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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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Can’t buy me love
反原発派の人が原発停止を求める時、「命は金に代えられない」という言い方をよくします。これはかなり乱暴な表現です。誰も金のために命を犠牲にして構わないとは言いませんが、他人の命のために無制限の支出をすることはしないからです。

例えば心臓移植手術をアメリカで行うために1億円の費用がかかると聞いて、全財産を投げ出しても救うと考えるのは肉親だけです。命と言っても自分や肉親の命と他人の命は明らかに「値段」が違います。

その上、原発を稼働させることが本当に命の問題にかかわるかどうかも議論のあるところです。福島第一原発事故では一人の死者もいません。継承の急性放射線障害の被害者さえ出しませんでした。命か金かというのは今のところ反原発のスローガン以上のものではありません。

それはともあれ、「命か金」かと言われて人はどうして戸惑ってしまうのでしょう。心臓移植の必要な少女の写真を見せられてからといって、実際に財布から1万円札を取り出す人は、決して多くはないのにです。

アメリカのエール大学心理学部長のポール・ブルームは「喜びはどれほど深い?」で、世の中には「お金で買えないもの」あるいは「買ってはいけない」とされるものがあることを紹介しています。

著書では例として、
・人身(奴隷など)
・政治権力
・懲役
・言論の自由
・結婚、出産の権利
などを挙げているのですが、このようなものは金で取引しようと考えること自体が、許されない行いだと考えられているのです。

その中でも命は特別なものでしょう。赤の他人の心臓移植手術に金を払うことのない人でも、会社の経営者が自分の娘の心臓移植手術を危険を承知で先延ばしにして1億円を会社の資金繰りに投じるという話には不快を感じるはずです。つまり命は金で買えない、というより取引の対象にすべきものではないのです。

ブルームは市場で価格を決定することに人々がよそよそしさを感じることを指摘しています。市場を通じて価格が決められ、そこで物を買うことは「もっと大切な何か」を失ってしまうと人は思ってしまうのです。

さらにブルームは金には特別なタブーがあるとも考えます。人にお礼をする時、金を渡すのは礼儀に反すると一般に考えられているのは、金のタブーのためだというのです。その理由として、ブルームは進化の中で金で物を得るとことが人類がそれも比較的後になって発明した方法だからと推定しています。

チンパンジーのような霊長類でも、共有(あなた物のは私の物、私の物はあなたの物)と交換(あなたが背中を掻けば、私も掻く)は行います。しかしお金のように、あらゆる物を得ることのできる便利な道具はありません*。金で物を買うというのは他者と特別な関係が必要のない(共有も交換も仲間の同士でしか行いません)もの、つまりとても「よそよそしい」ものなのです。だからこそ、親しい友人同士で金のやり取りをする。例えば夕食に呼ばれて「とてもおいしかった」と言って1万円札をテーブルに置くなどはとんでもない、という話になるのでしょう。

これには例外もあります。アメリカではチップが広く普及していますが、チップを渡すという行為は単に金をあげるというだけでなく「親切にしてくれてありがとう」というメッセージにもなります。日本でも神社や寺で賽銭を出すのは正しい行為です。

しかし、金を渡すというのは常に微妙なものを含んでいます。アメリカでもチップに1セント玉を入れることは相手をバカにした行為と看做されます。金だけが問題なら10ドル札にポケットに残った1セント玉を何枚か付け加えて文句を言われる筋合いはありませんが、金というのはそういうものではないのです。

命はともかく、セックスも金で買ってはいけないものの代表です。売春が多くの国で違法とされているのも理由は色々あっても基本は「セックスは売り買いするもものではない」という考えが背景にあります。

セックスでも売り買いできないのだから愛を買うことは不可能だ、というのが健全な常識でしょう。しかし、世の中の男性は一生懸命プレゼントをしたり食事をおごったりして女性の歓心を得ようとします。一生懸命男性が金を使うことを嫌う女性は多くはありません。これは愛を金で買うことにはならないのでしょうか。

こんなことはとやかく議論することもないでしょう。物を貰ったり、高価な食事をご馳走になることを喜んでも、いきなり3万円ほど財布から取り出して「物や食事よりこちらの方が好きでしょう」と言われて喜ぶ女性はごく例外的です。と言うより、最初から金を目的とする女性以外はそのような申し出には腹を立てるだけです。

命は金とは代えられない。失われた命を金で取り戻すことができないのは確かです。しかし、この言葉は「金で何でも解決できると思うな」という人間の金に対して持つタブーに訴えるからこそ、強いメッセージになるのです。

題名の「Can’t buy me love」は言うまでもなく、ビートルズ時代ポール・マッカートが1964年にリリースした曲名です。主語のMoneyが題名からは省かれていますが、歌詞の方には「Money can’t buy me love」とあって、「 愛は金じゃ買えない」の意味です。

この頃のビートルズは貧乏で無名なバンドから一気に世界的な人気者になり、多額の収入も得るようになっています。後にマッカートニーは、歌詞の意味を「物を所有するのは悪いことではない。しかし、本当に欲しいものは金で買えないということだ」と語っています。

さらに時間が経ってからマッカートニーは「あの題名はCan buy me loveにすべきだった」と言っています。その間何があったかはわかりません。しかし「何でも金で買える」と言うマッカートニーが、「欲しいものは金で買えない」と言った時より幸せになったとは思えせん。なぜなのでしょうか。

* 猿を使った実験で、餌と交換できる木の実(それ自身は価値はない)を与えて一種の貨幣を通用させることに成功した例はあります。その実験ではオス猿がメス猿に実を与えて性行為と行うという売春行動さえ観察されたということです。
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何のための日弁連の反原発意思表明
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日弁連のビル

日本弁護士連合会(以下、日弁連)その名の通り弁護士の団体です。その意味では医師の団体である日本医師会や、農協の集まりである全国農業組合連合会と同じです。

しかし、日弁連は「日本全国すべての弁護士及び弁護士法人は、各地の弁護士会に入会すると同時に日弁連に登録しなければ」ならない、つまり日本で弁護士として活動する全ての弁護士は日弁連に加入する必要があるという、際立った特色があります。

医師は医師会に所属しなくても医師免許さえあれば医者として活動できますし、農協に加入しなくても農業を行うことは可能です。これに対し弁護士は司法試験に合格し、司法修習を終了しても日弁連に加入しなければ、日本で弁護士の業務ができません。

これは業界団体としては異例に強い権限を持っていると言うことができます。日弁連から除名されるということは事実上弁護士としての国家資格を失うのに等しいからです。弁護士という職業の重さを考えると、業界団体とはいっても日弁連は国家機構の一部と言えるほどの権限を持っています。

その意味で日弁連は政治的な党派活動や思想信条に高い中立性を持つことが要求されているはずです。他の業界団体と同様に、職業人としての弁護士の権利、権益のために活動することは許されても、特定の思想に強く肩入れすることは慎まなければいけません。

ところが実際には日弁連は政治的主張として、左派と看做される立場を取ることが多いのは事実です。例えば日弁連は「会長声明」という形で、「君が代斉唱時の不起立等を理由とした懲戒処分取消等請求訴訟の最高裁判決」で、君が代斉唱に起立しなかった教諭に対し「戒告処分を容認した点は強く批判される」とする意見表明lをしています。

判決の是非は別として、この日弁連の見解は一般には「左」寄りの立場とされています。日弁連の中枢部の思想信条が「保守」でないことは間違いありません。

その日弁連は原発に非常に批判的です。日弁連は原発について何度も会長声明を出していますが、「原子炉等規制法改正案の骨子に対する会長声明」では「停止中の原子力発電所の運転再開が認められるものではない」と改めて、原発反対を鮮明に打ち出しています。

日弁連が準国家機関並みの力を持っていることを考えれば、政治的に対立点の多い問題に積極的に発言すること自身があまり好ましとではないと思いますが、原発についてはそれとは別の要素があります。

日弁連に限らず、原発に反対するのは一般には概ね次のような理由です。

1. 原発は事故を起こすと広範囲に甚大な人的被害を起こす。また、その確率は特に地震国日本では非常に高く、とても許容できるものではない。このことは福島第一原発の事故により改めて証明された。

2. 低放射線被曝による障害は、100ミリシーベルト以下では医学的な証明はないものの、有害とする科学者が多く、慎重を期して安全側に考えれば、それよりずっと小さな被曝量でなければ認めるべきでない。国際的な放射線被曝のガイドラインを出しているICRP (国際放射線防護委員会)の年間1ミリシーベルトは日本政府が平常時の被曝限度と定めているもので、これを順守すべきである。

特に強硬な反原発派でなくても、このような主張は妥当に思えるものかもしれません。しかし「素人考え」ではなく、別の見方もあります。

(1) 原発事故の人的被害は当初の予想よりはるかに軽微である。現に福島第一原発事故では放射線による人的被害は発生していない。津波による冠水で全電源喪失があったことが事故を引き起こしたが、原子炉の停止は過去を含め全ての地震で成功しているし、福島第二、女川原発でも事故を起こさなかった。全電源喪失の対策を強化することで、今後の地震による事故は十分防げる。

(2) ICRPの被曝指針は実態とは無関係に厳しく設定されており、特に事故発生時の避難ガイドとしてはかえって問題が多い。チェルノブイリでは事故後強制避難をさせられた地域で放射線被害ではなく避難に伴う生活破壊、健康破壊が報告させれている。また、20ミリシーベルト程度の被曝量は自然状態でもそれに近い被曝をうける地域もあり、それらの地域でも発癌率の上昇は見られない。

このような意見は例外的なものではなく、多くの技術者、放射線医学の専門家からは妥当と言われているものです。いずれにせよ、原発事故の確率や被害程度、放射線の人体に対する影響は、技術的、医学的なもので法律的な議論は、それらに一定の決着をつけなければできないはずです。

いうまでもなく、日弁連は科学、医学の専門家の集まりではありません、それが専門家の間ではむしろ主流の意見に反して原発の是非について明確な立場を出すことが妥当でしょうか。もちろん裁判で科学的な判断が判決を左右することは数多くあります。しかし、その場合裁判では専門家の意見を求めます。そして専門家の意見が分かれる時は対立する専門家、それぞれの証言を得ます。

実際、日弁連は「「低線量被ばくのリスク管理に関するワーキンググループ」の抜本的見直しを求める会長声明」で、WGの構成員の構成員に触れ、「広島・長崎の原爆被爆者の健康影響の調査研究に携わる研究者が多く、低線量被ばくの健康影響について、これに否定的な見解に立つ者が多数を占めている」と、反対意見を十分に聴取していないと抗議しています。

これは一種のダブルスタンダードです。日弁連の中で原発の是非について、支持派、反対派の技術者、研究者を集めた慎重な議論が戦わされているとはとても思えないからです。もし、そのような議論があれば、原発を「危険だから取りあえず止めてしまおう」という単純な結論ではなく、リスクと便益との関連に対するより深い考察があったはずです。

もしかすると、日弁連内部では本当に慎重な討議が裁判のような厳密さで行われたのかもしれません。だとしても、科学的な問題を日弁連という弁護士団体が明確な立場を打ち出すことの異常さは変わりません。

原発や低線量被曝の問題は、核兵器のように破壊力が一般にも理解されていて、その上で使用の是非を論じるものとは違います。低線量被曝の健康への影響は、「統計的には把握できない僅かな人数で影響の可能性がある」というレベルです。「科学的に安全性が実証されていない以上到底受け入れられない危険」と考えるのは専門家では少数派です。

ガリレオは天動説を支持しなければ異端審問裁判で有罪にさせられました。スターリン時代、ソ連は遺伝を否定するルイセンコ生物学を認めない生物学者をシベリアに送りました。日弁連は原発を支持する弁護士を除名するとは言っていません。しかし、本当に原発が日本国民の福利と安寧に決定的に害をおよぼすものなら除名くらいしても良いのではないでしょうか。

一体、日弁連の反原発の立場とはどんな意味があるのでしょう。弁護士が集まって原発や放射能を論じても専門的価値はありません。原発が政治的な問題であることは間違いありませんが、技術的問題でなくなったわけではありません。日弁連は原発に対する旗色を鮮明にする前に、法律の専門家集団としてもっと考えるべきことが沢山あるはずです。

「神」という発明
adam smith photo
アダム・スミス

「見えざる手」というのは、言うまでもなく18世紀のイギリスの経済学者アダム・スミスの言葉です。人が行う経済活動は皆自分のための利己的なものでも、「見えざる手に」導かれて、全体としては市場が機能し資源の配分は最適化され、人々は豊かに生活することができる、これがアダム・スミスが「国富論」の中で語ったことでした。

アダム・スミスは「国富論」の中で「見えざる手」とは「神の手」だとは言わなかったのですが、当時の人々は、利己的な行動も神によって調和された世界を作る力となる、資本主義とは神によって導かれるものなのだと解釈しました。

それまで、キリスト教の世界でも勤勉は尊ばれましたが、金儲けはむしろ卑しむべきものと考えられていました。しかし、アダム・スミスは金を儲けようとする利己的な行動こそ物を作り必要な所に円滑に届けさせる原動力だと説きました。金儲けは悪いことではない、それどころか「神の手」に導かれる正しい行いなのだと考えることができるようになったのです。

現代ではアダム・スミスの言った「見えざる手」は市場の有効性として経済学者に広く支持をされています。しかし、世の中一般となるとそうとも言えません。企業が利益を得るのは本来は労働者や消費者のものである富を掠め取っているからだ、という考えは今でも多くの人が持っています。本能的な信念と言っても良いかもしれません。

共産党などはよく「企業には膨大な内部留保があるので、それを取り崩させれば消費税の増税など必要ない」などと言います。共産党だから当然でしょうが、それが一定の説得力を持っているのも事実でしょう。

実際には内部留保はその分の現金を積み上げているのではなく設備や製品に形を変えているのですが、それはさて置き、企業が利益を貯め込むことは不当だという論法が違和感を持たれるどころか、共感を生むというのは現実です。

さて、今回のブログのテーマは共産党の批判ではありません。ある意味その逆で「見えざる手」の失敗を考えてみようというものです。個人の利己的な行動が「見えざる手」によって資源の最適配分をもたらすとしても、いつもそうとは限りません。

世の中には泥棒や詐欺、さらに強盗殺人のように他人を犠牲にして利益を得ようとする輩がいます。もちろん、このような行為は犯罪として罰せられるのですが、「見えざる手」がうまく人の行動を社会の利益へと結び付けることができなかった、つまり「見えざる手」の失敗と言うことができます。

人間の利己主義が一方では「見えざる手」によって経済を円滑に動かす原動力となるのに、もう一方では社会を破壊してしまう。そうすると利己主義にも良い利己主義、悪い利己主義があって、悪い利己主義が蔓延しないようにしなければいけない。そもそも悪い利己主義とは一体何のか。

こんな子供のするような質問は案外答えにくいものですが、「何が悪いのか」は「モーゼの十戒」にはきちんと示されています。ご存じのように「モーゼの十戒」とはモーゼが神から授けられた戒律とキリスト教で信じられているものです。

戒律と言うとずい分厳しいものように思う人もいるかもしれませんが、「モーゼの十戒」が言っているのは「主が唯一の神であること」や偶像崇拝を禁じること以外は、盗んではいけない、殺してはいけない、といった常識的なものです。このようなものをわざわざ石に刻みこんで人々に守ることを強く言う必要などあるのでしょうか。

このような疑問を抱くのは、私たちが盗みや殺人が悪い事だと信じ込んでいるからです。しかし、他人の物を盗んだり、他人を殺してはいけないと言うのはなぜなのでしょうか。それはそんなこと許しては社会が崩壊してしまうからです。それでは社会とは何なのでしょうか。

チンパンジーも群れを作り、その中では勝手に他のチンパンジーの物を盗ったり、殺すことはしません。そのような行為はチンパンジーの集団を崩壊させるので、ボスが取り締まります。しかし、群れが違えばそのような禁忌はなくなります。

人間も群れを作ります。しかし、類人猿の延長としての人間の作る群れの大きさは100-150人くらいが限度を考えられています(これはダンバー数と呼ばれています)。それ以上の集団はボスの威令だけでは無理で社会制度が必要になります。

社会制度を作っても、何を社会を維持するために守るのか、そもそも社会を維持することに価値があるのか最初から決まっているわけではありません。自分や家族が飢えている時、名前も顔も知らない他人の食料を奪い、抵抗したら殺してしまう、というのは正しい行為なのではないか。そんな時「神がそれ許さない」と知らしめるのは社会の秩序を保つために有効な方法です。

今太古に二つの人間の集団があり、一方はボスの威令だけで集団をまとめ、もう一つは神の力で集団の秩序を維持しているとします。二つの集団が対立すると、「神」を持つ集団の方がより大きな集団を作ることができ、結果的にもう一つの集団を圧倒することができるでしょう。

つまり、「神」というのは大きな社会をまとめ秩序を作るのにとても便利な発明品なのです。「神」という概念を人類がいつ頃見出したのかは定かではありません。自然に対する畏怖の気持ち、強く大きい動物への恐れ、そのようなものが、社会秩序を維持するための戒律を与えてくれる存在になったのは、そんなに昔ではないと私は推察します。

人間が農業を始めたのは氷河期が終わった高々一万年ほど前からです。農業により人々は定住し、より大きな人口を養うことができるようになりました。戒律を与えてくれる「神」はその頃から後に登場したのではないかと思います。

「神」が発明品だとすると、同じ「神」でもより大きな集団、民族を超えた帝国を作るにはキリスト教やイスラム教のような一神教で形も現わさず、あらゆるものに遍在するほうが、より強くそして広く人々を秩序に従わせます。

「神」があらゆるところにいれば、誤魔化すことはできません。司法機関から逃れることはできても神の目を避けることはできない。これは各個人を大きなコストをかけずに統治し治安を守るためにとても有効です。

このような宗教が他の宗教に苛烈だった理由も明白です。善悪の基準を異にする人々を信用することはできないし、そのような人々は神の戒律で守る対象ではないのです。同時に自分たちの宗教に帰依すれば、それは自分たちの集団の一員になったと証拠と考えられます。

共通の根を持つキリスト教とイスラム教は、一神教であるが故に、激しい対立を続けてきました。中世、十字軍の時代はイスラム教徒が優勢でしたが、現在は長くキリスト教徒の優位が続いています。しかしそれにしても、ソ連崩壊で共産主義が力を失った今21世紀になって、宗教の違いが相互不信と争いの種になっていることは正直呆れるしかありません。

「見えざる手」の失敗、利己主義から来る窃盗や殺人は、「神」による戒律と秩序を社会の構成員が心の中に持つことで押しとどめることができます。しかし「神」という発明物も失敗をします。宗教戦争、他の宗派に対する寛容性の欠如は「神」の失敗と言ってよいでしょう。

人間は「神」の戒律の代わりに、法律や制度、司法の仕組みを作ってきました。そして近代民主主義国家では、「民の意志」を「神」の座の置くことで、その権威の正統性を与えています。

しかし民主主義が失敗しないわけではありません。衆愚政治に陥ったり、熱狂に駆られて戦争に突き進むこともあります。自分の負担を避け全てを他人に押し付けてしまおうという全員型の囚人のジレンマになって身動きが取れなくなることもあります。ゴミ処理場の建設などはその典型です。

さらに民主主義は利益の配分には適していても、今の日本のように少子高齢化で負担の配分が必要になっている時は、負担を直視するのを避けるポピュリズムになってしまう危険があります。ポピュリズムは民主主義の失敗そのものです。

アダムスミスが「見えざる手」の存在を言った時、「神」は強固な前提としてそこにいました。「見えざる手」の失敗は「神」によってできるだけ小さくなるように仕組みづけられてたと言えるかもしれません。民主主義の失敗はどのようにすれば最小化できるのでしょうか。現代人は「神」を再発明する必要があるのかもしれません。