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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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勲章配分機関の経団連はもういらない
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経団連を脱会した三木谷楽天社長

楽天が経団連から脱会しました。楽天の三木谷社長は「日本は会計制度、電力政策など国際的な基準に合わせていくべきなのに、経団連はその方向に向いていない」とその理由を述べています。これに対し経団連の米倉会長は「経団連はある産業の利益団体ではない。日本経済や国民生活向上のための政策集団だ」として、「かなり誤解があるのでは」と反論しました。

経団連、日本経済団体連合会、は日本商工会議所、経済同友会と並ぶ「経済三団体」の一つです。その中でも経団連は、その会長が「財界総理」と呼ばれるように、三団体の中でも特別な権威と力を持っていると言われています。

経団連は企業会員と個人会員から構成されますが、企業の経団連への入会は簡単ではありません。会員企業は事実上東証一部上場の会社に限定されます。また吉本の入会が話題になったように会社の属する業種が社会的に一定の認知度を持っていることが入会の条件となります。

楽天は2004年に経団連に入会しましたが、ネット企業が経団連に入会することはある種の感慨をもって受け止められました。楽天の経団連入会の翌年のにはライブドアが入会を果たしましたが、そのライブドアは入会承認とほとんど同時に証券取引法違反の容疑で捜索を受けます。

ライブドア事件に関連して当時の奥田経団連会長は「ライブドアの経団連入会承認は時期尚早だった」とコメントしています。当時ライブドアはすでに東証一部に上場されていましたが、経団連に入るためには東証一部上場は必要条件に過ぎず、「立派な企業かどうかを見極める時間も必要」ということなのでしょう。

これほどの格式のある組織ですが、経団連は一体何を目的としているのでしょうか。ホームページによると「経済界が直面する内外の広範な重要課題について、経済界の意見を取りまとめ、着実かつ迅速な実現を働きかけ」る。つまり経済界を代表して圧力団体として振る舞うということのようです。

しかし、経済界が一丸となって政策実現に向けて行動するなどということができるのでしょうか。例えば法人税の減税があります。これに反対する会社はまずありませんが、その引き換えに優遇税制を縮小、廃止するとなると意見は途端に分かれます。

プラスチックなどの石油製品の原料となるナフサは租税特別措置法により、揮発油税、石油石炭税から除外されており、免税額は年間3兆円以上にもなります。この免税措置と引き換えに法人税の引き下げをすることに米倉経団連会長は「そんなら法人税減税はいらない」と言い放ちました。米倉会長は住友化学の出身で、住友化学はナフサの免税措置の特典をもっとも得ている企業の一つです。

一般的に税優遇措置は既存産業に有利で法人税の引き下げは新興企業に有利です。税の優遇措置を享受できない企業は、安い法人税を求めて海外に転出するコストがより小さいとも言えます。

アメリカのレーガン大統領は法人税を大幅に引き下げましたが、それと同時にtax simplifibcationと言って、様々優遇税制を多くの反対を押し切って実行しました。その有効性がどこまであったか判りませんが、アメリカで新興のIT企業が90年代以降次々に興り、インターネット革命の原動力になったことは確かです。

一方日本では数少ない成功したインターネット企業であったライブドアが、事件を起こしたとはいえ、経団連入会承認を「時期尚早」と言われています。企業の新陳代謝という意味で、やはり彼我の違いは大きいと言わざる得ません。

経団連がいつも既存産業の気を使ってばかりいたわけではありません。1960年代貿易自由化に反対する産業界を押し切って石坂経団連会長は貿易自由化を積極的に推進しました。個別企業、個別産業の利益より、経済界全体ひいては日本全体にはその方が利益が大きいという信念と実行力があったのです。

第2代経団連会長の石坂は1956年から1968年までその職にありました。石坂は戦後復興から高度成長へと日本経済の方向性の舵を切ることに尽力しました。石坂はその強いリーダシップで初めて財界総理と言われた経団連会長でもありました。

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石坂泰三

石坂は冷戦構造の下で資本主義と社会主義の対立という観点から自民党に多額の献金を行うなど政界とのつながりを持ちましたが、経団連を経済界を代表して政府の援助を求める圧力団体とは考えていませんでした。

それどころか石坂は高度経済成長を提唱した池田首相が、「経済はお任せください」と言ったことを「あいつらは泥棒を捕まえたり、火を消したりしてればいいんだ」と言って批判しました。租税優遇措置という既得権の確保ばかり考える現在の経団連とは逆の非常に自由主義的な考え方だったと言えます。

石坂が12年におよぶ経団連会長の職を辞した後、日本経済は高度成長から成熟へと向かっていきます。60年代の三井三池炭鉱の大争議が「総資本対総労働」と呼ばれたような経営側と労働者側の精鋭的な対立は次第に薄まり、日本はGDP世界2位の経済大国として地位を確立します。

石坂後の経団連は大きな方向性や目的を失ったように思えます。巨大化し国際化する日本企業にとって徒党を組む必要性は薄れ、また全体を束ねるようなリーダーシップを持つ会長も出現しませんでした。それは個人の資質の問題うより経団連の変質を物語っていたと言えるでしょう。

経済界の代表としての経団連が形骸化する中で、経団連の権威はむしろ高まっていったと言えます。会長の下の副会長は会長の補佐というより有力業界の代表のような位置付けとなりました。そして副会長は会長へのステップとしてその就任に有力企業のトップは血道を上げるようになりました。

なぜ、形骸化した経団連の役職を大企業のトップが必死になって就任を求めることになったのでしょうか。それは勲章のための断言して良いと思います。日本の勲章制度は戦後生存者に対しては廃止されていませんでしたが1963年に再開されました。

本来、勲章制度は大化の改新に遡る官吏の位階を示すものです。国会議員や官僚が与えらるのは当然としても民間人に与えるようなものではありません。企業家とは日本の社会構造の中で士農工商の最下位というのは勲位の中で厳然たる事実です。

その商人たちが高い勲階を得るための「お国のため」の働きの権威づけとして経団連の役職は公的な意味を持つようになっりました。経団連で自社の利益にもあまりならない活動にカネと時間を経営者たちが惜しまず使うようになったのは、何よりより位の高い勲章をもらうためと言っても過言ではありません。

そのような背景を考えるとライブドアのような新興企業でしかも刑事事件を起こすような会社が経団連の入会を許されたのは確かに「時期尚早」だったと言えるかもしれません。

三木谷氏が経団連を退会することになったのは、経団連が勲章配分機関になってしまった現実を認識したからかもしれません。とは言っても勲章というものは「それを貰えるくらい偉くなって始めて値打ちが判るもの」だそうです。三木谷氏が勲章の値打ちを十分に認識していなかったとすれば、楽天の経団連入会もまた「時期尚早」だったのかもしれません。

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村上春樹氏への手紙に代えて
村上春樹氏は国際的にも高い評価を得て、ノーベル賞候補にも擬せられる、日本でもっとも高名な小説家の一人です。氏は今月9日スペインのバルセロナで行われた「カタルーニャ国際賞」の受賞式で「非現実的な夢想家として」と題する受賞スピーチを行い、原発廃止を訴えました(全文は例えばここ)。氏の影響力を考えるとスピーチの内容は相当広範囲の人々に届いたと思います。これは氏への私なりのメッセージです。

生活のすべてを置き去りにして遠く離れた避難所で不自由な日々を強いられている人々、育て上げた作物を放射能に汚染され廃棄しなければならない農民、不気味な音を響かせるガイガーカウンターの針を見つめながら子供の将来を台無しにするのではと不安におびえる母親。福島でそして日本中に広がっている恐怖と怒り、それらはたった一回の地震と僅か4基の原子炉が引き起こしたものでした。

科学者は「絶対はありえない」と言い、経済学者は「あらゆるものはトレードオフがある」言います。しかし、福島原発事故の結果が安全な原発という約束を破ったものであることは疑いようもありません。みな便利さや豊かさを求めます。それでもそれを得るための支払わなければならない犠牲が大きければ、すべての富は悪魔に魂を売った証に見えてしまいます。

「想定外」という言葉は傲慢さの裏返しに他なりません。事故は傲慢によって起きました。何もかも予見することなど不可能なのに、事故が起きるという可能性自身を想定の外に追いやっていたのです。事故が起きてからの指導者たちの混乱ぶりは、本当の意味で原発という怪物を飼い慣らす準備も覚悟もできていなかったことを示しています。そして、それは事故は起きないと信じ込む傲慢さのゆえでした。

私たちは間違った道に迷いこんでしまったのでしょうか。別の道は探さなければならないのでしょうか。道が見つからなくても、せめて道を引き返すことが分別というものではないでしょうか。原発事故という現実を目にして何もしないでいるほど私たちは愚かではいられません。

今は原発の存続を言うことの方が「夢想家」かもしれません。避けられない危険、積み上がる放射性廃棄物、得られるものは多少の贅沢と快適さ、失うものは未来、何をもって私たちは原発を使い続けると言えるのか。

しかし、いや、だからこそ、私は原発の中に核兵器を見てしまう、原発を「過ちは繰り返しませんから」という誓いと祈りを台無しにする不道徳なものと考えている人々に「それは違う」と言うことも義務ではないかと思います。

もともと原発は理解されることの少ない技術でした。最初それは無限の核エネルギーを利用することができる魔法の杖のように思われていました。「原発は電気メーターを無用の長物にするだろう」とまで言われたのです。原発は人類にとって二つ目のプロメテウスの火になることを約束されていると思われていました。

人類文明はいつもエネルギーとともにありました。火は人類をか弱いサルから地上最強の獣に変えました。産業革命は石炭の利用から始まり、20世紀の文明と科学は石油と堅く結びついていました。それは今でも続いています。

化石燃料が広範囲に利用されるまで、最大のエネルギー源は森の木でした。森が失われるとともに多くの文明が消え去っていきました。イースター島の巨大なモアイ像の群れは、かつてそこに存在した文明の生み出したものです。閉ざされた小さな島での争いと森林資源の枯渇がその文明を滅ぼしてしまいました。

人類は地球というイースター島よりは少しは大きな場所に住んでいます。しかし、森林資源が60億人の文明と命を支えることはできません。化石燃料を利用することは現代文明の原因でもありますが必然でもあります。

文明はいつも二つの顔を持っています。人間の手は木の実を砕く石器をいつでも人殺しに使うことができました。オッペンハイマーの手が血で濡れているなら、私たちの手も、文明そのものも血で汚れています。

その中で「効率」への批判は危険な罠です。効率を求める文明は戦争の悲惨さを拡大してきましたが、同時に医療を始めとした様々な文明の産物は人間の生活を向上させてきました。人間にとって何が幸福かを決めるのはたやすいことではありません。しかし、清潔で豊富な水の供給が伝染病を劇的に減らし、それが産業革命以降の電気やエネルギーの発達によって得られたものだということを見るだけでも文明の果たした役割を否定することはできないはずです。世界を飛び回りネットを通じて誰とでも会話ができる。人類文明が積み上げた高い塔の上に私たちはいます。

本当は文明に二つの顔があるのではありません。文明を作り出し利用する人間に愚かさと賢さが同居しているのです。人間の持つ愚かさを恐れるあまり、文明とその本質である効率性を否定することは賢い行いとは言えません。人間は賢く文明を利用する力も与えられているのです。

原発を捨て去ってしまうことが、人類にとって賢い選択なのでしょうか。結論を出す前にいくつかの現実を見つめ直すことが必要です。それは負の側面を持っているのは原子力だけはなく他の文明、技術も同じだということです。

化石燃料についてはいまさら繰り返すまでもないでしょう。産業革命で化石燃料の利用が始まった時から、環境汚染は化石燃料の最大の問題でした。最近はそれに地球温暖化へ懸念が付け加えられています。

資源の枯渇も問題です。昨年のメキシコ湾での大規模な海底油田からの原油流出は、そこまで石油を求めなければならなくなっている現状を改めて認識させました。石炭採掘で死亡する人は世界で毎年3千人を超えています。単純に死者の数を比べるのは慎みのあることとは言えませんが、死者の数を見る限り原発が何よりも危険な技術とは必ずしも言えません。

再生可能エネルギーに過大な期待をかける危うさも指摘しなくてはなりません。再生可能エネルギーは無尽蔵ですがひどく希薄です。文明を支えるエネルギーとなるためには高密度になるまでかき集めることが必要です。コストのまったくかからない太陽光や風をエネルギー源としながら再生可能エネルギーのコストが高いのは、希薄なエネルギーをかき集めるための設備と手間のためです。

希薄なエネルギーは広大な面積が必要です。必要な広さは工場ではなく農地と比較するのが適当です。土地は輸入も輸出もできません。人口と土地が不均衡な世界で再生可能エネルギーは石油資源以上に偏在しています。

安定性の確保はコストよりさらに克服が困難な課題です。太陽光は夜は使えず、風はいつ止まるか判りません。解決策はすべて未来の手の中にあります。今ある解決策はコストの点で多くの人が受け入れらるような現実性を持ってはいません。

再生可能エネルギーは期待とは裏腹に人類がすべてをそこに依存するまでにはいくつもハードルをくぐり抜けなければなりません。再生可能エネルギーの未来は淡い絵の具で描かれたデッサンです。堅牢な技術に裏打ちされた設計図ではありません。

原発の放射性廃棄物の処理は現在の問題ですが同時に遠い未来の問題でもあります。プルトニウムの半減期は2万4千年です。深い地中に埋めたとしても未来の人類に深刻な被害を与えることはないのか。現代文明の維持のために負の遺産を残すことは許されるのか。

この問いかけに完全な答えを出すことはできないでしょう。しかし、何万年という歳月も地質年代からみればわずかな期間でしかないということは言えます。昭和新山のような火山の爆発以外で深く埋めた放射性廃棄物が地表に露出すようなことは、数万年の間ではまず起こりえません。

私は未来の子孫たちのことを考えるなら10万年先のことより、ここ100年、200年の資源枯渇や環境汚染のことを考えるべきだと思います。地球は少し大きなイースター島に過ぎません。資源が環境がいったん失われてしまえば、文明もまた失われるしかありません。化石燃料か、再生可能エネルギーかあるい原発か、何が人類の未来を守ってくれるのかということはもっと短い期間(と言っても数世紀という時間軸ですが)で考えるべきことだと思います。

ここで話はもう一度原発事故に戻ります。すべてを予測することも無限の費用をかけることもできないのであれば、再び原発事故は起きるのではないか。その通りでしょう。いつかまた世界のどこかで原発事故は必ず起きます。福島原発事故の前から原子炉の炉心溶融の確率は2万年に1度程度と言われていました。世界には約500基の原発があることを考えると、これは40年に1度の事故ということになります。チェルノブイリの事故から約四半世紀が経過して福島があります。見積はそれほど大きくははずれてはいません。

改善は進んでいます。今後津波で決定的な事故につながる可能性はずっと小さくなるでしょう。今回の福島原発の事故でさえ数億円の投資が適切に行われていれば、ここまで深刻な事態を招くことはなかったと言われています。

福島の原発事故は原発事故の恐ろしさを改めて私たち教えています。原発の危険さは証明されたことです。疑う対象ではありません。しかし、膨大な人々の避難、広範囲な放射能汚染の広がりにおののくだけではなく、一人の死者も出ていないという事実も理解する必要があるのではないでしょうか。

運が良かっただけ。そうかもしれません。今回の事故では不幸な偶然と同時に、決定的な事態に至らなかった幸運もありました。地震の直後とにもかくにも原子炉内の核分裂は停止しました。そうでなければ、周辺部には現在より桁違いの放射性物質がばら撒かれていたはずです。チェルノブイリではそうなりました。

原発は発電量当りの死者の数では依然としてもっとも「安全」と言える電力です。風力発電でさえ保守や倒壊で死者が皆無というわけにはいきません。こんな算数をすることは狂気の沙汰でしょうか。しかし、一度の原発事故が日本を人の住めない土地に変えたり、桁外れの死者を出したりするのでなければ、計算することすら不道徳とまでは言えないのではないでしょうか。

原発は核兵器ではありません。原発を核兵器と同一視するのはトラックと戦車を同一視するのと同じです。技術基盤は共通していても目的も性質もまったく別物です。一方は安全性をできるだけ高めようとし、もう一方は殺戮力をできるだけ高めようとする。似ているところはあるとしても違いは無視できるようなものではありません。

私は原発廃止を訴えることが「非現実的な夢想家」だとは思いません。また、原発を支持し続けることが唯一の現実的な解だとも思いません。現実的でないのは、すべての選択肢には負の面があることを認めないことだと思います。

人間の愚かしさには底知れないものがあります。けれども賢さは最後は愚かさに勝ってきました。いま私たちがいるのは人類の賢さのお陰です。逆ではありません。しかし、いつどんなところでも賢さが勝利を収めたわけではありません。イースター島は違いました。優れた文明や技術は失われ、残ったものは数分の一になった人口とモアイ像の群れだけでした。

原発は人間が生み出したものです。悪魔の贈り物ではありません。原発を作りだすことができた人類は原発をより安全なものに進歩させることもできるはずです。原発事故は恐ろしい。しかし恐れるあまりすべてを投げ出し選択肢の外に放り出してしまうことは賢いこととは思えません。ルーズベルトが言ったように「わらわれが恐れなければならないのは、恐れることそのもの」なのではないでしょうか。

東京電力は破綻するしかないのか
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補償金は10兆円?

東電の株価がまた大きく下げました。今では300円を割り込み、3月11日の事故前の10分の1程度です。市場は東電は破綻すると予測しているのでしょう。東電の破綻はほとんどコンセンサスです。枝野官房長長官が銀行の債権放棄を口にして波紋を投げかけたのも、東電は破綻するに違いないという前提があったからです。

皆が東電の破綻を予測する根拠は もちろん原発事故の補償金です。事故はまだ収束しておらず、放射性汚染水の処理の不安も残っています。今後どれくらい補償金額が膨らむかを正確に予測することはできません。しかし、マスコミなどでは事故当初から10兆円に達する補償金額があたかも既成事実のように語られていました。

事故の影響が広範囲におよんでいることは間違いありません。避難を命令され自宅や生活手段そのものを放棄させられている人々、農産物の出荷停止、職場がなくなったことによる失業。さらに風評被害もあります。

それらの被害のどこまでを東電が補償金という形で賠償しなければいけないかは簡単には決まりません。風評被害で言えば、香港の日本料理店の売上ガタ落ちしたことや日本への外人観光客が大幅に減少したこともすべて原発事故が原因です。製造業も原発周辺にあった工場で生産されている部品が来なくなって、売り上げ減少さらに倒産といった事態も起きています。

しかし、賠償対象になるのは基本的に原発周辺で避難を余儀なくされている人々や、放射能汚染で出荷停止に追い込まれた農産物に限定されるでしょう。多数の訴訟が予想され、その対応だけでも容易なことではありませんが、裁判所での認定がそれを大きく超えるとは考えにくいことです。

2名の死者を出したJCOでの臨界事故では半径350メートルの範囲で150人が避難し、総額154億の補償金が支払われました。補償金10兆円説はこれを単純に半径20キロメートルからの8万人の避難者にあてはめたと思われます。

これは算定方法として粗雑過ぎます。この計算では避難者1名あたり補償金は1億円以上にもなりますが、避難生活がどんない困難を極めても、自動車や航空機事故での犠牲者に対するほどの補償金が発生することは考えられません。

県のGDPにあたる福島県の県民総所得は8兆円に達していません。農林漁業に限ると1,500億円です。もちろん被害は福島県や農業に限定されたものではありませんが、福島県全体の農産物がまるまる1年分出荷停止や廃棄処分になるわけでもありません。

少し多めに、避難された人への補償金が1人5百万円で10万人と考えて5千億円、農産物の被害が1千億円と考えても、補償金総額が1兆円に達するとはあまり思えません。今後放射能汚染水の処理や放射能汚染で住めなくなった地域の買い取り、校庭の土地の入れ替えなどを考えても最大1兆円程度の補償金額というのが概ね妥当ではないかと思います。

東電の財務状態

下の図は東電の貸借対照表です。貸借対照表は必ずしも財務の実態を正確には反映していませんが、ある程度の手がかりにはなります。これによると、東電の約13兆円の資産のうち純資産は20%以下の約2兆5千億円に過ぎません。
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東京電力のHPより(一部抜粋)


もし補償金の総額が1兆円で収まれば、いきなり債務超過にはなりません。ただし、福島の原発が廃炉になることで、資産の償却処分は必要です。貸借対照表では原発関係の資産は.約7千億円です。それと保管されている核燃料が帳簿上9千億円あります。それらの半分が償却対象になれば8千億円です。

ここまでくると純資産の合計7割にもなります。事実上すっからかんです。これは補償金を1兆円程度と世評より桁違いに小さく見た上のことですから、本当に10兆円もの請求書を突きつけられたら破綻しかないと思われるのは無理もありません。

ここでは、あまり現実的ではないと思われる10兆円の請求書の対策を考えるのはとりあえず置いておき、純資産がほとんどなくなる程度まで追い詰められたとしましょう。しかし、債務超過が企業破綻とは限りません。

企業が破産、破綻するのは資金がなくなった時です。代金を払わなければ誰も商品を納入してくれませんし、給料を払わなければ人は皆辞めてしまいます。逆に支払いさえきっちり行っていれば、企業は生き続けることができます。

東電とJALは違う

ここで2010年1月に会社更生法の申請、つまり破産してしまったJALと東電の違いを考えみます。JALは国際航空路線という非常に厳しい競争市場に身を置いていました。国際航空市場では競争のために航空券の安売りが常に仕掛けられています。しかも燃料費の値上がりでコストは上昇を続けています。JALのような元々半官半民でコスト意識の乏しい会社で利益の上がる態勢を作ることは至難の業でした。

JALもリストラの努力はしたのですが環境の変化は速く赤字が続きました。飛行機を飛ばせば飛ばすほど資金が流出していったのです。これでは資金が底を尽きそうだからと言っても誰も資金を貸そうとはしません。一度借金を棚上げにして一から出直すために破綻処理は不可避でした。

これに対し東電は競争市場にはいません。発送電分離で新規参入を活性化しようという話はあっても、取りあえず毎日の活動が赤字の連続ではありません。心配は停めた原発の電力を火力で補うために燃料費が急増していることですが、これは電気料金にそのまま上乗せすることが認められています。

つまり、東電は原発の処分や賠償問題を横に置けば、日々の事業で黒字を出すことは保障されているのです。これはJALとはまったく違う状況です。JALが破綻せざる得なかったようには破綻を運命づけられてはいません。

ただ東電も社債の返済や補償金の支払いなどで、日頃のキャッシュフロー以外に多額の資金の必要性は出てきます。この資金を誰も貸してくれなければ、やはり破綻せざるえません。しかし、この場合政府が債務保証をしてくれれば銀行も資金を貸し付けてくれます。

もっとも政権が代わって何の法的根拠もなく「銀行も借金の棒引きに応じるべきだ」などと官房長官が言いだすような国で政府の保証が本当に信頼に足るものかどうか、まったく不安がないわけではありません。日本が法治国家から人治国家にならないことを祈るしかありません。

財務問題というより政治問題

こうしてみると東電が破綻処理に進むかどうかは財務問題というより、政治問題だということがわかります。政治的に東電を維持しようと思えば、賠償金がたとえ10兆円になっても長い期間をかけて返済することは可能です。

逆に東電を血祭りに上げなければ国民世論が収まらないと思えば、とにかく一度破綻させてしまうかもしれません。債務超過にはならなくても、社債の借り換えができなくなれば破産するしかありません。

これは妥当なことなのでしょうか。「原子力損害賠償法」では「異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは」原子力事業者(今回の場合東電)の責任は追及しないとされています。さらに原子力事業者に責任がある場合は、1,200億円は損害保険で、それを超えるものは国が原子力事業者を援助するものとしています。

原子力事業には大きなリスクがあります。そのため、本来は政府の保障がなければ成り立ちにくい事業です。これは原発が政府の補助がなければ採算に合わないほどコストが高いという意味ではありません。自動車で大きな事故を起こす可能性は小さく、確率論で考えれば保険料の支払いが割に合わなくても自動車保険に加入することは妥当だということと同じです。

自動車事故では万一加害者になれば経済的に破滅してしまう可能性があります。そのようなリスクは負えないので確率論的には損でもほとんどの人は自動車保険に加入します。原発事故の被害は今回の事例でも判るように上限額さえ不明なほど巨額になる可能性があります。民間の損害保険会社が1,200億円に保険金支払いを限定しているのはそのためです。

同じことは原子力事業者にも言えます。もし国の後ろ盾がなければ原発事故で交通事故の加害者がそうであるように破綻してしまう可能性があります。このような事業は民間企業は本来参入すべきではありません。

それでも日本の電力会社が原子力事業を行うのは、それが国策であったからです。万一の場合の政府の支援があると暗黙の期待と了解があったと考えるのはむしろ自然なことです。

東電は世界最大の民間電力会社です。その東電でさえただ一回の事故で破綻の淵にたたされています。事故の経緯をみると東電経営者の無能ぶりは際立っているように思えます。しかし、経営者には適切な責任を取らせるとしても、国による支援という暗黙の了解を基に東電に与えられた高い格付けとそれを信じた社債購入者が事故の損害責任を取らされるのは公平なこととは思えません。

いずれにせよ東電の破綻は政治的な判断にかかっています。もし借入金に対し政府が債務保証をすれば東電は確実に生き残ることができます。その場合、巨額な賠償金や原発を停止することで急増する燃料費その他は全て電気代という形で利用者が最終的に負担することになるでしょう。

その代わりに東電をいったん破綻させ、補償金を国費で購うこともできます(補償金を踏み倒すのが普通の破綻処理ですが、それは政治的に不可能でしょう)。ツケを負うのは東電の利用者ではなく国民全部ということになります。

どちらも選べますが、株主責任の追及は仕方ないでしょう。むしろ現在のように一時の10分の1になった東電株の購入は政府支援で東電が起死回生の回復を遂げることを期待した投機と言えます。昔からの株主は不満でしょうが、上場廃止で大儲けの機会を奪うべきです。

「絶対安全神話」の呪縛

福島原発事故は原発の「絶対安全神話」を壊したと言われます。しかし、技術者、科学者は事故の確率を語ることはあっても「絶対安全」などとは「絶対」に言いません。原発反対派が「絶対安全と言えるのか」と詰め寄るのに対し、電力会社や政府が「絶対安全です」と答えてきたのです。

あまり感心したこととは言えませんが、相手の質問が無理なことを聞いているのですから、その場しのぎの答えを繰り返したことはあながち悪いことだったとは言えません。しかし、「絶対安全」という言葉は原発に責任を持つ経営陣の頭の中にしみ込んでしまったようです。

もし絶対安全と思わなければ、保険なしの自動車を運転するようなあやふやな賠償金処理の枠組みのままで多数の原発を建設、運営することはなかったはずです。事故時のマニュアルも作るだけでなく、住民も含め「消防訓練」を繰り返していたはずです。皆「絶対安全」を信じていたため十分な検証は行われなかったのです。

事故被害の巨額さを見ると、改めて原発全体に対する保険機構のようなものを政府が作るべきだということがわかります。50年に1度の事故で1兆円の賠償金なら保険金は1kW時あたり0.1円以下にしかなりません。10兆円でも1円にはなりません。原発のコスト競争力を根底から覆すようなものではありません。

原発自身や燃料棒も電力会社の資産にすべきではないでしょう。いつ資産からただの負債に転換するかわからない、巨額の資産を貸借対照表に載せているのは民間企業としては不健全です。国策のリース会社のようなものを作って、電力会社はそこから原発施設を借りるようにすべきです。

福島原発事故では死者どころか深刻な急性放射能障害の被害者は一人もでませんでした。チェルノブイリのように撒き散らされた放射性物質で多くの癌患者を発生させるようなこともないはずです。

しかし、東電は今や破綻寸前です。東電の犯した数々の失策はきちんと検証されるべきですし、絶対安全の建前のもと、津波や様々な懸念を十分に検討しなかった傲慢さも責められるべきでしょう。しかし、国策の下で原発を推進したことで一つの事故で世界最大の電力会社をあっさり破綻させるのは、過去の経緯を考えればあまりにも安易ではないでしょうか。

IT屋の見る国民総背番号制度
このブログを書いてから、そもそもIDカードなど作らなければ良いと気が付きました。運転免許証やパスポートにIDを記載すれば通常の用は足りますし、きしんとした証明書は今の住民票のようにその都度発行すれば十分なはずです。IDカードは紛失野危険もあるし、維持費が膨大にかかります。


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国民総背番号制度には、ジョージ・オーウェルが小説「1984」で描いた、国家による究極の個人監視システムができあがると恐ろしいイメージがつきまとっています。しかし国民総背番号制もコンピューターの一つの利用形態に過ぎません。等身大の国民総背番号制にはどんなメリットと危険があるかを、IT屋の視点で見直してみます。

再び国民総性番号制が議論になってきた

何度も出ては消えてきた国民総背番号制度、国民一人一人に識別番号を割り当てる仕組み、が実現に向けて再び熱を帯びてきました。今回は「税と社会保障の共通番号制度」という名前です。昨年から国家戦略室などでの検討を経て今年4月には政府により「社会保障・税番号要綱」が発表されました。計画では2015年には国民総背番号制度が始まります。

名前が示すように、これは「税と社会保障の一体改革」の一環として検討が進められてきたものです。納税を年金、健康保険などの社会福祉と共通の仕組みで取り扱うことで、国民にとってはたとえば確定申告で自己負担した医療費の控除を簡単に受けられるような利便性が得られます。

国民総背番号制は30年ほど前に納税事務の簡素化を目的に納税者番号制度、いわゆるグリーン・カードとして導入が真剣に検討されました。この時はグリーン・カードの事務処理のための巨大なデータセンターまで建設されたのですが、計画は強い反対で結局頓挫しています。

住民基本ネットワークシステム(住基ネット)は、本来は国民総背番号制度を支えるインフラという意味を持っています。しかし、住基ネットは役所が作ったシステムらしい使い勝手の悪さや、セキュリティーに対する不安などから普及は遅れており、納税者番号制度への利用なども行われていません。今回の制度は住基ネットの番号体系や本人確認を基礎にしていて、ある意味住基ネットの生まれ変わりと言うこともできます。

国民総背番号制の利点と不安

国民総背番号制の採用が何度も試みられたのは「納税者番号制度」と呼ばれたこともあるように公平な課税、言いかえれば漏れのない税金の取り立てが最大の目的でした。共通番号によって所得や財産の情報を一元的に集約することで徴税事務をもっと簡単にしようとしたのです。

また、「消えた年金」問題は、年金制度が統一された年金加入者番号システムを持っていなかったという事実を誰にも判る形で示しました。年金事務は手作業で年金手帳を頼りにして行われてきたのです。一つの会社に一生勤めるような場合でなければ事務が混乱しない方が不思議と言えます。

国や地方の行政府は国民を顧客とした巨大なサービス業です。年金問題は端的な例ですが、普通の企業なら顧客番号なしで継続的な顧客へのサービスを提供するというのは考えられません。転居したり名前が変われば処理が複雑手間のかかるものになることは誰でも想像がつきます。

日本のような1億を超える国民、つまり顧客を抱える国で国民に識別番号を付けていないのは、ある意味驚きなのですが、便利さが逆に心配、反対の種になっています。

国民が統一した番号で管理されるようになれば、国民のあらゆる情報を国家が得ることできるようになるのではないか。プライバシーも何もなくなり、ジョージ・オーウェルが小説「1984」で描いたような究極の国家による国民監視システムが実現するのではないか。そう心配する人は少なくありません。

さらに、コンピュータ・セキュリティーへの不信もあります。顧客情報の漏洩は四六時中報道されています。もし国民すべての情報が流出してしまったら、それが北朝鮮のような国家に渡ってしまったら日本国民全員が操り人形にさせられてしまうのではないか。そんな懸念を持つ人さえいます。

国民総背番号だけでは何もできない

不安は自分のデーターがどんどんコンピュータ化され、それが悪用されているという現実も背景にあります。「オレオレ詐欺」は個人情報がコンピューター化されることで起きた犯罪です(「オレオレ詐欺と個人情報」)。今では小学校のクラスの名簿でさえ作るのは難しくなりました。

しかし、単に国民全員に番号を付けただけで国民の情報が何でも利用できるわけではありません。それにはその識別番号で個人情報をアクセスできることが必要です。つまり、あらゆるデーターに背番号の情報が付け加えられる必要があります。

大混乱を引き起こした年金問題は、1997年以降、10桁の基礎年金番号で管理されるようになりました。番号は過去に遡って公的年金加入者全てに割り当てられます。基礎年金番号によって取り扱われる年金事務で「消えた年金」のようなことが起きることはなくなりました。

基礎年金番号は国民のほとんどが持つことになります。これをそのまま国民総背番号制度の代わりに使用することは、年金未加入者にも仮の番号を与えるなどすれば技術的には可能なはずです。実際、アメリカでは社会保障番号が事実上の国民の背番号として使われています。

そうは簡単にはいかないのは、基礎年金番号は年金以外の目的では使用されていないからです。アメリカの社会保障番号は年金番号だけではなく、社会保障に関係するため個人の収支を管理するために幅広く使われています。

アメリカでは社会保障番号がなければ扶養者に所得がないことを証明することができませんし、扶養者控除も受けられません。社会保障番号は連邦納税者識別番号としても使用されていますし、軍の識別番号にも使われています。アメリカの社会保障番号は国民総背番号のデ・ファクト・スタンダード(事実上の標準)になっています。

国民総背番号が本当の意味で機能するためには、国や地方の持つ全てのサービスに背番号が利用されることが必要です。逆に言えば背番号を利用する分野を限ってしまえば、国民全員に背番号を付けても利用価値は少なくなってしまいます。

「税と社会保障の共通番号制度」はその名の通り、納税者番号制度に加え、医療、雇用、介護など各種社会保険で利用されることが法律で明記される予定です。システムが稼働すればかなりの個人情報が同じ番号の下で管理されることになります。

ただ、基礎年金番号と対応付けをするかははっきりしません。常識的には同じような目的の番号制度を二重に持つのは能率的とは言えませんが、共通番号制度で決めた番号を年金システムの個人情報の一部に付け加えることで実質的な統合は進むだろうと予想されます。

さらに、現在の日本で個人の身分証明書として一番活用されている運転免許証にも共通番号を持たせれば、番号の利用は大きく広がります。本人確認の簡素化だけを考えても共通番号が国民の唯一の背番号として様々なシステムで使われるようになる利点は大きいでしょう。

これは国民の情報が国家管理されるという不安を高めます。しかし実際には、ほとんどの国民にとって、納税、年金、社会保険、運転免許の情報が統一して取り扱われる事は便利さのほうが危険よりずっと大きいでしょう。

例え、共通番号が広く使われても運転免許、年金などに関する情報は個別のシステムの中にあります。ある人の番号を知っただけで芋づる式に全ての情報を得られるわけではありません。

国家が情報を得やすくなるかという心配について言えば、元々国が捜査目的などで特定の個人の個人情報を得ようとすれば今でも簡単にできます。背番号制度は事務の簡素化という効果はあっても、国家の国民監視能力を格別に高めるわけではありません。

民間利用をどこまで進めるか

情報による個人の監視という点で問題になるのは国や地方自治体の持っているデーターよりむしろ民間の情報です。クレジットカードの利用履歴が判れば消費行動を知ることは容易です。DVDの貸出情報を見てほしくないと思う人も多いでしょう。そのような情報は国民総背番号制度で筒抜けになってしまうのでしょうか。

それにはクレジットカード会社やビデオレンタルの会社が個人の持っている背番号を顧客データーとして入れていることが必要です。そうしなければ国民総背番号制が存在していても個人情報の収集のしようがありません。

背番号の民間利用を禁止してしまえば、このような問題は起きません。しかし、これはかなり無理があります。そもそも、今検討されている背番号制度は納税事務の効率化を第一の目的にしています。

それが有効に機能するには銀行口座や送金事務で背番号の記入を義務付ける必要があります。韓国では「金融実名制」があり納税事務のために導入された番号システムの金融機関へ使用義務を課しています。

背番号は本人確認として非常に便利なので普及してくれば、クレジットカードの申し込みや車の購入、携帯電話の契約に広く利用されることが予想されます。個人の背番号を頼りに全ての個人情報を得るというのは誇張とは言えなくなります。

しかし、そのためには個人の背番号を知っただけでは十分ではありません。情報は個別のシステムの中にあるのですから、それぞれのシステムにアクセスすることが必要です。もちろんそれは一般の人に簡単にできることではありません。

国家による国民監視という点では、捜査機関が特定の個人を調査する目的であれば、背番号でなく名前でも大方の用は足りるはずです。国民の背番号の民間利用が進んだからといって、それだけで国民監視国家の実現につながるというのはやはり飛躍と言うべきでしょう。

国民総背番号制のリスクを考える

これまで述べてきたように、ITの仕組みや実態を考えると国民全てに背番号を付けたからと言って、それで国家による国民監視体制ができるというジョージー・オーウェル的世界を恐れるのは間違いです。捜査機関は必要に応じ特定の個人のコンピュータ化されている情報を調べ上げることは今でもできます。

国民総性番号を恐れるのは徴税事務の効率化で所得隠しが難しくなる人たちです。国民全体からみればそれは少数の金持ちに過ぎません。事務の煩雑さを隠れ蓑にして課税を免れるというのは本来は公序良俗に反することです。所得隠しのかなりが不法な収入に対するものだということも認識すべきでしょう、

国や地方の管理している個人情報は、税金、社会保障それに戸籍に記載してあるような比較的ありふれたものです。国民総背番号があろうとなかろうと行政機関が保有していることには変わりませんし、何かの形で漏洩する危険は今でもあります。

国民総背番号制があっても情報漏洩は個別のシステムのセキュリティーの問題です。それは民間企業に背番号が広く利用されるようになっても同じです。国民総背番号ができたからといってクレジットカードの購買情報と携帯電話の履歴を組み合わせて個人の行動をに把握するようなことが簡単にできるようになるわけではありません。

国民総背番号制の危険は国家による国民監視体制や、芋づる式にすべて個人情報が盗まれてしまうようなことではありません。むしろ、国民総背番号制のリスクはその便利さのために、他人への「なりすまし」が簡単になることです。

国民総背番号を利用するには運転免許証や健康保険カードのようなIDカードが必要でしょう。国民総背番号システムを有効活用すれば1枚のカードで運転免許も健康保険も兼用することも可能です。しかし、そのようなIDカードはいったん偽造されれば、銀行口座の開設、携帯電話の取得、クレジットカードの作成など犯罪組織にとっては喉から手の出るほど欲しいものを一挙に手に入れることができます。

今でも運転免許証やパスポートの偽造はありふれた犯罪です。しかしいったん背番号用のIDカードを作ることができればパスポートも何も本物を簡単に作ることができるようになるはずです。そうならなければ国民総背番号が事務の効率化にはつながりません。

どうやって国民総背番号を利用した「なりすまし」を防ぐかはかなり面倒な問題です。セキュリティーに絶対はなく、逆に完全に近い防御システムほどいったん破られた時の被害は大きくなります。多少の不便さ、効率の悪さを残す方がよいのかもしれません。

一方、国民総背番号制によるジョージ・オーウェル的世界(何度も言っているようにそれは幻想に過ぎません)を恐れるあまり、システムが過大に複雑で使い勝手の悪いものになる可能性があります。込み入ったセキュリティー対策は知識を持った犯罪者には意味がなく一般の使い勝手を悪くするだけになることの方が多いのです。

住基ネットの使い勝手の悪さやインターネットバンキングの複雑さをみると入口のところでセキュリティーを頑丈にしようとしてユーザー、特にコンピューターに不慣れな人たちにひどく扱いにくいものになってしまっています。

システム防御の基本はユーザーIDとパスワードだけで十分というか、それ以上のものであってはいけないでしょう。パスワードを頻々と変えるように要求したり、とても覚えられないようなパスワードを使うのは間違いです。住民票の取得のようなものであれば、パスワードも何もなしでIDカードだけでできるようにすべきです。

国民総背番号の本当の危険は国家による国民監視でも、犯罪組織による「なりすまし」の蔓延でもなく、ITへの無理解と何でも政治的に利用しようとする人たちによりとてつもなく使いにくいシステムになることかもしれません。ただでさえ、国が作るシステムは面倒で使いにくいものが多いのはご存じの通りです。

セキュリティーパラノイアに陥らず、常識的な判断で作られれば、国民総背番号制度は欠点より利点のはるかに多いものになるでしょう。住所変更に伴う健康保険証や運転免許証の再発行のような面倒な手間も(希望的観測としては)なくなるはずです。

国家による国民監視を過剰に恐れるあまり、複雑怪奇なシステムを作ったり、国民総背番号制の実現自身に反対して、課税逃れの連中を喜ばすのは愚かなことです。国家による国民監視が行き届いた国民サービスになるか暗黒の統制社会を作るかはシステムの問題ではなく民主主義をきちんと機能させることができるかどうかの問題です。間違った危険の認識は間違った解決策を生むだけです。