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ビジネスのための雑学知ったかぶり
ビジネスでも雑学は重要! 知っていると少しは役に立ったり、薀蓄を自慢できる話題をご紹介
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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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泣くなよ! 男なら
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アメリカのトヨタディーラーの代表から励まされ思わず涙ぐむ豊田社長

トヨタの豊田社長がリコール問題に関連したトラブル対応についてアメリカ下院の公聴会に呼ばれ証言を行いました(2010・2・24)。アメリカ議会の公聴会は厳しいものですし、下手なことをしゃべると会社も個人も大きな責任を取らされることになるので、豊田社長にとって公聴会での証言は大変な精神的プレッシャーだったと想像されます。

半ば拷問のような公聴会の後、アメリカのトヨタディーラーが集まった席でディーラーの代表から「われわれはいつでもあなたを信頼して支援します」と言われて豊田社長は思わず涙ぐんでしまいました。身内の席での話ですし、この話はアメリカではそれほど話題になることはなかったようですが、豊田社長の泣いている様子は日本では肯定的に報道されました。

しかし、アメリカ社会では男が泣くというのは少なくとも伝統的には避けるべきものでした。アメリカでは‘ Big-Boys-Don't-Cry:大きな子は泣かない’という言葉があって、男は泣いてはいけないという社会文化的な抑圧があります。特に、リーダーと目される会社の役員、政治家が泣くというのは時として致命的ですらあります。

1972年の大統領選では民主党の最有力大統領候補と見られていたエドムンド・マスキーは、自分を中傷した新聞記事に怒りを表明しているうちに感情が高ぶって泣いてしまったため、大統領レースからの脱落を余儀なくされてしまいました。

2008年の大統領レースではヒラリー・クリントンがテレビインタビューの際に涙ぐんだことが、女はやはり大統領には向かないのではないかというかなりの議論をよびました。しかし、クリントンの場合は大統領選から脱落することまでにはいたらずに、そのまま大統領選キャンペーンは続けられました。

マスキーとクリントンとの世論の反応の差には男と女という違いがあったことは事実でしょう。しかし、30年以上の時の流れが、男は泣かないというアメリカの文化に変化をもたらしたということもあったと思われます。男は泣かない、逆に言え女は泣いてもよいという考えが、フェミニズムから批判されてきたのです。

今では、オリンピックで優勝した男子選手が泣くのはアメリカでも許される範囲となっているようです。タイガーウッズが父親が亡くなった翌年のマスターズで優勝し、声をつまらせながら「この勝利は父のものです」とスピーチしたのはかなりの感動を持って受け止められました。

それでも豊田社長がアメリカのディーラーの前で涙ぐんだのはやはりまずかったのではないかと思います。アメリカはリーダーに対してはパターナリズム(父権主義)的な強さを求めるのが普通で、それには涙はふさわしくないと思われているからです。

おそらく豊田社長が日本人ディーラーの前で泣けば、ディーラー達は「お世話になったトヨタのために頑張ろう」とい気になるでしょう。しかしアメリカ人はリーダーが泣くと、エンジンから火を吹いている飛行機の機長から涙ながらに「私は全力を尽くします。皆さんも最後まで希望を捨てないでください」と言われた乗客ような気分になるのではないかと思います。

いや日本でも社長が泣いても良いのは会社が倒産した時くらいではないでしょうか。同じような状況で経団連会長を務めた奥田元トヨタ社長が泣いたかいうとあまり泣きそうには思えません。奥田氏に限らず歴代の経団連会長でも泣きそうな人は見当たりません。

今回のトヨタ車のリコールはトヨタにとって大きな試練ですが、車の欠陥だけの問題であるなら、次第に世論は沈静化していきます。トヨタにとっての問題はそのような外的な問題ではなく、日米の文化的な差もあまり考えず内輪の席であっさり涙腺が緩んでしまうようなリーダーを戴いて大丈夫かということです。日本人でもそう感じることがあるとすれば、アメリカ人や世界中でトヨタで生計を立てている数十万の人々はもっとそう思うのではないでしょうか。
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もし誰も嘘をつけなくなったら
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客と中古車屋

客「このBMW Z4はいくらですか」
中古車屋「290万円です」
客「いくらまでなら下げられますか」
中古車屋「一応250万円までは値下げしても良いと思っています」
客「外見はきれいだけど悪いところもあるんでしょ」
中古車屋「はい、バッテリーは2-3カ月で交換する必要があると思います。エアコンもコンプレッサーの具合が悪いので夏を越すのは難しいかもしれません」
客「交換するといくらくらいかかりますか」
中古車屋「純正部品だと修理費込みで40万円くらいかかるかもしれません」
客「他に問題は何かありませんか」
中古車屋「追突されてフレームを溶接で直しています。素人にはきれいに修理してあるので、わかりにくいですが、トランクをあけてマットを剥がすとよくわかります」
客「走行性能に影響があるでしょう」
中古車屋「はい、でも160キロ以上で若干問題がある程度ではないかと思います。それほどひどい事故ではなかったようなので」
客「修理費を考えると250万円でも少し高いかもしれない。仕入れはいくらでしたか」
中古車屋「150万円です」
客「250万円でも100万円も儲かりますね。200万円くらいでもいいでしょう」
中古車屋「色々経費もかかるので、50万円の粗利では結構苦しいですね。でもお客様はこの車を気に入っているんでしょう」
客「色も黒で欲しかった色だし、走行距離も2万キロで全体の程度はとてもいい。欲しくて今ここから乗っていきたいくらいです」
中古車屋「他の店はごらんになりましたか」
客「もちろん、でも250万円でここまで程度の良いものはありませんでした。色も黒は見つからなかったし」
中古車屋「さっき来たお客様は230万円だったら買えるのにとおっしゃって帰って行きました。200万円まで下げなくても売れるんです」
客「私は即金で払いますよ。今月の資金繰りを考えたら今ここで決めた方がよくはありませんか」
中古車屋「ええ、家賃とか支払いが来週いくつかあるので、確実に売り上げを確保したいと思っています」
客「それなら220万円ならどうですか」
中古車屋「わかりました220万円で結構です。でも、バッテリーの交換とコンプレッサーの修理は自分でお願いしますね」
客「もともと300万円くらいは出さなきゃいけないと思っていたので、それは構いません。スピードはあまり出す方じゃないから、事故履歴は気になりません。どうもありがとう」
中古車屋「こちらこそ、ありがとうございます」

夫と妻

妻「あなた今のメールは誰から」
夫「会社で部下のAさんからだ」
妻「あなたの不倫の相手?」
夫「そうだ。よくわかったね」
妻「あなたは表情に出やすいから。いつから関係が続いているの」
夫「まだ半年くらいだよ。それより君も不倫しているだろう」
妻「スポーツジムのインストラクターとだけど、相手から見ると私なんて数のうちにもはいっていないみたい」
夫「離婚したいの」
妻「あなたには生命保険が沢山かかっているし、生活のことを考えると離婚はありえないわ。あなたは」
夫「僕もだよ。浮気は浮気で家庭は家庭だ。今さら何もかもやり直す気にはならないね」
妻「だったら今日は外で何かおいしいものを食べない。あなたに料理を作るのはうんざりしていたの」
夫「僕も君のまずい料理にはあきあきしていたンだ。Aさんとこのあいだ行ったイタリアンが悪くなかったから、そこでどうだい」
妻「素敵。あなたと私って気が合うわね」
夫「本当にそうだね」

刑事と殺し屋

刑事「で、この殺人事件の犯人は君なンだね」
殺し屋「はい、その通りです」
刑事「計画的な犯行だよね」
殺し屋「もちろんです。プロは失敗が許されませんから、何カ月も前から標的の行動パターンを調べて念入りに準備を重ねました」
刑事「凶器はどうしたンだ」
殺し屋「トカレフの犯罪歴のないものを売人から仕入れました。拳銃は1回使ったら必ず廃棄しますし、犯罪歴のないトカレフは結構値段もするので大変です」
刑事「使ったトカレフはどこにある」
殺し屋「ですから、使用済みのトカレフは東京湾に遊覧船から捨てました。探そうと思っても無理だと思います」
刑事「悪い奴だな」
殺し屋「殺し屋ですから」
刑事「誰に雇われたンだ」
殺し屋「本当の雇い主はわからないことになっているンです。私に直接依頼したのはA組の若頭のLですが、Lに頼んだもっと大物がいると思います。私は仕事が確実な分高いので、A組のような小さなところでは払えないと思います。とにかく本当の雇い主は聞いていませんから、Lに聞くしかありませんね」
刑事「わかったLに聞いて教えてもらおう。君はプロというからにはもっと沢山殺しているんだろう」
殺し屋「全部で15人です。殺人は私の主要な収入源です」
刑事「なるほど」
殺し屋「私はやはり死刑になるでしょうか」
刑事「殺した数から言えばそうだが、今回の事件も含め全て自白しか証拠がないので、有罪に持ち込むのは大変だ。それもそうだが反省はしていないのか」
殺し屋「仕事ですから」
刑事「反省していないと、有罪の場合は死刑の可能性がまた高くなるね」
殺し屋「それは残念です。ただ私は依頼さえなければ、自分から人を殺すような無駄なことはしません。実直で真面目な職業人です」
刑事「自白以外の証拠が何か欲しいな。考えてみてよ」
殺し屋「うーん。そうだ私のパソコンに殺した相手の行動パターンと、殺害方法のシナリオを描いたファイルがあります。それならどうでしょう」
刑事「それはいいね。君の家を家宅捜索した時にパソコンは押さえてある。」
殺し屋「暗号化されているので中身はまだ見ていないはずですが」
刑事「パスワードを教えてくれる?」
殺し屋「はい、私の生年月日のあとにデューク東郷とローマ字で続けてください。ゴルゴ13の大ファンなンです」
刑事「助かるよ。どうもありがとう」
殺し屋「どういたしまして」

レモン市場

1970年、アメリカの経済学者のジョージ・A・アカロフは中古車市場をモデルにして、買い手と売り手の持つ情報量が違う時、つまり情報の非対称があるとき、市場が十分に機能しないという論文「レモン市場:品質の不確実性と市場のメカニズム」を発表しました。
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ジョージ・A・アカロフ

中古車市場では欠陥のある中古車(米俗語でレモンという)かどうかというのは売り手は知っていても、買い手にはなかなか判りません。そのため買い手は優良な車(米俗語でチェリーという)の価値の通りの価格を支払うのではなく、レモン車本来の値段との中間の値段しか払おうとしなくなります。その結果、チェリー車の持ち主は中古市場に売りに出すのはやめてしまうので、市場にはレモン車ばかりが出回ることになります。

これは市場が十分に社会的効用を果たしていないということを意味します。アカロフは情報の非対称性を伴う市場の分析の研究で2001年のノーベル経済学賞を受賞しています。中古車市場に見られたことは、出会い系サイトや強制加入を前提としない医療保険などにも起こります。アメリカは国民皆保険の医療保険制度を持っていないため、医療保険全体がレモン市場になる危険性があり、保険会社はレモンを受入まいとする膨大なコストをかけるという二重の問題を抱えています。

一方アカロフへの反論として、買い手側もそれなりに情報獲得の手段がある、あるいは中古車屋も評判が大切なのでいつも欠陥を隠してばかりはいないというものがあります。インターネットの普及で買い手側の情報は格段に増えて、その結果商品価格がより妥当なもの(大概は安く)なってきたのは事実でしょう。

また、売り手側も長い間商売をしたければ、客から絞りとろうとばかり考えるとは限らないということもあるでしょう。しかし、素人の買い手にはなかなか隠された欠陥は判らない中古車のような商品では、素知らぬ顔で高い値段で売ろうという業者がいなくなることはありません。根本的には人間は嘘をつく、あるいは嘘をつかないまでも本当のことを言わないのは日常生活では当たり前で、そうである限りレモン市場は存在してしまうのです。

それでは冒頭の会話のような100%正直者の中古車屋と買い手の取引ではどうなるのでしょうか。どちらも100%正直な場合でも、中古車屋が一方的に譲歩を強いられるということはありません。買い手も「欲しい気持ち」「この価格で満足」という気持ちを見抜かれてしまうからです。このような状態は品質の標準化された原油や小麦のようなコモディティー商品のオープンな市場では成立しています。

そんな原油や小麦の市場でも突然意味もなく価格が暴騰したり暴落したりすることはあります。またオープンな市場でなく冒頭の例のように100%正直者同士の取引でも交渉は必要です。お互い手の内を全て見せても案外世の中は変わらないのかもしれません。

男と女の騙し合い

普通の夫婦は男性も女性も浮気は隠そうとします。これは人種や時代を超えて成立する話ですから、人類の形質の一つと考えて良いでしょう。ではなぜ、男と女はお互いに嘘をつくのでしょうか。もっと言うと、嘘をつくことが生存競争上何か有利に働くことがあるのでしょうか。

人類の女性は他の哺乳類たとえばチンパンジーなどと比べると未熟児しか生むことができません。これは人類が大きな脳を持つことの代償で大きな脳を持つ赤ん坊は産道を通過することができないからです(人間の赤ん坊が成人の25%の脳で生まれるのに、チンパンジーの新生児は65%の脳を持っています)。このため人類は子育てに長い時間を費やす必要があります。

子育ての期間中女性は男性の助けが必要です。しかし男性は自分の遺伝子の継承者つまり本当の自分の子供の育児しか協力しようとは考えません。そこで女性は浮気で夫以外の男性との間に子供ができたことをできるだけ隠そうとします。女性には嘘をつく動機、インセンティブがあります。

男性はどうでしょう。人類社会にはイスラム教徒のように4人まで妻を持てるとか、ハーレムを作るような文化もあるわけですから、正々堂々と浮気をしてもよさそうに思えます。現にそうしている人もいるかもしれません。しかし、人類の歴史を考えるとハーレムのように一人の男性が沢山の女性を養う状況はごく新しい話だと考えられます。

人類は概ね一夫一婦制を守ってきたのですが、生産力の乏しい原始時代には一人の男性は一人の女性を養うのが精一杯だったと考えれます。ゴリラやアザラシのようなハーレムを作る種は人類のように子育てに莫大な労力を必要とはしません。子育ての期間はメスにとっても繁殖期間から次の繁殖期間までです。

ところが人類は女性が出産して次に妊娠可能になるまでの4年(農耕が始まるまでこれが女性の平均的な出産の間隔でした)では子供まだ一人立ちできません。もっと長い期間10年あるいはそれ以上夫婦は共同して子育てにコミットする必要があります。複数の女性を養えるような男性が登場するのは農耕によって富の蓄積が可能になって貧富の差が生まれてからではないかと思われます。

人間は他の霊長類と比べても例外的に年中セックスが可能です。一つ考えられる理由はセックスが子育てにコミットする男性に対する女性の報酬ではないかということです。そうであれば報酬を受け取っていながら浮気をするのは男性が女性に対して契約違反をしていることになります。

浮気は人類以外の一夫一婦制を基本にする鳥や哺乳類のツガイにも見られます。そのような浮気の結果生まれた子供の子育ての責任は通常のツガイが行うのが普通です。つまり、メスはオスを自分の子だと騙しているわけです。人類以外であればオスは浮気をしてもメスにばれる気づかいもありませんし、騙す必要もありません。オスがメスに嘘をつく必要があるのは人類だけのようです。メスの嘘は人類の生まれる前からの長い歴史があるのに、オスの嘘はまだ歴史が浅いのだとすると、嘘は女性の方が男性よりうまいのは進化論的な必然なのかもしれません。

裁判はレモン市場

人類が集団からさらに大きな社会を形成するようになって、社会の秩序に反するメンバーを罰する必要が出てきました。犯罪や刑罰の種類は文化によって異なります。しかし、どのような文化でも裁くことは嘘をどう扱うかという問題に対処する必要があります。

被告を裁くとき
(1) 犯罪を本当に実行したのか
(2) 動機は何か
(3) 計画性はあるか結果を予測できたか
(4) 薬物、精神疾患などの影響はあるか
(5) 被害者に落ち度はないのか
(6) 環境は同情すべき点はあるのか
(7) 改悛の情はどの程度か
など色々なことを考える必要がありますが、全てに対し犯罪者は嘘をつく可能性があります。裁判官や裁判員を中古車の購入者、被告を中古車屋と考えると、被告の心の中は中古車と同じで購入者つまり裁判官からは完全には判りません。裁判とは裁判官と被告の間に情報の非対称性があるレモン市場だと言うことができます。

こんな例えを言うと、裁判と中古車は違うとか、裁判官や司法関係者は中古車の購入者と違って徹底的に証拠を吟味するといった反論がでるかもしれません。しかし、現実に冤罪というものが発生することを見ても、裁判での吟味が完全であるとの主張は明らかに間違いです。被告には自分の罪を少しでも軽くしたいという強いインセンティブがある限り、証拠の吟味と同様に被告側の嘘も巧妙になることは避けられません。

裁判がレモン市場だとしても、このレモン市場はチェリー車つまり無罪だったり、本当に罪を軽減する事情を持っている被告も参加させられてしまいます。中古車であればみすみす叩かれるとわかっているのにチェリー車の持ち主は中古車市場に自分の車を出さずに友人に売るようなこともできるのですが、裁判を避けることはできません。

アカロフのレモン市場の理論では、レモン市場ではレモン車の存在というリスクがあるので、チェリー車の価格は本来の値段よりは安く、レモン車は本来の値段より高く取引されます。これは裁判で言えば、嘘をついて罪を軽くすることに成功する被告がいる一方、本来ならもっと軽い罪で良いはずなのに嘘をついている可能性があると判断されて、重い罪になってしまう危険があるということです。

顔つきがいかにも悪人に見える、被害者が美人で有名大学の学生だ、などは判決で考慮してはいけないのですが、本当に判決と無関係と言えるでしょうか。また、「心から罪を悔い改めています」などと言っているのは「この車は持ち主が丁寧に乗っていたので、程度は最高です」と中古車屋が言っているのと同じかもしれません。

レモン市場ではレモンはチェリーが損をする分本当の価値より高く売ることができます。しかし、レモンへの警戒心が強いと市場の価格はレモンの値段に近づいていきます。これは裁判では本当に悔いている被告を不必要に重い罪にすることになります。

取引で嘘をつくことの利益があり、嘘が簡単には見破れない場合、市場はレモン市場になります。アカロフの理論に対する反論であったように、中古車屋も評判を気にするということはあるでしょう。買ってすぐバッテリーがダメになったり、エアコンが夏を越せず何十万も出費しなければならなくなったら、その中古車屋を友達に紹介する気にはなりません。しかし、重罪の被告人にとっては次回の裁判を気にしている余裕はないでしょう。裁判はレモン市場になることを避けることはできません。

夫婦の間はどうでしょうか。嘘ばかりついていると、「もう二度と浮気はしません」と謝っても信用されるのが難しいのは間違いありません。しかも嘘を見抜く能力は男性より女性の方が優秀なように思えます。進化論的には嘘をつきだしたのはメスの方が先で、オスが嘘をつくようになったのは、長い子育てが必要な人類が現れてからのはずなのですが、女性は急速に嘘を見抜く力を進化させたようです。人類の男女には嘘つく能力、見抜く能力の非対称があるようです。

参照:未来の人類
マネージメントならどうする: ケーススタディーとしての国母選手と朝青龍
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乱れた?国母選手の格好

異文化との付き合い方

オリンピックでスノーボード男子ハーフパイプ代表の国母選手の服装が問題になりました。発端は出発の時の成田空港に格好が日本選手団のユニフォームを着崩し、ズボンをずり下げた今様の格好(腰パンと言うらしいですが)で現れたことなのですが、映像が流れて「服装が乱れている」という非難に謝罪した記者会見での態度がまた問題になってしまいました。

「反省してまーす」とややふてくされた感じで謝罪したのもあまり感心したものではなかったのですが、小さく「うるせーな」などとつぶやいた声が高性能マイクにしっかり拾われ物議をかもすことになってしまいました。結果として国母選手は再度謝罪記者会見を行うことになった上、選手村入村式、開会式参加も欠席ということになってしまいました。

国母選手の問題の出発点だった「服装の乱れ」などつまらない話ではないかという人も多いと思いますが、そうとも言えません。われわれの日常生活ではデフレの克服、パンデミックへの対処方はたまた巨大隕石衝突の危険性などの「大問題」のことを論じることはあまりません。また、論じたところで何かがどうなるというわけでもありません。

人間関係でのトラブルの多くは服装、言葉づかい、態度などが「気に入らない」ということで起こることが多く、国母選手のケースは身近な問題と言えます。国母選手のようなことが全て「些細なこと」と思えるなら、親子関係、学校、職場での衝突はずいぶん減るに違いありません。

国母選手は開会式の参加を認められませんでしたが、同じように「横綱の品格」を問われた朝青龍は職を失ってしまいました。朝青龍の場合は警察沙汰を起こしてしまったので、国母選手の場合と根本的な違いがあるかもしれませんが、事件の完全解明の前にあっさり引退に追い込まれたのはそれまでの朝青龍の態様が影響していることは間違いありません。

女優の沢尻エリカの場合は出演映画の舞台挨拶で、司会者の質問に「別に」などと不機嫌に答えた映像を何度も流されて、事実上芸能活動中止に追い込まれてしまいました。沢尻の場合は、大麻を所持していたとか暴力事件を起こしたわけではありません。態度が悪かったという理由だけで仕事がなくなってしまったわけです。

ボクシングの亀田兄弟も言葉遣いが悪い、試合のやり方がセコンドについた父親も含めてクリーンでなかったなど散々叩かれました。その結果、コマーシャル出演のような人気のあるプロ選手には本業以上の収入源が大幅に減ってしまいました。亀田兄弟(親子)はヒール的なイメージを売っていて、それが人気の一つだったはずだったのですが、風向きが急に変わって態度の悪さを攻撃されました。

国母選手や朝青龍のような部下を持ったらどう対処したらよいのでしょう。これは今では切実な問題です。国際化の進展で海外に赴任するのは珍しくありませんが、最近では国内でも外国人を採用するケースが増えています。若手とベテランの衝突は昔からありましたが、最近は正規社員と非正規社員の違いが加わっています。産業構造が目まぐるしく変化するため、異業種と思っていた業界、職種の人と仕事をする機会も増えました。

国母選手、朝青龍の場合はさらに「スター社員」をどう扱うかという問題があります。競争力のためには今までの企業文化と衝突する可能性があっても、優秀な社員を採用しなければならなくなっています。日本企業もいつまでも「和をもって尊しとなす」とばかりも言っていられません。パフォーマンスにすぐれたスター社員が文化的軋轢を引き起こした時マネージメントはどうすれば良いかを考えてみましょう。

(1)文化的摩擦を本質的なものとは考えない

国母選手の服装について非難した人は「日本代表として国費を使って参加するオリンピック選手としての自覚にまったく欠ける許されないものだ。そもそもあの格好は頭の足りないことを証明している」という意見を持っているようです。反対に擁護する人の多くは「服装は個性を表現するもので、オリンピックなど権威で服装を押し付けるのは間違いだ。あの服装はそれなりにきまっていて格好いい」と考えています。

どちらも個人的感想としてはそれでよいのですが、マネージメントが自分の好みで部下の行動の評価をするのは感心しません。まして文化的な違いがあるときは絶対に避けるべきです。服装や言葉遣いはある社会的集団に属しているものですから文化的集団が違えば違うのは当たり前で、違い自身を評価するのは間違いです。

国母選手がファッションに無関心な人間とは思えません。鼻ピアスも緩めたネクタイもおしゃれでそうしているので、だらしなくてそんな恰好をしているのではないでしょう。逆にきちんとした服装が常に正しいわけではありません。子供の運動会にビジネススーツを着てきたら、仕事を抜け出してきて、親の参加するゲームに出る気はないなと思われてしまいます。第一場違いな印象で子供に嫌がられてしまいます。

国母選手のファッションは日本選手団のドレスコードの伝達が正しく行われなかったからでしょう。「公の場ではユニフォームを着用し、きちんとしたオリンピック選手としてふさわしい身だしなみをすること」という表現では文化的基盤が違っていると解釈も違ってきます。

問題なのは、ドレスコードやルールをきちんと伝えても、それに従わないときです。朝青龍のガッツポーズはその例でしょう。勝負に勝った後ガッツポーズをするのは世界標準と言ってもいいぐらい普通ですし、日本でも野球やゴルフでは当たり前です。しかし、相撲ではハワイ出身の力士も朝青龍以外のモンゴル人力士もガッツポーズはしません。朝青龍は横綱の品格以前に集団のルールに従う気がないということになります。

次は朝青龍が集団の文化に従わないような性格または文化的背景があるかということです。集団の文化に従わせる強さは北朝鮮のような強権国家と民主主義国家では違いますが、どんな集団でも自分たちの文化に従わせるということは共通しています。モンゴルが例外であるはずがありません。朝青龍の場合は、自分の基準に合わない文化には従う必要がないと考える個人的な性向の持ち主だということに加え、自分は例外扱いしてもらえるという気持ちがあったのでしょう。

(2)価値観を共有する

文化的なベースが違っても価値観を共有できないわけではありません。国母選手の場合でも、国際大会で自国の旗を上げたいという価値観は他のオリンピック選手とそれほど違ってはいないでしょう。オリンピック代表に選ばれるようなアスリートは競争心や克己心は人一倍強く「日本のために頑張ろう」という意識を共有するのは難しいことではありません。

朝青龍のような外国人であっても、自分の身入りだけを考えるという狭い意味の功利主義ではなく、「大相撲の価値を高めよう」という目的を持たせることは可能だったはずです。「あいつはカネにしか興味がないから」という印象は外国人社員に感じることが多いのですが、価値観の共有ができず自分のしていることに金銭以上の価値を感じることができなければ人間はカネにしか興味がなくなります。

一流のアスリートがカネだけの価値観で一流になることは困難ですし、たとえそうでも一流になればカネ以上の何か別の価値を求めるのが普通です。それはメダルの栄誉かもしれませんし、歴史に残る大横綱になることかもしれません。朝青龍も優勝回数で歴代一位になることにこだわりがあったと言われています。もし、「横綱の品格」を持つことを共通の価値観で持つことができていれば、トラブルの多くは防げたはずです。

(3)コミュニケーションに務める

文化的な違いは表面的な違いに目を奪われずに、違いの奥にある共通の価値観を見つけることができれば克服できます。そして共通の価値観を持つためには十分なコミュニケーションを行うことが必要です。

マネージメントにとって、伝統的な日本の会社は文化の均一性が高く、終身雇用のもとでは共有する価値観も「わが社の発展」とすることで十分でした。そんな環境ではコミュニケーションは仕事帰りに一杯やって、仕事場ではしにくい不満を聞いてやったり、部下が「上司は気づいていないだろうな」と思っているような進歩や努力をさりげなくほめることで達成されました。

しかし、文化的な背景が大きく異なる集団では価値観の共有のために行うコミュニケーションはもっと積極的で明確なものでなくてはいけません。国母選手にとってなぜ成田でネクタイをきちんと結んで腰パンのズボンをはかないこと(国母選手にとって、そんなダサイ格好をさせられることは、ひどく屈辱的なことだったかもしれません)が、国母選手の持っている価値観とどう結びつくかを説明できなくてはいけません。

これはそんなに簡単なことではないでしょう。 「そんなこともわからない奴はバカだ」言っても問題は解決しません。バカだからではありません、文化が違うのです。突き詰めて考えると、メダルの表彰式でユニフォームを着用するのは理解しやすいですが、出発の時まで、きちんとネクタイを締めるというのは、文化の中でも軍隊的、体育会的なものでそれほど「当たり前」とは言えないものです。

無理に理屈をつけると、オリンピックの出発風景は日本国民に日本代表が一丸となってメダル獲得に向かうという気分を高める儀式の一部だということかもしれません。朝青龍だって土俵入りのような明文化された儀式には従いました。明文化されていない暗黙的な儀式は明文化(文章でなくても口頭でも)しなければ文化の違う人々には伝わりません。

マネージメント対応を評価すると

国母選手のケースで橋本団長の対応は適切なものだったと思われます。空港での服装は国母選手なりのファッションで、「ダサイ」基準に合わせることを伝えなかったのは、暗黙知によりかかった失敗です。誰が悪いというものではないでしょうが(監督が悪いと言う人もいますが、「まさかそんなことするとは」をいうのは異文化に接した時には良くある話です)、国母選手はある意味被害者と言えないことはありません。

それでも謝罪会見をしてふてくされて「うるせーな」と言ったのは、とてもまずいことですが、これも国母選手は内心呟いたのが声に出てしまっただけです。国母選手も謝罪に行って「うるせーな」と言うことが喧嘩を売ることになるのは知っているはずですから、本心から悪気があったということではないはずです。

たとえ独り言でも聞こえてしまった以上は謝らなければなりません。それも口で謝るだけではなく何か形が必要です。開会式不参加というのは、ちょうどいい妥協点でしょう。晴れがましい舞台に立てなかったのは残念かもしれませんが、スケジュールの合わない女子フィギャーの選手も参加していません。形はあるが実害はないということです。

オリンピックに7回も出場した橋本団長はオリンピック代表に選ばれることが並みはずれた才能と努力の結果だということが誰よりもよくわかっているはずです。橋本団長はスキー連盟からの大会辞退の申し出を却下しました。

全てが橋本団長の決断と考えによるものかはわかりませんが、素早く事態を収拾させ、国母選手に一定の納得をさせた(ように見える)のはコミュニケーションもそれなりにできていたのではないかと思います。

朝青龍の上司である高砂親方にはマネージメントとして厳しい点を付けなければいけません。朝青龍は異文化を修正することが十分できずに引退しなければなりませんでした。高砂親方は朝青龍と最後まで共通の価値観を共有することができなかったと思われます。本当は弟子入りした時から一人前になるまで育てた恩はあるはずですが、朝青龍は「その分稼がせてやった」としか思っていなかったようです。

朝青龍がモンゴル人の中でも自己主張を前面に押し出すタイプだったことは確かですし、簡単に説教を聞くような人間ではなかったでしょう。しかし、コミュニケーションの確立に努力した様子は見られません。努力はしたのかもしれませんが、諦めてしまったのは間違いなさそうです。

高砂親方は誰からも好感を持たれるパーソナリティーの持ち主でしょう。しかし、人格円満でも自分勝手なスター社員を野放しにして、結果的にスター社員を失うような管理職を評価するわけにはいきません。スター社員、スター選手ほど自意識、自己主張が強いものです。それに恐れをなしていてはマネージメントは務まりません。

相撲界がこれからも外国人力士を採用し続けるかどうかは判りませんが、朝青龍のような問題を二度と引き起こさないためには、力士の育成や教育を親方任せにするのはやめるべきでしょう。異文化の力士を受入れ、相撲社会の文化を理解させるにはより専門的なガイダンスが必要だと思われます。外国人力士に限らず、力士の稽古での死亡事件(起訴された内容を見ると実質的な殺人ですが)の発生などを見ると、教育、育成に相撲協会自身がもっとコミットする必要があるのは明白だと思われます。

異文化との関り合いは好むと好まざるとにかかわらず、これかも増えてくるでしょう。文化が違っても互いの理解は可能です。しかし、文化が違えば暗黙知に頼ったコミュニケーションは役に立ちません。「こんなこともわからないのは、悪い奴に違いない」などと相手の行動を勝手に解釈するのは危険極まりないことです。部下に外国人を持つマネージメントだけでなく、誰でもそれだけは肝に銘じてい置く必要があります。

正規分布とオリンピックメダル獲得の関係
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ローレンス・H・サマーズ

女は科学者に向かない?

ローレンス・H・サマーズはオバマ政権の国家経済会議委員長です。サマーズは天才的な経済学者として知られていて、28歳で史上もっとも若いハーバード大学経済学部教授に就任しています。その後サマーズはクリントン政権で財務副長官、さらに財務長官に就任し、退任後ハーバード大学学長となります。

サマーズがハーバード大学学長だった2005年、サマーズは全米経済研究所(NBER)の主催する科学技術者の多様化(Diversifying:通常男女、人種などの多様化を意味します)についての分科会で、5,000人ないし10,000人に一人といったトップレベルの能力を求められる上位25大学の物理学者に女性が少ない理由を説明する仮説を展開しました。

サマーズの述べた仮説は、女性科学者は男性と比べ本人の意思を含めた家庭環境や社会的条件が不利なことをまず挙げています。これは女性本人のやる気を指摘した以外は穏当なものでしょう。ところがサマーズはその他の理由として、女性は男性より個人の能力のバラツキ(variability)が小さいため、男女の平均知能は等しくても、極端に優秀な人間の数は男性が女性よりずっと多くなる可能性があるという推察を述べます。

サマーズの言いたかったことは、統計学の世界では平均値の同じ正規分布(この場合は男女それぞれのIQの分布になります)でも標準偏差つまり平均からの乖離の度合いが大きい集団は、分布のはずれの方では、標準偏差の小さな集団との差がずっと大きくなるということです。下の図で赤、青、緑のそれぞれの正規分布の平均値は同じですが、平均から外れたところの分布青や緑は赤よりずっと厚くなっています。
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正規分布では平均が同じでも標準偏差が異なれば分布の仕方が大きく違ってくる
(紫の線のように平均値が異なると分布のはずれで違いが一層大きくなることにも注意)


サマーズの仮説が当たっていれば、有名大学に採用される物理学者のように何千人、何万人に一人の特別に能力の高い人は、男性の方が女性より多くなりますが、同じ理由で極端に能力の劣った人間も男性の方が多くなります。平均は変わらないのですから、サマーズが女性は能力が劣っているということを言おうとしたわけではないのですが、仮説とはいえ、1万人に一人のような天才は男性が女性よりも多いと言ったことは間違いありません。

取りようによっては女性は生物学的に男性より優秀な科学者になる可能性が小さいと言ってしまったのですから、不適切な発言と思われても致し方ないでしょう。サマーズのスピーチを聞いていた女性科学者の一人(MITのナンシー・ホプキンス生物学教授)は気分が悪くなったと、その場を退席してしまいました。

影響はそれだけにとどまりませんでした。ハーバード大学ではサマーズ学長の罷免要求が噴出し、教授会は学長の不信任案をハーバード大学史上初めて可決してしまいます。それが原因と思われますが、サマーズは問題のスピーチの翌年2006年にハーバード学長を辞任します。もっともサマーズ在籍中の2005年に金融商品の取引でハーバード大学が35億ドル以上の損害を出したことが一番の理由かもしれません。サマーズは学長として取引を承認した他、彼自身がハーバード大学資産運用委員会の7人のメンバーの一人でした。

平均と標準偏差

サマーズが指摘したのはある集団の性質は平均だけでなく、平均からのバラツキ度合いを示す標準偏差も一緒に考える必要があるということでした。身長、体重、IQのような種々の人間の特性の分布を調べると、平均のところがピークとなる正規分布と呼ばれるカーブを描きます。

正規分布のカーブは平均値と標準偏差の2つで決まります。標準偏差は普通σ(シグマ)と書き表します。平均値をmとすると、m±σに入る割合は約68%つまり概ね3分の2、m±2σなら約95.5%、m±3σなら99.7%です。逆に言えば、σの範囲から外れる割合は3分の1程度、2σなら4.5%、3σなら0.3%です。
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ちなみに受験で使う「偏差値」は平均を50、標準偏差を10とした分布のどのあたりにいるかを示すものです。1σの偏差値60(あるいは40)なら上位(下位)15%くらい、2σの偏差値70(あるいは30)なら上位(下位)2%強ということになります。

サマーズが話題にしたのはさらに数の少ない3σ、4σクラスの秀才です。3σというと偏差値80で上位0.15%程度、4σでは偏差値90で二万人に1人以下の割合です。受験で偏差値80とか90とかいう数字を見た人はあまりいないと思いますが、受験の成績上位者がそのまま物理学者、数学者として成功するかは別として、サマーズが語った話は、通常の難関大学合格者のレベルとは隔絶した特殊な人々を巡るものだったということです。

日本人がオリンピックで勝てない理由

日本人のオリンピック熱は世界的に見てもかなりの方だと思いますが、日本選手のメダル獲得数はなかなか期待通りにいきません。オリンピックには沢山の競技があり、なかには競技人口の非常に少ないもありますが、多くの人気競技は沢山の競技者の中で特別な能力を持った人だけがメダルを獲得することができます。メダルどころかオリンピックに出場するのも各国での競争を勝ち抜かなくてはならず、普通の能力の人が一生懸命努力したくらいでは参加もおぼつきません。

しかし、日本のように一億人以上の人口と経済力、そしてオリンピックへの熱意のある国が大量にメダルを獲得できないのはなぜなのでしょうか。認めなければならないのは体格の差です。スポーツ競技の多くは体の大きな方が有利です。「他の条件はすべて同じなら」という前提では体格の差はかなり決定的です。陸上競技、水泳のように道具の優劣やチームプレーの作戦戦略の影響が少ないものは体格の差は成績に特に大きく関係します。この他バスケットボールやバレーボールのような球技では身長が2メートルの選手を揃えなければ、国際大会で好成績は望めません。

体格が小さいことが不利に働かないのは、体重別の制限がある種目を除けば、ジャンプのように自分の体重を筋力で操る必要のある競技です。これは体重は身長の3乗に比例して増加するのに、筋力は筋肉の断面積つまり2乗でしか増加しないからです。フィギャースケートで日本や韓国の選手が活躍したり、アメリカでアジア系の選手が代表に選らばれるのは、体格が小さいことがむしろ有利になるからだと考えられます。体操競技も同様です。

2008年に行われた北京オリンピックで日本は25個のメダルを獲得しましたが、人口1千6百万人のオランダは16個、人口5百万人のノルウェーは10個を獲得しています。日本の5百万人に1個のメダルの対し、オランダは1百万人、ノルウェーは50万人に1個を獲得していることになります。オランダもノルウェーも長身で有名です。単純な比較は難しいですが、体格の差がメダルの数に関係しているのは確かに思えます。

日本男子の平均身長171㎝に対しオランダやノルウェーでは181㎝程度と10㎝も高いのですが、日本は人口もノルウェーの20倍以上あります。日本男子がすべて成人だと仮定して身長の標準偏差を6.5とすると(身長の標準偏差は6-7程度と言われています。この値は国ごとに違うでしょうが、一応中間を取って6.5とします)181cm以上の身長のある男性は全体の6%程度の約400万人となります。

これに対し、オランダもノルウェーも男性の半分は181cm以上の身長があるのですが、人口も小さいので、身長181cm以上の男性はオランダで400万人、ノルウェーでは120万人程度です。人口の多い日本は不利ではないように見えます。

ところが、正規分布のはずれの190㎝以上の人口になると違ってきます。日本では成人男子の0.2%しか190㎝を超える人はいません(これは身長が正規分布に完全にしたがっており、標準偏差が6.5という仮定の下での話です。平均から極端にはずれると、この仮定は正確ではなくなってきます)。これに対し、オランダとノルウェーでは8.3%の成人男子が190cm以上と考えられます。人口換算では、日本では13万人しかいない190cm以上の男性が、オランダでは67万人、ノルウェーでも21万人いることになります。

オリンピック出場者ましてメダルを獲得するような選手は素質も努力も人並みはずれた人が大部分でしょう。同じような素質、同じような努力でも身長が違えば結果も違ってきます。極限まで能力を絞りだそうとすればするほど身長の差は重要になってきます。190cm程度の身長が「度外れている」国と「すこし大柄」程度の国では、トップレベルの選手層の厚さが違ってくるのは当然です。人口がさらに日本の10倍もある中国なら平均身長の差を人口で乗り越えることができるかもしれませんが、日本には難しいようです。

沢山メダルを取る戦略はあるが・・・

日本がもっとメダルを取るためには、企業戦略と同様に「選択と集中」を行う必要があります。メダル至上主義を徹底するなら以下のような戦略が考えられます。

(1) 体格の差が結果に大きく関係するスポーツはオリンピックで代表を送らない。これには陸上の大部分の競技、バスケット、バレーボールなどが該当する。水泳も本来は体格の優れた選手が有利だが、日本の学校のプールやスイミングスクールの普及でかなりカバーされている。このような相対的有利な条件が失われた時は水泳も速やかに撤退する

(2) 体重別が設定されている競技、フィギャースケート、体操のような小型の選手がむしろ有利になるものに注力する

(3) 陸上競技で長距離は東アフリカ諸国(エチオピア、ケニアなど)が圧倒的に強く、短距離種目は西アフリカ諸国(ガーナ、ナイジェリアなど)およびそこからの奴隷移民の住む国(ドミニカ、ジャマイカなど)が強い。これら遺伝的特性がはっきり現れる種目は積極的に移民により日本国籍を取得させる

(2)を除くと一般の日本人には抵抗のある戦略でしょう。しかし、近年イギリス、フランスが国際大会で実力を付けてきた背景には、旧植民地を中心にしたアフリカ諸国からの移民を多数受け入れてきたことがあります。ケニアのワイナイナのような日本で学んび育った選手に日本国籍を取得してもらえれば、メダルの獲得数は確実に増えます(ワイナイナはソウルオリンピックのマラソンで銀メダルを獲得)。

もっと抵抗があるのは(1)でしょう。オリンピックに選手を送ることができなくなると、その種目の人気が下がり、競技の衰退につながります。走りは高跳びや、バスケットボールをメダルを取る見込みがないからと言って、オリンピックに参加することさえ諦めるのが正しいのでしょうか。

メダル至上主義ならそうなるでしょう。サマーズの発言が問題になったのは、統計学的あるいは生物学的に正しくても、そのような前提を受け入れることが女性が物理学者や数学者になることを妨害する可能性があったからです。そんなことはサマーズも思っていなかったのだと思いますが、結果は同じことです。

メダルをどんどん獲得するような移民を受け入れるのは悪いことではないと思います。移民選手は日本人で史上初めて100メートルで金メダルという快挙を実現してくれるかもしれません。オリンピックの金メダルも嬉しいですが、ノーベル賞を獲得してくれるのも悪くありません。逆のケースですが日本では日本人と思われてる2008年のノーベル物理学受賞者の南部博士はアメリカではアメリカ人と見做されています(少なくとも法的にはアメリカ人です)。

しかし、メダル獲得のために「参加する」ことさえ諦めてしまうのはやり過ぎでしょう。サマーズも女性が男性より劣っていると言ったのではなく、標準偏差が小さいと言っただけです。統計は統計としてオリンピックに「参加する」ことはそれなりに意味はあるはずです。

参照:
ネオテニーの日本人
シックスシグマ

推定有罪
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上杉隆氏


小沢一郎民主党幹事長の政治資金規正法違反での立件、起訴が見送られました。小沢氏の資金管理団体である陸山会世田谷の土地購入費、4億円にまつわる資金疑惑は、小沢氏の秘書だった3人の起訴で終わることになります。

ただ、小沢氏を告発している市民団体などは小沢氏の起訴を検察審査会に申し立てているため、最終的に小沢氏が起訴を免れるかどうかは検察審査会の判断を待つことになりました。検察審査会は裁判員制度の導入にあわせて権限が強化されていて、検察審査会が2回続けて起訴相当の結論を出すと、検察の判断のいかんにかかわらず小沢氏は起訴されることになります。

司法の話はこれだけなのですが、小沢氏の資金疑惑をめぐって検察の捜査手法について場外乱闘とも言うべき状況が起きています。検察が捜査情報のリークにより小沢氏の有罪を印象付けるような流れを作ろうとした。これは公務員の守秘義務に反する、あるいは検察という官僚機構が捜査情報の独占という立場を利用して権力を不当に乱用しているというのです。

ネットの世界では検察批判の声はかなり大きく、有名な「きっこのブログ」では検察批判、小沢氏擁護キャンペーンと言ってもいいような記事が続きました(たとえば東京地検の完全敗北)。なかでも上杉隆氏は週刊朝日のような有力メディアを通じて検察批判を続けています。

その上杉氏は小沢氏の不起訴が決まった後、2月10日のDiamond Onlineで「小沢幹事長問題ではっきりしたメディアと国家権力の危険な関係」という記事を寄せ、「日本は推定無罪の原則を持つ法治国家であるはずだ。だが、いまやそれは有名無実化している。実際は、検察官僚と司法記者クラブが横暴を奮う恐怖国家と化している」と検察権力とそこから情報を得てあたかも小沢氏が逮捕されるかのように報道したメディアを強い口調で非難しています。

上杉氏は記者クラブの閉鎖性、記者クラブと権力側の持ちつ持たれつの関係を非難してきました。記者クラブが権力側からの情報を独占することで既存メディアが利益を得ていること、逆にそれが権力による情報操作に利用される危険があることは事実でしょう。記者クラブがかなり日本独特の仕組みであることを見ても、記者クラブが村社会的日本のシステムの一部をなしている現状は変わるべきだ、という上杉氏の主張は大いに耳を傾けるべきだと思います。

しかし、上杉氏の「(日本は)検察官僚と司法記者クラブが横暴を奮う恐怖国家」で「推定無罪」の原則が破られているという、今回の記事を読むと「上杉さんいつから狂信的民主党シンパになっちゃたの?」と聞きたくなってしまいます。報道、評論が一方の立場に肩入れすることは異常でも何でもありませんが、ジャーナリストである以上「狂信的」なまでに特定政党の支持に凝り固まってしまうのはどうかと思います。

検察批判論のおかしなところは、すでにおかしいぞ検察批判で書いたのですが、改めて事件の要点をまとめると、

(1) 今回の疑惑の出発点は陸山会という小沢氏の政治資金管理団体が4億円の土地取引を現金で行ったということです。土地取引を大量の現金で行い、なおかつ政治資金報告書で購入代金を銀行からの借入金であると記載しています。この4億円の出所、なぜ4億円を現金のまま小沢氏の自宅に何年間も保管していたかということに対し、小沢氏側から一般常識で了解できるような説明は一切ありません。小沢氏側に資金の性質を説明できない理由があり、資金の出所が公共事業に関係した建設会社などであるというのは極めて合理性の高い推定です。

(2) 上記の推定を裏付けようとしても、資金の流れが全て現金であるため、カネの出所の特定は困難です。また、資金の出所に目星がついても小沢氏が野党の時代の現金授受と想定されるため、贈収賄 での立件は難しく、政治資金規正法の虚偽記載のような「形式犯」での立件以外は難しいと思われます。

これを見ても小沢氏に「説明しろよ」と言って小沢氏が説明できなければ(小沢氏は何を説明すれは「説明責任」を果たせるのか)、「賄賂性の高いカネを建設会社から受け取ったんだね」と思われるのは当然です。とにかく小沢氏はカネの出所を言って、なぜ4億円(もっとかもしれませんが)も現金で自宅に保管したかをちゃんと口でも文書ででも説明すればよいのです。

いままで数々の事件で罪もない人間がマスコミに犯人扱いをされてひどい目に遭ったことはありますが、そのような事件では犯人扱いされた人たちは記者会見をして反論する機会などはまずありませんでした。小沢氏は違います。

検察が起訴まで持ち込めなかった理由も理解できます。「怪しい」だけでは起訴も裁判もできません。本当は「とっても、とっても、絶対悪いことをしていると確信できるほど、怪しい」のですが、小沢氏のような超大物を「とりあえず適当に逮捕して後は何とかしよう」というわけにもいかないでしょう。

検察の情報リークのやり方は公務員の守秘義務に反しているのかもしれません。記者クラブは閉鎖的で検察の手先になっているのかもしれません。しかし、そのことと「小沢氏はもの凄く怪しげなことをしていた」のとは別の話です。

上杉氏に言いたいのは「記者クラブの問題はどこか別のところでしたら」ということです。最低限「検察と記者クラブは悪い」だから「小沢氏は推定無罪とすべき」だという滅茶苦茶な論理展開は(上杉氏の記事を読めばそう言いたいのは明白です)少なくとも自分はジャーナリストで民主党の広報部員ではないと思うならやめるべきです。

世間の常識に照らせば小沢氏は「推定有罪」です。「推定無罪」になるのは法的な意味での証拠が不十分であるからに過ぎません。本来ジャーナリズムは法律で裁くことができなくても、事実や問題点を明らかにすることで、法の不備の指摘を行うことも重要な仕事のはずです。「政治資金規正法の虚偽記載は形式犯」にしかならないとか「大量の現金は違法なカネであるという証拠がない限り、出所、流れの説明義務はない」というのは制度、仕組みのどこかに欠陥があるとしか言いようがありません。」

今回の「場外乱闘」で上杉氏のように検察の「無理矢理捜査し逮捕、起訴」できる権力の恐ろしさを説く論調は色々あったのですが、「逮捕も起訴もしない」という権限に触れたものはあまりありませんでした。しかし、昨年5月に検察審査会が起訴相当との判断を2回行えば検察が何と言おうと起訴されることになるまで、検察が起訴しないと決めた事件は絶対に起訴されなかったのです。裁判所は検察が起訴したものを裁くことしかできませんから、検察が持つ「起訴しない」という権力は絶対的なものでした。

偶然かどうか知りませんが、小沢氏不起訴の報があってすぐの2月7日の日経に「官邸主導の幹部人事、検察庁・宮内庁は対象外 独立性保つ」という記事が出ました。検察にとってはありがたい話ですが、小沢氏の事件との何の関係もないのでしょうか。上杉氏が記者クラブと検察の批判をするのなら、この報道の裏を探ってみたらどうなのでしょうか。

それでも死刑に反対します
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EUの日本への死刑廃止を訴えたパンフレット


Question:今月(2010年2月)6日内閣府が発表した世論調査では「死刑制度の存続はやむ得ない」との回答が85.6%に上りました。内閣府が5年おきに実施しているこの世論調査で、死刑存続を求める割合は増加傾向にあります。日本国民の圧倒的多数が死刑制度に賛成しているわけですが、その中であえて死刑廃止を求めるのはなぜなのでしょうか。

Realwave:日本では死刑存続派が圧倒的ですが、世界的には死刑を廃止ないし停止した国は増加してきています。特にヨーロッパ諸国では死刑はほとんど行われなくなりました。世界198カ国のうち過去10年で死刑を実施した国は日本を含め58カ国しかありません。先進民主主義国の中で死刑を存続させているのは日本以外ではアメリカくらいです。そのアメリカでも15の州では死刑は行われていません。

Q:日本が例外的な存在だということが何か問題になるのですか。

R:死刑の実施を含め司法は国家主権のもっとも重要なものの一つですが、国際的な影響を受けないわけではありません。国連は2007年12月18日に死刑執行の一時停止を加盟国に要請する決議案を賛成104、反対54、棄権29で採択しました(国連で死刑執行停止要請決議採択)。日本の死刑制度が国際的な批判の対象になっていることは間違いありません。

Q:なぜなのでしょうか。

R:まず、人権の問題は国境を越えて国際社会が監視すべきだというコンセンサスがあります。現在明らかになっている範囲では死刑執行の大半は中国とイランで行われています。両国とも人権尊重の点で問題のある国だと見做されていますが、日本も死刑を存続させているということでは国際的には人権保護に努めていないということにされています。

それから国際化が進む中では犯罪と罪の重さはできるだけ共通のものにしようという考えもあります。どこの国で起こした犯罪でも同じ犯罪なら同じように罰せられるということです。死刑は罰則の重さという点で突出しています。死刑の可能性のある犯罪者を日本に移送するのを断られることもありました。

EU(欧州連合)では日本とアメリカという価値観を共有する民主主義国が死刑を廃止していないことを特に問題視しています(駐日欧州委員会代表部ホームページ)。その中で死刑の存廃は国家の主義の問題であり世論調査で決めるべきではなく、特に凶悪事件の後で世論調査を行うべきでないことが強調されています。日本で内閣府が定期的な世論調査を行い、その結果を死刑存続の理由にしていることへの強い非難と考えて良いでしょう。

Q:ヨーロッパ諸国のようなキリスト教国が死刑を廃止しているのは文化的、宗教的な背景があるのではないですか。

R:キリスト教的な考えで死刑に反対する人ももちろんいます。しかし、伝統的にはヨーロッパ諸国では魔女狩りなどで大量の死刑が行われてきたという事実があります。またナチスドイツが死刑を多数執行したことが第二次世界大戦後の死刑への反対を強めたということもあります。歴史的には日本が死刑を行わないという時期もありました。平安時代は死者は祟る(たたる)と考えられていて貴族の死刑はなく、反逆者に対しても島流しなどで処理していました。現代の死刑廃止は人権保護の観点で進められており、国や宗教の違いを超えた国際的な動きです。

Q:死刑を廃止すると凶悪犯罪が増加するのではないでしょうか

R:死刑を廃止したから凶悪事件が増加したという事実が確認されたことはありません。日本の凶悪犯罪、特に殺人は減少傾向を続けているのに、厳罰化を求める世論が強くなっているのは不思議な現象です。

Q:死刑を廃止して被害者家族の感情が回復されるでしょうか。

R:被害者家族の感情は十分に考慮しなくてはいけません。従来の死刑反対論の論拠は死刑囚側の感情にすり寄ったものが多かったのですが、人間としての感情を考えるなら凶悪な犯罪者より、被害者の方が重くなるのは当然です。ただ被害者家族の感情回復は死刑だけが唯一の方法ではありません。裁判への被害者家族の参加も一つです。被害者家族も単に加害者の生命を絶ちたいというだけでなく、死刑があるのに無期懲役では許せないということもあります。

Q:無期懲役では釈放もありえます。

R:最近は無期懲役囚の釈放は短い年限ではまず行われません。有期刑の上限が30年になったこともあり、普通はそれ以上は服役しなくてはいけません。ただ、釈放の可能性があるのは事実で、死刑を廃止するなら無期懲役の上に終身刑を設けることも必要でしょう。

Q:極悪非道な犯人を国費で長期間服役させるくらいなら、死んで報いをさせた方が国家的観点からは望ましいという意見もあります。

R:刑務所の経費は服役囚当たり年間2-300万円です。この10年を見ると死刑執行数は年平均で5名以下です。恐らく、死刑システムを維持する経費の方が死刑を終身刑に変えるより費用がかかると思われます。刑務所の経費削減は死刑執行を増やすなどという方法ではなく、犯罪総数の減少で実現すべきですし、それ以外の効果的なやり方はないでしょう。

Q:年平均5人の死刑執行ということですが、2004-2009年の死刑判決確定者数は合計で89名と年平均15名近くになっています。

R:さきほど申しあげたように、殺人件数は統計的には一定ないし緩い減少傾向にあります。その中で2004年ごろから死刑確定数が急に増え、殺人のずっと多かった1960年前後と同水準になってしまいました。死刑判決が増えたことが、凶悪犯罪が増加しているような印象を世間に与えている面さえあります。犯罪の厳罰化自体はそれなりに意味のあることかもしれませんが、死刑判決の急激な増加は憂慮すべきことではないかと考えています。

Q:それはなぜですか。

R:厳罰化の流れは、犯人の人権保護ばかりを強調したマスコミが一転して被害者、被害者家族の感情に焦点をあてるようになったことが関係していると思います。被害者感情を考えるということと、犯罪者の人権を無視するということは同じではありません。成熟した社会とはどちらも考えることができなくてはいけないと思います。

Q:人の命を奪ったことに対しては自らの命を差し出すしか贖罪の道はないという考えもあります。

R:そのような考え方は当然あります。特に被害者の立場に立てばその通りだと思います。しかし、現実を見ると殺人犯を全て死刑にしてしまうと現在の百倍も死刑を執行することになります。これは日本社会では受け入れられないのではないでしょうか。ほとんどの殺人犯は懲役の形で罪を償っているのです。

Q:冤罪についてはどうお考えですか。

R:冤罪が現実に存在するというのは何度も証明されています。殺人のように重大な犯罪は警察、検察が犯人検挙に熱心になるため、冤罪が発生する可能性は普通の犯罪よりむしろ高くなる危険があります。冤罪で死刑判決が行われ、さらに執行される事態は無視できません。

Q:冤罪がありうることはわかりますが、インフルエンザの予防注射で亡くなる人も年間数名はいます。冤罪を恐れていては犯罪の摘発自身もできなくなってしまいます。

R:その通りですが、死刑を執行してしまうと、冤罪を晴らす可能性が全くなくなってしまいます。冤罪の発生を完全に防ぐことはできませんし、冤罪を恐れるあまり無闇に刑を軽くしたり無罪にしてしまうのは間違いだと思いますが、死刑執行の危険性は認識すべきでしょう。

Q:鳩山邦夫氏が法務大臣時代、法務大臣の考えではなく一定期間で機械的に死刑を執行するような仕組みを作るべきだと言いました。

R:平等に正しく法律が執行されなくてはいけないという点では、死刑も例外ではありません。ただ、死刑執行の最終判断を法務大臣が行う時、再審請求中であるとか、何らかの意味で冤罪とされる可能性があるときは、普通法務大臣は死刑執行の署名をしません。死刑という刑罰の重大性から念には念を入れる手続きになっているわけで、機械的な処理には全くなじまないものだと思います。

Q:現実に世論の80%以上が支持している死刑制度を廃止することは困難だと思いますが。

R:フランスが死刑廃止を行ったのは1981年ですが、その時点でフランス人の60%は死刑制度の維持を望んでいました。それでも死刑制度賛成者が現在の日本の85%と比べて少ないのは、その当時死刑の執行数が年間1名ないしそれ以下と激減してきた経緯があるからです。日本で死刑制度をいきなり廃止することは不可能でしょうが、死刑執行を事実上停止していくことは可能です。そのためには日本の指導層が政権党の如何を問わず、死刑を廃止していくという暗黙のコンセンサスを持つ必要があります。死刑が事実上執行されなくなれば、死刑執行が現代日本ではかなり異常な刑罰だという現実も国民にも見えてくると思います。このようなモラトリアムは韓国では10年以上実施されています。

Q:死刑がなくなれば日本社会はよくなりますか。

R:手や足を切り落とす刑罰がない国の方が、切り落とす刑罰のある国よりましだという意味では、死刑がなくなった日本は死刑がある日本より良くなると思います。ただ、死刑を廃止しても凶悪犯罪が増えないだろうというのと逆に、死刑がなくなっても凶悪犯罪が減ることを期待できるわけではありません。

Q:裁判員制度で裁判員が死刑判決を出すという負担はなくなりますね。

R:その通りかもしれませんが、裁判員制度の前提は一般人でも正しく法の適用の判断ができるということです。裁判員の負担軽減を死刑制度の廃止、停止の理由にするのは適当ではないと考えています。

Q:最後に何か一言あれば

R:死刑判決を受けた事件を見ると、身勝手な理由で多数の殺人を犯したものばかりです。このような犯罪者が人権を求める資格はないと思う人も多いでしょう。しかし、江戸時代は10両盗めば死罪になりました。死刑をどのような犯罪に対して執行するかというのは、その社会の人権に対する考え方で変わってきます。死刑を廃止する方向に世界が向かっているのは人権をより重視しようという流れの表れだと思います。個々の犯罪の残虐性に目を奪われずに、より人権を重んじる社会を作るために死刑制度の廃止を目指すべきだと思います。

君はキンドルを見たか
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いつも行くフィットネスジムのロッカールームで若いビジネスマン風のアメリカ人が無造作にアマゾン・キンドルをバッグにしまおうとしていました。アマゾン・キンドル-2007年にアマゾンドットコムが発売を開始した電子書籍です。ネットワークを通じアマゾンから購入した本をダウンロードしてキンドルで読む。基本はそれだけの機能です。値段はアメリカで259ドルでそれほど高くはありませんが、本は別に買うわけですし、印刷や在庫の経費がいらないはずなのに,購入代金は紙の本と比べ30%程度しか安くありません。ニュースで知る限り、それほど興味を引く製品ではありませんでした。

ちなみに筆者は機械音痴です(機械音痴のコンピューター屋)。iPodもデジカメすら持たず、携帯電話は通話以外はメールでしか使いません。新しい機械を新しいというだけで興味を持つような人間ではありません。iPodだって買わずに済ませているのだから、キンドルも当分、もしかすると一生縁がないなと思っていました。

読者の中にはこんな最新技術に興味も知識もない人間がコンピューター社会の未来をブログの記事(The Next Wave: インターネットの次に来るもの)にするなど無茶苦茶ではないかとお考えになる方もいらっしゃるかもしれません。しかし、料理を作れなくてもグルメ記事は書けますし、社長をしたことがなくても経営コンサルタントはできます。iPodなど持っていなくても、技術予測はできるのです(論理をすり替えていると思われるかもしれませんが、世の中の評論家、コンサルタントというのは概ねこんなものです)。

ともあれ、図々しく「これキンドル?」と言いながら、キンドルを手に取った私に、気の良さそうなアメリカ人は親切に「そうだよ。こうすれば文字の大きさも変えられるし」と色々機能を説明してくれました。それにしても、軽い!薄い!重さ300グラム以下、厚さ9ミリちょっとなのですが、明らかに紙の本よりハンディーです。

「これって何冊も本をロードして置けるのですよね」と私(iPodを持たなくてもこういう知識はあるのです)。アメリカ人はニヤリと「何千冊もね」。後で調べたら2007年発売の最初のキンドルは180MBの容量で200冊程度しか入らなかったのですが、現在のキンドル2では2GBで2000冊は入るらしい。
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毎月5冊づつ本を買って30年分ですから、すでに普通の人なら一生分の書籍をキンドルに収めることができる計算です。そのうち動画を持ち歩きたいという要望に応えるとか言って何百GBの容量を持つキンドルが出てくるでしょうが、「本を読む」という機能に限れば十分過ぎるキャパシティーです。

そんなデジタル製品では当たり前の大容量、低価格そして急速な進歩はともかく、何と言っても感心したのはデザインの美しさと、軽さ、それに使いやすさです。これを一つ持って旅行に出れば、読み始めてつまらないと判った本を抱えて何千キロも旅をするバカバカしさとはおさらばです。何冊も何十冊も(何千冊だって!)持っていけるのですから、気分次第で何でも読めることになります。

百聞は一見にしかずと言いますが、キンドルを手に取った瞬間、「グーテンベルクの時代は遂に終わった」と思いました。キンドルは新聞も雑誌も購読することができます。コンピューターですからPDF書類だって読めます。(今はできないようですが)そのうちメールも電話もこれ一つでできるようになるでしょう。こんなに軽くて何でもできるのならビジネス用バッグはもう要りません。

とここまで言うと、興奮のあまりキンドルを褒めすぎてしまったきらいがあるので、ほかの電子書籍製品も紹介しておくとソニーはSony Readerを2006年から販売していますし、アップルは今年1月にiPadを発表しています。

個別の製品評価をするような知識はないのですが、iPadはiPhoneが大きくなったような形で、キーボードをタッチパネルにするところも同じです。お陰でキーボードがない分画面が大きいのはいいのですが、重さが他社製品の2倍もあります(と言っても600グラムほどですが)。重いとあのキンドルを触った時のような感動はないかもしれません。

これらの素晴らしい電子書籍製品に共通する問題は、どの会社の製品でも日本語の本は提供されていないということです。PDFビューワーとしてだけならノートブックPCでも十分というか、そんなものを買う気になる人は日本人にはあまりいないでしょう。これには本の再販制度など日本独特の難しい問題があるのでしょうが、現状では日米のデジタルギャップはカナ漢変換がなくてキーボードから日本語を入力できなかった時代よりもっと広がっているように思えます。

そのうち国際空港で分厚い本を広げて読んでいるのは日本人だけになってしまうかもしれません。いや製品の素晴らしさから考えると今すぐそうなっても不思議はありません。これはiPodのイヤフォンを耳にはさんでジョギングしている脇でレコードプレーヤーを背負って(そんなことできませんが)LPレコードを聞こうとするのと同じくらいの時代差を感じさせる光景です。

キンドルを使い始めた人は二度と紙の本には戻らないでしょう。家人に文句を言われながら狭いマンションに本棚を置く場所に悩むこともないでしょう(LPレコードがどんなにかさばったか若い人は想像できますか?)。あー、それなのにわが日本ではいつまで出版業界の都合に余計な苦労と出費をさせられなければいけないのでしょうか・・・。

それにしても不思議なのはマスコミがなぜこんな大問題をあまり取り上げないかということです。キンドルやiPadなどは数あるデジタル製品と同じ、つまり新しい携帯電話と同じようにしか思ってないのでしょうか。私のような機械音痴でも本も、新聞も、雑誌何もかも電子書籍で読めるものは電子書籍で読みたいと思っています。グーテンベルクの時代が終わるというのはそれほどの大事件ではないと考えているのでしょうか。

サントリーとキリンの合併交渉が決裂
サントリーとキリンとの統合が中止になったことが発表されました。当ブログではサントリーをキリンに売却する創業者一族という記事で、三菱グループがサントリーの創業者一族に大きな影響力を残したままで三菱グループの中核企業の一つのキリンのと合併を認めるはずがないだろうということから、逆にこれは将来戦略に限界を感じたサントリーの佐治信忠社長が、サントリーを実質的に三菱グループに売り渡したものだと書きました。

サントリーの創業者一族がサントリーの経営から離れる覚悟がない限り合併はありえない、という立場から書いた記事ですが、結局佐治信忠社長はサントリーを売ってしまうことはできなかったようです。記事ではサントリーがウィスキー需要の低迷で厳しい立場に立たされていることを指摘しましたが、この現状は変わったわけではありません。サントリーはキリン以外との積極的なM&Aを成功させていかない限り、将来は明るくないでしょう。

追記:サントリーをキリンに売却する創業者一族のコメント欄に書いたものをご紹介しておきます。キリン主導を拒否しては合併交渉がうまくいくはずはありません。

「持ち株から計算して、今のままでは統合後サントリー+キリンの圧倒的最大株主は創業者一族[正確には寿不動産)になるのですが、これをもってサントリー創業者一族が三菱グループの有力メンバーを支配するということは、常識的にはありえません。三菱グルーはそんなことを認めるはずはないでしょう。だとすれば統合交渉にはサントリー創業者一族の影響力を排除することが含まれると考えるのが自然でしょう。 これに佐治、鳥居一族が納得したとするなら、実質的に創業者一族はサントリーをキリンに売却したのと同じことと考えるのは、それほど無理なこととは言えないと思います。」

小泉元首相参議院出馬で自民党にも勝機あり
このブログは小泉純一郎待望論や礼賛を行おうとしているものではありません。次回参議院選挙で政治とカネにまつわる民主党への不満を投票行動に結びつける受け皿に自民党がなるためには、何をしたらよいかという一種の思考実験です。

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フリーキックで点が入らない自民党

小沢民主党幹事長の秘書3人が政治資金規正法違反(虚偽記載)で起訴されましたが、本人は起訴を免れました。大量の現金を自宅に保管して土地を購入、買った土地を担保に銀行から融資を受け、借金ですでに所有している土地を買ったように見せかける。手口はマネーロンダリングそのものですし(政治家にはマネーロンダリングさえ必要ないのか)、カネの出所もはっきりしません。証拠不十分とはいえ、限りなくクロに近い灰色であることには間違いありません。

しかし、国会での自民党の追及は迫力を欠きました。検察が起訴できないものを、新たな材料もなく道義的責任だけを繰り返しても、しょせんカエルの面に小便でそれ以上何ともできないのが現実のようです。世論調査では小沢幹事長の辞任を求める声は強く、鳩山内閣の支持率も低下を続けていますが、自民党は言ってみればフリーキックのチャンスに点が入らず、みすみす好機を逃してしまっています。

民主党の中でもか細く小沢幹事長の責任を追及する声もあるのですが、小沢幹事長の不起訴が決まって急に声が小さくなってしまいました。小沢幹事長は愛されるより恐れられる方が良いという典型的なマキャベリストですから(小沢一郎氏のマキャベリズム)幹事長への批判は相当な覚悟がなければできないでしょう。

とは言っても7月に控えた参議院選挙への影響は民主党でも気にはなっているようです。法律的には灰色(ということはシロ)でも選挙では厳しい判断が下る可能性はあるからです。しかし、このままでは参議院選挙へのマイナスの影響は恐らく限定的ではないかと思われます。自民党政権下では政界の疑獄事件などをきっかけにした解散総選挙が何度かありましたが、自民党が大きく議席を減らすようなことはほとんどありませんでした。

自民党が手ひどい敗北を喫したのは、最初に消費税を導入した後に実施された1989年の第15回参議院選挙で土井委員長の社会党が「マドンナ旋風」で女性候補を大量当選させた時と、21世紀に入って政権交代の可能性が出てきてからです。選挙は個々の候補者に投票するのが基本なので、疑惑の当事者でない限り「政治とカネ」では投票行動にそれ程変化は起きないのが今までの選挙でした。

それより問題なのは民主党に対する失望感が広がったとしても自民党が不満の受け皿になりそうもないということです。谷垣総裁はバランスは取れているようですが、強力な個性があるタイプではありません。民主党が言うほどクリーンな政党ではないと判ったとしても「だったら自民党に」と思われるほどには自民党にも清潔なイメージはありません。

参議院の議員数は242で過半数は121議席です。民主党は現在114議席を持っていて、国民新党、社民党などとの連立で125の多数を押さえています。民主党単独で121以上になれば政策実施の自由度は大幅に高まります(衆議院では過半数の241に対し307議席を持っています)。

これに対し自民党は現時点(2010年2月9日)で78議席ですが、前回2007年の参議院選挙では37議席しか得ていませんから、前回並みで70議席そこそこ、下手をすると70議席を割ってしまう可能性すらあります。民主党の議席が120以上にもなれば、自民党はずるずると崩壊に向かってしまうことも十分考えられます。

自民党の「負けない」レベルは50議席獲得

自民党が参議院第1党に返り咲くためには、次回の選挙で70議席程度を得る必要があり、これは不可能でしょう。とりあえず自民党が勝ったとは言えないまでも、負けなかったというためには最低で45-50議席程度を獲得する必要があります。50議席確保できれば87議席(脱党者が出ると数字が違ってきますが)を持てますし、民主党が単独で121議席の過半数を占めることも阻止できるでしょう。

50議席というのはそれほど低いハードルではありません。自民党の前回、前々回の当選者数は37、49ですが、与党時代の自民党は医師会など強力な支持団体をいくつも抱えていました。参議院選挙は小選挙区の衆議院選挙のようなどぶ板型選挙と違って、組織票の行方がより重要となります。小沢幹事長は露骨な自民党支持組織の切り崩しを続けていて、与党として予算配分の主導権を握ってからは支持団体の自民から民主への流れは加速しています。

参議院選挙は選挙区選挙と全国単位の比例区に分けられ、それぞれ73、48が割り当てられます(3年ごとに半数が改選になるので、全体では146,96となります。以下の数字は全て半数改選のものです)。前回の選挙で民主党は63の議席を獲得しましたが(選挙後の入党を含む)選挙区選挙のうち12の2人区は全て、民主、自民が1名づつの当選となっています。2人区が第1党、2党で1名づつ選ばれるのは昔からで、自民党も2人区で12議席を確保することは次回選挙でもほぼ確実です。

3人区は5選挙区あり、5人区は東京のみの1選挙区です。前回選挙で自民党は大阪だけは2議席を得、残りはすべて1議席でした。合計で7議席ですが、この数字は下にも上にも大きく振れることはあまり考えられません。一応前回並みの7議席を取ると仮定しましょう。2人区、3人区、5人区の合計は19議席となります。

自民党が50議席を取るためには比例区で前回並みの14議席だとすると、1人区29のうち17を押さえる必要があります。1人区の過半数で勝つ計算ですが、前回は6選挙区でしか勝てなかったのですから、厳しいと言わざるえません。比例区の14人も、与党の座を失い組織票が流失することでさらに少なくなると予測する方が自然でしょう。

小泉元首相が立候補するとどうなるか

自民党は何もなければ50議席どころか、前回並みの37議席獲得もかなり難しいと思われます。小沢幹事長の疑惑も7月の選挙にはかなり旧聞になるので、疑惑を繰り返すだけでは劣勢を挽回できるとは思えません。逆に参議院選挙前に自民党の議員が政治資金法違反で摘発される可能性さえあるのです。

小沢幹事長が不起訴になって幹事長も辞任せず、鳩山首相の母親からの贈与も「終わったこと」になってしまったことに国民の多くは不満はもっていますが、「それじゃここでは自民党」となかなかなりそうもありません。

そうならない理由は自民党が脱党者が出たり、とっくに賞味期限の切れた老人たちが衆議院で落選後参議院鞍替えを企てたりと、ごたごたしている姿ばかりが目立つからです。国民の民主党に対し納得できない気持ちを票という形に変えるには力不足と言わざるえません。

そのような空気を変えて、できれば「風」を吹かせる強力な手段として、小泉元首相を参議院選挙の比例区に立候補させることが考えられます。選挙制度が複雑すぎて覚えきれない人が多いのですが、参議院選挙の比例区は非拘束名簿式比例代表制というものです。これは比例区選挙に政党ではなく個人名を書き、各政党別の獲得票数を合計して、政党の中で獲得投票の多い順に投票させるというものです。衆議院選挙の比例区とは違って予め候補者の順位を決めないので非拘束名簿式と言います。

非拘束名簿式比例代表制では、非常に沢山の票数を獲得する候補者がいると当人だけでなく同じ政党の他の候補も恩恵を受けることができます。比例区選挙では概ね110-120万票につき1名の当選者を出すことができるのですが、総得票数の10%、500-600万票を取る候補者がいると、それだけで5人以上が当選できます。

いままで参議院選挙で最大の得票を得たのは比例区時代の前の全国区で石原慎太郎氏の300万票ですが、小泉元首相なら600万票は不可能な数字ではありません。民主党への不満の受け皿としてならもっと得票できるかもしれません。

かりに自民党が前回の比例区当選者の14名に6名に上乗せができれば20議席を得ることができます。さきほどの仮定の下で計算すると50議席には1人区29のうち11で勝てばよいことになります。自民党の顔として谷垣総裁ではなく小泉元首相を使えば、小泉効果で1人区で過半を押さえることさえできるかもしれません。そうすれば獲得議席数は54になります。民主党の単独過半数制覇は夢のまた夢になるでしょう。

小泉元首相には新味がないとか、小泉構造改革の失敗は証明されたという意見もあるでしょうが、国民は郵政選挙で小泉政権を圧倒的に勝たせた記憶は残っています。前回の衆議院選挙、参議院選挙での自民党の敗北は郵政改革を逆戻りさせようとしていることへの不満の表れがかなりあったはずです。

民主党は公明党と連立へ?

仮に自民党が54議席を獲得し改選数からの増加分を全て民主党から奪うと民主党の議席数は100そこそこになってしまいます。これでは国民新党、社民党との連立だけでは参議院の過半数を占めることができなくなります(国民新党、社民党が大幅に議席を増やすとは考えられません)。

民主党に前回の衆議院選挙で敗れるまで、参議院で少数派に転落していた自民党は衆議院で3分の2の議席を再可決に多用し、それでも首相が次々に辞任するという混乱に陥ってしまったのですが、小沢幹事長はそんな状況には満足できないでしょう。何としても参議院での過半数確保を目指すはずです。

小沢幹事長が多数を形成できるかどうかは公明党を取りこめるかどうかにかかっています。公明党を連立与党に含めることができれば、参議院でも安定多数を得ることができます。組織票をがっちり握っている公明党は参議院選挙で強く現在21議席を持っています。民主党が大負けしなければ、民主党と公明党だけで多数を制することも可能です。

公明党が連立政権に入るとすると、民主党のプレゼントは外国人地方参政権でしょう。外国人地方参政権付与は日本の国際化とは何の関係もない日韓の二国間問題なのですが(わかりにくい外国人参政権論議)、在日韓国人の支持を得られる公明党は積極的に推進しています。自民党の支持者の多くは外国人地方参政権に反対していますが、政治の力学の結果自民党に投票することで外国人地方参政権実現を早めることになるかもしれません。

小泉元首相に出馬の可能性はあるか

小泉元首相が参議院選挙の比例区に出馬することは自民党に何の損ありませんし、調整も必要ありません。選挙区から別の候補者を追い出す必要はありませんし、比例区の自民党候補者は小泉元首相が大量得票すれば単純に自分の当選可能性が高まります。

問題は小泉元首相が出馬することのメリットが何かあるかということです。長期政権を維持し十分な実績を積んで引退した政治家がいまさら参議院の議席に魅力を感じるでしょうか。全くないということもないでしょう。小泉元首相が早めの引退をしたのは、自分の影響力があるうちに子供の小泉進次郎氏に選挙区を譲りたかったからだと考えられます。参議院の議席を得ることは、進次郎氏の政治活動にマイナスになるとは思えません。

小泉元首相が出馬するかどうかのカギは、元首相が民主党と小沢幹事長をどのように思っているかでしょう。民主党の方が現在の自民党より自分の信条をより強力に進めてくれると思うなら敢えて民主党叩きをしない可能性もあります。しかし、今の民主党を見ていると小泉元首相の一枚看板の郵政民営化には後ろ向きです。何しろ元首相の政敵だった亀井静香氏が郵政改革担当大臣をしているのです。

それよりも小泉元首相が小沢幹事長の強烈な政治手法をどう感じているかということが決定的かもしれません。あまりこのような言い方をする人はいないのですが、小泉元首相と小沢幹事長は政治的天才です。21世紀の日本はこの二人の天才政治家によって動かされてきたと言ってもそれほど言い過ぎではありません。

変人と言われ徒党を組むことを拒否し続けながら戦後三番目の長期政権を維持した小泉元首相と、選挙原理主義を極限まで押し進め、自分の意のままになる投票マシンの集団を作り上げた小沢幹事長。二人の政治手法は対照的です。小泉元首相が参議院に出馬すれば、日本政治はこの二人を軸として動くことになるでしょう。

おぼっちゃん総理の資質を考える
指導者の知的能力

2001年の6月、インターネットで某研究機関がブッシュ大統領(息子の方です)の知能指数(IQ)が91と推定したという噂が飛び交いました。この話は3年ほど前の当ブログでも取り上げました(ブッシュ大統領の知能指数)が、単なるいたずらだったことがすぐに判明します。しかし、噂を真に受けたところも多く、イギリスの高級紙ガーディアンも記事にしてしまいました。

ガーディアン紙を含め噂が広範囲に信じられてしまったのは、ブッシュの知能がそれほど高そうには思われていなかったことに大きな原因がありました。ブッシュ大統領の話しぶりは英語国民にとっては使用語彙があまり豊かではありません。ハーバードビジネススクールでMBAを取得していますが、クリントン大統領が権威あるローズ奨学金を受給してオックスフォード大学で学んだことなどと比較して、恵まれた環境で育ち学費の苦労など必要なかったにしては並みのレベルと考えられていました。

指導者が一定以上の知的能力を持っていなくてはならないことに反対する人は少ないでしょう。しかし、数あるリーダーシップ論にも、リーダーは知能程度が高くなければならないとしたものはあまり見当たりません。リーダーは寛容であるべきか冷酷であるべきか、人の意見に耳を傾けるべきか自分の意思を前面に押し出すべきかなど、リーダーシップのスタイルについては多くが語られているのに、知的能力はリーダーの資質の一部であるとの認識は少ないようです。東洋のマネージメントブックとも言うべき論語も学問することの大切さは述べても、頭が悪い人間は君子になれないなどとは言っていません。

確かに過去の偉大な政治家が皆学力優秀であったかというとそうでもありません。イギリスを第二次世界大戦で勝利に導いたウィンストン・チャーチルは学業と素行の不良のため、学校を何度も変わっています。戦後日本の高度経済成長をリードした池田、佐藤両首相は高級官僚の出身ですが、池田は大蔵官僚には珍しく京大卒です。佐藤は東大出ですが抜群の秀才とはとても言えず、二流官庁の鉄道省に入省しています。佐藤はその後の出世もあまりぱっとしなかったのですが、お陰で戦後の指導層のパージから免れて運輸次官に昇進するという幸運を得ます。

学歴主義、成績至上主義の弊害は日本社会でたびたび指摘されてきたことです。日本帝国海軍はハンモックナンバーといって、海軍大学の席次が最重要視され、出世もほとんど席次で決まっていました。このハンモックナンバーへのこだわりは太平洋戦争中も続き、提督たちは数々の負け戦の責任を問われることもなく、席次通りに出世し続けました。同様の伝統は官僚社会にもあって、公務員試験の時の成績がその後の出世にもずっと尾を引くと言われてきました。

学歴や成績で知的能力を判断するのは、とても確実な方法とは言えません。学歴がお粗末でも高い知的能力を持つ人はいくらでもいますし、成績優秀で大学教授になったような人が、視野が狭く分別に欠けることはよくあります。まして学歴で知的能力どころかリーダーとしての資質を推し量るのは乱暴過ぎます。

とは言っても他に判断基準がないとき、学歴が知的能力の推定にそれなりに役立つことは間違いありません。指導者にはカリスマ性も必要でしょうが、物事を判断するための分析力、論理性もなければなりません。偏差値の高い大学を卒業していることは知的能力の証明の一つとは考えられるからです。

単純な学歴偏重とは思われたくないので付け加えておきますが、知的能力は社会での評価を経て有効性を証明するものですし、社会的な活動で証明される知的能力の方が、学歴よりよほど実際的な意味があります。学歴は数ある知的能力の検証法の一つしか過ぎないということはいくら強調してもし過ぎることはありません。

プロの棋士や将棋指しは驚異的な知能を持っていると言われますが、最高度の知的作業を行っていることは間違いありません。そして、プロの棋士、将棋指しのほとんどは、早くに専門の道を歩むため、大学卒はむしろ少数派です。また、学校なぞろくに出ていなくても、非常に高い知能をうかがわせるお笑い芸人はいくらでもいます。

しかも知的能力そのものはリーダーの資質のほんの一部です。IQなどはスポーツ競技で言えば、立ち幅跳びや、握力の数値のようなもので、基礎体力の数値がいくら優れていても、それだけで一流のスポーツ選手になれるわけではありません。ただ、基礎的な体力が明らかに劣っていれば、スポーツ選手して成功するのは難しいでしょう。リーダーにとってある程度以上の知的能力があることは必要条件です。

おぼっちゃん総理の資質を検証すると

日本のリーダーの知的レベルはどの程度なのでしょうか。このようなことが気になりだしたのは、鳩山首相を含めて二世政治家の総理大臣が5人も続いているからです。キャリアを一から積んでいれば、学歴には無関係に社会的に認められたこと自身が高い知能を証明していると見做すことができます。たとえゴマすりで出世したとしても、ゴマも頭がよくなければ上手にすることはできません。

ブッシュ大統領もIQが91だという噂が出た理由に、大統領を父に持つ二世政治家だということがあります。二世政治家は出発点として、認められために地道に努力する必要がありません。一般の人であれば、「何か光るもの」「抜群の実績」「献身的な努力」などがなければ、上の人に引き立てられることなどないのですが、二世であれば「特別にダメだと思われる」ようなことさえなければ、チャンスは与えらます。しかも一般の人ならチャンスは一度きりのことが多いのに、致命的なことさえしでかさなければ、チャンスは何度も訪れます。そこまで差があれば、頂上に上り詰めた後も改めて知的能力を問われても文句は言えないのではないでしょうか。

小泉純一郎:
祖父、父親ともに大臣まで務めた、二世というより三世政治家です。1,980日と戦後3番目の長期政権を維持しました。公立の横須賀高校から慶応大学経済学部に入学卒業後、ロンドン大学で学んでいます。ロンドン大学については公式には留学と主張してますが、聴講生だったというのが本当のようです。英語の発音も留学生となるのは無理ではないかと思えるレベルです。

慶応大学経済学部はかなりの難関ですし、受験で合格したわけですから一定以上の学力はあったと推定されます。政治家になってからも大蔵、厚生族の政策通の議員としてキャリアを積んでいます。二世議員ではあっても、政治家としても行政能力を評価されてきたと考えてよいでしょう。

小泉については、「変人」「小泉劇場」など毀誉褒貶はあったものの、総理在任中、知的能力に疑問符が付けられるようなことはありませんでした。「ワンフレーズ政治家」との批判もありましたが、状況、タイミングに合わせて適確で印象に残る言葉を吐くのは、IQで重視される言語能力も高かったからと推定できます。

知的能力に多少疑問符をつけたくなるのは、総理大臣退任直前のアメリカ訪問でプレススリーの真似をしたことかもしれません。多くの日本人は気恥ずかしく感じたのではないかと思いますが、軽薄さは知能レベルとはあまり関係ないようです。

安倍晋三:
成蹊学園を小学校から大学までエスカレーターで進級しています。その後アメリカに渡り1年後に南カリフォルニア大学に入学を許可されますが、1年で中退しています。帰国後神戸製鋼に入社し3年勤務の後、竹下登と総理の座を争った、父安倍晋太郎の秘書官を経て、父親の死後、1993年衆議院議員となります。1960年安保改定時の岸信介は祖父にあたります。

小泉内閣成立後2001年官房副長官になり、北朝鮮への強硬姿勢や若さと歯切れのよい発言に人気が集まり、幹事長に異例の抜擢をされますが、参議院選挙敗北の責任をとって幹事長代理に退きます。ポスト小泉の最有力候補として官房長官に就任、小泉首相退陣の後、自民党で圧倒的な支持を受け自民党総裁、内閣総理大臣となります。

安倍は知的能力に大きな疑問符の付く政治家です。安部の学歴、職歴を見ると、厳しい競争を勝ち抜いてきた様子はありません。成蹊大学は難関大学とは言えませんし、それも受験はせず持ち上がりです。エスカレーター式であっても、中学受験はその後の成績と相関している場合が多いのですが、小学校では本人より家庭や父親の社会的地位が重視されます。安部の家柄はその点では申し分ありません。

サラリーマンも平社員として3年の勤務ですから、キャリアとまでは言えません。政界に入ってからは父親の秘書官から衆議院議員となり、行政的な実務にはほとんど関与していません。つまり、知的能力を厳しく問われるような経験はしていないのです。唯一の実績とも言える対北朝鮮の強硬論にしても、強硬だったこと以外粘り強く拉致問題解決を前進させたわけでもありません。

安倍の話し方を聞いていると滑舌は良いのですが、主語述語の関係など意味が良くとれないことが時々ありました。特に首相辞任表明の時などは、精神状態もよくなかったのでしょうが、かなり意味不明の部分がありました。

安倍が中途で政権を放り出してしまったことと、知的能力が高くなかったこととは関係ないでしょう。むしろ、自分にはとても勤まらないと思った時、あっさりと政権を投げ出したのは、知能より二世特有の地位に恋々としないという要因が大きかったと考えられます。

安倍は知的能力と十分な経験を欠いていたことが総理大臣としての職務遂行上障害になったのでしょう。総理大臣はお飾りではなく、巨大な行政機構の長であり、政党のボスです。官僚と渡り合い使いこなす、理解力、分析力に加え、広範な知識や権謀術数も必要です。人任せで勤まるほど甘くはなかったということです。

ただ安倍は外遊で相手国の要人と会う時は、姿勢もよく実に堂々と見えました。外務大臣も務めた父親と行動を共にした経験と訓練が役に立ったと思われます。しかし、見た目だけでは総理はできません。総理大臣になるためには場馴れする訓練も大切かもしれませんが、知的能力という本来の資質に欠けては意味がありません。

福田康夫:
麻布高校から早稲田大学第一政経学部に進んでいます。父は91代内閣総理大臣、福田赳夫です。大学卒業後、丸善石油(現コスモ石油)に入社して、17年間のサラリーマン生活を送ります。丸善石油時代には米国勤務を経て石油輸入課長になっています。まずは順調な昇進と考えられます。退社後、総理大臣だった福田赳夫を秘書官となり1990年に衆議院議員になるまで13年間秘書として過ごします。

二世としては例外的な50代での議員初当選でしたが、外交畑を主として過ごした後、森内閣で官房長官となります。大臣経験もない官房長官への抜擢でしたが、安定感のある仕事振りで評価を得、その後森内閣から小泉内閣へ引き続き官房長官となります。森、小泉両内閣通算1,289日の官房長官在任は歴代1位です。

福田は言語的に安倍のような知能レベルを疑わせるようなことはありませんでした。サラリーマン時代大企業の管理職として認められていることからも、一定以上の知的水準を持っていると推定されます。父親の秘書官から政界に入るという点では安倍と同じでしたが、安倍が社会経験もあまりなく、まったくの勉強のために秘書になったことと比べて、実務的な能力を買われて父親を手伝うことにしたと考えられます。

大臣も官房長官しか経験していないことは安倍と同じですが、長期に渡り各大臣の上司のような立場で内閣を切り盛りしていたことを考えると、経験不足だとは言えません。しかし、その福田も安倍と同じく1年で政権を投げ出してしまいます。

福田が辞任したのは恐らく参議院で多数を失って、政局運営に困難を極めたことが直接の原因です。それはそれとして、結局は福田も安倍と同じで、本質的に総理の座に執着する度合が小さかったということになります。知能レベルとは別に二世議員の淡白さということなのでしょう。

麻生太郎:
麻生も安倍が小学校から大学まで一貫して成蹊学園だったように、学習院小学校から持ち上がりで学習院大学を卒業しています(小学校は3年生からの編入)。学習院卒業後スタンフォード大学大学院に入学し、途中でロンドン大学に転入しています。どちらも学位の取得はありません。

麻生は毛並という点では、他の二世議員と比べても群を抜いています。祖父は吉田茂で、明治の元勲大久保利通や天皇家にまで連なる名門に生まれました。父親は九州の炭鉱財閥から始まった麻生産セメント会長で、衆議院議員として麻生派の創始者となった麻生太賀吉です。太郎本人もロンドンからの留学後すぐ麻生産業取締役から1973年麻生セメント社長になっています。

明治維新が出発点とはいえ、麻生は家柄的には日本の貴族とも呼べる存在です。総理就任時の、「御名御璽(ぎょめいぎょじ)をいただき」というような大袈裟な表現も、天皇家をお守りする貴族の一員という意識が言わせたものと考えられます。毛並のよさという点では、イギリス王室以上と言われたチャーチル的な首相です。学校の成績が悪かったという点でも似ています。

しかし、麻生がチャーチルに似ているのはそこまででした。チャーチルが大戦回顧録でノーベル文学賞を受賞したのと比べるのは酷ですが、漢字の誤読で首相としての適格性を云々されるという未曽有(これを麻生はミゾウユウと読んだのですが)の事態を引き起こしています。

ただ麻生は安倍のように文法が乱れて意味不明になるようなことはあまりなく、漢字が読めなかったり、「何となく」という口癖があるように語彙の乏しさの方が目立ちました。麻生自身も「勉強嫌い」だった書いているようですが、書籍を極端に読まないのではないかと思われます。麻生の漫画好きは有名ですが、主たる読書は漫画だけだったのではと推定されます。麻生の場合は知能よりも不足していたのは学力だったと思われます。

麻生は学生時代はできの悪い生徒で、会社員はいきなり取締役としてスタートしています。それも創業家の御曹司ですから、周りが全て段取りを付けてくれて自分は何もしなかったのではないかと思います。何もしなかったという推定は多分正しいでしょう。麻生の知的水準で会社経営を意欲的にしていたら、麻生セメントは倒産していた可能性が高く、会社が存続しているという事実が、何もしなかったという何よりの証拠かもしれません。

何もしなかったことで会社を存続させてきた人間が、経営者として経済に強く、英語もうまい外交通だと言って総理になったのですが、多分総理大臣は麻生が初めて主体的に責任を持って職務を実行しなければならない仕事だったのでしょう。

麻生が安倍、福田よりすぐれていたのは、総理のポジションへの執着でした。支持率が下がり続けようと、マスコミが次は民主党政権だとはやしたてようと、麻生は衆議院の任期いっぱいまで断固首相の座を降りませんでした。

どうしてあんなに頑張れたのか不思議ですが、安倍や福田にしたところで、大きなスキャンダルがあったわけでもなく、自民党は衆議院で3分の2を超える圧倒的多数を持っていたのですから、政権を放り出す必要は冷静に考えればありませんでした。そこに気づいていた点では麻生は賢かったのかもしれません。

鳩山由紀夫:
鳩山は東大の応用物理学科を卒業してスタンフォード大学で博士号を取得、東京工大助手から専修大学助教授を経て政界に転じています。母校の東大には残れなかったものの、この経歴は最高水準の知能の持ち主でないと得ることはできません。

鳩山首相の祖父は麻生の祖父の吉田茂から政権を奪った鳩山一郎です。父親の威一郎は大蔵事務次官から政界に入り外務大臣を務めています。資金提供をしたと問題になった母親はブリジストンタイヤの石橋家の出身で、ご承知の通り大金持ちです。知能も、毛並も、財力も申し分なく、総理大臣になるために生まれてきたような環境で政治活動を続けてきました。

鳩山に欠けているものは、職業人としての実務的能力でしょう。大学時代はマネージメントではなく研究者でしたし、政界に入っても野党が長く、族議員も大臣もしていません(細川内閣時代に官房副長官を短くしただけです)。観念論や美辞麗句を並べれば表の仕事はできますし、批判はしても実行可能な対案を練り上げる必要もありません。

鳩山は「責任を取らされる」という懸念や心配なしで、人生のほとんど過ごしてきたのだと思います。でもなければ「普天間基地の移設は責任を持って5月までに結論をだします」などという恐ろしいことが言えるはずがありません。

鳩山首相も地位にあまり執着していないように思えます。苦労して得た地位ではないし(本人はそうは思っていないでしょうが)、首相でなくなっても全てを失うようなことはないからです。家柄、財力は首相でなくても自分のものです。責任を取ると言って辞めてしまう可能性は大いにあるでしょう。

指導層を選抜する仕組みが必要

総理大臣の資質、それも知能のような資質のごく一部を検証するというのはバカバカしいことなのですが、総理になるまで十分な検証を経ていないと思われる二世政治家の総理が続くと、このような作業も必要になります。

最後の官僚出身の総理大臣の宮沢政権が総辞職してから15年以上たちますが、今まで生まれた11人の首相のうち二世議員でないのは、細川護熙、村山富市、小渕恵三、森喜朗の4人だけです。そのうち細川は母方の祖父の近衛文麿が首相経験者です。特に最近5代の首相は全て二世議員、それも3人は首相経験者を父または祖父に持っています。

二世議員が直ちにダメな議員にはなりませんが、知能、経験、責任感など二世議員が大きな問題を抱えていることは見た通りです。特に知能のようにIQテストなどで比較的簡単に測定できるもので資質に疑問符が付く人物があっさり総理大臣になってしまうのは大きな問題です。

また、経歴的に首相となって仕事ができるかどうかということがあまり重視されず、「国民的人気」があるという怪しげな基準で首相候補を選ぶ結果、抽象論ばかりで実行能力が著しく劣る人間が首相になってしまうことも起きています。

日本には指導層を育てるというより、指導層につくべき人間を選抜していくプロセスが是非とも必要です。さもないと、下積みの苦労も知らず、下積みの仕事をさせて初め判る人物像を判断されることもなく、議員あるいは首相候補にいきなりなってしまうことを防止することはできなくなります。

下積みの仕事と総理大臣の仕事は違います。しかし、総理大臣のようなジェネラリストの頂点に立つような人は概して下積みの仕事もそれなりにこなすものです。余分な選抜過程を入れることで、みすみすふるい落とされてしまう有為な人物も出てくるでしょう。しかし、それでも漢字もろくに読めなかったり、責任というものを理解しているとは思えない総理大臣が生まれるよりまだましなはずです。

最後の官僚出身の総理大臣、宮沢喜一は秀才として有名で、「30にして60歳の頭を持つ」という老獪さもありました。しかし、宮沢は学歴、それも東大出かどうかにひどくこだわり、東大出の少ない官僚出身でない政治家をバカにしていました。しかも腹の中で思うだけでなく、酔うと(宮沢は酒乱の気があったと言われています)面と向かって相手に言うのでひどく嫌われていました。

いい年をして東大出かどうかを人間の評価基準にしていたのは、ハンモックナンバーにこだわった海軍のように愚かな話ですし、精神年齢も幼稚だったのではないかと思います。30の時から60の頭を持っていたというのは、知能の話だけで精神年齢は30程度のまま年を重ねたのかもしれません。そのせいか宮沢は早くから総理候補と呼ばれた割にはなかなか総理になれず、最後は金丸、小沢という東大も出ていない連中の面接まで受けてやっと総理になれました。その総理の座は内閣不信任案の可決によって失ってしまいます。それが東大出にこだわる幼稚さのせいかはわかりませんが、知能指数が高くても、学歴が高くても総理の資質としてはまだ十分ではないという一つの例ではあるでしょう。