠固めがうまくできず、何とか自白を取ろうと無理を重ねると、冤罪を生む危険もありますが、仮説、検証で捜査を行うのは当然で、特に複雑な手口を用いる知能犯、組織犯では必須のことと言えます。仮説を立てることを「最初からストーリーを作っている」と言って非難するのは、捜査の基本を否定していることになります。

政治資金収支報告書虚偽記載は形式犯だ:

形式犯、つまり法律には違反しているが実害を社会的に与えるものではない、ということですが、確かに虚偽記載が単純な記載の忘れ、間違いであればその通りで、記載の修正を行えば十分です。しかし、捜査の目標は明らかに、政治資金報告書に虚偽の内容を記載せざるえなかった何か実際に社会に害悪を与える犯罪行為です。

これは死体遺棄で逮捕して、殺人の捜査を行うのと同じです(もちろん死体遺棄は形式犯ではありません)。このようなやり方は別件逮捕ではないかという疑問が付きまといますし、当局がその気になれば、どんな理由でも引っ括ることができるという捜査の暴走を招く危険があります。

結局は、逮捕事案と本丸の犯罪との関連性がどの程度あるか、本丸の犯罪としての重要性がどのようなものなのか、他の有効な手段はなかったなど総合的に決まる話です。その意味で今回の検察側の手法が妥当なものかは将来検証が必要かもしれませんが、形式犯だからそのことで逮捕した手法に違法性があると直ちに言うことは到底できないでしょう。

国会議員をこんなことで逮捕できるのか:

石川衆議院議員は国会開会の直前に、政治資金収支報告書の虚偽記載で逮捕されました。国会の開会直前に国民の負託を受けた国会議員をこんな微罪で逮捕するとは何事か、というのです。

一般論で言えば、国会議員の逮捕は極めて慎重であるべきでしょう。たとえば、市役所で50万円の公金横領に関係がありそうだという嫌疑で国会議員をあっさり逮捕してしまう、としたら大問題でしょう。

しかし、今回の事件は幹事長に関連した事件、しかも場合によれば小沢氏の逮捕にもつながる可能性のある事案です。国会議員がどんなに重いものでも、事件の重要性がそれ以上であることは自明です。国会議員逮捕を一つのステップとするのは致し方ないでしょう。

要はバランスの問題として検察が常識を逸脱していないかどうかということです。これもまた将来その判断の妥当性を検討すべきことかもしれませんが、国会議員だから微罪で逮捕してはいけないとう理屈は単純には通りません。

検察の情報リークはおかしい:

検察の守秘義務はどの程度の制限はあるかは良く知りませんが、検察、警察が適当に情報を記者にリークして情報操作を行う、しかもそれが、記者クラブという狭い密室社会で行われることの問題は確かにあります。本来はもっとオープンな記者会見などで情報の開示をし、開示情報の責任を明確にすべきでしょう。

しかし、情報リークが今回初めてというわけではありません。色々な情報が「関係者の話でわかりました」という報道は普通に行われてきました。ある種の慣習としても認められてきたものを、小沢氏の事件だけ例外的に認められないとなると、今回の事件だけ特別視する理由がなければいけません。さもなければ、情報リークを与党側が問題として取り上げることが不公平なご都合主義と言われても仕方ないでしょう。

しかも、事件自身の性格を考えると、これは小沢氏という恐らく現在日本で最高の権力者を検挙しようとするものです。通常なら検察、警察当局は圧倒的な力を容疑者に対して持っていますが、政界の有力者が関係するものは当局が強いとは限りません。当局がマスコミを使って世論を味方につけようとすることは、容疑者との力関係と政界の有力者の犯罪を摘発するという公益性から考えて、むしろ一般の犯罪捜査より広範に認められるべきでしょう。

小沢幹事長の反官僚的姿勢が法務官僚の攻撃対象になった:

このような陰謀説を妄想と片付けることはできないでしょう。政界のスキャンダルの多くが、官僚しか知らないはずの情報に基づいていたことは何度もありました。しかし、検察側にそのような謀略があっても、本当に何か犯罪に関与していることがあれば、訴追自身を根拠がないと否定することはできません。

犯罪性がなくても、女性問題を報道させることで政敵を攻撃するのは日常茶飯事です。今回の事件で言えば、事情聴取の対象になったというだけで、小沢氏に相当のダメージがあったことは間違いありません。

しかし、背景の意図が何であれスキャンダルの中身が本物なら、それは当人の「不徳のいたすところ」です。人間誰でも叩けばホコリは出るものですが、ホコリがでっち上げでない限りそのことに責任を取らされるのは仕方ありません。

民主党は自分で小沢幹事長の調査をおこなうべき

普通会社で不祥事があると、まず企業自身で内部調査を行います。検察批判を行う民主党の人たちは小沢氏の調査を自分でちゃんと行ったのでしょうか。その上で検察が根も葉もない捜査を行っているというなら検察批判も当然ですが、とてもそうとは見えません。

当ブログで繰り返しているように、小沢氏の疑惑は4億円の資金の出所を明確にするしかありません。民主党は検察批判する前にそれをすればすむはずです。それとも小沢氏は検察だけでなく、民主党の事情聴取も拒否しているのでしょうか。

自分の方に非があるかもしれないのに、それを指摘されると居丈高に怒って、指摘した方にくってかかるのではやくざ者と変わりません。政治に金がかかることは事実でしょうし、誰も100%クリーンであることは難しいでしょう。しかし、民主党の検察批判を聞く限りは、とても権力を持たせてよい連中には思えません。政権交代がおきたばかりですが、どうすれなよいのでしょうか。

追加:

検察のやりかたに対する疑問を冷静に書いてあるものの一つとして江川紹子氏のブログ「東京地検特捜部は常に正しいのか」があります。変則的な検察リークの中で物事が進んでいることを考えると、常にこの江川氏のような視点を持つことは必要です。

しかし、江川氏の例示した、過去の特捜部の失敗事件と比べると、巨額の現金が突然使われるという今回の事件の異様さは際立っていると思います。また、現金であるがゆえに立件の難しさもあります。一般論で検察批判をするより、小沢氏の「疑わしすぎる資金移動」の説明を求める方が今は大切だと思います。

小沢氏は何を説明すれば「説明責任」を果たせるのか
この話題は山崎元氏のブログ「評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳」」の中の「政治家の説明責任」にコメントしたものを元にしたものです。
Ozawa



ライブドア事件の堀江貴文氏がブログ記事「私の刑事裁判についてのアップデート情報」 の中で、民主党の小沢氏の資金疑惑に関連して、「検察は何もないという「悪魔の証明」を求めるが、そんなことはできない」といった趣旨のことを述べています。

悪魔の存在は、悪魔を一度でも見つけることで証明できますが、「悪魔がいない」という証明は、いくら悪魔がいなかったという事実を積み上げてもできません。つまり「存在しない」という証明が本質的に不可能なことを「悪魔の証明」と言います。

前のブログ記事「政治家にはマネーロンダリングさえ必要ないのか」で書いたように、小沢幹事長に検察が聞きたいと思っている(と報道されている)のは、世田谷の土地購入資金に充てられた4億円の現金の出所です。

4億円という巨額の資金をわざわざ現金で用意した時点で、マネーロンダリングが行われてしまっていて、犯罪性(脱税、政治資金規正法違反等々)の証明が困難になっていますが、逆に言えば、小沢氏側の無実の証明も「悪魔の証明」になってしまっています。

小沢氏が再三繰り返しているように「一点のやましい所もない」とすると小沢氏は気の毒としか言いようがありませんが、すべての資金移動を銀行振り込みの形で行っていれば、こんな面倒に巻き込まれなかったはずです。

しかし、小沢氏は悪魔の証明はできなくても、「説明責任」を果たすことはできます。4億円の資金の出所をできうる限り正確に書き、資金の流れを1枚のフロー図にでもまとめればよいのです。小沢氏の「説明責任」とはこれに尽きます。いくら目に涙をためて「検察権力の横暴です」と言っても意味がありません。

もし、小沢氏の資金が全て合法的なものならこれでお終いです。少々疑わしい説明、たとえば「XX建設が8年前に挨拶代わりに5憶円ほど現金を置いていったのを自宅に保管していた」でも、罪に問うことは困難でしょう。なにしろ現金に色はついていないのですから、それを嘘だということは難しいからです。8年前を20年前にしてしまえば、関係者の証言も事実上不可能です。

小沢氏がその程度の説明もしないということは、資金の出所はもっとまずいとものだと推測するのが妥当です。つまり、脱税に問われてしまう、政党助成金を横取りしてしまった、など、今でも罪に問われてしまうようなことです。報道を聞く限り、検察側の考えは「金の出所が判らず。判らないうちは犯罪の可能性がある」ということです。

悪魔の証明になるのは、小沢氏が資金の出所を明らかにしても、それが本当かどうか確たる証明ができないという段階になってからです。今は悪魔の証明以前の証明すべきことが悪魔の存在か、天使の存在かまだ判らないという段階です。

小沢氏の説明責任とは金の出所、資金の流れをきちんと説明することで、それ以上でも、それ以下でもありません。これほど単純ではっきりしていることを、わざわざ「小沢氏は説明責任を果たしましたか」と世論調査をしているのはなぜなのでしょうか。

小沢氏が資金の出所を説明する責任があるかどうか意見はあるかもしれません。「誰でも言いたくないことを言わない権利」はあります。しかし、どうせ世論調査をするのなら「小沢氏は説明をまったくしていませんが、それでも小沢氏を信頼しますか。その小沢氏を幹事長にしている民主党を信頼しますか」であるべきです。説明責任の定義などする必要はありません。

わかりにくい外国人地方参政権論議
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あまり関心を引かない話題

日本に定住する外国人に参政権を与えることに議論が高まっています。民主党はかねてから外国人にも地方参政権を与えるべきだと主張してきたのですが、昨年12月に小沢幹事長が訪韓した際に、講演などで改めて外国人参政権法案を積極的に推進すると発言したことで、実現への動きが加速されることになってきました。

外国人参政権法案は、永住外国人に地方自治への参政権を与えるというものですが、自民党政権の間は自民党が反対だったため成立の可能性はありませんでした。ただ与党の中で公明党は積極的に外国人に地方参政権を与えるべきであるとしてきました。また、社民党、共産党も外国人地方参政権に賛成しています。

外国人地方参政権は、右派が優勢なネットの世界では数年前から大きな話題になっていて、ネット世論の大勢は強い反対意見でした。しかし、ネットの中で「外国人に地方参政権を与えようとすることは売国奴だ」といった過激な言葉が飛び交っても、一般の関心はそれほど高いとはいえませんでした。

多くの人にとって外国人に地方参政権を与えるべきかどうかは、どちらかというと降ってわいたような議論ではないかと思います。一般の日本人にとって地方参政権というのはそれほど関心のある話ではありません。日本国籍を失うことに抵抗のある人は多いでしょうが、転居で以前住んでいた所の選挙権がなくなることに感慨を覚える人は少ないでしょう。

関心はあまり高くはないものの、外国人に参政権を与えるべきかどうかということに対し、一般の人は比較的寛容だったように思えます。国際化の進展で日本は外国人にもっと開かれた国になるべきだという主張に賛同する人は多いでしょうし、日の丸を掲げて「日本の伝統と文化を守ろう」と叫ぶ右派の意見にストレートに同調する気にはあまりなれないからです。

外国人に地方参政権を与えることへの反対者の多くは、そもそも外国人が増えることが気に入らない人たちです。ロンドンが外国人が増えて治安が悪化した話とか、外国人に地方参政権を与えてオランダは無茶苦茶になったことかの例が引かれて「権利ばかり主張して日本の法を無視する外国人をこれ以上甘やかせることはない」という論調が目立つのです。

外国人を排斥したいと考える自称「愛国者」たちが言う、「このままでは日本は外国人に蹂躙されてしまう」という意見はヒステリックな妄想のように聞こえます。高々100万人いるかいないかという外国人に参政権、それも地方に限って認めるくらい構わないのじゃないだろうか。健康保険や生活保護を外国人に与えるのと比べれば金もかからないし、口角泡を飛ばして熱く議論するようなものではないだろう、というわけです。いずれにせよ外国人地方参政権の話は、日常生活とあまり関係のない、よく知らないし、よくわからない問題だというのが、平均的日本人でした。

外国人地方参政権は日本と韓国の二国間問題

そもそもなぜ日本に住む外国人たちは参政権を求めるのでしょうか。今回の外国人地方参政権で対象になっているのは、日本に永住資格を持っている外国人です。今のところ永住資格のない外国人にも参政権を与えるべきだという主張は大きなものではありません。

永住資格獲得には10年以上日本に滞在し、素行が良好で、生計をきちんと営んでいるといった条件を満たす必要があります。この条件はかなり厳しいもので、日本国籍を取得する帰化より難しいくらいです。定住資格を持てるくらいなら帰化をして日本国籍を取ったらいいじゃないか、というのは普通に感じる疑問です。

これには、運用上は帰化はかなり厳しい審査があるので、永住資格を持つ外国人が自動的に帰化できるとまで言うことはできないという現実はあります。しかし、それ以上に大きな障害になっているのは、帰化をするためには母国の国籍を捨てることが求められることです。

母国の国籍を捨てることに抵抗感を持つのはアメリカ人やオーストラリア、ヨーロッパ諸国のように先進国の出身者が多いようです。これらの国の出身者は内心日本よりすぐれた国の人間だと考えている人も多いのでしょう。

次に在日と称される、韓国国籍、北朝鮮国籍を持つ特別永住者たちです。在日の人々は文化的には日本人に近い、あるいは日本人そのものなのですが、今の国籍の放棄がアイデンティティーの喪失につながると考えられているようです。日本国籍の取得が、日本国内の在日という一つのコミュニティーから疎外されるということもあるかもしれません。

外国人の地方参政権取得という問題は、大半が特別永住権を持つ在日韓国人に地方参政権を韓国籍を放棄しないままで与えるかどうかという議論です(北朝鮮を代表する朝鮮総連は、在日朝鮮人はあくまでも北朝鮮国籍を持つ公民であるとの立場から、地方参政権を求めていません)。それ以外の例えば永住資格を持つオーストラリア人が地方参政権を持ちたいと思うことはあるでしょうが、数の上では例外的です。少なくとも地方参政権を与えたから、日本の政治の動きに何か影響を与えるようなことは考えられません。外国人地方参政権は事実上、地方参政権を求める韓国と日本の二国間の話と考えられます。

何が問題なのか

中国や韓国、朝鮮の悪口ばかり言って、無用(と思える)危機を煽り立てるのは右派の特徴ですが、今回の外国人地方参政権問題もかれらの妄想が作り出したフィクションなのでしょうか。右派の懸念は、「外国人地方参政権を付与することである地方自治体に特定の外国人が集まることで、その地方自治体の首長、議会を乗っ取ってしまう」とするものです。しかもその特定外国人はかれらの嫌う韓国人です(将来的には急速に数を増している中国人も考えられます)。

この件については右派の懸念を必ずしも妄想と片付けられないものがあります。なぜなら、地方政治から日本の政治を動かしてやろうと、一部の韓国人が考える可能性はあるからです。端的な懸念は対馬でしょう。対馬は韓国人のかなりが自国領であるとを主張していますし、実際韓国人が対馬の土地を積極的に買っていることは周知の事実です。

対馬の人口は3万6千人ですから、1万人程度の韓国人が対馬に定住して、なおかつ選挙権を得ると、対馬の韓国所属決議のようなものを市議会で可決するようなことは理論的に可能になります。とは言っても、直ちに対馬に韓国軍がそれを根拠に軍事侵入をするというのは極めて考えにくい事態ではあります。そんなことをすれは、日本がよほどのへまをしない限り国連の安全保障会議で韓国の侵略と認定されてしまうことは確実ですし、戦争がとんでもない犠牲を伴うことは韓国軍が一番良く知っています。

しかし、韓国による軍事侵略などなくても対馬の韓国帰属決議が採択されるだけで、相当に面倒な事態になることは間違いありません。問題は韓国の一般世論は日本との領土問題になると、日本の右派の韓国感よりさらに狂信的(と私には思えますが)な信念を持っていることです。「うっかりすると何をするかわからない」という実行力の点では日本のネット右翼などとは比べ物になりません。

一般論にせず議論を深めよう

日本が外国人労働者や移民をもっと受け入れるべきかの意見は集約化されてはいません。高齢化社会を迎えて介護など外国人にますます頼らざる得ないだろうと考える人は増えていると思いますが、外国人の増加ともに摩擦も起きてきています。しかし、日本が中長期的に外国人をさらに多数受け入れざる得ないのは確実でしょう。外国人も来たがらないような国になれば別ですが、それは将来のビジョンにするようなものではありません。

外国人労働者の多くは日本人の嫌がる仕事に就きますが、それが外国人の二級市民化に結びつくのは社会の安定のためにも好ましいことではありません、派遣労働者と正社員の待遇の差がよく問題になりますが、日本で働く外国人の待遇と人権を守り、日本人社会と共生、融合できる仕組みを作るのは大切です。

そのような仕組みの一つとして参政権の付与を行うことはそれほど突飛な考え方ではないでしょう。何といっても日本は圧倒的に日本人が多いのですから、それによって日本が乗っ取られてしまうようなことはありえません。そして鳩山首相の言うように「日本は日本人だけのもの」ではなく、そこに住む人全ての幸福を考えるべきだというのも正しい考え方だと思います。

しかし、外国人地方参政権は、このような一般論とは異なる次元の話で日本と韓国の二国間問題です。鳩山首相を含め民主党、公明党など外国人に地方参政権を認めるべきだとしている政党の議員たちは、(特にマスコミに登場する時は)これが日本と韓国との二国間問題であるということには口をつぐんで一般論に終始しようとしますが、これは欺瞞的態度と言われてもしかたないでしょう。

実際には、在日韓国人が地方参政権を持ったからといって、大挙して対馬に移住して対馬独立宣言などを議会で採択させることは、まず起こり得ないでしょう。在日韓国人も生活の基盤は日本にあり、日本人と本当に大喧嘩するような事態を望んでいるとは思えません。むしろ韓国籍のままで当座もらえる権利はもらって、市政、県政への影響力を確保したいというのが本音と考えられます。大体今でもその気になれば在日韓国人は日本国籍を容易に取得できるのですから、真っ正直に外国人地方参政権を求めずに、まず日本国籍を取得してそれから対馬に移住するということも可能です。

とは言っても、外国人地方参政権を国際化とか外国人の権利の確保のような視点で考えると何が何だかわからなくなって、右派の連中がまたも妄想で騒いでいるのかという話になってしまいます。妄想は大分混じっているかもしれませんが、まったく荒唐無稽なことを言っているわけではありません。決める前にもう一度じっくり考えてからでも遅くはないでしょう。少なくとも急ぐ話ではありません。

参照: 竹島

国債大量発行で大インフレは避けられないのか
cash flow analysis


狼少年?

日本の国債残高がますます積み上がっています。2010年度の政府予算案では、歳出額約92兆円に対し新規国債発行額は44兆円で税収額の37.4兆円を初めて上回りました。この44兆円も「埋蔵金」と呼ばれる特別会計の積立金、約10兆円を取り崩したものです。来年度以降は埋蔵金はもうあてにできないなので、実質的には50兆円を超える赤字が生じていることになります。積み上がった国債の残高は、2010年度末で637兆円となり日本のGDPの134%に達します。国家財政の破綻への危機感は一層高くなっています。

膨大な国債が最後はどのような結果をもたらすのか、大インフレになるのではないかという懸念も強くなってきました。国債がもうどうにも返済できなくなってもインフレで物価が100倍になれば借金は実質100分の一になり、(借金という意味では)問題は一挙に解決します。100倍かどうかはともかく国家がそうしたくなる誘惑にかられる、あるいはそうすることを余儀なくされるのではないかというのです。

来年度の日本の国家予算のように税収を国債発行額が上回るような状況をいつまでも続けることができないのは自明でしょう。それほどではなくても、国債発行残高の大幅な増加をいつまでも続けていくこともできないでしょう。国債の発行をしても市場で売れなくなれば、国債の利率を大幅に引き上げるしかありません。借金で借金を返し、借金の利率がどんどん上がっていく、それでは多重債務者の借金地獄と同じ状況になります。それでも国債が売れなければ政府が文字通り「倒産」してしまうので、日本銀行にお札を刷らせて無理矢理買ってもらうしかありません。通貨が大幅に増加すれば、インフレになってしまいます。

可能性としてはこのシナリオに異議を唱える人はあまりいないでしょう。世の中に無限に続くものはありませんから、永久に国債の大量発行、大量消化を続けることはできません。しかし、本当の問題は「いつ」インフレになり、その「インフレはどの程度のもの」かということです。地震はいつかは起きるのでしょうが、「いつ」、「どの程度」の地震が起きるかを言わなければ「地震予測」とは言いません。

国債の発行を続けていると大インフレになるという警告は昔から何度もされてきました。不況対策で国債が大量に発行されるたびに(「大量」といっても昔の発行額など今から考えると可愛いものでしたが)、同じことが繰り返されてきました。その結果今のところ大インフレは起きていません。これでは「国債発行の大量発行で大インフレが起きると」という主張は狼少年のようなものではないか、と言われても仕方ないでしょう。しかし、狼少年の物語では最後に狼が襲ってきました。やはり大インフレは避けられないのでしょうか。

カタストロフィーは予測できない

日本の土地バルブの崩壊は予測はできませんでした。バブル処理の手際の悪さを日本にお説教をしたアメリカもサブプライムローンによる住宅バルブの崩壊は防げませんでした。ITバルブの崩壊もアジアの通貨危機も突然でした。どれも「このままでは危ないぞ」と警告する人はいくらでもいましたが、「いつ」起きるかを正確に予測したわけではありません。たまたま「いつ」を当てた人もいたかもしれませんが、その人が次のバブルの崩壊を当てることができたわけでもありません。

バブルの崩壊や経済危機の勃発のようなものは一種のカタストロフィーと考えられます。カタストロフィーとは一言で言えば不連続な現象です。つまり、カタストロフィーとは過去の延長では考えることができない現象です。

木の枝を折り曲げれると、木の枝はどんどんしなっていきますが、ある段階で突然折れてしまいます。これはカタストロフィー的現象です。カタストロフィー的現象は予測が困難で、予測が困難ということがカタストロフィーの定義と言ってもいいくらいです。

地震がなかなか予測できない理由は、地震がカタストロフィーだということが原因だと考えられます。地震は地殻のひずみが限界に達した時にそれまでひずみとして貯まったエネルギーが解放されて起きますが、どの程度ひずみが貯まれば地震が発生するかを予測することは今のところできません(最近特定の地震の発生をかなり正確に予測できるケースがでてきているようですが)。

市場が受け入れることのできる国債の利率が突然暴騰する、言葉を変えると国債価格が暴落するのは、人々の「国債の価格が暴落するのではないか」という懸念が連鎖反応的に広がってパニックを起こした時です。人がいつ「もう国債は買えない」と思うかは多分に心理的な要素が左右します。いくら理論を振り回しても、心理的な現象を正確に予測にすることは難しいので、予測は困難ということになります。

日本の財政が破綻して、大インフレが本当に起きるのか、起きるとすればいつなのかを自信をもって予測できる経済学者はいません。できることは「このままでは大変なことになる」と言うだけです。しかし、それでは「明日世界が終る」と言う宗教家とあまり違いはないようにも思えます。「いつかは大変なことになる」という中身のない議論ではなく、現実的に日本の国債の問題を考えることはできないのでしょうか。

一体いくら足りないのか

経済学者が「いつ日本の財政は破綻するか」という問題に占い師程度のことしか言ってくれないようなので、企業分析と同じように、キャッシュフローから、どの程度日本政府の財政が追い詰められているか見てみましょう。

2010年度に国債を増発しなければならなかった大きな理由はリーマンショック以来の経済不況で税収が大きく落ち込むと見込まれるからです。このまま坂道を転がるように日本経済が転落していくことがあり得ないとは言いませんが、一応これは一時的現象と考えるのが妥当でしょう。

2010年度の税収予測は37兆円です。これに対し2009年度の税収は46兆円でした。税収の中で法人税や所得税は景気によって変動が大きいのですが、現行税制の下で、45-50兆円程度の税収が日本経済の実力と考えても大きな外れはないでしょう(2010年度はあくまでも例外です)。

一方、一般支出は景気対策のための大型補正予算を除くと52兆円です。歳出にはこの他に地方交付税などが17兆円ほどあり、歳入の方も税収以外に10兆円程度の雑収入的なものががあります(2010年度は20兆円以上になりますが)。

結局、歳入、歳出の差は平均的には9-14兆円くらいということになります。これくらいの赤字でも30兆円程度の国債を毎年発行しなければならなかったのは、国債費、つまり国債の元利支払いが20兆円ほどあるからです。国債残高が増えれば、国債費も増加していきます。

国債費の内訳を見ると、元金返済分と利息の支払い分はほぼ半分づつの10兆円です。確かに利息くらいはちゃんと収入で払わないとまずいかもしれませんが、元金の方は単なる借り換えと考えれば、無理して減らさなくてもよさそうです。民間企業でも「貸しはがし」に遭わない限り、元金の借り換えは問題なく銀行も応じます。国債のような信用度の高い債券を借り換えることは何の問題もないはずです。第一金余りの中で国債を返されても、貸し手も運用先に困ってしまうでしょう。

ということで毎年の歳入不足分に国債の利息分の10兆円を加えた、19-24兆円の埋め合わせがつけば、日本の財政は健全化すると考えられます。もちろん、少子高齢化による、歳出増、歳入減や、子供手当のような新しい施策の影響は考えなくてはなりませんが、取りあえずの出発点としては十分です。

この不足分を全て消費税でカバーするとすればどうなるのでしょうか。消費税は1%でほぼ2兆円の税収になります。19-24兆円の不足は10-12%の消費税分に相当します。現行の税率5%を加えると、消費税は15-17%になります。これが大変な増税と考えるかどうかということですが、ヨーロッパ諸国の消費税は18-20%くらいですから、国際比較という意味では、そう無茶な数字でもありません。

ただ、この計算では国債の利息分の10兆円はちゃんと返すという前提になっています。仮に物価の上昇率が1%であれば、700兆円の国債残高は実質年間7兆円づつ目減りすることになります。1.5%も物価が上昇してくれれば、利息分は気にしなくてもよい計算です。物価の上昇率が上がれば、国債の金利も上昇しますが、700兆円の既発国債の金利は変わらず、新規発行の分だけが上昇するので当面影響はわずかです。

700兆円も国の債務が積み上がってしまうと、大インフレでなくても少し物価が上昇しただけで、国債の負担はぐっと小さくなります。無理して利息分を返そうなどと気張るより、その分消費税の増加を抑制したり、他のことに予算を使ったらどうでしょうか。利払いは借金ですることにすれば、消費税を5%も低く設定でき、財政の健全化は消費税10-12%で実現できることになります(それでは健全化ではないと主張する人は多いでしょうが)。

過度な悲観論はおかしい

現在の国家財政を家計にたとえて、月収37万円で92万円の生活費を使い、足りない分を借金で補っているとか、借金の利払いを借金で返すのはサラ金地獄と同じだというような意見があります。意見というよりテレビのニュースショーなどではほとんど真実のように語られているのですが、これは非常に誤解を与える表現です。

まず37兆円の税収を月収に例えていますが、国民経済全体で考えれば月収は税収の37兆円ではなく、GDPの500兆円でしょう。GDPを社会福祉のような公機関経由で使うか個人や企業が直接使うかは国民の選択の問題ですが、収入のベースはあくまでもGDP全体です。

また、国には個人と違って寿命はありません。個人でも2世代ローンを組めばより多くの借金ができますが、国は末代ローンを組んでいるようなものです。それからサラ金地獄はローンを重ねるごとにどんどん高利になりますが、国家は非常に安い金利で借りられるので、わずかに物価が上昇するだけで実質債務を減らすことができます。

積み上がった国債を解消するには4つの方法があります。(1)税金を上げる (2)歳出を削減する (3)インフレを起こす (4)経済成長で税収を増やす ですが、(3)のインフレも急激なものでなければむしろ健全です。今の日本はデフレ状態のため、貯金を貯め、年金を受け取るという高齢者に著しく有利になっています。インフレという形の緩やかな財産税を取り、年金を実質的に減額することが世代間の公平という点では必要でしょう。

昨年末になって民主党は「新成長戦略~輝きのある日本へ~」を発表しました。それによると今後GDPの成長率を名目3%、実質2%を目指すことになっています。つまり物価上昇は年率1%ということになります。年末のどたばたで作ったいい加減なものだし、第一実現のための具体論がないじゃないか、と評判はあまりよろしくないのですが、実現すべき目標を示し、そのためには何を政府はしなければならないかということを考えるには、これで十分です。

有名なGEのジャック・ウェルチCEOが示した「業界1位か2位にならない事業からは撤退する」という戦略も、ウェルチが業界1、2位になる具体論を持っていたわけではありません。具体論なぞはもっと下々が考えれば良いことでトップの戦略メッセージは明快であることの方がずっと重要です。美しい国だの、友愛社会など言われてもどうしようもありません。

民主党の経済成長のモデルが実現されれば、税収は年率3%伸びていきます。日本の高齢化はこれからも進んでいきますし、それに伴い社会福祉関連の支出は増加します。しかし、年率3%で税収が伸び、国債残高も利息分くらいの増加は認めようと思えば、15%程度の消費税で財政は相当程度の柔軟性を持つことができそうです。いや3%は過分な贅沢で、2%の着実な成長があれば、かなりの余裕ができるはずです。さらに、ヨーロッパ並みに消費税を20%にすれば、法人税と所得税を40%も下げることができます。日本を金持ちやグローバル企業にとって魅力のある国にすることもできるわけです。

15-20%という消費税はヨーロッパ諸国では普通です。それでも日本では消費税の増税に抵抗は強いのですが、少なくともその程度に消費税を上げても国民経済は崩壊しないという実例があるのですから日本でも経済の骨格を維持したままで消費税をその程度に上げることは可能でしょう。

市場が日本の国債を引き受け続け、大量発行にもかかわらず利率が上昇しないのは、市場が日本の増税余地が極めて大きいことを知っているからに違いありません。日本の国債の残高については、買主が国民で外国に依存していないから大丈夫という楽観論も、金に愛国心はないから日本人の金もいざとなれば逃げていくという悲観論もあります。どちらも正しそうですが、市場という衆合知が今の日本の国債は返済できる範囲であると判断しているからこそ国債暴落というカタストロフィーはまだ起きていないのです。。

もちろんこれは私の推察です。突然カタストロフィーが襲ってきて、国債市場が大崩落しないとは限りません。国債の発行残高がGDPの1.4倍に達しているという事実は無視しがたいものがあります。しかし、過度の悲観論で「大インフレ到来必至」というのは理性的な態度とは思えません。狼はいつかきっとくるでしょう。しかし狼を防ぐためにめぐらす柵はそれほど高くなくても良いのではないでしょうか。

BoyWhoCriedWolf sm


勝間和代氏を(少しだけ)研究する
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勝間和代氏


経済評論家?

勝間和代氏のオフィシャルサイトでは勝間氏は「経済評論家、公認会計士」となっています。正直言って経済評論家と公認会計士を並べるところにいささか居心地の悪さを感じてしまいます。公認会計士のところが、医学博士とか弁護士ならマルチタレントだということで納得するのですが、公認会計士だとそれが経済評論家としての資格の裏付けだと主張しているように見えるからです。

公認会計士がどんなに難しい資格でも、経済学それもマクロ経済や経済政策のような分野では素人と変わりません(試験科目には経済学の基礎はありますが、あくまでも基礎です)。勝間氏は公認会計士であるだけでなく、ファイナンス理論を修士課程で学び、マッキンゼーなどでコンサルタントもしているのですが、ファイナンス理論も、経営コンサルティングもアカデミックな意味の経済学ではありません。経済評論家がエコノミストあるいは経済学者を意味するのなら、勝間氏のプロフィールにはそれに相応しい経歴は見当たりません。

もちろん勝間氏は経済評論家と公認会計士を並べているだけで、「公認会計士だから経済評論もできる」と言っているわけではありませんし、「経済」がマクロ経済ではなく企業財務や家計のことだと言えないこともありませんから、「居心地が悪いというのはそちらの勝手だろう」と言われてしまうかもしれません。

ただ、最近の勝間氏は、菅副総理にデフレ脱却の方策を述べたり、テレビ番組で積極的に政府の経済政策について発言していますから、経済評論家というのが本格的なエコノミストを意味していると取られても仕方ないでしょう。少なくても「増税の前に政府はもっと無駄を省いて欲しい」などと元プロ野球の選手がコメントするのとは違うはずです。

池田信夫氏の勝間氏批判

このあたりが癇に障ったのでしょうか。ネットの世界で大きな影響力を持っている池田信夫氏が、勝間氏の経済観を攻撃しています(池田信夫blog part 2 「勝間和代氏のためのマクロ経済学入門」)。

池田氏は勝間氏のことがよほど気にいらないらしく、別のブログの記事で、勝間氏の著作の「あなたの知的生産性を10倍上げる法」を取り上げて、「ベストセラーというのは下らない本と相場が決まっているが、本書も例外ではない。そもそも、こういうタイトルをつける神経が信じられない」とこき下ろし、さらに勝間氏自身の知的能力について、「知的生産の効率が他人の10倍だということを前提にしているようだが、それが本当かどうかは、彼女の本を読んでみればわかる。」とまで言っています。

池田氏に「勝間氏にマクロ経済学のイロハを教える必要がある」と言わせたのは菅副総理に「まず、デフレを止めよう(参照)」としたプレゼンなのですが、勝間氏の「日本経済はデフレ状態を抜け出す必要があり、それには政府の需要喚起策が必須」という主張は勝間氏の独創どころか、他の(ちゃんとした)経済学者も言っている話です。むしろ当たり前すぎて「中身のない一般論だな」と思われることはあっても、「経済学を根本的にわかっていない」と言わせるようなものではありません(まぁ、それこそ素人の私が見ての話ですが)。

池田氏はさらに、「「インフレ率と失業率のバランスは、高度の政治的判断であって、政治家にしか判断できない」(p.5)と書いてあるが*、現在ではこのような問題については、政治家が裁量的に判断するのではなく、テイラールールのような一定のルールにもとづいて金利で調節するのが、世界の中央銀行のコンセンサスである」とも書いています。
参照の資料のページ

しかし、常識的に考えて、インフレ率と失業率にトレードオフがあれば、どちらを取るかは、政治家ひいては国民の判断であることは間違いありません。ドイツはインフレをひどく嫌いますが、アメリカでは失業率が高い方が現政権に不利になります。「高度な政治的判断」が「正しい判断」になるかどうかはわかりませんが、どちらを取るかはかなり政治的な問題であることは事実です。

池田信夫氏が大変な学識の持ち主だということは氏のブログを読めば多くの人が納得するでしょうが、勝間氏批判に限って言えば、当たり障りのない通り一片のことしか言わない勝間氏の方に分があるようです。ただ、私が菅副総理のような政策決定の責任者ならマクロ経済の話を聞くには本物の経済学者を選びます。アメリカの大統領経済諮問委員会-CEAの議長はノーベル賞級の経済学者がなります。だからいつも正しい意見を言ってくれるとは限らないのですが、自分の主治医には話の上手な素人よりちゃんと免許を持った医者の方を選ぶのが普通の考え方だとは思います。

勝間氏はどのようにして認められたのか

勝間氏が世間から注目を浴びるようになったのは、エコノミストとしてではありません。勝間氏本人も自分が本物のエコノミストだなどとは思っていないのではないでしょうか(多分)。勝間氏の職業人としての専門性は、公認会計士、財務分析、コンサルティングなどです。JPモルガンに勤務していた時はテレコム業界のアナリストでした。

勝間氏は2005年にウォール・ストリート・ジャーナル「世界の最も注目すべき女性50人」(プロフィールの引用。英文では50 Women to watch)に選ばれています。その理由は、勝間氏が「ムギ畑」という働く女性のためのウェッブサイトを立ち上げ、そこで3千人という多くのメンバーが勝間氏をロールモデルにして新しい生き方を学んだとされたことです。

ウォールストリートジャーナルでは、勝間氏が離婚後3人の子供を育てながらキャリアを積み、その頑張りが彼女の働く女性たちを勇気づけ熱烈なファンを獲得したと伝えています。彼女の頑張りはアメリカ人の目から見てもかなりのものだったわけです。

勝間氏は最近1年で7冊(正確かどうか判りませんが、これより多いことはあっても少ないことはありません)という驚異的なペースで本を出しているのですが、ビジネスのいわゆるハウツーものや個人の利殖や投資に関するものが中心です。最近では勝間氏自身の生き方を書いた「やればできる-まわりの人と夢をかなえあう4つの力」のような人生論的な本が目立ちます。

勝間氏は職業的な業績ではなく、「女が不利な状況をものともせず頑張り抜く」という生き方そのもので社会的に広く認められて来たのです。確かに彼女の能力と努力は素晴らしいものがあります。なぜそんなに頑張るのかと聞かれれば「目標を達成するために必要なことをしているだけ」ということになりますし、忙しいのにどうしてそんな時間がとれるのかと聞かれれば、「やるべきことをきちんと定義して、計画をちゃんと作り、優先順位を明確にして確実に実行するだけ」ということになるのでしょう。それが可能か不可能かと聞かれたら、勝間氏が現に実行している以上「やればできる」ということになります。

勝間氏の実践してきたことを見ると、とても池田氏のように勝間氏の知的生産性の高さについて疑いを差し挟む気は起きなくなるのが普通ではないでしょうか。むしろ勝間氏の超人的な頑張りを彼女の書いたハウツー本から本当に学ぶことができるかどうかの方が疑問に感じられます。もっともダイエットに成功した人の本を読んでダイエットができるのなら、次から次へとダイエットの本が出版されるはずがありません。本に書いてあることに嘘はないかもしれませんが、その通りに実行できる人は稀なのです。

肉食系女子は嫌われる

勝間氏への批判をネットで読んでみると(一般メディアでは勝間氏のマイナスの報道はあまりありません)、日本人は(と言ってしまいましょう)勝間氏のようなタイプ、一言で言えば「肉食系女子」が嫌いなのだなと感じます。ここで言う肉食系女子は性欲の強さを意味しているのではなく、社会的に前向きで上昇志向が強いという意味です。

肉食系女子の例では、勝間氏以外でも、小泉チルドレンと言われた、片山さつき、佐藤ゆかり、あるいは小池百合子などを思いつきます。彼女たちは英語も堪能、仕事は抜群と、日本女性、いや日本人の中で最優秀の人々でしょうが、週刊誌メディアの多くはかなり否定的な報道をしていました。

同じく小泉チルドレンと言われた猪口邦子氏も、軍縮大使として地雷禁止に向けた国際会議で見事な議長ぶりを発揮した非常に有能な女性ですが、国会議員に当選した後は揶揄されるような報道しかほとんどされませんでした。

国会議員は皆揶揄されるではないかと言われるかもしれませんが、そうとばかりも言えません。彼女たちへの批判には「女のくせに威張りくさって気にくわない」というニュアンスが強くありました。彼女たちはやはり女性、それも肉食系女子だから攻撃されたのです。

どういうわけか肉食系女子に意地悪な目を向けるのは男性ばかりではなく、女性の多くが国会議員だった片山、佐藤、猪口たちに否定的でした。その中で勝間氏がネットの世界を除けば沢山の女性からの支持を集めているのは、やや例外的と言えます。しかし、それは「働きながら3人の子供を育てた」という勝間氏の実生活に対する共感があったからでしょう。最近の勝間氏はワーキングマザーといううたい文句はあまり使わなくなったようです(ムギ畑のことも言わなくなりました)。

そのうちどこかの週刊誌が勝間氏についてネガティブな報道を始めて、世の中全体がネットのように反勝間的な空気になるかもしれません。もともとマスコミも世の中の男女の多くも勝間氏のようなタイプは好きではないのです。その点に正直だった点では池田信夫氏の勝間氏批判も何か意味があるかもしれません。
政治家にはマネーロンダリングさえ必要ないのか
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小沢一郎民主党幹事長の政治資金の使い方が問題になっています。小沢氏側では「政治資金報告書にきちんと記載しており何の問題もない」と主張しているのですが、4億円に上る資金が土地代金として、それも現金で小沢氏から直接支出されていることが判明して、雲行きが大分変わってきました。

小沢氏の資金団体、陸山会の事務担当者だった石川知裕衆院議員が東京地検の事情聴取で明らかにしたと報道されているのですが、事実とすれば小沢氏は4億円の現金を石川氏に渡し、陸山会はその現金を会の口座に入金して世田谷の土地の購入に充てたことになります。

今後どのように小沢氏が弁明するのか(あるいはしないのか)、捜査がどのように進展するのか(あるいはしないのか)はわかりませんが、4億円という大金を現金で移動しようとしたことが本当なら、それだけで立派な犯罪行為と見做されても仕方ありません。

4億円というのは現金では大変な分量になります。重さで約40キロ、大きな段ボール1箱にようやく納まるくらいです。持ち運びに適していないのはもちろんですし、不心得な輩が何枚か失敬しても簡単には判りません。数えるだけでベテランの銀行員が1日ではとても終わらないような量なのです。

そんな多額の現金を口座振り込みではなく、わざわざ手で運ぶのは、そうしなければならない理由があると考えるのが普通です。こんなことが許されたら、悪党たちが苦労してマネーロンダリングをする必要などなくなってしまいます。

マネーロンダリングは資金洗浄と訳されます。不正に得た資金を正当に得た資金のように見せかける、つまり「洗浄」するという意味ですが、実際には現金を何とかして銀行口座に入れ、その後送金操作で、最初の口座とは違った口座に移してしまうことが基本です。

一般に犯罪者は麻薬取引や売春、誘拐などの収入を現金で得ます。この現金を一見まともな金に見せるには、現金が何らかの正当な商取引から得られたものであるかのように装わなくてはいけません。逆に言えば、現金そのままでは素性の知れない怪しいお金ということになってしまいます。

マネーロンダリングでは架空の売買や実体のないコンサルティングなど様々な手口が使われます。値段が相対で決まる土地や絵画の取引きも利用されます。中にはネットオークションでわざと破格の値段で落札して資金を還流させるという方法もあります。随分細かいやり方ですが、数をこなせばそれなりの額を移動できます。

マネーロンダリングは犯罪組織だけではなくテロ組織も行います。このためマネーロンダリングの規制は国際的にますます厳しくなってきています。先進国はFIU(Financial Intelligent Unit: マネーロンダリング情報分析局)の設置が義務付けられ、日本では当初金融庁、現在は国家公安委員会がFIUの役割を行っています。

最初金融庁がFIUを担当したことでもわかるように、FIUの仕事は銀行、証券会社などの金融機関を経由するマネーリンダリングの監視が中心となります。特に銀行は細かい監視対象になっています。それでも日本は国際的にマネーロンダリングの監視体制が不備であるとの指摘をたびたび受けています。規制の強化の一環で現金での送金はATMでは1回10万円に制限されてしまいました。

余談ですが偽札づくりは、マネーロンダリング以前に本物の現金にまず替えなくてはならず、手間と危険を伴います。偽札で組織犯罪の割に合う(?)程度の利益を得ようとすると、コンビで釣銭稼ぎをするのではなく、銀行に持ち込んでも受け入れられるほど精巧に作らなければなりません。こんなことができたのは北朝鮮くらいしか最近ではありませんが、それでも1トンの100ドル札を持ち込んでも、1億ドルにしかなりません。偽札で世界経済を撹乱することなど不可能と断言してよいでしょう。

ともあれマネーロンダリングを防ぐために、金融機関は莫大なシステム投資を行って、疑わしい取引を検出する努力を続けています。また、疑わしい取引は逐一当局に報告する義務を負っています。しかし、巨額な資金も金融機関を介在させなければ捕捉は事実上できません。

繰り返しますが、現金で大きな資金を移動すればそれだけで犯罪、犯意があると見做されてもしょうがありません。男女が二人でホテルに2時間一緒にいれば、離婚裁判で関係があったと否定できないのと同じことです。そう言えば、鳩山兄弟が母親から受け取った毎月1,500万円という金も現金でした。それだけで脱税の意図があったと断定されるべきでしょう。

政治活動がどのようなものかは良く知りませんが、10万円以上の現金を必要とするようなことが今の世の中に普通そうあるとは考えられません。どんなに例外的でも100万円でしょう。4億円の現金など、まるで北朝鮮の秘密資金のようです。一体どんな常識がこんな金額を現金で扱ったことを「やましい所はない」などと言わせるのでしょうか(まぁ、そう言うしかないのでしょうが)。

政治資金を透明化したいなら、全ての寄付金は銀行振り込みかクレジットカード払いに限定してしまえば良いはずです。それでは困る(たとえば100円寄付したいという厚意を無にするのか)という屁理屈が出てきそうですが、それなら1,000円以下は現金を許す程度はいいかもしれません(妥協して3千円でしょう)。

政治資金については何度も法律の改正が行われて、そのたびに抜け道ができて(あるいは最初から作ってあって)また改正ということが繰り返されてきました。しかし資金の出どころ、使いどころをやたら煩く言う前に、もっと資金の動きを透明化する努力をしてみたらどうでしょうか。政治家が何と言おうと国民は要求すべきでしょう。

もっとも銀行振り込みにしても、その銀行口座の作成が日本では随分とルーズでした。最近はさすがになくなりましたが、犬の名前でも口座が作ることができたくらいです。韓国は実名口座制度が徹底されていますし、アメリカではグリーンカードの番号つまり国民背番号で銀行口座を管理しています。日本のルーズな口座管理はオレオレ詐欺の温床を作ってしまいました。しかし、国民背番号には預金を秘密にしたい多くの国民が反対します。資金の透明性への拒否感は政治家だけでなく国民にもあるようです。

ネットの進歩で瞬時に巨額な資金を国境を越えて動かせる現代の世界では、マネーロンダリングを厳しく監視することは国際社会の強い要請です。その中で日本は送金処理の監視以前の口座管理がルーズです。政治家(それも最高権力者たちです)が、その銀行さえ使わずに巨額の金を動かすというのは、先進的な民主主義国家ではあってはならないことです。今のままでは政治家にはマネーロンダリングが必要ないどころか、政治家自身がマネーロンダリングのマシンになってしまいます。そろそろ根本的な改革が必要でしょう。

シーシェパードが恐れるのは日本の捕鯨停止
Ady Gill
日本の捕鯨調査船を妨害するシーシェパードの高速船

またシーシェパードと日本の捕鯨調査船の衝突が起きてしまいました。クジラについては「日本人のクジラの消費量は年間1人当たり50グラムと無視できるくらいだし、国際的な評判にも傷がつくから」この際潔くクジラはあきらめたらと何度か書きました(もうクジラはあきらめましょうなど)。

これは私のブログの中で一番評判の悪いものの一つなのですが(日本人の90%が捕鯨禁止反対なのですから無理もありません)、乱暴者の過激な捕鯨反対の行動を防ぐのは実際問題として極めて困難です。アメリカの対テロ作戦にも同じようなことが言えるのですが、ゲリラ的な手法に真っ向から対決する方法で対抗しようとしてもかえって事態を悪くする結果を招くのです。

今、シーシェパードの一番恐れているのは、日本が捕鯨を止めてしまうことです。もし、そんなことになったら潤沢な寄付金はもう期待できませんし、恰好だけの何の危険もない示威活動で英雄気取りになることももうできなくなります。反捕鯨ほど安全で目立ち、しかも悪玉(つまり日本)がはっきりした環境活動は他にはありません。日本が捕鯨を止めてしまったら、シーシェパードはもちろん、グリーンピースも解散を余議なくされるかもしれません。

戦術、戦略としては悪くない考えだと思うのですが、「そんなことでは国家として筋が通らない」と思う人が多そうです。アメリカもそのように考えてアフガニスタンでさらに死者を沢山出そうとしているのですが、損得勘定では全く割に合わない話です。やはり「勘定」より「感情」なのでしょうか。

参照:
それでもクジラ食べますか
もうクジラはあきらめましょう
クジラとチベット

デフレとユニクロ
uniqlo

デフレの元凶?

物の価格が下がる、デフレが問題になっています。物の値段が下がると他の物や給与がつられて下がる、いわゆるデフレスパイラルに陥り、経済が縮小していく危険があります。その中でユニクロが物の値段が下がるデフレの元凶のように言われることがあります。

ユニクロで売られている衣服が、従来の常識覆すような安値の物が多いのは確かなのですが、本当にユニクロが日本経済のデフレの元凶などということがあるのでしょうか。あるいは元凶とまでは言わないまでも、象徴的な存在だと言って良いのでしょうか。

この問題について考えるとデフレとは何なのかが必ずしも明確に定義されていないことがわかります。たとえば半導体の価格性能比は2年で2倍という勢いで向上します。今売られている標準的なパソコンを10前に買おうとしたら10倍以上の値段がしたはずです。そもそも同じような性能を持ったパソコンは売られてさえいませんでした。

これはデフレなのでしょうか。多分違うでしょう。パソコンの価格は同じメモリーやHDDの搭載量の製品同士を比べるのではなく、それぞれの時代に「同じようなクラスとして売られている」パソコン同士を比べるのが妥当です。一般の人が購入するパソコンの価格が2年で半額という勢いで安くなっているわけではありません。

それではローレックスの腕時計とカシオのGショックの比較はどうでしょうか。カシオのGショックは耐久性、正確性など腕時計の基本機能で圧倒的にローレックスを上回っています。ローレックスの時計をカシオのGショックに買い替えるのはデフレを助長するのでしょうか。

デフレをマクロの経済指標で考えれば物価指数が低下しているかどうかという歴然とした判断基準がありますが、ミクロに個々の製品やサービスを比べて「デフレ的現象」かどうかを判断するのは、必ずしも簡単ではありません。

それでは少し観点を変えて、ユニクロはどうやって従来考えられなかったような価格で衣類を販売できるのか考えてみましょう。

ユニクロのビジネスモデル

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上の表はユニクロと他社との比較を示しています。数字はいずれも2008年度の決算のものです。まず目につくのはユニクロの粗利の高さです。粗利は仕入れや製造価格と売値の差ですが、小売り業者一般の粗利が20-30%なのに対しユニクロの場合50%にも達しています。これはキヤノンのような製造業や、同じ衣料品業界でも東京スタイルのような製造中心の企業に近い数字です。

これはユニクロが製造から販売まで一貫して行うSPA(speciality store retailer of private label apparel)という業態を持っていることに関係しています。SPAとは製造小売業と訳されますが、伝統的な衣料業界では製造、卸し、小売りが分業化されていたのに対し、すべて自社で行う方法です。

SPAは中間の業者を通さないので、粗利は高くなります。しかし、膨大な種類の衣料品を季節に合わせて原材料の調達から販売までを行うのは大変ですし、リスクも伴います。また、生産したものを売りぬく販売力も必要です。

SPAでは原材料を仕入れてから販売するまで、自社の中で在庫することになるので、在庫回転率は下がります。一般には在庫回転率が高い、つまり仕入れから販売までの期間が短く、少ない在庫で事業を行うことは効率が高いと考えられるのですが、SPAでは小売りだけを行う企業よりこの点で不利になります。

ユニクロの在庫回転率が9倍程度であるのに対し、三越伊勢丹HDやセブンアンドアイの在庫回転率は20回以上になっています。三越伊勢丹HDの方がユニクロより効率性の指標で勝っているというのは意外に感じられるかもしれませんが、業態が違うのですから当然です。

しかしSPAだからといって粗利が簡単に高くなるわけではありません。ユニクロは販売価格も安いので売上原価つまり製造コストを下げなければ利益が出るどころか赤字になりかねません。ユニクロは海外で生産を行うことで製造コストを大幅に低下させることに成功しました。

海外生産はデフレの原因か

ユニクロが低価格の商品を売ることができる大きな理由は中国を中心とした低コストの生産拠点です。日本国内で生産して1,000円以下でジーンズを売ることなどできません。これは日本の雇用を海外に移しているわけですから、安い労働力を輸入しているのと同じです。

中国や東欧諸国が労働市場、製品市場に参入し始めて以来、製品価格の低下は進んできました。ユニクロは安い労働力を使うことで、製品価格を下げたのですから、その点だけを取り上げればデフレの元凶と言われるのは全く的外れではありません。

しかし、ユニクロが製造原価を下げたことで日本経済が縮小したかというと事実は違うでしょう。経営指標を見ても、低い製造原価を利用して得た高い粗利を、ユニクロは潤沢に販売管理費につぎ込んでいます。販売管理費は人件費、広告費、店舗運営費などに支出され日本経済の拡大に寄与します(ユニクロは海外展開もしていますが、比率はまだ10%以下です)。

むしろ三越伊勢丹HDは業績の悪化から給与水準を切り下げざる得なくなっています。物価の下落が給与の切り下げにつながっているのがデフレスパイラルなら、デフレの責任はむしろ三越伊勢丹HDの方が大きいとも言えます。

三越伊勢丹HDの言い分としては、業績の低下の原因はユニクロなどが仕掛けた低下価格競争にあるということになるかもしれませんが、複雑な服飾品の流通機構の頂点に立つデパートはアパレル業界で納入業者に無理を強いることでも有名でした。お陰でデパートの全盛期にもアパレル業界は平均的には給与が低く抑えられた上に、店員を無料で派遣させられ、デパートの人件費の負担をしなければなりませんでした。

デフレと言うより破壊的イノベーション

ユニクロは単純に海外に生産拠点を移したから成功できたわけではありません。もしそうなら、デパートも海外で製造するメーカーから仕入れれば対抗できたでしょうし実際そうしています。ユニクロは海外で生産しても、日本国内の需要の変動に素早く合わせて、商品を生産する経営技術と海外で安価ではあっても高品質の製品を作る生産技術で成功したのです。

ユニクロと比べてビジネススーツが主力商品の青山(青山も一種のSPAです)は粗利は高いものの、在庫回転率はユニクロの半分程度になっています。ビジネススーツとカジュアルウェアの違いはありますが、ユニクロの運動神経の良さは歴然としています。

SPAの元祖であるアメリカのGAPは在庫回転率はユニクロを上回っていますが、粗利がユニクロより低くこれがユニクロとの業績の差になっています。GAPもカジュアル中心ですが、ユニクロほど安く作ることには成功していないということでしょう(高く売れないのかもしれません。このあたりは財務諸表だけで簡便に行う経営分析の限界です)。

伝統的な日本のアパレル業界にとって、SPAが海外生産中心で流行の激しい商品を安値で提供する経営技術、製造技術は、メインフレームコンピューターに対するパソコンのような「破壊的イノベーション」です。イノベーションによって実現された低価格はデフレではないはずです(先述のようにデフレの定義が曖昧なので、そうでないとまでは断言できませんが)。

破壊的イノベーションは低価格の製品が多くの需要者の要求する性能、品質水準を満たすようになった時に起こります。パソコン、格安航空券チケット、インターネット電話などは最初は一部の「我慢しても安い方がよい」需要者しか購入しませんでしたが、たちまち一般の顧客にも普及しました。

このような破壊的イノベーションは経済を縮小させるより拡大させます(格安航空チケットがなかったら海外旅行は相変わらず一生一度の夢だったでしょう)。ユニクロの低価格商品も品質は低くはありません。少なくとも多くの需要者の要求を満たすものです。破壊的イノベーションである限り(下請けを叩くだけだった百貨店のバーゲン品とは違って)低価格はデフレのように経済の縮小にはつながらないはずです。

構造改革の痛みはあるが

ユニクロが普及して日本人の服飾品に対する見方-パラダイムが変わってしまいました。ユニクロは「安い」かもしれませんが「安物」とは思われていません。ヒートテックはゴルフ場の紳士たちにももはや常備品になりましたし、高価なブランド品とユニクロを組み合わせるのはアンバランスとは思われなくなりました。

これは確かにデフレと言ってもよいのかもしれません。ブランド品がユニクロの価格まで一気に価格を下げてきたとも考えられるからです。しかし、高校生が頭の先から足の先までシャネルで固めたシャネラーになりたがるより文化的には真っ当なことのように思えます。

ユニクロが火を付けた低価格競争で生まれた1000円以下のジーンズが国内の縫製業者に大きな被害を与えたのは確かです。「もはや日本ではジーンズが作ることができなくなった」ことで国内から失われる雇用や技術もあるでしょう。

しかしだからと言って、「1000円ジーンズを買うのはデフレを助長するだけだ」と言うのはどうかと思います。安くて魅力的な衣料品が手に入ることで、買い物を余計するようになった人も増えました。雇用される側も、ジーンズの縫製ではなく、デザインや販売に携わった方が、低賃金の攻勢には強いはずです。

議論は食料安保論と同じようになって来ました。1000円ジーンズを防ぐために、米と同じに800%近い関税をジーンズにかけろと言うのでしょうか(似たような動きは出てくるかもしれませんが)。これでは高率の関税が最高のデフレ対策になってしまいます。

1000円ジーンズで失われる技術があるなら、守るためには5万円でも売れるジーンズを作るしかないでしょう。これは簡単ではありません。なにしろイタリアの高級ブランドは軒並み中国など海外で生産しています。もはや先進国で縫製で生活できる賃金を得るのは難しいでしょう。今まで日本のような高賃金国でこの問題が表面化しなかったのは、日本のアパレル業界は複雑な流通機構と高コストのデパートなどに守られて、製造業と比べて合理化が著しく遅れていたからです。

ユニクロが行ったのは遅れた日本のアパレル業界に破壊的イノベーションを持ちこむことでした。これはデフレどころか日本経済の生産性向上に大きく貢献するものです。しかし、デパートの不振など破壊的イノベーションが痛みを伴う構造改革を促すのは致し方のないことです。短期的にはデフレムードを高めることもあるでしょう。経済は往々にして感情や気持ちで動きます。

しかし、1000円ジーンズに高率の関税をかけるような保護主義的考えは日本経済に大きなマイナスを招くことは間違いありません。もっとも1000円ジーンズを自分から買わないのは勝手でしょう。「でも寒がりなのでヒートテックは買いますよ」などとは言って欲しくはありませんが。

イジメという喜劇
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悲劇の主人公は美男美女

ロメオとジュリエットや心中天網島は悲恋を扱った名作として有名ですが、このような悲恋物は映画や芝居で上演されるときは決まって美男、美女が演じます。そうでなくては名作もぶち壊しになってしまうのですが、なぜなのでしょうか。

本来このような作品を人々が楽しむのは、主人公の環境に自分を重ねて感情移入することで、恋愛の疑似体験をすることができるからです。だからこそラブストーリーは若い人により好まれるのです。

しかし、リアリズムの観点に立てば、作品に登場する俳優、女優は非現実的なほど平均的な男女とはかけ離れた美男、美女です。自分と重ね合わせるのなら、並みの風貌の方が観客もより感情移入しやすいのではないでしょうか。

答えは明らかです。人は想像の恋愛の中では、「等身大」の自分などではなく、人並み外れた美男美女なのです。並みの風貌では想像の世界ではむしろ現実に合わず感情移入ができなくなってしまうのです。

そもそもなぜ人は感情移入などというものが可能なのでしょうか。世の中には身につまされる話というものがありますから、たまたま自分と似たような環境の話であれば判りますが、敵対する一族の娘に叶わぬ恋をして、窓の下から愛を告白するなどという体験は、それほど一般的ではないでしょう。

人間には他人の経験を自分のものと感じる能力が組み込まれています。これは脳内に「ミラーニューロン」と呼ばれる機能が、運動や言語を司る部分にあるブローカー野という所にあるからだと説明されています。

たとえば、綱渡りをしている人を見て足がむずがゆくなったり、人が殴られるところを見ると思わず首をすくめるのは、ミラーニューロンの働きだと考えられます。(ここから先は、当ブログで「脳科学なんてありません」とからかった疑似科学の領域になるかもしれませんが)感情移入はこのミラーニューロンの働きが感情レベルに広がったものと考えることができます。

死んだ恋人を前に泣き崩れる女優(の演技)を見て涙を流すのは、女優が演じている役の感情を頭の中でシミュレーションをしているからです。演技している女優も流す涙はほとんど本物です。女優は目の前の恋人(役の男優)が本当に死んでいるとは思ってはいませんが、実際に恋人が死んだ女性の気持ちをシミュレーションすることで涙を溢れさせることができます。

このような感情移入を人にさせることはそれほど難しくありません。主人公に美男美女を使うというような基本的な文法を守れば、「思いっきり泣けます」という悲劇作品を作ることは比較的簡単です。ミラーニューロンのあるブローカー野は人間だけでなく、他の動物にもあります。悲劇に感情移入するというのは人間性の奥深くに組み込まれているようです。

喜劇は他人事だから楽しめる

悲劇が感情移入で楽しむものなら喜劇はどうでしょうか。喜劇は感情移入の逆に他人事だから楽しむことができます。バナナの皮で滑ったり、爆弾が爆発して煤だらけの顔になった役者を見て笑うのは、自分事ではないからです。ミラーニューロンを働かしてしまったら、笑うどころではないシチュエーションです。

他人事である限りは、何が人の身に起きようと笑ってしまう。これもまた人間の本質と考えてよいでしょう。美男美女ではどうしても自分自身に重ね合わせてしまう(!)ので、感情移入のできない全くの他人であるためには、喜劇俳優は悲劇の主人公とは逆に美男美女でない方が都合が良いことになります。

古典落語で身体的障害者をからかう題材は数限りがありません。同じようにアメリカでは人種差別的なジョークが一番強烈な笑いを誘います。どちらも今では放送など公の場では笑いの種にすることは許されなくなっています。一番強烈な笑いは現代では反社会的な物と考えられているのです

いじめほど面白いものはない

障害者の肉体的欠陥を嘲ったり、他の民族の顔形や風習をからかったりするのは許されることではありません。このようなものを笑いの種にできなくなったのは社会の進歩と言ってよいでしょう。しかし、社会的に禁じても人間の本性がいきなり変わるものではありません。

人を差別したい、人と違うところがあれば馬鹿にしてやりたいという気持ちが、そのまま噴き出すのがイジメです。「変わっている」「人と違う」要するに「感情移入できる対象ではない」ことがイジメるためには必要です。当たり前ですが人は全て同じではないのですから、誰でも「人と違う」と言われてイジメられる危険にさらされています。

イジメは誰でも加害者にも被害者にもなります。しかし、加害者を支えているのはイジメに参加しないことで自分自身が「人と違う」と思われてイジメの対象になってしまうという恐怖心と、何よりもイジメの快楽です。イジメはパイ投げ合戦の映像を見て大笑いするよりずっと面白いのです。何しろ目の前で本物の人間が苦しんでいるのですから、これほど臨場感のある喜劇はありません。

イジメが人間の本性に根ざしているということは、イジメを止めるには「ミラーニューロンを働かせて相手に感情移入しなさい」つまり「相手の身になって」などと言っても大して効果がないということです。イジメを止めさせるには、路上で強姦が勝手に行われるのを阻止するのと同じで、一定の秩序が必要です。

イジメの本性は昔からあったはずですが、現在の学校は昔のような権威主義的な秩序がなくなったことが、イジメがより多くなった、あるいは表立って行われるようになった原因だと考えられます。権威主義的な秩序がなくなるのは、もちろん悪いことばかりではありません。昔と比べ生徒が教師に自分の意見を、よりはっきり言えるようになったのは、好ましいことと考えてよいでしょう。しかし、そのような教師の権威の低下が、イジメの増加、あるいは教室崩壊、モンスターペアレンツの跋扈を招いているのは多分確かなことです。

一番イジメたいのは自分より優位にある人

美男美女は喜劇の対象になりにくいのですが、美男美女がひどい目に会うということが、より大きな笑いを誘うことがあります。これは、自分よりすぐれたものがひどい目に会うのを喜ぶという感情に根ざしていると考えられます。

美男美女だけではありません。政治家、成功したビジネスマン、その他有名人などは何かヘマをしでかすと、集中的に執拗な攻撃を受けることがよくあります。イチローがWBCで決勝打を放っても報道されるのは翌日だけですが、芸能人の覚醒剤汚染などは何日、何週間にも渡って報道されます。

これはマスコミが自分より優位にある人間をイジメたいという一般の劣情に媚びているからだと考えられます。報道する価値がどうかというより、有名人が困難な状況にあるのを見て人が喜ぶということが良くわかっているのです。

これに対抗するには、相手が感情移入しやすい状況を作って、悲劇的な話を仕立てという方法があります。覚醒剤使用で逮捕された酒井法子は記者会見で涙をみせて非行を詫びましたが、その記者会見を見て少なからぬ人がある程度の同情をしました。もし酒井法子があれほどの美女でなければ状況はずいぶん違ったはずです。「美人」は得なのです。

人間の嫌なところばかり書いてしまったような気もしますが、感情移入があるから遠い国の孤児たちにも助けの手を伸ばそうとするのですし、他人事だから笑い飛ばすという能力も、仲間内の結束を高める働きがあります。悲劇は独りで泣けますが、喜劇は沢山で見た方がより笑えます。テレビ番組で笑いを誘おうと笑い声を効果音に使うのは、笑いは集団心理が働くということを製作者がよく知っているからです。有名人を叩くだけ叩くという傾向さえ、偶像化を防ぐという働きもあります。

ただ、イジメだけは何の効果もない社会の害毒です。自分と違う者を排除し攻撃するというのは、人類の長い歴史の中で、部族間の生存競争の結果として身についてしまったものなのでしょう。そのような過去の名残は文明が人間のもつ様々な欲望を秩序の中に押し込めてきたように、むき出しにさせるのを避けなければなりません。他人事を笑うのはできれば本当の喜劇にとどめて置きたいものです。

参考:
イジメ自殺の深淵
体罰で学校は良くなりますか?
あけましておめでとうございます
ミニ門松3


あけましておめでとうございます。 ネットの一番ありがたいことは筆不精な私も日頃合わない方にも簡単に連絡が取れることです。このブログにもありがたいことに何人か読者がいらっしゃって、お目にかかったこともないのですが、ブログを通じて新年のお挨拶をお伝えすることができます。

昨年末プロファイルに実名を入れました。実名を出すことにした理由は、匿名のままでは発言が無責任な印象を与えるかもしれないと思ったからです。今までも無責任なことは言わないつもりでしたが、実名を出すことでもっと読者の皆様とコミュニケーションが広がればと思います。本年も倍旧のお引き立てをお願い申し上げます。




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