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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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官製プロジェクトはなぜ失敗するのか
Apollo_15.jpg

菅首相はフランスで開催されたサミットで日本の新たなエネルギー政策「サンライズ計画」を発表しました。2030年を目途に可能な住宅全てに太陽光パネルを設置するなどして、日本のエネルギー消費に占める自然エネルギーの割合を大幅に高めようというのです。

計画では太陽光発電のコストを2020年までに3分の1に、2030年までに6分の1にするとしています。コストが何を意味するのかはっきりしませんが、仮に発電コストそのものだとすれば、現在の1kW時40円以上と火力や原発の4倍以上する太陽光発電はコスト的にも他のエネルギー源に対し同等以上の競争力を持つことになります。

しかし、サンライズ計画という言葉はデジャヴのように、かつてのサンシャイン計画と呼ばれたプロジェクトを思い出させます。サンシャイン計画は今から約40年前の1974年にスタートしました。第1次石油ショックの後、石油依存と環境問題を抜本的に解消するために、西暦2000年を目指して、太陽光発電、石炭液化、地熱発電の開発を促進しようとしたのです。

サンシャイン計画には2000年に終了するまでに累積1兆円以上の国家資金が使われました。しかし、香川県の仁尾町に建設された太陽光発電施設が計画通りの能力を発揮できないなど、目に見える成果を上げることはできず、いつの間にか消え去っていきました。そしてサンシャイン計画終了から10年経った今、サンシャイン計画と名前も中身も瓜二つのようなサンライズ計画が発表されたのです。

サンシャイン計画がまったくの失敗に終わったと言うのは異論があるかもしれません。太陽光発電で日本が当初世界で圧倒的な強さを発揮したことにサンシャイン計画の補助金が役に立ったことは考えられます。

サンシャイン計画の頃と比べれば技術の進歩は著しいし、太陽光発電のような工業製品なら強力な支援策で普及を促進して生産量を高めれば学習効果が働いて価格は加速度的に低下するのではないか。サンライズ計画そのものというより太陽光発電を支持する人の多くは、そのような考えを持っています。その真偽は、いったん横に置いて、サンライズ計画のような「官製プロジェクト」の問題点を考えてみたいと思います。

官製プロジェクト、国家プロジェクト、国策プロジェクト、言葉は似ていますが、少しづつニュアンスは違います。「国策プロジェクト」は国が大小の支援をしてプロジェクトの御通しをする、「国家プロジェクト」は国が先頭に立ってプロジェクトを引っ張る。「官製プロジェクト」は特に日本の場合は官僚たちが自分の縄張りを広げるために「ぶち上げる」というニュアンスがあります。しかし、ここでは重なる部分が多いということで、それほど厳密な区別をしないことにします。

国家プロジェクトとして大きな成功を収めた例として、第二次世界大戦中原爆の開発を行ったマンハッタン計画と人間を月面に着陸させたアポロ計画があります。どちらもアメリカの国家プロジェクトで、現在の貨幣価値で20兆円に達する多額の国費が使われました。

マンハッタン計画は1942年の着手から3年で原爆を完成させ、広島と長崎で実際に使用されました。アポロ計画は1961年にケネディー大統領が「60年代中にアメリカ人を月に送り込む」と議会で演説した通り、1969年にアポロ11号は3人のアメリカ人飛行士とともに月面に着陸しました。

二つのプロジェクトに共通するのは明確な目標設定と強力な競争相手の存在です。アメリカにとってナチスドイツより先に原爆を完成するというのは至上命題でした。アポロ計画はそれまで人工衛星、有人衛星すべてソ連の遅れをとっていたアメリカが威信をかけて達成すべきものでした。

プロジェクトとは達成時期、使用できる資源を定めて実現にはリスクのある目標に向けて組織を動かすことです。マンハッタン計画もアポロ計画もプロジェクトとしての条件を備えていました。

そして強力な競争相手の存在と戦争(アポロ計画も冷戦の産物です)という環境は組織が陥りがちな官僚主義を乗り越える武器でした。第二次大戦中はソ連でさえ驚異的な高効率で兵器の生産をすることができたのです。

日本の場合はどうだったでしょう。明治維新や戦後の復興・高度成長のような先進国に追いつき追い越せの時代は、官製プロジェクトは有効でした。モデルは先進国にあり、やるべきことに議論の余地はありませんでした。「やればできる」と判っていることは途中でプロジェクトが頓挫しそうになった時には何より力になりました。

その点マンハッタン計画は「本当にできるのか」という意味でも大変なプロジェクトでした。最先端の原子物理学の成果をウラン濃縮、原子炉、原子爆弾という段階を踏んで具現化することは科学者のドリームチームとも言うべき強力なスタッフの献身的な努力があって初めて可能なものでした。

それに比べればアポロ計画は本質的には強力で信頼性の高いロケットエンジンを開発することが最重要の課題でした。大量の資源を目標達成までの限られた時間内にどのように使用していくかという管理能力が何よりも重要でした。

一見明瞭な目標が実は全然不明確だという場合もあります。1980年代日本は人工知能を実現するという触れ込みで「第5世代コンピュータプロジェクト」をスタートさせました。1千億円以上を費やしたこのプロジェクトは人工知能どころか、多少でもそれに近い成果を上げることなく消え去っていきました。

現在でも人のように考えるコンピュータはありません。自動翻訳のようなものさえ、「実用的」と言える製品はありません。プロジェクトがスタートした頃「どのような技術に基づきどんなコンピューターを作る」かというプロジェクトの目標はありませんでした。

マンハッタン計画は壮大なプロジェクトでしたが「ウランの核分裂で発生する中性子で次の核分裂を起こせば、連鎖反応で莫大なエネルギーが得られる」という基本原理はありました。人工知能にそのような原理は1980年ごろも今も存在しません。

間違いは「成果」と「具体的目標」を混同することにあります。技術の世界ではこれは致命的です。「考えるコンピューター」は成果ではあっても具体性のある目標ではありません。サンシャイン計画も「石油依存と環境問題の解決」という成果は決められていましたが、中身は「太陽エネルギーを有効利用する」という漠然としたものでした。

それでも戦争のようにコストを無視してとにかく実現するという意志があれば、サンシャイン計画の場合でも目標は明確だったと言えるかもしれません。しかし、実際には太陽光にしろ地熱発電にしろ「既存のエネルギー源と競争力のある経済性を持つ」という暗黙の制限がありました。

コストの削減は官製プロジェクトの一番苦手な部分です。コストの削減には市場での競争を通じて企業がそれこそ身を削るように行うものです。これに対し官製プロジェクトの主な道具は補助金です。補助金はコストを高止まりさせても削減させる方向には向きません。

プロジェクト成功の可能性が疑わしい時、官僚の得意な言葉に「ポテンシャル」があります。自然エネルギーの活用でもNEDO(新エネルギー・総合技術開発機構)の風力発電、太陽光発電の設置場所として「ポテンシャル」のある場所の面積がデータとしてよく参照されます。

どの程度のポテンシャルがあるかは大切なことですが、実際にそのポテンシャルを形にするのはまた別の話です。民間企業でポテンシャルだけの事業企画はなかなか実現には向かいません。

官僚にとってポテンシャルとは責任を取らずに予算を取る便利な道具です。不可能と言うわけではない、うまくいけばこの程度の見込みがある。要するに鉛筆を舐めているだけなのですが、同じロジックで沢山の車の通らない高速道路や飛行機が使わない空港ができあがりました。

サンライズ計画はどうなるでしょうか。40年という時間を経て太陽光発電の技術が飛躍的に進歩したことは間違いありません。しかし、目指す「成果」もずっと大きくなっています。原発の代替、つまりコスト的、品質的に既存電力と競争力のある太陽光発電システムの開発です。

一番の問題はコスト削減という官製プロジェクトの目標としてもっとも不適当なものを中心に据えていることです。2020年までに3分の1、2030年までに6分の1というコスト削減は可能かもしれません。しかし、そのために補助金で日本の全住宅に太陽光パネルを付けるという政策は納得できるものではありません。

これは右足が沈む前に左足を前に出せば水の上を歩けると主張しているのに似ています。補助金を出せば市場原理が働くなり、太陽光発電の値段は、補助金政策が例えば1kW時40円での買い取りであれば、そこに張り付くでしょう。

もし太陽光発電のコストが下がらず、補助金政策を続ければ1千万戸の住居に太陽光パネルを設置するだけで10兆円近くの国費を投入することになります。40円以上の太陽光発電の買い取り価格で電力料金との逆ザヤを続ければ、毎年1兆円以上の補助金が必要です。それでカバーできる電力は全消費量の数%にしかなりません。

もちろんこれは随分と悲観的な見方かもしれません。日本では補助金漬けになって太陽光発電のコストが下がらなくても、世界市場で熾烈な争いで価格が下がり、太陽光発電がずっと安価に行えるようになる可能性はあります。

しかし、その場合補助金漬けの日本で日本メーカーは携帯電話がそうであったように、特殊な規格に守られたガラパゴス太陽光発電市場を作ってしまうかもしれなません。過去の歴史はそうなることを教えています。

サンライズ計画をプロジェクトと呼ぶのはあまりにも不適当でしょう。そこには「成果」に対する漠然とした願望はあっても、国家として責任を持って達成すべき目標も方法論もありません。あるのは補助金で沢山太陽光発電をばら撒けばそのうち安くなるだろうという、大金を費やすにしては安易な見込みに過ぎません。

いや恐らく大金がサンライズ計画に注ぎ込まれることもないでしょう。原発停止が続く中、毎年1兆円以上も逆ザヤで太陽光発電を買い続けることは極めて困難です。その費用は恐らくすべて消費者に電気代の値上げいう形で負担してもらうしかありません。その余裕はないはずです。

サンライズ計画がアポロ計画に近いところがあるとすれば、莫大な費用だけでしょうか。日本の全住居への太陽光発電パネル取り付けや逆ザヤの電気の買い取りを続ければ、総投資は20兆円を軽く超えるでしょう。アポロ計画もマンハッタン計画も上回る金額です。そしてそれでどんな「成果」が得られるか。結果が出るのは誰も責任を取る必要もない先の話であることだけは間違いありません。
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孫氏の自然エネルギー構想はいばらの道
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ソフトバンク社長で起業家のカリスマの孫正義氏が自然エネルギーの拡大に熱心に動いています。孫氏は余命僅かと言われたヴォーダフォンを買収してSBフォンを設立し、今ではもっとも成長の早い携帯電話会社とする大成功を収めました。

その孫氏が5月25日記者会見を行い、自然エネルギーの普及を目指す「自然エネルギー協会」を19道県と共同で本年7月に設立すると発表しました。孫氏の自然エネルギーへの取り組みは3月11日の東日本大震災による福島第1原子力発電所の事故を見て、原発の危険と将来性への不安から出発したものです。スピード感と実行力には驚くしかありません。

しかし、記者会見で使用された資料を見ると改めて孫氏の構想が野心的を通り越してほとんど不可能なものではないかと思えてきます。最初に目につくのは2020年までに電力に占める自然エネギーの割合を現在の10%から、2020年までに30$にするという部分です。

10%から30%は率にすれば3倍です。携帯電話の普及当初のように毎年倍以上で成長する業界を見慣れた目には、保守的過ぎるとさえ思える数字かもしれません。ましてニュージーランドのように70%以上を自然エネルギーでまかなったり、デンマークのように風力発電が電力全体の10%を占めるような国の話を聞くと「日本は遅れている。ならば成長も期待できるのではないか、まして孫氏が旗を振っているのだから」と思う人も多いでしょう。

しかし、日本での電力に占める10%の自然エネルギーのうち、7割が水力と聞くと話は違ってきます。しかも残りの3割の過半は木屑その他を植物を燃やすバイオマス燃料発電です。風力、太陽光という「自然エネルギー」と言われて普通思い浮かべるものは全体の1%以下なのです。

ほとんどの適地にダムは造られており、土砂の堆積などで水力発電は今後むしろ減少する可能性もあります。木屑を燃やすバイオマス発電も安い燃料はあらかた使ってしまっています。つまり30%の達成には風力発電、太陽光発電を10年で20倍以上にしなくてはいけません。

このようなインターネットの普及期に見られたような急速な成長はにそうそうはありません。しかも風力発電や太陽光発電は最近急に登場したわけではありません。数十年前から実用化を始めた、ある意味「枯れた技術」です。

インターネットや携帯電話あるいはPCなどの急速な成長と価格の低下を実現した技術のほとんどは、2年で価格性能比が2倍になるという「ムーアの法則」の恩恵を受ける半導体技術に支えられています。太陽光発電も半導体と同じシリコンを使いますが、2年で単位面積当たりの発電量が2倍になるようなことはありません。

太陽光発電の場合、単位面積あたりに得られるエネルギーは降り注ぐ太陽光のエネルギーを超えることはできません。鏡のような集光装置を使っても、2年でエネルギー量を倍にすることはできません。

風力発電の場合は中核部分は羽と風で回転する羽によって稼働するタービンです。どちらもムーアの法則があてはまるようなものではなく、それとは対極の機械技術です。風力発電の効率向上に一番有効なのは大型化です。現在大型風力発電の主役は2MW(2百万ワット時)の発電能力を持っていますが、3MWが一部実用化され、さらに5MWのものも計画されています。

しかし風車の直径は2MWでも100メートル、5MWでは250メートル以上にもなります。ここまで大きくなると羽の先端部分の速度は時速300kmほどにもなるでしょう。超高層ビルの高さほどの長さを持つ羽が新幹線ほどの速度でぐるぐる回るわけです。

このようなものが故障もせずにちゃんと動くかというのは気になるところです、地震や台風の多い日本で本当に大丈夫なのか、大丈夫なように作ってコストはひどく高いものにならないのか、課題は小さくありません。

おまけに風車は広大な面積を必要とします。風車と風車の間は直径の2倍は必要で、2MWでは1基あたり5万平方メートル程度です。5MWの風車では30万平方メートルを超えるでしょう。

これは風車の騒音被害を考慮しない場合です。風車の出す騒音から守るためには人家は数百メートル離れていなければなりません。これより近くなると耳にうるさいだけでなく長期的に健康に悪い影響があると言われる、人間には聞こえない低周波被害が問題となります。

これでは10年で20倍も成長させるには力不足と思われても仕方がありません。孫氏の構想は決して劇的とは言えない価格性能比の向上を前提にIT製品並みの成長を実現させなくてはならないのです。

自然エネルギーの問題は密度が低いため広大な土地を使ってかき集めることが必要なことです。孫氏はそのために全国に広がる使われていない休耕田を利用しようとしています。電田構想です。

休耕田は政府が米買い取りの赤字を抑制するためや、農家の人手不足のために放置している土地です。そこで自然ネルギーを作り地産地消的な産業を育成する。おまけに農家には何がしかの収入が入る。その中で自然エネルギーの割合は増加する。誰もが得をする素晴らしい考えに思えます。

しかし、実際にこの計画を実行に移すとなるといくつもの困難が予想されます。休耕田と言っても、まとまって広大な土地があるとは限りません。小規模な日本の農家の耕作地が切れ切れに使われなくなっているのです。風車のように人家から数百メートル以上離れて1基5万平方メートル、さらに10万、20万といった技術進歩にあわせて土地を確保するのは簡単ではないでしょう。

風力発電は風の吹き方で採算性が全く変わってきます。風力発電の買い取り価格として想定されているのはキロワット時あたり20円前後なのですが、そのコストを実現するのは平均8メートルの風が吹き、稼働率が20%以上になることが必要とされています。この条件を満たす場所は日本ではそれほど多くはありません。休耕田であれば全て利用できるわけではないのです。

風力発電は難しくても太陽光発電はどうでしょう。太陽光発電も場所を取りますが、風力ほどではありません。しかし太陽光発電のコストは風力発電のさらに2倍以上です。補助金で買い取れば設置は進むかもしれませんが、既存電力をどんどん置き換えていけば財政支出が増大するか、電気料金の値上がりにつながります。どちらも国民の負担であることには変わりません。

コストや場所の問題が解決できたとして、本当に風力、太陽光が主体の自然エネルギーが発電量の30%を占めると電力の安定供給の問題が出てきます。自然任せの自然エネルギーの発電量は制御できないため、需要にあわせて調整する仕組みが必要となります。

一つは火力発電と組み合わせて補完的に自然エネルギーを利用することです。これでは火力発電をなくすことはできませんが、自然エネルギーをずっと利用しやすくなります。

火力との組み合わせを避けようとすると電池に電力を蓄えることが考えられます。しかしそれには現在の少なくとも数十倍の容量、効率を持つ電池の開発が必要です、これは枯れた技術どころかまったくのイノベーションです。10年程度の未来に当てにできる話では到底ありません。10年後に普及するとすると、現在は初期の製品が市場に登場している段階でなくてはならないでしょう。そんな技術は見当たりません**

結論から言って孫氏の自然エネルギーで電力の30%というのは10年内どころか30年内実現も簡単ではないでしょう。いくら孫氏の力をもってしてもです。

携帯電話で大成功を収めた孫氏は、かつて日本の起業家支援のためにナスダック市場を日本でも設立させようとしてして最後は撤退してしまいました。それだけはありません孫氏の手がけた事業は銀行、PC部品の製造など数えきれないくらいあります。

孫氏の手がけた事業の大半は失敗撤退していると言っても良いほどですが、これは孫氏の企業家としての無能さより、意志決定が早く的確だという証明と言えます。新銀行東京のように硬直的な組織の運営する事業は破綻するまで撤退できないことが普通です。

今回の自然エネルギーへの取り組みも、携帯電話のように孫氏が電力業界に風雲を巻き起こすかもしれませんが、それは自然エネルギーによってではなく発送電分離のような新しいビジネス環境を孫氏が存分に活用することで達成されるでしょう。孫氏ほどの事業家が自然エネルギーと心中する気はないはずです。

とは言っても孫氏の日本のエネルギーを何とかしたいと使命感は本物のようです。日本のエネルギーがこのままで良いはずはありません。しかし日本のエネルギー問題を自然エネルギーで解決するのは相当控えめに言ってもいばらの道でしょう。

もしかすると自然エネルギーは孫氏にとって秀吉の朝鮮征伐になってしまうかもしれません。多くの優れた経営者、事業家が自分の成功体験を全く違うビジネスモデルに適用しょうとして失敗したり、環境の変化に気づかず晩節を汚しました。孫氏がいつまでもみずみずしい発想の豊かさと決断の速さを失なわないことを祈るばかりです。

**
これは少し言い過ぎかもしれません。電力供給の安定化のために大容量の電池としてはNAS電池がすでに実用化されており将来性も期待されています。しかし、風力、太陽光が電力全体の20%になるような事態を支えるためには、コスト、容量、耐久性などまだまだ相当な進歩が必要です。


自然エネルギーに未来はあるのか
Windmillsfarm.jpg

自然エネルギーという言葉は英語には存在しません(少なくとも私の知る限り)。Natural energyと言っても多分通じず、Renewable energyの方が一般的です。

Renewable energyの方は日本にも再生可能エネルギーという言葉がありますが、舌を噛みそうになるせいか、自然エネルギーの方が日本では広く使われているようです。

「自然」エネルギーというと石油だってウランだって自然から取り出したものだと言う人もいるのですが、「再生可能」なエネルギーというのは物理学のエネルギー保存の第一法則に違反しますし、使ってしまったエネルギーをどこかで回収してまた使おうとすると今度は第二法則のエントロピー増大の法則に違反します。

つまり「再生可能」なエネルギーなどこの世の中には存在しません。、太陽光や風のように使い減りのまったくしない太陽エネルギーを使えば、いつまでたってもなくならないという意味として「再生可能」と言う言葉を使っているわけです。

「再生可能」には、タダ同然、いや文字通りタダのエネルギーという意味合いが込められています。実際、自然エネルギーを使うことで電気はタダでいくらでも作れると思っている人も沢山います。

しかし、自然エネルギーはタダではありませんし、そして多分あんまりエコでもありません。もし本当にタダ同然なら原発の代替エネルギーどころか、とっくの昔にエネルギーの主役になっていたはずです(確かに化石燃料の大量消費が始まる前は自然エネルギーだけが人類の使えるエネルギーでした)。現実はそうではありません。なぜなのでしょうか。

自然エネルギーは低密度

地熱発電のようなものを除けば、自然エネルギーと呼ばれるものは、太陽光そのものだけでなく、風力、波、バイオ燃料など全て太陽のエネルギーが元になっています。

地球に降り注ぐ太陽のエネルギーは莫大で、全体では人類の消費エネルギーの1万倍にもなります。そのうち太陽光発電に利用可能なものは0.5%以下と言われていますが、それでも人類の必要なエネルギー量の50倍以上に達します。

量的には無尽蔵と言って良い自然エネルギーなのですが、エネルギー密度という点では極めて希薄です。火力や原子力は非常に高い温度を作り出して効率的に電気を取り出しますが、太陽光はそのままでは布団を乾かすことくらいにしか使えません。

自然エネルギーを利用するために希薄なエネルギーを掻き集めて高密度にする必要があります。自然エネルギーが元手いらずでエネルギーが手に入るはずなのに、いつまでたっても高コストと言われる最大の理由は、低密度エネルギーを高密度エネルギーに変える手間が大変だからと言えます。

エネルギーを低密度のまま利用できないわけではありません。布団を乾かすのはともかく、植物の光合成のように希薄な太陽エネルギーを効率的に化学エネルギーに変換することができれば、わざわざエネルギーを高密度にする必要はなくなります。

化石燃料は長い時間をかけて植物が光合成で集めたエネルギーを一気に使ってしまう手段です**。 バイオ燃料(と気取らなくても薪ストーブでも)も植物に低密度エネルギー掻き集める作業をさせていますが、太陽光発電や風力発電のように人間が同じ作業をしようとすると、元がタダだからタダとはなかなかいかないのです。

** これには異説があり、石油や天然ガスは生物由来でなく、地質内で生成されたという「石油自然発生説」を唱える科学者もいます。

広大な面積を必要とする

低密度のエネルギーを集めるには、とにかく広い面積が必要となります。原子力は10万平方メートルあれば100万kWの発電所を作ることができますが、その5百分の1の発電量の風力発電のための風車は1基で5万平方メートルを必要とします。

100万kWの発電量を得るためには5百万平方メートルの設置場所はいることになります。しかも風力発電の場合は一定以上の風が年間を通してどれくらい吹いてくれるかということが経済性の観点では決定的に重要です。どこにでも設置して良いわけではありません。

2千kWで5万平方メートルというのは、風力発電の稼働率が100%としての話です。実際には立地条件のかなり良い場所でも20%がやっと。100万kWの電力を得るためには100平方キロ以上、山手線の5割増しくらいの面積が必要になるでしょう。

巨大な設置面積が必要なのは太陽光発電も同様です。地図で見るとサハラ砂漠の点のような小さなところに太陽光発電のパネルを敷き詰めれば、ヨーロッパ中に電気をまかなえるという計算もありますが、砂漠でもない平地を大量に利用すればコストは高くなります。

もっとも広い土地が必要と言っても、日本中の原発全てを風力発電で置き換えるのに必要な面積は千葉県に匹敵する5,000平方キロくらい、日本全土の1.5%ほどです。設置が不可能とは必ずしも言えません。

しかし、実際に設置するとなると風の安定性や人家から離れていることなど、条件は厳しくなります。山のすそ野に設置することもありますが、保守を考えれば(稼働部分の多い風車は保守は送電線などと比べずっと頻繁にしなくてはいけません)、あまり人里離れた所にバラバラに設置することは効率的ではありません。

陸がだめなら洋上にと考えても、保守は一層難しくなる上に、海面も漁業権があり、風がよければどこでも勝手に設置できるわけではありません。少なくともそんなに簡単に設置場所を確保はできないということは理解しておくべきです。

安定性が低い

太陽光はお日様まかせ、風車は風まかせですから年間を通じて安定した電力を作り出すことは困難と言うより不可能です。安定性の低さは送電網に接続する時に問題となり、電気の品質を重視する日本の電力会社には受け入れにくいものです(自社の発電を優先するための陰謀という見方もありますが、陰謀論の真偽より技術的問題は否定できないものがあります。

もっとも安定性に関しては全国にくまなく風車を配することで平準化は大分できることにはなります。しかし、平準化ができても電力の生成は需要と無関係に行われるので、風力だけでなく重要との調整能力は他の電源と組み合わせることがどうしても必要になります。

平準化や需給バランスの調整のために電池を使うことは考えられます。しかし、現在の電池はまだコスト的に既存電力と競争するのは相当時間がかかると思われます。

とは言え、電池の進歩は技術により今後大幅なものが期待できます。もしかすると風車を利用した自家発電装置ができるくらいまでにはなるかもしれません。ただ、これは未来の技術に属する話です。現在の技術レベルでは不安定な自然エネルギーを補えるほど効率の高い電池は作ることができません。

案外エコではない

自然エネルギーとエコはほとんど同義語と思っている人は多いでしょう。もしかすると大部分かもしれません。しかし、低密度の自然エネルギーを掻き集めるために、自然に広く干渉することが自然に影響を与えないはずがありません。

風車は住居との距離が数百メート程度では騒音が問題となります。距離がさらに近くなると人間の耳には聞こえない低周波による健康被害が出ることが報告されています。

人間は音の被害ですが、鳥たちにとっては命の問題になります。風車の多数の鳥が死んでいるのは風車が希少な鳥が住む地域に設置された場合はさらに深刻です。

太陽光パネルも家の屋根に取り付けるのであれば関係ありませんが、広大な面積を太陽光パネルで覆ってしまうとその下の生物には致命的な被害を与えます。これはサハラ砂漠のような生物のあまり住んでいないような地域ですら問題となるほどです。

環境への悪影響は地熱発電(こちらは太陽光由来ではありませんが)でもあります。温泉地帯で地熱発電を行うことで硫黄など有害物質が地上に噴出する危険もありますし、日本の場合は地熱発電の好立地は大部分国立公園内ということもあります。

しかも地熱発電は付近の温泉を枯渇させるような深刻な事態も引き起こします。温泉好きの日本人には地熱は電力より温泉として利用するのがいちばんかもしれません。

自然エネルギー源として最大でもあまり語られることのない水力発電は生態系に与えるダメージは相当なものがあります。しかもダムは年月を経ると次第に埋まっていくという問題があります。「再生可能」エネルギーとは言いずらい状況です。

国による差が大きい

自然エネルギーは広大な面積を必要とし自然条件に大きく左右させられるため、地理的条件が自然エネルギーには大きく関係します。石油が産油国に偏って存在するように、自然エネルギーに富んだ国と富まない国があるのです。

この点日本はあまり自然エネルギーに恵まれているとは言えません。国土が狭く大分部が山間地の日本は太陽光発電にも風力発電にもあまり適していないのです。この点では広大なアメリカや中国のような大国は有利です。

アメリカには砂漠地帯に数千基の風車を並べたようなWindmill farm(風車農場)と呼ばれる風車の大集合地帯は何箇所かあります。住民への騒音被害も心配なく、規模の利益で設置も保守も送電も効率的に行えます。残念ながら日本にはそんな土地はありません。

電気は輸入も輸出もできません(ヨーロッパのような地続きであれば可能ですが)、地理的条件も同じです。自然エネルギー全盛の世界になると日本はかなり苦境になる懸念があります。日本で安く豊富な自然エネルギーが得られなければ、産業が生き残るのは困難です。

未来はどうなる

ホモサピエンスが登場して20万年、農業が始まって1万年になります。文明の歴史は5千年程度に過ぎません。それでも石油資源の確認埋蔵量は40年分程だとか、石炭でも200年程度ということから比べれば永遠にも等しい長さです。

高速増殖炉ができてもウランが1千年もつかどうかは疑問です。核融合を実現しない限り、天然資源頼りではエジプト王朝に匹敵するような長さで人類文明は続けることができません。

自然エネルギーは人類文明を永遠とは言わないまでも、せめて農業の始まりから今までの1万年程度は永らえさせるためには必須の技術と言えます。しかし、多くの困難(その根本は低密度エネルギー濃縮の難しさになりますが)を乗り越えない限り、自然エネルギーで今のレベルの文明を維持することはとても簡単とは言えません。

将来世界の人口が現在の2倍程度には増加し、その人々がより高い生活水準を求めるようになることを考えると自然エネルギーにあまり大きな期待はできそうにもありません。

私は少なくとも向こう100年は自然エネルギーが主役になることはないだろうと思っています。原発はもう命脈が尽きているのかもしれません。しかし、新幹線が止まっても、徒歩で東京から大阪まで行こうと言う人はいないでしょう。自動車?自転車?それとも飛行機?現実は夢見るほどには簡単ではないようです。

放射能ってそんなに怖い?
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現代の外科医が幕末の日本にタイムスリップして大活躍をするという「JIN-仁」は大変面白いテレビドラマです。ストーリー展開もありますが、小道具や言葉遣いなど時代考証がとても丁寧に行われています。このような作品はディテールをおろそかにすると興醒めなのですが、細々したところに気を遣っているのがよくわかります。

しかし、本当に現代の医者が幕末にタイムスリップしてしまったら何ができるでしょうか。検査機器はない、治療器具もない、薬はない。こんな状況では現代的な医学知識は大して役には立ちません。JINでは主人公は器用に麻酔薬から点滴装置まで何でも作ってしまうのですが、そんな実学的知識を持った医者は滅多にいないでしょうし、知識があってもそれを使うための材料や道具がないという堂々巡りになってしまいます。

プログラマーがコンピュータなしでは仕事ができないなように、現代の科学者、技術者は膨大な技術的インフラとそれを使って支援してくれる人々がなくては一人では何もできないのです。

ただ、外科医やプログラマーの知識があまり使い道がなくても公衆衛生的知識を19世紀に持ち込むと多大な貢献をすることができます。例えば、産褥熱は出産時に細菌が妊婦に入ることで起きる病気で昔は出産に伴う死亡事故の最大の原因でした。

産褥熱は出産を介助する助産婦、医師がアルコールや清潔な水で丁寧に手を洗うことでほとんど防ぐことができますが、それが明らかになったのは19世紀になってイグナーツ・ゼンメルワイスというハンガリー出身のドイツ医師の研究の成果でした。それまで医師は手洗いはもちろん入浴もろくにしていなかったのです。

しかし、ゼンメルワイスの研究は医師を侮辱するものとして当時のドイツ医学界の権威から激しい避難を浴びます。出産時に手を洗うことが励行されるようになったのはゼンメルワイスの死後のことでした。

そもそも「消毒をする」というのは細菌というものの存在があって初めて科学的に必要性が証明できるものです。目には見えない細菌は、19世紀後半になってロベルト・コッホによって発見されました。それまでは手を洗うこと理由は本当の意味では不明だったのです。

細菌の存在が明らかになるまでは、コレラ菌が保菌者の排泄物が飲み水に混入して広がるという仕組みは判りませんでした。逆に言えば排泄場所と井戸を分離することが有効にコレラの蔓延を防ぐ方法だということは、観察結果を元にした経験的事実でしかありませんでした。

1895年ドイツの物理学者ヴィルヘルム・レントゲンは非常に透過力の強いものが放電管から発生していることを知り、謎の光線という意味を込めて「X線」と呼びました。X線の発見で手術をせずに人体の内部を観察するという革命的な医療法が実現することになります。

X線が使われ始めた当初、X線が放射線障害を起こすことは知られていませんでした。このためX線発見の初期にはX線の実験中に皮膚炎を起こすなどの事故が相次ぎました。しかし長期的な放射能の障害が明らかになるにはさらに時間がかかりました。

X線の発見から10年以上たった1911年、放射線医の白血病の増加が報告され、その前後から遺伝以上、奇形児の発生などの放射線による長期的な障害が次第に理解されるようになりました。

それでも一般の放射能に対する認識は低く、1920年代になってからも夜光塗料の塗布作業に従事していたアメリカの女子工員に骨髄炎が多発するといった被害が出ます。研究の結果この疾患は長期に渡り夜光塗料の原料のラジウムを体内に取り込んだために起きた慢性放射線障害であることがわかります。

ラジウムの発見者であるマリ・キューリー自身も長年放射性物質を扱っていたことが原因と思われる再生不良性貧血で死亡しています(ただし、放射線障害の影響については異論もある)。放射能の危険性は専門家でさえ最初はあまり意識していなかったのです。

放射能の恐ろしさが強く世間に印象付けられるようになったのは原爆の開発と使用によるものでしょう。マンハッタン計画と呼ばれた原爆開発では多数の科学者、技術者が放射能の犠牲になっています。その中には20世紀最高の頭脳と呼ばれた数学者、フォン・ノイマンも含まれます。

広島、長崎は一瞬にして10万人以上の生命を奪いましたが、放射線障害の巨大な研究サンプルの提供も同時に行いました。アメリカにとって未来に起きるだろう核戦争で放射能がどのように人体に影響を与えるかは軍事上大きな価値のある情報でした。アメリカは被爆者の調査を徹底的に行いその結果は軍事機密として日本から持ち去られて行きました。

日本人にとって広島、長崎の原爆投下は最初の核兵器による放射能被害でしたが、それは最後の被害ではありませんでした。1954年ビキニ環礁で行われた水爆実験の付近で漁をしていた第5福竜丸の23名の乗組員は実験による放射能被曝をします。そのうちの一人久保山無線長は「原水爆による被害者は私で最後にして欲しい」という遺言を残して亡くなります。*

第5福竜丸事件は日本に強烈な反核運動を起こします。この反核運動は反米運動と政治的に連動することで、左翼陣営がその後反原発運動に傾いていくきっかけになっとも言えます。

実際には核兵器はアメリカの占有物ではなくなっていましたし、それは核実験でも同様でした。1950年代から1960年代にかけてアメリカ、ソ連に続きイギリス、フランスさらには中国が核兵器の開発成功し、次々に核実験を行います。

核実験により無秩序に空気中に放出される放射性物質は「死の灰」と呼ばれ恐怖の的となります。骨に蓄積され危険な内部被曝を起こす原因物質であるストロンチウム90の環境での濃度は60年代に最高を記録します。

今では忘れられつつありますが、冷戦の終了まで核戦争は人類の破滅を意味していました。そして一般の放射能に対する恐怖は核兵器への恐怖と二重写しになって深く浸透していきます。

その一方で放射能の被害の定量的な分析は多くの研究者の努力と、放射能被害が明らかになるまでの多数の放射線の犠牲者によって進められていきました。そして、放射能の人体に対する害は確定的な害、つまり火傷を負ったり、細胞分裂の機能を失って死亡してしまうような、一定以上の放射線に被曝すると必ず受ける障害と、それより少量の放射線に被曝した場合長期的に確率的に発生する障害とに分けられることが判ってきました。

確定的な放射線障害の最近の例では、1999年茨城県でJCOの核燃料加工施設内で作業員が高速増殖炉の研究炉常陽の核燃料加工中に誤って(というより最初から正しい手順を無視して)処理中のウランの溶液を多量に貯蔵した容器内で臨界状態、つまりウランの核分裂を起こしてしまうという事故によるものがあります。

この事故では作業員2名が致死量の6シーベルトを超える放射線被曝をし死亡しています。また1名は3シーベルトの被曝をして一時白血球がゼロになるという極めて危険な状態になりましたが、その後辛うじて回復しました。

放射線が危険な理由は細胞の中の遺伝子、DNAの分子を放射線が破壊するからです。DNAが大量に破壊されると細胞分裂を行うことができなくなり、造血機能が失われるような重大な障害が起きます。これが確定的な放射線障害です。

確率的な放射線障害の影響は発癌率の上昇です(妊婦は奇形児を出産する危険がありますが、より厳しい被曝基準値がある以外は基本的な考え方は同様です)。発癌率の上昇は1シーベルトあたり5%と考えられています。

確率的影響では被曝量と発癌率は比例関係にあるとされています。つまり被曝量が1シーベルトの半分の500mシーベルトになると発癌率は2.5%上昇するということです。

この比例関係は200mシーベルトまでは確かめられており、100mシーベルト程度までは比例関係が続くと想定されています。しかし、被曝量がさらに半分の50mシーベルト程度だった場合、発癌率は本当に線量の分だけ上昇するのかどうかは定かではありません。

被曝量が小さくなるとなぜ発癌率との関係が不明確になるかというと、比例関係が成立するとしても100mシーベルトでは発癌率上昇が0.5%、50mシーベルトでは0.25%にしかならないからです。日本人の二人に一人、50%が癌に罹る現在。このような小さな値を統計的に検出するのは極めて困難、と言うより不可能です。

今、ネットやマスコミの中で100mシーベルトが危険とか、危険でないとか議論が起きていますが、どちらが正しいにせよ、非常に小さい発癌率の上昇の有無を巡ってのことだということは覚えておいてよいでしょう。放射線被曝100mシーベルトでの発癌率の上昇は受動喫煙並み、50mシーベルトではあったとしてもさらに半分に過ぎません。

たとえ0.25%でも膨大な人口を考えると無視するのはおかしいと考える人も多いでしょう。現に受動喫煙で癌による死亡する人は世界では60万人に達するとの推定もあります。

このため公衆衛生の観点では年間の被曝量が100mシーベルトという地域に人が居住することは許されません。今回の福島原発事故で避難命令、勧告が出されたのは基本的には放射線の被害に対する公衆衛生的配慮と考えられます(もちろん、炉心溶融や再臨界といった最悪の事態への懸念もあります)。

このような説明は「放射能はどんなに微量でも人体に有害で、その害は致死的なものだ」というる反原発派だけでなくの多くの人が共有する考え方とはずい分かけ離れたものではないでしょうか。

公衆衛生の観点では許されないような衛生水準でも平気な人はいくらでもいます。喫煙のリスクに相当する発癌率の上昇は放射線では3.4シーベルトです。これは1年の間に積算しての話ですが、一度に浴びると発癌率の上昇どころが造血機能を失って死んでしまうような量です。

数10mシーベルトというのは住民を避難させるかどうか、小学生を校庭で遊ばせるかどうかという話になると非常に重大な数字になりますが、発癌率の上昇ということに引き直して考えれば「致死的に危険」なものとは到底言えません。急性放射線障害を起こすようなことがなければ、放射能は青酸カリやヒ素のような毒物というより、塩分、煙草といった発癌誘発食品と比べるようなものなのです。

昔、目に見えない細菌やウィルスの引き起こす疫病は怨霊や悪魔の仕業と考えられていました。神の怒りを鎮めるために祈りをささげたり、中世のヨーロッパでは疫病の引き起こす魔女だと名指しされて、沢山の女性が殺されたりすることもありました。

放射性物質の放射能は徐々に放射線を出すことでしかなくなりません。科学にできることはありません。この点でわれわれは19世紀にタイムスリップした外科医とできることは大して変わりません。しかし19世紀に現代の公衆衛生の知識を持ち込むことができれば、抗生物質や手術用の麻酔薬がなくても、多くの人を救うことができます。

放射能は目に見えませんが、その危険性と性質は良く理解されています。冷静に必要な対策を立てればほとんど危険から逃れることは可能です。「手をていねいに洗いなさい」で病人が劇的に減りましたでは、テレビドラマは作りにくいかもしれません。しかし、犠牲者は「ドラマチック」に減らせるのです。

このブログでは放射能の強さを示す単位であるシーベルトなど、いくつかの技術用語が含まれています。個々の説明は省いているますが、全体像をもっと判りやすく知りたいと言う方は、例えば「放射線を理解するために
をご参照ください。


*これが放射能被曝のためだったというのは現在では異論が多い。肝機能障害によるものとする説が有力となっている。
石炭火力と原発どっちが危険か
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当ブログでも何度か話題にさせていただている池田信夫氏が石油や石炭火力は原子力発電より危険だという論を展開しています(自動車や石油火力は原発より危険である)。原発は今回の福島原発の事故でも死亡者が出ていないように、過去に遡っても石炭火力より死亡事故という点でははるかに安全な発電方法だというのです。

もちろん石炭火力が炉心溶融を起こすことはありませんし、少なくとも日本で稼働している石炭火力発電所が死亡事故をしょっちゅう起こしているわけではありません。池田氏の論拠となっているのは石炭採掘で多くの鉱山労働者が死亡することです。

石炭の採掘は危険な作業です。石炭は採掘が進むにつれどんどん地下深くへと掘り進んでいきます。暗い地下は照明なしで作業できませんが、坑道の中は石炭の粉塵が舞い、何かの拍子で爆発的に燃焼する危険があります。

爆発事故でなくても地下深くでガスが発生したり、水が噴出すれば坑夫は危険な状態にさらされます。日本でも過去には100名以上が死亡するような炭鉱事故が何度もありました。現在でも中国の炭鉱は危険な作業環境として知られています。世界では現在でも毎年3万人もが炭鉱事故で亡くなっています。

これに比べれば原発は死亡事故という点では他の化学プラントなどと比べても優れた実績を持っています。原発の初期の時代にソ連で起きた事故を除けば、チェルノブイリ事故でも直接的には消防団員や兵士に数十人の死者が出ただけです。

チェルノブイリ事故ではその後、発癌率の上昇で市民の死亡が増加したため四千名が事故で死んだと計算されています。これには異論があってヨーロッパ全体の発癌率がコンマ何パーセントか上昇したという推定を根拠に数十万が死亡すると言う向きもありますが、科学的推定とは言えません(コンマ以下の発癌率の上昇を疫学的手法で検出できない)。

結局、原発事故による死者を発電能力当たり何人くらいかという計算をすれば、チェルノブイリ事故での発癌率上昇による死者を数えても圧倒的に石炭火力の方が危険だということになります。これが池田氏の論理です。

ゴリゴリの反原発派でなければ「なるほど」と頷く点はあるのですが、何となく誤魔化されたような気もします。今回の福島原発事故で避難させられて人達に「大変なこととは存じますが、原発はこれでも石炭火力よりは安全です」と言える人はいません。

ただ、このような例えはあまり公平ではありません。鉄道事故で亡くなった遺族に「鉄道はあらゆる交通手段でもっとも安全であることは統計が証明しています。今回の事故は運が悪かっただけです」と言うこともできないでしょう。事故に巡り合ってしまった不幸な人々の感情に寄り添うだけでは、問題の本質を見失う危険があります。

違和感を感じる理由の一つは、石炭火力は主として採炭で死者が出る、つまり鉱山での作業が危険なのに対し、原発は原子炉にウランが入れられて発電の際に炉心溶融の可能性があるので危険にさらされるのは原発周辺に住む一般市民であることです。

つまり石炭火力はで石炭を採鉱する人にとっては危険があっても、電力を使用する一般の人々にとっては大きな危険はありませんし、もちろん死者が出ることもほとんどありません。

これはナイキのスニーカーが賃金の安い国の子供たちの過酷な労働によって作られていると非難されているのと似ているかもしれません。先進国でも炭鉱はありますし、事故死もありますが、炭鉱事故が多いのは圧倒的に中国など労働条件の劣悪な国だからです。

しかし、石炭火力と原発を比べる時の違和感の根源にあるのは、石炭火力発電所が事故で半径数十キロに渡って何万人もの人が避難するような事故を引き起こすことはまずありえないからでしょう。

何万人もの人が避難しなければならないのは炉心溶融とそれに続く大爆発で危険な放射性物質が大量にばら撒かれるような事態を恐れてのことです。石炭火力にはそんな危険はありません。

むしろ原発の最大のリスクは何万人もの人が生活を棄てて避難させられてしまうこと自身でしょう。福島原発の事故では一般市民に一人の死者も出ないと思われますが、東電の賠償額は何兆円にもおよぶと言われています(この推定にはいくつも疑問はありますが)。

何兆円も補償金を払うような事故は日航機ジャンボ機の墜落事故を含め過去に例がありません。少なくとも補償金という点では原発は恐ろしく危険なものなのです。

桁外れの補償金は電力会社の危険ですが、もちろん原発周辺住民の危険でもあります。いきなり今までの生活を断ち切って立ち退かされ、一体いつになれば戻れるか見通しがつかない。もしかするか半永久的に自分の住んでいた土地が人間の住めない場所になるというのは、被害として尋常ではありません。

つまり原発の危険は石炭火力の危険とは全く性質の違うもので発生する死者が多い、少ないで比べるようなものではないと言えます。それではどちらの危険がより好ましいものなのでしょうか。「どちらもダメ」というのは感情的には判りますが、選択を避けていては電気は得られません。

危険なのは石炭火力や原発だけではありません。石油の採掘では昨年メキシコ湾の海底油田が掘削パイプが折れ78万キロリットルの石油が海に流出しました。被害規模は数兆円と見られます。

天然ガスはメタンハイドレートという、海底の氷結状態のメタンガスの採掘が考えられています。もし可能ならば日本周辺だけで日本の天然ガスの百年分の埋蔵量があると考えられています。

しかし、メタンハイドレートは迂闊に採掘して高圧で氷結していたメタンが大量に空気中に放出されると二酸化炭素の数十倍という強力なメタンによる温室効果で気温が急上昇し、それがメタンハイドレートの崩壊につながるというハルマゲドン的大災害が危惧されています。

そもそも原発が一時脚光を浴びたのは地球温暖化を招く二酸化炭素の排出がほとんどないということです。地球温暖化なんて嘘っぱちだと言う人も最近は多いのですが、地球温暖化論で中心となったIPCCの予測では気温が10度も上昇すると世界経済が破滅的な損害を被ると予測しています。

原発の1個や2個大事故を起こしても世界経済が破滅的な損害を受けることはないでしょうから「大丈夫、大丈夫」と気楽に構えていて良いものかの疑問は残ります。

原発事故で一段と脚光を浴びている風力、太陽光発電は、そもそも原発や一般火力を代替するという意味で実用化できるのかという大きなリスクを抱えています。単に確率だけを言うなら、原発、火力(化石燃料)などに伴う危険より、こちらの確率の方がずっと高いでしょう。

結論めいたことを言うなら、残念ながら何が危険か、あるいは経済的かというのはとても簡単に答えの出せるようなものではないということです。単純に関連する死者を比べて判断ができるようなものではないのです。

はっきりしているのはエネルギーはただでは得られないということです。経済的にも人的にもそして環境的にもどの技術も危険を抱えています。これは自然エネルギーも例外ではありません。直径100メートルの風車が百万本も並んだら日本の自然が無事であるとはとても考えれません。

多分簡単ではない問題に簡単な答えはないでしょう。どの答えも欠点と危険と不確実性に満ちた不満足なものでしかないのです。できることは不満足なものを組み合わせてどうやって満足により近いものを作るかということです。しかし、それが世の中というものではないでしょうか。



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