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馬場正博: 元IT屋で元ビジネスコンサルタント。今は「A Thinker(?)]というより横丁のご隠居さん。大手外資系のコンピューター会社で大規模システムの信頼性設計、技術戦略の策定、未来技術予測などを行う。転じたITソリューションの会社ではコンサルティング業務を中心に活動。コンサルティングで関係した業種、業務は多種多様。規模は零細から超大企業まで。進化論、宇宙論、心理学、IT、経営、歴史、経済と何でも語ります。

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河野談話を「補足」する
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今月(8月)10日李明博韓国大統領が竹島訪問を行ってから、日韓関係は一挙に緊張の度を増しました。竹島問題を国際司法裁判所に提訴するなど、それまで韓国への刺激を避けるために表立った抗議を抑制してきた日本政府は方針を一転しました。

竹島問題は当ブログでも何度か取り上げましたが(「竹島」 「竹島やっぱり韓国も変だよ」 など)領土問題はどちらの主張も絶対的な正当性を判断するのが難しい面もあり、他国は「日韓で仲良く解決してください」という以上の姿勢は基本的には取りません。

ところが、竹島問題の陰にはもう一つ「慰安婦問題」があります。韓国では慰安婦は女子挺身隊の別名にもなっているように、一般の婦女子を軍が銃剣で大量に(20万人という主張がされています)連行し日本軍の性的奴隷として奉仕させた、と広く認識されています。

つまり、戦前の日本は貪欲で侵略的な犯罪集団で、竹島はその侵略によって強奪された。その犯罪性の証拠が慰安婦問題に他ならない、という訳です。

慰安婦問題は竹島と違って国際的広がりを見せています。2007年にはアメリカ下院は日本政府の公式謝罪を要求する「慰安婦決議案」を満場一致で可決しました(アメリカ下院本会議で慰安婦決議案可決)。決議案(原文)では第2次世界大戦中、日本が占領地から強制的に若い女性を連行し、「性奴隷」にしたとして、「20世紀最大の人身売買事件」と日本を断罪しています。

そのアメリカ下院での議決で日本軍が強制的に連行した「証拠」とされたものの一つに、慰安婦問題を謝罪したいわゆる「河野談話」があります。この河野談話は慰安婦問題の謝罪を強く要求する韓国に、日本の犯罪性を認めずに謝罪だけを行うという、言ってみれば玉虫色の解決を図ろうとしたよくできた作文です(ここの詳細については「河野談話を再検証する」 を参照)。

日本では河野談話を取り下げるべきだという意見も根強くあります。しかし河野談話はその玉虫色の内容のため、取り下げることは謝罪そのものの全否定する結果になりかねません。慰安婦と呼ばれた女性たちが慰安婦になる過程で多くの辛酸を舐めたこと、慰安所では借金の形などで半ば強制的に働かざる得なかった場合もあったことなどを考えると、これはかなり乱暴なやりかたでしょう。サイパンなど軍が玉砕した戦地で慰安婦が集団自殺を行った例もあり、謝罪自体を取り消すのは適当とは思えません。

とは言っても、国際的に日本が非常に特殊な、ユダヤ人の虐殺、のような戦争犯罪を慰安婦に行ったという主張を、河野談話をそのままにすることで認めてしまうことも問題です。河野談話を取りあえずそのままにして何らかの「補足」を行うことで日本としての立場、考え方をもっと明確にすることはできないでしょうか。

例えば次のような文章はどうでしょう。

従軍慰安婦問題について、日本政府は1993年、当時の河野内閣官房長官が談話を発表し、その中で従軍慰安婦の存在を認め、慰安婦となった女性が多くの辛酸を舐めたことに心よりの謝罪を行った。

日本国は先の大戦において、戦争に巻き込まれ筆舌に尽くしがたい苦難と犠牲を払った朝鮮半島およびアジア諸国の人々に、一貫して深いお詫びと反省の気持ちを表明してきた。この思いはいささかも揺らぐことはない。

しかし、河野談話についてその後談話の内容を大きく超えて、日本軍が銃剣をもって強制連行により一般の婦女子を連行し性的奴隷として兵士に奉仕させたと解釈される場合が出てきたことは、誠に遺憾なことと言わざるを得ない。

慰安所とは一般的には売春施設とされるもので、そのような施設で働く女性が、そこにいたる過程で尋常ではない人生を歩まねばならなかったことは想像に難くない。また、売春施設がそのような性質のものであるにもかかわらず、軍が設置、運営および慰安婦の移送に関与したことは恥ずべきことである。

その事実を踏まえた上で、慰安所での慰安婦の待遇は性的奴隷という表現から想像されるようなものではなく、一般の売春施設と大きく異なるものではなかったことは指摘しなければならない。

慰安所と類似の施設は、他国でも多くの軍に見られるもので、例えば「20世紀最大の人身売買」あるいは類を見ない「軍による大規模な戦争犯罪」との表現は実態を歪曲していると言わなければならない。

再び、これは軍による売春施設の管理、運営という事実の全てをを正当化するのものではないが、慰安所設置の目的は占領地域の女性犠牲の上に性的享楽を行うのではなく、むしろ兵士と一般市民の安全と衛生に供する目的であったことも理解されるべき点と考える。

これまで述べたことは慰安婦の女性たちの人生が苛酷であったこと、それが軍の慰安所という準公的な施設をめぐるものであったことに対する謝罪の念を忘れるためのものではない。

しかしながら、河野談話の解釈が当初の意図と大きく乖離して日本軍の犯罪性の攻撃のために利用されている現状は、日韓双方の友好のために憂慮すべきものと考える。ここに河野談話を補足する形で、事実の再確認が必要と考えるゆえんである。



比較的押さえた筆致で書きましたが、これで韓国が納得することなどありえないでしょう。「厚顔無恥に河野談話を否定した」と怒りに火を付ける可能性の方が高いと思われます。しかし、今のままで日本人は性的変質者のように世界中で思われるより、まだましでしょう。政府も何らかの対応は考える時だとは思います。

橋下氏のポピュリズム
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ポピュリズムは良い響きを持つ言葉ではありません。普通は「大衆迎合」と訳されるように、大局的、長期的損得を考えず、その時点で多数の人に受け入れられる政策を掲げる。目的は大衆的人気を得て権力を獲得すること。国民のことより自分のことしか結局は考えていない。ポピュリストと政治家を呼ぶのは、強い非難をこめているのは間違いありません。

最近、橋下大阪市長に対しポピュリストという批判が出ています。人目を引くテーマでスタンドプレーを繰り返すが人気取り以上のものではない、というのが批判の理由です。耳目を集めることの多い橋下氏ですが、読売新聞主筆渡辺恒男氏は最近の著書、その名も「反ポピュリズム論」で橋下氏をポピュリストの典型と位置付けています。

ところが当の橋下氏はポピュリズムにそれほど否定的なイメージを持っていないようです。橋下氏はツイッターの中で次のように言っています。

しかし政治行政の本質は多数の意見で進めることだ。ポピュリズムと軽蔑されようがなんであろうが、民主制とはそういうものだ。それが嫌なら、民意を軽蔑する、賢人政治にするしかない。そんな政治はまっぴらごめんだ。賢人などいるわけがない。民主制は完ぺきではないがそれに替わる政体はない。https://twitter.com/t_ishin/status/231963221827932161



実はポピュリズムを「大衆迎合」と訳すのは、政治学的な意味では正しくはありません。学問的にはポピュリズムは特定のエリート、権力者が国民を率いていく「エリート主義」と対比されて「大衆主義」「人民主義」とするのが普通です。

橋下氏はまさにその「反エリート主義」としてポピュリズムという言葉を受け止めているようです。橋下氏は同じくツイーターの中で、「インテリ」と呼ばれる人達に鋭い批判を浴びせます。例えば、橋下氏は文楽への補助を大阪市が減額することを検討していることに対し、「橋下市長は伝統芸能を理解していない」と言われたことに反発して次のように述べています。

文楽について素朴な疑問をぶつけると、いわゆる自称インテリ層が、文楽のことを分かっていない!!伝統芸能を分かっていない!!と来る。首長や行政マン、そして自称インテリ層は文化音痴という批判、この言葉が一番嫌なんだね。だから文化は大切だ、文楽は重要だとしか言わなくなる。https://twitter.com/t_ishin/status/231962620364718080



橋下氏は「インテリ」が様々な形で観念論で政策の批判をすることを激しく攻撃します。橋下氏の中にあるのは、政治は一部の知識人、マスコミが無知な一般大衆を「善導」することで行われるべきではなく、現実的な実務を広く国民一般の目線で行うべきだ、という強い信念のようです。

結局新聞などに寄せられる自称インテリ層の意見は、国民総数からするとほんの少しの意見なのに、新聞紙面には多くを占める。いわゆるデモと似ている。新聞の自称インテリ層の意見が、国民大多数の意見だと見誤るとえらい目に遭う。もちろん、数だけが全てではないことは分かっている。https://twitter.com/t_ishin/status/229362941231775744


橋下氏の矛先は評論家的な「インテリ」層だけではありません。地方に対する中央政府に対して、道州制による地方への大幅な権限移譲を求めています。これは、中央の政治家、官僚という日本のエリート層に対峙する本来の意味のポピュリズム的主張と言うことができます。

橋下氏にとって、ポピュリズムこそ民主主義の本質です。政治は一部のエリートのものではない。当り前のこの考えを「インテリ」は知的な傲慢さで、内心では否定している。否定しているからこそ伝統芸能、文楽への補助金の廃止という政策決定プロセスを「文化を理解していない」と切って捨てようとする。橋下氏はこう考えているようです。

これは日本の政治の中でかなりユニークな考えという気がします。同じような体制側に対する挑戦でも、暗に「意識の高さ」を誇る多くの市民運動家や、「支配される側」の立場を取る伝統的な社会運動家とは正反対と言っても良いかもしれません。

しかし、反エリート主義を掲げても、それだけで現実の政治ができるわけではありません。橋下氏自身も次のように指摘しています。


政治家が行政実務をできるわけない。ただし裏を返せば、官僚組織は、今までのやり方を大きく変えることはできない、利害関係者・既得権者を振り切ることはできない、議論が膠着したときに決定できない、正解が分からない場合には今までやってきたことを踏襲する、となる。 https://twitter.com/t_ishin/status/229584208568414208


橋下氏の言うように、政治家は方向性を示し、官僚機構が実行する。これは簡単なことではありません。なぜなら、政治は政策を法律にすることと、実行のための予算配分がなければ機能しません。その能力なしで政治主導と言っても、それは単なる掛け声だけでしかないのです。そしてその能力を独占することで官僚機構は日本の政治を実質的に動かしてきたのです。

橋下氏の反エリート主義が本当の意味の政治主導を実現していくことができるか。橋下氏の下に集まった「維新の会」が、怪しげな人物の多い言わば烏合の衆だった、過去の新政党と本当に違うのか。しばらく見守っていく必要がありそうです。
背広を脱いだ男について
最近あまり背広を着る機会がなくなりました。「あまり」というのはかなり過大な表現で、実際にはネクタイを締めるのは冠婚葬祭くらいになってきました。ネクタイを締めないだけでなく、背広は着なくても上着だけ、いわゆるジャケットは着ないこともないのですが、いつもと言う訳ではありません。
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そのような生活をするようになると、途端に困るのは財布その他の細々した品物です。最近はタバコとライターを持ち歩く人は減ってきましたが、携帯電話というそれ以上にかさばる物が必携品となってしまいました。

塩野七生は膨らんだ上着に財布やら何やらを入れることで男の神秘性と魅力が増すということを言っていたことがあります。上着に何も入れないのはお洒落の一つなのですが、塩野七生からみれば、そんなものは薄っぺらい中身と調和するものなのだそうです。

確かに女性のハンドバッグの中は男から見れば神秘的と言えないことはないのですが、だからと言ってバカでかいハンドバックを持ち歩いけば、女性の魅力が増すと感じる男は少ないでしょう。ポケットを膨らませた上着を着る男の方が魅力がある、という塩野七生の意見は多くの女性に共有されているのでしょうか。

それはともかく、上着がないと何か代わりの物がないと困るのは間違いありません。男性でもクラッチバッグという小型のハンドバッグはありますが、これが案外悩ましい。年を取ってあまり貧弱な物を持つのも考えものですが、ブランドロゴを散りばめたり、倉庫の戸締りにでも使えそうな頑丈な留め金を使った物も、バブル紳士の生き残りのようでよろしくない。

問題を深刻化(?)させたのは、背広を着なくなると同時にビジネスバッグというものも持たなくなったことです。ビジネスバッグには書類だけでなく、ノートブックPCを入れるのが最近は普通ですが、ノートブックPCがビジネスマンの必需品になってから、種類も増えて機能性の高いものも沢山出てきました。上着もないビジネスバッグもないとなると、男は丸裸みたいな状態になってしまいます。

学生や若い世代で背広を着ることがあまりない仕事をしている人には、リュックや少しお洒落だとカジュアルなトートバッグを持ったりしているようです。しかし、どちらも年かさの男にはあまり似合いそうもありません(人にもよるでしょうが)。

問題はバッグだけではありません。財布自身も簡単ではありません。原因はもちろん大量のカードです。免許証、保険証もカードと同じサイズになったのはよいのですが、うっかりするとカードの枚数は際限なく増えてしまいます。コンビニやデパートのカードなら割り切って、ポイントを諦めてしまえば持たなくてよいのですが、病院の診察券などはそうもいきません。年齢とともに行きつけの病院が増えると、カードの枚数を10枚以下にするのは至難の業になります。

カードの枚数が増えるので、財布の大型化は進んでいます。今や塩野七生が何を言おうと財布は上着のポケットに収まらなくなってきているのです。そこで財布と携帯くらいは入る「上着替わり」の財布があっても良いのではないか、いやそのようなものはあるだろう。こう考えて色々と調べてみることにしました。

結果、ダンヒルのダブルジップトラ ベルコンパニオンという財布があることがわかりました。財布と言っても、カードが20枚以上も入り、スマートフォンまで収容可能というものです。これなら財布としてだけでなく、上着の代わりができそうです。値段はかなりするのですが、ネットで安く買うこともできるし、何と言っても背広の上着代わりだと思えば、それほどでもない。デザインも昔の威圧的な止め具を付けたクラッチバッグと違って、比較的シンプルです。

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ということで、かなりの出費と引き換えに買い求めることにしました。携帯はiPhoneがぴったり入り(それまで使っていた別のスマホは、これを機会に取変えました)、カードは20枚近く収まる。これはいいぞ、と思ったのですが、実はそうでもありません。まず当然ですが重く、そしてかさばる。しかし、そんなにかさばっても鍵束が入らないことが買ってから判りました。当り前ですが、ハンカチやティッシュのようなものを入れるのも不可能です。

つまり、かなりの出費をした挙句、問題は根本的には何も解決していないのです。やはり何かバッグが必要だ。ということで、今後はツミの肩からかけるタイプのバッグ(メッセンジャーバッグと言うらしいのですが)を、買うことにしました。

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しかし、これも中途半端なのですね。上着の代わりにハンカチや鍵束を入れることはできても、上着とはとても調和しないデザインです。肩からかけるのは持ち運びには便利ですが、銀座あたりを歩くと中国人観光客といった趣になります。正直あまりスタイリッシュではありません。

おまけに、最初に買ったダンヒルの巨大な財布がぎりぎりにしか入らず(入っただけよかったのですが)、入れるのも出すのもひどく面倒です。実はダンヒルの財布は弱点があって、小銭の出し入れあまりスムーズにいかない。つまり、コンビニで飲み物を買って小銭を取り出したりするのは、かなりの作業になってしまいます。上着から小銭入れを取り出して、勘定をすませるの比べれば三倍くらいの時間がかかります。

かくして、背広を脱いだ男は、かなりダサい感じでバッグを肩からかけ、バカでかい財布を窮屈げに取り出し、やっとの思いで小銭を支払う、という状態になりました。邪魔なだけと思えた背広姿は、それと比べれば何とスマートで無駄がないことか。やはり男はポケットを膨らませた上着を着ていなければいけない。たとえ魅力などなくても、それが男には一番ふさわしいのかもしれません。

小沢一郎氏の不幸
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小沢一郎氏が民主党を割って、新党を作ることになりました。小沢氏とともに衆院議員37名(小沢氏を含む)、参院議員12名が小沢氏と行動を共にしました。これは今からちょうど19年前小沢氏が新生党を作ったことのデジャブを見るようです。その時も小沢氏は政権党の自民党から多くの自民党議員とともに党を出たのです。

しかし、似ているのはそれだけかもしれません。19年前には新生党は自民と共産党以外全ての政党と連立し長年の自民党政権に終止符を打つことに成功しました。今回は小沢氏は政権を奪還する見込みはほとんどありません。

それどころか選挙基盤の弱い一年生議員を主体とする離党組は次回の選挙では当選できる議員はごく少数に留まると予想されています。政権獲得どころか出来た途端に小沢氏の新党は胡散霧消してしまう危険さえあるのです。

毀誉褒貶はあるものの小沢氏が世紀をまたいで、日本の政治にもっとも大きな影響力を政治家の一人であることは疑いありません。40年におよぶ自民党政権を倒し、政権交代を成し遂げただけでなく、小沢氏の動きは常に政界の台風の目でした。

自民党政権を倒した小沢氏も、自民党が社会党党首を首班に立てるという奇策で政権奪回を遂げた後は、政権から長く遠ざかることになります。一時は、小渕首相の時に当時自由党党首であった小沢氏は自自連立により政権に復帰しますが、2年足らずで連立を離れ再び野に下ります。しかも、その時には自由党の一部は小沢氏と分かれ政権に留まります。

権力の座から離れてしまった小沢氏が再び日本の政治を大きく変えることになったのは、民主党と自由党の合同で政権交代に近付いたことです。それまで清新さの半面、政治経験の乏しさに不安を持たれてきた民主党は、小沢氏の参加により国民から自民党に代わる政党として認知されることになりました。

小沢氏の参加もあり民主党は政権交代を実現します。自民党は1994年以来保持してきた政権を失います。しかも、前回が大量の議員の離党と野党の連立という形で政権を失ったのに対し、選挙で大敗を喫した結果でした。名実共の政権交代が実現したのです。

民主党の政権獲得に小沢氏の力が大きかったことは間違いありません。それまで政策論議は得意でも選挙に弱いと言われてきた民主党は、小沢氏により選挙のやり方を徹底的に鍛え直されることになりました。

その小沢氏が再び民主党を離れることになったのはなぜなのでしょうか。表面的には野田政権が小沢氏の主張するようにマニュフェストを守らず消費税をあげることになったからです。しかし、これは奇妙な話です。1993年に小沢氏が著した「日本改造計画」では、小沢氏は消費税を10%に上げ、法人税、所得税を下げることで経済の活性化を目指としていました。

さらに、細川内閣の時、消費税を国民福祉税として7%に上げようとして強い反対で失敗しています。この国民福祉税構想は一一コンビと呼ばれた大蔵省斉藤一との連携によるもので、今で言う財務省支配の結果とも言うべきものでした。

小沢氏は変わってしまったのでしょうか。小沢氏はこの20年共産党を除くほとんど全ての政党と連立、連携をしていきました。増税反対を訴えた今回は、脱原発、反TPPの立場を明確にしています。これは社民党などとほとんど同じ政策です。新自由主義の旗手とも思われたかつての小沢氏と同じ人物とは思えません。

日本外交にとって最重要である対米関係もそうです。湾岸戦争の時、軍隊を派遣できない日本がアメリカに協力するため、小沢氏は剛腕ぶりを発揮して百億ドルの資金を拠出しました。それがいつか親中派を言われるようになり、大量の議員を中国に引き連れていくようなことまでしています。小沢氏の外交の軸はどこにあるのでしょうか。

政策面の変遷を見ていると小沢氏は融通無碍とも変節漢とも思えます。しかし、見方を変えて小沢氏が権力の獲得を最優先にして政策は道具に過ぎないと考えると、理解はずっと簡単になります。

小沢氏の師である田中角栄は数の政治を信奉していました。権力のない政治は考えられません。どんな理想も民主主義で多数を制しなければ実現しません。そのためにはより多くの議員を自分の意に従わせる。田中角栄の秘蔵っ子であった小沢氏は、田中角栄の数の政治を極限まで具現化しようとしてきました。

数の政治では政策へのこだわりは邪魔です。状況によりどのような勢力とも合従連衡をすることができるためには、外交、防衛、社会保障のような政党にとっての基本理念さえ、相手によりどうにでも変えることができる、あるいは変えるべきである。小沢氏は恐らくそう信じているのです。

このように考えると、小沢氏が「日本改造計画」で展開した新自由主義的な政策も、単にその方が受けが良いと思ったからだと思うと納得ができます。政治家の著作はほとんどゴーストライターによるものですが、そのゴーストライターの一人だったと言われる竹中平蔵氏は小泉政権に参画して、自身の政策の実現を計ります。当然かもしれませんが、小泉政権の政策を小沢氏が熱狂的に支持するようなことはありませんでした。

しかし、数の政治(それは政局の政治と言ってもよいでしょう)を追い求め、政策は取変えの効く衣装のようなもの、と考える小沢氏は、小沢氏本人以外から見ればずいぶんと付き合いにくい政治家と言わなければなりません。

まず小沢氏にとって議員は数としての意味しかありません。自分の言う通りに行動できるかどうかだけが評価の基準で、自分と異なる意見を持てば、それは壊れたロボットのように意味のないものになります。これでは力のある政治家は付いていくことはありません。

国民の目から見ても新自由主義者だと思っていると、社民党員のような政策に転換されていては、よほど小沢氏自身のパーソナリティー(その中には「剛腕」というイメージも含まれますが)に引かれていない限り支持し続けることは難しくなります。

小沢氏の不幸は政局を動かすということにかけては群を抜く能力を持っているにもかかわらず、いや持っているがゆえに、政策というものにあまりに無頓着であったことです。小沢氏とって政局が全てで政策は道具でしかなくても、国民はやはりその政策に投票をするのです。

小沢氏のもう一つの不幸は、政治的な剛腕を持っている半面、リーダーとしての資質にあまりに欠けていることです。小沢氏あった人の多くは政治家から一般選挙民まで、その魅力に引き込まれると言います。冷酷で力任せという評判と違って、大きく深みのある人間に見えると言うのです。

しかし、大きな人間に見えるということと、リーダーとしての資質があるということは必ずしも一致しません。むしろ、議員を数でしか考えず、国民を票田としか思えない小沢氏が長い目で見て人を引き付け続けることは難しいでしょう。

小沢一郎氏は政治的な天才だと言えます。小沢氏は二度の政権交代を実現し日本の政治の歴史を変えました。しかし、その天才はリーダーとして日本を動かしていく資質を全く欠いたものでした。

小沢氏の歴史的役割は民主党政権が生まれた時に終わっていたのでしょう。あるいは、自民党を割って一党独裁にくさびを打ち込んだ時点で、もはや終わっていたのかもしれません。けれども現代の政治抗争は革命や内乱のように政治家の命を奪うようなことはありません。

小沢氏を、西南戦争で不平士族に担がれて城山で切腹した西郷隆盛になぞらえる声はよく聞かれます。しかし、現代の西郷隆盛は切腹することはありません。自らの政治的運命が暗転していくのを生きながらえながら、ただ見つめているしかないのです。それこそが、一番大きな不幸と呼べるかもしれません。

女性は男性の90%?
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ゴルフをする人にとって「飛ばす」ことへの憧れは強いものがあります。ゴルフではボールをより遠くに飛ばす、つまりホールにより近付けることができれば、有利になるからです。そして、飛距離では男女の差があることもよく知られていることです。

アメリカの女子プロでドライバー(クラブの中でもっとも遠くに飛ばせる)の飛距離が一番なのはブリタニー・ロンシコムの平均280ヤードですが、これは米男子プロで一番の飛ばし屋、ババ・ワトソンの平均314ヤードの89%にあたります。

この割合は他の選手でも同様で、ドライバー飛距離が50番目付近の選手は女子プロで大体260ヤードなのに対し男子プロでは290ヤードくらい。比率はやはり約90%です。

女子の飛距離が男子の90%程度だということを反映して、競技を行うコースの長さも女子は男子の90%程度に設定されています。例えば男子四大メージャートーナメントの一つのマスターズはジョージア州オーガスタの7,435ヤードのコースで行われましたが、女子プロのメジャートーナメント、クラフトナビスコチャンピオンシップの行われたカリフォルニア州ランチョ・ミラージュは6,738ヤードでした。比率は90.6%です。

ここまではゴルフの飛距離の話ですが、他の競技ではどうでしょうか。下の表は陸上、水泳の主要競技の世界記録の男女比較です。90%という比率は陸上、水泳でほぼ共通していることが判るでしょう(タイムは逆数で比較しています)。これは短距離でも長距離でもあまり違いはありません。
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ただ、陸上では跳躍競技、水泳ではバタフライが女子が男子の84%程度になっています。どちらも強い筋力を特に必要とする競技です。このような競技では男女の差は広がるようです。

体格の差はどうでしょうか。日本人の男性の平均身長は約171センチ、女性は159センチです。比率では93%です。この比率は民族によってそれほど大きな差はありません。男性の平均身長が182センチに達するオランダの女性の平均身長は167センチで92%となっています。男性は女性より筋量が多いので、女性は身長よりも記録が多少低くなっていると考えられます。

男女の記録の比率が90%程度というのは、ほとんど法則と呼んでも良いほどですが、これらは鍛えぬいた選手同士の比較です。一般の男女比はこれより大きいようです。

ゴルフに話を戻すと、ゴルフ場は競技者のレベルによりコースの長さを変えています。旗の立っているホールの場所は変えられないので、最初に打つティーグラウンドの場所を変えるのですが、女性用は赤ティー、一般男子は白ティー、上級者は青ティーさらに選手用の黒ティーなどのように、ティーグラウンドの場所に色を付けて区別することが普通です。

プロの試合も行われる戸塚カントリークラブの例を取ると、レギュラーティー(一般男性向け)の6,373ヤードに対し、フロント(女性用)は5,595ヤード、約88%ですが、普通の女性は男性の88%は飛びません。個人差はあるとしても80%あるいはそれ以下というところでしょう。

女性が男性の80%しか飛ばなければ、フロントティーの5,595ヤードは男性なら6,993ヤードに匹敵します。戸塚カントリーには上級者、選手用として6,749ヤードのバックティーが設定されているのですが、それよりさらに長いコースでなければ男女の差は埋められないことになります。

正確な比較は難しいのですが、選手ではない人同士を比べれば、足の速さなど女性は男性の80%程度というのが普通だと思います。極限まで鍛えれば女性は男性の90%程度の肉体的能力を持っているが、文化的な抑圧、つまり女性の動きにくい服装、強さより優しさを求める社会の要請、などが肉体的能力を押さえつけているのではないかと思われます。

しかし、女性の潜在的な肉体的能力が90%あるのに、文化的抑圧で80%しか発揮できないのなら、男性に文化的抑圧を加えれば、一般には女性並み、あるいはそれ以下の力しか発揮できなくなることも考えられます。そんな文化を持つ社会が未来に来ないとも限りません。

*** 西暦4,000年の新聞の文化面記事 ****

考古学会で、西暦20-21世紀の後期古代時代のスポーツ記録を分析した興味深い結果が先日発表された。それによると、当時の競技では男子が女子より優れた記録を出していたとされている。しかも、その差は大きく、当時の女性選手は男性選手の90%程度の記録しか出せなかったらしい。一部の男性の記録は現代の女性選手の記録さえ凌駕するものがあると言う。

この驚くべき結果の理由の考察も発表されている。それによれば、当時の女性は妊娠、出産という体力的に非常に負担のかかる作業を、体を直接使うことで行っていたことが原因だということだ。想像しにくいことだが、当時人間は受胎を男女の直接的な性行為で行い、受胎した受精卵を女性の胎内で育て出産を行っていた。

このようなことは今では野生動物でさえ行われていない。かつては野生動物は受胎および出産は自然な行為に任せるべきだという「自然派」と種の保護の観点から全て人工的に管理された状態でおこなうげきという「保護派」の対立があったが、絶滅危惧種の増加とともに、一部を除きほとんどの哺乳類では人工授精が主流となった。

人類が出産まで女性に行わせていたというのは、現代人には驚くべき話だが、2千年前はこれが普通であった。これでは女性が男性の90%の力しか発揮できないのは無理からぬことかもしれない。

しかし、研究結果では男女の差は出産という行為自身の負担というより、「女は出産があるのに男のように活動してはいけない」という文化的抑圧があり、それが記録が伸びなかった最大の要因であるとされている。

それなら、現代の男性が女性の90%程度の記録しか残せないのも文化的抑圧の結果かもしれない。平均寿命が女性より短い男性は「弱くて大切に育てなくてはいけない」という強い社会的規範に縛られているからだ。

このような文化的呪縛を解き放てば、男性の記録は女性並み、あるいはそれ以上になることも十分期待できるかもしれない。頑張れ男!

夜の独り言
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私はテレビをよく観ます。もっとも観るとは言っても、バラエティーやクイズ番組などはまず観ません。観るのはニュース、スポーツもありますが、大部分はドラマです。昔はそれほどでもなかったのですが、録画機能の進歩とハイビジョンの画質の向上で、ビデオを借りたり、映画館に行く代わりに録画したテレビ番組で済ませるようになったのです。

録画番組は観る時間を自由に選べるし、煩わしいCMは飛ばすこともできます。読書も良いのですが、夜寝る前に一杯やりながら観残した番組を観るのは悪くありません。それに近頃は年のせいか、やたら早く目を覚ますこともあり、そんな時にも録画で貯め込んだ番組は便利です。

と、ここまでは前置きで、今回お話ししたいのはテレビドラマに多いサスペンス物、警察物の中で扱われることの多い殺人事件です。物騒な話ですがテレビ評論の一部と思っていただければと思います。

今のテレビドラマで扱われる事件の描き方は昔とは比べ物にならないくらい、きちんとしています。殺人事件があると鑑識が登場し遺体は解剖されます。被害者の関係者は聞き込みの対象となりアリバイが調べられます。事件現場付近のビデオ映像は集められ解析されます。指紋に加えてDNAという強力な捜査手段が登場してごく僅かな犯人の残留物からも犯人は特定されます。

犯人が車を使えば、方々に備え付けてあるNシステムと呼ばれる車のナンバーの読み取り記憶装置が犯人の車の経路を明らかにします。このような様々な捜査手段はテレビ局や制作会社の中にノウハウとして蓄積されていて、どんなサスペンスドラマも犯罪捜査の点では一定の水準が保たれるようになってきています。

反面、どんなテレビドラマも似たような事件、似たような捜査が行われていくことになりますが、そこにドラマそれぞれの独創性や演出の煮詰め方、役者の演技によって出来不出来の差が出てきます。とは言っても、そこそこに楽しめる番組が多いのはありがたいことです。

ただ、殺人事件を扱ったドラマでいつも納得できないものが残るのは殺人の動機です。多くのドラマは実に簡単に、「ばったりあった男が、高校の頃しつこいイジメをしていた」程度の理由で殺してしまいます。加害者(往々にしてテレビドラマではかなり社会的に地位のある人という設定になっている)は殺人を起こすことで失う物が大きいのに、これはずいぶんと無理がある気がします。

もちろん、テレビドラマは作りものですし、実際の殺人事件が「痴情のもつれ」「サラ金の返済に窮して」程度の理由で起きてしまうことを考えれば、そんなことを問題にするのはおかしいと言われてしまうかもしれません(わざわざ録画してまで観るなよ、と言われそうです)。

そこで、物騒な話ついでに自分が殺人をするとすれば、どのように実行するかを少し考えてみました。当ブログの表題の「ビジネスのための雑学知ったかぶり」とは関係ありません。テレビドラマ愛好家のやや暗い妄想です。

殺人は重罪です。逮捕されれば社会的な全てを失い、長期間の服役を覚悟しなくてはいけません。連続殺人ともなれば死刑の可能性も高くなります。では殺人を犯して逮捕されないようにすることは可能でしょうか。

殺人を犯して逮捕されないための一番の方法は警察が捜査をしないようにすることです。警察は殺人事件があったということが判ると大量の人員と予算を投入しますが、「行方不明になった」くらいでは普通動きません。行方不明になっても、自宅から大量の血痕が発見されるとか、明らかに狙われているという証拠がない限り、行方不明者のリストに加えられるだけです。

つまり、死体をどこかに隠してしまい、かつ大量の血を残したり、殺害現場を目撃されるようなことがなければ、警察は容易に動かないと考えられます。もし死体が永久に発見されなければ、殺人もなかったことになる可能性が大きいのです。

死体を全く隠し通すことができなくても、例えば山奥で数カ月あるいはそれ以上発見されなければ、捜査は難航します。まず、殺人捜査につきものの「x月x日、夜10時頃、どこで何をしていましたか。それを証明することはできますか」というアリバイ捜査が殆ど意味をなさなくなります。

それでも土地勘のある場所に、車で運んでそれをNシステムで記録された、というようなことがあると、追及は厳しいものになりますが、そうでなければ数か月あるいは数年前のアリバイなどは意味がありません。

もっともアリバイの意味がないということは緻密なアリバイ工作で積極的に無実を証明するという手段は使えないことになります。ドラマでは巧妙な偽装アリバイを打ち破っていくのが面白さの一つですが、実際はに警察が疑いをかけたら工作を見破られる確率はかなり高いと考えるべきでしょう。巧妙であればあるほど破られた時の打撃は大きいし、裁判でも不利に働きます・「衝動的に殺してしまいました」という言い訳が通用しにくくなるからです。

死体を完全に隠してしまうことは可能でしょうか。松本清張は死体を蝋で固めておがくずのように細かくして捨ててしまうという方法を考えました。死体を完全に細かく裁断して捨ててしまうのは単純ですが、発見されにくいという意味では有効です。一般ゴミにして出してしまえば、まず死体が発見されることはありません。

この場合死体をどこで切り刻んでしまうかが問題になります。実際の事件では同居人が風呂場で、というケースが多いようですが、大量の水で血を流すことができ、人目にもつかない場所を見つけるのはそれほど難しくはないはずです。時間も道具さえあれば(実際の事件では台所用品を使うことが多いようですが)、それほどかかりません。

死体を燃やしてしまうという方法もあって、実際の事件でもドラム缶に石油を入れて焼いてしまったケースもありました。しかし、燃やすのは目につきやすいですし、一般ゴミとして出してしまう方法と比べれば、後の処理も大変です。

海や川に沈めてしまうのはどうでしょうか。うまく実行できれば死体を消し去ってしまう有力なやり方で、犯罪組織ではよく使われているようです。しかし、死体は腐敗が進むと内部で大量のガスを発生するため、相当重い(死体の重さと同じくらい)の重りをつける必要があります。

それだけの重量物をある程度岸から離れた場所に捨てるとなると単独犯では難しくなります。運んでいる最中に目撃される危険もあるでしょう。テレビドラマは別ですが、このような手段を使えるのは犯罪組織が主になってしまうでしょう。

この他、化学工場で死体を溶かしてしまう、溶鉱炉で燃やしてしまう、犬に食べさせてしまう、などありとあらゆる方法がドラマや探偵小説では考案されています。犬に食べさせるという方法では、被害者が義眼でそれを犬がくわえて来てい事件が発覚しました(小説の中の話です)。

様々な方法があるとしても、大体は極めて特殊で使用できる人は限定されます。それは犯人の特定のされやすさにもなります。もっとも、、死体を完全に消滅させることができれば、処分の方法が使える使えないかはあまり問題にはならないでしょう。

ということで、殺人者が被害者を呼び出し、人気のないところで殺害(練炭による一酸化炭素中毒では血も出ません)し、さらにそれを山奥の貸別荘で完全にばらばらにしてゴミにして捨ててしまう、という方法を取られると捜査も行われず、逮捕される可能性もずい分と小さなものになると思われます。

こう考えるのは私だけではないでしょう。世の中にはこのようにして殺害し遺体を消し去ってしまう犯罪は沢山あるのかもしれません。事件が発覚しなければ、それがどれほどあるか見当もつかないのです。

もっとも、このようなことを慎重に準備万端で行うとなると、多くのテレビドラマにあるように、簡単に人を殺すということもあまりないでしょう。職業的殺し屋でもなければ、人を殺すのは大変な精神的抵抗を克服しないと難しいはずです。となれば「つまらないことで衝動的に」殺すというのが殺人の動機としては一番多いのかもしれません。世の中が完全犯罪の殺人だらけではないとすれば、それは結構なことではあります。
「もらう」政治なのか「稼ぐ」政治なのか
TPP反対


今の日本では、原発、TPP、消費税の三つはセットになって反対、賛成と分かれているように思えます。もちろん、人の意見は様々ですから、消費税には賛成しても、原発には反対するとか、TPPだけは認められない、と言う人もいるでしょう。しかし、社民党、共産党が三ついずれにも反対しているように、特に反対論者ではセットになっている現象が顕著なようです。

なぜなのでしょうか。この三つをまとめても、かつての自社対立のような米ソ二大勢力のどちらを選ぶかといった明確な背景があるようには思えません。政党を分ける政策軸として考えれば、三つがセットになる必然性はなそそうです。

しかし、「国の政策は経済が繁栄する環境を作ることが重要」と考える人と、「国の政策は人の暮らしを豊かにすることが重要」と考える人に分けて考えると、この三つの政策の共通点が見えてきます。

消費税について言えば、今税を上げなければならないかどうか、ということをひとまず置くと、広く浅く(とも必ずしも言えませんが)税を取るか、儲かっている企業や豊かな個人からより多くの税を取るかという選択肢になります。

この場合消費税に賛成するのは、企業や富裕層です。法人税を上げたり、所得税を上げると「稼ぎ手がやる気を失ったり、海外に出て行ってしまう」というのが主たる反対の理由です。

実際に、法人税や所得税を下げてどの程度「稼ぎ手」がやる気を出すかは、明確ではないのですが、「もっと稼いで結果として税収を上げた方が良いだろう」という理屈はあるわけです。

TPPや原発も、産業や経済を重視してもっと稼がなくては、と考える人たちが支持しています。TPPは貿易や国際間の取引を活性化すると期待されていますし、原発は色々心配な点はあっても、安く安定した電力供給がなければ、製造業が海外に出て行ってしまうという可能性があります。

これに対し反対派は「稼ぐ」より「もらう」ことを重視します。消費税はもちろんですし、原発も危険という負担を避けたいという思いが反対の最大の理由です。TPPの反対は農業や医療など強い保護の対象になっているものです。TPPによりそのような保護が得られなくなることは深刻な問題です。

ここでお断りしておきますが、「もらう」と「稼ぐ」と色分けした時に「稼ぐ」方が「もらう」より正しい政策を導くとは限りません。「稼ぐ」ために空気や水を汚染したり、消費者に危険なものを売ることは認められないし、国民全体のためにはなりません。

「もらう」が文字通り「もらう」だけとも言えません。医療保険が失われたり、国が所得配分の役目を放棄して貧富の格差が際限なく広がることは国の安定のためにはなりません。そんな国では「稼ぐ」ことも難しいでしょう。

それに「もらう」派は「奪われる」派であったことも事実です。戦争ともなればカネどころか命さえ提供する、言葉を変えれば「奪われる」のが国民です。「奪われる」ことに抵抗し、「もらう」ことに固執するのは当然とも言えます。

さらに付け加えると「稼ぐ」派、「奪う」派と色分けしても国民のほとんどは両方に属しています。企業が稼いでくれなければ、そもそも「もらう」原資がありませんし、「もらう」人達が健康で教育程度の高い優秀な働き手でなければ「稼ぐ」ことは覚束きません。

その上で、ここでは「もらう」派の問題を指摘しておきたいと思います。それは結果的にどうなるかは別として「稼ぐ」派は経済全体を考えるいわば全体最適を目指すのに対し、「もらう」派は個人という部分の最適を目指すということです。

個人が個人の幸せを最重要視することは当然で道徳的にも非難されるいわれはないのですが、個人と公共の利益が衝突することは稀ではありません。近くにゴミ焼却場ができることは嬉しいことではありませんが、ゴミ焼却場は必要です。

公共財は道路でも消防車でも皆の負担で利益が皆に行き渡らなくてはいけないのですが、負担を避けて利益だけ得ることも往々にして可能です。しかし、国民全員が自分の負担を拒否して利益だけ求めれば公共財というものは成立しません。(「なぜ救急車はただなのか」参照)

これには単に利害だけでなく思想信条の問題も関係します。米軍基地の負担はそれが必要な物なら国民全体で負担しなければならないはずですが、米軍基地が必要かどうかで意見は分かれるでしょう。

とは言っても、反対する人は負担をしなくて良いのか。戦争に反対すれば戦争に行かなくて良いのか、道路建設に反対なら道路の建設費用の分だけ税金は払わなくても良いのか。そうではないでしょう。

そのようなことを認めていたら、個々の政策の是非以前に国家が存在できなくなってしまいます。消防車どころか警察も法律もない世界。何をしても公的に罰せられるということはなく、秩序は力の強い者の勝手に全て委ねられる。これはユートピアより地獄にずっと近い状態です。

皆が自分の利益だけ追求する結果、全体最適も個人の利益さえ失われる状態を「囚人のジレンマ」(「少子化という囚人のジレンマ」参照)と呼びます。「もらう」派は本質的に囚人のジレンマを抱えているのです。

と、ここまで書いて、「もらう」派、「稼ぐ」派の色分けの他にもう一つの派があることに気がつきました。それは「払わない」派です。極端な「払わない」派は生活保護、医療保険など釈迦保障の全てを否定して、自助努力で何でも解決すべきと考えます。

「払わない」派はアメリカが本場で、アメリカには消防は損害保険会社、警察は警備会社が行えば良いとする向きまであります。日本には極端な「払わない」派はあまりいませんが、生活保護などについては「働ける」のに、あるいは「親兄弟が扶養能力がある」のに受給を受けている、といった非難をします。そんな人たちのために税金が使われるなら「払わない」というのです。

しかし、「払わない」派は全体最適を考えない、という点、あるいは容易に囚人のジレンマに陥ってしまうという点で、「もらう」派の双子の兄弟と言うことができます。生活保護派受給が正しく行われているかという運用上の問題を別にすれば、「可哀そうだから」カネを支給するというより、収入のない人達を放置することで社会の安定が削がれることを防ぐ意味合いがあります。

つまり国民の優良な健康、生活の安定、高い教育水準は個人の利益であると同時に社会が発展するための公共財と考えることができます。その意味では外国人に対する生活保護の給付もあながち無駄遣いと決めつけることはできません。

「もらう」派とその双子の兄弟の「払わない」派は、全体最適を無視する、少なくとも個人の利益を常にそれより重要視することで、公共財ひいては公共の利益そのものを失うことで自分自身の利益も失ってしまう「囚人のジレンマ」の危険があります。そしてこれこそが大衆迎合、ポピュリズムの最大の問題です。部分は全体なしではあり得ない。やはりこれは現実なのです。

周回遅れの道州制議論
道州制という言葉がよく聞かれます。橋下大阪市長も自身のホームページの中で次のように述べ、道州制を目指すとしています。


・・中央省庁は東京にあり、各役所の役人が東京で生活をしている以上、彼らはどうしても東京からの視点でしかモノを考えられません。そしてそれが結果として、東京への一極集中を助長していることにつながっていると思われます。・・

これから大阪をはじめ、すべての地方は霞ヶ関から予算と権限を奪いに行くべきです。 そしてそのためにも、これまでの都道府県という小さな区分けを再構築し、より大きなカテゴリーとして「道州制」という枠組みを新たに形成し、みんなで一緒に国に対して税源移譲を迫り、本当の意味での地方分権を勝ち取るべきなのです。・・

これからこの大阪は、京都や兵庫など近隣の府県と手を携え、国や中央省庁と対等に話し合いが出来る「関西州」としてまとまり、国内だけではなく、国際的にもその立場をアピールし、広くアジアや世界に対しても交流を深めていく必要があると思います。 ・・



橋下氏は近畿地方を一つの「州」としようと考えているようですが、人によって違いはあるものの道州制は全国を概ね5-10くらいの単位に再編しようというものです。あえて「州」の前に「道」を置いたのは、現在北海道開発庁という中央の組織を持つ北海道は、道州制でもそのまま北海道になると想定されているからです。

確かに現在のように中央官庁が予算と権限の多くを握り、地行政の「箸の上げ下ろし」まで干渉するのは、効率的とは言えません。地方がより大きな自治権限を持つのは、それなりの利点があるでしょう。

とは言っても、道州制に疑問がないわけではありません。地方に今まで中央が持っていた権限をうまく活用できるかどうかということもあるでしょう。また、県という単位が消滅することで、県単位で行われた行政についてはむしろ地方分権が減ってしまうとことも考えられます。

しかし、私が一番懸念していることは、小選挙区制と同じに行政単位という制度を変更することであたかも、政治が大きな前進をするかのように喧伝されていることです。道州制になっても、中央と地方の持つ権限と予算は全体としては同じはずなので、本質的には道州制の導入は、ケーキを縦に切るか横に切るかの違いしかないように見えるからです。

一方、道州制導入が大きな負担を招くことだけは間違いありません。今までの県職員と国家公務員をどう配分し直すだけでも大変な作業でしょう。しかもこれは役人が役人になるだけでNTTの民営化のような効率性に対する意識を根本的に変えるものではありません。志はそれなりに立派でも、道州制の導入が混乱しかもたらさないことも十分に考えられるのです。

そもそも日本には1億3千万の人口があります。仮に8個程度に分割すると人口1千5百万以上、GDPは韓国に遜色ないような巨大な地域となります。このような巨大な単位が本当に現在の国と県の制度より柔軟に地方の実情に即した政策を展開できるかどうかは自明なことではありません。

地方の活性化や地域間の競争力を考えると、単位ととしては州のような大きな地域ではなく、むしろ小さな都市程度の地域を考えるべきでしょう。例えば、起業家の聖地のシリコンバレーは、ベンチャー企業を育てる、人材、資金、ノウハウといったインフラが備わっている、カリフォルニア州のサンノゼ市を中心にした地域です。

シリコンバレーが現在のような繁栄をみたのは、スタンフォード大学という知的集積地にフェアチャイルドという半導体製造のベンチャー企業が創設されたことに端を発しています。カリフォルニア州はイタリアほどの経済規模を持つ州ですが、シリコンバレーの形成に何か積極的な役割を果たしたわけではありません。

洋食器で有名な燕市は人口10万にも満たない中都市ですが、製品はグローバルに受け入れられています。燕市は江戸時代からキセルの管を作ったりして、金属加工の歴史と技術があり、多数の小さな町工場ありました。そして燕市の洋食器と海外の需要家と結びつけたものに隣接する三条市の長い商業町としての伝統がありました。(この部分は「また公共投資ですか」からの引用)

香港は世界でもっとも競争力のある「国家」ですが、これは香港が一都市だったため、中国が一国二制度の下で香港が広範囲の自由を与えられているからです。香港が北海道ほどの地域であれば、一国二制度は難しかったでしょう。

それでも香港は6百万人の人口があります。タックスヘイブン(租税回避地)として繁栄するケイマン諸島は、人口はわずか数万人しかいません。沖縄をタックスヘイブンにという興味深い提案がありますが、沖縄のような百万人以上の単位にタックスヘイブンのような自由を与えることは国際的にも大きな抵抗を招くでしょう(「沖縄をタックスヘイブンに」は奇策?それとも正論?を参照してください)。

現代の国際間競争は国同士ではなく、都市同士の競争です。海外の金融機関が人員を日本に置くかシンガポール置くかは、日本全体とシンガポールではなく、港区とシンガポールの競争と言っても良いほどです

今後日本が新興国に対して競争力を維持するためには、州のような中途半端な単位にこだわるのではなく、国単位でしかできないような大幅な税制の改革、製品規格、標準の統一と都市や小さな地域で産業が競争力を持てるようなインフラの集積をいかに進めるかを考えるべきでしょう。

道州制もそれなりに効果はあるかもしれません。しかし日本人が現在のような高い生活水準(20年前の6割くらいに落ちてしまった感じですが)を続けるためには、国しかできない規制緩和や法制度の簡素化、それと都市単位で考えるようなキメ細かい産業インフラの整備が必要です。

道州制は都市間競争に突入しているグローバル経済の中では周回遅れと発想としか言いようがありません。あるいはケーキをどう増やすかではなく、どう切るかを議論しているに過ぎません。道州制への移行は無駄な混乱と時間の空費を招くだけで大きな成果を上げられないでしょう。制度変更の目新に惑わされるのは小選挙区制で十分ではないでしょうか。

政治主導を実現するために
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政治主導という言葉がずいぶん前から使われています。政治主導の反対の言葉は官僚主導です。日本の政治は実際は官僚が支配していて、大臣や首相が変わっても関係なく官僚の思う通りに動かされていく。これでは本当に国民のための政治はできない。官僚による官僚のための政治から、国民から選ばれた政治家が国民のための政治に政治主導で変わらなければならない。これが政治主導が必要だとされる理由でしょう。

しかし、政治主導を政治家主導と置き換えてみると、それほど良いことばかりではいないと思えてきます。政治家が自分の利権のために公共事業を地元に誘導しようすることはよく知られています。また、交通違反の揉み消しや、認可保育園に入園しようとして政治家を頼みこむのはよく聞く話です。政治家が行政を自分の都合の良いように動かすのは、とても良い事ばかりではなさそうです。

元々日本の官僚システムは明治維新で政府の中心となった薩摩、長州などによる藩閥政治の弊害をなくそうとして生まれたものです。出身に関係なく優秀な人材を登用する。そのために官僚の選抜と訓練を行うために帝国大学を作る。官僚制度は藩閥政治の弊害を取り除くために作られました。

身分を保障された官僚は特定の勢力や政治家におもねることなく、国家のために政治を行う。藩閥政治という政治主導から、官僚主導による政治を行うことで、国民のためになる政治が行われるはずでした。確かに、それはかなり実現したと言うことができます。城山三郎が「官僚たちの夏」で描いた官僚は、まさにそのような存在でした。

しかし、どんな権力も腐敗します。官僚組織はいつの間にか役人の天下り先を増やすことが究極の目的になってしまいました。天下り先を増やすためには、官が民を支配することが必要です。過剰な規制、余分な組織、無駄な制度の多くは、天下りを増やしたい、そのための権力を維持したという官僚組織に組み込まれたDNAが作りだしてきました。

官僚支配の弊害はガラパゴスと言われる日本の独自規格に端的に表れています。日本には種々の国際規格とは違う独特の規制、規格が沢山あります。それらは国際標準に合わせて作られた海外の製品が日本に入り込むのを防ぐ役割を演じてきましたが、同時に日本の製品を世界に売り込む時の障害にもなりました。

国際標準と異なる規格で作られた製品は、絶海の孤島、ガラパゴスで独自の進化を遂げた生物と同じだということから、ガラパゴス製品と呼びます。携帯電話はその典型です。高度だが独特の規格に守られた市場は海外メーカーの参入を難しくすることで、多数の国内メーカーを生き残らせました。しかし、スマートフォンの登場で、その市場は一気に消滅の危機に立たされることになりました。天下りを増やそうとする。そのために産業保護を名目にした日本独自の標準を作る。そんな官僚主導は日本の産業を強くするより、かえって弱めてしまいました。

それでは政治主導は官僚主導の問題を解決できるのでしょうか。アメリカでは大統領つまり政権が交代すると官僚組織の大幅な入れ替えを行います。そのために政権交代のたびにポストを得ようとする「猟官運動」が大規模に行われます。実際多くのポストが政権発足への論功行賞として与えられます。

このようにして得られたポストの持ち主は、政治任用、ポリティカルアポインティ—と呼ばれます。政治任用制はアメリカでも無条件に受け入れられているわけではありません。むしろ、政権交代によって多くの実務経験の乏しい人間が官僚組織の中枢に座ることには疑問が出されています。

実際、アメリカでも軍には政治任用はありません。軍隊は専門知識が必要だから政治任用制になじまないなら、官僚組織は全て政治任用はなじまないのではないか。このような意見は少なくありません。まして、論功行賞のためにポストが分け与えられるのでは、能力のある人間は官僚組織を動かすことができなくなってしまうという不安が生じます。

それでもアメリカで政治任用制が可能なのは、官界、学界それとビジネス界が、分野ごとに専門家集団を作りだし、政権交代の時に大規模な人材の入れ替えを可能にする人材プールがあるからです。

日本ではどうでしょうか。日本で官僚の行っているような政策立案、それに基づく法案の作成、予算の獲得の経験を詰めるのは官僚組織そのものしかありません。その官僚組織は閉鎖的で学界、ビジネス界などとの交流は殆どありません。そしてこのような官僚の実務を経験しなければ政治家としても行政機構を思いのままに動かすことは困難です。

現在の日本で政治主導を無理矢理しようとするのは、企業を業界の内情を何も知らずに経営するようなものです。それでも企業では基本的なビジネススキルが通用する場合も多いのですが、法律策定や予算配分の論理は一般の企業経営とは全く違います。

この点について橋下大阪市長はツイッターで次のよう言っています。

「政策は実現してなんぼ。実現するプロセス・課題を知った上での提言でなければならない。政策を実現するプロセスを学べる学校が日本には聞いたことがない。だから識者は、役所に入って経験するべきなのである。」

橋下氏が指摘するプロセス、課題は漠然としたところもあるのですが、国政レベルで考れば法案を作る実務能力が先ず上げられます。そして法案を作る能力が重要だからこそ高級官僚は東京大学法学部出身が圧倒的に多数を占めてきたのです。

もちろん政治、行政を動かすのは法案作りだけではありません。日々の官僚機構の仕事には税関で品物の検査をしたり、教科書検定の中身を作ったり多種多様です。しかし政治と官僚組織の最大の接点は法律と予算です。この二つを現実の世界と渡りをつけながら形にしていくことが政治家の仕事です。そして官僚主導の日本ではこの部分を実質で仕切っていたのは政治家でなく官僚組織だったのです。

規制だらけでガラパゴス化する産業。天下りと予算消化のために狭い国土に作られた百あまりの空港。このようなものを見れば官僚主導の政治を変革しなければいけないと考えるのは正しいことです。しかし、政治を動かす知識と経験を持たない政治家たちに政治主導を委ねることに危険が多いことは認識しなければいけません。まして「政治」主導ではなく「政治家」主導で行政が動かされれば、国のために良いことはありません。

行政組織は巨大で危険な猛獣です。その怪物を鞭一つで自由に操るのは十分に訓練を受けた猛獣使いにしかできません。その条件がないまま安易に政治主導を目指せば、猛獣を操るどころか、猛獣の餌食になるしかないでしょう。

参考:
天下りを考える
天下りを考える: もう一言
仮想座談会-世襲議員を考える
ウォーレン・バフェットに頼めばよかった
投資顧問会社AIJが年金基金から集めた資金の運用に失敗し、資産をほとんど胡散無償させてしまいました。AIJは高い運用実績を謳って、企業の年金基金から2千億円近い資金を集めたのですが、実際には高利回りの配当は集めた元金を食いつぶしていただけだったのです。

報道から判断する限り、AIJは投資顧問会社と言うより、ネズミ講あるいは単なる詐欺に近いものであったようです。しかし、AIJのように高い運用利回りを約束して多額の資金を集め、当初は元金を配当に回すことで信用を得ながら、さらに大きな資金を投資家から引き出す手口は、決して珍しいものではありません。

アメリカでは元ナスダック会長のバーナード・マドフの引き起こした詐欺事件が有名です。マドフはその経歴を利用して富豪、有名人から自らが運営する投資運営会社に多額の投資をさせました。マドフはAIJと同じように元金を配当金に回すことで、優れた投資家としての信用を勝ち得て、数十年に渡って投資家たちを騙し続けたました。被害額は累計で4兆5千億円にも達したと言われています。

詐欺は論外ですが、投資運用会社はどの程度の利回りを上げられるものなのでしょう。日本国債の利回りが1%程度ということを考えれば、年間5%も利回りがあれば大したものなのかもしれません。AIJの主な顧客(被害者)だった厚生年金基金では従来5.5%の利回りを前提に仕組みができていて、それを維持するのが困難だったことが、AIJの高い運用実績に多くの年金基金が引き寄せられが原因ともなっていました。

しかし、年間5%の利回りというのは、それ程高いとは思えません。世の中の投資ファンドはプロが高い手数料を取って運営しているのですから、その程度の利益を生まなければ、何のための投資顧問会社かと言われても仕方がないのではないでしょうか。

実際にはAIJのような投資顧問会社が詐欺的な方法で投資資金を集めることができたように、多くの投資顧問会社、投資ファンドは5%どころか、ろくな利益も上げていないのが実態です。

投資顧問会社が長期的には利益を上げられないのは、調子の良い時がある半面、元金を割り込むような損を出す場合もあるからです。このため平均的には国債を買っていた方がマシ、あるいはそれ以下の成績しか残せないのです。

国債程度の利回りでは国債そのものを買った方が、安全性の面ではずっと有利です。確実に利益を上げることができる、という意味では投資顧問にプロ、専門家の名に値する人は皆無と言ってもよいのかもしれません。

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ウォーレン・バフェット


このようなことを言うと、投資に詳しい人達からは異口同音に「ウォーレン・バフェットは着実に利益を出している」という言葉が出ます。ウォーレン・バフェットのような存在がある限り、「投資のプロは存在しない」とは言えないというわけです。

オマハの賢人という異名を持つウォーレン・バフェットは、投資持ち株会社バークシャー・ハザウェーのCEOです。個人の総資産は400億ドル以上で、世界有数の金持ちの一人です(一位になったこともあります)。そして バフェットは資産の大部分をバークシャー・ハザウェー社の株式で保有しています。

バークシャー・ハザウェーの投資成績は確かに驚異的です。毎年バークシャー・ハザウェーが投資家に送る手紙には、バークシャー・ハザウェーの投資実績とアメリカの日経平均とも言うべきS&P500との比較が書かれています。それによると1965年を起点として2011年までの46年間でS&Pは6,397%の上昇を記録していますが、バークシャー・ハザウェーの投資成績は何と513,55%、つまり5,000倍以上になっています。

これを年率に換算するとS&P500は年率9.2%の平均上昇率であるのに対し、バークシャー・ハザウェーの上昇率は年率で19.2%にもなっています。この成績で運用を行っていれば、現在のような年金基金の危機は存在しません。

バークシャー・ハザウェーは何か特別なことをしているのでしょうか。バフェットは自身の投資基準として「事業の内容を理解でき、長期的に業績が良いことが予想され、経営者に能力があり、魅力的な価格」であることの四点をあげています。平凡過ぎてつまらないくらいの投資姿勢です。

バフェットが他の投資家たちと違う点があるとすれば、この四点を徹底的に守り、購入した株は短期的な市場の動きに左右されず、長期、事実上の永久保有を続けてきたことです。ではバフェッと全く同じ銘柄を同じように長期保有することは可能でしょうか。

これは問題ありません。バークシャー・ハザウェーの持ち株は公開されていていて、その通りに株を買うことは可能です。それが面倒というなら、バークシャー・ハザウェー社自身の株式を購入することもできます。バークシャー・ハザウェー社の株式時価総額は長期的には資産の額にほぼ比例して上昇してきました。

世にある年金基金はAIJのような投資顧問会社ではなく、なぜバフェッとのような40年間儲け続けた投資家の判断に投資運用を任せないのでしょうか。これはほとんど謎と言っても良いでしょう。

確かに理由はいくつか考えられます。いくらウォーレン・バフェットが過去40年以上目覚ましい成績を上げたからといって、将来もそうとは限りません。しかし、そんなことを言うなら他の投資会社はその過去の実績さえないところがほとんどです。

また、資産の取り崩しをしなければならないことがあった時に、たまたまバークシャー・ハザウェー社の株価が低いかもしれません。過去40年以上の間にはバークシャー・ハザウェー社も損を出した年もあり、タイミングが悪ければ損をしてしまうこともあり得ます。ただ、これはどんなポートフォリオを組んでも投資にはつきものの問題です。

結局、ウォーレン・バフェットと同じ投資戦略を取らないのは、自分はウォーレン・バフェットより優れた投資家だと、どこか信じているからだ、ということになります。客観的に考えれば、これはナンセンスです。少なくとも大部分の投資家にとってはナンセンスな信念です。

それでもウォーレン・バフェットの通りに投資する投資家はごく少数でしょう。そして、それこそがウォーレン・バフェットが46年間で5千倍以上もの収益を上げることができた最大の理由なのです。
首都高速は建て替えでなく道路網の再編を
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高架主体の首都高速は都市景観を破壊する(写真は日本橋の上を通る首都高速)


首都高速道路の老朽化が問題になってきています。首都高速道路は1964年に開催された東京オリンピックに合わせて、建設が始まったものです。以来40年以上を経過し、総延長300kmのうち約140kmは築後30年以上、築後40年以上のものも約90kmあります。

首都高速は一日百万台以上の車が利用しますが、そのうちかなりはトラックなどの重量車両です。過酷な使用環境で長年利用が行われてきたため、補修・補強工事を続ける必要があるのですが、民営化をきっかけとして経費削減を強く求められるようになり、最低限の補修費用しか計上されていないと言われています。

そのような状況を受け、首都高速道路株式会社では、今月(2012/3/5)「首都高速道路構造物の大規模更新のあり方に関する調査研究委員会」」を発足させ、今後の大規模な補修、更新の検討を始めました。

委員会は今年暮れには提言を行う予定で、どのような内容が盛り込まれるかは現時点では判りません。しかし、多量の車両が通行し8割もが高架で作られている首都高速の大規模な更新は、非常に困難なものになると予想されます。困難と言うより、そもそもそんなことが可能なのでしょうか。

老朽化した首都高速の刷新は、単なるは改修や更新ではなく、東京を中心とした道路網全体で考えることが必要です。まず、首都高速を通る車の多くは、都内ではなく東京を通過するだけなのに、高速道路網が東京という一点でつながれているという根本的な問題があります。

この問題を解決するために、東京を中として、内側から中央環状線、外環状線、圏央道の三つの環状線が建設されていますが、中央環状線が2013年度中に全線開通を予定しているのを除き、他の二つ環状線は完成は当分先だと予想されています。

これら3本の環状道路が全て開通すれば首都高速への交通流入量は大幅に減少すると考えられます。首都高速の大規模な改修をするなら、その前に是非とも完成を急ぐべきです。

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圏央道と外環状線が完成すれば都心の首都高速の利用は大幅に減少する


次に、首都高速が都心を縦横に走るという先進国の大都市ではありえないような形になっている事実を改める必要があります。都心にある高架式の高速道路は醜悪としか言いようがありません。都心部を走る首都高速は更新するのではなく撤去することを考えるべきです。

そのためには、例えば中央環状線と内側、JR山手線の地下に第二中央環状線を作るようなことがも考えることが必要です。もちろん、これは安い投資ではありません。トンネル部分の多い、中央環状線は1mで1億円以上の建設費がかかっており、山手線と同じ距離の高速道路を建設するには5兆円程度の費用がかかるでしょう。

しかし、既存の首都高速を順次建て替えるとなると、その費用は膨大です。仮に30年以上経過した首都高速の半分を建て替えるとなると、それだけで70kmにもなります。建設費用だけでなく、長期にわたる道路渋滞の発生を考えると経済的損失ははかりしれません。

首都高速は当初はほとんど全ての部分が高架、つまり橋でできた道路でした。最近建設された中央環状線などはシールド工法を利用した大部分がトンネルの道路です。高架式の道路はトンネルより一般的には安価に建設できますが、基本的には路面の道路に沿ってしか作れません。古い路線と新しい路線を共存させることは不可能で、建て替えは長期間、路線を閉鎖するしかないでしょう。

そのような方法と比較すれば、新しい路線を建設して古い路線は撤去してしまう方法は、より簡便な方法です。さらに、都心部に流入する車の数を減らすにはロードプライシングの導入で車の利用を抑制することも考えられます。

いずれにせよ、現在の首都高速をそのままの形で作りなおすというのは、あまりにも知恵のない話です。単なる建て替えではない総合的な道路利用の改革が求められます

神隠しのような・・
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私の住まいは港区の麻布にある築30年以上もたつ古いマンションです。高級住宅地とか言われたりする麻布でも、建物は同じように古くなり、人は老いていきます。そして人はいつか死を迎えます。

***

朝8時頃、いきなり玄関のブザーが鳴ったので、少しいぶかしく思いながら、私はドアを開けました。私のマンションは一階の入り口にインターフォンがあり、外からの来客は先ず、そこから尋ねて来たことを告げるはずだからです。

玄関口にはマンションの管理人が立ってしました。朝早い訪問を詫びながら、管理人は訪れた理由を告げました。「馬場さんには一応お知らせしようと思って。お向かいのKさんの奥様が先日亡くなられて、今日お通夜なんです」

私は今のマンションには十年ほど前に越してきました。私の部屋の向かいのKさんは、マンションが建った場所にあった一戸建の持ち主だったいわゆる地権者で、マンションの新築当初から夫婦で住んでいました。

二人とも80歳過ぎ。一年ほど前、賃貸に出でていた同じ階の部屋を借りて、病気がちだった一人暮らしの娘さんを呼び寄せて暮らしていました。同居ではなく一部屋余計に借りるくらいですから、経済的に恵まれているのは確かです。

「奥様が亡くなったって、ご主人は?」間抜けな質問だとは思いましたが、尋ねたわけはご主人も最近見かけていなかったからです。

「ご主人は去年の11月に亡くなったんですよ。娘さんは8月に。半年で三人とも亡くなってしまって」管理人は軽いため息をつきながら教えてくれました。

「ご主人は地下の駐車場で雨の日に転んで、顔をひどくぶつけて入院されて、そのまま亡くなったんですよ」私が驚いた顔をしたのを見て、管理人は「救急車は地下駐車場に直に行ったので、お気づきにならなかったと思います」と付け加えました。

「Kさんの奥様は一人暮らしだったわけですね」「ええ、それが宅配便が受け取られないで溜まってしまって。お電話をしたのですが返事もなくて。そうしたら息子さんから電話がつながらないって連絡が来たんです」

管理人はKさんの部屋の鍵は持っていなかったので錠前屋に頼んだところ、警察の立ち合いがないと勝手には開けられないとの返事。結局、Kさんの息子から連絡があった翌日の昼間、警察官、錠前屋、Kさんの息子、管理人が部屋に入ることになりました。

「そうしたら寝室の所に奥様が倒れていて。息はまだあったんです。それで救急車を呼んだんですが、どの病院もなかなか引き受けてくれなくて」結局広尾の日赤病院に何とか担ぎ込んだそうですが「5日後に亡くなりました」

新聞が3日前のものが部屋に入れてあったことから、3日間倒れたままでいたらいしいことが推測されました。見つかった時は生きていて病院で脳梗塞と判断されたことで、警察も不審死扱いはしないとのことでした。

Kさんの一家がほんの僅かの間に立て続けに亡くなって、隣に住む私が何も気がつかなかったことには、いささか衝撃を受けました。亡くなったKさんの奥様は82歳。老人ですが、今の世の中では格別な高齢者とも言えません。

隣人の私がこんな調子ですから、人のことをとやかく言う筋合いはありません。しかし、老人が一人で暮らしているのに、鍵も預からず、不審に思っても翌日まで関係者が揃うのを待つというKさんの息子の態度もよく理解できません。

Kさんは昔会社の経営をしていて、今は息子さんが後を継いでいるとのこと。経済的には余裕があるというより、資産家と言っても良い部類だと思います。しかし、奥様は倒れたまま3日間放っておかれ、いわば孤独死のような形になってしまいました。

有名人でも大原麗子は亡くなった3日後に実弟に発見されています。孤独死はもはや恵まれない人だけのものではなく、都会に住む誰もがそうなる可能性があるもののようです。

私の住むマンションは小ぶりで30数戸しかありません。それでも、十年以上も住んでいてエレベーターで出会う人は今でも名前どころか顔さえ知らない人の方が多いのです。表札が出ていて住んでいるはずの芸能人は見たこともありません。

長患いで家族に迷惑をかけ最後は邪魔者扱いされるより、Kさん一家のような死はむしろ好ましいとさえ言えるかもしれません。とは言っても自分の住んでいるマンションが、隣り合っても亡くなったことさえ気遣いないほどお互い疎遠だという事実は改めて寒々としたものを感じさせました。

自分の部屋を出るとKさんの部屋のドアには表札がそのまま残っています。けれども部屋の住民たちは突然かき消す私の目の前から消え去ってしまいました。まるで神隠しにでもあったように。

核家族から家族法人へ
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核家族の失敗

戦前の社会制度は家が基本でした。家父長の権限は大きく、結婚を自分の意志で決めるのは不道徳とさえ考えられていました。家の存続は義務であり、娘しかいない家は婿養子を取って家を存続させることを求められました。

家からの自由は、戦後個人が得た大きな成果でした。結婚は憲法で両性の合意の結果と定められ、家は憲法からは存在を抹殺されました。おりからの経済発展で都市に村落からの大規模な人口移動が続きました。家からも村からも離れた個人は結婚して自分たちだけの核家族を作ります。家は距離的にも分断され名実共に機能しなくなりました。

個人は核家族を作ることで家からも村からも自由になりました。しかし、次第にその自由の対価は小さなものではないことが判ってきました。子育ては核家族にとっては大変な事業です。自分たちだけで子育てする負担は重く、女性が家の外で仕事持つことは難しくなりました。核家族の子育てはサラリーマンの夫と専業主婦というモデルが前提です。

自分の全てを子育てに注ぐことは、女性にとれば社会的な仕事の機会を奪うことになります。さらに孤独な子育ては育児ノイローゼや児童虐待という悲劇も生みました。

子育ての負担は少子化につながります。少子化は年金制度や介護の問題を解決不能なほど悪化させます。そもそも少子化が続けば社会自身が消滅してしまいます。核家族は子育てや年金、介護という現在の失敗だけでなく、長期的には消滅してしまうシステムである可能性が強いのです。

大家族の利点

核家族が数百年単位で考えれば存続すら困難な家族形態なのに対し、大家族制は現生人類だけでなく霊長類に普遍的に見られます。人類は大家族の中で協力して、子を産み育て、食糧を確保しました。共同して生きることで人類は種として存続してきました。

年金の問題は少子高齢化で一人の老人を支える働き手の数が減少するということだけでなく、老人を子供や孫ではなく、社会全体、国全体でどこまで支えていくかという問題に突き当たります。

子供も親の介護もない人にとっては、社会という、抽象的で見ることも触ることもできないものを通じて、他人の生活を支えることに葛藤があるのが普通です。しかし、福祉社会は個人の葛藤を克服しなければ維持はできません。

これに対し大家族が自分たちで共同して行う子育てや介護は、そのような葛藤はずっと小さくなります。血のつながった子供を世話すること、まして同じ家族の面倒を見るのは税金とは違います。それは自分の遺伝子プールを守ろうとする、本能として組み込まれていると言っても良いかもしれません(ただし自分の子供を殺す親がいるように、それは絶対的なものではありませんが)。

年寄りの世話や介護は、利己的に考えても自分のためでもあります。核家族のように先細りの家族形態での介護は、単なる負担にしかすぎませんが、大家族なら自分に子供がいなくても将来世話をしてもらえる期待ができます。それに寝たきり老人であっても大勢で世話をすれば介護の重さははるかに小さくなります。

年金や医療保険のような社会福祉制度の成立は、近代の都市化、核家族化と歩調を合わせています。大家族が存在しなくなれば、大家族の代わりを社会が務める必要があります。しかし、社会による福祉は結局はすべてを金で解決することになります。

消費税を上げることは国民の強い抵抗を招きます。しかし家族の教育や世話への支出はそれよりずっと納得のしやすいものです。きちんと機能する大家族制は社会福祉を必要としないシステムと言うことができます。

家族法人

大家族が年金、介護、子育てさらには人口減少に対する解決策になるとしても、簡単に大家族制が実現できるわけではありません。現代は個人と核家族を中心とした社会ですがが、それ以前に家族というものが法的には意味を持っていない存在だということを先ず指摘しなければなりません。

今の日本では親子関係や夫婦は法律的な意味がありますが、家族の定義はありません。戸籍や
住民票はありますが、大家族の一員であることを示すことはありません。大家族を作るために家族を定義すること法的に考える必要があります。

家族法人は家族を定義する新しい枠組みです。家族法人のメンバー、つまり家族の人々は角界の年寄株のような家族株を持ちます。家族法人は家父長に相当する家族法人長がいて、家族法人全体の指導に責任を持ちます。

家族をわざわざ法人とする理由の一つ、恐らく最大の理由は、財産を持てることです。家族法人の財産は家族法人のものですから家族法人が続く限り所有しているだけでは税金はかかりません。住まいを家族法人の所有にすれば相続税はかかりません。中小企業なら創業者の持っている株が家族法人所有なら、創業者が死んで相続税で事業が崩壊することもありません。

現在の遺産相続はあくまでも個人が基本です。財産は個人から個人へと譲渡されます。兄弟は全て平等で、介護をするかどうかは関係ありません。親への貢献を相続財産に反映させるためには遺書が必要です。財産を家族法人に寄託して、家族法人つまり家族全員が介護や子育てを行えば、遺産相続の不合理を解決できます。

家族法人には税制面で様々な優遇策を与えることが考えられますが、家族のメンバーは義務も負います。介護や子育てに一定の貢献が求められるだけでなく、扶養は全体の義務でもあります。そのような義務を受け入れるには、家族法人は実際の血縁関係、親子や夫婦、養子縁組といった家族法人の部品に基礎を持つ必要があるでしょう。何と言っても「血は水より濃い」のです。

しかし、家族法人は新しい家族関係を受け入れることもできます。欧米で認めら始めた同性婚は共同生活をしてきた者同士が何の法的権利、義務を持たされていないという問題が背景にあります。家族法人という形態は、性別を問わず強い絆で結ばれた人間関係に法的な意味を持たせることができます。

もちろん家族法人でなくても同性婚そのものを認めてしまうこともできるでしょう。しかし人間関係は多様化していて同性婚以外のユニットにも法的な保護が求められることもあるかもしれません。家族法人は昔の大家族だけでなく、将来の人間関係の変化にも対応できます。

まずは出発点として

実際には家族法人がすぐに年金、介護のような大問題をあっさり解決できることはあまり期待できません。税金の優遇があれば、節税だけを目的にした偽装家族法人を作ろうとする連中が現れるのは当然予想されます。

家族法人が財産を持つとして、それが家族法人長に不正に使われないような適切な監査の仕組みをどう作るか、ガバナンスの確保は介護のような義務をきちんと実行させるためにも必要です。

家族法人が憲法で保障された個人の自由にどこまで介入できるかは、それ以上に大きな問題です。法人が許さない結婚をすれば、法人を捨てて「駆け落ち」をしなければいけないのか。せっかく稼いだ収入を家族のためにどこまで取り上げて良いのか。次から次へと疑問が湧いてくるのは当然です。

家族法人は最初は形式的なものに留めるべきかもしれません。家族法人の財産も住まいをはるかに超える何十億以上の大金持ちの資産保持に利用するのは認めない方がよいのかもしれません。様々な検討が必要でしょう。

しかし、核家族中心の社会が多くの殆ど解決不能の問題を抱えていること、長期的には人口減少で消滅する危険にさらされていることは事実です。一方、家族というものが何の法律的実態を持っていないのは人類の歴史を考えれば不自然なことです。

人を助ける義務が国家にしかなければ、収入の過半を税金にする以外、人々が支え合う仕組みを維持することは不可能です。消費税が果てしもなく上げなければ、福祉国家は実現しません。それは受け入れられないと多くの人が感じ始めています。

今、生活保護、年金、子供手当など多様で複雑な給付システムをベーシックインカムという、一律で行政の裁量余地のない方法に一本化して行政のオーバーヘッドをなくそうという考えが注目を集めています。

ベーシックインカムを家族法人が受け取れるように制度を作れば、家族法人が財政的基盤を持って社会福祉を代行する(本当は福祉とは社会が家族の仕事を代行していることですが)ことが容易になるでしょう。

ベーシックインカムと家族法人のような新しい仕組みで、行き詰った福祉制度の打開を図る。こんな発想が今求められていると思います。
アリゾナ記念館を訪ねて
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上から見たアリゾナ記念館。下に戦艦アリゾナが沈んでいるのがわかる

アリゾナ記念館は真珠湾の真ん中、フォード島のそばに浮かぶ白色の慰霊碑です。海上の横長の建物の下には、記念館と直角に交差して巨大な戦艦アリゾナが浅い真珠湾の海底にあります。日本時間の1945年12月8日、現地のハワイでは12月7日の朝、戦艦アリゾナは、日本帝国海軍の艦載機の攻撃を受けて大爆発し、わずか10分足らずでその場所に沈んでしまったのです。

太平洋戦争、日本とアメリカにとっての第二次世界大戦の始めとなった、真珠湾攻撃でアメリカ海軍は太平洋艦隊の主力を一挙に失いました。戦艦だけで8隻のうち6隻が沈没し、残りもかなりの損害を受けました。後に、うち6隻は引き上げ修理され戦線に参加しますが、戦艦オクラホマは引き上げられたものの修理は不可能と判断され、アリゾナは引き上げられることもなく1,177名の乗員とともに真珠湾にそのまま残されることになります。

アリゾナ記念館は戦後17年を経過した1962年、大戦の記憶を留め、死者を弔うために作られました。アメリカの公共の施設の多くと同様、アリゾナ記念館と付随する太平洋歴史公園の施設の大部分は無料で公開されていて、毎年多くのアメリカ人が訪れます。アメリカ本土から訪れる観光客にとって、アリゾナ記念館は最大の訪問先の一つです。

しかし、ハワイに来る日本人のほとんどにはアリゾナ記念館はなじみのある場所ではありません。アメリカ人に囲まれて真珠湾攻撃の象徴、まだ千名以上の遺体が残ったままになっている沈没した戦艦を見るのはあまり楽しくはなさそうです。そんな所で、わざわざ半日以上を費やす気にはなかなかなりません。

私も何度かハワイに来ていますが、アリゾナ記念館は半ば避けていました。それがたまたま正月休みの代わりにハワイを行くことになって、今度はどうしても訪れようという思いが強くなりました。理由は自分でもよく判りません。年を取るにつれ鎮魂というものの大切さを以前より感じるようになったのかもしれません。そうそう気楽には来れないハワイにまた行けるかどうかもわからないという気持ちあったとは思います。いずれにせよ、私はアリゾナ記念館を訪ねることにしました。

決心はしたものの、やはりアメリカ人の目は気になります。記念館のホームページを見ると「Tシャツなど不適当な服装は遠慮するように」とあります。ハワイで襟のあるシャツを求めるのは上着着用を義務付けるようなものです。私はホノルルから日本に帰る日に空港の途中に立ち寄ることにしました。冬の日本に備えて、青いポロシャツに長ズボン、上着まで着ています。これなら大丈夫だろうという格好です。

着いてみると、アメリカ人の服装は拍子抜けするほどカジュアルでした。お年寄りの団体客では、男性はアロハシャツ、つまりハワイの正装が多いのですが、Tシャツどころか、ランニングシャツ姿も目立ちます。見た所はただのアメリカの観光地です。

ただ、軍事施設の一つであることは確かで、アリゾナ記念館への船が出る太平洋歴史記念公園に入るにはバッグを入口で預ける必要がありました。中に入ると真珠湾攻撃と太平洋戦争にいたる解説をしている建物が並んでいます。アメリカ人にとって、真珠湾攻撃は遠い過去の話で、関連する歴史など知っている人は多くはないようです。しかし、これは今の日本人でも同様でしょう。

この種のアメリカの展示場の例に漏れず、展示物や解説は充実していました。その中では太平洋戦争にいたった背景については「アジアでの日米の権益が衝突」したと説明されていました。これは真珠湾攻撃を記念するアメリカの展示場の歴史観としては驚くほど公平と言えます。奇襲した日本に対し「卑怯」「卑劣」といった表現は使われず、アメリカ人の一緒に聞いていても居心地の悪さを感じられるような物ではありません。

これと比べれば靖国神社の遊就館の解説はずい分と一方的にアメリカを非難しています。歴史は自虐史観と被害者意識を丸出しにした陰謀史観を結ぶ線上にはなく、もっと深く立体的なものです。そしてその全体像をとらえるには、冷静で客観的な目を持つことが必要です。アメリカと比べれば日本はいまだに太平洋戦争を消化してはいないのかもしれません。

ただ、展示場での音声解説ではルーズベルトが天皇に宛てて平和を訴える手紙を出していたことが述べられ、アメリカの平和努力が強調されていました。展示物には手紙の文章が飾られていて、それを読むとルーズベルトは平和の実現に「日本が中国戦線から兵を引き上げる」ことを条件としていることが判ります。この条件は広範囲に中国で戦っている日本にとっては少なくとも短期間では到底受け入れがたいものでした。戦争は避けることができなかったのです。

展示の解説を見ると、日米間の戦争に備え、アメリカ海軍は真珠湾攻撃のほんの少し前に本土のサンディエゴから太平洋艦隊主力を真珠湾に移動していたことがわかります。この事実は真珠湾攻撃をルーズベルトが国民世論を参戦に向かわせるために、事前に察知していたのに陰謀として握りつぶした、という説がいかにバカバカしいかを示しています。ルーズベルトが参戦したがっていたのは事実かもしれませんが、わざわざそのために太平洋艦隊を全滅させる必要などないからです。

事実、真珠湾攻撃の傷は深く、アメリカは日本がフィリピンを含む南方に進出するのを見ているしかありませんでした。真珠湾攻撃でアメリカに打撃を与え、立ち直るまでに有利な位置を占めてしまうという山本提督の目論見は成功しました。

戦況が一挙に日本に不利になったのは真珠湾攻撃から半年後のミッドウェー海戦で日本が敗北を喫してからです。展示場ではミッドウェー攻撃の数週間前に日本の紫暗号が解読されたことが述べられ、紫暗号の解読機のレプリカも置かれています。ミッドウェー海戦の敗北は日本の油断による機密漏洩でもなく、目標を陸上、海上と何度も変えて航空機の兵器の換装を繰り返したためでもありません。要するに待ち伏せに会ってしまったのです。展示されている旧式のラジオのような暗号解読機が日米の立場を逆転させてしまったのです。

真珠湾攻撃は現地時間8時頃開始され10時前には終了しました。その間二度の攻撃が行われたのですが、解説では第一波ではほぼ無傷だった日本軍が、二度目の攻撃では航空兵力のおよそ2割を失ったことが示されています。アメリカ側の戦闘態勢が整ってきたからです。日本から遠いハワイ敵戦艦を全滅させてなお攻撃を続けるのは危険過ぎたのです。わずか2時間の攻撃で日本軍が帰途に就いたのは当然だったはずです。

歴史公園からアリゾナ記念館までは船で15分ほどです。アリゾナ記念館の隣には日本が降伏調印をした戦艦ミズーリが係留されています。太平洋戦争を始めた真珠湾攻撃の犠牲となった戦艦アリゾナと、アメリカの勝利を確定させたミズーリを並べる。単純な思考かもしれませんが、判り易いことは確かです。戦艦ミズーリでの降伏調印など今、日本人のどれくらいが知っているでしょうか。

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戦艦アリゾナから今も油が漏れ海面に虹色の幕を作っている。遠くに見えるのは戦艦ミズーリ

アリゾナ記念館の真下の戦艦アリゾナは今では魚が育つ岩礁になっていて、記念館からは姿はよくわかりません。それでも、アリゾナから今でもなおわずかづつ漏れ出てくる油が虹色の幕を作っているのははっきりと見て取れます。この下に千人以上の遺体がある。その数は第二次世界大戦で失われた五千万人の命からみれば誤差のうちにもはいりません。しかし若い沢山の命が失われた現場を目の当たりにすると、月並みですが戦後60年以上平和だったことの大切さを思わないではいられません。来て良かった。記念撮影に忙しいアメリカ人たちの横で、私はそう思っていました。

Can’t buy me love
反原発派の人が原発停止を求める時、「命は金に代えられない」という言い方をよくします。これはかなり乱暴な表現です。誰も金のために命を犠牲にして構わないとは言いませんが、他人の命のために無制限の支出をすることはしないからです。

例えば心臓移植手術をアメリカで行うために1億円の費用がかかると聞いて、全財産を投げ出しても救うと考えるのは肉親だけです。命と言っても自分や肉親の命と他人の命は明らかに「値段」が違います。

その上、原発を稼働させることが本当に命の問題にかかわるかどうかも議論のあるところです。福島第一原発事故では一人の死者もいません。継承の急性放射線障害の被害者さえ出しませんでした。命か金かというのは今のところ反原発のスローガン以上のものではありません。

それはともあれ、「命か金」かと言われて人はどうして戸惑ってしまうのでしょう。心臓移植の必要な少女の写真を見せられてからといって、実際に財布から1万円札を取り出す人は、決して多くはないのにです。

アメリカのエール大学心理学部長のポール・ブルームは「喜びはどれほど深い?」で、世の中には「お金で買えないもの」あるいは「買ってはいけない」とされるものがあることを紹介しています。

著書では例として、
・人身(奴隷など)
・政治権力
・懲役
・言論の自由
・結婚、出産の権利
などを挙げているのですが、このようなものは金で取引しようと考えること自体が、許されない行いだと考えられているのです。

その中でも命は特別なものでしょう。赤の他人の心臓移植手術に金を払うことのない人でも、会社の経営者が自分の娘の心臓移植手術を危険を承知で先延ばしにして1億円を会社の資金繰りに投じるという話には不快を感じるはずです。つまり命は金で買えない、というより取引の対象にすべきものではないのです。

ブルームは市場で価格を決定することに人々がよそよそしさを感じることを指摘しています。市場を通じて価格が決められ、そこで物を買うことは「もっと大切な何か」を失ってしまうと人は思ってしまうのです。

さらにブルームは金には特別なタブーがあるとも考えます。人にお礼をする時、金を渡すのは礼儀に反すると一般に考えられているのは、金のタブーのためだというのです。その理由として、ブルームは進化の中で金で物を得るとことが人類がそれも比較的後になって発明した方法だからと推定しています。

チンパンジーのような霊長類でも、共有(あなた物のは私の物、私の物はあなたの物)と交換(あなたが背中を掻けば、私も掻く)は行います。しかしお金のように、あらゆる物を得ることのできる便利な道具はありません*。金で物を買うというのは他者と特別な関係が必要のない(共有も交換も仲間の同士でしか行いません)もの、つまりとても「よそよそしい」ものなのです。だからこそ、親しい友人同士で金のやり取りをする。例えば夕食に呼ばれて「とてもおいしかった」と言って1万円札をテーブルに置くなどはとんでもない、という話になるのでしょう。

これには例外もあります。アメリカではチップが広く普及していますが、チップを渡すという行為は単に金をあげるというだけでなく「親切にしてくれてありがとう」というメッセージにもなります。日本でも神社や寺で賽銭を出すのは正しい行為です。

しかし、金を渡すというのは常に微妙なものを含んでいます。アメリカでもチップに1セント玉を入れることは相手をバカにした行為と看做されます。金だけが問題なら10ドル札にポケットに残った1セント玉を何枚か付け加えて文句を言われる筋合いはありませんが、金というのはそういうものではないのです。

命はともかく、セックスも金で買ってはいけないものの代表です。売春が多くの国で違法とされているのも理由は色々あっても基本は「セックスは売り買いするもものではない」という考えが背景にあります。

セックスでも売り買いできないのだから愛を買うことは不可能だ、というのが健全な常識でしょう。しかし、世の中の男性は一生懸命プレゼントをしたり食事をおごったりして女性の歓心を得ようとします。一生懸命男性が金を使うことを嫌う女性は多くはありません。これは愛を金で買うことにはならないのでしょうか。

こんなことはとやかく議論することもないでしょう。物を貰ったり、高価な食事をご馳走になることを喜んでも、いきなり3万円ほど財布から取り出して「物や食事よりこちらの方が好きでしょう」と言われて喜ぶ女性はごく例外的です。と言うより、最初から金を目的とする女性以外はそのような申し出には腹を立てるだけです。

命は金とは代えられない。失われた命を金で取り戻すことができないのは確かです。しかし、この言葉は「金で何でも解決できると思うな」という人間の金に対して持つタブーに訴えるからこそ、強いメッセージになるのです。

題名の「Can’t buy me love」は言うまでもなく、ビートルズ時代ポール・マッカートが1964年にリリースした曲名です。主語のMoneyが題名からは省かれていますが、歌詞の方には「Money can’t buy me love」とあって、「 愛は金じゃ買えない」の意味です。

この頃のビートルズは貧乏で無名なバンドから一気に世界的な人気者になり、多額の収入も得るようになっています。後にマッカートニーは、歌詞の意味を「物を所有するのは悪いことではない。しかし、本当に欲しいものは金で買えないということだ」と語っています。

さらに時間が経ってからマッカートニーは「あの題名はCan buy me loveにすべきだった」と言っています。その間何があったかはわかりません。しかし「何でも金で買える」と言うマッカートニーが、「欲しいものは金で買えない」と言った時より幸せになったとは思えせん。なぜなのでしょうか。

* 猿を使った実験で、餌と交換できる木の実(それ自身は価値はない)を与えて一種の貨幣を通用させることに成功した例はあります。その実験ではオス猿がメス猿に実を与えて性行為と行うという売春行動さえ観察されたということです。



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