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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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サラリーマンのニューギニア戦
newguinea-map.jpg


私の父親は、日本が開戦した1941年に大学の経済学部を卒業して小樽で銀行員をしていました。戦争中でも地方ののんびりした銀行員生活をすごしていましたが、1943年徴兵されて主計中尉としてニューギニア島に送られます。当時、南太平洋の戦線はガダルカナルが陥落し、日本軍は連合国軍の反攻にさらされていました。

開戦始め、破竹の勢いで勝ち進んだ日本はフィリッピンを占領し、マニラにあったアメリカ太平洋軍の司令部はオーストラリアへ移されました。オーストラリアと海を隔てたニューギニア島の南岸には連合国軍の拠点のポートモレスビーがあり、そこを落とせばオーストラリアは目と鼻の先になります。

開戦の翌年1942年3月にポートモレスビーを目指す日本軍はニューギニア島北岸のラエとサラモアに大軍を上陸させ、終戦まで続く長いニューギニアの戦いが始まります。日本軍は北からポートモレスビーの背後を突くという戦略でしたが、日本の参謀本部の秀才たちはニューギニア島を佐渡島程度の大きさだと思っていたのではないかと思えるほど、作戦は無理なものでした。

ニューギニア島はもちろん佐渡島よりはるかに大きく、面積は島としてはグリーンランド島についで世界で2番目、日本全土のほぼ2倍の77万平方キロもあります。また、島の中央は峻険な山脈が貫いていて、最高峰のウィルヘルム山の標高は富士山よりはるかに高い4508mに達します。

山谷が入り組んだ複雑な地形を熱帯雨林が覆っているニューギニア島は、人間が入り込むのを厳しく拒絶していました。島での移動は容易ではなく、20世紀に入っても探検はなかなか行われず文明社会からは遠い未知の島でした。移動が困難だったのは、文明人だけではありません。未開のままにとどまっていた原住民も同様でした。

ニューギニアには数千とも言われる言語があります。それらの言語は世界中のいかなる言語グループにも属さず、互いにも全く関係がありません。ニューギニアの自然は、原住民すら言語的に大きく離れてしまうほど長い時間、小さな集落単位で孤立してしまうほど厳しいものだったのです。

今となっては日本軍の作戦策定の責任者たちがニューギニア作戦にどのようなイメージを持っていたかはわかりませんが、まるでアルプスを象を連れて越え、ローマに不意打ちを食らわせたハンニバルや、鵯越(ひよどりごえ)で平家の背後から騎馬で急斜面を駆けて攻め入った義経のような、天才的な軍事戦略の真似をしようとしたのではないかと疑われます。

ニューギニア島のジャングルは象や馬を連れていけるどころか、人間の歩行すら困難でした。大型の蛭が始終樹上から落ちて人血を吸い、蚊は分厚いシャツの上からも皮膚を刺しました。ニューギニア島の広大で険しい地形のジャングルを大部隊で作戦行動を行うというのは非現実的だったのです。

ニューギニア島のような場所では軍の移動は、海上や航空機に依存するのが妥当な方法です。しかし早々と制海権、制空権を失った日本軍は、ニューギニアの北から南まで縦に300キロにおよぶ道路をジャングルを貫いてほとんど重機もなしに建設しようと考えます。それも連合国軍の空爆や激しい攻撃を受け、工事は180キロまで進んだところで放棄されまっした。

ニューギニア島には合計20万人におよぶ日本軍将兵が送られましたが、補給がほとんど途絶える中、ポートモレスビーははるかかなた目標でした。当初いくつかの大規模な戦闘はあったものの、日本軍は連隊レベルでの作戦行動も難しくなり、将兵たちは小さな集団に別れて自活生活を余儀なくされます。

アメリカの潜水艦の攻撃を逃れて、父がようやくニューギニア島に着いたとき大規模な戦闘はあらかた終わっていて、すぐにジャングルでの生活が始まります。

「ニューギニアには昭和18年(1943年)に着いたが、終戦まで2年間アメリカ軍と戦ったことは一回もなかった。敵に一発の弾も撃たず、撃たれることもなかった。砲撃はあったが、遠くに落ちるだけで危険と思ったことはない。アメリカ軍の近くの地域に行かなければ安全だったし、アメリカ軍もジャングルに入って攻撃する気はなかった」

しかしアメリカ軍の攻撃はなくても、補給がなければ軍隊はどうしようもありません。

「履いていた靴は半年足らずで脱げてなくなってしまった。そのときは死体から靴を取ることができてしばらく履いていたが、またなくしてしまった。今度は靴を履いた死体はもう見つからず、1年近く裸足でいた」

「主計将校の仕事は補給や会計で、物資さえあれば結構おいしい思いもできるのだけれど、何もなくては意味がない。食べることができるものは何でも食べたが虫はご馳走だった」

こんな中では連合国軍に殺されなくても生きていくのは大変です。

「人はどんどん死んでいったが、自分が死ぬという気はしなかった。そんなことを心配するやつは頭が変になってしまったはずだ。戦場では10人に1人は頭がおかしくなってしまう。頭がおかしくなれば死ぬしかない」

「死体なんてどこでもころがっていて、みな蛆虫がわいていたり、半分骸骨だったり今考えればひどい有様だが、気持ちが悪いなんていうことはすぐになくなって慣れてしまう。慣れないやつはやっぱり頭がおかしくなるしかない」

飢えの中で人肉を食べるということもかなり普通に行われていたようです。さすがに、物事に頓着しない私の父親もその点は明言を避けてはいましたが・・・

「たまに、マンハントに誘われた。マンハントというのは原住民を襲って捕獲することで、やることは猪狩りと同じで、獲るのが猪でなく人間だということだ。オレはそれだけは嫌で断った」

一般的には殺して食べる相手は、原住民、アメリカ兵やオーストラリア兵、さらに日本軍同士もあったはずです。極限状態というようなことをよく言いますが、極限状態が日常生活になってしまうと、食人のハードルはそれほど高くないようです。

ニューギニアに派遣された20万人の日本軍将兵で生き残ったのは10%、2万人に過ぎません。それでも私の父親は、2年間を生き抜き終戦になります。

「終戦の日、いつものアメリカ軍の砲撃の音がしない。みんなとうとう戦争が終わったんじゃないかと考えた。確かめようということになって、勇敢なやつがここから先はアメリカ軍に撃たれるというところにある原住民が作った芋畑に侵入してみた。撃たれたらおしまいなのだけど、撃ってこない。それで戦争が終わったと確信できた」

その後連隊本部とも連絡がつき、連合軍に対し武装解除しろという命令が来ます。

「降伏することになって、それまで持っていた自決用の手榴弾がもういらないことになった。そこで、川の中に手榴弾を投げ入れて爆発させて魚を採ることにした。みんなの手榴弾を次々に使って、魚を沢山採ることができた。あれは楽でよかった」

しかし、楽なことばかりではありませんでした。

「運の悪いのが不良品の手榴弾を持っていて、ピンを抜いたらすぐに爆発してしまった。怪我で虫の息になって「日本に帰りたい」と何度も繰り返して死んでしまった。あれは可哀想だったな」

もっとも私の父親は、気の毒な戦友の最期を話すときもたんたんとしていて、考え深げな様子はありませんでした。意識してそうだったというより、センチメンタルな感情を余計に持っていた人間は生き残りにくかったのかもしれません。

父はアメリカ軍の捕虜となり、終戦の翌年1946年に奇跡的に沈められずに残った氷川丸で帰国を果たします。

「捕虜収容所では食い物をくれるのはよかったんだが、タバコはくれなかった。連中はどういうわけか紅茶を山ほどくれるので、紅茶をタバコの代わりに吸ってみたりしたけど、あれはまずかったな」

日本に帰った父は再び小樽で銀行員生活に戻ります。終戦後間もなくはアメリカ兵による日本人への暴行、傷害事件が絶えませんでした。

「夜暗くなってアメリカ兵に襲われた時のために、しばらくナイフを持って通勤していた。襲われたら、刺して逃げればいい。素早くやれば捕まるはずがない」

本当に捕まらなかったかどうかはわかりませんが、幸い父はアメリカ兵に襲われることも、刺し殺すこともなく、世の中は次第に落ち着いていきます。ただ、白洲次郎を「従順ならざる唯一の日本人」と言ったアメリカ人(ヴィッケルトと白洲次郎)も、小柄な日本人の銀行員がいざとなれば、ナイフでアメリカ兵を刺し殺して逃げる覚悟でいたと知っていたどうかはわかりません。

ニューギニアにも慰安婦問題が起きました。1997年週刊朝日は現地人の告発として第二次世界大戦中に日本軍による強姦5,164人以上、慰安婦12,718人、食人被害1,867人などとした、ニューギニアでの日本軍の残虐行為の報道を行いました。

この記事はその後朝日新聞などの続報もあり、南方での日本軍の慰安婦問題、残虐行為の一つとして扱われたりすることもあったようなのですが、正直首を傾げざるえません。人数がやたら細かいということもありますが、日本軍の「マンハント」のような食人被害にあったのは文字もなく、他の村落とは言葉も通じないような未開な原住民です。このような被害が戦後50年以上もたって、記録として残っているなど考えられません(語り継がれることはあるかもしれませんが)。目の前で残酷な行為を目撃した人はいるでしょうが、統計的な数字はでたらめでしょう。

一方、例によって「慰安婦はいなかった、強姦はなかった」という論ももちろんあります。確かに、ニューギニアのような場所でのんびり慰安所を開設できたとは思えません。しかし、「原住民は皮膚病がひどく性的対象になりえない」というのはどうかと思います。原住民の皮膚病はひどいかもしれませんが、おそらく日本兵の皮膚病もそれ以上にひどかったのです。そんなものを気にする日本兵は、とても生き残れなかったでしょう。

20万人の日本兵がニューギニア島の人々にどの程度ひどいことをしたかは、今や闇の中です。個別の話は残っていても統計など不可能ですし、人肉を食べた話をべらべらは話す人は滅多にいないでしょう。ついでに言うと、食べられた原住民の多くは食人の習慣がありました。食べられる仲間を見て恐怖は感じても、文明人とは違った受け止め方をしたはずです。

ニューギニアの慰安婦問題は朝鮮半島、中国のような大きく扱われることはありませんでしたが、「ある」とする側も「ない」とする側も、主張の根拠はおよそニューギニア戦の実態を理解しているとは思えないものでした。それにしてもジャーナリズムの多くが基本的な事実関係や状況を無視して、このような報道をするのはなぜなのでしょうか。

さて、私の父はその後銀行で役員にまで昇進します。10人以上いた同期の大卒で戦後も勤務を続けたのが父だけという有利な状況が幸いしたことは言うまでもないでしょう。その父が死んでずいぶんになりますが、戦争のことで残念そうに言っていたことに、中尉で終戦を迎えたことがありました。

「現地で正規の命令もろくに来なくなって昇進も通知されなくなった。本当は終戦の前に大尉になっていたはずなんだ」

大尉になれなかった悔しさがサラリーマンとしての頑張りにつながったのかもしれません。出世欲だけは非日常のニューギニア戦から日常生活にサラリーマンの父が持って帰ったものでした。

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この記事に対するコメント
拝見いたしました
光人社NF文庫等でニューギニア戦の生還者の書籍を読み漁りました。商売柄、年配者と接することの多い私は、幸運にも一人の生還者の話を聞く機会に恵まれました。はやり「これは家族にも言ったことがない話なんだけど・・・」と重い口を開いていただき、私はその実状のごく一部に触れることができました。多くの元兵士がその想像を絶する悲惨さゆえに、また戦後の復員兵に対する視線から口を閉ざしてきた理由もうかがい知る事ができました。数々の書籍・このHP(お父様の勇気ある証言)をしてみてもその実状に迫ることには限界があるのかもしれません。しかしながらお父様の証言にあるとおり、大東亜戦争を、その戦略を一方的に正当化することも、非難することも正しいとはいえないでしょう。
生還者のナマの証言を年々得にくくなっている現在、そこに起こった真実を、実体験を後世のために書籍・電子媒体に残しておく事は極めて重要なことであり、戦後生まれの世代に課せられたテーマだと、このサイトを拝見しつつ考えさせられました。
【2008/09/12 19:05】 URL | 匿名 #- [ 編集]


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