ビジネスのための雑学知ったかぶり
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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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一年を振り返って: 原発を巡って
今年は33本のブログを書きましたが、そのうち約半数の15本が原発事故に関連するものでした。原発については昨年から何本かブログを書いてきたので、事故が起きた時、炉心溶融の意味やチェルノブイリ、スリーマイル島の事故などについて一定の知識は持っていました。

しかし、どちらかという知的なゲームとして見ていた原発の妥当性の論議は、事故後にわかに現実的な課題になってしまいました。原発を停止して電力不足や電気料金の値上げを我慢するのか、あるいは稼働を続けるべきなのか、というのは日本人誰もが考えるべき問題になりました。福島の事故を受け、ドイツとイタリアでは原発を電力源として放棄することが決まりました。

もっと切実な問題は放射能の危険性をどう考えるかということです。放射能被害を心配して避難地域でもないのに疎開する人まで現れました。福島県産の農作物は安くしても売れなくなり、ゴルフ場さえ茨城、栃木ではプレーする人が大幅に減ってしまいました。

年が終わるのに当ってブログを振り返りながら、原発について考えてみたいと思います。

ブラックスワンを見た日: 福島第一原発事故 2011/03/28 

事故の約2週間後の記事です。その後ここで書いたことから事実認識は大きくは変わっていません。前の年に確率的には2万年に1回程度と考えていた事故が実際に起きたことで、何を反省し、何を検証すべきを考えるのが記事を書いた目的でした。

その時は検証し反省をした上で原発の稼働を当面続けるということが念頭にありました。しかし、世の中は原発稼働賛成と反対の二つに分かれ、また反省も「絶対に事故が起きないようにするにはどうするか」という不毛なものに移ってしまったようです。

安全対策を強化することで事故の確率と事故の被害を小さくすることはできます。しかし「絶対」に事故を起こさないことは過去も将来もできません。ブラックスワンは確率的にはありえない事も起きうるという意味です。そしてそれは原発事故だけでなく、金融システムから戦争まであらゆることに適用されます。「絶対」を求めることは現実的ではない。その理解がまず必要です。

脱原発のコスト 2011/04/18 

「絶対」を求める人に決定的に欠落しているのはコストの概念です。「金で命の問題を考えてはいけない」というのは正しくありませんし、現実の世の中はそのようになっていません。1億あれば心臓の移植手術を受けて命が救える、と判っていても1億円が簡単に降ってくるわけではありません。原発を停止すれば原発事故の危険はなくなりますが、コストはかかります。

原発のコストは放射性廃棄物処理や事故の損害をどのように見積もるかは原発に対する立場で大きく違ってしまうのですが、少なくとも原発を火力で置き換えれば、燃料費が余計にかかるのは事実です。原発を全停止するとその費用は2兆円程度ですが、将来化石燃料の価格上昇でその額はさらに膨らむ可能性は大きいと思われます。

石炭火力と原発どっちが危険か 2011/05/11 17:23 
原発事故と飛行機事故 2011/09/04 

原発に反対する人たちが往々にして無視するのはコストと並んで、原発以外のリスクです。原発と飛行機のリスクは死亡確率という点では圧倒的に飛行機が高い(そもそも原発ではほとんど人は死んでいない)のに飛行機には乗るが原発は嫌というのは、頭で考える理屈には合いません。

理屈には合わなくても、原発が怖いと感じられるのは自由意思では選択できないからとか、色々とそれこそ理屈は付けられます。だからと言って原発と他のリスクの比較さえ嫌悪するのは正しい態度とは思えません。

原発を止めよう、停止しようというのはリスクがあるからでそれ以上でも以下でもないはずです。しかし原発反対に政治的意義を見出すような人や、感情的なレベルで原発停止を求める人はこのような考えに納得しません。困ったことだと思います。

放射能ってそんなに怖い? 2011/05/09 

原発の危険は放射能の危険に尽きます。しかし、放射能の危険について一般的な理解は高いとは言えません。いまだに「何ベクレルの放射能が検出された」というニュースがで出ますが、それがどの程度危険なのか、ベクレルとはどのような意味を持つかを報道してはくれません。

放射能被曝は、一時に大量の放射能を浴びる急性放射性障害に陥らなければ、長期的な発癌率の上昇以外の危険はありません。そして発癌率の上昇はタバコなどと比べれば概ね小さいし、ほとんどの地域では癌患者の増加がいかほどであろうと放射能の影響を確かめられないほど僅かでしかありません。放射能の危険性への正しい認識が正しい事故対策になるのですが。どんな少量の放射能も致命的に危険、という科学的には誤った考えが多くの人に持たれてしまっています。そして、それがコスト意識のなさと結び付くと、どんなに費用をかけても除染を完全に行うべきだという議論になってしまうのです。

東京電力は破綻するしかないのか 2011/06/07 
なぜ人は東電社員の懺悔を求めるのか 2011/11/29 

今回の事故で主要なターゲットになっているのは、もちろん東京電力です。東電の管理体制、事故準備に不備な点があるとか、官僚的で決まり切った情報しか流さない、といった問題があるのは事実なのですが「悪の象徴」として潰すことを目的化したような動きが出るのは、いつものことながら異常に感じられます。

二つのブログは財務的にどの程度東電は破綻の淵にいるかということと、なぜ個人攻撃的な東電社員への非難へと人の心が動いてしまうのかを解説しています。

自然エネルギーに未来はあるのか 2011/05/17 
孫氏の自然エネルギー構想はいばらの道 201/05/26 
官製プロジェクトはなぜ失敗するのか 2011/05/31 

二つのブログを書いた5月頃は原発がなくても自然エネルギーがあるさ、といったある種のユーフォリア(多幸症)的な高ぶりがありました。その頃自然エネルギーを事業化する動きを全国の知事を巻き込んで始めたのがソフトバンクの孫正義氏です。

自然エネルギーは決して簡単に原発の代替になれるようなものではないということについては本文をご参考にしていただくとして、変わり身の早い孫氏は既に自然エネルギーへの興味をまったく失ってしまったようです。

孫氏の素早い動きに負けまいと(?)、菅首相も自然エネルギーへの傾倒を見せました。サミットで新しいエネルギー政策「サンライズ計画」を発表したのです。しかし、こんな計画が発表されたということすら今では忘れさられてしまっています。

放射能の危険は「絶対安全と証明されてはいない」と言い続ければ、いつまでも主張を変えずにいられますが、自然エネルギーの事業化は実際に採算に合わなければ孫氏のような実業家はあっさりと見限るということです。今年は自然エネルギーの実用化についての検証作業という点では有意義だったかもしれません、

日独伊はなぜ脱原発に向かうのか (1)
 2011/07/31 
日独伊はなぜ脱原発に向かうのか (2) 2011/07/31 

福島原発事故への反応はある意味海外の方が強いものがありました。事故を受けイタリア、ドイツでは原発を電力供給の手段として放棄することが決められました。日本が保守点検に入った原発の再稼働をしないことで実質的に原発廃止に向かっているように見えることを合わせるとどうしても第2次世界大戦での日独伊三国同盟との連想が働いてしまいます。

ただ、この話は連想が働くという以上の共通点は今のところ見出せません。むしろ、ドイツとイタリアがフランスという原発大国からの電力供給を受けられる立場にいるのに対し、日本は自国で電力供給を完結させる必要があるという違いに思いをいたさなくてはいけないでしょう。

強いてあげると日独伊は敗戦国であるということが理由で核兵器を保有していないということかもしれません。しかし、原発は核保有国以外にもあり、その全てで廃止の方向に向かっているということはありません。やはりこれはただの偶然の一致に過ぎないと考えるべきでしょう。しかし、何とも言えない不気味さが残るのは事実です。

村上春樹氏への手紙に代えて  2011/06/12 
袋小路の反原発運動  2011/09/22  http://realwave.blog70.fc2.com/blog-entry-304.html

原発反対には数多くの知名人、有名人も参加しました。その中で村上春樹氏の原発への反対意見の表明は大きな影響力があったと思います。とりわけ氏の作品の愛読者の一人としては、氏が豊富な知識と冷静な分析力を持っていると知っているが故に、ある種残念な気持ちにさせられました。

それと比べれば、大江健三郎氏の反原発運動支援は、驚くに足るようなものではありませんでした。氏は1960年の安保闘争以来、一貫して反戦派であり、核兵器と原発を同一視するという立場をとってきたからです。

全体として見れば、政治運動と結びつくようになって反原発運動は一つの袋小路に入ってきています。しかし、原発を停止させるという意味で反原発は成功を収めつつあります。原発に危険性がある以上、原発を受け入れるかどうかいう問題は増税や米軍基地と同様にプラスとマイナスを秤にかけるという、日本がもっとも苦手とする問題を克服しなければならないからです。

一連のブログを読み直して感じたのは、専門家でも何でもない私のブログのレベルの知識を持たずに原発や放射能危険さらには東電の破綻処理の問題を論ずる人があまりに多い事です。それは表面を見る限り、マスコミ、政治家多くの評論家も例外ではありません。

今年はこのブログを含めれば15本も原発に関するブログを書きました。来年もまたいくつか書くことになるかもしれませんが、世の中の原発論議が政治的、感情的なものからもっと経済学も含めた科学的なものになることを期待しないではいられません。

それでは最後ですが、皆さま良いお年を!
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定年延長より定年廃止

厚労省の諮問機関、労働政策審議会は今月(2011年12月)28日、65歳までの継続雇用を企業に促す高齢者雇用制度の改正案をまとめました。それによると現在の「高年齢者雇用安定法」で努力義務になっていた65歳までの雇用の継続を段階的に企業に義務化していくとなっています。

このような政策が出てきた理由は明らかです。年金財政の逼迫で、年金支給年齢が65歳へと引き上げられてきているのに、一般企業の定年はほとんどが60歳に留まっているからです。定年後、年金支給までの無収入の期間をどのいように生活するかは、完全に個人に任されているのです。

しかし、経団連を始めとして企業側はこの提案に抵抗しています。定年の延長は社員の老齢化を進めるし、社会保険の負担も含めれば相当のコストを負担しなければならないと考えられるからです。

一方働く側から見ると、定年延長は既に職を得ている人には有利でも、これから就職しようとする人達には雇用機会がそれだけ小さくなることを意味しています。ただでさえ就職が難しくなっている中で、これは深刻な問題です。

さらに定年の延長で雇用コストが増えると企業は人を雇用しようとする意欲を一層失う可能性が高くなります。円高で日本で事業を行うことが国際競力の上で不利に働くようになってきている中で、これ以上企業の負担を増やせば企業の海外流出が加速する危険があります。

結局、定年延長で利益を得るのは、既に雇用されている人をメンバーにする労働組合と年金財政の辻褄を合わせたい、厚労省、財務省ということになります。一方不利益を被るのは企業とこれから職を得ようとする人々、特に新卒の若い人たちです。

これは日本の将来にとって良いことではないでしょう。確かに年金財政の崩壊、定年後の無収入期間は大きな問題ですが、問題解決を企業と若者に押し付けてしまえば日本経済の未来はさらに暗くなってしまいます。

また、すでに正社員として働いている、本来は「勝ち組」のはずの人達にも、今回の提案はそれほど魅力的なものではありません。なぜなら、定年まで一つの会社に勤め続ける「終身雇用」は過去のものになっているからです。

バブルの崩壊後「リストラ」という名の首切りは当り前になってしまいました。銀行などでは40前後から肩叩きが始まり50歳以上まで勤められるのは一部のエリートだけになってきています。このような傾向は大なり小なりどの企業にも当てはまります。

要するに今回の定年の65歳までの延長のメリットを享受できる人は、ごく限られた人達になるはずです。定年延長で得られる保険金の納付増加額はそれほど大きくなく、定年と年金支給年齢の狭間に苦しむ人で救われる人は少ないでしょう。

それでは定年の延長は必要ないのでしょうか。そんなことはありません。国民の平均寿命が「人生50年」と言われた時代から80歳を超えるようになった現在、従来の60歳定年では少数の現役の働き手が多数の老齢者を養うという形にならざるえないからです。

かりに日本人の大半が70歳まで働くようになれば、少子高齢化の問題はほとんど一掃されます。年金問題の本質は年金支給開始年齢と定年とのギャップではなく、まして社会保険庁の杜撰な事務ではありません。ある時点で国民の中でどれだけの人が働き、どれだけの人が養われているかのバランスこそが重要です。

これは年金などに頼らず個人が貯蓄に励んでいても少子高齢化の問題はあるということを示しています。仮に、少ない働き手に対し多くの老齢世代の人たちが一斉に貯蓄の取り崩しを始めると、結果はインフレや円の減価につながります。

海外資産の運用で利益を得るのでなければ、日本国民の豊かさは基本的に現役の働き手の頑張りにかかっています。シンガポールやクエートのような小国ではない日本は海外資産に頼って日本国民全員の老後をまかなうことは難しいでしょう。

それでは70歳まで働けるような環境をつくるために、定年の延長は有効でしょうか。最初に述べたように単に企業の負担を増やす形で定年を延長すれば、かえって雇用機会は減少するでしょう。

必要なのは65歳まで定年が延長されていることではなく、50歳、60歳になっても新たな雇用機会が与えられるようになることです。そのためには企業から見て雇用が競争力を破壊しないほど高くつかないことが大切です。

企業が派遣社員で正社員を置き換えるのは単純な意味のコストではありません。派遣社員の年収は正社員よりずっと低いのが普通ですが、派遣会社は25%から40%あるいはそれ以上のマージンを取るので時間当たりのコストはそれほど違わないのです。

違うのは派遣社員と企業は雇用関係はないので解雇せずに契約の打ち切りだけで労働力の需給に柔軟に対応できることです。さらに継続した雇用ではなく新しく人を雇い入れることで賃金水準の変更も容易にできるという利点もあります。

賃金は物価として考えると下方硬直性が非常に高い、つまり値下がりしにくいものです。野菜や衣類が大きく値下がりしても賃金はなかなか下がりません。世界恐慌の時でさえ、賃金水準自体はほとんど変化はありませんでした。

賃金水準が変わらないため企業は不景気になると雇用を圧縮しようとします。不景気になると賃金水準は下がらなくても失業率は増加します。逆に言えば賃金水準を下げれば失業率は確実に低下します。

今の日本の定年制の暗黙の前提は終身雇用です。しかし終身雇用が維持できなくなった今、必要なのは定年の延長ではなくより自由で柔軟な雇用関係です。柔軟な雇用関係とは端的に言えば簡単に解雇できる関係です。これは雇用される側から見れば一方的に不利に思えますがそうではありません。解雇されても雇用機会がそれ以上に増えるからです。

前回のブログ記事フリーランスのビジネス戦略で書いたように、終身雇用がなくなった社会では個人はフリーランスとして自分自身の価値を高める努力をするしかありません。

将来、正社員というのは企業の中で特別な機密の保持や濃密なコミュニケーションが必要となる一種の秘密結社のメンバーのような存在になるでしょう。その逆に普通の働き方はフリーランスとして企業と契約関係で仕事を行う形になります。

そのような契約関係には定年などそもそも必要ありません。定年は延長されるのではなく廃止されるべきですし、実質的にはそうなるでしょう。それは働く立場の人間にとって厳しい時代かもしれません。「遅れず、休まず、働かず」と揶揄された気楽なサラリーマン人生ではありません。

しかし、反面それは「社畜」とまで嘲られるほど会社に何もかも依存した人生でもありません。何にもましてほとんどの人にとっては「元気でいる限り働ける」方がやることもない「悠悠自適」の人生より魅力的なのではないでしょうか。

フリーランスのビジネス戦略
前回のブログ記事「社畜なんてひどすぎる」でも触れましたが、「社畜」というのはもはや絶滅危惧種です。企業がリストラという名の首切りを行い、終身雇用は最早存在しません。社畜として一生企業に飼われていくという会社人生は、これからは例外的なものになってしまうでしょう。

かつては特別の能力を持っているか、よほど自分のしたいことにこだわる人が主だった、企業とは独立して仕事をする、「フリーランス」が普通の職業の在り方になりつつあります。例え会社の正社員におさまっていても、終身雇用でなければ転職さらにフリーランスとして働くことを誰もが考えることが必要になりました。

しかし、会社を辞めることについては、「社畜人生とおさらばして自己実現」のようなバラ色の未来像か、その逆にフリーター、派遣社員という「企業社会の底辺に転落」といった悲観論ばかりが目立ちます。

ここではかつては会社で終身雇用の下で安定したサラリーマン人生を送っていたような人が、どのように新しい時代を適応いけばよいか、フリーランスとしての生き方をビジネス戦略の構築するという立場で考えてみます。


顧客視点で考えよう

顧客視点というのはビジネス戦略の基本中の基本です。ドラッカーがいみじくも「事業とは顧客を創造すること」と定義したように、顧客のないビジネスは考えられません。サラリーマンやフリーランスにとっては顧客とは雇ってくれる企業です。そして売っているものは自分のスキルや能力です。

しかし、転職したりフリーランスになることを「自己実現のため」と考えるのは、全くそれとは逆の発想です。「自分はこんなことをしたい」と考えるのは悪いことではありませんが、雇う、つまり購入するかどうかを決めるのは顧客である企業です。まず自分というものを顧客視点で見直すことが必要です。

ビジョンとミッション

ビジネス戦略を立てる時、まず必要なのは企業のビジョンとミッションを明確にすることです。ビジョンとは企業が「将来なりたいと思う姿」を、ミッションとは「企業が果たすべき役割、目的」です。たとえばフォード社のビジョンは「to become the world's leading consumer company for automotive products and services(自動車と関連サービスで世界のリーダーとなること)」です。

「楽しく仕事をして自己実現をはかり、かつ一定以上の収入を得る」というのは個人のビジョンとしては良いかもしれませんが、企業を顧客と考えれば職業としてのビジョンとは言えません。経理のプロを目指すなら「誰よりも正確でタイムリーな財務情報を企業に提供し、戦略的経営実行の支えとなる」といったものが企業から見て意味のあるビジョンです。

ミッションはビジョンを実現するための責務、目標です。グーグルは自分のミッションを「to organize the world's information and to make it universally accessible and useful(全世界の情報をまとめあげ、あらゆる目的に有用でアクセス可能な物とする)」です。人事マンなら「社員の能力が会社に100%活用できるように社員の情報を把握し、戦略的な切り口で整理すること」などはミッションと言えるでしょう。

別の言い方をするとビジョンとは「企業にとって価値がある自分のなるべき将来像」、ミッションとは「ビジョン実現のためにやるべき事、できなければいけない事」となります。ビジョンとミッションの違いは多少明確でないこともありますが、それは大きな問題ではありません。「顧客視点」で自分の理想像を定義することが必要です。

戦略策定

ビジネスの世界での戦略とは目標を達成するための具体的な方策です。ビジョンやミッションができて、どのような職業人になりたいかが決まれば、それを実現する方法が必要です。具体的な方法ですから、何を職業に選ぶかで中身は違ってきます。しかし、戦略は計画を付けて戦略計画とも呼ばれることが多いように、時間軸の中でどのように目標実現に近づいていくかをきちんと定義しておかなければなりません。

時間軸の沿って計画を作る時、ビジネス戦略ではいくつかの段階に分けて、段階ごとに達成する目標を決めます。例えば、

1.会社の仕組みの理解と目標とするコアスキルの明確化:企業の実態を学び、会社業務の基本的流れを理解する。将来核とするスキルを特定し、必要な資格取得などの準備を行う。
2.基本的能力の獲得:資格取得、英語力など基本的能力を身に付ける
3.コアスキルに基づくキャリアの開発:専門スキルを生かした仕事を中心にキャリアの開発を行う。この期間で達成すべき目標はさらにその時点で詳細に決める
4.コアスキルでのエキスパートとしての活躍する。場合により独立してコアスキルを基にした事業を展開する

のように各段階ごとでどのような自分になるか、それに要する時間、費用などを計画します。もちろん人生は思った通りにはなかなかいかないので、戦略がそのまま計画したように実現できるとは限りません。しかし、時間軸で達成目標が細かく設定されていれば、目標が実現できない時、どのような代替策を取るかを具体的に考えることができます。

これが古典的なサラリーマン的会社人生を前提にしているとそうはいきません。40歳で突然肩叩きあい全く茫然自失ということにもなりかねません。

また、各段階で目標が明確なら嫌な上司、安い給与、劣悪な労働環境といった最低の状況でも、目標達成に役に立つならと我慢できる範囲がうんと広がるはずです。少なくとも嫌な上司やひねくれた同僚に少々苛められたくらいで「ここでは自己実現ができない」などという漠然とした理由で会社を辞めることは減るでしょう。

戦略を作る時に大切なのはその実現に必要な能力、資源を自分が持ち合わせているかをきちんと認識することです。頭があまり良くない、金がない、などの障害があっても、持てるものでどの程度のことが実現できるかを考えれば、それなりに道は開けるものです。競争相手は多い、市場は縮小傾向、財務状況は悲惨、といった条件があっても、何か策はあるものです。

人生は一度

ビジネス戦略の立て方には色々な手法、道具があります。基本的なものの一つには、自分の強み、弱みを考えるのに外部環境の機会と脅威と組み合わせた四つの象限で進むべき方向を考えるSWOT分析という手法があります。いくつかの選択肢の中でどれに重点を置くかを決めるには事業構造のポートフォリオを分析するPPTという技法があります。

様々な環境変化がどのような影響を与えるかその対策はどうするかを考える場合に役立つ、シナリオプランニングと呼ばれるシミュレーションテクニックがあります。シナリオプランニングを使うと、公認会計士が増加すると経理マンの仕事にどのような影響があるかといった問題を、きわめて具体的に検討することができます。

コンサルタントとして企業のビジネス戦略を作ってきた経験から言うと、「自己実現のために転職を」というのは「多角化で利益増大」などと比べてもずい分粗雑なものです。なにより最初に触れたようjに顧客視点を全く欠いていることは致命的です。

人生で失敗はつきものです。しかし、長期の戦略を持てば、失敗に対して正しい対策を立てることができます。長期的な視野を欠いていては、その場限りに感情的な対応に陥りがちです。ただ一度の人生にビジネス戦略の方法を役立てない手はありません。
社畜なんてひどすぎる
社畜。かなり侮蔑を含んだ言葉です。社畜というのは、いわゆるサラリーマン(これもそんなに良いニュアンスがありませんが)を指しますが、社畜つまり会社に飼われている家畜同然の人、とまで言うのはそれなりの理由があります。社畜と看做されるのは、

1. 自分の世界が会社だけで人生の成功も失敗も社内の出世次第
2. 持っている能力は社内で通用するものだけで、他社や一般社会では価値が著しく低い

といった人達です。能力、スキルで評価されるのは社内人脈や会社独特の習慣や仕組みに通じていることで、公認会計士、弁護士といった世間では高い評価を受ける資格も、かえって「浮いた存在」になってしまう可能性があります。

社畜と呼ばれるような人々は会社に高い忠誠心を持ちますが、同時に会社が社会的には認められない行動をしてしまった時も、不正を隠蔽する、あるいはさらなる不正の実行に加担することも厭いません。ここまで来ると、社畜と侮蔑されるのも止む得ないことかもしれません。

しかし、会社というのは利益を追求するための組織です。会社に対し高い忠誠心を求めるのは当然としても、社内でしか通用しないスキルの人間ばかりを大切にし、一般的に通用する高い能力を持った人をもっと雇わないのはなぜなのでしょうか。

この疑問を答える前に、そもそも企業はなぜ組織を作るかを考えてみましょう。会社には営業、製造、人事、経理など種々の部門がありますが、本当はほとんどの機能は社外で得ることができます。実際、最近では合理化のためのアウトソーシングが進んでいて、多くの仕事が社外へと切り出されてきています。

それでも大企業では依然として数千人、数万人という膨大な社員を抱えています。一度雇った社員を解雇するのは日本では容易ではありません。必要となるたびごとに社外の人を使えば良いのではないでしょうか。

ロナルド・コースは1991年のノーベル経済学賞を受賞したイギリス生まれの経済学者です。コースの功績はなぜ企業が存在するかを明らかにしたことです。コースによれば、社外の資源を使う時は契約の締結のための時間や相手が得る利幅などの「取引コスト」が発生し、取引コストが社内に資源を抱えているコストより大きければ社内にその機能を持つインセンティブができるというものです。

コースの理論では企業が組織や社員、さらに建物、設備など様々な資産を持つのは、外部にそれらを依存することで生じる、取引コストを防ごうするためだということになります。

例えば、出版社が自社で印刷工場を持つことは滅多にありません。ところが新聞社は普通印刷工場を持っています。新聞は締め切りをできるだけ引き延ばして最新の記事を載せようとします。当然印刷工場には無理がかかりますが、印刷工場を自社に持たないと、無理な要求を飲むかどうか、一々二社の間の交渉で時間がかかってしまいます。それでは特ダネをせっかくものにしても締め切りに間に合わなくなってしまいます。新聞社にとっては印刷時間の調整という取引コストは非常に高くつくものなのです。

会社間の取引は長い付き合いがあっても基本は契約です。契約以上のことはしてもらえません。長期的な取引関係があればある程度の無理は聞いてもらえることはありますが、どんな企業でも長期的にも赤字の取引を続けるようなことはありません。しかも多くの場合取引は契約書の取り交わしなど相当長時間を必要とします。双方の契約内容に関する理解が違えば訴訟沙汰になることもあります。

同じ企業の組織同士であれば、契約書の締結は必要ない、と言うより意味がありません。原告と被告が同じ裁判などあり得ません。社内ルールがきちんとあれば、それに沿って仕事は動いていきます。しかしそれでも人間同士が完全に同じ理解を持っているとは限りません。社内でも色々な場で争いごとは起きます。

そんな時頼りになるのは社内の人脈に通じていて、会社の仕組みをよく理解している社員です。このような社員は会社に特化した知識、能力を持っているからこそ価値があります。「その会社でしか通用しない」能力こそ企業が大きな組織を効率よく動かすための潤滑剤、あるいは原動力そのもになるのです。

要するに、わざわざ大きな固定費を負担して企業が社内組織を作り人を雇い入れるのは、社畜と嘲られる社内事情、社内ルールにやたら詳しい人間がいるからこそということになります。そうでなければ大概のスキルは社外にあり、しかも社外のスキルの方が安く、優秀で、固定費としてのし掛かってくることもありません。

それではなぜ最近になり、社内事情スペシャリスト達が社畜などと言われることになってしまたのでしょう。大きな理由として企業が社員を終身雇用で長期間雇い続ける価値がなくなってきたことがあります。

世の中の変化が遅かった時代は社内事情、業界事情、顧客の事情は長い間陳腐化しませんでした。しかし、今は変化の速度はずっと速くなっています。変化に対応できなければ会社の存続自身が危うくなります。社内独特の知識といっても同じものが長く通用しなくなってきました。

次に他社との取引コストがITの発達などで低下してきたことがあります。購買も世界中からもっとも条件のよい安価なものを購入することが簡単にできます。製造業では部品を自社で生産するメリットは小さくなってきています。

さらに、その傾向はアウトソーシングの発達により加速しています。企業の得意技、コアコンピーテンスでないものは外部から得ることがますます簡単になってきています。アップルは世界有数の電子機器のメーカーですが、自社ではほとんど何も作っていません。部品から最終製品の組み立てまで全て外部に依存しています。

社内の構造がコアコンピーテンスを中心にシンプルになり、同時に変化が速く過去の知識が通用しないとなると、社内人脈を泳いだり昔からのノウハウだけで生きていくのは難しくなります。社畜として生きていくのは困難な時代になってきているのです。

しかし、企業が依然として巨大な組織を維持していることを考えると、社内事情に精通している、それによって社内での取引コストを最小化できる人材は必要とされていることが判ります。「社外でも通用する能力」と言いますが、本当に社外で通用するスキルしかなければ、スキルを社外から買ってくる方が合理的です。

ただ、終身雇用で一つの会社にずっと留まり、その会社での出世が人生の成功、不成功の全てという生き方はますます難しくなるでしょう。会社が変化すれば、それによって社内ノウハウも変わります。M&Aで組織単位で売買が行われる時代には、それに応じて自分も変わっていかなくてはなりません。

それでも、社内の取引コストを最小化する能力を過小評価してはいけません。企業がただ一人の経営者だけでは運営できないのは、全てを外部資源に依存するのは経済的に非効率だからです。その会社でしか通用しないスキル、能力こそ実は会社が持つ一番大切な資産なのです。社畜なんてひどすぎまます。


河野談話を再検証する
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「河野談話」正確には「慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話」は、1984年当時の宮沢内閣の官房長官だった河野洋平が、慰安婦問題に対する日本政府の認識と見解を示すために発表したものです。河野談話は日本政府が公式に慰安婦の存在と日本軍の関与を認めたものとされ、その後のアメリカ下院本会議での慰安婦決議案可決にも、日本を批判する有力な根拠となりました。

一方で「河野談話」は慰安婦問題でそれを根拠のない不当なものとする側からは、屈辱的で誤ったものであり、ただちに撤回すべきとする意見が強く出されています。慰安婦問題を糾弾する方も否定する方も「河野談話」が慰安婦問題の存在を認めたものだという点では意見は一致しています。

しかし、「河野談話」を改めて読むと、そのような理解が正しいとは必ずしも言えないことが判ります。今や慰安婦問題の原点と言える「河野談話」を改めて読み直すのは無駄ではありません。以下は「河野談話」の原文です(読みやすいように、段落の間に業を空けています)。

いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年12月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。

 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。

 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。

 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。


この文章を読むと日本政府は次のような事実を認めています、

(1)日本軍は慰安所に慰安婦と呼ばれる女性を置いていた
(2)慰安所の設置と管理および慰安婦の移送は軍が直接、間接に自ら行った
(3)慰安婦の募集は軍の要請により業者が行ったが、その際甘言、強要が用いられることがあった
(4)慰安所の生活は強制に基づく悲惨なものだった
(5)慰安婦には朝鮮半島出身の女性が多数いた
(6)朝鮮半島からの慰安婦の募集、管理、移送などは強圧的で本人の意思に反することが多かった

慰安婦とは、軍に付属して兵士に対し売春を行う女性です。軍が管理する軍専用売春婦と定義して良いでしょう。慰安婦の存在は軍隊経験者だけでなく、広く一般に認知されています。慰安婦問題の存在を認めない人達も慰安婦そのものが存在しなかったとすることはほとんどありません。

ところで「河野談話」が「慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていた」と断っているように(下線は筆者)、慰安婦の大半は日本人でした。その慰安婦たちはどのような経緯で慰安婦となり、どのような慰安所での生活を送っていたのでしょうか。

現代ですらソープランドの女性の多くは多額の借金により半ば強制的に働かされています。戦前は「娘を売る」という形で借金のかたや、あるいは金を得るために、女性が売られるのはごく普通でした。このような女性は逃亡されることを防ぐために厳しく監視されているのも当り前のことでした。

慰安所の慰安婦は日本人であろうと朝鮮半島出身者であろうと多くは、金銭的な取引の結果本人の意思に反して慰安所で働くことになったということは想像にかたくありません。あるいは慰安婦になることが「楽して大金を得られる」といった、いわゆる甘言によって勧誘されることも多かったでしょう。

まして慰安所は軍の施設に隣接しています。サイパン島で日本軍が玉砕した時、沢山の女性がバンザイクリフから飛び降り自ら命を断ちましたが、その多くは慰安婦でした。軍とともに行動することは、一般の売春宿と比べても危険で苦痛に満ちたものであったことは間違いありません。

つまり「河野談話」で述べられているのは、慰安所というものが「当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた」という一般的な事実を述べているのに過ぎません。

そう考えれば「心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる」という言葉は朝鮮半島出身の慰安婦だけでなく、慰安婦の大半を占める日本人を含めた全ての慰安婦だった女性に向けられたものだったということになります。

ところがアメリカ下院で決議された慰安婦問題に対する決議(原文)では日本が「占領地から強制的に若い女性を連行し、「性奴隷」にした「20世紀最大の人身売買事件」」を引き起こしたと強く非難しています。決議文では「連行」された慰安婦の数は20万人も達するとされているのですが、実際にはこのような数字に根拠は全くありません。

アメリカの下院議員たちは朝鮮半島の慰安婦問題とはナチがユダヤ人の強制連行を行ったように、数十万にもおよぶ朝鮮女性を日本軍が組織的に自ら連れ去り日本兵への性の奉仕をさせたと思いこみ、「河野談話」を日本政府が自ら罪を認めた動かぬ証拠と考えたのです。

今となっては勝手な解釈をされる「河野談話」など取り下げてしまいたいというのが日本政府の本音でしょう(少なくとも事実を正しく認識している人は)。しかし「河野談話」は何の嘘も間違いもなく、談話自身を取り下げる正当な理由はありません。正すべきは「河野談話」を自分の達に都合の良いように解釈している人達なのです。

とは言っても「河野談話」を書いたのは、事実しか述べずに韓国政府の顔を立て、慰安婦問題に抗議する勢力に一定の姿勢を示すためだったのでしょう。その時は、誤解するのは読む方の勝手で、こちらは預かり知らないことだと言えるとも思ったに違いありません。

しかし、言葉はいったん出ると当人の思いとは別に動き始めるものです。それがどれほどのものかは慰安婦問題を否定する人々が「河野談話のような売国的発言は直ちに日本政府は取り消せ」と言っていることでもわかります。「河野談話」は取り消すべきことなど何も言っていないのです。

かれらもまた文章を自分流に解釈している、あるいは文章そのものを読んでいないに違いありません。政治の言葉は法律や契約とは違い、何を言ったかより、どのように解釈されるかの方が大きな力を持ってしまうのです。
なぜ人前ではセックスをしないのか
こんなことを言うと、何を当り前のそれも不謹慎なことを、と怒りだす人がいても不思議はありません。そもそも人前で性行為を行うことは公然猥褻(わいせつ)罪という刑法に触れます。

確かに、世の中には犯罪になるから人前でセックスはしないだけで、許されているなら堂々とすると言う人もいるかもしれません。しかし、そのような人は滅多にいないでしょう。それに刑法174条公然猥褻罪の罰は6か月以下の懲役です。刑罰の中でそれほど重いわけでもありません。

同じ猥褻関連の罪でも刑法175条の猥褻物頒布は最高懲役2年です。これは主として営利目的での猥褻物の販売を罰するためのものです。その刑法175条の違反はよくありますが、刑法174条をその種の場所で営利目的ではなく、公衆の面前で性行為を行うことで犯してしまうなど滅多にないことです。人前でセックスをしないというのは法律で罰するまでもなく、ほとんどの人には厳しい禁忌になっています。

人前でのセックスをするのは、殺人や窃盗とは違って、他人に危害を加えるというものではありません。もちろん、公衆の面前で性行為をする現場を目撃して不快感を感じる人はいるでしょう。しかし、ほとんどの人はポルノ映画で他人のセックスを楽しみのために観たことはあるはずです。

逆に言えば、殺人や窃盗が集団の秩序を乱すことで集団そのものの維持を難しくすることで禁止されているのに対し、人前での性行為は、さらに人間の深い部分に根ざしたところで禁じられていると考えられます。ただ、人前でのセックスを悪いとするのは、殺人を悪と考えるのと同様に、文化の一部であることは確かです。

文化とは「地球は丸い」といった科学的事実に基づくものではなく、人間集団の暗黙の約束事です。食べ物を手でつかんで食べてはいけない、というのと同じで、許したり、禁止したりするのは、集団の中の約束事という以上のものではありません。食べ物は手で食べることこそ礼儀にかなっているという文化もあります。

セックスそのものではありませんが、キスを人前でするのは欧米人は抵抗がありません。しかし、日本人のほとんどは人前でキスをすることには大きな抵抗があります。キスという行為に対する文化的認識が日本人と欧米人では異なっているのです。

とは言っても、人前での性行為の禁止となると文化的な差異はまずありません。ポルノの解禁度合いのような法的な対応は違っていても、未開人を含め人前での性行為は人類全般に共通する禁忌と考えられます。

人類ではなく他の動物ではどうでしょう。人間にもっとも近いチンパンジーでも仲間の前で性行為を行うことに抵抗はないようです。人間以外の動物は敵に襲われる危険がない場合、セックスすることを隠そうとはしません。敵に襲われる危険は、セックスだけでなく摂食行為にもありますが、性行為と摂食行為は隠れず行うという点ではあまり変わらないようです。ところが人類では大違いです。

セックスを行うことが、敵に襲われる可能性が高いという点で人類は特徴的なのでしょうか。世界的なコンドームメーカーのデュレックス社は各国の性行為の時間の調査を行っていて、それによれば性行為の時間(前戯を除く)は約20分で、これはチンパンジーなどと比べ長いのは確かです。

行為の最中に敵に襲われるリスクが人類はチンパンジーより高いのかもしれません。ただし、デュレックス社の調査は安全な環境にある現代人に関する調査です。外敵に囲まれた太古の時代から人類が、ここまで長く性行為を楽しんでいたかは必ずしも明確ではありません。

しかし、人類が他の動物よりセックスを楽しむ傾向が強いというのは、当っている可能性が高いと思います。それは哺乳類の中で人類は例外的に発情期がなく年中セックスが可能だからです。
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人類は他の霊長類と比べても格段に大きな脳を持っています。巨大な脳は人類がより大きな集団で活動し言語的なコミュニケーションをすることを可能にしています。このため肉体的にはひ弱な人類は集団で狩りをおこなうことでマンモスなど多くの大型の哺乳類を絶滅に追いやりました。

しかし、巨大な脳は人類だけに難産という対価を与えることになりました。他の動物の出産はそれほど大きな苦痛を雌に強いることはありませんが、人間は違います。しかも、そのような苦痛の結果生まれる赤ん坊は他の哺乳類から見れば未熟児です。人類の子供はチンパンジーの赤ん坊と同程度の活動レベルを獲得するのに4年程度の年月がかかるのです。

人類にとっては子供が4歳になるころまで、どのように子育てを行って行くかは重大な課題でした。女からみれば、その期間子育てのハンディを乗り越えていくためには男の協力は欠かせません。発情期をなくす、つまり常に発情期にいてセックスを可能にする。これは女がセックスという報償で男を子育てに協力させ続けさせるための戦略**だったと考えるのは妥当です。

男女揃って子育てをするために、人類にとってセックスは繁殖目的から女の男に対する報償へと役割を変えてきたのです。人類は、報償目的のセックスを、報償としての価値をさらに高めるために、より長時間のセックスを行うことで楽しむに足るものにしていったと想像できます。

現生人類は20万年ほど前に現れましたが、その時以来脳の大きさは変わっていません。正確には若干小さくなっているくらいです。出産の大変さ、4年間におよぶ子育ての必要性は、現生人類発生の最初から存在していました。楽しむためのセックスを現生人類はずっとしてきたのでしょう。

長時間楽しむためのセックスを行うのには、敵の目に触れやすい場所は不適です。セックスを隠れて行うのは必然だったと考えられます。この長い間の習慣は人類の中に深く文化として刻み込まれました。人前でセックスを行うことはある意味殺人以上の禁忌になったのです。

もちろんこれは推測でしかありません。今世界に存在しているのは人前でのセックスを嫌う人類と、そんなことは平気な他の動物例えばチンパンジーがいるだけです。過去どのように文化的な禁忌が組み込まれてきたかを正確に知ることは困難です。

しかし、この世に理由のないものはあまりありません。そして人前でセックスをしない文化的禁忌は、偶然で生まれたにしては極めて強力で普遍的です。他に説明する方法はあるとしても、それは遠い昔に遡ったもののはずです。どんな理由であるにしろ、現生人類の誕生と同じくらいか、もっと古いものでなくてはならないのです。

** ここで「戦略」という言葉を使ったのは個々の女性が男を謀(はかりごと)にかけたという意味ではありません。女が常に発情期に留まることで男を保護者としてつなぎとめることができるように進化したということです。
ドイツはユーロ崩壊を準備している?
ユーロ危機が収束しません。最初はギリシャに限られた問題だったのが、イタリア国債の利率が7%を超え、さらにドイツ国債までが買取入札不調という事態になってきました。

今ではユーロ危機の根本原因が、財政を共通化にしていないユーロ加盟国が通貨と中央銀行だけ共通にしたことが問題の根源だということは広いコンセンサスになっています。

この問題はユーロ発足当初あるいはそれ以前から経済学者の指摘を受けていたことなのですが、ヨーロッパの統一をより確かなものにするという理想論に反対論は打ち消されてしまいました。

ユーロの誕生でユーロ加盟国の中で財政基盤が弱いと思われていたギリシャなど南欧諸国が、為替リスクがなくなったということで大量の外国からの投資を得ることになりました。

結果的にそれらの国は多額の投資のお陰で経済的なブームの恩恵を受けました。ユーロで何もかもうまくいく、経済学者の指摘は杞憂のようにさえ思えました。しかし、経済ブームの裏で危機は次第に積み上がっていました。多額の投資を受けた国々では、経済成長と同時にインフレが進むことで交易条件が悪化して国際競争力が弱まってきていたのです。

バブル的な経済ブームがリーマンショックをきっかけに冷え込み、海外からの投資が減少すると危機は一挙に表面化しました。財政赤字を補うための国債が売れず、輸出や観光で稼ぐには物価高が大きな足かせになってしまったのです。

これは1990年代のアルゼンチンの経済危機のデジャブです。1980年代にハイパーインフレを経験したアルゼンチンは1991年に1ドル=1ペソの固定相場制、いわゆるドルペッグを導入しました。このお陰でアルゼンチンは為替リスクのない国と看做され多額の海外資金で経済ブームの恩恵に浴しました。

しかし、90年代末のアジア通貨危機、ブラジル通貨危機をきっかけにアルゼンチンから投資の引き上げが始まると事態は暗転しました。アルゼンチンには1ペソ1ドルを支える力はなく2001年には債務不履行(ディフォルト)を引き起こすに至りました。

今回のギリシャさらにイタリア、スペインへの広がったディフォルトの危機は、アルゼンチンの高価な実験を性懲りもなく再現しているものです。アルゼンチンはドルにペッグしましたが、ユーロの中核は財政規律を守り、インフレを何より嫌うドイツです。ドイツ統一で一時はヨーロッパの病人とまで言われたドイツはこの10年着々と財政再建と賃金抑制に取り組んでいたのです。

これではまるで連結された列車の両方向で反対側に機関車が引っ張り合うようなものです。ユーロの現在の困難は南欧諸国とドイツのインフレ率の差にあるのです。ギリシャの放漫財政は単なるきっかけであり、ギリシャだけの問題に過ぎません。

問題の解決には南欧諸国とドイツのインフレ格差をなくせばよいのですが、格差にはユーロ発足以来10年間の差の蓄積があります。ギリシャなどは賃金を半分にする、年金も半分にする、公務員を半分に減らすといった荒療治が必要になってきます。これでは財政問題は解決できるかもしれませんが、社会が崩壊する危険すらあります。

その逆にドイツがインフレ政策を取ることはできるでしょうか。今の日本がデフレの罠から抜け出せないように、インフレを人為的に起こすこことはそれ程簡単ではありません。国債を発行してでも膨大な政府支出を行うことは、ドイツ国民が容易に納得することはないでしょう。イタリア人がドイツ人になれないのと同じように、ドイツ人もイタリア人にはなれません。

今ドイツがイタリアやギリシャに求めているのはドイツのようになれということです。いや実際には10年間分の財政圧縮、物価水準の調整を短期間で成し遂げなければなりません。そんなことはドイツ人でも受け入れらるとは思いません。

こんな簡単な事実をメルケル首相やドイツの政策運営者が理解していないとは信じられないことです。むしろ、ドイツがインフレ政策を導入したり、ギリシャさらにイタリアやスペインまで救うためにドイツが最後の貸手の役割を演じることは不可能だと知っていると考えた方がむしろ自然です。

そうするとドイツは表面的にはヨーロッパの統一の重要性やそのための財政規律をギリシャに求めながら、本音ではユーロの崩壊を予期しそのための準備をしていると考えるべきではないでしょうか。

そうでないなら、ドイツは余程の楽観主義に支配されているか、自分の信念に正直であるために最後はヨーロッパの場合により世界の経済を崩壊させることさえ厭わない大馬鹿です。しかし考えてみると、二度に渡る世界大戦は、どちらもドイツが起こしたものです。ドイツのしたたかさや賢さを頼りにするのは、それこそ過剰な楽観主義かもしれません。

差別なのか言葉狩りなのか
防衛省の田中聡前沖縄防衛局長が「不適切発言」で更迭されました。米軍普天間飛行場の移設計画に基づく環境影響評価(アセスメント)の評価書の提出時期について、「犯す前に犯しますよと言いますか」と発言したことの責任を問われたものです。
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この発言に対する受け止めは男と女でずい分違い、女性の方が圧倒的に厳しい反応を示します。ただ、これは女性が狭量だとか潔癖症だからという理由ではありません。煙草の煙の害について認識が喫煙者と非喫煙者と大きく違うのと同じで「犯される」側に立つのと「犯す」側で言葉の印象は天と地ほどの差があるからです。

男の同士の内輪の間では、前局長のような言い方はそれほど珍しいものではありません。私が昔属していたIT業界では、顧客の意向と関係なくシステムを導入してしまうことを、よく「強姦システム」と言いました。これはビジネス社会が男ばかりだった時代の名残だとは思いますが、当時の私でもあまり愉快な気持はしませんでした。

今の感覚では田中前局長の発言は不適切以外の何物でもありません。品性に欠けるという以上に「犯される」側の女性の不快さを全く意識しておらず、「オフレコだった」という点を割り引いても、責任のある立場の人間としては軽率で甚だしい女性蔑視発言として糾弾されるのは致し方ないでしょう。

しかし、前局長の発言を女性蔑視だけでなく沖縄蔑視と言い出すと、これは言葉尻を捉えた発言の単なる政治利用だとは思います。沖縄を低く見る本音がそのような発言になったとしても、問題はあくまでも不適切な女性蔑視発言です。

一方で、今回の前局長の発言に対する批判を「言葉狩り」だと言う向きもあります。政治家や官僚の失言、不適切発言を文脈と関係なく攻撃の材料に使うのは日常茶飯事ですが、これらは政治的な道具に発言を使っているだけです。本当の「言葉狩り」とは特定の言葉を使われる状況とは無関係に使用禁止にしてしまうことです。

今日では「めくら」「いざり」といった言葉は障害者に対する差別意識を含む、さらには使用すること自体が差別を助長すると言われています。そのような言葉は、放送で使用できないだけではなく、生物の学名の一部に使用されることさえ非難の対象になるのです。確かに、「チョウセンメクラチビゴミムシ属」とか言われると文句の一つも言いたくなる人が出るのは判らないでもありません。

とは言っても、このあたりになると差別を助長しないための常識的な抑制というより、言葉の排除自身が目的化していると言わざるえません。差別を減らすというより機械的な判断で、放送さらに文芸作品全般まで何もかも言葉の排除が行われるようになるからです。古典落語にはこのような言葉が頻繁に登場するため、オリジナルのままでは多くが放送できなくなってしまいました。

落語には障害や不幸を笑う暗いブラックユーモアがあります。落語だけではありません、笑いは本質的に他人の不幸を楽しむ部分があります。他人を嘲ることが最高の笑いであり快楽なのです。バナナの皮で滑った人を見て笑うのは、笑いが感情移入を求める悲劇や活劇と根本的に違った感情に基づいていることを示しています。**

日本人でアメリカで成功した唯一のコメディアンと言われたタマヨ(大槻珠代)は人種的に毒のあるジョークを言うことで人気を得ました。たとえば、タマヨのステージでスタジオ内の視聴者ゲストに向かい「この中でメキシコ人はいるか」と聞いて、手を挙げた男に向かって「こんなところでサボってないで、とっとと皿洗いの仕事に戻れ」と叫ぶ。

このギャグで観客も当の言われた男も大笑いするのですが、この種の人種的偏見を逆手に取ったジョークはアメリカでは定番です。しかし、これは決してアメリカが人種的偏見に寛容だからではありません。

アメリカで「あいつは人種的偏見で人事異動をした」と言われるのは「専務は劣情をもって秘書を自室に引き入れた」と言われるのと同程度かもっと強烈な非難になります。時々日本の政治家や評論家は「あれは日本人に対する人種的偏見が原因だ」と気楽に言いますが、気を付けないととんでもない喧嘩を売っていることになります。

ギャグの面白さはそのような強い人種的偏見の毒がスパイスになって強烈な笑いを引き起こすのです。これはセックス、排泄物に関するような普段は口にしない言葉を使うことで笑いを引き起こすのと同じです。

このような言葉の使い方は何もかも禁止すべきものでしょうか。人種的偏見、障害者への偏見などは前局長の発言と同じで差別を受ける側が差別する側と違って大きな不愉快を被るのですから、「不愉快だと感じる人いる限り」禁止すべきだという考え方もあるでしょう。

古典落語の差別的表現をそのまま現代の日本で使えば、笑うより不愉快に感じる人が多いかもしれません。排泄物の話が笑いになるか、ただ嫌悪感を催すかは微妙です。しかし、だからこそ機械的に使用禁止を求める言葉のリストを作るのはあまりにも乱暴に思えます。

残念ですが人は他人の不幸を喜んだり、弱い者いじめを楽しむ気持ちがあります。それを抑え込むことは難しいし、少なくとも言葉を禁止するだけで済む問題ではありません。言葉を毒にするかスパイスにするか。もっと、大人の対応というものがあってもよいのではないでしょうか。

なお、念のために断っておきますが、前局長の発言は高級レストランで排泄物の話を大声でするようなものです。文脈も何も無関係に「不適切」としか言いようがありません。つまみ出されるは当り前の話です。


** 笑いの持つ残酷さは「イジメという喜劇」をご参照ください。


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