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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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なぜ東京には原発を作らないのか
TokyoGenpatsu.jpg

東京に原発を作ったらという提言があります。元々は広瀬隆氏の「東京に原発を」という著作で出てきた考えなのですが、これを主張する人はほとんど全て原発に反対する立場です。

それならなぜ東京を原発を作ったらなどと言うかというと、次のような理屈があります。
(1) 原発が絶対に安全なら、東京のそばに作ればよい。そうすれば送電設備や送電ロスが大幅に節減できる
(2) もし原発が危険だから東京の近くに作れないと言うなら、原発が建設される地方の人の命は東京の安全のために犠牲になってよいのか。これは差別そのものではないか

一理あるようにも思えますが、反原発派の人が「東京に原発を作ればいい」と言う時には、「原発は絶対安全みたいな嘘っぱちを言っているが、いざ東京に原発を作ることになると、なんだかんだ言って作らない。それは結局原発が危険だということを白状していることだ」という思いが底にあります。

東京に原発作ったら論(以下、東京原発論)のおかしいのは、それを主張している(というかディベートでの逆説的ロジックとして使っている)人達に、「あなたは東京と地方のどちらに原発を作るべきだと思いますか」と聞いても、恐らく「私は反原発論者なのでどちらも反対です」と答えるだろうということです。

あるいは「原発が絶対に安全だと言うならどちらでも構いません。むしろ送電コストの安い需要地近くに原発は作るべきです」と言うかもしれません。「絶対安全」なものなどありませんから、これも原発はどこにも作らせないと言っているのと同じです。

つまり東京原発論は原発建設阻止のための単なるレトリックに過ぎず、質問などではないということです。質問でなければ答えても仕方ないのですが、東京原発論を思考実験として考えるのは無意味でもないでしょう。少なくとも送電コストが下がるのは嘘ではありません。

まず、本当に東京周辺、たとえば羽田空港跡地とか、木更津の工場地帯あたりに作るとします。そうすると現実には大変な反対運動が起きるでしょう。原発は普通過疎地に作るので、原発建設に伴う地域振興策や、原発による様々な税収、雇用機会の増大が原発い推進の力になりますが、そのようなものは東京周辺では全く役には立ちません。

要は実際に東京周辺に原発を作ろうとすると反対運動で身動きが取れなくなることは確実です。反原発派には「そのような原発反対をきちんと説得できないのは原発が危険だからだ」ということになるでしょうが、どんなに説得しても反対論がなくなることはあり得ません。中国電力が計画している上関原発などは10年以上激しい反対が続いています。できないものはできないのです。

しかし、このことばかり言っていると、原発には反対だから東京であろうと地方であろうと原発建設はダメと言っているのと同じことになってしまいます。そこで、実際とは違いますが反対運動の強さについては東京と地方は変わらないと仮定してみましょう。東京にもいざとなれば原発は作れないこともないという仮定です。

原発は大事故があれば広範囲に甚大な被害をもたらします。しかし実際には、原発が実用化されて50年以上たち現在世界に500基の原発がありますが、原発外部に多大な被害が及ぶような事故は1986年に旧ソ連のチェルノブイリ原発で起きたものだけです。

チェルノブイリの原発は黒鉛を使って中性子の減速を行うソ連独特の方式で、それが大量の放射能を帯びた黒鉛を大気中にばら撒いて被害を拡大したということがあり、また原発の構造や運用管理体制が日本と比べれば劣っていて日本で同様の事故は起きないだろうという指摘はありますが、それを割り引いても被害の大きさは衝撃的なものです。

チェルノブイリ原発での事故直後に周辺住民の死亡はありませんでしたが(消火作業にあたった消防士、兵士には数十名の死者が出た)、その後の放射能の影響による癌、白血病などの発生で死者は最終的には数千名から数万人およぶとも推定されています。

チェルノブイリのような大惨事が起きる確率は一つの原発では2万年に1度程度と計算されています。これはPSA (Probability Safety Analysis)という分析手法で予測したもので、日本の原発に対しては、さらに小さな数字が得られています。

2万年に一度という事故の確率は、他の事故、飛行機や自動車事故と比べればかなり小さいと考えられます。数字の上では原発周辺に住むことは特別に危険ということはありません。それより都会に住んで、隣の家の火事やガス爆発に会う確率の方がよほど高いでしょう。それに、仮にチェルノブイリ級の事故が発生しても、原爆が落ちたように一帯が根こそぎ皆殺しになるようなことはありません。ほとんどの人は生き延びることができます。

しかし、住民の命は大丈夫でもその原発周辺の地域は住むことに全く適さななくなる可能性があります。原発が東京にあれば東京は失われることになります。しかし、原発が人口や都市密度の低い地域にあれば、大事故があっても被害を小さくすることができます。

これは地方の住民を差別していると言えるのでしょうか。そうではないと思います。飛行機は墜落することがありますがアメリカ大統領も飛行機に乗ります。墜落の可能性は十分に小さいからです。しかし、正副大統領が同じ飛行機に乗ることはありません。墜落の被害がずっと大きくなるからです。

原発が実用的であると言えるのは事故の危険性が十分に小さいからです。東京原発論が誤りなのはわざわざ原発事故の被害を大きくすることになるからです。想定被害を小さくすることは差別とは無関係です。

この論理は原発が新たに建設される地域の住民にとって十分に納得できるものではないかもしれません。なんだかだ言っても結局は過疎で財政の逼迫している地方を札束で頬っぺたを引っぱたいて危険を背負わせているだけだと感じるかもしれません。2万年に1度と言ってもそれは来年かもしれないし、住民のほとんどは助かっても自分は死ぬかもしれません。

そのような不満、不安に十分に答えることは難しいでしょう。飛行機なら乗らずに済むかもしれませんが、原発ができてしまえば原発事故の危険が生じるのは間違いありません。しかし、東京原発論は奇妙なレトリックで原発絶対反対を言い変えているのに過ぎません。原発の即時全廃ができないのなら、そのような議論は意味がないのです。

遠隔地に作られる原発は、地方の人間の命を東京の人間の命より軽んじ、地方を東京のための犠牲にしているといった飛躍した論理にいたっては、ほとんど言いがかりの域に達していると思います。5階建てのマンションを木造で作ることを認めないが、2階建ての個人用住宅は許されるのを、個人住宅の住民を差別していると言うのでしょうか。被害を最小化しようというのは差別とは無関係です。

東京原発論は、原発の立地のような重大で困難な問題をすり替えて、ただ茶化しているだけです。原発に反対することは色々な理由があるかもしれませんが、問題をすり替えてみても解決はできません。問題は正面から解くしかないのです。
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尖閣列島問題: その不愉快な選択肢
この記事を書いたすぐ後、中国政府は中国人船長の釈放措置にもかかわらず、日本に補償と謝罪を要求してきました。民主党首脳はショックを受けているようですが、記事にあるような相手方の意図を推し量るという基本で十分な力量がないようです。今後が心配です。

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尖閣列島海域で日本の巡視艇と衝突した中国漁船

尖閣列島を巡って日中が対立しています。尖閣列島の領有権を主張する中国漁船が巡視船に衝突し、巡視船は船長以下漁船を拿捕。その後漁船と船員は帰国させたものの、船長は日本の国内法で訴追されるため取り調べを受け、中国政府が船長の釈放を求めて抗議するとともに、様々な対抗措置を打ち出しました。その結果(とは言っていませんが)沖縄地検は中国人船長の釈放を決定しました。


尖閣列島は10年におよぶ領有権調査の結果、日清戦争中の1845年に日本が領有権を宣言し、国際的にも認められ今に至っています。その間、尖閣列島が沖縄の一部であったことから沖縄の施政権が日本に返還されるまで、アメリカの管理に置かれていました。現在は沖縄県石垣市に属しています。

ところが、国連が1969年から1970年に行った海洋調査の結果、イラク埋蔵量にも匹敵する1千億バーレル以上の石油資源があることが判ると、台湾、中国がそれぞれ尖閣列島の領有権を主張し始めます。

尖閣列島は今では無人島ですが日本人が入植していた時期もあり、日本が実効的な支配をしています。この点、同じ領土問題でも竹島が韓国、北方領土がロシアが実効支配をしているのとは全く異なります。実行支配している日本国の領土をよこせと言われるのは、東京は自分の領土だからよこせと言われているのと同じです。

多くの日本人にとっては腹立たしい中国の対応なのですが、外交問題を考えるとき先ずしなければならないのは相手方の意図を推し量ることです。中国はどのような理由で中国人船長の逮捕を厳しく非難し、次から次へと対抗処置を繰り出してきたのか、当面の目的、目標は何なのか、長期的にはどのような戦略を持っているかの仮定を立てることが必要です。

報道の中には今回事件を狂信的愛国主義者の暴走で、加熱する世論が日本から中国政府に批判の矛先を向けるのを恐れて、中国も適切な落とし所を考えている、といった推測をする向きもありました。そのようなことがある程度はあるかもしれませんが、それはあまりに希望的観測というものでしょう。

中国は共産党の一党独裁の国です。全体主義の国と言っても良いでしょう。そのような独裁体制自身が、一種の脆弱さにはなりますが、内閣支持率を毎週集計して20%を下回ったら危険水域だとかいう国ではありません。

まして、日本が実効支配する水域に漁船を繰り出して領有権を主張するような政治行動を大っぴらにできる国ではありません。漁船の取った行動は中国政府の暗黙の了解、ないし積極的な指示があったと考える方が自然です。

それではなぜ中政府はそのような過激な行動を漁船に取らせたのでしょうか。それは船長逮捕後の中国政府の度重なる日本批判の内容を見れば明らかです。中国は尖閣列島の日本の実効支配を覆そうとしているのです。

これを妄想と考える人は、「冷静に話合いましょう」と言って冷静に日本と中国が話し合えば問題が解決すると考えるのでしょうか。冷静に話し合うと「はいわかりました、尖閣列島は日本の領土なのでこれからは中国漁民が領海を犯さないようにこちらも十分注意するので、とりあえず今回は穏便に」とでも中国が言うとでも思ったのでしょうか。それでは中国側が得るものは何もありません。

それでは中国が尖閣列島の日本の実効支配を覆そうと企てているとするとこれからどうするのでしょうか。可能性としては漁船を何度も送り込み、そのうち中国漁船の保護という名目で海軍が尖閣列島の海域に進出するというシナリオが考えられます。

そんなことは可能なのでしょうか。この点に関して元航空自衛隊幕僚長の田母神氏はブログ「尖閣諸島における中国漁船の体当たり」の中で、

20年前の冷戦崩壊時我が国自衛隊の海軍力、空軍力は、中国のそれを圧倒していた。中国に対し「やれるんだったらやってみろ」という態勢が出来ていた。しかし、中国が大幅な軍拡を続け、一方で我が国は軍縮を続けた結果、20年前の状況はひっくり返り、今では中国の軍事力が我が国を圧倒するようになってしまった

と言っています。

田母神氏は一般的には右派に分類される言動を繰り返していますし、日中戦争の認識など歴史を正しく認識しているとは思えないような発言も目立つのですが、軍事専門家としての意見は耳を傾けるべきものがあります。

もし海上自衛隊の力が中国海軍を圧倒していれば、中国は積極的な行動に出ることはありえないでしょう。勢い込んであっさり自衛隊に追い払われれば中国の威信は丸つぶれです。中国のような軍事力を重視する国ではそれは耐えがたいことです。

しかし、今や中国の国防費は名目でも日本の防衛予算を大きく上回っています。実質ベースでは数倍に達するでしょう。軍事衝突が起これば日本側が追い払われてしまう可能性は高いのです。しかも、日本の同盟国であるアメリカとの関係は良好とは言えません。普天間基地移設、思いやり予算などを巡り、日本とアメリカの対立は深くなってきています。

さらに経済的には日本が中国の経済制裁を行うどころか、日本が中国に依存しえいるのが実態です。大体、経済制裁を互いにして我慢比べで日本が中国に勝てるとはあまり考えられません。日本は民主国家、中国は一党独裁国家です。

このように考えると、今回の尖閣列島領有を巡る事件は、偶発的なものというより、今のように日本と中国の力関係が軍事、経済ともに中国優位に傾くまで中国が慎重に待っていた結果だと考えるべきです。そうであれば、今回の事件は終わりではなく、尖閣列島の実効支配を求める中国の積極的行動の始まりに過ぎないということになります。

日本はどうすればよいのでしょうか。いくつかの選択肢を考えてみます。

(1) 中国との友好関係を重視し、話し合いで問題の終息を計る
魅力的な考えですが、中国は聞く耳を持たない可能性が高いでしょう。中国があくまでも尖閣列島の領有権を主張し続けると友好的な話し合いはできなくなるでしょう

(2) 中国の意思を尊重して尖閣列島の領有権が中国にあることを認める
中国は喜びますが、日本は尖閣列島を失い、当然そこにある資源の権利も失います。国内的には中国、日本両政府への批判は高まります。また、中国には沖縄の領有権を主張する声もあり、どこまで後退すればよいか明確なゴールも見えません

(3) 軍事的衝突も恐れず断固中国の領有侵犯に対処する
相手が中国であることを考えると、田母神氏の指摘するように成功する確率は高くはありません。実際に戦闘が行われた場合どの程度の犠牲が伴うか見当もつきませんし、最悪は中国との全面戦争になる危険もあります

(4) アメリカの軍事力と一体となって中国にあたる
日米安保条約では日本領土への侵略はアメリカが防衛する責務を負っていますが、尖閣列島への中国海軍の進出をリスクを取って、例えば空母を尖閣列島海域に派遣して中国に圧力を加えるのは今の日米関係の下では難しいでしょう。アメリカにそこまで日中問題にコミットさせるためには、思いやり予算の大幅増額、自衛隊のアフガニスタンへの戦闘部隊の派遣などの、同盟国としてより積極的な協力が求められるでしょう。

どの選択肢もコストと犠牲を伴います。国連など国際社会に訴えるという方法も考えられますが、中国と日本のような大国間の紛争に国連が口を出すことはほとんどありません。中国は安全保障理事会の常任理事国で拒否権を持っていて、国連は実質的に何も中国にはできません。

日本は戦後、防衛にはコストも犠牲も必要だという当たり前のことを意識せずに生きてこれました。ですから、「平和裏に冷静に話し合」えば相手もわかってくれて解決するとか、「毅然とした態度で接す」れば相手は恐れ入って引っ込むといった幼稚としか言えない発想がまかり通るのです。

今回の事件をきっかけに防衛力を強化するというなら、防衛費を2倍くらいにして、なおかつアメリカに大きな犠牲を伴う協力をする必要があります。かと言って、大人しくしていれば中国は易々と尖閣列島の実効支配へと進んでいくでしょう。選択肢は狭く不愉快な物かもしれません。しかし、それは国際関係の冷酷な現実というものなのです。

陰謀論 - 信じる危険と無視する危険
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田中角栄はアメリカの陰謀で失脚した?

陰謀論と言われると何を思い出すでしょう。フリーメイスンやユダヤが世界支配を企んでいるといったものもありますが、昔は何でもCIAの陰謀のせいにすることが一つのジョークのタネのようになっていました。ところが最近は右派の側から陰謀論が語られることが多くなってきています。

その中に、満州事変のきっかけとなった張作霖の暗殺は関東軍の河本大佐の仕業ではなく、KGBによりソ連の陰謀だったというものがあります。陰謀説のネタは戦後アメリカが解析した膨大なソ連の暗号文書にそのような記述があったということなのですが(詳しくは「ヴェノナ文書」) 、陰謀論を展開する人が言いたいのは「満州事変は日本主導ではなくソ連の陰謀で導かれたものだ」ということでしょう。

同じようによく引き合いに出されるのは「ルーズベルトは日本海軍の真珠湾攻撃を知っていたが、アメリカを開戦に導くために見て見ぬ振りをした」というのもあります。これも「日本ははめられて開戦に追い込まれた」というものです。

この論理のおかしいのは、日本がアメリカに不意打ちを食らわせようとしたという事実は、ルーズベルトが知っていたかどうかには関係ないということです。アメリカが日本に中国からの即時撤兵要求や、石油の禁輸という圧力を連発し、袋小路に追い込まれた日本が開戦に及んだというのは確かでしょうが、だからと言ってルーズベルトが太平洋艦隊の戦艦を全滅させるのを指をくわえて見ていたと考えるのも無理があります。

陰謀を「ひそかに企む計画」定義すると、外交や軍事作戦のほとんどは陰謀と言えます。ですから、この世の中に陰謀など存在しないとか、公開された情報以外の物を使った推察をしてはいけないなどと言うのは間違いです。

日本が行った陰謀の例では、明石元次郎が日露戦争を勝利に導かせるために現在の400億円にも相当する予算を与えられて、欧州全土の反ロシア勢力に資金を提供した工作活動が有名です。明石の諜報活動は満州の20万人の軍隊にも匹敵するとドイツ皇帝から称えられたと言われているほどです。

その明石の工作活を陰謀と呼ぶことはもちろん可能なのですが、日露戦争で双方が様々な諜報、工作活動が行っているのは当たり前ですし、その時の資金がロシア革命の助けになったとしても歴史上の認識が大きく変わることはありません。歴史上の認識が変わるとすると「レーニンはその時以来日本のスパイとなっていて、レーニンが死ぬまでソ連は日本の強い影響下にあった」といった、陰謀説が従来の歴史観を覆すような形で登場することです。

陰謀というものはそもそも隠し事ですから、検証は簡単ではありません。当事者は陰謀があっても「そんなものはない」と言うのが普通です。逆に言えば証拠が何もなくても「このような陰謀があったと仮定すれば、うまく説明がつく」程度の根拠で陰謀論を展開することができます。

最近の右派の側から日本が第二次世界大戦に至った理由に陰謀説が何度も語られるのは、「日本は侵略的な国家であり周到な計画の下にアジアでの覇権を獲得しようして戦争を引き起こした」という「自虐史観」を否定するためでしょう。

しかし、一つや二つの陰謀で国家を戦争に突き進ませることはできません。歴史に「もし」は禁物ですが、張作霖が爆殺されなくても日本の満州への侵攻と中国との戦争は必然だったと考えるのが普通です。陰謀論の真偽と歴史の流れは別の話です。

むしろ陰謀論としては昔から左翼陣営の言っていたアメリカ陰謀の方が歴史の流れを変える力があったと思われます。アメリカはCIAを通じ自由民主党に資金を供給してきたというのは、ほとんど歴史的事実と考えられるからです。日米安保条約を国内の強い反対を押して強行採決した岸首相は「CIAのエージェント」と看做されていました(CIAの虚像と実像)。

このような背景を考えると田中角栄がロッキード社からの献金問題で逮捕されたのはアメリカの陰謀だった、という推察はそれほど的外れのものとは言えません。田中は独自の日中外交を展開しようとしてアメリカ政府の強い不快感を引き起こしていたのですが、上院公聴会で追求されていたロッキード社の海外での献金問題で、突如田中が収賄側として名前が出たのです。

もっとも田中角栄はロッキード事件に先立つ2年前の1974年、立花隆が文芸春秋に書いた「田中角栄研究~その金脈と人脈」をきっかけとした政治とカネの問題で首相を辞任していています。アメリカ政府がそこまで手間暇かけてさらなる追い落としを図る意味があるのかといった疑問もあります。

しかし、田中角栄がアメリカ発の不正資金疑惑で逮捕されたという事実は、アメリカがその気になれば日本の元首相を逮捕させることも可能だという証明になったことは確かです。日本とアメリカは政財界だけでなくあらゆるレベルで密接に結びついていて、アメリカが日本をコントロールするために何かしようと企てれば、パイプはいくらでもあるのです。

アメリカ政府は巨大な組織で一枚岩とは程遠く、陰謀があるとしてもCIAが全てを取り仕切っているわけではないでしょう。ロッキード事件ではCIAのエージェントと目されていた児玉誉士夫が捜査の対象になるなど、CIA人脈的にはむしろマイナスの事件でした。

田中角栄を陥れようという陰謀がアメリカにあったとしても大統領やキッシンジャーが直に命令を下したというより、日本に様々な利権やパイプを持つアメリカが全体として自主外交を企てた田中を追い詰めたと考えた方が実態に近いのではないかと思われます。

鳩山首相が最後は辞任に追い込まれた普天間基地の移設問題も、経緯の中に外務官僚や防衛官僚が従来の関係をぶち壊しにするような「少なくとも県外」の意向に巧妙なサボタージュをしたことが交渉の頓挫の原因とも言われています。そうだとすれば、鳩山首相の退陣は日米の官僚を中心とした組織全体の陰謀作業ということになります。

一つの陰謀が歴史の流れを大きく変えたり従来の歴史認識を一変させるということはほとんどあり得ません。検証も証明もできない事柄を摘まみだして「これが本当なら今までの解釈は根本的に改めなければならない」などという言い方は歴史が巨大な組織と人間の集合体が作っていくという事実を無視したものです。

逆に、表向きの政府の見解や広く報道されている事実だけをもとに物事を見るのは危険でしょう。何を言おうとアメリカは自国の国益のために日本を利用したいし、そのためにはあらゆる力を利用するだろうという当然の推測をすれば、過去の日本の首相の就任や退陣、自民党の長期政権の裏にアメリカがあったと考えないのは思考の怠慢とさえ言えます。

当然ですが組織で陰謀を行うのはアメリカの専売特許ではありません。中国や韓国、ロシアが日本を自国の利益のために様々な裏の手口を使うといは当たり前です。前に述べたように、外交とか軍事は大部分が陰謀そのものなのです。

付け加えるとフリーメイソンやいるイルミナティのような秘密結社(フリーメイソンは秘密結社でも何でもありませんが)を陰謀の総本山のように考えるのは、善玉悪玉の歴史観と同様愚かしいことです。歴史の流れを陰に隠れた組織が密かに操ることなどできません。世界は陰謀に満ち溢れていますが、どんな陰謀も策略も歴史の中では大海の一滴ほどの意味を持つことはできないのです。

急成長企業はなぜ体育会系なのか
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本文と写真は関係ありません


会社は従業員との自由で活発なコミュニケーションを行い、規則やノルマより創造性や積極性がいつも優先される。意味もない残業や上司への奉仕は必要がなく、必要な能力の育成に会社は積極的に援助をしてくれる。こんな会社で働きたいと誰しも考えます。しかし、そうもいきません。雇われる側から見れば、そんな会社は滅多にないし、雇用する側から見れば、そんなことをしても業績が伸びるとは限らないからです。

むしろ実態は急成長した企業のほとんどは上下の厳しい、創造性などより気合と根性を重んじる、言ってみれば体育会的な会社です。そしてその傾向はITベンチャーのような新しい企業でも、と言うよりそのような会社ほど強くなります。どうして会社は成長するために体育会的な秩序と規律が必要なのでしょうか。現実は理想となぜそんなに違うのでしょうか。

一つには日本のベンチャー企業の多くはグーグルやヤフーのようなに新しい技術やビジネスモデルの提供を行うのではなく、ウェッブサイトの運用やシステム開発の下請けのような、ありふれて付加価値のあまり高くない事業を行っていることです。

もちろんアメリカでもグーグルのような革新的な企業が四六時中現れているのではないですが、大企業や大学から飛び出して、高度な技術を基にした製品の開発で事業を興そうとするベンチャー企業は次々に生まれてきます。ユニークで競争力のある製品を生み出すためには、言うことは良く聞くが創造性はないような社員ばかりでは困ります。

これに対し、製品やサービスで差別化が難しければ、営業力で売りまくる、価格競争力を保つためにコストを極限まで圧縮することが重要になります。必要なのは管理の徹底です。ところが、管理の徹底は小さな企業では簡単ではありません。社員を怒鳴りつけても陰で何をするかわかったものではありませんし、給与を下げても人が逃げ出す一方では経営が成り立たなくなります。

急成長した会社を見ると、多くが金太郎飴のような均一な組織を横並びで沢山作ることに成功しています。たとえば昔大阪有線と呼ばれたUSENという会社があります。この会社の創業者は有線放送をが売れる見込みの潜在顧客数を調べ、一定の潜在顧客数ごとに営業を置き、一定数の営業毎に営業課長、さらに営業所長を置くという組織を作り上げました。

潜在顧客数が同じなら、売れ行きが悪いのは営業の能力のせいになります。営業の数が同じなのですから、管理を徹底して売り上げを上げられないのは営業課長、営業所長の責任になります。

このような組織が出来上がれば、営業の人事考課は売上の数字を見るだけで良いことになります。言い訳は許されず、数字の上がらない人間は減給、解雇をし、数字の上がる人間はどんどん昇給、昇進をさせることができます。

コスト管理もコスト構造を同じにしてしまえば、コストがかさむのは無能な証拠と考えてよいことになります。会計上の数字で管理も人事考課もできるわけですから、最初のビジネスモデルがしっかりしていれば企業は組織のコピーを作るだけで急激に成長することができることになります。

このような会社は横並びの組織でできるだけ同じことをする、創意工夫があるとしても同じ会社で同じことをしている同僚を少し出し抜くことができればよいことになります。何をどうすべきかのモデルがはっきりしているのですから、後は頑張りが大きい方が良い成績を上げることができます。

このように均一な組織のコピーの大量生産で急成長する会社の弱点は変化に弱いことです。消費者が製品やサービスに飽きる。まったく別の切り口から大企業があるいは他のベンチャー企業が製品を出してくる。政府の規制緩和あるいは強化でゲームのルールが変わる。

このようなことがあっても個々の社員は柔軟に対応する能力に乏しい、それどころかそんな能力を邪魔者扱いしてきたために、有効な対策を打ち出したり、まして事業形態を根本から変えることは容易にできません。

体育会系的な営業主体の会社の多くが、急激に成長した後、突然不振に陥り消え去ってしまうのは、殆どの場合、変化に対して柔軟性がないことが原因です。これに対し既存の大企業が好不況の波を越えて案外しぶとく生き延びるのは、会社が完全には金太郎飴化しておらず、環境の変化に対応する能力を潜在的に持っていることが多いからです。

企業も一種のエコシステムを生きています。生物の多様化のように多彩な能力を持って環境の変化に対応できることが長生きのためには重要です。これに対し均一の組織モデルで作られた会社は単一の作物を作っている畑のようなもので、害虫の発生や不順な天候に対する抵抗力が高くありません。

それでも急激に成長しようとすれば早道はモノカルチャーの会社を作ることです。そうでなければ、均一な組織のコピーで成長するのではなく、革新的でユニークな製品、サービスを生み出す会社を作らなければなりません。その点では失敗を許さない日本社会は、知恵や技術を集約した事業を起こすのに適しているとは言えません。高付加価値で創造力がカギのビジネスでなければ、体育会系の会社が成長には有利でしょう。かくして日本はモバイル時代でも、朝の朝礼は欠かさない営業部隊の作る会社ばかりとなるのです。