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核家族から家族法人へ |

核家族の失敗
戦前の社会制度は家が基本でした。家父長の権限は大きく、結婚を自分の意志で決めるのは不道徳とさえ考えられていました。家の存続は義務であり、娘しかいない家は婿養子を取って家を存続させることを求められました。
家からの自由は、戦後個人が得た大きな成果でした。結婚は憲法で両性の合意の結果と定められ、家は憲法からは存在を抹殺されました。おりからの経済発展で都市に村落からの大規模な人口移動が続きました。家からも村からも離れた個人は結婚して自分たちだけの核家族を作ります。家は距離的にも分断され名実共に機能しなくなりました。
個人は核家族を作ることで家からも村からも自由になりました。しかし、次第にその自由の対価は小さなものではないことが判ってきました。子育ては核家族にとっては大変な事業です。自分たちだけで子育てする負担は重く、女性が家の外で仕事持つことは難しくなりました。核家族の子育てはサラリーマンの夫と専業主婦というモデルが前提です。
自分の全てを子育てに注ぐことは、女性にとれば社会的な仕事の機会を奪うことになります。さらに孤独な子育ては育児ノイローゼや児童虐待という悲劇も生みました。
子育ての負担は少子化につながります。少子化は年金制度や介護の問題を解決不能なほど悪化させます。そもそも少子化が続けば社会自身が消滅してしまいます。核家族は子育てや年金、介護という現在の失敗だけでなく、長期的には消滅してしまうシステムである可能性が強いのです。
大家族の利点
核家族が数百年単位で考えれば存続すら困難な家族形態なのに対し、大家族制は現生人類だけでなく霊長類に普遍的に見られます。人類は大家族の中で協力して、子を産み育て、食糧を確保しました。共同して生きることで人類は種として存続してきました。
年金の問題は少子高齢化で一人の老人を支える働き手の数が減少するということだけでなく、老人を子供や孫ではなく、社会全体、国全体でどこまで支えていくかという問題に突き当たります。
子供も親の介護もない人にとっては、社会という、抽象的で見ることも触ることもできないものを通じて、他人の生活を支えることに葛藤があるのが普通です。しかし、福祉社会は個人の葛藤を克服しなければ維持はできません。
これに対し大家族が自分たちで共同して行う子育てや介護は、そのような葛藤はずっと小さくなります。血のつながった子供を世話すること、まして同じ家族の面倒を見るのは税金とは違います。それは自分の遺伝子プールを守ろうとする、本能として組み込まれていると言っても良いかもしれません(ただし自分の子供を殺す親がいるように、それは絶対的なものではありませんが)。
年寄りの世話や介護は、利己的に考えても自分のためでもあります。核家族のように先細りの家族形態での介護は、単なる負担にしかすぎませんが、大家族なら自分に子供がいなくても将来世話をしてもらえる期待ができます。それに寝たきり老人であっても大勢で世話をすれば介護の重さははるかに小さくなります。
年金や医療保険のような社会福祉制度の成立は、近代の都市化、核家族化と歩調を合わせています。大家族が存在しなくなれば、大家族の代わりを社会が務める必要があります。しかし、社会による福祉は結局はすべてを金で解決することになります。
消費税を上げることは国民の強い抵抗を招きます。しかし家族の教育や世話への支出はそれよりずっと納得のしやすいものです。きちんと機能する大家族制は社会福祉を必要としないシステムと言うことができます。
家族法人
大家族が年金、介護、子育てさらには人口減少に対する解決策になるとしても、簡単に大家族制が実現できるわけではありません。現代は個人と核家族を中心とした社会ですがが、それ以前に家族というものが法的には意味を持っていない存在だということを先ず指摘しなければなりません。
今の日本では親子関係や夫婦は法律的な意味がありますが、家族の定義はありません。戸籍や 住民票はありますが、大家族の一員であることを示すことはありません。大家族を作るために家族を定義すること法的に考える必要があります。
家族法人は家族を定義する新しい枠組みです。家族法人のメンバー、つまり家族の人々は角界の年寄株のような家族株を持ちます。家族法人は家父長に相当する家族法人長がいて、家族法人全体の指導に責任を持ちます。
家族をわざわざ法人とする理由の一つ、恐らく最大の理由は、財産を持てることです。家族法人の財産は家族法人のものですから家族法人が続く限り所有しているだけでは税金はかかりません。住まいを家族法人の所有にすれば相続税はかかりません。中小企業なら創業者の持っている株が家族法人所有なら、創業者が死んで相続税で事業が崩壊することもありません。
現在の遺産相続はあくまでも個人が基本です。財産は個人から個人へと譲渡されます。兄弟は全て平等で、介護をするかどうかは関係ありません。親への貢献を相続財産に反映させるためには遺書が必要です。財産を家族法人に寄託して、家族法人つまり家族全員が介護や子育てを行えば、遺産相続の不合理を解決できます。
家族法人には税制面で様々な優遇策を与えることが考えられますが、家族のメンバーは義務も負います。介護や子育てに一定の貢献が求められるだけでなく、扶養は全体の義務でもあります。そのような義務を受け入れるには、家族法人は実際の血縁関係、親子や夫婦、養子縁組といった家族法人の部品に基礎を持つ必要があるでしょう。何と言っても「血は水より濃い」のです。
しかし、家族法人は新しい家族関係を受け入れることもできます。欧米で認めら始めた同性婚は共同生活をしてきた者同士が何の法的権利、義務を持たされていないという問題が背景にあります。家族法人という形態は、性別を問わず強い絆で結ばれた人間関係に法的な意味を持たせることができます。
もちろん家族法人でなくても同性婚そのものを認めてしまうこともできるでしょう。しかし人間関係は多様化していて同性婚以外のユニットにも法的な保護が求められることもあるかもしれません。家族法人は昔の大家族だけでなく、将来の人間関係の変化にも対応できます。
まずは出発点として
実際には家族法人がすぐに年金、介護のような大問題をあっさり解決できることはあまり期待できません。税金の優遇があれば、節税だけを目的にした偽装家族法人を作ろうとする連中が現れるのは当然予想されます。
家族法人が財産を持つとして、それが家族法人長に不正に使われないような適切な監査の仕組みをどう作るか、ガバナンスの確保は介護のような義務をきちんと実行させるためにも必要です。
家族法人が憲法で保障された個人の自由にどこまで介入できるかは、それ以上に大きな問題です。法人が許さない結婚をすれば、法人を捨てて「駆け落ち」をしなければいけないのか。せっかく稼いだ収入を家族のためにどこまで取り上げて良いのか。次から次へと疑問が湧いてくるのは当然です。
家族法人は最初は形式的なものに留めるべきかもしれません。家族法人の財産も住まいをはるかに超える何十億以上の大金持ちの資産保持に利用するのは認めない方がよいのかもしれません。様々な検討が必要でしょう。
しかし、核家族中心の社会が多くの殆ど解決不能の問題を抱えていること、長期的には人口減少で消滅する危険にさらされていることは事実です。一方、家族というものが何の法律的実態を持っていないのは人類の歴史を考えれば不自然なことです。
人を助ける義務が国家にしかなければ、収入の過半を税金にする以外、人々が支え合う仕組みを維持することは不可能です。消費税が果てしもなく上げなければ、福祉国家は実現しません。それは受け入れられないと多くの人が感じ始めています。
今、生活保護、年金、子供手当など多様で複雑な給付システムをベーシックインカムという、一律で行政の裁量余地のない方法に一本化して行政のオーバーヘッドをなくそうという考えが注目を集めています。
ベーシックインカムを家族法人が受け取れるように制度を作れば、家族法人が財政的基盤を持って社会福祉を代行する(本当は福祉とは社会が家族の仕事を代行していることですが)ことが容易になるでしょう。
ベーシックインカムと家族法人のような新しい仕組みで、行き詰った福祉制度の打開を図る。こんな発想が今求められていると思います。
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アリゾナ記念館を訪ねて |
 上から見たアリゾナ記念館。下に戦艦アリゾナが沈んでいるのがわかる
アリゾナ記念館は真珠湾の真ん中、フォード島のそばに浮かぶ白色の慰霊碑です。海上の横長の建物の下には、記念館と直角に交差して巨大な戦艦アリゾナが浅い真珠湾の海底にあります。日本時間の1945年12月8日、現地のハワイでは12月7日の朝、戦艦アリゾナは、日本帝国海軍の艦載機の攻撃を受けて大爆発し、わずか10分足らずでその場所に沈んでしまったのです。
太平洋戦争、日本とアメリカにとっての第二次世界大戦の始めとなった、真珠湾攻撃でアメリカ海軍は太平洋艦隊の主力を一挙に失いました。戦艦だけで8隻のうち6隻が沈没し、残りもかなりの損害を受けました。後に、うち6隻は引き上げ修理され戦線に参加しますが、戦艦オクラホマは引き上げられたものの修理は不可能と判断され、アリゾナは引き上げられることもなく1,177名の乗員とともに真珠湾にそのまま残されることになります。
アリゾナ記念館は戦後17年を経過した1962年、大戦の記憶を留め、死者を弔うために作られました。アメリカの公共の施設の多くと同様、アリゾナ記念館と付随する太平洋歴史公園の施設の大部分は無料で公開されていて、毎年多くのアメリカ人が訪れます。アメリカ本土から訪れる観光客にとって、アリゾナ記念館は最大の訪問先の一つです。
しかし、ハワイに来る日本人のほとんどにはアリゾナ記念館はなじみのある場所ではありません。アメリカ人に囲まれて真珠湾攻撃の象徴、まだ千名以上の遺体が残ったままになっている沈没した戦艦を見るのはあまり楽しくはなさそうです。そんな所で、わざわざ半日以上を費やす気にはなかなかなりません。
私も何度かハワイに来ていますが、アリゾナ記念館は半ば避けていました。それがたまたま正月休みの代わりにハワイを行くことになって、今度はどうしても訪れようという思いが強くなりました。理由は自分でもよく判りません。年を取るにつれ鎮魂というものの大切さを以前より感じるようになったのかもしれません。そうそう気楽には来れないハワイにまた行けるかどうかもわからないという気持ちあったとは思います。いずれにせよ、私はアリゾナ記念館を訪ねることにしました。
決心はしたものの、やはりアメリカ人の目は気になります。記念館のホームページを見ると「Tシャツなど不適当な服装は遠慮するように」とあります。ハワイで襟のあるシャツを求めるのは上着着用を義務付けるようなものです。私はホノルルから日本に帰る日に空港の途中に立ち寄ることにしました。冬の日本に備えて、青いポロシャツに長ズボン、上着まで着ています。これなら大丈夫だろうという格好です。
着いてみると、アメリカ人の服装は拍子抜けするほどカジュアルでした。お年寄りの団体客では、男性はアロハシャツ、つまりハワイの正装が多いのですが、Tシャツどころか、ランニングシャツ姿も目立ちます。見た所はただのアメリカの観光地です。
ただ、軍事施設の一つであることは確かで、アリゾナ記念館への船が出る太平洋歴史記念公園に入るにはバッグを入口で預ける必要がありました。中に入ると真珠湾攻撃と太平洋戦争にいたる解説をしている建物が並んでいます。アメリカ人にとって、真珠湾攻撃は遠い過去の話で、関連する歴史など知っている人は多くはないようです。しかし、これは今の日本人でも同様でしょう。
この種のアメリカの展示場の例に漏れず、展示物や解説は充実していました。その中では太平洋戦争にいたった背景については「アジアでの日米の権益が衝突」したと説明されていました。これは真珠湾攻撃を記念するアメリカの展示場の歴史観としては驚くほど公平と言えます。奇襲した日本に対し「卑怯」「卑劣」といった表現は使われず、アメリカ人の一緒に聞いていても居心地の悪さを感じられるような物ではありません。
これと比べれば靖国神社の遊就館の解説はずい分と一方的にアメリカを非難しています。歴史は自虐史観と被害者意識を丸出しにした陰謀史観を結ぶ線上にはなく、もっと深く立体的なものです。そしてその全体像をとらえるには、冷静で客観的な目を持つことが必要です。アメリカと比べれば日本はいまだに太平洋戦争を消化してはいないのかもしれません。
ただ、展示場での音声解説ではルーズベルトが天皇に宛てて平和を訴える手紙を出していたことが述べられ、アメリカの平和努力が強調されていました。展示物には手紙の文章が飾られていて、それを読むとルーズベルトは平和の実現に「日本が中国戦線から兵を引き上げる」ことを条件としていることが判ります。この条件は広範囲に中国で戦っている日本にとっては少なくとも短期間では到底受け入れがたいものでした。戦争は避けることができなかったのです。
展示の解説を見ると、日米間の戦争に備え、アメリカ海軍は真珠湾攻撃のほんの少し前に本土のサンディエゴから太平洋艦隊主力を真珠湾に移動していたことがわかります。この事実は真珠湾攻撃をルーズベルトが国民世論を参戦に向かわせるために、事前に察知していたのに陰謀として握りつぶした、という説がいかにバカバカしいかを示しています。ルーズベルトが参戦したがっていたのは事実かもしれませんが、わざわざそのために太平洋艦隊を全滅させる必要などないからです。
事実、真珠湾攻撃の傷は深く、アメリカは日本がフィリピンを含む南方に進出するのを見ているしかありませんでした。真珠湾攻撃でアメリカに打撃を与え、立ち直るまでに有利な位置を占めてしまうという山本提督の目論見は成功しました。
戦況が一挙に日本に不利になったのは真珠湾攻撃から半年後のミッドウェー海戦で日本が敗北を喫してからです。展示場ではミッドウェー攻撃の数週間前に日本の紫暗号が解読されたことが述べられ、紫暗号の解読機のレプリカも置かれています。ミッドウェー海戦の敗北は日本の油断による機密漏洩でもなく、目標を陸上、海上と何度も変えて航空機の兵器の換装を繰り返したためでもありません。要するに待ち伏せに会ってしまったのです。展示されている旧式のラジオのような暗号解読機が日米の立場を逆転させてしまったのです。
真珠湾攻撃は現地時間8時頃開始され10時前には終了しました。その間二度の攻撃が行われたのですが、解説では第一波ではほぼ無傷だった日本軍が、二度目の攻撃では航空兵力のおよそ2割を失ったことが示されています。アメリカ側の戦闘態勢が整ってきたからです。日本から遠いハワイ敵戦艦を全滅させてなお攻撃を続けるのは危険過ぎたのです。わずか2時間の攻撃で日本軍が帰途に就いたのは当然だったはずです。
歴史公園からアリゾナ記念館までは船で15分ほどです。アリゾナ記念館の隣には日本が降伏調印をした戦艦ミズーリが係留されています。太平洋戦争を始めた真珠湾攻撃の犠牲となった戦艦アリゾナと、アメリカの勝利を確定させたミズーリを並べる。単純な思考かもしれませんが、判り易いことは確かです。戦艦ミズーリでの降伏調印など今、日本人のどれくらいが知っているでしょうか。
 戦艦アリゾナから今も油が漏れ海面に虹色の幕を作っている。遠くに見えるのは戦艦ミズーリ
アリゾナ記念館の真下の戦艦アリゾナは今では魚が育つ岩礁になっていて、記念館からは姿はよくわかりません。それでも、アリゾナから今でもなおわずかづつ漏れ出てくる油が虹色の幕を作っているのははっきりと見て取れます。この下に千人以上の遺体がある。その数は第二次世界大戦で失われた五千万人の命からみれば誤差のうちにもはいりません。しかし若い沢山の命が失われた現場を目の当たりにすると、月並みですが戦後60年以上平和だったことの大切さを思わないではいられません。来て良かった。記念撮影に忙しいアメリカ人たちの横で、私はそう思っていました。
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