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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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東海地震と浜岡原発
hamaoka.jpg
浜岡原発

原発即時全廃は現実的ではない

Twitterで原発反対論の人や賛成論の人、色々な立場の人と意見を交わしました(主に私が
メッセージを送りつけるだけの方が多かったのですが)。その中で中部電力の浜岡原発の廃止論者の人といくつか意見を交換しました。

私は基本的には広い意味で反原発論者です(詳細は原発を考える(4) をご覧ください)。原発には炉心溶融(メルトダウン)の危険と放射性廃棄物処理という深刻な問題があります。これらの問題は世界中で原発が増え、運転時間が長くなるほど増大するもので、将来に渡って小さくなるものではありませんし、少なくとも改善への大きなブレークスルーは見えていません。

一方、私は直ちに原発を全廃するという意見には与しません。炉心溶融の危険は一般的には2万年に1回程度と見積もられています。これは個人的には原発の隣に住むことを躊躇させるようなものとは思えません。少なくとも大都市に住んで、地震や火災の被害に逢う確率の方がよほど大きいでしょう。

それでも炉心溶融が危険なのは、炉心溶融が何回か起きると、そのうちチェルノブリのような水蒸気爆発で大量の放射性物質をばら撒いてしまう可能性があるからです。原発が人口の密集している地域の近くにあると、風向きにより数万人あるいはそれ以上の死者が出ることもあり得ます。

反原発論者の一人、広瀬隆氏は『東京に原発を!』という本を書きました。もちろんこれは「そんなに原発が安全だと言うなら電力の最大の需要地の東京に作ったらどうだ」という皮肉の意味です。しかしこれは間違った問いかけです。自分は飛行機に乗る人でも、ジャンボジェットに国会議員を全部乗せて旅行するというと反対するでしょう(「それは良い考えだ」なんて言わないでくださいね)。

たとえ原発の大事故の確率は小さくても、首都機能を崩壊させるようなリスクは取るべきではありません。これは原発の安全性を強固に主張する人々でもきっと同意見でしょう。原発はやはり大きなリスクを内在しているので、被害の最小化の努力は必要なのです(原発立地の人が「私たちのことは構わないのか」と言ったら、とりあえず「私は原発の隣に住むのは平気ですよ」と答えておきましょう。納得していただけるとも思いませんが)。

同様の現実論(と私は思っていますが)は、原発を直ちに全廃はできないという考えにもつながります。地球温暖化の懸念がある以上、化石燃料には無闇に頼るわけにもいきません。再生可能エネルギーも経済性が十分確保されていない現状では当面原発は好むと好まざるとにかかわらず、電力エネルギーの主要な供給源としての役割を演じる必要があります。原発即時全廃論は現実解ではありません。


反原発論者には「エネルギー供給が減れば、それに合わせて消費を減らせばいい。将来原子力資源も枯渇して、残り少ないエネルギーを原発の放射性廃棄物管理に使わされるよりずっとましだ」と言う人もいます。考え方として首尾一貫はしていますが、世界中が北朝鮮並みの強権政治で支配されない限り、原発を全廃できるほどのエネルギーの節約は当分難しいでしょう。できない議論をしていても仕方ありません。

要するに原発は色々問題があり、将来を全面的に託する気にはなれないが、今すぐ全廃するほどには危険ではないし、それは経済的にも合理的だというのが私の考えです。それでは浜岡原発はどうなのでしょうか。

東海地震はそんなに危ないのか

多数の原発の中で特に浜岡原発の即時停止が必要だとすれば、それは東海地震の危険があるからです。浜岡原発は静岡県御前崎市という東海地震の想定被害地域のほぼ中央に位置していて、東海地震の影響は避けられません。

歴史的にこの地域では100年から150年程度の周期でマグニチュード8以上の巨大地震が発生しています。前回の大地震は1854年の安政東海大地震ですから、再び地震が発生する日が迫っていると考えなくてはいけません。

東海地震の原因となる日本付近のプレートのゆがみは徐々に蓄積されています。プレートがゆがみに堪え切れなくなれば大地震は必ず発生します。浜岡原発が向こう2-30年の間に東海地震に遭遇する確率は無視できないというよりほぼ確実と考えた方がよさそうです。

浜岡原発が東海地震に会うのは不可避だということで、浜岡原発の付近住民を中心にした市民団体が2002年「人格権」に基づき浜岡原発の運転停止仮処分を求めた訴訟を行いました。この訴訟は2007年静岡地裁で原告敗訴となり、現在上級審で争われています。

判決の妥当性は技術的というより法的な面での分析が必要なのでここでは深入りしませんが、「定性的」には原発に炉心溶融その他大小の危険があり、最悪の場合炉心溶融に続く水蒸気爆発で大量の放射性物質が周囲に撒き散らされることはあるのですから、原告の主張は決して荒唐無稽なものではありません。

しかし、浜岡原発の危険度が他の原発と同じくらいなら、浜岡原発だけを停止するというのは筋が通りません。浜岡原発が危ないから廃止する必要があるのなら他の原発も同じように停止させなければいけません。浜岡原発の訴訟に対する判断は東海地震の危険が浜岡原発を他の原発より危険なものにしているかどうかにかかっているはずです。

東海地震はマグニチュード8以上、さらに広範囲な南海地震と連動した場合はマグにチュード8.4にも達すると予想されています。マグニチュードは1増加すると地震のエネルギーは32倍になります。関東大震災のマグニチュードは7.9ですから東海地震のエネルギーは数倍に達します。マグニチュード7.2の阪神大地震と比べれば最大100倍以上にもなる大きさです。

東海地震の発生では甚大な被害が予想されていますが、それは東海地震の影響を被る範囲が非常に広範囲におよぶからです。被災地域はの阪神大震災の数十倍の地域で大きさになると予想されています。

しかし、広範囲に被害がおよぶと言うことは、逆に言えば特定の地域の揺れはマグニチュードが大きいからと言って必ずしも大きくはならないということにもなります。被害に直接関係する地震の揺れの強さは震度で表され、揺れの強さにより1-から7の震度が決められています。

この他揺れの強さは「ガル」という単位でも表わされます。震度が気象庁の担当者の判断で決められるのに対し、ガルの方は加速度を示す物理量です。ちなみに重力の加速度は980ガルです。980ガルの地震は地面の物が空中に投げだされるくらいだと考えるとイメージがわきやすいかもしれません。

浜岡原発は東海地震で震度6以上が予想される地域の真ん中に位置しています。非常に広範囲が阪神大震災の一番揺れと同程度の震度に見舞われるわけですから、大変な事態であることは間違いありません。しかし、阪神大震災の時は震度7を記録した地点もあります。東海地震で一番激しい揺れが阪神大震災の一番ひどい揺れを大幅に上回るとは考えられていません。

浜岡原発が他の原発と比べて危険であるとしたら、東海地震という近い将来かなりの確率で発生するだろう大地震の中心地近くにあるということです。しかし、東海地震が阪神大震災や関東大震災と比べて特別揺れが大きい、つまり原発などの建造物に危険かと言うとそうではありません。地震は皆恐ろしいのです。

過去の地震で原発はどうなったのか

現在世界には500ほどの原発があり、その約1割は日本にあります。ところが、強い地震に遭遇した原発はほとんど日本の原発だけで、例外と言えるのは同じく環太平洋自身帯に位置する台湾で起きた1999年の台湾中部大地震くらいです。

台湾中部大地震のマグニチュードは7.3で20世紀に台湾で起きた地震の中で最大の物で、死者は2千名以上に達しました。この地震で揺れの合った2か所の原発は自動停止し、1か所は停止はしませんでしたが配管設備に被害があり、出力を落として運転されました。

日本の原発で大きな地震に遭遇した例では、2007年5月の新潟中越大地震の被害を受けた柏崎刈羽原発があります。このとき柏市では震度6強とほぼ阪神大震災並みの震度を記録し、原発も一部の建屋で想定を超える2058ガル(想定は834ガル)の揺れを記録しました。地震発生時に運転中だったすべて原子炉(設置された7基のうち5基)は自動停止しました。

この地震で原発内は火災や少量の放射能漏れなど様々な事故があり、柏崎市は原発の運転停止命令を出します。一部の運転が再開されたのは地震後2年近くを経過した2009年7月でした。

この柏崎刈羽原発の事故に対する評価は反原発派と原発推進派で真っ二つに分かれます。原発推進派は、重大事故の発生もなく震度から見ると最大級の地震に十分耐えたのだから原発の地震に対する強さは証明されたと主張します。

これに対し、反原発派は放射能漏れ、火災など重大事故につながりかねない多数の事故が起きた上に、東京電力から当局への報告がタイムリーでなかったなど、電力会社の事故隠ぺい体質が改めて露呈されたと非難しました。また、想定を超える揺れがあったことで、今までの耐震設計基準の妥当性も問題とされました。

一つの事象でも立場により評価が大きく異なるという一例なのですが、標準的に原発の事故の重大性を定義したものにはINES (International Nuclear Event Scale: 国際原子力事象評価尺度)というものがあります。

INESの尺度は0から7までがあり、原発外部に大量の放射性物質を撒き散らすような大事故はINES7とされています。このレベルに達したのは1986年のチェルノブイリで発生した事故だけです。スリーマイル島の事故はINES5、事業所外のリスクを伴う事故とされています。スリーマイル島の事故では原発外の死者はいませんでした(周辺住民は大規模避難をさせられた)。
日本でINES基準で最悪の事故は1999年に東海村で起きた東海村JCO臨界事故です。この事故は高速増殖炉常陽用の核燃料加工を担当していたJCO社で作業員の不注意(基本的には知識の欠如による)により核燃料が臨界量を越えて強力な中性子線が発生して作業員2名が死亡したものです。

このINESの尺度で、今まで原発で地震によるINES2以上の事故は国内外を問わず発生していません。柏崎刈羽原発の新潟中越地震での放射能漏れ事故はINES1(逸脱)とされています。また、地震発生時に運転中だった原子炉で一定以上の揺れに遭遇したものは全て自動停止が行われています。

日本は世界で最も地震の多い国であり、世界で3番目に原発大国でもあります。少なくとも揺れの強さという点では東海地震に匹敵するような地震を含め、数多くの地震を原発が経験しています。過去に炉心溶融どころか軽微と呼んでよい被害しか発生していないことを見ると、東海地震を殊更恐れるのは合理的ではないと考えてよいでしょう。

地震と原発に関するいくつかの懸念

浜岡原発を特別視しないとしても、日本のような地震の多い国では原発が地震でどのような被害を受けるのかというのは大きな問題です。代表的ないくつかの懸念を考えてみましょう。

東海地震は巨大地震であり未曾有の被害を原発に与える可能性がある:

間違ったところは何もありませんが、反原発論を展開する人達が意識的か無意識か地震の総エネルギー量を示すマグニチュードと震度を混同させているのは問題です。前述のように原発の被害を決めるのは原発の受ける揺れの強さで、マグニチュードは直接の関係はありません。意識的に混同させているとするなら、プロパガンダとしても褒められたことではありません。

ただ、東海地震のような広範囲に甚大な被害をおよぼす地震では全国的に社会システムの混乱が予想され、その中で火災の発生や放射性物質の流出などの事故対応が適切かつ迅速に行われるかは十分に検討する必要があるでしょう。

耐震基準の前提となる想定震度が不適当:

原発の施設の耐震強度を決める基準となるのは想定される揺れの強さです。これはS1(最強強度)、S2(限界地震)という二種類があるのですが、いずれにせよ原発の建設される地域の地質学的調査に基づいて、予想される最大強度の揺れを決めるものです。

当初、浜岡原発ではS1が450ガル、S2が600ガルとなっており、これで「まぁ大丈夫だろう」と思われていたのですが(少なくとも建設側は)、現在はS2を1,000ガルとして、この基準を満たすことが難しい、二つの原子炉は廃炉が決まっています。

このS1、S2の決め方には各地で疑問が出されているのですが、阪神大震災で未知だった活断層が大きな被害を出したことを見ても地質の調査は限界があるのは明らかです。現に柏崎刈羽原発では活動層が新たに発見されていますし、2,000ガルというあらゆる想定を超える揺れがあったわけですから、S1、S2で十分に余裕を持って耐震設計を行っていると主張できる原発は日本中に一つもないと言ってよい状況です。

現実を見るとどんな揺れにも耐えうる建造物など存在しないというのが実態です。つまりどんな地震にもピクリともしない原発など作れないのです。もちろん、そんなことで開き直って済む話ではないので、耐震基準の見直しや必要な改善策は今後も講じていくべきです。

とは言っても、ある程度の確率で堪えられないほど激烈な地震に見舞われたとき、原子炉が正しく停止される。自動停止がうまくいかないときは緊急冷却システム(ECCS)が確実に作動する。最悪水蒸気爆発で外部に放射性物質がばら撒かれるのを防ぐような、「破壊が起きた場合」の安全回復策を何段にも持っていることが必要です。

このような対策は浜岡原発のような大地震発生が必至な原発だけに必要なのではなく日本全土の原発が行うべきでしょう。日本は全土が地震危険地域にあると考えられますし、いつ何時新しい活断層が発見されないとも限りません。過去1万年、5万年を調べましたとは言っても、あくまでもその時の知見の範囲の話です。地域の特性で原発の耐震性が大きく異なるのは間違いです。

地震では複合的で予測できない揺れがある:

だから予想できない機器、建造物の破壊があり得るということなのですが、これは事実でしょう。新潟中越地震で柏崎刈羽原発で2千ガル以上という想像もできないような震度を記録したように、特定の部分に非常に大きな力がかかるのはあり得ることです。耐震基準は一定の合理性は持ってはいますが絶対はありません。壊れる時には壊れると考えて二重三重の安全対策を施すことが必要です。

逆に予想を越えた震度で壊れるはずのない被害が出たからといって、原発の安全性が完全崩壊したように言うのは間違いです。想定できない震度で機器が壊れても、それが炉心溶融にまっしぐらに進んでいくか、安全対策が有効に機能したかを検証することの方が重要です。

過去の全ての地震で原子炉の自動停止は正常に稼働しましたし、炉心溶融はおろか炉心溶融を防ぐ緊急炉心冷却水装置の稼働が必要になったこともありません。原発はかなりの耐震安全性を備えていると考えてよい十分な理由があると言えます。

炉心溶融は配管の末端で破壊があっても起こる:

可能性としては間違いではありません。原子炉は発生する熱を常に大量の水で冷却する必要があり、その量は大型の河川の流量にも匹敵します。もし冷却システムの配管に損傷があって冷却水が漏れだすと最悪の場合原子炉の温度が際限なく上昇し、遂には炉心溶融になります。

しかし、これは原子炉の停止も緊急炉心冷却装置も何も機能しなかった場合の話です。今まで些細な配管の破損が炉心溶融につながった例はありません。ここでも要点は配管システムの耐震性だけでなく、安全のための様々な対策がきちんと機能するかどうかということになります。

原子炉は放射線などの影響で材料が劣化し壊れやすくなる:

これは定性的には事実です。原子炉は内部は強力な中性子線で金属材料も劣化が進みます。また原子炉内部の300度の運転温度に長時間曝されることの影響もあります。さらに一次冷却水は高純度を維持していても、高温、高圧のため僅かの不純物が原子炉の劣化を進めます。

このような種々の要因で原子炉の耐久性はどの程度損なわれるかについて十分に定量的な知見は得られていません。定期的な保守作業を通じ劣化の進行度を評価することが必要です。

ただ、原子炉が劣化のため大地震ですぐに崩壊するほど痛めつけられているというのは誇張以外の何物でもありません。過去に何度も経験した地震で原子炉に大きなひびが入ったというような事故はなかったわけですから、劣化が危険なレベルまで進むにはある程度の時間が必要と考えられます。

原子炉の内部構造が壊れて停止できなくなる:

原子炉を停止するには、制御棒と呼ばれる中性子を吸収する素材を挿入する必要があります。制御棒は文字通り棒状で、内部の格子に挿入しますから地震で制御棒が入れられず停止作業がうまくできなくなることは考えられます。

今のところ地震での原子炉の自動停止はすべてうまく行われているので、頑丈な原子炉の内部が制御棒を挿入できなくなる程歪んでしまうことは滅多にないと考えれます。しかし、制御棒が地震後引き抜けなくなってしまったことは過去にもあり、「あり得ない」と言えるようなものではありません。

制御棒が有効に機能できず、緊急炉心冷却装置(ECCS)を使う場合も今後あるかもしれません。ECCSがうまくいかなければ、炉心溶融にまっしぐらですから、相当難しい事態です。完全な解決策はありませんが、原子炉をできるだけ頑丈に作ることと、ECCSの信頼性を高める努力が必要です。

地震ばかりを怖がらずに全体を見よう

東海地震は日本にとって大変な脅威です。政府の予測でも20-30万棟の家屋の破壊、焼失、数千人の死者が見込まれています。発生確率も向こう30年以内が90%程度と言われています。地震の総エネルギーが阪神大震災の100倍にもなると考えると、これでも楽観的過ぎるかもしれません。

しかし、こと原発に関して言えば地震は必ずしも最大の脅威ではありません。もちろん十分(完全はありませんが)な耐震設計、入念な安全対策は必要ですが、過去に地震が重要な事故につながったことはないというのも事実です。

原発は今までに4回の炉心溶融事故があり、その中の一つのチェルノブイリ事故では多数の死者が出ています。チェルノブイリの原発付近は今でも人が住むことができません。これらの炉心溶融は作業者の錯誤、無知、怠慢などが原因の根本にあり、作業員の訓練と教育が原発の安全性に非常に重要だということを示しています。

もちろん地震が重大事故のきっかけになることは考えられます。安全対策があれば大丈夫と言っているのは、ジェット旅客機で片方のエンジンが失われても何とかなると言っているのと同じで、破滅的な危険が存在しないわけではありません。

それに安全対策があるとは言っても、何度も地震があれば、一回くらいは安全対策をすり抜けて炉心溶融まで突き進んでしまう事態が起きる可能性が高くなります。最初に言ったように、原発の炉心溶融の危険を完全に除去することはできません。その意味で時間をかけて原発を再生可能エネルギーに置き換えていく努力は必要です。

それでも東海地震があるから浜岡原発を直ちに運転停止にしろという意見はバランスを欠いていると思います。浜岡原発に危険はありますが、それは他の原発と比べて格別高いとは思えません。

原発は危険で取り扱いは十分な注意が必要です。それでも重大事故を完全になくすことはできないでしょう。しかし、科学的な吟味を無視して浜岡原発あるいはすべての原発の運転停止を求めるのはよく言って性急、悪く言えば反理性的な態度だと思います。原発廃止は息の長い作業であるべきです。

原発を考える(1):原発に巨大魚という都市伝説
原発を考える(2): WWFが原発に反対するわけ
原発を考える(3): 原発はどこまで危険か
原発を考える(4):反原発論は間違いだらけだが原発も欠陥だらけ
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地球温暖化を考える(1): IPCCという官僚機構
クライメートゲート事件

2009年の11月、イギリスの名門大学のイースト・アングリア大学の気象研究所(CRU: Climatic Research Unit)のコンピューターシステムにハッカーが侵入し160MBにおよぶデータが盗まれました。データの中にはCRUのサーバーにある1,000以上(恐らくそれをはるかに上回る)電子メールが含まれていました。

誰がハッキングを行ったかは今もって不明なままですが、ハッカーはCRUの1996年以降の電子メールをインターネット上で公開しました。その中でCRUの気象学者たちが地球温暖化を証明するように都合よくデータを改竄している証拠と指摘されるものがありました。

焦点の一つになったのはホッケースティック曲線に関するものでした。ホッケースティック曲線とは過去1,000年に渡る地球の気温の変化を表したもので、産業革命以降、特に20世紀に入ってから地球の気温が急激に上昇していることを示しています。
hockeystick.jpg
ホッケースティック曲線(図中の矢印と説明は筆者による)

問題はホッケースティック曲線の作成者であるマイケル・マンとCRUのトップのフィル・ジョーンズとのメールのやり取りで、1960-70の気温低下を隠ぺいしそれ以降の気温上を大きく見せる工作を行ったたと読み取れる箇所があったことです。

もともとホッケースティック曲線には疑問が出されていました。近代に入ってからの気温上昇を殊更印象付けるために、過去の気温の変動を小さくなるように修正したのではないかというのです。特に中世の温暖期や近代の小氷河期と呼ばれる気温低下の温度変化を小さく見せているとの批判が多く寄せられました。

ホッケースティック曲線を作ったマンもデータの一部の出典に誤記があったことを認め、グラフの書き換を行っていました。今度は昔の話だけではなく、1960年以降のデータもいじっていたのではないかということですから、地球温暖化説に反対する「懐疑派」から、ここぞとばかりに批判が相次ぎました。

懐疑派の人達はCRUから流出したメールはありもしない地球温暖化を事実と見せかけようとする組織的な陰謀の証明だとして、事件をクライメートゲートと呼びました。これはニクソン大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件とクライメート(天候)をかけた造語です。

イースト・アングリア大学は研究機関として高い評価を得ていて、その中でCRUは気象学研究を行っています。CRUにはIPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change:気象変動に関する政府間パネル)へ気象分析データを提供している気象学研究者が何人もいます。地球温暖化に対する懐疑派から見ればCRUから流出したデーターはIPCCの活動そのもの、地球は温暖化していているという結論そのものがいい加減なものである証拠でした。

実際、公にされたメールにはCRUの研究者たちが地球温暖化に疑問を持つ懐疑派の人を侮蔑しているものもありました。地球温暖化阻止という正義に思いあがって、嘘をついたり事実を捻じ曲げるのを地球温暖化論者の学者は平気なのではないか。確かにそうとしか思えないやり取りもあったようです。

ヨーロッパでは騒ぎは地球温暖化は事実かどうかという判断をめぐって政府高官の立場を明らかにしなくければならなくなるほどになりました。しかし、「クライメートゲート」事件をきっかけに基本的なスタンスを変えたヨーロッパ首脳はいませんでした。

クライメートゲート事件は地球温暖化を支持する気象学者たちが、科学的とは言えないやり方で自分たちの主張を強化する場合があること、科学より正義感で気候の分析を行っていることがあることを示していました。

とは言うものの、クライメートゲートという事件そのものに価値観を持った呼び方をするのは欧米では主に懐疑派の人達で、懐疑派の立場を取らない人々は事件を「CRUメール論争」と呼んでいます。

それでも地球温暖化が明確で証明された科学的事実とは言えないということを事件は改めて一般の人に伝えたことは確かでしょう。地球は温暖化しておりそれは人類活動によるものだという主張に賛成しない人は少なくなく、アメリカでは今や温暖化派と懐疑派の割合は半々になったとも言われてます。

一方クライメートゲートという名前は、いくら地球温暖化懐疑派のネーミングとは言っても、大袈裟で悪意があるものです。懐疑派の人々には。地球温暖化が環境左派あるいは原子力発電推進派など特定の信条、利益を持つ人たちが捏造したある種の陰謀だと考える向きが多く、流出したメールはまさに陰謀の証拠に他ならないとしたことが、このような呼び方をした背景にあります。

データの改竄(ホッケースティック曲線を描いたマンは「見やすくするための修正だった」と主張していますが)は科学者としてあるまじきことですし、科学的意見を異にしている人を悪しざまに言うことは褒められた態度ではありません。

しかし、問題があったメールは全体のごく一部に過ぎません。CRUの活動全体が地球温暖化という虚構をでっちあげるために行われていると言うのは無理があります。各国の首脳がクライメートゲート事件で地球温暖化に対する認識を変えなかったことは、「決めたことは変えない」という官僚主義のためというより、大きく意見を変えるほどのインパクトはメールの内容全体としてはなかったと判断すべきでしょう。

IPCCは地球温暖化の証明のために作られた

CRUのメール流出事件で判明した研究者のデーター改竄の疑いや、地球温暖化懐疑派に対する感情的な敵意は、組織的なものではなく個人的なものと考えたとしても、地球温暖化を肯定する側が構造的に温暖化に反する現象を無視しようとする可能性はないわけではありません。

その可能性がぬぐいきれないのはIPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change:気象変動に関する政府間パネル)という地球温暖化の危険を訴えている組織そのものです。IPCCは国連の下部機関として、「人間活動による気候変動の危険性の評価」のために1988年に創設されました。

IPCCは「最新の科学技術、社会経済の情報を評価する(review and assess)することで、気象変動と人間社会に与える影響の可能性の明確な見方を世界に提供する」という目的を持っています。

Review and assessという言葉が示す通り、IPCC自身は実際の研究活動は行いません。世界130カ国の2,500人におよぶ気象学者、経済学者などの協力を得ながら、気象変動にかかわる情報収集と分析をしているのです。

IPCCは分析の結果をIPCC評価報告書としてまとめて公開しています。評価報告書は1990年、1995年、2001、2007年の4次に渡って出されており、次回第5次評価報告書は2014年に発刊される予定です。

IPCCの評価報告書は大変高い権威を持っています。地球温暖化が人間活動によるもので、破滅的な事態を避けるために各国は努力すべきだという政府レベルの共通認識(温暖化ガスの削減率や削減法などで合意はなくても、この点に否定的な政府はありません)は基本的にIPCC の評価報告書が裏付けになっています。

IPCCは、地球温暖化に科学的裏付けを与えたとして、2007年アメリカのアル・ゴアとともにノーベル平和賞を受賞しました。IPCCの活動がなければ、地球温暖化阻止が一つのまとまった動きになることはなかっただろうと考えると、地球温暖化を信じる人々から見れば受賞は当然とも言えます。

しかし、科学的裏付けを積み上げるのが本来の目的であるIPCCが、政治的、行政的な活動に対し主として与えられるノーベル平和賞を受賞したことで、IPCCは科学的と言うより政治的な組織であるということが改めて明確になったことは確かです。

むしろIPCCは地球温暖化を証明し地球温暖化論に権威を与えるために作られたと言えるでしょう。地球温暖化に関しては否定、肯定の見解が入り混じっています。どこか権威のあるところが地球は人類活動により温暖化しつつあると断言してくれなければ犠牲を伴う国際協力の合意はとてもできません。

IPCCが純粋に科学的な事実を追及する機関でないことは、そのアセスメントのプロセスをが多くの情報を集めて分析するということからできていることでもわかります。*論文を集めて分析するのは科学研究ではありません。このようなやり方を地球が温暖化しつつあるという答えを暗黙的にしろ期待されている中で行えば、結論は非常に偏向したものになる危険があります。

CRUのメール流出で明らかになった懐疑派への侮蔑的表現も、IPCCとIPCCに協力する科学者たちのコミュニティー全体が地球温暖化肯定に向いているという流れの中では、出るべくして出た本音だと言えるでしょう。

IPCCの手法は高速道路や空港の建設が投資効果に見合うかどうか検討するための調査とよく似ています。高速道路建設や空港建設を正当化するように都合のよいデーターは採用し「不都合な」データーや考え方は極力無視をしたり、ニュアンスを変えて使用するのです。

地球温暖化が人類活動による温室ガスの発生によって生じそのために人類は甚大な被害を受けるという事実を受け入れると、対策には巨額の費用がかかります。先進国と新興国の対立も深まる可能性がありますし、対策の中には本当に環境によいか疑問のあるもの(典型的には原発の推進)もあります。IPCCが官僚機構として構造的に地球温暖化と人類活動の因果関係を肯定し、なおかつ温度上昇の被害を大きく推定するモチベーションがあることは注意する必要があるでしょう。

付記:IPCCの評価報告書が地球温暖化の傾向を必要以上に強調したり、温暖化による被害を過大に見積もっているという批判は数多くあります。一方IPCCの評価報告書が地球温暖化をむしろ過小評価していると言われることもあります。全体として、IPCCがもっともラジカルな地球温暖化論者ではないとしても、バイアスのかかる危険生は認識すべきでしょう。


*この点に関しては「科学は多数決?」という記事で、養老猛氏の地球温暖化論に対するクレームをあげて、科学的事実はすべて仮説であり、事実という了解は一種の多数決的な合意事項なのだという意味の反論を書いたのですが、IPCCが手法が「科学的手法」とは違うという点では修正が必要です。
張作霖暗殺とヴェノナ文書
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NSA本部

2年ほど前になりますが「櫻井よしこ 反中論の論理と非論理」というブログ記事を書きました。その中で、櫻井よしこ氏*が満州事変のきっかけとなった張作霖の暗殺がKGBの陰謀だったとしているのを「一般には当時の関東軍参謀河本大佐が犯人とされています。河本大佐は犯行後、首謀者と認定され処分も行われています。KGB陰謀説は奇説と言って良いでしょう」と述べているのですが、野口氏という方からコメントをいただきました。

コメントでは「この「一般には」が問題でしょう。」として、「米国で開示されたいわゆるVenona文書を冷静に読めば、櫻井さんの主張は正当だと思える筈です」とあり、Venona文書(以下ヴェノナ文書)で一般的な歴史認識は覆えるとの認識を示されていました。

ヴェノナとは1943年から1980年までアメリカ、イギリスの諜報組織がソ連の暗号文書を解読するプロジェクトに名づけられた名前で、ヴェノナ文書はその中で明らかにされたソ連の諜報文書です。ヴェノナプロジェクトの中心となったのはNSA(National Security Agency:アメリカ国家安全保障局)です。

ヴェノナ文書は、中西輝政氏、田母神俊雄氏そして多分(確認できなかったのですが)櫻井よしこ氏などの右派論客の多くが日本の第2次世界大戦とそこにいたる一連の行動が、ソ連の巧みな謀略に踊らされた根拠としており、張作霖暗殺KGB説もそこから来ているようです。

ソ連の暗号解読を行って、その裏をかくという目的のためヴェノナプロジェクトは高度の秘密とされていましたが、1995年から公開が始まり現在は約3千の文書がヴェノナ文書とされています。

もっともソ連の裏をかくという目的は、イギリスの諜報部員キム・フィルビーがソ連に内通したため、ソ連はヴェノナプロジェクトのことは早い段階から把握しており大きな成果は上げられなかったようです。

余談ですが、キム・フィルビーはその後イギリス諜報機関の総本山MI6の何と長官に出世してしまいます。ソ連は早くから掴んだ暗号が解読されているという情報をキム・フィルビーを出世させるためにあえて利用しなかったこともあるようです。

キム・フィルビーが二重スパイであったことは、ソ連から亡命したスパイの証言で明らかにされ、1963年キム・フィルビーはソ連に亡命します。その後ソ連はキム・フィルビーの顔の切手まで作ってキム・フィルビーの功績をたたえました。

余談が長くなりましたが、ヴェノナ文書の大きな衝撃はアメリカ政府、イギリス政府の内部に深くソ連の諜報部員が潜入し、機密情報を得るだけでなく、政府の意思決定に影響を与える数多くの工作活動をしていることが判明したことでした。

ヴェノナ文書が明らかにした諜報活動の中で重要なものの一つに、原爆製造の機密情報をソ連に流したローゼンバーグ夫妻のスパイ活動があります。1950年、夫妻は逮捕され死刑判決を受け。1953年に執行されます。

当時はヴェノナ文書は最高機密であり、明らかにされた証拠は他のスパイの自白だけだったため、ローゼンバーグ夫妻については反ユダヤ主義(夫妻はドイツ系ユダヤ人だった)、反共主義による冤罪ではないかとの抗議が強くありました。

ヴェノナ文書が明らかになったことで1950年代を吹き荒れた「赤狩り」いわゆるマッカーシズムを再評価しようという動きも出てきました。日本でも中西輝政氏などは「マッカーシーは正しかった」という評論を書いています。

しかし、マッカーシズムに関して言えば、やはり反共ヒステリーによる非民主主義的な弾圧活動だったと考えるべきでしょう。マッカーシズムと言われているように赤狩りを扇動したのは、共和党のジョセフ・レイモンド・マッカーシー上院議員ですが、マッカーシー議員はヴェノナ文書にアクセスしていたことはありません(伝聞的に共産主義の浸透の話は聞かされていたかもしれませんが)。

実際、マッカーシー議員は提出した「共産主義者のリスト」なるものはヴェノナ文書とは無縁の偽証や歪曲に基づくものでした。マッカーシズムは反共主義を政治的プロパガンダとして利用しようとした、な思想統制でした。

政府部内に浸透して諜報活動、工作活動が行われていたというのが明らかにされるのは相当ショッキングなことであるのは事実です。しかし、諜報活動や工作活動があったことと、それによって全ての政策決定が外部によって操られていたというのは別の問題です。

中には原爆製造の方法の入手のような決定的に情報漏洩もありますが、多くの諜報情報は膨大な量の報告文書の中に埋もれてしまい上層部の耳に届きません。工作活動にいたっては、戦後のアメリカの工作活動はほとんど失敗だったとされるように(CIAの虚像と実像)、目的とされる結果を得るのは簡単ではありません。

ヴェノナ文書は3千以上という数になりますが、これはソ連の機密通信文の中で暗号を使い捨てにしなかったなどのミスにより、たまたま解読できたものだけで、実際にはその何百倍、何千倍とうい機密文書がまったく手つかずで放置されています。ヴェノナ文書が明らかにしている事実は全体のごく一部に過ぎません。

また、諜報員から送られる文書の全てが真実とも限りません。諜報員の中には自分の手柄を誇示するために、やってもいない活動を「自分が仕掛けた」と偽ることもあります。ヴェノナ文書にしても内容は他の証拠と合わせた検証が必要になります。

さて、話の始めとなっている張作霖暗殺のKGBの関与ですが、正直を言うと、当該事件に関するヴェノナ文書に行き当たることはできませんでした。これは公開されているヴェノナ文書が元の文書の画面イメージに手書きで書き込みをしているような代物で、検索機能で何でも見つけられるというわけにはいかないからです(興味のある方は)。

仕方がないので、ヴェノナ文書の中で張作霖暗殺に言及したユン・チアン著「マオ 誰も知らなかった毛沢東」から引用すると「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロッキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという。(同書 (上) P301)」となっています(ブログ記事などを参照)。

これだけでは、右派論客の人達が言うような河本大佐首謀説をひっくり返すのにはいかにも根拠薄弱です。これは私がサボって一次資料のヴェノナ文書にあたらなかったからばかりではありません。日本の張作霖暗殺KGB説を唱えている人たちの根拠がほとんど、前述の著作になっているのです。

張作霖暗殺は河本大佐自身が自供しているのですが、論者によっては河本大佐KGBスパイ説を展開し、「河本大佐があのように簡単に自白を行ったのはKGBの関与を隠すために違いない」とまで言っています。この辺になると、張作霖暗殺は関東軍にも日本にも利益はなかったなど、かなり原著の記述不足を補うための断定が相次ぎます。

このような推定が間違いだと絶対的に証明することは難しいのですが、「マオ」の僅かな記述(毛沢東のことを書いた本ですから当たり前ですが)を精いっぱい膨らませても、定説を覆すにはいたらないと考えるのが妥当でしょう。

確かに歴史が新しい発見、事実により大きく見方を変えることはあります。個人の性癖のことであれば「XXはホモだというkとが判明したので、YYと恋愛関係にあったという従来の説は間違い」というここともあるでしょう。しかし、国家の意思決定、、歴史の大きな流れが諜報活動、工作活動で決定的に変えられるというのはほとんどないことです。

たとえば、ヴェノナ文書から日本に最後通牒を突きつけたハルノートはアメリカ政府に潜入したソ連のスパイの陰謀で、アメリカと日本はソ連によって戦争させられたという論を唱える人もいます。

しかし、アメリカ政府の意思決定がスパイの思う通り行われるというのは誇張以外の何物でもありません。日米開戦は双方が引くに引けなくなった状況と、おそらくルーズベルト大統領が簡単に片づけられると思った日本と戦争したいという背景があったのでしょう。

ヴェノナ文書は確かに多くの新しい情報をもたらし歴史を評価する上で大きな役割を果たしていくでしょう。しかし、それだけを頼りに定説を覆そうとするのはあまり理性的なやり方とは思えません。


*従来当ブログでは有名人は敬称を略すことにしていましたが、「呼び捨て」が別の攻撃的意味合いを持つこともあり、敬称を付けることに変えました。スポーツ選手などは「氏」付きより呼び捨てが普通ではないかなど、若干ややこしいとこともありますが、「選手」を付けるなど臨機応変に対応するつもりです。

山崎直子さんの遺書
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山崎直子さん

スペースシャトルは危険な乗物?

もはや旧聞になりつつありますが、日本人飛行士として最後のスペースシャトル乗り組み員となった山崎直子さんが、遺書を残して飛び立ったという記事がありました(週刊文春2010・6・13号)。

遺書の中身は個人的なことですから詮索のしようもありませんが、スペースシャトルというのは乗り組むのに遺書を残すほど危険なものなのでしょうか。

結論から言えば、スペースシャトルは相当危険な乗り物です。一見旅客機のようなイメージとは裏腹に、確率的には命知らずだけが乗り込むことができるほど危険と言えます。

スペースシャトルは5機が就航し、初飛行以来131回の飛行をおこなっていますが、そのうちの2機、コロンビア号とディスカバリー号が墜落し現在は3機だけが残っています。約50回に1回の墜落事故を起こしているわけです。

これでは、スペースシャトルに乗り込むのは、冬のヒマラヤ登山よりよほど命を危険にさらす行為ということになります。ところが、スペースシャトルが登場した時は10万回に1回程度しか事故を起こさないという触れ込みでした。これは毎日スペースシャトルが飛行を行っても300年に1度しか致命的な事故は起きないという確率です。

しかし、コロンビア号による初飛行が行われた1981年の5年後、1986年1月28日のチャレンジャー号が発射後に爆発してしまったことで、10万回に1回という事故確率は単なる宣伝文句か思い込みに過ぎないということが明らかにされてしまいました。なぜこんなことになってしまったのでしょうか。

ファインマン
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リチャード・ファインマン


チャンレンジャー号の事故を受け、レーガン大統領は元司法長官のウィリアム・ロジャースを委員長とするロジャース調査委員会を事故原因の分析のために組織しました。選ばれた委員の中には航空技術者や元宇宙飛行士やなどの他に、ノーベル物理学賞を受賞した高名な物理学者のリチャード・ファインマンがいました。

ファインマンは有名なだけのお飾りのメンバーではありませんでした。理論物理学者としてニュートン、アイシュタインと並べられるほどの大物のファインマンでしたが、軽妙な随筆を沢山書き、難解な理論を初心者、素人に判りやすく説明した一般向け科学書や教科書の執筆でも高い評価を得ていました。ファインマンはスペースシャトルの信頼性を分析するため、シャトルの開発方法や構造について、現場のエンジニアに直接ヒアリングを行ういながら自分自身で一歩一歩理解を進めていきました。

このようなファインマンの姿勢は政府に任命された委員会全体から見れば、必ずしも好ましいものではありませんでした*。実際、ロジャース委員長は「ファインマンは本当に頭痛の種だ」とファインマンの調査態度に不平を洩らしています。

ともあれ委員会は、事故の直接の原因はOリングと呼ばれるちっぽけなゴム製の密封用の部品が寒さで硬化して燃料漏れを起こしたためだと結論付けます。このことをファインマンはテレビで氷で冷やしたOリングを金槌で割って見せるという劇的な実験で説明しました。

ロジャース委員会は調査結果を報告書にまとめあげます。報告書は政府から求められた事故原因の究明と対策の勧告という意味では、委員会の責務を果たしたものだったと言えます。事故原因についての技術的な分析は的確で、スペースシャトルプロジェクトの運営体制に対してもきちんと言及されていました。

しかし、報告書は事故の背景にあるNASAやスペースシャトル自身の本質的な問題を十分には明らかにしていませんでした。何より10万回に1回しか事故が起きないとされたスペースシャトルが、なぜあっさり致命的な事故を起こしてしまったのか、近い将来事故はまた起きてしまうのか、それとも可能性はほとんどないのかという、本当に問いただすべき問題には答えてはいませんでした。

報告書がある意味官僚組織としての枠組みを守ったものであったのに、ファインマンはより根本的な問題に深く切り込もうとしました。ファインマンの問題分析の結果は報告書の付録、Appendix Fで「シャトルの信頼性についての個人的な見解(Personal observations on the reliability of the Shuttle)として述べられることになりました。

ファインマンは10万回に1回などという事故発生確率は膨大な発射実験を行わない限り確認できるものではないし、もしそれほど信頼性が高ければ何のトラブルも起きないテストが続いたはずだと指摘します。実際には、墜落事故は起きなかったものの、大小のトラブルはテスト中に発生します。にもかからわらず、NASAは10万回に1回という墜落事故尾の可能性を主張し続け、それは「ファンタジー」とも言ってよいものでした。

結局スペースシャトルの信頼性は、「技術」ではなく「政治」によって語られるようになったのです。そして、そのような姿勢はフライトの是非を決めるFight Readiness Reviewの基準をどんどん甘くするという方向に向かいます。結果は政治的な幻想とは裏腹に悲惨な事故へとつながってしまいました。

固体燃料ロケットの事故履歴などから、ファインマンはスペースシャトルの信頼性をNASAの技術コンサルタントの分析した50回から100回に1度の事故がかなり妥当な予測だろう判断します。これは少なくともスペースシャトルの開発当初では「政治的」に受け入れがたい数字だったのでしょう。

ファインマンはスペースシャトルの開発テストの方法が個別の部品の徹底的なテストを積み重ねて全体のテストを行う「ボトムアップ型」ではなく、エンジンあるいは本体などの全体のテストを中心とする「トップダウン型」であったことも問題としています。

トップダウン型の開発ではある部品の破損がテストで発生しても、それが個別部品の信頼性に起因するものなのか他の部品や環境の問題なのか簡単には判断できません。つまりテストを重ねても信頼性はなかなか向上しないことになります。

ファインマンの懸念は当たりました。チャンレジャーの事故から17年後、今度はコロンビア号が大気圏突入時に燃料タンクの被膜の一部が剥離して翼に穴をあけたことが原因となって爆発してしまったのです。チャンレンジャー号の事故の後、スペースシャトルの信頼性向上に多くの努力が行われましたが事故を防ぐことはできませんでした。

ロジャース委員会がファインマンの「個人的見解」を本文に含めなかったのは、本質的な改良をスペースシャトルに求めることで、スペースシャトルのプロジェクトの停止に追い込むことを避けようとしたからだと思われます。

それでも「付録」とはいえ報告書の一部にファインマンの分析を入れたことは、委員会が次の事故が発生した時のある種のアリバイ作りをしたかったからかもしれません。チャレンジャー号の事故の後も事故の起こる可能性はあり、実際事故は起きました。そしてコロンビア号の事故が最後の事故になるという保証もありません。50回から100回に1回という事故確率はそれほど劇的に改善したとは思えないからです。

スペースシャトルに乗り込むということ

一般にはそれほど知られていないファインマンの分析は、後に単にAppendix Fと呼ばれるほど関係者の間では有名になりました。山崎直子さんもその存在は知っていたでしょうし、読んでいた可能性も十分にあります。

山崎さんは東大で航空宇宙工学の修士号を取った技術者です。他の宇宙飛行士もほとんどが技術系の専門家で、かれらにとってファインマンのAppendix Fが明快かつ冷静にスペースシャトルの危険性を指摘していることは容易に理解できるはずです。

Appendix Fが正しければスペースシャトルの事故の確率は少なくとも100回に1回、1%はあることになります。スペースシャトルの乗組員になるということは1%の死の可能性を受け入れるということです。

1%の死の確率を受け入れることができるかどうかは、その人や状況によって違ってくるでしょう。しかし、1%はそのために遺言状を書くのに十分なほど高い確率だと言えるでしょう。楽しげにスペースシャトルから笑いかける山崎さんもその家族も、尋常とはいえない覚悟を持っていたことは間違いありません。

* ファインマンの物事に囚われず型破りな行動と、理論物理学者でありながら何にでも好奇心を持つ独特のキャラクターを知らないと、ロジャース委員長の困惑ぶりがわかりにくいかもしれません。興味がある方は:
ファインマンさん最後の授業
ご冗談でしょうファインマンさん
などをご参考にしてください。

ギリシャの危機は他山の石なのか
ギリシャ神殿

EUではPIGS(ポルトガル、イタリア、ギリシャ、スペイン)それにアイルランドを加えてPIIGSの経済危機の問題が取り沙汰されています。中でもギリシャは政府が赤字の穴埋めに借金をしようとしても、思うように資金が得られず、ほっておくと国が破産しかねないところまで追い込まれていると言われています。

ギリシャが借金をしようとしても借金ができない。つまり国債が売れなくなってしまっている状況を日本の900兆円にも積みあがった国債残高に重ね合わせて、「他人ごとではない」と心配する論調も目立ってきました。これに対し亀井金融大臣は「国民が国債を買っている日本とギリシャは全然違う」と反論し、「ギリシャを反面教師として政府の対応が大切なことを学ぶべきだ」と語っています。

日本の国債残高がGDPの2倍近くにもなってしまっているのは、世界的に見ても異常なことですし、積みあがった山がいつ崩れるか心配するのは常識人としては当然でしょう。しかし、日本とギリシャを政府債務に苦しんでいるという意味で同一視するのは間違いです。

ノーベル賞経済学者のポール・クルーグマンも指摘しているように、ギリシャはリーマンショックが起きる前は、資本の流入も活発でしたし、輸出も好調でした。問題が起きたのは不況で資本の流入どころか流出が起きてしまったからです。

GDPは個人消費+政府支出+設備投資+輸出です。輸出が減れば他の費目、たとえば政府支出を増やさなければ、GDP、つまり経済は縮小します。余談ですが、慢性的な輸出黒字国の日本はリーマンショックで輸出が大幅に減り、大打撃を受けましたが、万年赤字国のアメリカは輸入が減って、その分経済の縮小は小さくて済みました。日ごろから浪費している方が、いざ節約となると節約余地が大きいということになるのでしょうか。

さて、ギリシャですが、資金の流入が減っても為替レートが安くなれば輸出を増加させることができます。韓国はリーマンショック後一時ウォンが円の半分程度まで減価しました。お陰で日本から大量の観光客が訪れ、世界市場では日本製品に有利な戦いを行うことができました。日本より韓国が素早く不況から立ち直れたのは、円高が進んだ日本に対し、ウォン安の効果が大きかったと思われます。

ところが、ユーロ圏にあるギリシャは為替の調整はできません。為替が変わらなくても賃金を大幅に下げてしまえば同様の効果がありますが、賃金は大変下方硬直性、つまり下げるのが容易でないという性質があります。これは人間には「貨幣錯覚」というものがあり、実際の購買力より名目の金額にこだわるからだと言われています。

ともあれ、大幅とは言わないまでも何とか賃金を下げようとする企業側の努力は左翼の強いギリシャでは社会不安につながる危険性があり、実際そのようになっているようです。社会不安が起きれば資本はますます流入しにくくなります。

輸出を増やす為替調整はできない、無理に賃金を下げると社会不安が起き、ますます資本流入が滞るとなると、経済の崩壊を防ぐには政府が支出を増やすしかありません。しかし、外資の流入が細っていて国債を売るさばくことが難しい。しょうがないのでEUの経済大国のドイツなどの支援が必要というのがギリシャの危機です。

確かに国債が売れるの売れないのという意味では、将来(明日にでも!?)日本の国債を突如国民自身も含め誰も買わなくなることはあるかもしれません(そうならないようにしようというのが亀井金融相の魂胆でもあるでしょう)。しかし、ギリシャでは国債が売れないのは為替調整ができないという問題の結果であり、危機の原因そのものではありません。

今(2010年5月7日)ユーロが暴落し、それと一緒にニューヨークも東京も株式市場が大きく下げています。問題の本質はユーロという単一の通貨圏の下で、経済発展の大きく異なる国が経済運営を行い続けることができるかどうかということです。

財政を切り詰め賃金を下げれば、経済危機に対応できるのかもしれませんが、それではギリシャのように経済危機だけでなく政治危機も招いてしまう危険があります。拡大の一途を続けたEUという壮大な実験は大きな試練に立たされています。日本の赤字財政と直接の類似性はありません。ギリシャを見て日本が心配する必要もありませんし、亀井金融相のように日本の強さを自慢するのも見当違いと言うべきでしょう。