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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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原発を考える(2): WWFが原発に反対するわけ
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原発は温暖化ガス削減の切り札ではない?

パンダのロゴで知られているWWF (World Wildlife Fund:世界自然保護基金)は、スイスに本部のある世界的な環境保護団体です。WWFは生態系の多様性の維持という目標を掲げ、絶滅の恐れのある動植物の保護に取り組む一方、森林の保全や環境汚染の改善のための活動を行っています。

日本人の立場からはWWFがグリーンピースなどとともにクジラやイルカの保護に熱心であることは、ある種複雑な思いを抱かせるかもしれません。また、多くの環境保護団体がそうであるように組織の出発点の根底には「有色人種に任せておくと自然が目茶目茶にされてしまう」と心配するような白人優越の考えがあることも認めなければならないでしょう。

しかし、WWFはグリーンピースやましてシーシェパードのような過激な行動はとりませんし、活動の質の高さは広く認められています。そのWWFは地球温暖化にも懸念を示しており、温暖化ガスの削減を訴えています。原発は二酸化炭素に代表される温暖化ガス排出を抑制する切り札とも言われる技術です。しかし、2003年にWWFは原発には明確に反対する姿勢を明らかにしています(WWF POSITION  STATEMENT NUCLEAR POWER )。なぜなのでしょうか。WWFの原発に反対する理由を見てみましょう。

(1) 原子力は再生可能エネルギーではない

WWFは2020年までに再生可能エネルギーを総エネルギー使用量の20%、2080年までに100%にすべきだとしています。ここでWWFは再生可能エネルギーとして、風力、太陽、地熱、海洋などをあげていますが、原子力は化石燃料とともに再生可能エネルギーではないとしています。

WWFはその理由として、核燃料が採取から廃棄物の処理までのライフサイクルで大量の有毒物質を生じること、特に廃棄物から何千年もの間、有毒物の流失の危険があることを指摘しています。核廃棄物という極めて有毒な物質の貯蔵と管理の問題は、WWFは未解決の問題であるとして、有毒な廃棄物を積み上げるしかない原発は再生可能エネルギーとは言えないというのがWWFの見解です。

(2) 原発は危険で制御が難しい

WWFは1986年のチェルノブイリの事故を見てもわかるように、原発は依然として危険で制御が難しく大事故の発生の可能性が本来的にあるとしています。

(3) 原発は経済的ではない

WWFは原発の建設には莫大な資金が必要で、結果的に再生可能エネルギーに投入すべき資源を奪っていると考えています。さらに、WWFは原発が一定の出力を維持する必要があるため、エネルギーを節約しようというインセンティブを失わせる結果になるという点を指摘します。

また巨大な原発は大規模な送電網を必要とし、分散型のエネルギー供給システムより多くの場合不経済だと、WWFは断じています。WWFはその傍証として、原発のほとんどは国から直接間接に資金面で援助を受けており、OECD諸国では2010年までに建設が計画されている原発はフィンランドで1っあるだけだという事実をあげています(報告書の出た年は2003年)。

(4) 原発は核兵器非拡散への脅威

開発途上国が原発に熱心なのは核兵器の材料にアクセスする道を開くからだとしています。つまり原発の普及は核兵器非拡散条約(NPT)に対する脅威になるとWWFは考えています。

(5) 原発は電力しか作れない

原発のエネルギーはすべて電力としてしか取り出せないが、エネルギー消費のかなりの部分は熱エネルギーで、この部分を化石燃料に頼っては、原子力で温暖化ガスを削減する効果は限定的なものにならざる得ないことが指摘されています。WWFでは、コジェネ・システムのように分散型の電気と熱の両方を生み出す方式の方が温暖化ガス削減という点でも効率的だと考えています。

WWFは正しいのか

WWFは原発が日常的に放射能を撒き散らしているとか、原発の周りに巨大魚が泳ぎ回っているというような、科学的には疑わしい反対論は述べていません。しかし、いくつか基本的な問題はあります。

まず、WWFの掲げる2020年までにエネルギー消費に占める再生化エネルギーの割合を20%、2080年までに100%にするということの実現可能性です。確かにこの目標が原発抜きで達成できるのなら、温暖化ガス削減の切り札が原発だという主張は成り立ちません。しかし、控えめに言っても、相当困難な目標だということは間違いありません。

実際に風力や太陽エネルギーを利用しようとすると経済性が障害になります。採算性、経済性は条件の取り方でいかようにも変わってきて、それが原発の評価の難しさにもなっているのですが、太陽電池を使った電力供給を原発を置き換えるほど大規模に行うことは現時点ではとても経済的に引き合うものではありません。

風力発電も機器が意外なほど簡単に故障、破損するという問題を抱えていますし、低周波の音を発生して健康被害を引き起こすという新しい公害を生み出してもいます。つまり、現在再生可能エネルギーと目されているものは既存エネルギーを補完することはできても、大規模な発電を行うという点では、置き換えるという段階には達していません。

さらに、原発の問題点として指摘されている、出力調整の難しさという点でも、風力発電、太陽発電は問題があるというより、基本的にできません。風の吹いているとき、太陽が出ている時しか発電できなければ、よほど効率が高く大容量の蓄電システムと組み合わせない限り、補助的な役割以上のことはできません。そして、そのような蓄電システムはまだ実用化にいたっていません。

風力や太陽以外の地熱や潮位発電も規模や経済性で難点があり全面的に既存の発電システムを置き換えることはできません。つまり再生可能エネルギーがどこまで既存のエネルギーを代替していけるかは、今後の技術開発にかかっていることになります。

かりに再生可能エネルギーへの置き換えが急速には進まない場合、温暖化ガスと放射性物質のどちらが環境負荷が高いかという話になります。WWFは原発で温暖化ガスを減らそうというのは「根源的な環境問題の一つを別の環境問題で置き換えることだ」と言ってしまいます。その通りかもしれませんが、どちらか選べと言われたらどうしたらよいのでしょうか。

もっとも、この質問はWWFに言わせれば「自殺するのに、青酸カリがいいですか、拳銃がいいですか」と聞いているようなものかもしれません。目ざさなければならないのは死ぬことではなく、生き抜くことのはずです。化石燃料も原発も所詮は上手な死に方の選択の問題なのでしょうか。

答えを出すためには、現時点では判らないいくつかの前提を決める必要があります。

1:地球温暖化は本当に起きるのだろうか。その時期と程度はどのくらいなのだろうか。温暖化ガスの削減は地球温暖化を防ぐのに有効な手段なのだろうか。

2:原発の廃棄物を安全に管理することはできるのだろうか。地底や海底に捨てられる核廃棄物は将来に渡って環境に悪影響を与えないのだろうか。影響の程度は化石燃料から発生する温暖化ガスより大きいのだろうか、小さいのだろうか。

3:原発がチェルノブイリあるいはそれ以上の重大事故を起こす可能性はどれくらいないのだろうか。原発を導入するすべての国が十分な安全管理体制を維持することが可能だろうか。

4:再生可能エネルギーや電力量を制御するための蓄電システムを十分経済的なレベルで開発できるだろうか。できるとしてもどれくらいの期間が必要だろうか。

5:核燃料の再処理で環境に出される放射能、最終廃棄物は世界全体で許容できる環境への影響にとどまるだろうか。原子力への依存度が大幅に増加し、原発の発電量が飛躍的に増えても大丈夫だろうか。

6:化石燃料の価格は長期に安定的に上昇するだろうか。省エネや代替エネルギーの普及によりむしろ低下するのではないだろうか。低下した場合、代替エネルギーの中で原発に対し相対的に価格競争力の弱いものは淘汰されてしまうのではないだろうか。

7:原発が技術革新により大幅に安全になることはないだろうか。100年間連続稼働できるTWRのような技術が実用化されることはないのだろうか。

WWFは上記の質問にすべてどころか一つも答えることはできないでしょう。それにWWFが答えたとしても誰もその答えが正しいかどうか判定することはできません*。つまりWWFの問題は皆の問題であるということができます。批判は簡単にできるのですが、本当に建設的かつ実際的な答えを人類は見つけられていないのです。

ここでは原発が現状では廃棄物や潜在的危険性の大きさから、手放しで推進してよい技術でなさそうだと言っておきます。少なくとも地球温暖化の問題が大きくならなければ、原発はむしろ衰退させるべき技術だったでしょう。最近の資源価格の高騰で事情が変わってきましたが、それまではドイツ、スウェーデン、ベルギーでは原発は廃止の方向に進んでいました(ただしドイツは依然として電力の30%は原子力に頼っています)。

温暖化ガスの削減も原発の廃棄も莫大な経済的負担を必要とします。しかし、経済的負担は逆説的には代替エネルギーの推進力にもなります。次は原発の危険性について、もう少し考えてみたいと思います。

*これには原発の専門家から異論があるかもしれません。原発事故の発生確率はPSA(Probabilistic Safety Assessment)という手法で予測することがあります。PSAを用いて原発が致命的な事故を起こす確率は1原子炉あたり5千万年に一回程度という数字が出ることもあるのですが、現実にチェルノブイリ原発のような大事故が発生することを見ると、そのまま鵜呑みにするのも危険でしょう。

原発を考える(1):原発に巨大魚という都市伝説
原発を考える(2): WWFが原発に反対するわけ
原発を考える(3): 原発はどこまで危険か
原発を考える(4):反原発論は間違いだらけだが原発も欠陥だらけ
東海地震と浜岡原発
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原発を考える(1):原発に巨大魚という都市伝説
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映画「放射能X」では放射能で巨大化したアリが人間を襲う

原発について少し調べようと思っています」と始めたですが、やはり「少し」かじれば判るほど簡単な話ではなさそうです。簡単にはいかない理由の一つは、原発推進派と反対派、特に反対派の方が事実と想像を混ぜこぜにした原発非難が多いことです。事実を確かめながら作業を進めるのは、門外漢にとって楽なことではありません。ということで、シリーズもので何回か不定期連載でアプロチしようと思っています。この記事が第1回ですが、第2回は少し先になると思います。

原子力発電所の近くで異常に巨大な魚が取れるという噂があります。あくまでも噂のレベルでマスコミの報道などはないようなのですが、ネット上で「原発 巨大 魚」というキーワードで探すとかなりのエントリーが見つかります。

柏崎刈羽、玄海などの原発で巨大魚が見つかったという話があるのですが、海外では1986年に史上最大の原子力発電所事故を起こしたチェルノブイリ周辺で数メートルにおよぶ巨大魚が目撃されたという報道がありました。また、魚だけでなくアワビ、ウニのような他の海生生物の巨大化の噂もあります。

放射能の影響で原発の周辺で巨大魚が発生することがありうるのでしょうか。放射能で生物が巨大化する話は、原子力が実用化された初期の頃からSFのお気入りのテーマです。「ゴジラ」の第1作ではゴジラは放射能で巨大化して火炎を吐くようになったという設定でした。同じころアメリカでは「放射能X」というアリが巨大化して人間を襲うというSFホラー映画が作られました。

放射能、正確に言うと放射能を持つ物質から出る放射線は生物の細胞と細胞の中にあるDNAを直撃します。放射線が強ければ生物は死んでしまいますが、細胞が死ぬほどの強い放射線でなくても遺伝情報を持つDNAが損傷を受けると細胞分裂に異常が起き、ガンや白血病を発症する危険があります。細胞の中でも性細胞(精子、卵子)が損傷を受けると子孫に影響が出てきます。

それでは放射線でDNAの情報が書き換えられることで生物が巨大化することはあるでしょうか。実際にはその可能性は極めて低いと考えられます。放射線でDNAが損傷を受けると細胞は正常な分裂ができずに死んでしまうか、生き残った場合でも奇形の発生のような異常が起きます。しかし生物が巨大化するためには一つの遺伝子だけではなく沢山の遺伝子が関係しなければなりません。いくつもの遺伝子が一度に巨大化のような方向性を持った変異を起こすことはあり得ないと断言してよいでしょう。

巨大化の噂には魚だけでなく、ウニやアワビのような生物の系統ではるかに遠いものも含まれます。放射線が一般的にどんな生物でも巨大化させてしまうような働きはありません。放射線を自動車工場を襲った大竜巻のようなものだと考えると、巨大生物は竜巻の後の工場に巨大なSUVが完成しているようなものです。偶然だけでそんなことはあり得ないでしょう。まして同じような偶然がどこの原発でも起きることは、ますます考えられません。

巨大魚は幻なのでしょうか。必ずしもそうとは言えません。原発は海や大きな湖、川に沿って建設されるのが普通なのですが、原発の立地が水辺に限定されるのは、原発が核分裂で発生した膨大な熱を利用して発電を行うからです。つまり原発は発電時に大量の水と熱交換を行うことで発電を行い、環境に大量の温水を流す必要があります。採取した水より7-8度高くした場合、排水量は発電100万千キロ当たり毎秒70トン程度と見積もられます。

温排水量は世界最大の原発である柏崎刈羽発電所では1秒に800トンにもなります。これは利根川のような大きな河川の流量も上回るほどの量です。それほどの温排水を出せば放射能汚染以前に環境に重大な影響を与えないかという疑問が生じます。

実際、原発の建設では漁業補償が大きな問題になります。漁業補償費は場合によっては、漁業を廃業しても良いほどの額に達することも稀ではありません、また、原発の近くの漁場から取れた魚は市場で嫌われることが多いため、漁業が成り立たなくなってしまうということもあります。

原発の周囲では漁業が行われなくなり、そのために捕獲されない生物がどんどん大きくなることは考えられます。また温排水に適した生物がますます巨大化することも考えられます。チェルノブイリ周辺では住民がいなくなってしまった地域も多く、人間という天敵がいなくなった結果大きくなった魚が目撃されるということもあるでしょう。

しかし、原発の放射能のせいで巨大魚が発生するというのは一種の都市伝説です。巨大魚は放射能の薄気味悪さを象徴するものかもしれませんが、放射能の影響で魚が巨大化するようなことは科学的にはないと断言できます。

巨大魚が都市伝説だとしても巨大魚を作り出した恐怖「原発は放射能を撒き散らしているのではないか」という懸念はあたっているのでしょうか。何しろ原発は大きな河川に匹敵する海水を排出しています。僅かでも排水や排気に放射性物質が含まれていれば、総量では莫大な量の放射性物質を環境に放出するのではないでしょうか。

原発が事故ではなく通常の操業時に外部に放射性物質を放出しているかどうかということについては、反原発派の人々の多くはほとんど既成事実として「放出がある」としていますが、公式にそのような説を裏付けるデーターはありません。少なくとも自然環境と比べて相当量の濃度の放射性物質を排出はしていないと考えてよいでしょう。

原発が放射能を垂れ流しているとする有力な情報源*に、原子力発電所のプラント配管技能士だった平井憲夫氏の書いた「原発とはどんなものか知ってほしい」という文章があります。その中で平井氏は原発の2次冷却水(外部に排出される冷却水)も不可避的に放射能を含んでいると断言しています。これは少なくとも電力会社が原発の周辺で常に測定している放射能汚染の検査とは一致しません。

電力会社側が嘘をついている可能性はありますが、原発内部の話ではなく、測定すればすぐに判る外部環境の放射能の測定値を誤魔化すというのは正直あまり考えられません。平井氏の原発放射能垂れ流し説は放射能の強さに関する記述もなく(人体も含めどんな物質もゼロでない放射能を含んでいます)、2次冷却水が放射能を帯びる科学的根拠も不明確です。

平井氏は原発のエンジニアで、内部被曝の影響の可能性があるガンで1997年に亡くなっているのですが(ガンが放射線被曝によるものかどうか個々のケースで判定することは不可能です)、原発が内部の作業員の被曝に無神経に操業されていたことが事実であっても、外部への放射能の排出を平気で行っていたというのは信用できる話ではありません。

巨大魚の噂にしろ原発の放射能垂れ流し説にしろ原発の恐ろしさを一般受けする根拠のない怪談話に仕立てていると言われても仕方ないでしょう。確かに反原発派には科学的な厳密さで原発の危険を証明しようと思っても資金も技術も十分にないということはあります。それでも頭から原発は危険と決めつけて、原発の恐ろしさを伝えるためなら何を言っても構わないという姿勢が良いはずはありません。いい加減な非難に対してはいい加減な答えしか期待できないからです。

しかし、反原発派の言っていることがいい加減でも、原発と放射能を巡る問題のすべてが根拠のないものと言い切るのは楽観的過ぎます。少なくとも正常に稼働している限り危険なレベルの放射性物質を排出しなくても、いったん事故が起きれば核兵器数百発分にも相当する放射性物質が撒き散らされる危険があるのは確かなのです。

また、外部に排出される放射能が非常に希薄な濃度でも、大量に放出されたものが食物連鎖を通じて濃縮されることはないかという懸念は残ります。それに普通の原発は生物に有害なほどは放射性物質を排出していなくても、六ヶ所村の核燃料の再処理施設はではその数百倍も放射性物質を放出します。放射能排出の危険を無視するわけにはいきません。

巨大魚のような現代の怪談話は原発問題がイデオロギー論争になっている端的な例です。イデオロギーは往々にして、信条のために嘘やでたらめを言うことを平気にさせます。原発が放射能を常に垂れ流していると確たるデーターも無しで言ったり、反原発派の論拠の多くは嘘とは言わないまでも粗雑で科学的な慎重さにひどく欠けていると言わなければなりません。原発を推進するかどうかは最後は政治的な判断ですが、だからと言って科学的な分析がなくて良いはずはありません。原発の安全性が技術の問題だということには間違いないからです。

追記:倍数体について
巨大魚に関して、倍数体によるものではないかというご指摘がありました。普通生物の染色体は雌雄の両親から受けついだ2N個あるのですが、3N、4N個またはそれ以上のものがあり倍数体とよばれています。3N個の場合は雌雄での繁殖はできないのですが、植物にはよくみられます。また、動物でも魚には4N個の染色体を持つものがあり、この場合通常の染色体数をもつものより巨大化するのが普通です。

倍数体は自然に発生することもありますが、温度、圧力、薬品などで倍数体を作ることもできます。放射能も外部の刺激の一つとして倍数体を作ることは考えられますが、一般的に放射能がかなりの確率で倍数体を作るということはないようです。

原発周辺に巨大魚が現れ、放射線の影響が疑われるのなら、まず捕獲して倍数体かどうか染色体数を検査するのが最初でしょう。また、巨大魚が倍数体であったとしても、日本の原発周辺の魚類には異常な放射能蓄積は見られないことから別の原因も考える必要があるでしょう。

有力な情報源というのは適切ではないかもしれません。有名ですが「トンデモ」文章といった方が当たっているようで、原発に技術的にある程度詳しい人たちからは冗談の種にされるほど滅茶苦茶とされています。反原発派が平井氏の生前の講演に勝手に尾ひれを付けてでたらめだらけの物を作ってしまったようです。

原発を考える(1):原発に巨大魚という都市伝説
原発を考える(2): WWFが原発に反対するわけ
原発を考える(3): 原発はどこまで危険か
原発を考える(4):反原発論は間違いだらけだが原発も欠陥だらけ
東海地震と浜岡原発
原発について少し調べようと思っています
このブログは「雑学知ったかぶり」と逃げを打っているので、少々の間違い、独断と偏見はあってもお許しいただけると思っていますが、どう見ても不勉強でいい加減とは思われない程度には色々調べて書いているつもりです(もちろん評価は読者の皆さまです)。

そんな前置きをしておくのは、気になったブログ記事を読んだからです。「きっこのブログ」というのは当ブログとは違って、有名なブログなのですが、その中で目を引いたのは「原発の真実」というエントリーです。記事によると:

(1) 原発の周辺では異常に巨大な魚類(貝を含む)が取れる
(2) 原発周辺には白血病、ガンの発生率が有意(統計上の誤差ではなく)に高い
(3) 原発の排水、排気に伴う放射性物質の外部への排出は人体に影響を与えるレベルである
といったことが述べられています。この他にも「きっこのブログ」では
(4) 原発のライフサイクルでのCO2排出量は火力発電所よりむしろ大きい
(5) 原発廃止は世界の潮流
(6) とにかく原発は危険

ということできっこさんは原発に大反対なのですが、彼女の言っていることが本当なら原発は到底温暖化ガス削減の切り札にはならないということになります(きっこさんの主張の要点もそこにあります)。

原発の問題の難しさは元々は技術の問題がイデオロギーあるいは政治的議論になってしまっているということです。同じようなことはクジラは乱獲により絶滅しつつあるのかとか、トヨタの車は急加速するのかとか、利害の絡む問題にはよく起こります。

このブログでは技術的問題はなるべく政治的な偏見なしで考えようとしているつもりですし、判断がつかないものは両論併記の形をできるだけ取るようにしています(このあたりは読者の皆様が不満に感じられることもあると思います)。本来は原発がどこまで危険かという議論は文化的な差異はないはずですし(誰だって危ないものは嫌だし、経済的なら使いたい)、思想信条の介在する要素はないはずです。

ところが、原発に関してはきっこのブログのように科学的根拠もあまり明確でない事柄を積み上げて「絶対ダメ」としてしまう論調が目立ちます。

「100%安全だと証明しろ」という言い方もあります。100%安全なものなど、自動車、飛行機、インフルエンザ予防接種などこの世の中にないと言ってよいので、これは無茶です。何もしなくても明日巨大隕石が落下して人類は滅びるかもしれません。

一方、原発擁護派も問題があります。原発の専門家はほぼ全員、原発にたずさわることで生活しており原発に対してマイナスになるような情報は極力公開しないという姿勢が歴然としています。原発の周囲で白血病、ガンの発生率が高いかどうかという疑問は、原発対策費の何百分の一かの経費を使って疫学的調査を行えば結論は簡単に出るはずですが、東京電力がそんなことをやろうとしたことなど聞いたことはありません(知っている方がいらっしゃったら是非教えてください)。

にもかかわらず原発推進派は原発は絶対安全という立場を崩そうとはしません。「絶対安全です」というのは技術的には絶対の嘘ですから、こんなことを平気で口にするような連中を信ずるのも危険すぎます。

ということで少し自分で調べてみようと思っていますが、カネも専門知識もない身ですから、とりあえずはネットの情報でもコツコツ見ていくくらいしか、良い方法もなさそうです。しばらく時間はかかると思いますが、何か情報があればご一報いただければ幸いです。

ルイ・シホヨス監督への手紙
ルイ・シホヨス氏はアメリカの写真家、ドキュメンタリー映画作家です。シホヨス氏はイルカの保護を訴える映画The Cove (ザ・コーブ:入江)で2010年度のアカデミー賞(長編ドキュメンタリー部門)を獲得しました。映画は和歌山県太地(たいじ)町のイルカ漁を隠し撮りで撮影したもので、その映像はイルカ漁の残酷さを強く印象付けるものでした。クジラやイルカの保護を訴える声は海外で強く、本ブログでも何回か「もはやクジラ漁は中止すべき段階に来てる」という趣旨の記事を載せました。しかし、The Coveの根底を流れているのは狭量で独善的な動物愛護精神です。このブログはシホヨス氏への手紙という形式で映画に対する抗議をするものです。

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太地町にあるクジラの供養碑

ルイ・シホヨス様、

あなたの作られたThe Coveに、舞台になった太地町の人々や多くの日本人は当惑し傷つきそして怒りを感じています。あなたにとってイルカ漁を止めさせることは絶対的な正義なのでしょうが、私にはそれは太地町の人々のこともそしてイルカのことも何も理解しようとしない独善的で傲慢な態度に思えます。

あなたは太地町に何度も訪れたはずです。あなたはそこにクジラの慰霊碑があるのに気付かれたでしょうか。太地町では毎年鯨供養祭を行って、漁でとったクジラやイルカの霊を弔います。あなたが「イルカのアウシュビッツ」と思っている太地町の人々は、漁で取られたクジラやイルカに感謝してその魂を慰めています。

狩りをする民の多くは狩で得られた獲物は神から授かった神聖なものと考えます。太地町の人々も例外ではありません。太地町のイルカ漁は400年の歴史があります。太地町の人々にとってイルカやクジラは強欲のために虐殺するものではなく、魂を持った神からの贈り物なのです。

400年というイルカ漁の歴史は、イルカと人間は一つのエコシステムとして共存できることを証明しています。太地町のイルカ漁は決して、あなたが考えるようにイルカの絶滅に手を貸しているのではありません。太地町であなたが見た光景はイルカが地球上から消されようとしているのものではなく、イルカと人間が共生している有様です。

あなたはイルカは人間の友達ではあっても、殺したり食料にすべきものではないと信じているのでしょう。あなたがイルカ料理を無理に食べる必要はありません。どんなものを食物にするかは人や民族よって違います。ユダヤ人はブタを食べず、インド人は牛を食べません。われわれ日本人のほとんどチンパンジーの肉を食卓に出されればひどい嫌悪感を感じるでしょう。食べる物の違いは文化の違いです。

食物に対する文化的な違いは時として生理的拒絶反応を起こすほど強いものです。しかし、世界に様々な文化がある限り、私たちは文化の違いを理性で乗り越えなければなりません。あなたの映画は理性で違いを克服するのでなく、生理的拒絶感に訴えることでイルカ漁を糾弾しようとしています。それは文化の違いに対して取るべき態度ではないはずです。

入江(コーブ)がイルカの血で赤く染まったり、イルカに銛を突き刺して殺すのは残酷な映像です。それは牛を殺すのに反対する動物愛護の運動家がステーキハウスの前で屠殺上で牛が殺されるビデオを見せるのと同じでしょう。効果的かもしれませんが、正しいやり方とは思えません。

あるいは、飼い犬の世話を怠ける子供に、飼い主を失った犬がどんな処分をされるか映像で見せるのとも変わりません。子供は飼い犬の世話を真面目にするようになるかもしれませんが、心に傷を負ってしまうでしょう。まともな親ならそんなことはしないはずです。

イルカはあらゆる動物の中でも一番賢い。そうかもしれません。しかし、それがイルカを殺すことを絶対的に悪いことだという理由づけにはなりません。ペットは人間の友達です。犬だろうと小鳥だろうとあるいは蛇でもペットの飼い主は自分のペットを殺そうとは夢にも思いません。

殺すか殺さないかは人間が動物をペットとして見るか食物として見るかで決まります。自分の都合で動物の生死を決める人間は勝手かもしれませんが、知能のレベルを動物を殺す基準とするのはもっと勝手です。

地球環境を守るために生物の多様性は重要です。生物の多様性が失われ続けることは人類の存続も危うくします。しかし、生物の多様性を守るためにすべきことは、知能が高かったり、見た目が美しい生物ばかり選んで保護することではありません。

生物の多様性を守っているのは食物連鎖の中で要になるような生物。小さな生物をかき集めて、自分はもっと大きな生物に食べられる生物です。それはミミズであったり、カエルであったりします。人間が自分の基準で選ぶ生物ではありません。

あなたはなぜ長くイルカと共生を続けてきた太地町の人々を深く理解しようとしないのでしょうか。深く理解せずに非難して拒絶されたことを、いかにも相手が悪いことを隠そうとしているように主張するのでしょうか。一方的にイルカを殺すなと押し付けるのではなく、どのように太地町の人がイルカと生きてきたかをきちんと理解しようとすれば、太地町の人々は喜んで映像を取ることに協力したでしょう。

シホヨス様、それでは迫力のある映像はできなかったとお考えですか。きちんと太地町の歴史や背景を理解したドキュメンタリー映画より、太地町の人々を悪玉にしたセンセーショナルで感情的なイルカ愛護の映画の方があなたの主張に好都合だと思っているのですか。もしそうなら、そのようなあなたの姿勢こそ何より非難されなければならないもののはずです。


参照)クジラ関係の記事
それでもクジラ食べますか
もうクジラのことをあきらめましょう
シーシェパードの恐れるのは日本の捕鯨停止
東京の風景をぶち壊す「許せない」建物
東京が美しい町かと聞かれて自信をもってイエスと答えられる人はあまり多くはないでしょう。皇居の周辺から丸の内を望んでみる景色は、堂々とした大都会の趣があるのですが、全体としてみると雑然としていてパリのような整った街並みとはとても比べられません。

日本人が美しい街並みを作る能力がないのかというと、そんなことはありません。京都の町屋や倉敷の蔵の連なる通りを見れば日本人が美しい町を作る伝統を持っていたことは疑いがありません。

東京も江戸時代は江戸城を中心に大名屋敷を配し職能別に作られた町割りをして、機能的でしかも美しい街並みを持っていました。その東京を今高層ビルから見ると、雑然とした建物がとりとめもなくどこまでも広がっています。東京は何の計画性もなくガン細胞が成長するように巨大化してしまった街です。

再開発と称して昔の建物を爆弾でも落としたように一掃してコンクリートで固めて無個性な高層ビルを林立させてしまう。いや個性がないのはまだましな方で、自己主張ばかり強くて周囲とおよそ調和することを考えていない醜い建物が次々に現れて、風景をぶち壊しにしてしまうのは日常茶飯事です。腹を立ててもどうすることもできないのですが、これは東京の街並みを破壊する「許せない」建物リストです。

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江戸東京博物館

国技館の近く両国駅から3分ほどのところにある博物館。Wikipediaによると「失われていく江戸、東京の歴史と文化に関わる資料を収集、保存、展示することを目的に、平成5年(1993年)3月28日に開館した」となっていますが、皮肉なことに奇怪で巨大な外観が、東京の風景という文化の破壊の一翼を担っていると思う人は多いでしょう。

コンクリートで固めた広大な敷地に建つ白いビルは、1960年ごろに思い描いたブラジリア的な未来の建造物に和風の屋根を載せた外観を持ち、演歌歌手がボサノバをコブシを効かせて歌うような珍妙さを感じさせます。

高床式の建物を真似たのか、柱に支えられた巨大な建屋は、奇をてらっているだけで何の機能的な合理性も美しさもありません。取り柄と言えばその大きさだけで、貧弱な常設展示物のお陰(?)もあって、兵馬俑展のような場所を食う展示会に利用されることも多いのは、箱モノ行政が唯一有効な東京という場所に助けられた結果です。

60年代のモダニズムと和風を合体させた醜い外見は、博覧会のような1年物の建造物ならまだしも(当初「江戸博」という言葉からそうに違いないと思い込んでいたのですが)、恒久的な建造物としてはその大きさも敷地の無味乾燥さも文化施設としては許されない、無駄どころかマイナスの税金の使い途でしかありません。

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アサヒビール本社

黄金に輝く金色のオブジェは「新世紀に向かって飛躍するアサヒビールの燃える心を表している」そうですが、これを見て人間の排泄物を連想しない人がいたら、精神をどこか病んでいるのではないかと疑ってしまいます。

この建物は長らく低迷していたアサヒビールがスーパードライで一気にキリンを追い抜いて業界トップに躍り出た1989年に完成しました。デザイナーはフランス人のフィリップ・スタルク。

アサヒビールがどのような注文をデザイナーにしたのか知りませんが、スタルクはオブジェを本社ビルのロビーあたりに置くのではなく、まさか10階建てのビルほどの大きさで作り上げるとは思っていなかったのではないでしょうか。

もっともこれはスタルクに対する好意的な見方で、スタルクは出来上がった建造物に小さな模型以上のイメージを持てなかったに違いありません。そうでなければ、よほど日本に悪意があったか、先述のようにどこか頭の配線がいかれていたと考えるしかありません。

「うんこ」オブジェは成田から箱崎へ続く高速道路からもよく見えますが、吾妻橋を挟んで国際的観光スポットの浅草の向かい側にあります。外国人が浅草で日本情緒を味わって隅田川の反対に世界にも類を見ない人間の排泄物のモニュメントを見つけた時どう感じるのか。つい「国辱」という言葉を思い出してしまいます。

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最高裁判所

日本伝統の名建築というと正倉院、桂離宮といくらでも思いつきますが、基本はすべて木造です。石を使った建物となると、城の石垣と建物とは言えませんが墓石くらいです。そのせいでしょうか、三権の一つ、司法の頂上に位置するこの建物は裁判所というより巨大な墓石のように見えます。

最高裁判所の設計者は岡田新一という東京大学建築学科を卒業し日本芸術院会員になった大物建築家ですが、シンプルでモダンな外観を得意としているようで、最高裁判所のような予算たっぷりで重厚な権威の象徴を作るのは苦手だったようです。こんなことならアムステルダム駅のコピーで東京駅を設計した辰野金吾*のように、アメリカのキャピトルヒルあたりのそっくりさんを作った方がよほどデザイン的にはよかったと思われます。

(*これは俗説だそうです。「アムステルダム中央駅はネオゴシック様式であるが、東京駅はビクトリアン様式」ということで根本的に様式が違うのでコピーのはずはないというご指摘を受けました。ただ辰野金吾の作品は変な和風のアレンジがない分だけ好感を持っています)

キャピトルヒルついでに言うと国会議事堂も石造りの設計が苦手な日本人が設計した建物のようで、権力主義的な重々しさはありますが、美しさはあまりありません。こちらは最高裁判所のモダンさではでなく日本的な味付けを施そうとしたのか、インカのピラミッドのような屋根を載せてあるのがアンバランスな印象を与えています。

石造りの建物に重厚さと優美さを兼ね備えさせるとなると、ギリシャ建築の伝統を持つ欧米が一枚も二枚も上のようです。ファッション関係のデザインでも、日本人は繊細なものは良いものを作るのですが、ボリューム感のある金のアクセサリーなどはあまり得意ではありません。それにしてもバカでかい墓石のような裁判所を作るのはどうかと思いますが。

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モード学園コクーンタワー

西新宿にある学校法人モード学園が建設した高層ビル。新宿駅西口を降りると目の前に50階建ての変わった趣向のこのビルが見えます。コクーンタワーの名の通り蚕のマユをイメージした外観となっているのですが、鳥の巣のようにも、ミノムシのようにも見えます。

コクーンタワーのデザインは斬新ですし、写真で見る限り美しいと言ってもいいくらいです。ただ、西新宿の高層ビル群とはあまりにも趣が違っていて違和感が目立ちます。特に四ツ谷方面から新宿通りを進んでいくと、周りの背の高いビルに囲まれたコクーンタワーはスーツに身を固めたビジネスマンに混じった国母選手のような居心地の悪さを感じさせます。

コクーンタワーはもっと広々とした学園のキャンパスにでも建っていれば、デザインの斬新さもモード学園に相応しく見えたでしょう。しかし、「いつまでたっても足場がはずれない」と不思議がった人が結構いたように、西新宿にせせこましく建てられたコクーンタワーは不調和だけが際立ってしまっています。

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シャトーレストラン ジョエル・ロブション

1994年に完成した恵比寿ガーデンプレースの中に建つヨーロッパのシャトー風の外見を持つ建物。ミシュラン東京版で三つ星の評価を得ているフランス料理店、ジョエル・ロブションが入っています。恵比寿ガーデンプレースはサッポロビールの跡地に「豊かな時間、豊かな空間をテーマに、水と緑のアメニティ溢れる都市空間の創出」を目指してオフィス、住居、商業施設を一体に作る複合都市再開発プロジェクトです。この種の都市型複合施設としては1988年に完成したアークヒルズが最初でしょうが、商業施設との組み合わせたという点で、その後の六本木ヒルズ、六本木ミッドタウンなどにも大きな影響を与えています。

シャトーを模したのか、本当にヨーロッパから建物ごと持ってきたのかはわかりませんが、建物の様子はヨーロッパ郊外の三ツ星レストランが収まるシャトーと同レベルのハードウェアと言えるでしょう。

本物指向で作られたはずの建物ですが、恵比寿ガーデンプレースの中に置くと、まるでラブホテル、よく言ってディズニーランドの一施設のように見えてしまいます。想像される料理の味も三ツ星級というよりファミレス並みのような気さえしてしまいます。

ヨーロッパの森の中にひっそりと建っていると素敵に見えるシャトーもコンクリートを引きつめた複合施設群の中では、マンハッタンで天守閣をかたどった建造物を見るような違和感が付きまといます。

同じような一軒屋のレストランでも芝公園にあるクレッセントは、建物はずっと質素ですが、公園の木々越しにレストランが見えて、なかなか良い感じです。レストランからの景色も道路を木が隔てていて、都会の中で森のレストランで食事をするような気にさせてくれます。ロブションももしかしたらガーデンプレースではなく日比谷公園の中にでもシャトーを建てたかったのかもしれません、

ここでのお食事がおおよそ一人3万円、ワインに少し良いものを飲むと5万円くらいとか聞くと、「ラブホテルで飯食ってそんなに払うのか!」と思う人もいるのではないでしょうか。いやいなければ別に構わないのですが。

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六本木ヒルズ森タワー

六本木ヒルズの建設中、高さ240メートルの森タワーが次第に姿を現わすのにつれ、周辺の青山、麻布の人たちの多くは巨大な宇宙人のロケットが着陸してきたような嫌悪感に襲われました。

森タワーのインパクトの強さの理由は、何と言っても高層ビルとしては異例の太さにあります。同じくらいの高さの六本木ミッドタウンの方は森タワーのような圧迫感はありません。高層ビルは男根願望の表れだというフロイト的な分析をする人がいますが、森タワーを見ると、そんなものかもしれないという気がしてきます。

もともと高層ビルは都心のビジネス街や倉庫くらいしかない埋立地のようなところでは、効率的で都市美を作り出す手っ取り早い方法かもしれませんが、六本木のように雰囲気のある街ができあがっているところでは、破壊的な影響があります。まして六本木ヒルズのような広大な敷地全体を一つの色で染め上げるようなことをされては、どうしようもありません。六本木ヒルズができて近くにあった洒落た小さなレストランや秘密めかしたバーは、いきなり照明を明るくされたナイトクラブのような白けた雰囲気になってしまいました。

確かに、六本木ヒルズのあったあたりはテレビ局以外は狭い路地に住宅と小さな飲食店が混在した高級住宅地と言うにはゴミゴミしたところでした。再開発をするのは必要なことだったのかもしれませんが、何も森の木を切り倒して、芝生にしてしまうようなことをせず、元からの風景や雰囲気を残すことはできなかったのでしょうか。

この点では「周囲と調和した街を作る」と言った恵比寿ガーデンプレースもそれほど成功しているとは思えません。高層ビルを建ててコンクリートを敷き詰めた広場と称するものを作ってはぶち壊しです。所詮街の歴史とは無縁な没個性な建造物です。

都心の再開発プロジェクトは何もない野原の真ん中のショッピングセンター作りと同じ発想で計画されるようです。色々お題目は並べますが、できあがったものは区別がつかないほどよく似ています。再開発プロジェクトが民間の資金で行われる以上効率性を追求するのは止むえないことです。しかし、せめて周囲を圧する巨大宇宙船をいきなり着陸させるようなビルだけは何とかならないのでしょうか。


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表参道ヒルズ

街を破壊してしまうという点では、六本木ヒルズより表参道ヒルズの方が悪いかもしれません。表参道ヒルズは有名な安藤忠雄の設計で六本木ヒルズと同様森ビルにより2005年に完成しました。

表参道ヒルズの建物自身は決して醜くはありません。ケヤキ並木越しに見える水色のガラスと銀色の金属のフレームの近代的な造形は、一流の建築家の手になったものだと納得させるものです。建物の中には坂道の傾斜にあわせた回廊があり、店のディスプレーを楽しみながら坂道を散策するように歩くことができます。

しかし、表参道ヒルズは250メートルという長大な建物の長さの分通りに面した商店やレストランを刑務所の高い塀のように覆い隠してしまいました。表参道という世界的に見ても洒落たショッピング街から、オープンエアのカフェや並木道を歩きながらのウィンドウショッピングという楽しみを奪い取ってしまったのです。

表参道ヒルズができる前にあった同潤会アパートは古ぼけていましたし、古ぼけているだけで、古い建物に超近代的な高級ファッションの店が入っているパリのような街並みを作ってはいませんでした。それでも、古い部屋を改造した洒落たファッション店を見ながら歩くのを皆楽しんでいました。

今の表参道ヒルズは表参道という共有財産を家賃を払う店子にだけ独占させようとしているようです。しかも、それは成功していません。表参道ヒルズを見ると比べてしまうのは、表参道と並んでファッショナブルな街、代官山の旧山手通り沿いに建てられたヒルサイドテラスです。

ヒルサイドテラスは1969年から7期、30年に渡って旧山手通りに沿って、槇文彦の設計による低層のシンプルで近代的な、そして周囲の風景になじんだとても美しい建物を建てていく長期プロジェクトでした。

ヒルサイドテラスも住居、オフィス、ファッション店、レストランがありますが、街は長い時間をかけて少しづつ作られていきました。そして、最初は大使館が多い高級住宅地というだけだった代官山は洒落た楽しい街になりました。代官山の街はヒルサイドテラスが作ったと言っても過言ではありません。

街を作ったヒルサイドテラスと街を破壊する表参道ヒルズ、何という違いでしょうか。恐らく二つの建造物の差は安藤忠雄と槇文彦という二人の建築家の資質によるものではないでしょう。街づくりにかける時間と姿勢が森ビルと朝倉不動産(ヒルサイドテラスの実質的な推進母体)と違っていたからでしょう。

あまり森ビルの悪口ばかり言うと不公平なので、少し付け加えておくと、森ビルが都心の再開発に大きな貢献をしたことは事実です。同じ再開発でもアークヒルズなどは陰気で古ぼけた溜池周辺を近代的で活気のある街並みに変えてくれました。しかし、六本木ヒルズや表参道ヒルズでは森ビルがあまりに周囲に無関係に街づくりをしてきたということは指摘しておかなければならないでしょう。

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帝国ホテル

帝国ホテルの建物は醜いわけではありません。周囲との調和を格別乱しているわけでもありません。その意味で帝国ホテルは「許せない」建物ではありません。しかし、かつて帝国ホテルが日本で最も格式のあるホテルであったことを考えると、外資系ホテルのはるか下に位置する、悪く言えば「ちょっと上等のビジネスホテル」になってしまったのは他人事とはいえ残念な気がします。

超一流ホテルであるための条件に優秀なマネージャーやベルボーイ、上等なレストラン、行きとどいたサービスメニューがあるのは事実です。それでもハードウェアとしての建物が豪華で気品がなくてはならないことは間違いありません。帝国ホテルの最大のは弱点はハードウェアが悪すぎることです(別にレストランも最高ではありませんが、まずい飯しか出さない格式の高いホテルもあります)。

昔の帝国ホテルはそんなことはありませんでした。現在の建物の前はフランク・ロイド・ライトの設計した風格と美しさを兼ね備えた建物が使われていました。しかし、低層の建物は270部屋しかなく、経営上止むえないという判断でライトの傑作の一つであった旧館は取り壊され、1970年772部屋を持つ現在の建物がたてられました。

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帝国ホテル旧館

帝国ホテルの行った経営判断を今の視点で非難するのは公平ではないかもしれません。しかし、シンガポールのラッフルズ・ホテルや、ニューヨークのウォルドルフ・アストリア・ホテルが旧館を残しながら新館のタワーを建設し、今も往年の格式を守っていることを考えると、旧館を少し位置をずらして新館を建てるような工夫ができなかったか残念な思いは残ります。

東京にあるビルの中で戦後から1970年代一杯くらいまでのビルは、安普請のものが多く文化的な価値を持っているようなものはほとんどありません。それらのビルは戦前のビルと比べて天井が低く、部材も内装に安手の物を使うことが多く、現在の水準で考えれば、貧しかった日本を思い出させるようなものです。

帝国ホテルと並んでホテル御三家と言われたホテルオークラもロビーの安っぽさやバーに重厚感がまるで欠けているのを見ても、リッツカールトンやフォアシーズンなどと比べるべくもありません。

東京のビルで保存運動が起きるのがほとんど戦前のものばかりなのは当然です。戦前のビルは天井が高く、石材もふんだんに使った豪華な物が多いのです。不思議なのはニューヨークも同じように戦前の建物の方が天井が高かったりするのですが、その分家賃も高く取れ、壊さずにそのまま使われることが多いのに、なぜ東京はブチ壊してしまうかということです。

都市を作るには時間がかかります。風格と味わいのある街づくりはもっと時間がかかります。それなのに何もかも壊し続けていてはいつになったら、東京は世界に誇れるような美しい街並みを持つことができるのでしょうか。

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日本橋と高速道路

ビルではありませんが「許せない」ということでは、日本橋の上に架かる首都高速道路の右に出るものはありません。首都高速道路は1964年の東京オリンピックに合わせて突貫工事で作ってしまったのですが、まだ貧しく資金の乏しい日本は建設費を世界銀行から借り入れなければなりませんでした。

そのためもあったのでしょう。首都高速道路は効率性が最優先され「美観などいうのは贅沢」という思想で建設されました。そして都心の真ん中を高速道路が縦横に走るという世界の大都市では例を見ない風景が現出してしまいました。

それでも皇居の周りだけは、皇居の中をのぞかせてはいけないという、美観とは違った理由で地下に高速道路が建設され、かろうじて最低限の風景は守られました。しかし、不敬とは無縁の日本橋などの文化財は容赦なく高速道路で覆われることになってしまいました。

韓国では現在のイ・ミョンバク大統領がソウル市長時代に、ソウル市を流れる清渓川の上を走る清渓高架道路を取り壊して、川沿いの遊歩道を作ってしまいました。ソウルにできることがなぜ東京でできないのかと考えてしまいます。

ただ、清渓高架道路は取り壊されただけで、日本橋の上の首都高速を取り壊す時に検討された地下化はしていません。当然費用ははるかに小さくてすみます。東京の場合は地下化を行わなければ、外環道、圏央道などの東京周辺の環状道路を充実させる必要があるでしょう。それがどのくらい費用がかかるかはわかりませんが、莫大なものであることは間違いありません。それでも都市の美観は費用には代えられないものがあるはずです。

江戸東京博物館のあたりは戦前は下町で庶民の住む町でした。1945年3月10日の東京大空襲はその庶民の町を徹底的に焼き尽くしました。死者は10万人に達しました。

同じように大空襲を受け破壊しつくされたドイツのドレスデンの町は、戦後それこそ煉瓦の1個1個を拾い集めるようにしてできるだけ完全に戦前の街並みを取り戻しました。今本所や蔵前のあたりは殺風景で無機質のコンクリートの街並みが広がっています。

江戸東京博物館では江戸から東京へと続く400年の歩みが展示されています。コンクリートの怪物の江戸博物館を改めてみると東京その物を象徴しているようにも思えます。江戸からの文化的つながりを断ち切った建物を江戸東京博物館として建ててしまう。都市の文化は案外このように作られていくのかもしれません。



もう一人のドライバー
202X年3月10日、アメリカ国土安全保障省は3月8日から連続して発生している高速道路での追突事故の原因の多くは車載コンピューターのウィルス感染によるものだとする発表を行った。このウィルスに感染した車は最悪の場合ドライバーの加減速の操作とは関係なく急加速することがある。ウィルスはインターネット経由で車載コンピューターンのソフトウェア保守を行った際、保守ソフトウェアから感染させられたものと見られる。同省ではアルカイダによるサイバーテロの可能性を排除しないとしている。

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公聴会でトヨタ車の急加速を証言するロンダ・スミスさん


トヨタ車の急加速事故

冒頭の話はただのSFですが、トヨタの豊田社長がトヨタ車の急加速による事故に関連して、アメリカ下院公聴会で証言をさせられたことは広く報道されました。この問題は中間選挙をにらんだアメリカ議会の政治ショーだとか、GMやフォードを助けようという陰謀だとか、トヨタ寄りというよりかなり被害者意識を前面に出した報道も日本側では目立ちました。

これに対しアメリカの報道姿勢もそれほど冷静なものではなく、トヨタを人命軽視の隠蔽(いんぺい)体質があると「悪玉」にして非難するものが大勢でした。ただ、企業を悪者にすること自身はトヨタが日本企業であったからとは必ずしも言えません。アメリカにはある意味日本以上に反大企業の風土があるからです。

日本でもリンナイのガス湯沸かし器での不完全燃焼による死亡事故、三菱自動車のトラックから車輪が脱落して起きた死亡事故などでは両社はかなり徹底的に叩かれました。外国企業の起こした話ではシンドラー社製のエレベーターの事故で高校生が亡くなった事件の際、同社の日本法人の対応ぶりに非難が集まりましたが、本社との距離が問題になったという点では、今回のトヨタのケースはシンドラー社の場合に近いかもしれません。

しかし、多くの報道がなされている中で、事故の原因が本当にトヨタの責任にあるものか、そもそも一体何が問題だったか、をちゃんと説明したものは、日本ではあまりないように思えます。公聴会で、議員たちはETCSの誤動作の可能性をしつこく追及したのですが、ETCSとは何か判っている日本人はあまりいないのではないでしょうか。

日本でもアメリカでの騒ぎの余波の形でプリウスなどのハイブリッドカーのブレーキの問題でリコールがありました。日本のプリウスのリコールとアメリカ下院での公聴会で討議された急加速の問題に技術的関連があるのかないのかも広く理解されているような話ではないようです。

結論から言えば、二つの問題は技術的には全く無関係です。プリウスがリコールになったのはハイブリッド車特有の回生ブレーキ(制動時のエネルギーを電池に貯め込むブレーキ)と通常のブレーキの切り替えによっておこる「制動感覚のずれ」があったからです。そもそもそんなことがリコールになるような問題なのかというレベルの話です。

これに対しアメリカの公聴会で取り上げられたのは、トヨタ車で「急加速が起きる」というクレームが相次いでいて、実際死亡事故も起きたという問題です。これがアメリカで疑われているようにETCSの誤動作によるものなら、日本でも同じような事故は起きる可能性があります(アメリカで売られているトヨタ車のETCSと日本で販売されているものが根本的に違わない限り)。そんな大問題に無関心でアメリカの陰謀のことばかり気にするというのはBSE騒動で焼肉屋が空になった国にしては随分とのんびりした話ではないでしょうか。

ETCSに責任はあるのか

カリフォルニアで起きたレクサス車の死亡事故では、車はディーラーから代車で借りたもので純正ではないフロアマットが付けられていました。トヨタの考えは純正でないフロアマットがアクセルペダルと干渉を起こしてアクセルが戻らなくなって急加速を起こしたのだろうというものでした。メーカーには責任がないというのが当初のトヨタのスタンスだったわけです。

しかし、その後クレームが相次いだこともあり、トヨタはフロアマットについてユーザーに注意を喚起するとともに、フロアマットとアクセルが干渉を起こさないように、アクセルの形状を変更するリコールを行いました。

ところが話はこれでは収まりませんでした。ETCSという電子的にアクセルを制御する機構が疑われたのです。ETCS(Electric Throttle Control System)とは電子的にスロットルつまりアクセスを制御する機能です。そしてETCSの頭脳になるのはコンピューターです。

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上の図の左にあるように、従来の車の加減速や方向変換はすべて人間がコントロールしていました。ETCSがあると車の加減速の命令を出すのは人間とコンピューターの二つになります。現代の車ではABS(スリップ防止ブレーキ)ようにブレーキもコンピューターの命令によって制御されます。

ABSがあると急ブレーキを踏んで車がスリップしそうになるとコンピューターがブレーキを緩めて「ポンピング」のようなブレーキングを行います(プリウスのリコールはABSと回生ブレーキの組み合わせで起きた現象に対するものです)。

ETCSは車を一定速度に保つクルーズコントロールと呼ばれる機構のために導入されました。ETCS以前にもクルーズコントロールはありましたが、機械的な制御が主流でコンピューターは使用していませんでした。ETCSは機械式に比べ経年変化での摩耗などによる誤動作の可能性が小さく、本来は機械式よりすぐれた方式と考えられています。

クルーズコントロールよりさらに進んで、車間距離を測定するセンサーと組み合わせたアダプティブクルーズコンロール(ACC)では、前車との車間距離を一定以上に保つ機能が提供されます。ACCがあると前の車との車間距離が縮まると自動的にブレーキが働き、前の車がいなくなると所定の速度まで加速してくれるので、高速道路ではハンドル操作以外人間はほとんど何もすることがなくなってしまいます。

前に急に車が割り込んできても、ACC搭載車ではスムーズに車が減速してくれるので、追突の危険がずっと小さくなります。渋滞で車が団子になる原因は、前方の車の減速に対して僅かにドライバーの反応が遅れることが積み重ることなのですが、ACC装着者が増えるとそのような渋滞は大幅に減ることが実験で確かめられています。

便利極まりない機能ですが、クルーズコントロールにせよACCにせよ人間の代わりにアクセルを踏んでくれる(正確には踏むのではなくガソリンの供給量を制御する)のはETCSですから、ETCSが誤動作を起こすと「急加速」が起きる可能性はあります。事故が起きた時、自動車の歴史の中では新参者のETCSが疑われたのは止むえない面があります。

怪しいと疑ってもETCSがどんな時に誤動作を起こすのか特定するのは簡単ではありません。そこでNTHS(National Highway Traffic Safety Administration:アメリカ高速道路交通安全局)はNTHSにクレームの上がったトヨタの急加速の事例を集めて、統計上ETCSの欠陥の可能性があることが有意に証明できるか調査しました。

しかし、統計的にはETCS装着車が同型の非装着車と比べて、急加速の事例が多いという事実は確認できませんでした。NTHSの事例を見る限り、急加速は少なくとも大部分はフロアマットか何かETCS以外の別の原因と考えるのが妥当です。

にもかかわらず、NTHSは「これで終わり」とは言ってくれていませんでした。たとえ大部分の事故にETCSが無関係でも、全ての急加速現象がETCSに全く関係ないとは断定できないからです。NTHSは下院で急加速の証言したロンダ・スミスさんのレクサスを購入してさらに調査することにしました。恐ろしい急加速を経験したはずの車が、事件後も使用され、さらに転売されて今も走っているというのは奇妙なのですが(公聴会でなく裁判だったら、トヨタ側の弁護士はスミスさんを厳しく追及したはずです)、話は技術論より政治的な色彩を帯びてきており、簡単に事態を収束できなくなってしまっているのです。

車に二人のドライバーがいる

ACC付きの車を運転すると車がまるで意志を持っているような気分にさせられます。車によってはACCで車が急減速するとハザードランプが点滅して後続の車に危険を知らせるのと同時に、シートベルトが締まる機能が付いているものまであります。頼りになる助手のようなものですが、もしその助手が異常行動を始めたらどうすればよいでしょうか。

昔のように人間が全ての車の制御を行っていれば、様々な状況への対応は人間が行います。人間は間違いやすく不完全な生き物ですが、どんな状況でも柔軟に対応できるという点ではコンピューターに比べて圧倒的にすぐれています。

これに対し、コンピューターはプログラムで決められた動作しか行えません。もしもプログラムが全く想定していない条件が発生するとどのような動きをするかはわかりません。たとえ設計上想定はしていても、プログラムが想定の通り正しく書かれているかはテストするしかありません。テストをしてもテスト自身が間違っている可能性もあります。

車の制御を行うコンピューターは、非常に数多くの情報を同時にしかも高速に処理する必要があります。これはソフトウェアのテストを設計する立場になると相当厳しい環境です。同時に処理する情報が多いということは、すべての入力の組み合わせをテストすることは難しいというよりできないということです。

トヨタは「われわれのテストではETCSによる急加速は再現できない」と言っています。ETCSが悪いのではないかという疑いは、クレームデーターの統計的な解析や、ETCS自身の慎重な再チェックでほぼ完全に否定されているのに問題が尾を引いているのは、政治的な理由だけでなくコンピューターのソフトウェアは欠陥がないと証明することは本来できないからです。


本当は「品質」の問題ではない

トヨタは今回のリコール騒動を受けて、「品質保証のプロセスの全てを見直す」と言っています。騒ぎが大きいのでこのような対応をするしかないのでしょうが、将来を考えると従来の生産技術を磨きあげる形の品質改善とは次元の違ったアプローチが必要です。

まず、ETCSにしろ何にしろコンピューターのソフトウェアは製造工程での欠陥は生じないということがあります。ソフトウェアの欠陥は、開発の段階で埋め込まれてしまうため、工場がいくら頑張っても関係ありません。工場はソフトウェアのダウンロードをしているだけです。工場での改善活動はソフトウェアでは無意味です。ついでに言うとソフトウェアに在庫はありませんから、トヨタの代名詞にもなっているカンバン方式も関係ありません。トヨタの大きな強みは生かされないことになります。

車に二人ドライバーが乗るようなコンピューター化の時代にトヨタが必要としているのは、巨大なソフトウェアを設計開発しテストする技術です。ソフトウェアのテストとは言っても車はワープロのようなPCで手軽にテストできるようなものではありません。実環境に近い大量のテストケースを設定して効率的にテストする必要があります。

もっと重要なのはマシンインターフェースです。iPhoneのインターフェースを見て驚いた人は多いと思いますが、自律的に車を制御しようとするコンピューターとどのようなインターフェースでコミュニケーションするかはこれからますます大切になってきます。

プリウスのリコールで問題とされたブレーキの効き方のタイミングは、車に詳しい人にはバカバカしい話でしょう。車に詳しくない平均的なドライバーにとっても気になるようなものではなく、一部の妙に神経質なユーザーだけがクレームを付けたと思われます。

しかし、プリウスのリコールがソフトウェアの書き換えだったことからもわかるように、ユーザーの感覚に触れる部分の多くはコンピューターが制御しています。その意味でプリウスで起きた問題はアクセルペダルを取り換えるアメリカのリコールより将来の品質問題の典型を示しています。

プリウスのリコールは従来の品質改善アプローチでなくせるようなものではありません。テストして見つけることもできなかったはずです。このような問題の発見は製品が市場に出て大量の一般ユーザーが使用して初めて表面化するようなものです。

PCや携帯電話では試作段階のソフトウェアを一般ユーザーに使用してもらい不具合を修正していくのは普通です。ソフトウェアの修正はインターネットを介して提供され、初期ユーザーのプログラムも最新版に更新されていきます。

同じことを車で行うと四六時中数百万台のリコールが発生してしまいます。メーカーの費用も膨大にかかりますし、ユーザーの負担も軽くはありません。ネットワークを通じてソフトウェアの修正を行えることが必要になってくるでしょう。

車載コンピューターの保守をインターネットで行うようになった場合、冒頭のような事件が発生する危険はないでしょうか。他の機器の例では東芝のDVDプレーヤーがウィルス感染したという報告はありましたが、携帯電話やWindowsの保守でウィルスが大規模に感染したという事例はまだありません。

しかし、ETCSのように能動的に車の動作を制御するコンピューターの誤作動は致命的な事故を起こす危険があります。このようなソフトウェアは「狂った」コンピューターに車が乗っ取られることがないように、携帯電話に搭載されるものとは根本的に違う設計基準を適用する必要があります。携帯電話の通話が切れるのは困りますが、車が暴走するのはそれとはわけが違います。

アメリカ下院の公聴会で繰り広げられたETCSの議論は、「絶対に安全だと証明されない限り、原発は認めない」というのと本質的には同じです。技術的にはナンセンスで政治的な意味しかありません。しかし、だからと言って原発の安全性を徹底的に追及しなければならないのと同じで、車載コンピューターの信頼性を高める努力はより一層必要です。今や車には二人のドライバーがいるのです。