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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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インテリジェントデザインと人間原理 (前項の続き)
PopperColor.jpg
ポパーは「科学的であること」の定義を示した

(前の項の続き)IDがまず主張するのは、IDは進化論に対するもう一つの科学的選択肢であるということです。つまり、IDが正しいか間違っているかを論じる前に、科学的な方法論としては既存の科学と対等に扱われるべきだというのです。

確かに科学の世界では互いに対立する学説が多数あり、それらの対立が科学の進歩を促します。IDを推進する人から見ると、「偏狭で狂信的なダーウィン主義者や唯物論者」が不当にもIDを議論の場から排斥しようと策謀しているというのです。

もっとも、こののようなイデオロギーの匂いのするような言い方は、日本ではよく聞かれますが、アメリカはもっと緩やかに「IDは進化論を代替しうる科学」との主張が前面に出ます。おそらくこれは、アメリカでは進化論に対する反対が広く存在するため、「進化論を代替しうる科学」ということが抵抗感なく受け入れられる素地が社会にあるからでしょう。

これに対し日本で「進化論は間違っている」と正面切って言うと、「地球は平面だ」と言っているのと同等の受け止め方をされるので、それよりはむしろ受け入れられやすい反共のイデオロギーに沿った言い方になるのでしょう。

アメリカでIDを信じる人は保守的なキリスト教徒が中心と思われますが、日本では統一教会の支援者が主流だと言われています。このブログでは、そのような議論に深入りする気はありませんが、日米のID推進の力点の置き方が多少異なっていることは、理解してもよいと思います。

さて、それではIDは科学と言ってよいのでしょうか。科学と言えるかどうかは、結果的に間違っていたかどうかでは判断されません。間違っていたという意味では、アインシュタインの相対性理論が正しいとされた時点で、ニュートン力学は間違っていることになりました。しかし、ニュートン力学が科学であったことは疑いありません。

オーストリア生まれのユダヤ系の科学哲学者、カール・ポパーは、ある命題が科学であるかどうかの判定をする基準を示しました。ポパーは命題が「反証可能である」ということ、つまり間違っていると証明されてしまう可能性があることが、その命題が科学的であるために必要な条件であると主張しました。

逆に「反証可能ではない」とはどのような命題なのでしょうか。「一角獣は角を一本持っている」というような同義語反復のものは科学ではありません。同じことを繰り返すだけでは、科学的には無価値であると判断されます。定義の明確でないもの、「美人は得」などというのは「美人」や「得」に客観的な定義がなければ、正しいとも間違っているとも言えないので科学ではありません。

次にいかなる方法を持っても、真偽の判定する方法が見つからないものは科学ではありません。「霊魂は疑う気持ちがあると現れない」という命題を検証しようとしても、検証すること自身が霊魂を遠ざけてしまうというのですから、検証のしようがありません。 この場合、命題は科学的とは言えないということになります。

似たようなものに「悪魔の証明」があります。「悪魔は存在する」という命題が間違っていると証明するにはどうすればよいでしょうか。いくら「ここには悪魔がいない。あそこには悪魔がいない」と証明しても、別のどこかから悪魔が現れるかもしれません。悪魔でも宇宙人でも「存在しない」という証明は難しいのです。事実上証明が不可能なら、もはや科学とは言えません。

IDの主張は、生物が今のような形態を持っているのは優れた知性が「目的」をもって設計を行ったというものです。バクテリアの鞭毛の構造とネズミ捕りを比較して、突然変異と自然淘汰の繰り返しだけで、鞭毛が機能するように各部分がそのように進化することは考えられない(IDの言い方では「還元不能の複雑性」を持っている)、高い知性を持つものが設計したと考える以外にありえないというものですが、これは科学的と言えるでしょうか。

「鞭毛は還元不能の複雑性を持っている。つまり構造が突然変異と自然淘汰の結果得られたものではない」というところは反証可能です。現に進化論そのものが反証を行っているわけですから、 IDの主張は科学的命題であると言えます。それでは、「そのような複雑な構造、すなわち還元不能の複雑性、が可能なのは高度な知性が目的を持って設計したからだ」というIDの本丸はどうでしょう。

問題は「高度な知性」の存在をどのように証明あるいは否定できるかです。「還元不能の複雑性」が証明になっているというのはダメです。「還元不能(そうに思える)の複雑性」を見て「高度な知性による設計」を推定したというのですから、それではただの同義語反復になってしまいます。

IDが科学的命題の地位を確立しようと思ったら、「高度な知性」がその設計を実現するために、どのように生物の進化(または創造)に関与したかを示し、なおかつその関与を肯定(または否定)する可能性がなくてはいけません。今のところ、高度な知性がどのように構造物を(単に設計しただけでなく)実現したかをIDは何も示していません。

IDではない(古典的な)創造説なら、宇宙を神が造ったときに設計どおりのに生物ができあがった、ということになっています。また、天地創造の後も、神は啓示、奇跡など色々な形で人間の世界に関与を行っていることになります。しかし、これは宗教としての話で、宗教人自身(少なくともローマ法王庁などは)創造説を科学だとは主張しません。宗教は科学の範疇には入らないというのが現代では普通の考え方です。

ID論者はIDが物質主義に凝り固まり、何でも自分の中で解決しようとする「閉じた科学」(進化論も当然ここに含まれるわけですが)ではなく、その外側に設計者の存在を許す「開かれた科学」であるとします。開かれた科学では、科学的な現象は「目的」をもった存在が引き起こすと考えます。逆に目的なぞ考えない進化論などは自動機械のように世の中を見る「機械論」だということになります。

IDの主張が間違っているか正しいのかはわかりません。つまり世界が「目的を持つ、高度な知性による設計によって造られた」というのはポパーの反証可能性の立場では真偽の判定の可能性がないという意味で科学ではないのです。したがって、あくまでも反証可能なものが科学なのだという基準では、IDは科学であるという主張は根本的に間違っていることになります。

IDに批判的な進化論を擁護する立場(つまり日本ではおそらく圧倒的な多数派)の人には、これで一件落着ということになるかもしれませんが、問題がないわけではありません。ポパーの反証可能性による科学かどうかの判定は強力ですが、強力すぎて科学の定義をかなり狭くしてしまうからです。

たとえば、歴史は同じことを繰り返して検証するということは普通できないので、厳密な意味で反証可能性は持てません。歴史にIfは禁物だと言いますが、織田信長の歴史的な役割を証明したければ「本能寺で織田信長が死ななかったケース」を再現しなくてはいけないわけですから、信長の役割について何を言っても本質的には反証は可能ではないことになります。

最先端の物理学の超ヒモ理論は、当初は反証も検証もできない、科学とは言えない代物ではないかと思われていました。今でも超ヒモ理論の検証方法は示されていませんが、最後までその状態が続けば科学ではないということになってしまうかもしれません。

進化論も地球の歴史の繰り返しはできないので、物理学のように反証可能なモデルを作って理論の証明をするのは難しいことは同様です。進化論にとって地層から出る化石は重要な証拠、あるいは検証方法ですが、化石は普通生物の一部しか残りませんし、年代測定も厳密に行うことは容易ではありません。骨や硬い外皮部分だけしか残っていない状態で、生きている時の各部分の機能を推定しても、正しさ(あるいは誤り)を証明するのは難しいのです。

IDの「還元不能な複雑性」は進化論の使っている方法論の危なっかしさを突いているといえます。「還元不能ではない」と言いたくても、鞭毛や目の各部分が進化の過程でどのように形成していったかを示して「還元可能」を否定するのは簡単ではないのです。

それでも、進化論で使っている方法論は不完全であっても、根本的に科学的ではない、反証可能ではないというものではありません。化石の年代測定は年々進歩していますし、DNAから進化の過程を相当精密に調べることもできるようになりました。難しいということと不可能とは違います。

これに対しIDの「開かれた科学」とか「高度な知性を持つものによる設計」という考え方は、原理的に反証も証明も科学的には不可能です。これは地球の生物が本当に「高度な知性」により作られたことを否定してするのとは違います。

もしかしたら、地球上の生命はどこかの宇宙人が実験(たとえば進化論の検証!)のために造ったのかもしれません。しかし、その可能性を検証しようとすると、突然変異や自然淘汰ではなく、たとえば鞭毛の、あるいは目の設計図のとおりに生物を作る方法を示す必要があります。

設計図から生物を作り出す方法は、人類のまだ知らない物理法則の応用かもしれませんが、宇宙人にできるのなら(すくなくとも原理的には)人類にもできるはずだというのが科学の考え方です。物理現象を使うのではなく、「奇跡」を使うのなら科学ではなく宗教です。

進化の途中で介入しようとするから、奇跡だ何だと「非科学的」な方法を仮定しなければならないので、宇宙のできる最初から現在のような世界ができるように設計したことにすればよいのではないか。

そのように考えたかどうかはわかりませんが、ID論者は「人間原理」を高度な知性や、目的論敵世界観の証明として持ち出します。人間原理とは宇宙や地球が人間の誕生に適したものになっているのは、そもそもそうでなければ人間は存在できず、宇宙に関する議論もできないという考え方です。

弱い人間原理は「宇宙あっての人間」つまり宇宙の法則、年齢その他もろもろは人間が存在できるようなものにならざるえず、そうでなければ今ここで人間が宇宙を考えることはできないというものです。

当たり前のようですが、ノーベル物理学賞の受賞者のフレッド・ホイルは人間原理を使った発見をします。恒星内でヘリウム3個から炭素が形成されるトリプルアルファ反応が起こるためには、炭素が特定のパラメーター(エネルギー準位)を持たなければならず、炭素ができなければ酸素のように炭素より重い元素は作られない、しかし宇宙には炭素より重い元素がたくさんあるのだから、パラメーターはそのように設定されていなければならない、このようにホイルは考え、その考えが正しいことが後に証明されます。これは人間原理を使った最初の科学的発見と言われています。

さらに強い人間原理は「人間がいない宇宙は存在していない」あるいは「存在しないのと同じ」という立場を取ります。「存在しない」と「観測できないのだから存在しないのと同じ」というのは大きな違いがあるようにも思えますが、同じことだというのが強い人間原理です。

余計なことですが、強い人間原理をさらに発展させると「自分がいなくなれば世界はなくなる」という最強(?)人間原理になります。これは一種の不可知論ですから、科学的議論をしても意味はないことになります。

ホイルの発見もそうですが、宇宙や地球の研究が進めば進むほど、人間が今存在していることが奇跡に思えてきます。地球の温度や大気圧は水が液体でいられる微妙な範囲におさまっていますが、地球生命にとってはそれくらいの条件では十分ではありません。

月は潮の干満を引き起こしますが、潮の干満は海の生物が陸上にあがる上で重要な働きをしたと思われています。しかし、月が地球からもっと離れていたら、あるいは小さかったら、そもそも月がなかったら、進化はずっと遅くなったと思われます。

木星がなければ太陽系の外側からくる天体がもっと頻繁に地球に飛翔するので、生命体は存続できなかったかもしれません。太陽がもう少し大きければ、太陽の寿命が短くなって進化する時間が足りなかったかもしれません。

宇宙自身ももし3次元でなく2次元なら、バクテリアのような簡単な袋状のものなら可能かもしれませんが、口から肛門のような管を作ると2つに分離してしまいます。2次元では複雑な生物は作れそうにありません。

人間原理を強く信じるか弱く信じるかは別として、宇宙の様々な要素が人間誕生に必要な非常に狭い範囲(のように見える)になっているのは確かです。IDではこれを「巧妙に調整されている(fine tuning)」と考えます。だれかが目的を持って調整したというのです。
earth_globe.jpg
地球の生命はそれ自身「奇跡」

もしIDが高度な知性が奇跡などという非科学的な方法をあてにせず、巧妙に宇宙や地球の初期条件を調整し、後はなすがままにすることで目的を達成したというのなら、実質的には進化論と同じことになります。つまり、鞭毛も目もどこかの工場で組み立てるのではなく、進化という時間軸でゆっくり形成したということになります。

後は、進化の過程が「目的に沿った」ものなのか、「自然法則にしたがって物質的な因果律にしたがって行われた」ものなのかは、「科学的」には区別のしようがありません。人間原理はものの見方、考え方ではあっても、科学的に検証できるようなものではないのです。

結局、IDを認めるか認めないかは、自然の外側に(人間から見れば)超越者の存在を信じるかどうかと同じことになります。つまり、宗教としてはIDは存在できます。しかし、科学と主張するなら、科学を自分勝手に定義しているだけとしか言いようがありません。

IDを反証可能性や人間原理のような一般にはあまりなじみのない言葉を使って議論するのは、知的な遊戯に過ぎないかもしれません。しかし、議論のための議論のようなことをしなくても、IDの持つ宗教性や危なさを直感的に感じることができるのが、普通の知性でしょう。

ブッシュがIDを支持(多面的な見方を養うために進化論と公平に取り扱うというのは支持と同じことです)しているというのは、国家の指導者として驚くべきことです。指導者がキリスト教徒、イスラム教徒あるいは共産主義者であるというのは、知性が低いからではないでしょうが、IDを信じる(IDは信じるもので本来理解したり支持したりするものではありません)というのは知性が低いからだと断定してよいでしょう。

ただここで知性と言っているのはIQとか知識とかいう意味ではなく、健全な常識人としての判断力です。他の職業ならいざしらず、国家の指導者が健全な常識を欠いているとしたら、しかもその国が世界最大の強国であるとしたら世界はどうなるのでしょうか。今私たちはその実験をしているわけですが。
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まだまし?
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この記事に対するコメント

バクテリアの鞭毛は共生説により説明可能(シロアリの腹の中にバクテリアと鞭毛の機能を持つバクテリアの共生体がいるらしい)
IDでは
創造者がどのように誕生したか説明できない
進化がありえないとするならオオマツヨイグサの突然変異はどう説明するのか
などの疑問がありますね。
【2009/03/10 21:12】 URL | ASTRO #- [ 編集]


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