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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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「教育改革」って何?
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教育改革国民会議の報告書提出(クリックで拡大)
教育基本法の改正が新内閣の最優先課題だということで、国会の審議が始まったところで、いじめによる自殺、高校の必修課目の未履修問題などが起き、おまけにタウンミーティングのやらせ質問発覚と、教育問題が最近になく関心を集めています。色々な意見が聞かれるわけですが、テレビの報道番組などで共通しているのは「日本の教育の現状は嘆かわしい」ということです。教育は個人にとっても国家にとっても重要なものですから、「嘆かわしい」なのであれば何とかしなくてはいけないわけですが、実際はどうなのでしょうか。

国会で教育基本法が審議されているのは、安部内閣が最優先課題にしているという理由はもちろんあるのですが、もともとは2000年から2001年にかけに江崎玲於奈を座長とし26名の識者を集め総理大臣が主催した教育改革国民会議の答申報告(http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/)が基礎になっています。報告書は日本の教育の改革の必要性とその実行のために教育進行基本計画の策定と教育基本法の見直しを提言しています。教育改革国民会議の報告は「中間」報告となっていて、これから最終報告が出るかと思いきや、教育改革国民会議はそこで終わっています。詳しい事情はわかりませんが、その後は文科省の諮問機関の中央教育審議会の初等教育、大学、生涯学習などの分科会でより詳細が議論され、そこでの答申を受けて教育基本法の提案を行ったということのようです。中間報告が最終報告というのも変なのですが、「最終」というのもおこがましいと思ったのでしょうか。

教育改革国民会議はその名からして教育には改革が必要なのだという前提があったのは間違いありません。教育基本法は戦後にできてから時間がたつし、技術は進歩して情報化は進んでいるし、国民の行き方はますます多様化しているし、だから改革が必要という訳です。確かに企業は不断の改革が必要です。顧客の変化、競争相手の変化、グローバル化の進展、技術の進歩などなど、環境の変化は既存の仕組み、システムのいわゆる制度疲労を引き起こします。古いビジネスプロセスやシステムをそのままにしていると、次第に競争力が衰え、場合によっては倒産してしまいます。環境変化に不断に対応し続けることは企業にとって生き残りの必須条件と言えます。

教育改革国民会議と中央教育審議会の答申などを見ても同様の主張が貫かれています。「まわりが変わっているのに教育が変わらなくて良いという道理はない」というわけです。さて、教育を考えるとき、6334制のような制度や仕組みつまりシステムの話と、教育内容つまりコンテンツの二つがあります。システムが世の中の不適合を起こしているかどうかはおくとして、コンテンツはどうなのでしょうか。「学歴無用論」というのはあっても「学力無用論」を言う人はいないでしょうから、コンテンツはシステムより重要、少なくともコンテンツあってのシステムで、その逆ではないでしょう。

コンテンツに関しては、「急速に進展する情報化」とか「創造性に富んだ科学立国を目指す」という言葉から推察して、急速に進歩した科学に対応するため、教育内容も変えなくてはいけないと言っているようにも見えます。ところが、この100年高等学校レベルの教育内容は根本的な変化はありません。少なくとも、数学、物理、化学、英語などが内容を大きく変更することはなかったのです。100年前の旧制高校の秀才(今の高校と違って大学の教養課程を一部含みますが)を連れてくれば、今でも秀才で通るでしょう。特に科学の進歩の影響が一番大きいはずの、数学や物理について言えばほとんど何も変わっていません。

この100年の間には相対性理論、量子力学、DNAなどの画期的な研究、発見がありました。量子力学などはそれなしでは、原爆も半導体も作れませんし、半導体がなければコンピューターもインターネットもないわけですから、科学の基本中の基本と言っても良いくらいです。しかし、まともに量子力学を勉強しようと思えば、関数論だの測度論だの高校でカバーする数学をはるかに超える数学知識が必要でとても教えられないのです。

数学にしても微積分や三角関数と言われると、体の具合が悪くなる人が出てきそうですが、これらは17世紀、18世紀には少なくとも高校レベルの内容はできあがっていて、100年間中身は変わっていません。化学も高校の内容は19世紀にできあがった周期律表を理解していれば、こなせる内容です。唯一生物がDNAについて教えていて、ここは100年の科学の進歩が反映されていると言えます。ただ、DNAの話もメンデルの法則から説き起こせば大まかな理解は可能ですから、100年前の生徒も驚くことはあっても途方にくれることはないはずです。

100年前と現在の高校生で学力差があるとすれば、国語力というか漢字力で、これは100年前の生徒がはるかに出来ます。漢文は100年前はまだ重要な課目でしたし、そもそも新聞、小説など普通の文章の漢字量が今とは比較にならないほどあったのです。そんな100年前の学生も、江戸時代の漢文を素読していた人たち(江戸時代に学問がある人は皆そうだったわけですが)と比べれば、大人と子供くらいの漢字力の差があったでしょう。このあたりは「英語力より国語力」と言っている人たちの大半も100年前の教養人の国語力に追いつけと言われたら悲鳴をあげてしまうでしょう。

基本的な課目の中身が変わっていないわけですから、後はどの程度習熟しているかが勝負です。これについてはOECDが各国の15歳(義務教育終了年)の学生の統一テストを2000年と2003年に実施しました。結果は2000年と2003年を比較して、日本は数学が1位から6位、読解力が8位から14位、科学が2位で不変、2000年にはなかった問題解決能力が四カ国ほぼ横一線の1位(厳密には4位)となりました。これを見て「ゆとり教育の弊害だ」という声が大きくなってきて、「国家の品格」を書いた藤原正彦などは「日本の教育は歴史上最低になった」とまで言っています。

確かに、学力の順位が下がるのは良いことではないのでしょうが、ゆとり教育で授業時間を減らしたら学力が下がったのなら、授業時間を増やせばよいはずで、こんなに問題解決の簡単な話はありません。じつはテストの結果を少し仔細に見ると、数学で日本は順位を下げたものの、点数の最上位のレベル6の生徒が占める割合は韓国、香港と並んでOECD平均の倍以上の8.2%になっています。ゆとり教育といっても、成績上位者は塾だ何だと学校以外に勉強していて、学力を維持しているということのようです。

コンテンツは変わらない、達成度もまずまず、少なくとも世界の最上位だとすると何を変えろというのでしょうか。学力がゆとり教育で落ちてきたことが問題だというなら、授業時間を元に戻せば良いのは明らかです。ところが話はそんなに単純ではありません。教育改革国民会議の報告では「日本の教育は、今、大きな岐路に立っており、このままではたちゆかなくなる危機に瀕している。 いじめ、不登校、校内暴力、学級崩壊など教育の現状は深刻である。」と言っています。「このままではたちゆかなくなる」のなら何とかしなくてはいけません。

そこで問題認識から解決策の提示ということになるのですが、教育国民会議は17の提言をしています。その中で「人間性豊かな日本人を育成する」ということで家庭教育の重視、学校で道徳教育実施を行う、「一人ひとりの才能を伸ばし、創造性に富む日本人を育成する」ために一律主義を廃し多様化を行う、さらに「新しい時代に新しい学校を」作るために教師に成果主義を導入する、授業をわかりやすくする、などが述べられています。

大変結構なことかもしれませんが、100年前と今とコンテンツが変わらないのに、どうしてそんなに色々しなくてはいけないのでしょうか。いじめ、校内暴力など多くの学校で起きている問題は、近代の学校教育が「一定年齢の児童を集団として一律の教育を施す」という枠組みを破壊している、つまりシステムの機能不全を引き起こしている、という点で「解決すべき課題」でしょう。ところが答申を読むと「いじめ」や「校内暴力」を解決する直接的な方策は書いていません。どうも家庭のしつけや道徳教育によって「人間性豊かな日本人を育成する」なかで自然に、そのような問題は解決されると考えているようです。

しかし、いくら教育問題を論じているからといって、全ての問題を教育で解決しようというのは無理な話です。教えれば誰でも微積分が理解できるとは限らないように、命の大切さや人の和を教えても、システムに対する破壊行動に出る生徒は現れるでしょう。システムを維持するには人間教育と同時にシステムを守る施策が必要で、多分そのほうが人間教育に期待するよう確実で即効性があるでしょう。

アメリカのスタンフォード大学の教授だったウィルター・ミスチェルは1960年代に「マシュマロテスト」と呼ばれる、4歳児の忍耐力のテストを行いました。テストは空腹な4歳児に1個マシュマロを置いた皿を前にして、「ちょっと外に出るけど、皿のマシュマロを我慢して食べなければ、私が戻ったときに2個マシュマロをあげよう」と言って立ち去ります。立ち去った後すぐにマシュマロを食べてしまう子は3分の1くらいでした。3分の1は我慢した挙句結局食べてしまいました。3分の1の子は、マシュマロを見ないようにテーブルの下に隠れるような努力までして、何とか食べずに我慢しました。

ミスチェルは14年後に被験者の幼児がどのようになったかを調べたところ、我慢した3分の1の幼児は総じて成績が良く、アメリカの大学進学適正試験、SATで平均210点(満点は800点)高い点を獲得しました。追跡調査はさらに続けられ、我慢した子は修飾語の平均年収や結婚生活でより高い成功率を達成したことがわかりました。
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「マシュマロ・テスト」は何を教えてくれるのでしょう。「三つ子の魂百まで」で人の生まれつきは変わらないとも考えられるかもしれませんし、「すずめ百まで踊り忘れず」で幼児教育が大切という考えもあるでしょう。一般的にはマシュマロ・テストは教育以前に人間には克己心に富んだ人と、そうでない人がいるという現実を示していると考えられています。

子供は厳しく育てたほうが良いか、伸び伸び育てたほうが良いかもよく議論になります。この疑問は双子の比較、犯罪者の調査など多くの研究が行われ結論は「大差がない」とされています。つまり、子供に肉体的に大きなダメッジを与えたり、極端に放置するようなことがない限り、子供の道徳性、勤勉性に大きな差は生じないということです。たしかに、親がやたら口うるさければ誤魔化すことを考えることもあるでしょうし、逆に煩くなければ仕方なので自分から努力するということもあるでしょう。犯罪については家庭環境より、むしろ友人など外部環境のほうが影響が大きいことも知られています。

要は教育、家庭は大切ですが、決定的なファクターとは必ずしも言えないし、まして何でもかんでも教育問題とするのはあまり科学的な態度とは言えないということです。しかし、教育改革国民会議という名称に、わざわざ「改革」をつけたところを見ると、何が何でも教育を改革する必要があるとの思い込みがあるようです。そして思い込みの原因を探ると、いじめ、校内暴力さらには少年の凶悪犯罪の激増で学校教育は危機なのだという認識があるようです。

しかし、少年犯罪について言えば、戦後一貫して減少傾向にあり、現在でも顕著な増加に転じたというデーターはありません。終戦直後の少年犯罪が貧困によるものが多かったのに対し、近年は貧困とは無縁の教育熱心な中流家庭での親の殺害などセンセーショナルなものが目立っているのは確かですが、そのような異常な犯罪が昔と比べて急に増えてかというと、確かな証拠もありません。昔から、異常な犯罪というのは時々発生していましたし、それが現代的な要因、特に教育問題によるものかどうかはわかっていないのです。

教育改革国民会議をはじめ最近の教育論議多くは、データーの裏づけなしに問題認識を行い、さらに解決策を思い込みと無理やり結び付けているという点で、通常の問題解決のプロセスを踏んでいるとは思えません。教育改革国民会議でグローバルな競争環境について語っても、諸外国のデーターの検討、比較は行った様子はあまりありません。唯一GDPに対する教育費への公費支出が日本が、3.6%なのにアメリカは5%、イギリス、フランス、ドイツはそれぞれ4.6%、5.6%、4.6%と日本が比較対象国では最下位というデーターが示されていますが、なぜかこのことは報告書では言及されていません。本当はこの部分こそ最大の問題ではないでしょうか。

どうして人は教育問題を語るのが好きなのでしょうか(このブログもそうですが)。多分それは利害の点で自分の懐が痛む話ではないからでしょう。他の問題、医療費、年金などは内容の改善と支出の増大は裏腹ですが、教育問題はそうではないように見えます。日本の教育費は20兆円程度と決して小さくはないのですが、「心の育成」を語っても支出は増えないと思っているのかもしれません。

また、人はそもそも「いまどきの若い者は・・」と言いたがる傾向があります。今の日本人で大学以上の教育を受けた人でも、高校の教育内容を十分に理解している人はかなり少数でしょう。それでも人は学力低下を嘆き、新卒の学生が会社で役に立たないことを怒るのです。しかし、思い込みで解決策に飛びつくと企業でも何でも通常ろくな結果になりません。ゆとり教育の導入もそうですがし、大きな教育制度の変更は概ね副作用のほうが大きかったというのが過去の経験です。

そんな中で、教育現場は何とか辻褄をあわそうとします。家庭科、音楽、美術は高校にもなれば大半の人には数学、英語より力を入れる必要のない学科のはずですが、表立ってそんなことは言えません。世界史にしろ何にしろ課目の中で、「こんなものいらない」と正面きって言えるものはないのです。そこで一部の高校では建前はやったことにして、別教科に時間を当てるということになるわけです。ゆとり教育、土曜日休日も塾に通うことが増え、家計の教育支出が増える結果になっています。改革しようとしても、学力が高ければより多くの機会に恵まれるという現状認識が変わらない限り、根本は変わりません。しかし、学力が高ければより多くの機会に恵まれるということを否定してしまったらどうなるでしょうか。それこそ日本は滅びてしまうでしょう。

何でも数字に頼るのは危険ですが、データーの裏づけも、仮説の検証もなく改革を行うのは企業でも、教育でも間違ったやり方です。日本の碩学、有識者が集まった教育改革国民会議は問題解決の基本を無視したとしか言いようがありません。本当に日本はどうなるのでしょうか。今日は珍しく慨嘆してしまいました。

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テーマ:進化論的組織論 - ジャンル:政治・経済

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